「アサシンクリード ヴァルハラ」の感想
以下の文章は全て個人的な見解です。権利者の方々による指摘や、個人的な気付きによって、予告なく変更・削除する可能性があります。
また、視界が狭い人間なので、色々とご指摘いただければ幸いです。
前提
アサシンクリードシリーズは、2、オリジンズ、オデッセイ、ヴァルハラをプレイ済み。
DLCはプレイしていない。
具体的なネタバレは一切ないが、雰囲気すら感じたくない場合は、先にクリアすることを推奨する。
前作の記事を踏まえての感想であることがある。
感想
ヴァイキングテーマのアサシンクリード
オープンワールドRPGとしての側面が強くなったアサシンクリードシリーズであるオリジンズ、オデッセイに次ぐ作品であり、この流れを強く汲んでいるものである。
さらに言えば、主人公であるエイヴォルは、従来のシリーズと比べてアサシンとしての側面が設定的にも極めて弱く、ヴァイキングとしての側面が強い。物語もアサシンの話というよりは、ヴァイキングの話がメインだ。
よって、他の作品における暗殺とは異なり、もっと直接的な攻撃が推奨されている、と感じる。(ステルスした時の報酬が少なく、正面攻撃に対する罰則もあまりない)
特に、ヴァイキングの仲間たちと共に、敵の拠点を襲撃するシステムに関しては、暗殺をしてもよいのだが、やはり、仲間たちと共に、敵を襲っていき、財宝を獲得していく、というヴァイキングのシミュレーションとしての面白さも強い。それゆえ、正直、アサシン感は従来よりもかなり低い。
当たり前だが、ヴァイキングとアサシンは真逆の存在だ。それがゲームプレイ的にもストーリー的にも、前作以上に気になる、という節はある。(まあ、スパルタ兵とアサシンも全然異なるが、前作では一応、アサシンそのものではなかったので……)
もちろん、アサシンクリードシリーズのような美麗なグラフィックでヴァイキングをプレイしたい、という欲求はあるし、それは十分に満たせて楽しいのだが、新しい舞台でアサシンをプレイしたい、という欲求に対しては、おざなりになっているようにも思う。これは、色々な事情により、アサシンクリードシリーズのコンセプトと呼べるものが複数あるゆえの問題であり、興味深いが、一朝一夕で解決できるようなものでもないので、難しい。
余談だが、長編としての次作になる予定の「アサシンクリード シャドウズ」では、侍と忍者のダブル主人公とし、アサシンとなるのは後者の人物だけとなるようだ。これは本作の反省というか、問題点を活かした設定である、と言えよう。(とはいえ、ヴァイキングに対し、忍者に該当する人気の概念が存在するかと言えば難しく、むしろ、ファンタジーを含むとはいえ、戦国時代の日本がとても都合が良いだけ、とも言えるだろう)
豊富なオプション
前作の記事でも言及したが、ステルスゲームとしての側面が強かった旧作から、次第とRPGとしての側面が強くなってきた新作において、様々な齟齬が生じており、それを吸収するかのようにオプションが豊富になっている。
たとえば、ステルスキルに対して、「アサシンクリード オデッセイ」のような強力なダメージ、ということにするのか、以前のシリーズ作品のように一撃死させる、ということにするのか、ということが選べる。
当然、これによって、ゲームの経済・バランスは異なってしまうのだが、逆に言えばそれを許容できるようにデザインされている(=ステルスキルがそこまで重要ではない)と感じた。
何でも選択できるようにしてしまうと、デザイナー側が意図しなかったゲーム体験になってしまったり、プレイヤー側がどれを選ぶべきかわからなかったり、というデメリットが発生する可能性もあるが、『好み』であるとする範囲(あるいはその範囲に調整したもの)に関しては、このようなオプションにしてしまう、というのもアリだろう。ゲームの途中で切り替えることができるので、途中で違和感を抱いたら、修正することもできる。
また、アクセシビリティに関するオプションも前作に比べて豊富であり、これは非常に歓迎すべきことだ。(一方、日本産のゲームでは、これらの配慮が欠けている傾向にあるのは、憂慮すべきことだと思う……)
とはいえ、ゲームの利便性や難度に直結するようなオプション(ステルスキルも概要するが)を設定するのは、慎重な検討が必要だとも感じている。
プレイヤーは損をするのが嫌いだ。その設定が利益を齎す、と考えられる場合、仮にそれがゲーム体験を毀損するとしても、それをオフにできるプレイヤーは限られるだろう。水は低きに流れる。(念のため追記しておくと、これは人間の性質の話であって、良し悪しの話ではない)
