05/09/2020:『Mercy Mercy Me』
夜ご飯用に炊いたお米を、大きめのスマートフォンくらいのサイズに小分けにして5つほど冷凍しておく。家に炊飯器がないから、一度圧力鍋で炊いてしまうと、その日のうちに食べ切るか、冷凍しないといけない。と言うのも、この国で売っているお米は二日目になると食べられたもんじゃなくなるからだ。
「Whoa ah, mercy mercy me」
小さい声で口ずさみながらラップを敷いて、ご飯をそこへ乗せる。近くのスーパーに売っているラップは切りにくくて、油断すると変な形にちぎれてしまうので、神経を尖らせる必要がある。
ちょうどキッチンカウンターに立つと、部屋の奥にある大きな窓ガラスに僕の姿が映し出されて、少し遠いながらも向かい合う構図になる。
「今までとはすっかり様子が変わっちゃったよ。」
と、英語を適当に訳しながら、ガラスの向こうの僕に投げかける。
裏に透けて見える遠くの家々の夜景に被さって僕の顔は見えなかったけど、それでもなんとなく、どんな顔をしているのかぼんやりと考えていた。
救急車が近づいてくる音がして、そしてまた遠ざかっていく。
ラップを畳んで新たに白いご飯の包みを作ると、僕は1つ上に重ねた。
・・・
草原を走るシマウマは太ももがプラズマTVよりも大きくて、その上盛り上がったり筋張ったりと筋肉の動きがすごいから、ただ思わず見入ってしまった。
「綺麗に走るわね。」
と、彼女が言った。僕はベッドの中でフォローしてるアカウントの最新動画を見ていた。
「でも、シマウマって凶暴だから家畜化はできなかったのよね。それもまた1つ、歴史にギャップが生まれた理由の一つだって。」
彼女は僕の腕の中に滑り込むようにして一緒に画面を覗いていたのだが、そのまま僕の方に体を預けながらおでこを胸に埋めた。
人類が誕生した大地、なぜそこは今になっても世界で一番悲しみが多く渦巻いているのか。そんな途方もない疑問を1000ページほどかけて説明した本を読んだことがあった。とてもいい勉強になったことを記憶している。
「でも、今となってみれば、開発が進んだと思っていた地域が実は腐敗した環境に溺れていたり、それを取り巻く人間たちがどんどん汚れていったり、本当のところ何が発展かなんてわからないものね。」
と、彼女は言った。
「量は淘汰され、質は洗練される。」
僕が言うと、
「そして全てはリセットされる。自然に還ることは生まれた時から決まっているから。」
と、返してきた。僕はケータイを脇に投げて、彼女を軽く抱きしめると、
「素敵だなぁ。」
と、言った。
朝の光が手のひらで包んだハムスターみたいに柔らかくて、シーツの匂いと彼女の髪の香りが雪解け水のように聡明な気分を運んできた。
・・・
冷凍庫を開けると、まとめ買いしておいた肉がゴロゴロとこれまた同じようにラップに包まれて保存されていて、角の方にはカップアイスが田舎の郵便ポストみたいにして追いやられていた。
上下二段の仕切りの上の方。空いたスペースに重ねて並べる。明日になればカチコチに凍っているだろう。僕は扉を閉めた。
そして振り返ると、コンロにやかんを乗せてお湯を沸かす。夕方に飲んだお茶のマグカップ。縁に張り付いたままの茶袋を出してゴミ箱へ放った。
彼女が置いていったいくつかの物の中にはシマウマの木彫りがあって、僕はそれをキッチンカウンターの上に置いていた。アイランドキッチンに佇むシマウマは耳から尻尾まで重厚に造られていて、今にも動き出しそうに見える。僕は名前も付けずに、ただ心の中でシマウマと呼んでいた。
「そして全てはリセットされる。」
と、彼女は言った。でも、その時のそれは、あの朝ベッドで彼女が放った開発や発展、自然が持つ大きなサイクルといった意味ではなった。
そして僕らにとってのリセットがどういう意味なのか、そう言われたときは理解ができなかった。そして今でもいまいち理解できないでいる。
やかんの笛が鳴った。火を止めて、僕はマグカップにお湯を注ぐ。
ゆらゆらと湯気が上がって、シマウマがその雲の中で走っていた。
相変わらず奥の窓ガラスに映ったもう一人の自分を見つめても、僕の顔は見えないままで、体だけが映し出されていた。
きっと近づけばはっきり見えるのだろう。でも僕はキッチンから動かずにいて、代わりに草原を駆け回るシマウマの背をゆっくりと指でなぞった。
・・・
今日も等しく夜が来ました。
Marvin Gayeで『Mercy Mercy Me』。