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「SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE」の感想

 以下の文章は全て個人的な見解です。権利者の方々による指摘や、個人的な気付きによって、予告なく変更・削除する可能性があります。
 また、視界が狭い人間なので、色々とご指摘いただければ幸いです。



感想

ソウルシリーズの系譜を引き継いだ和風アクションゲーム

 「DARK SOULS」でアクションゲームの金字塔を打ち立てたフロムソフトウェアが「Bloodborne」や「DARK SOULS III」を経て創られたのが本作だ。これらのソウルライクの歯ごたえも引き継ぎながらも、本作は少し毛色の違うゲームとして成立している。

 まず、世界観が今までのダークファンタジーやゴシック(コズミック)ホラーと言った西洋風のものから、日本風のものに変わっている。ファンタジー要素が含まれるものの戦国時代をモチーフにした世界だ。


 そして、ゲームプレイも大きく変わっている。

 第一に、RPG要素が薄くなり、よりアクションゲームに近づいている。レベルの概念がなく、攻撃力や体力が特定のアイテムを消費することで成長するようになっており、ボス戦で詰まったからと言って、レベルを上げて難度を緩和するようなことはできない。

 メインの武器も変えることができず、基本的には刀一本で並みいる強敵を倒さなければならない。

 サブ武器とも言える忍具が色々と用意されてはいるが、これはちょっとした戦術の幅を増やすものでしかない。

 つまり、基本的には刀一つと、プレイヤーの知識と技量で立ちふさがる敵を倒していくしかないのだ。


 第二に、体幹と弾き、というシステムが基盤に据えられている。「DARK SOULS」シリーズでは、防御的な行動と言えば、盾で受けたり、パリィをしたり、ローリングで回避をしたり、という行動がメインであった。続く「Bloodborne」では、盾はあまり使えず、回避がメインとなるようなゲーム構造になっていた。「SEKIRO」では、弾きという防御行動がメインになる。

 弾きは、相手の攻撃に合わせて、タイミング良くガードボタンを押すことで発動する。それだけを聞くとパリィのようだが、それよりもリスクもリターンもマイルドになっていて、タイミングはシビアではないものの、上手く合わせるとダメージを軽減することができる。

 そして、革新的なのは、この弾きが成功することで、相手の体幹が削られていくことだ。体幹というのは、体力とは別に存在するもう一つの生命力のようなもので、このゲージが最大まで溜まると、敵の場合は即時に倒すことができる。これを忍殺と呼んでいる。まあ、実際には、ボスはその形態を倒せる、という表現の方が近く、第二形態を再び倒さなければならないが。

 何が革新的かと言えば、弾きができる、ということは、相手の攻撃パターンを見切っている、ということであり、そうなると相手の体幹(事実上の体力)が削られていく、ということだ。つまり、攻撃パターンを習熟できていない場合、弾きができないので、相手の体幹は削れないし、自身はダメージを食らってしまうので、すぐに死亡してしまう。逆に習熟できている場合、相手の体幹が一気に削れていき、自身はダメージを食らわないので、あっという間に戦闘が終わる。

 これによって、防御的なゲーム構造でありながらも、ゲームのテンポが早くなっているし、攻撃に合わせて音やエフェクトが表示されるのも気持ちが良く、プレイフィールが良くなっている。

 また、防御しているだけでは対応できない攻撃(下段、投げ攻撃)を『危』という表示で明示しているデザインも見事だ。防御できないかどうかを確認する作業がゲームプレイなのではなく、防御できない攻撃をどう対処するのか、という対策を構築するのがゲームプレイであるということがデザインかも理解できるようになっている。


 このように、防御系統を前作以前よりも強化している一方で、攻撃系統はシンプルにまとまっており、『敵の攻撃を如何に上手く受けるか』という点に焦点が合ったゲームとなっている。

刀と刀がぶつかる様子はまさに殺陣で、ビジュアル的にも価値がある



敵の動きを明確に判断する

 上記のような特徴、つまり、レベル上げができなかったり、武器が固定されていたり、弾きが主軸だったり、ということは、ソウルシリーズよりも明確にあるゲームプレイを強調するために実装されている。

 それは、相手の行動を見極める、ということだ。

 レベルを上げたり、強力な武器などが使用できないため、実質的な攻撃力に制限がかかり、速攻で殴り倒す、というような戦術はできない。よって、相手の攻撃パターンをしっかりと見極め、その対策を用意し、弾きを主軸として体幹を削って倒す、というゲームプレイが求められる。

 ソウルシリーズにおいても、これらはもちろん必要なことだが、RPGの要素、つまり、装備品や属性の相性、レベルといった条件によっては相手の動きを把握しなくてもごり押しできるという場面はそこそこあった。本作ではそういった、いわば抜け道のようなものを極力(特定の忍具の使用など残っている面もあるが)減らしており、正攻法で攻略することを強いている。

