私たちは愛と資本主義の中に生きている
「会の人が家族主義者になってたよ」
玄関で靴を脱ぎながら相方に声をかける。玄関からはキッチンにいる相方の後姿が見える。
「マジで?」
相方はわたしに背を向けたまま大声を出した。料理は相方の趣味だ。今どき本物の食材を調理して食べるというのは、なんとも優雅な趣味である。公家めいていると言うか、相方の育ちのよさが現れている。相方は料理の騒音で言葉が聞こえなくなると思っているのか、張りのある声をさらに大きくしている。たしかに食材の焼ける音はやかましい。料理を知らない人が聞いたら、なんの騒音かと訝しがることだろう。
「手伝おうか?」
「じゃあ、皿だけ出して」
わたしは棚から白くて丸い皿を出して、待機した。そして、話を続けた。
「家族は大事なんだって。生物には核(コア)になる継続的な居場所が必要なんだって」
相方の隣に皿を置くと相方はフライパンの中身を威勢良く皿にこぼした。汁がじゅうじゅういって跳ねる。ムール貝の酒蒸しだ。わたしの給料では本物に追いつかないので、人造ではあるが。
「それはそうかもね」
「で、そのコアとして家族が必要なんだってさ。少なくとも家族的共同体が」
貝から溢れ出した熱い汁を、白いお皿が受け止める。白いお皿はすべすべして、ちょっと彼女の吸盤みたいだ。わたしは熱くなった皿をテーブルへ運んだ。
「ふむふむ」
相方は相槌をうちながら、パン(マニアしか使わない古式ゆかしい鉄製調理器具!)を洗浄ポッドに入れた。それから、牛テールスープの素に万能肉を入れて、お湯を注いだ。インスタントサラダとポテト、人造生牡蠣は盛り付け済みだった。
「政府があてにならない以上、家族とか中間共同体が大切なんだって」
わたしはダイニングの椅子に腰掛けて、相方を待つ。
「そんなにうまく行くかな?」
相方はそう言いながらお盆でわたしと自分のスープ腕を運んできた。古式調理はけっこうな量の熱を発する。相方の赤い肌は、暑さでさらに赤くなっているように見える。相方は一度キッチンに折り返すと、またすぐに戻ってきてわたしの向かいに座った。お楽しみの夕食タイムだ。
「家族とうまくいかないうちだっていっぱいあるのにね」
わたしはそう言って、天然酵母パンをちぎった。一口食べてから話を続ける。
「まあ、家族というのは比喩だろうけど。長期にわたって所属する共同体が必要ということかな」
牛テールスープには合成牛肉と合成万能肉が入り混じって浮かんでいる。二つは価格も違うし、はっきり味が違う。わたしは両方から出汁の出たスープを啜った。
夕食後、二人で睡眠ポッドに入り、ふちの薄いブランケットを被っていた。相方は隣でWebテキストを読んでいる。
「結婚式に誘われた」
相方はテキストから目を離さなかったが、返事はしてくれた。
「誰の?」
「夕飯のときに話した共同体主義者」
相方の視線が動かなくなった。最後までページをスクロールしたらしい。でも、視線はまだWebの方を向いている。
「未婚だったの?」
「いや、結婚式を挙げ直すんだって」
わたしは指で相方のほっぺをつついた。
「結婚したい?」
わたしは相方がそう言わないかと思っていた。正確には言ってくれないかと三分の一思い、言わないだろうと三分の一思い、言わない方が良いだろうと三分の一思っていた。
「結婚したい?」
相方が聞かないので、代わりにこちらから相方に尋ねてみた。
相方はようやく大きな丸い頭をこちらに向けた。そして、わたしの言ったことをオウム返しに返した。
「結婚したい?」
そして、さらにダメ押しのようにもう一度繰り返した。
「ユカは結婚したい?」
相方はこういう返しがうまい。ほれぼれする。少し安心して、わたしはちょっと考える。そして、答える。
「いや……わかんないな」
相方の小さくて丸い目はこちらを覗き込んでいる。相方はこういうときまっすぐ目を見て話す。
