11/07/2020:『I Fall In Love Too Easily』
異国 1
押せば開くと思ったら引き戸だったので、ガラス越しに彼女に笑われてしまった。
1パイントのギネスビールを頼んで、ゆっくり飲み始める。久しぶりに地下鉄に乗ったり、人混みに揉まれたりして、都会を歩く高揚感と独特のリズムによる疲れを感じたので、少し息をつきたかった。大通りから少し西に入ったところのパブ、観光客は少なめで、年齢層も割と高く、落ち着いて過ごせそうな雰囲気だった。真鍮の手すりにもたれ掛かって、ビアタブを端から数える。コの字カウンターの両側に5つ、一番長いところに8つだった。
「寒かったんでしょ。」
僕を迎え入れた彼女はそう声をかけて来た。
夕方になり雨が降り出した街は、偏頭痛が起きるくらい空が低くなってきて、その分冷たい空気も覆い被さるようにして降りてきた。手を擦りながら肩で押し開けようと突進して来た僕は、割と盛大に音を立ててドアから阻まれた。
「うん、今でも鳥肌が立ってる。」
一方の彼女はとても薄着で、裾を短く切ったTシャツに淡い色のジーンズを履いているだけ。ヘソにつけた青いピアスが見えていた。伸ばしっぱなしの直線的な髪を搔き上げると、濃い眉間にエキゾチックな茶色い瞳に僕が映った。
「君はおへそが出てるけど。」
僕はあまりそこを見ないようにしてグラスに口をつけた。
・・・
国 1
彼は私立高校で英語を教えていて、野球部の事務の面倒も見ていた。
「野球ばかりやっていて、be動詞もわからないやつらが、あと一年で社会に出るんだぞ。それか他は大学に行くんだ。それっていいのかよ。」
JRの駅ビルのバーで、その時も僕はギネスビールを飲んでいた。4人席に座っていて、一緒にいた女の子たちはもう帰っていた。最初からどうでもいいと思っていた僕らは、返ってリラックスできた。
「そして、社会に出てお給料をもらって派手に遊んで、コンパで出逢った子と結婚して、生まれた子供はまたbe動詞が分からない。大学に行ったって今と同じように野球ばかりして、そして引退すると盛大に追い出しコンパ。結局はいつか会社に入って、お決まりのコース。またbe動詞がわからないまま社会には人が溢れていく。じゃ、一体何のためにbe動詞を教えなきゃならないんだ。」
彼は小さい顔に長い手足をしていて、いつも涼しげな顔で大学構内を歩いていた。見た目はいまも変わらないけど、なかなかbe動詞を教えることに疲れているようだった。いつからか電子タバコを吸い始めていて、僕はその水蒸気の少し汗臭いような匂いが苦手だった。紙巻タバコの香ばしさが懐かしかった。
「be動詞なんかわからなくても、社会に出たって問題ないさ。だってこの街でbe動詞を使って仕事をしている人間がどれくらいいるんだ。」
「少なくとも俺はbe動詞を使って生きてる。が、何よりも気に入らないのは、」
そこまで言うと僕が後を取った。
「be動詞も使えない人間を信用することができないし、それを受容し循環し続ける社会が許せない。」
少し共感できた。
・・・
異国 2
1パイント・グラスはもう半分ぐらいまで減っていた。窓から見える空は暗くなって来て、店内にいくつもぶら下がっている黄色い電球に明かりがついた。クリーム色にマホガニーっぽい板で内装されている雰囲気にしっかり噛み合っている。
今日、電車に乗っていたら、老婦人に声をかけられた。シルバーヘアを短くまとめ、厚手のPコートを着ていた。彼女は日本に来たことがあるらしく、その時の話をしてくれた。
「あれは新婚旅行の時だったわ。その時もすでに日本は発展していたけど、まだ所々に荒廃が残っていて、それらすべてがこれから無くなっていくんだと思うと、複雑な気持ちになった記憶があるの。」
