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女性キャラを「自分」と紐づけて考え、問題にする女性がいるのは何故か。

 もうこの話題はいいかなと思っているのだが、タイトルの件だけ気になったので自分の考えを書きたい。

 自分が考えた一番大きな理由は、今の社会の中では(特に対男性において)「女性という属性」自体が特徴として捉えられやすいということだ。
 女医、女優という言葉が問題になったことがあったが、「男であることが常態(標準)であり、女であること自体が特殊な状態」という意識が社会(公的な場)ではまだ強い。
 女性閣僚の人数が注視されるなど、「女」という属性は男の中ではひとつの特徴としてフォーカスされる状態が続いている。

 最近のフェミニズムを巡る話題を見ていても「過激なフェミニストのせいでフェミニズムは完全に危ない集団というイメージで見られている」「過激で問題のある発言をする人間を放置しているから仕方がない」という意見を見る。
「その属性の中の目立つ存在がそのまま、その属性のイメージになることが自然なこと」なら、男であることが標準化している社会の中で、目立つ女性像がそのまま女性のイメージになってしまう可能性はある。
「フェミニストと女性は違う」「絵のイメージがそのまま生身の人間に接続するわけがない」「他にも目立つ女性像はある」という認識もあると同時に、そういう人間とは違う人間(他者)の感覚も存在しうる。
 後者の感覚を持つ人たちが「アイキャッチなどで使われる女性像が広く女性全般のイメージとして定着することを危惧している」のではないか。
 自分の認識や意見はいったんおいておいて、「巨乳の高校生の漫画絵(※1)を広告にすること」を問題視する人がいるのはなぜかと考えた時にこういうことかなと感じた。

 女性は身体性において、性交渉で多くの場合他人(男)を受け入れる側である、妊娠において子供という自分とは違う存在を自分の一部として受け入れる、また社会においてまだまだ幼い子供の面倒を見ることが多いため、その様子に自分のことのように気を配り、時に子供の状況を(教師や医者に対する説明など)代弁しなければいけないなどの役割を負うことが多い。
 そういう背景を考えると、「自他の区別をつける」ということにおいて、条件や経験、感覚には性差が働き、男とは違うのではないか、少なくともそれが「避けたほうがいいことで、普通であれば容易くできるはずだ」と言うのは、男視点に偏った感覚ではないかという疑いは(賛否はともかく他者=他属性の感覚や認識は自分とは違うかもしれないという前提があれば)思いつくと思う。

「自分とは置かれた状況が違うから、認識に差が出るのではないか」という前提を以て、相手の言動から認識の差を推測する。
 自分は「(自分とは違う)他人に対して想像力を働かせる」「自他の区別をつける」とは、こういうことだと思う。
なので「自他の境界をはっきりさせる→自分という領域を守ることで他人の領域を尊重する」とは、言うほど簡単なことではないと感じる。

「自己の認識を偏りのない客観的なものだと信じ込んでいるだけで、その認識を構成する要素に根本から偏りがあるのでは?」という批判は、スピヴァクがフーコーにした批判と重なる。

かれらの読むものは、批判的なものであれ無批判的なものであれ、そのすべてが、ヨーロッパとしての主体の構成を支持ないし批判しつつ当のヨーロッパの他者を生産する論争の内部にとらえこまれてしまっているというだけではない。
 そのヨーロッパの主体を構成するにあたっては、そのような主体がそれの道程をそれらでもって備給し占拠する(覆いつくす?)ことができるようにと提供されたテクストの諸成分を消し去るために、多大な配慮がなされたのでもあった。

(「サバルタンは語ることができるか」G・C・スピヴァク/上村忠男訳 みすず書房 P27-P29)

「あなたに都合がいい文脈に取り囲まれることによって形成された、あなたが客観だと信じている認識のみによる『あなたがあなたのためにカスタマイズしたもの』を『他者』と認識しているに過ぎないのではないか」ということを言っている。

 自分は構築主義は考えとして危ういと思っているので、「○○社会の価値観を内面化している」という方向性の批判にはまったく賛成しない。

 ただ社会の中で女性は「第二の性」として扱われてきた経緯が長い。そういう痕跡は社会の中にまだ残っている。
 そういうことを踏まえれば、相手の言葉が筋が通っておらずおかしく聞こえるのは、自分が自分の認識をニュートラルなものだと信じて、その認識のみで他人(他属性)の言動を判断しようとしているからでは、という疑いは持ってもいいのではないか。
 それが「他人を他人として尊重する」ということだと自分は思う。

◆余談
 
色々考え合わせると、現在目につくフェミニストの発言は(↑のスピヴァクの批判のように)今の社会が男視点に偏って構築されていることを問題視しているのでは(※2)と感じる。
 構築主義の発想が根底にあるから「フェミニストにさせられている(男主導の社会に抵抗するために構築された)」のような発想になる。
 仮にそうだとすると「女性は抑圧されてきた主体を取り戻すべきだ(客体・受容的であるべきではない)」と考えている自分とは考えが真逆である。
「構築主義を用いて他人を解釈する(解体する)」というのは連合赤軍の総括や文化大革命で用いられた考えだ。個人的に嫌悪感が半端ないので、もしこういう考えが根底にあるなら、自分はちょっと賛同はできないかな。

※1 漫画を読むとわかるが、広告絵に使われたアイちゃんは「大きな目の整った容貌。保護欲をそそる小柄な体。おしゃれに結わえた艶やかな髪。一点の曇りもない白い肌。素材の良さへの自負がうかがえるナチュラルメイク。(略)そして何よりいけないと思いつつも、誰もが一度は目を奪われるたわわに実った胸のふくらみが少女らしく華奢な体をアンバランスに飾り立てる。男好きする「設定」が、制服を着て歩いているような少女」という目で男(主人公)から見られている。

※2 ただそうなると、なぜ露出の高い女性キャラのことを「他者(男)視点から見たエロ」としか解釈しないのか。凄く不思議だ。

 色々考えた結果、根底に確固とした考えがあってそこから言動が派生しているのではなく、ケースごとの感覚を第一にした言動なので根底にある考えはブレて見える、というのが一番しっくりきた。

※続き。


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