それがプレイヤーの不利益になる、と感じらえるとしても、その設定がゲーム体験を成立させるために必要だと考えられるのであれば、オプションに『設定しない』というのも必要な決断になるだろう。(難易度の話もこれに準ずるところがある)
武器・防具のユニーク化
前々作・前作とは異なり、各武器や防具が固有のものになっている。
前作までは武器がランダムの性質を持ってドロップするようなハック&スラッシュの要素があったものの、結局はユニークな武器(伝説・神話上の武器がモチーフのことが多い)が強く(かつカッコいいため)、それを装備することが多かった印象だが、本作ではすべて固有のものになっており、それに強化素材を使って強化するようになっている。
このようなメカニクスは、「エルデンリング」など、近年のRPG系の大型ゲームでは一般的になってきており、実際にそれに見合った利点がある、と考えている。
まず、武器・防具が、従来における成長要素の一環というより、個性を出すための選択肢の一つという役目に近づいていることが挙げられる。
従来では(TRPGの系譜から?)、武器や防具は、探検を行った報酬、あるいは、その売却などで得た金銭の消費先として、成長を齎す・実感させる機能が大きかったが、近年のRPGのような一種のワールドシミュレータに近いゲームにおいて、これは難しい実装だ。
どのような状態でその武器を獲得するかをコントロールしにくいオープンワールドで、その強さを精緻に調整することは難しい。また、パーティで武器を使用するのではなく、個人で使用することが多くなったため、その種類数も重視されなくなってきている。なにせ、各1~2個しか装備できない。
また、グラフィックが高度になってきている以上、武器や防具はその数値や効果を設定するだけのものではない。世界観に沿ったデザインが必要になり、個性も出す、モーションも用意する、となると相当なコストになる。
これらを加味すると、旧来のRPGのような武器の実装の仕方をしていては割に合わないし、ゲーム経済に対する噛み合いも悪い。
一方で、現代的な実装として、(ほぼ)オールユニークとして実装する場合には、それぞれの個性や背景、数値も設定しやすい。各武器をある程度は均等な選択肢として調整することができるし、無駄がない。
数が用意できず、報酬としてプレイヤーに提供しにくい、という面は少し困るが、その分強化アイテムを渡せばよいだけだし、逆に言えば、武器が貴重な、大きな報酬として機能する、ということになる。
ユニーク武器を強化するようなメカニクスは、これらの利点からますます重宝されると考えられるし、旧来のようなRPGでも採用される余地は大いにあると考えている。(まあ、強化アイテムの経済のバランスによっては、別の問題を引き起こすこともあるが……)
広大なRPGに存在するミニゲームの価値
豊富なミニゲームが用意されていて、それがとても良いと感じられた。
釣りのようなミニゲームの定番から、単体ゲームとしてリアルで販売すらされたダイスゲームのオーログ、酒の飲み合いから口論詩(要はラップバトル)まで本当に様々だ。
前述した拠点の襲撃も、広義にはミニゲームであるし、それらによる報酬で自身の拠点を強化していく要素もある。
ここに記載していないものも多くあり、盛沢山と言っても良いだろう。
最初、どうしてそこまでミニゲームを実装するのか、という気持ちはあったが、プレイしてみるとこの価値を切に感じた。
なんというか、プレイすることが、エリアを探索することが楽しくなっていくのだ。
様々な要素が実装されているとはいえ、オープンワールドRPGの根幹はかなりシンプルだ。新しいエリアを探索し、自身を強化し、敵を倒す。その循環で構成されており、本作もそれに外れない。
筆者のような飽きっぽいプレイヤーにとって、この単調さは正直に言って早々に飽きが来てしまう。
しかし、それがミニゲームの豊富さによって、緩和されるのだ。
新しい都市を見つければ、オーログか口論詩のプレイヤーを探すし、それが見つかった時は、ちょっとした報酬が得られた気持ちになる。(まあ、口論詩のように言語・文化依存性が高いミニゲームに関しての議論は必要だとは思うが……)
ちょっと飽きてきたな、というタイミングで溜まっていたミニゲームを消化し始め、しばらくしてまたメインに戻れる、という箸休めが存在している価値は大きい、と感じられた。
特にシリアスなことが多いメインストーリーとの緩急になっている点も見逃せない。
