【鬼滅の刃】おばみつにハマったのは、「伊黒はなぜ一人で死ななかったのか」が、どうしても納得がいかなかったからだと気付いた。
*「鬼滅の刃」の伊黒小芭内×甘露寺蜜璃のカップリングについて、独自解釈を延々と語る記事です。解釈違いがOKの人のみお読みください。
*「鬼滅の刃」と「推しの子」のネタバレが含まれています。
おばみつは信仰型恋愛(後述)だと思っているが、先日ふと考えた。
なぜその中でおばみつだけこんなに何記事も書いているのか。
なぜおばみつは自分にとって特別なのか。
自分が原作の結末に納得がいかなかったのは、「(原作の流れなら)伊黒は一人で死ぬべきだった。それがおばみつの『正規の』エンドだ」そう思っているからだと気付いた。
なぜ「伊黒は一人で死ぬべきだった」と思っているかをこれから順を追って話したい。
◆原作のおばみつエンドでは、伊黒は原罪から脱出できない。
前提として、自分はおばみつを↓こういうものだと考えている。
原罪を背負わされて罪悪感に苦しむ伊黒が、蜜璃という神に出会うこと(正確にはその世界に行けるという可能性に出会うことで)で救いを見つける。
自分にとって、おばみつはそういうストーリーだ。
伊黒にとって「蜜璃がいる世界に行ける可能性」は、ようやく見出した苦行のような人生の脱出口なのだ。
伊黒はその世界に行けるという救いを見出したために生きたい(生きられる)と思ったのではない。その世界に行くために「死にたい」と思うようになったのだ。
蜜璃に出会う前は、死ぬことさえ出来なかった。
原罪を払拭する可能性が見いだせないうちに死んでしまうと、救いのないループから脱け出せないからだ。
この理屈(?)は「推しの子」のアクアを見ると分かりやすい。
「推しの子」では「母を殺した罪」を背負った吾郎は、アクアとして転生した先で「母を救えなかった罪」を再び背負う。
原罪を償わない限りは、この無限ループ(自分自身)から逃れられないのだ。
◆信仰型恋愛が最終的に目指すのは、贖罪のための殉教である。
自分自身の内部から沸き起こる負の感情を払拭するために相手に対して一方的に贖罪を続ける恋愛を、信仰型恋愛(造語)と呼んでいる。
自分の内部に作られた自罰感情という牢獄から脱け出すための方法として理想化した対象に贖罪し続ける。
尽くすこと(=贖罪や自罰をすること)自体が目的なので、そのことについて相手がどう思うかは関係がない。
恋愛でありながら自己完結しているのが特長であり、相手から見れば最大限控え目な言い方をしても、自分勝手で薄気味悪い感情である。
*相手から見返りをもらったりすると、自分の中の罪悪感とのバランスが取れなくなるので距離を取るために逃げ出す。(相手から見返りや一体性を求めるのは方向性が真逆のものである。詳しくはコチラ→https://note.com/saiusaruzzz/n/ncc70be540482)
信仰型恋愛の最終的な目標は殉教することだ。
自分が最も尊いと思うことのために自分の人生や命を犠牲にすることで初めて自分の罪とのつり合いが取れ、自責の念から逃れられる。
逆に言えば、殉教しなければ死んでも自責の念のループからいつまでも逃れられない。
アクアが「推しの子」として生まれ変わっても、母親が死ぬのは自分のせいだと思い続け、「のうのうと生きていていいはずがない」「これは罰だ、報いなんだよ」と自分を責め続けるように、死んで逃れることさえ許されない。生きて苦しみ続けることを強いられるのだ。
「推しの子」が怖いのは、メタで見ると吾郎がアイの息子・アクアとして生まれ変わり、その後にアイ(母)が殺されたのは、吾郎をこのループに閉じ込めるためではないかと思えるところだ。
ストーリー(世界)が吾郎=アクアに対して強い悪意を持っている。
その悪意ある世界こそが、吾郎の内的世界ではないかと考えるとすさまじく暗く業が深い話だ。
◆信仰型恋愛には「相手から遠い場所にいる、接触しない」という禁忌が必須である。
上述のように「信仰型恋愛が何を目的とするどんなものなのか」を考えると、相手と接触することは基本的に禁忌だ。