 結果として、本作をクリアした人のほとんどは、ラスボスの行動パターンをほとんど覚えているはずだし、それに対してどのように行動するのかも明確に持っているはずだ。

 このように、問いとして敵の行動パターンが提示され、答えとして自身の行動パターンが求められる。これこそが、本作のゲームプレイであり魅力であると言える。

数少ない絡め手の手段である義手忍具



他のジャンルとの比較

 では、このようなゲームプレイに似たゲームは今までなかったのだろうか。よく言われている類似ゲームジャンルとの比較を行ってみたい。


 まず、音ゲーのゲームプレイと似ている、という話をよく聞く。

 似ている点としては、ゲームが用意した問題を把握し、それの答えを問われるという構造だ。一般的な音ゲーで流れてくるノーツは、本作における相手の行動であり、それをテンポよく回答していく、

 異なる点としては、相手の問題がランダムで提示されることと、その回答が固定されていないという点だ。つまり、相手の行動パターンこそ決まっているものの、そのどれが選択されるのか、ということまで決まっているわけではない。ノーツに対する運指の設計が求められる音ゲーとは異なる点だ。

 また、音ゲーでは基本的に問いに対しての答えは明確化されている。〇ボタンを押せ、と書かれていたら、〇ボタンを押すしかない。一方で、本作では対策はいくつか用意されている。テンポ良く弾いて相手の体幹を削ってもいいし、横にステップして回避をし、追加で攻撃してもよい。答えを構築することも、ゲームプレイの一部である点が異なる。


 他には相手がNPCの格ゲーのようなものだ、という話もある。

 確かに、ガードやそれを貫通してくる投げ攻撃の関係や、間合いの取り方など、格ゲーのメカニクスから引用されている部分も多くある。

 しかし、根幹的に異なるのは、PvPを主軸にしているか否か、という点である。PvPを主軸にしている以上、自分が成長すると、相手も成長することになる。つまり、上達にキリがないし、読み合いも発生する。

 本作のようにPvEを中心にした場合、敵を倒す、という明確な閾値が存在しており、それ以上の上達はゲーム的な意味はなく、縛りプレイのようなものとなる。格ゲーのようなPvPのゲームでは、ランクのような目標(閾値)は存在するものの、倒すべき敵は無数に存在し、上には上がいるので、キリのない上達を目指すことになる。

 読み合いがない、という点も大きい。PvPでは、敵が行動してから自分が動く、というようなことは難しい。それが可能であれば、先んじて行動するメリットがなくなり、PvPゲームとして成立しなくなるのだから、当たり前だ。本作のようなPvEの場合、相手が行動してから、それを読み切って行動できるというバランスにしてもよい。最終的に、プレイヤーに反射神経がなくても、障害を乗り越えられるように調整されている。弾きのタイミングがわかりやすい例で、判定は甘くなっている。

 結果として、格ゲーのような敷居の高さ、キリのない向上や、技の読み合いと言ったことをすることはなく、あくまで、ゲームデザイン上用意された問いにどう答えていくのか、という部分が主軸になっている。



ソウルライクとは何なのか

 では、このゲームのジャンルがどのようなものになっているか、というと筆者はソウルライクである、と答える。もちろん、RPG要素などがなくなってはいるが、むしろ、それによって、より洗練されたソウルライクのコアのようなものを磨き上げたゲームになっている、と感じている。

 だと言うのならば、ソウルライクとは何なのか、という話になる。

 そもそも、死にゲーという言葉が、キャラクターがよく死ぬ、ミスをするとすぐに死んでしまう、という点だけを指しているのならば、「マリオ」シリーズのようなプラットフォームアクションは基本的にそうであるし、シューティングゲームも基本的にそうだ。

 しかしながら、現代的な死にゲー、狭義にはソウルライクはもっと広く波及し、新たなゲームプレイのジャンルとして受け入れられている。個人的な考えも含むのだが、この差を考えたい。

 ここでは、プラットフォームアクションやシューティングゲームのようなものを『旧来の死にゲー』、ソウルライクに代表される死にゲーを『現代の死にゲー』と仮に呼称する。もちろん、これは『現代の死にゲー』の解析のためであり、優劣をつけるためではない点に留意したい。


 まず、何のために死ぬのか、ということを考えなければならない。

 ここで言う『死』とは、チェックポイントまで戻り、ゲームの進行がリセットされる、というゲーム処理だという定義であると考える。「スーパーマリオ」シリーズでは、落下死をすると残機が減り、チェックポイントに戻る。ソウルシリーズでも、体力がなくなると、篝火まで戻ることになる。