逆に「ファイナルファンタジーXVI」はこの点で大きく評価を下げているというのが個人的な意見だ。メインはどうしても想定できる範囲の振れ幅であるし、単調さも生まれてくる。ミニゲームという範囲でも良いから、感情の動きに幅を持たせることが必要なのだ。これは「ファイナルファンタジーVII リバース」(未プレイ)の感想をみていても感じる。(もちろん、これはこれで色々と問題を生んでいる点もあるが)
やはり、大型のRPGには、細かで豊富なミニゲームが必要なのだ、というのが最近の筆者の考えだ。
エリア制を明確化したことによる問題点
大まかには、従来と同じようなオープンワールドではあるのだが、本作では各エリア(現実における地方)が区切りになっており、次にどこを襲うかを決め、そのメインを進めていき、クリアすると次の区画を決める、というような流れになっている。
オリジンズでもオデッセイでも実体は似たような形にはなっており、各エリアでレベルの差が設定されているため、事実的にはエリア制のオープンワールドであり、それを順番に回っていく、という形であった。
本作は、それをメタ的な選択肢として明確化した、と言えるだろう。たとえば、同じようなレベル帯のエリアのどちらを先に選ぶか、はっきりと選ぶことができ、区切りを明確に感じられる。
これに関してだが、率直に言って、プレイ感は悪くなった。従来の方がよいと感じられたので、その理由を考えたい。
一番大きいのは、当然だが、区切りが明確化されてしまうので、繋がりが断絶されている、という気持ちになることだと考えている。
アサシンクリードシリーズは、歴史的な舞台のシミュレーションという価値も大きく、その点に置いては、歴史や物語のシミュレータとしての意味合いが強くなる。それに対し、区切りを明確化させることは、相性が良いとは言えない。
現実において、あるいは、歴史上の出来事において、ある出来事がどのような結果を齎すのか、どのような次の出来事に繋がっていくか、というのは想像ができない。それが面白さにも繋がっている。
一方でエリア制が明示されることによって、たとえば、AとBのエリアが選べるのであれば、その双方に関係性はない(どちらが先でも良いという意味なので)ということが明確化されてしまう。
エリアをクリアした、という明確なメッセージが出てしまうことも問題でそのエリアでのエピソードは終わったのだ、という感覚が強く出る。そのためにゲーム的・メタ的な視点が途切れることが少なくなり、シミュレーション的な視点が弱まってしまった。
また、そのエリアの数もそこそこにあり、それらのボリュームも豊富だ。そして、それがワールドマップの未踏地と言う形ではなく、エリアとして明示されてしまう。
よって、まるで、穴埋めをしているかのように、各エリアを攻略していくことになり、繰り返しが強調され、作業感が強くなってしまった。
よく、デジタルゲームは終了が見えない媒体である(本や映画のように終わりが事前にわかっている媒体ではない)、ということを感じるが、本作は悪い意味で、全体のボリュームがわかりやすくなってしまっている。
ただ、ネタバレを避けるため、強くは言及しないが、エリア制がよく感じられる場面はあり、当然のことではあるが、欠点だけの実装ではない。
三重の意味を持つエンディング(シナリオ)
これもネタバレを避けるため、詳細は言わないが、本作において、筆者が最も価値を感じたのは、この部分である。
イス(第一文明)というアサシンクリードシリーズの設定、それと関連する北欧神話と、それを信仰していたヴァイキングたちの歴史的な結果から導き出される、それらが重なり合うエンディングは静かではあるものの、感じ入るものがあった。
この感動は、ヴァイキングや北欧神話といった歴史的・文化的な題材を舞台にしているからこそだと感じられた。
つまり、ゲームのテーマに合わせた創作ではないことが重要だと感じる。
北欧神話とヴァイキング、そして、(それらと比べれば極めて小規模ではあるが)歴史的に生まれたアサシンクリードシリーズの設定、それらが一つの線で結ばれる、という感動だ。
完全な創作ではない重み、あるいは、後付けだからこそできる特有の感動は、歴史を取り扱ったゲームの大きな武器の一つだと感じる。
そのような側面を「アサシンクリード シャドウズ」でも感じさせてくれることを今から期待してやまない。
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