「伊黒は蜜璃と別次元にいる」(詳しくは過去記事を参照)
「アクアは息子として生まれ変わることで、恋愛としてはアイと結ばれることはない」
アクアにしろ伊黒にしろ理性でコントロールできるなら、そもそも初めから「アイを見殺しにした報い、罰」というありもしないものに苦しまない。
理性ではコントロールできない、理屈では解決できない感情だから、対象と距離を取る、禁忌を設けることが必須なのだ。
◆伊黒が抱える問題は「汚い血が流れ肉体が穢れていること」ではなく、その「思い込みから逃れられないこと」
そう考えると、生まれ変わった後に一緒になるために蜜璃を自分の殉教の道連れにする(物語的には無惨との戦いで死ぬが、自分は伊黒と一緒になるために蜜璃は死んだのだと思っている。いわば伊黒の殉教のとばっちりである)のはあってはならないことだ。
一緒になるなら、自分の内部のものをきちんと清算したうえでなければならない。
伊黒本人も188話で「今のままでは向き合えない(向き合うべきではない)」と語っている。
伊黒が抱え解決しなければならない問題は、「肉体が穢れていること」ではない。「肉体が穢れていると思いこんでいること」だ。
正確には「思いこまされていること」だ。
「生まれ変わって(肉体を取り換えて)一緒になる」という結末は、伊黒が思い込んでいる(思い込まされている)「伊黒小芭内という肉体に問題がある→汚い血が流れ穢れているのだから」という発想を肯定することになってしまう。
自分が原作のおばみつの結末に対して一番引っかかっているのはこの点だ。
どんな一族に生まれようと、どんな経緯があろうと、一族がどんな人間であろうと、伊黒には何も責任はない。
アクアの「アイを見殺し(母殺し)」と同じで思い込みである。
「アイが死んだのは自分のせい(見殺しにした)「一族が死んだのは自分のせい(自分が死ぬべきだった)」「すべて自分の責任だ」という考えは理屈に合わない。
アクアも伊黒も頭ではわかっている(と思う)
だが理性や理屈ではどうすることもできない。
このどうすることも出来ない思い込みから逃れなければ、肉体を捨てて生まれ変わったとしても、アクアと同じように生まれかわった先で必ず同じ問題が起こる。
また蜜璃は「伊黒は自分の肉体が穢れていると思い込んでいる」という前提を何も知らず一緒になることになる。
「二人が一緒になる幸せと引き換えに、伊黒の肉体は穢れていたと認める(前提とする)こと」になるが、蜜璃の性格や鬼殺隊に入った経緯を考えてもこんなことを受け入れるとは到底思えない。
この納得のいかなさこそが、自分がおばみつにこれほどハマった理由なのだ。
そう思い至った。
◆何十万文字と書いて、やっと自分の中で納得がいった。
「原作に特に不満はないこと」と「おばみつの結末に納得がいかないこと」は自分の中で両立している。
「鬼滅の刃」はおばみつの恋愛譚ではなく(もっと言うと伊黒が主人公の話ではなく)竈門炭治郎が主人公のバトル漫画だからだ。サブサブキャラの話まで細かくやっていたら、どれだけ巻数があっても終わらない。
「鬼滅の刃」という物語の枠組みの中では、他のキャラの結末との兼ね合いを見ても「二人で生まれ変わって一緒になる」が妥当だと思う。
だが伊黒と蜜璃、二人の人生を定点とした時、この結末では何も解決していないのではないか。
その思いから何十万文字とああでもないこうでもないと書いたが、ようやく自分の中で納得がいった。
二人が幸せになる道筋が(勝手に)見えて、自分の中に渦を巻いていた「納得のいかなさ」が無事に浄化された。
ということに気付いたのはかなり前だが、最近「ドラゴンクエストビルダーズ2」にハマりつつあるので、おばみつのことを自分の中で改めて整理したくなった。
今後も色々なものにハマると思うけれど、原作が大好きで不満がないのに「この点についてだけどうしても納得がいかない」という気持ちがこれほどのエネルギーを生み出すのはおばみつだけだと思う。
こんなに面白い漫画と素晴らしいカップリングを生み出してくれたワニ先生には感謝しかない。