この国はまだ違った。今の時代になっても、電車が停まった駅の壁にはたくさん落書きがされていて、ビルの裏のダフトからは生ぬるい空気が白くもくもくと排出されていた。
「ここは何百年も前から日本より発展していたはずなのに、どうしてこんなにもまだ荒廃が残っているんですか。」
彼女は僕が見ている方向を見た。
「空が暗いからじゃないかしら。今日は雪が降るわね、きっと。」
彼女はそう言うと、小分けにされたビスケットをくれた。
「だから、私たちは小さな頃から家に籠って色々な事を家族で楽しむのよ。ビスケットを焼くのが上手なのも、そのおかげ。」
といって、降りていった。
ここまで思い出すと、僕はタバコを吸いにグラスを持って外へ出た。
・・・
国 2
彼とは終電の一つ前の時間で別れた。明日も授業があるらしい。かつて世界へと散りばめられ、身振り手振りで教えを説いた宣教師のように、彼は明日もbe動詞を広めていくのだ。
僕は自分のアパートへ戻ると、紅茶を淹れてスタンドライトを点けた。電球の上に和紙の筒が被せてあるデザインは、部屋をぼんやりと照らしてくれる。ラップトップに接続されたスピーカーから適当に音楽を流す。
線の細い歌声、しかしbe動詞は完璧に使いこなしていた。
同じ世界に住んでいるのに、今すれ違った人や隣の席に座っている人のことを僕らは全く知らない。毎朝コーヒーを買うコンビニのベトナム人のことだって、居酒屋の大将のことだって、かなりの頻度で挨拶をして声を聞いているにも関わらず、僕は彼らことを知らない。顔や声や髪型や体型はハッキリとイメージできるのに、それ以外は全く持って不明瞭だ。今日一緒に飲んでいた女の子たちだって、グロスの色や何となくの胸の大きさは覚えているのに、きっともう二度と会うことはないのだろう。僕の世界はそのほとんどの部分が知らない人たちで成り立っていて、彼らが僕の大部分を支えてくれている。
「誰かがやらなければいけない仕事なんですよ。」
という話以前のレベルで、僕が知らない人たちは僕の世界を形作っている。
be動詞のことなんかそのまま丸めて水洗トイレに流したっていい。
でも、be動詞で悩んでいる彼は、僕の世界の知らない側にいる人間ではなく、こちら側で長いこと共に生きてきた存在だ。
それなのに、なぜ今、僕は無数の知らない人たちに向けてこんなにも優しく、親しみを持って考えを巡らせているのだろう。
知らない人たちとbe動詞を繋げ活用させながら、僕は世界の樹形図を下へ下へと辿っていった。
・・・
異国 3
パブの外側の壁にはドリンクを置けるように胸の高さに板が渡してある。行き交う人たちはコートのポケットに手を入れたり、鼻までマフラーをぐるぐる巻きにしたりして、寒空の下を歩いていた。
僕はギネスビールとは合わないかもしれないけど、ポケットからビスケットを取り出して、一枚食べた。彼女が子供の頃から鍛錬を積み重ねて来た行為、その一端を垣間見ることができた。
分厚い雲が覆う夜空は、街の灯りに照らされて少しグレーがかって見えた。街灯の灯りがぼんやりと目に入ると、雪が降っていることに気がついた。積もるほどでもない程度の雪は、アスファルトを濡らしては溶け、なくなっていく。
荒廃を残した街の流れに冷たい風が吹いて、黄色く光るパブの窓ガラスが曇りだす。
僕はグラスを持って店に戻ることにした。ガラス越しにおへその子と目が合う。
今度は間違えずに引き戸に手をかけた。
知らない人たちの熱気が僕を包み込んだ。
彼女の青いピアスが知らない世界で揺れていた。
・・・
今夜も等しく夜が来ました。
1人の時間が増えると、何となく共感できます。
Chet Baker で『I Fall In Love Too Easily』。