アル中探偵が主人公のハードボイルド「八百万の死にざま」は、社会の中で自己規範をいかに守るかを教えてくれた小説だった。
先日「八百万の死にざま」を久しぶりに読み返した。これも自分が影響を受けたものに確実に入る小説だ。
「八百万の死にざま」は、アルコール中毒に苦しむ探偵マット・スカダーがキムというコールガールから「足を洗いたいから、ヒモ(売春の元締め)と話をつけて欲しい」と依頼されるところから話が始まる。
スカダーはヒモであるチャンスと話をつけ、キムに「話はついたから君は自由だ。もう心配しなくていい」と伝える。
翌日、キムはホテルの一室で全身を切り刻まれて惨殺される。
スカダーはキムを殺した犯人を見つけようと捜査を始める。
この話の面白さは何か。
自分は「八百万の死にざま」は自己規範の話だと思っている。社会の枠組みの中でいかに自分の内部の規範を保つかという話だ。
社会と自己を対置させて、自己をいかに守るかというのは(他のハードボイルド作品を含め)比較的よく語られるテーマだ。もっと言うなら「創作」というものがそもそもそういうものだ。
「八百万の死にざま」が好きな理由はいくつもあるが、一番いいなと思うのは主人公のマット・スカダーがさほど正しくない人物なところだ。
マット・スカダーは元警察官だが、少女を誤って殺してしまったことをきっかけに警官を辞めて、今はフリーの探偵(というより何でも屋)をしている。
スカダーは警官時代には先輩に言われるままに被害者の持ち物を横領したり、「便宜を図ること」と引き換えに娼婦と関係を持ったりしている。
社会に疑問を持ってそこに与すまいとしていたわけではなく、少女を殺してしまった結果として社会から脱落して生きている。
そういう人間だ。
スカダーは作内で、色々な人間から「社会的な見地で」批判される。
意識を失うほど飲んで担ぎ込まれた病院の医師からは「あなたはアル中なのだから飲むな」と言われる。
キムの事件を担当している警官ジョー・ダーキンからは「自分だけいい子ぶるな」と言われる。
アルコール中毒者の自助会の会員であるジムからは「新聞を読んで社会に対してどうしようもない感情を持つなら、新聞なんて読まないことだ」と言われる。
スカダーは作内で、「どう考えても相手のほうが正しい」と思うことを言われ続ける。
キムを殺した犯人を見つければ、世の中が良くなるわけではない。スカダー一人で社会の腐敗を、不正をすべて正すことなどできはしない。
どんなに腐りきった社会(システム)でも、それがある限りはある程度は人々の暮らしは守られる。
スカダー自身が中毒症状で意識を失っても生きていられたのも、田舎から家出して来たキムが殺されるまでは何とか生き延びられたのも、腐っていようが何だろうが人がその中で生きられる社会を何とか支えようとする人間がいるからだ。
キムが殺されたような事件に毎日毎日向き合い、何百件と処理しなければいけないダーキンが、スカダーを見て苛立つのは当たり前である。
社会に参画しながらそこから零れ落ちて、自分の持つ罪悪感に耐えきれず自傷行為(としか言いようがない)で酒を飲んではぶっ倒れるスカダーに比べれば、彼らのほうがよほど弱い人たちを守るために生きている。
スカダー自身もそれがわかっているから、また酒を飲んでしまう。
作品全体がえげつないほど、スカダーの「正しくなさ」を詰めてくる。
そういう状況でも、スカダーはキム殺しの犯人を追い続ける。追い続ける途中で、スカダーは何度か殺されかける。
相手は無抵抗の女性を鉈で六十六か所切り刻むのような人間だ。しかも単独の犯行ではなく、組織的な犯罪らしいということが判明してくると、キムのヒモであり依頼主のチャンスも及び腰になる。
スカダー自身も殺されかけて恐怖を感じる。それでも事件を追い続ける。
スカダーはなぜ、これほどの執念でキム殺しの犯人を追うのか。
それはスカダーがキムからの依頼を自分自身の仕事として引き受けて、「もう大丈夫だ(終わった)」と伝えたからだ。
スカダーは「終わっていなかったこと」に責任を感じて、事件を終わらせようとしているのだ。
スカダーは特に強くも正しくもない。
子供を殺してしまった罪悪感で警官を辞めて、妻子と別れ、自分の中のやりきれなさから逃れるために死ぬほど酒を飲み、それでいながら自分がアルコール中毒者だという現実とは向き合えないでいる。
色々なことに流されがちなごく普通の人間だ(女性にモテるので、外見はいいのかもしれない)自分がこだわりのないことに関しては不正も働くし、誤魔化しもする。
だが彼が上記のエレインとの会話で「私の仕事」と呼ぶものには、異様にこだわる。
社会を形成するのが社会規範であるなら、自己を形成するものは自己規範である。だからスカダーは、社会の矛盾の中でそれを守ることが難しくとも、自傷して死にそうになるまで追い詰められても、自分自身の規範を守り抜こうとする。それが他人から見てどれほど意味がないことだとしても。
自分のみの規範を守りぬいて犯人を見つけたあと、スカダーはようやく「自分はアル中だ」と認めることが出来る。
「八百万の死にざま」は、スカダーが自助会で「自分はアル中だ」と告白して終わる。
アルコール中毒者のための自助会なのだから、そこの参加者は「アルコール中毒者であること」は前提だ。
だがスカダーは、自分の仕事を終えて自分の規範を守りきった後、ようやく人前で「自分はアル中だ」と話すことができた。
前回の記事で少し触れたけれど、「厨二」というのは自分にとっては一種の自己規範なのだ。
リアル中二の頃の自分は、そこらへんに佃煮にするくらいいる普通の子供だったけれど「その時の自分が、社会で生きている大人の自分の言動を点検する」という在りようが、自分の自己規範のひとつだ。
社会の中で生きなければならないということは、自分も他人にとっては「社会(という抑圧)として機能している」ということだ。
その現実の中で自己を保つにはどうすればいいのか。
そういうことを、十代の自分に教えてくれた小説なのだ。