 これは多くの場合、最大のデメリットであると言える。せっかく進めた歩みはなかったことになり、削ったはずのボスの体力は回復する。そこまでのゲームプレイがなかったことになるからだ。これが何のためにゲームに存在しているのか、を考える。


 ここで、『旧来の死にゲー』と呼ばれるものが、アーケードゲーム的な遊びであることに注目したい。具体的には残機のようなものが存在し、その残機がなくなることにより、ゲームオーバー(あるいは、ステージの失敗)ということになる。つまり、死亡することは強力なペナルティを持っており、場合によってはゲーム全体の失敗と繋がる、ということだ。これによって、プレイヤーが乗り越えたい障害をクリアするのに時間がかかるようになっている、という点に注目したい。

 たとえば、シューティングゲームで、2面のボスに苦戦しているとする。この時、2面のボスにやられると、残機がある場合にはそこで復帰できるものの、残機がなくなれば、ゲームオーバーとなり、また1面の最初から始まる、というゲームがほとんどだろう。この場合、プレイヤーが乗り越えるべき障害は2面のボスであるにも関わらず、1面の道中から攻略を再び始めなければならない。この前はクリアできたはずの1面ボスに負けてしまうかもしれないし、残機が多く減ってしまうかもしれない。

 つまり、ゲームプレイにおけるサイクルを長くするために、『死』という処理が導入されている、と考えることができる。そして、これはゲームクリアまでになるべくゲームプレイ回数を増やしたい、というアーケードゲーム的な設計思考から来ている、と考えることができるだろう。


 一方で、『現代の死にゲー』について考えてみる。

 「DARK SOULS」や「SEKIRO」でも、死亡した場合には、手持ちのソウルや金銭と言ったゲーム内の資源を失ったり、失う危険が生まれるため、見た目としてはペナルティが存在している。

 しかしながら、実体としては、機能しているとは言い難い。消費先は無数にあるため、死亡率が高いと思われる場所、つまり、プレイヤーにとって障害となっている場所では、予め無くしておく、という対策が容易にできる。また、あくまで持っているものを無くすだけであり、無くした後から、もっと減るようなことはなくなり、ある時から死亡のペナルティはなくなる。

 ゲームオーバーになったり、ステージの最初からスタートするようなことはなく、直前の篝火・鬼仏からスタートできるし、ボスの場合は基本的にボス戦がすぐに開始できる。回復薬に相当するものも(作品によるが)補充されることになり、事実上の消耗はないまま、リトライを繰り返せる。

 これによって生まれるのは、サイクルが短いゲームプレイだ。もちろん、ボスの第二形態など、ある程度の長さがある場合もあるが、基本的には自分がぶつかっている障害の部分だけと立ち向かうことになる。そして、失敗することによって、死亡し、すぐに挑戦、というサイクルを繰り返す。

 つまり、ソウルライクが発明した『現代の死にゲー』において大事な点とは、ゲームテンポを良くするために『死』という処理を利用する、ということであり、これによって、PDCAサイクル(計画・実行・評価・改善)を高速で回す遊びを導入した、という点である。

 これにより、高速で明確な学習をすることができるようになったのだ。

 まとめると、『旧来の死にゲー』では『死』はゲームプレイのサイクルを遅くし、攻略を停滞させるために導入されていたのに対し、『現代の死にゲー』では『死』はゲームプレイのサイクルを速くし、明確な区切りがあることで攻略を促すために導入されているのだ。


 そのように考えると、「Demon’s Souls」の時点では、この条件は満たさず、『旧来の死にゲー』の範囲であり、高難度アクションゲームであると捉えた方がよいことがわかる。チェックポイントの幅は広く、回復薬が自然と回復するようなものではないからだ。

 さらに本作「SEKIRO」は「DARK SOULS」にあったRPG要素を排することによって、障害につまずいたから、レベル上げをしよう、というような余計な選択肢を基本的には排除している。とにかく、相手の攻撃を把握し、それをいなすことができるようにする、というところが中心となっており、より
この『現代の死にゲー』としての遊びが洗練されている、と言える。

 逆に言えば、本作「SEKIRO」でも、ある程度攻略の自由度がある場面があるのだが、それはこの強みを弱めているように感じる。一本道を基本とした方が、ステータスによる差ではなく、プレイヤースキルによる差を設計しやすくなる。本作の場合、どうせ合流することもあり、意味を感じにくい。



デスペナルティはどうあるべきなのか

 本作で先鋭化されたソウルライクというジャンルの面白さに反して、その進化に取り残されている部分が多いことも事実だ。

 その大きな点の一つに、デスペナルティが挙げられる。

 本作「SEKIRO」では、ソウルに当たる資源がないため、死亡することによってスキルを取得するための経験値や、アイテムを買うための金銭を半分失う、というところがペナルティになっている。

