「ぼくが考えた最強の〇〇」を何で言いたくなるのか?(創作における評価の話)

(追記)
ひょっとして、今話題になっている「社会への影響」の話? と後から気付いた。
あの話題については怒りが強すぎて触れないようにしていたけど、「社会対個人」において創作は唯一、社会の影響が及ばない「私的領域」が機能する場として保全しておくべきだというのが自分の考えだ。(社会の中の個人対個人や対属性とは訳が違う)
社会がおかしくなったときに(歴史上いくらでもある)個人が対抗出来る物は取っておくべきだと思う。
また、それが対抗しうるものになると分かっているから、社会を支配しようとする人間は、まず創作や芸術、知識を標的にして「私的領域=価値観」を一元化しようとする。(*例えば「多様性を主張しているのに、一元化しようとしているというのはおかしい」と言う向きもあるかもしれないが、言葉は機能に過ぎないので「多様性」という言葉を、使う側が恣意的に使うことで価値観を一元化すること、結果的にそうなってしまうことは有り得る。「社会」「多様性」といういくらでも解釈を変えられる概念でしかない言葉を、個人の世界観である創作に測るための尺度にするのはとても危険な行為だと思う)

「社会における価値観を一元化する手法」は、社会を支配コントロールするのに最も有効な方法であり、その最初の段階として創作や芸術、知識が標的になる。
脆弱な個人が社会に対抗出来る武器はそれしかないので、社会全体がおかしくなっても、これらの武器を取り上げておけば個人には対抗出来る手段はない。

ということを「文化大革命」の感想を書くときに、まとめて書こうと思っている。気力があったら。
(追記終わり)


朝起きたら、作家のかたが「作品に対してこうすべきだった」と言うのは、失礼と言っているツイートを見かけた。

そう言えば、自分もよく言う。
評論家ですらないのに。

「すべきだった」とまでは言わないけれど(言っている記事もあるかも震)「ここがこうだったらな」「こういうほうが良かったな」とはしょっちゅう言っている。……すごく言っている。

最近だと「迷家ーマヨイガー」の記事がそうだ。

いわゆる「ぼくがかんがえたさいきょうの〇〇」という奴だ。

言われたこともあるので(プロのかたと比べるのはおこがましいのは百も承知で)「自分で書けよ」と言いたくなる気持ちもわかる。
でも「お前がやれよ」は(自分の力量は関係なく)「自分の成果を世に問う」ということを自分自身で選んだ時点で言ってはいけないことだ、と自分は思っている。

ということで「ぼくが考えた最強の〇〇」と言いたくなる理由について、言う側の気持ちと言われる側の気持ちの両面から考えたい。

「ぼくがかんがえた最強の〇〇」を言う前提として、「短いものであれば全編を読んで(観て)いる。長編でもある程度は読んで(観て)いる」が必須の条件、というのが自分の考えだ。

二時間程度の映画や文庫本一冊程度の小説であれば、全編を観ないで「ぼくがかんがえた最強の〇〇」と言う資格はない。(*つまらないはOKだけど、ある程度観ないで言ったのであれば、その感想も誠実さや見識を問われることはある)

自分だけかもしれないが、「ぼくが考えたさいきょうの〇〇」を言いたくなるのは、その作品に「何か」を見出しているからだ。
だから「自分だったらこうするなあ」と言いたい欲が出る。

言っている時の素直な気持ちは「この作品の良さ、面白さがわかっているのに」という歯がゆさである。

それくらい前のめりになっているから、「ぼくが考えたさいきょうの〇〇」を開陳できてしまう。

読み手が「作者以上にこの作品の良さ、面白さがわかっている」ことは普通にある……というかそれが普通だ、くらいに自分は思っている。
逆に言えば、そうでなければ「人に評価を問う」意味がない
自分の作品について自分が一番正確にわかっているなら、人の意見や評価を聞く必要はない。自己満足で事足りる。

