元・東スポ記者が語るハヤブサの不死鳥な想い出■寿浦恵一
――3月3日がハヤブサさんの命日ということで、親交の深かった元『東京スポーツ』記者・寿浦さんにいろいろとお話をうかがえればと思います。
寿浦 江崎(英治/ハヤブサの本名)が亡くなってもう6年なんだよね。丸6年だから、今年で7回忌ですか。
――寿浦さんはハヤブサさんの新人時代からお付き合いがあったんですよね。
寿浦 もともとボクは平成元年に『東スポ』に入ったんだけど、2年間プロ野球を担当して、3年目から大仁田厚のFMWを担当した。FMWの取材に入るようになったすぐあとに、江崎が新人で入ってきたから、関係性としては江崎とはちょうど同期という感じなんだよね。そこから江崎は大仁田の付き人になって、本田(雅史/ミスター雁之助)くんがターザン後藤の付き人になったのかな。で、ボクは大仁田と話すことが多かったから、自然と江崎と話したり酒を飲んだりする機会が多くなって、巡業先では毎晩お酒を飲んでというね。
――当時はインディ団体が珍しい時代だったので、インディの新人育成方法が見えづらい時期ですよね。
寿浦 彼らは押しかけてきたみたいな感じなんじゃないかな。そういう部分は後藤に任せてたみたいだから。そのあとにも、中川(浩二/GOEMON)だったり何人か新人は入ったみたいだけど。江崎たちが生え抜きというか、新人第1号ぐらいの感じだったと思う。
――入門テストはあったんですかね?
寿浦 はっきりとした入門の経緯はわからないけど、後藤かなんかがテストをしたんじゃない? で、彼らはもともと学生プロレスの出身だから。そこそこの素養はあったんだろうし、ちょっと受け身とかをやらせてみながら「コイツらなら大丈夫だな」ということだったと思う。
――それにしても、当時の大仁田さんの付き人というのは大変そうですよね。
寿浦 ワガママだしね。
――ハハハハハ! 大仁田さんは巡業中は別行動なんでしたっけ?
寿浦 一緒に巡業バスに乗るときもあるし「今日は電車で行こうか」ということもあるし。で、電車のときはたいがいボクが付き合ってたから、江崎は付いてきてない。だから、ずっと付きっきりという感じではなく、着替えとか荷物、試合の道具とかの管理だよね。
――寿浦さんから見ても、やはり新人の頃から有望だという感じでした?
寿浦 身体の線は細かったけど、バネもあったし、まあ顔もよかったしね。あと、性格がもの凄くよかった。レスラー向きの性格というか。あまり深く考えずにいろんなことができる。なんか楽しいヤツだったよ。
―― 一緒にバカができるというか。
寿浦 そうそう。バカで思い出したけど、北海道の羽幌という町で興行したときに、興行終わりで町の人たちとバーベキューをやったことがあって。羽幌は海辺の町だから、そのあとに「花火しよう」ということで浜まで行ってね。もう星や月が見えるくらい暗くなっていたんだけど、ロケット花火を10個ぐらい買ってきて、江崎がお尻にそのロケット花火を刺して。そこで火をつけて飛ばす……という予定だったんだけど、火をつけると火花が散ってお尻が熱いじゃない。そうすると、お尻に力が入って肛門が締まるから花火が飛ばずにそこで破裂するというね(笑)。
――ハハハハハ!
寿浦 あれは、最高のエンターテインメントだったな(しみじみと)。真っ暗な中に白い尻だけが浮かび上がって、パンッとロケット花火が破裂して真っ暗になるという。それを4~5人で見てたんだけど、「肛門爆破マッチ」という名前がついて、その後もずっと伝説になったよね。
――のちに江崎さんが素顔になったときの「肛門爆破マッチ」はそこからきてるんですよね。
寿浦 そうです(笑)。それが、一番最初の肛門爆破マッチですよ。
――そういう場には大仁田さんもいるんですか?
寿浦 いない。どっちかというと、興行が終わって会場を離れたあとは好き勝手やっていた。で、誰かが誕生日だと、たまに大仁田が金くれたりするんだけど、その金で若いヤツらで一緒に酒を飲むということばかりやってたね。
――まあ、大仁田さんがいると、大仁田さんが王様になっちゃいますもんね。
寿浦 大仁田は酒は飲まないし、やっぱりボスだから気を使うよ。それに大仁田の悪口を言いながら酒を飲むのがウマいんじゃん(笑)。
――ハハハハハハ。ちなみにFMWの現場監督だった後藤さんと江崎さんはどういう関係だったんですか?