 しかしながら、スキルは一部を除いてあまり必要なものがなく、強く意識されないものであるし、アイテムも一部を除き、ゲームを大きく助けるようなものではない。そもそも、このような資源を稼ぐことによって、ゲームが易化してしまうのならば、上述のような『現代の死にゲー』としての遊びが弱まってしまうことになるので、そのようにならざるを得ない。

 このようにペナルティとしてあまり有効ではないのに、竜咳という関連システムが存在している。これはフレーバー的には意味があるのだが、ゲーム的な意味がほとんどないシステムとなっている。死亡した時に、一定の確率でロストを無かったことにしてくれる冥助が発動することがあるが、死ぬとその確率が次第に下がっていく。加えて、周囲のNPCが竜咳という病気にかかってしまい、会話が困難になる、というペナルティになるというものだ。

 ゲームのシステム上、詰まっているところがあれば竜咳や冥助などを意識する必要もないぐらい死に続けるため、ロストが1回無効化されたぐらいでは意味がない。探索時などに不意に死亡してしまった時に、冥助が発動した場合には確かに助かるのだが、そもそも、最大値でも確率は低く、それに頼ることはできないため、ただの幸運という感じで、システムとして機能しているとはあまり感じなかった。

 そもそもで言えば、『現代の死にゲー』にゲーム内(の経済)のデスペナルティは必要がないはずだ。進行(ボスの体力など)がリセットされるだけで十分と言える。プレイヤーがそのデメリット(フィードバック)を受け取れば十分だからだ。不要なデスペナルティは、ゲームのテンポを削いだり、不要な学習コストを生むだけではないか。



ソウルライクにおける探索の問題

 「SEKIRO」におけるボス戦は、非常に楽しい。しかし、そのボスとボスを繋ぐゲームプレイ、つまり、探索(道中)は楽しいと感じなかった。

 確かに、和風ファンタジーとして設計された景色は綺麗で、その中を鉤縄というアクションによって移動できるのは気持ちがいい。アクティビジョンと共同制作しているためか、他のフロムソフトウェアのゲームと比べてもビジュアル的な美しさを群を抜いている。

 しかし、ゲームプレイとしての探索が楽しくないのだ。

 まず考えられるのは、ソウルシリーズよりも報酬として用意できるものが少なくなっている点だ。武器や防具、その強化品というようなものも実装されていないし、レベルもない。雑魚を倒していったり、脇道にそれていくことのメリットがかなり少ない。

 その割に、「SEKIRO」のゲームシステムは1対1に特化して設計されている。それが意識されているのか、ボス戦でも、ソウルシリーズによくある複数ボスがほとんどない。あるとしても、雑魚とボスという組み合わせが多く、その場合には基本的に雑魚を削ってから、ボスと戦うという形になる。

 複数の雑魚に囲まれた場合、それを一気に撃破する手段はほとんどないが、敵の複数の攻撃に全て対応するのはほとんど困難だ。一方で、移動速度は速く、スタミナもないため、それらをスルーするのは容易である。結果として、報酬もほとんどない雑魚を倒す必要性をほとんど感じず、ただただ逃げていくだけのゲームプレイになってしまう。


 ソウルライクというものの面白さを考えると、単純に道中に敵がいて、報酬としてのアイテムがある、というだけでは面白くならないのだ。これはRPG的な面白さなので、ソウルライクでもあり、RPGでもあるソウルシリーズでは機能するが、アクションである本作ではほとんど機能していない。

 本作と似た構造を持った後継作では、ここを改善していることが多い。

 「Sifu」では、ベルトロールアクションの系譜を引き継ぎ、雑魚を倒さなければ先に進めないようになっている。つまり、形態の異なるボスのようなものであり、立ちふさがる障害だ。また、それに合わせて、より集団戦でも面白くなるように、攻撃・防御系統も発展している。これによって、雑魚との集団戦を障害の一つとして明確化し、ただ逃げるだけ、というようなことはできず、集団戦をどう上手くいなしていくかも、上達の対象としている。

 「スター・ウォーズ ジェダイ:フォールン・オーダー」では、「アンチャーテッド」などを彷彿とさせるようなパルクールアクション的な要素を道中に取り入れて、この問題を緩和している。これはこれでマップの設計のわかりにくさなど、色々な問題が生まれてしまってはいるが、ソウルライクとは別軸の面白さを道中に取り入れていると言える。

 このように、何らかの工夫をする必要があると考えている。

集団戦はただ面倒で、あまり意味が感じられない

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