自己評価と他者の評価を比べた場合、後者のほうが的外れのこともあるのであとはどちらを取るかの問題でしかない。

「世界の十大小説」の中で、モームがシャーロット・ブロンテに関してこんなことを書いている。

また『嵐が丘』をどう考えてよいか、分からなかったことは明らかで、まさか妹が、それに比べれば自分自身の作品などまるで平凡なものにすぎない、驚くほど独創的な作品を書いたとは、ぜんぜん知らなかった。
現に妹のこの作品に対しては、弁解の言葉を述べる必要があると感じたほどで、『嵐が丘』を再刊しようという話があった時には、みずからその編集を買って出ているのである。(方言を直したり激しい口調を和らげたり、妹の文章に手を入れた)(略)
これで見ると、シャーロットはついに妹を理解することがなかった、と考えたい気がする。

(引用元:「世界の十大小説」サマセット・モーム/西川正身訳 岩波書店 P157-159/太字は引用者)

自分が「微妙」と思って「私が考えた最強の〇〇」を考えた、元ネタである妹の作品が二百年先まで傑作として残るなんて奇跡的な確率に近いが、それはともかく、「感想や評論も、表現である限りは他人の評価の俎上にのる」。(モームは「『嵐が丘』に比べたらまるで平凡なものに過ぎない」と酷評しているが、シャーロットの「ジェイン・エア」も今も残っている)

創作であれ何かの感想であれ記事であれ、「表現」という枠の中では全て平等に他人の評価の俎上にのる。
与えられた中でどの評価が妥当か、は評価が集まれば集まるほど妥当なものに近づく。(*例外もあるけれど基本的には)
というより多くの意見の集積が「評価」だから、一個の評価でその対象の価値が決まるわけでもない。

自分が一番妥当だと思う評価は「年月」だ。
いいもの、面白いもの、何等かの価値があるものは時代や社会の変化で価値観が変わってさえ古びることがなく人に必要とされる。

年月が、おのずと評価を下してくれるから、一人の人の評価を(自分が余り妥当だと思わないのであれば)そこまで気にする必要もないのではないかとは思う。(確かに自分が言われる側だと気になるけれど。)



ちなみに自分がもらった意見でありがたいなあと思ったのは

この話に、何を期待していたのかを言ってくれた上で、

(1)いい点も悪い点も言ってくれる
(2)悪い点は理由も述べたうえで、改善点を上げてくれる。(こういう風なら『ぼくが考えた最強の〇〇』はむしろありがたい)

だ。特に「自分がこの話に、何を期待していたかを言ってくれた上で」というところが凄くありがたい。
感想をくれた人が、自分がその記事なり創作なりを書く上でターゲットとして想定していた層かどうかを知りたいのだ。

評価(結果)というのは結果論であって、「自分が最初に設定した目的から考えた手法、そこから推測したことがどれくらい合致したか」が自分にとっては最も重要だ。

もちろん想定外でもいい結果が出れば嬉しいけれど、いい結果のほうが「自分の推測が外れた」ということから目をそらしてしまうので、長期的に考えると危うい。

「書くこと」に限らず(書くことは趣味だからまだいいのだけれど)「自分が想定した結果を出せるように考え続けること」が大事だと自分は思っている。

というより、ただ単にそういうことを考えることが好きなのだ。
「予測が当たるか外れるか、なぜ外れたのか、どこに誤算があったのか、ではどこの考え方を修正すればいいのか」
そういうことを考えることが、ただただ楽しい。

創作のいいところは、書くこと自体も楽しいし、結果を見てあれこれ考えることも楽しいし、自分の好みの読み物を残せるという一石三鳥なところだ。

否定的なことを言われればその時は感情的になることもある。(けっこうある)

でもそれは多くの場合一時の感情で終わって、そこを過ぎてしまえばブログもnoteも創作も読んでもらえるだけでありがたい。

何であれ対象のものを見ても読んでもいないのにあれこれ言う人はちょっと勘弁、と思うくらいかな。

まとめると
①何であれ対象を読まない(観ない)で、何かを言うことには否定的。
②創作以外の表現も、「他人の評価を問う」という土俵にのっている。
③「残り続けること」が最大の評価

というところだ。

こんな感じで色々なことを書いていきたいと思うので、今年もよろしくお願いします。


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