寿浦 うーん、悪くはないだろうけど、そんなに接触している感じではなかった。後藤の付き人は雁之助で、後藤はずっと付き人をそばに置いておきたいタイプだから。後藤は後藤で何人か連れてメシ食いに行ったりしてたと思う。こっちとは完全に違う部隊だったから、雁之助と一緒に酒を飲んだ記憶ってないんだよ。
――いわゆる派閥みたいなことですよね。馬場さんが全日本プロレスで付き人制を導入しなかったのは、日本プロレス時代の付き人制がそのまま派閥になっちゃって仲が悪くなってしまったからだと。さすがにジャンボ鶴田や天龍源一郎が自分で荷物を持っているのはカッコ悪いということで付き人制を始めたみたいなんですけど。そのへん、大仁田さんは後藤さんと違ってプライベートと分けたいタイプだったんですかね。
寿浦 どうなんだろう。というか、べつに大仁田自身は付き人が欲しかったわけではないと思う。後藤が「雁之助は俺の付き人にするから」ということで、江崎は大仁田にということだったんじゃない。後藤はあんなんで潔癖症でさ、試合終わったら全身アルコールで消毒するとか、そういう人だから。
――そう思うと、江崎さんが後藤さんの付き人だったら、その後の新生FMWの歴史は変わっていたかもしれないですね。
寿浦 言われてみれば、そうね。結局、後藤が辞めたときに付き人だった雁之助と市原(昭仁)も一緒に付いてったからね。雁之助たちは、離れたくて離れたわけじゃないと思うし。後藤が出て行くから付いていかざるを得なかったという。……でも、後藤の付き人だったら、江崎は続かなかったんじゃない?(笑)。
――そういう感じなんですね(笑)。当時、江崎さんはどこに住んでいたんですか?
寿浦 大森じゃないかな。
――FMWの事務所は五反田だったから、その近くということですかね。
寿浦 なぜだか、ずーっと大森だったよ。結婚してからも大森だったと思う。当時は2週間巡業に行って、2週間東京にいてというのを繰り返してたから。で、東京に戻ってきたら、「ヒマなんですよね」「じゃあ飲みに行こうか」という。だから当時は、上野あたりで毎日のように江崎と飲んでたよね。
――となると、当時はFMWの給料だけで生活できていたということなんですかね。
寿浦 いや、若い頃はフランスベッドで仕事はしてた。
――FMWのスポンサーだったフランスベッドの工場に。会社は埼玉にあったんですよね。
寿浦 もともとFMWの若手は合宿所が川越にあったの。フランスベッドもそのへんにあって、みんな交代でアルバイトしてたはず。だから、江崎と酒を飲むようになったのはその合宿所を出て、大森に住むようになってからだね。
――じゃあ、もう大森に住むのは寮とは関係なく、自分の住みたい街が大森だったんですね。
寿浦 そうそう。江崎に関しては、大森に住めるようになったというのは、それなりのギャラをもらえるようになったということだろうし。まあ、飲み代はこっちが払ってたけど。「飲も、飲も」と連れてくのは俺のほうだったから。
――当時、レスラーとしてやっぱり光るものはありました?
寿浦 ドロップキックがキレイだったよ。ただ線が細かったんで、まだ全然メインイベンターという感じではなかったけど。「マスクマンになりたい」という夢は常々言っていた。メキシコに行くというのも含めてね。「顔がいいから、マスクはもったいないよね」「でも、マスクマンがいいんです」と。で、最初はデビルマンになりたいと言ってたの。
――永井豪原作のデビルマンですか(笑)。
寿浦 「それ版権的に無理じゃねえか」という話をしたんだけど、「マスクは絶対だ」とは言ってたね。
――変身願望が強かったんですかね。たしかに顔はいいんでしょうけど、江崎さんが素顔のままで戦っていても、エースへのきっかけとしては弱かったのかもしれないですね。当時、インディに対する風当たりが強かったことも含めて。
寿浦 いまとなってはそうかもね。中身がはっきりわかるマスクマンではあったけど、ひとつのインパクトではあったから。あの手の……たとえばザ・グレート・サスケだったりとか、マスクマンとして帰ってきて脚光を浴びるケースはけっこうあったから、そこも理解していただろうし。サスケは完全な成功例だからね。MASAみちのくじゃ売れなかったよ。
――それに、サスケさんは素顔ではなかなかブレイクはできなかったですよね。
寿浦 うん。マスクのおかげで「サスケっていいよね」という。あと三沢(光晴)くんに憧れていたというのもあっただろうし。
――2代目タイガーマスクだった三沢光晴を。
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