「そうだね……家族がついてこないなら、したいかな」
彼女はちょっと驚いてから大きく笑った。小さな目の中の黒目が見えなくなった。
「それはいいね」
相方はひとしきり笑ってから、わたしのほほをつついた。そして、「ユカはやさしいね」と顔の真ん中をわたしにそっと当てた。そこは生暖かく湿っていた。わたしはあなたの方がやさしい、と小さく呟いて相方の頭を撫でた。相方の肌は磁器のようにすべすべとしていた。でも、わたしより水分の多い肌は磁器よりもしっとりとやわらかかった。
サークルに行くと、「共同体さん」から声をかけられた。サークルの「溜まり場」は古い雑居ビルの二階にある。古参メンバーの仕事用の事務所の会議室を借りている。打ち合わせに使う事務テーブルは細長い楕円形だ。机の周りに椅子が八つある。溜まり場にはまだわたししか来ていなかった。わたしは会議用のテーブルで読書をしていた。
「何、読んでるの?」
突然、着いたばかりの共同体さんに声をかけられた。共同体さんは、席を一つ空けて、わたしの左隣のその隣に座った。わたしの斜め向かいの席だ。
「今日は、早いですね」
わたしはそれとなく話を変えた。なんとなくあまり話したくなかった。
「僕にしては珍しく商談が早く終わって。向こうのご機嫌がよくてラッキーだったよ」
「共同体さんは優秀ですから」と言う気にはならなかった。彼が優秀なビジネスパーソンなのはみんな知っている。これが共同体さんでなく、他の人なら「ご謙遜ですね」くらいは言ったかもしれない。でも、今のわたしは言う気にならなかった。わたしは「良かったですね」とだけ答えた。
「日本の古典? いつも熱心だね。頭が下がるよ」
共同体さんは話を元に戻した。わたしが避けているのには気づかなかったのだろうか。(気づかなくてもしかたのない返事ではあったが)止むを得ずわたしは答えた。
「枕草子です」
「枕草子? ぼくはまだ読んだことがない。いつ頃の話なんだい」
「平安です。江戸よりもずっと前ですね」
「すごいな。そういうのは図書館にアーカイブされてるの。何か日本について新しい発見はある?」
「現代や近代の日本とはまったく違う世界ですね」
「家族とか」という言葉をわたしは押さえつけて、声に出さなかった。
「例えばどんな?」
どんな? わたしは逃げ道を思いつかなかった。(実はそれだけ「家族」のことが気になっていた)
「そうですね。当時は一夫一婦制ではありませんでした。通い婚が主流です。妻の家が夫の家と別にあって、夫はそちらに通うのです」
「へぇ、結婚の継続は二人の意思次第なの?」
二人の「自由意思」。なんとなく嫌な方向に行く予感がして、警戒心が高まった。
「いえ、一族の繁栄のために結婚するのはもちろんあります。そうした結婚に事実上の夫婦関係がどれくらいあったかはわかりませんが。夫が妻を自分の家に住まわせて、囲い込むこともあったようです」
彼は肘をついてあごに手を当てた。あごはきれいにひげがそられている。人差し指を動かして、何か確認するかのようにあごを触っている。
「経済的に裕福でない方は、お金のある方の言うことを聞かねばならないということ?」
話がずれてくる気がした。さっきまで話したくなかったのだが、話がずれていくとなるとそれはそれで嫌な気がした。
「そうですね。いつの時代もそうなんでしょう。結婚なしでの恋愛関係はもっと自由だったそうです」
「残念な話だね」
あなたの結婚はどう違うの? それとも残念なのは自由恋愛?
耳にかかっていたわたしの髪はいつのまにか頬の傍にたれていた。わたしの嫌味は頬骨のところに張り付いて発せられなかった。
「結婚式いつでしたっけ?」
どう言ったらいいのかわからなかった。時間が少し止められればいいのだけど。
「○月○日だよ。来れそうかい?」
「パートナーの予定がわからなくって」
これは本当だった。わたしは机に肘をつけて、体を少し前に傾けた。首も少し傾き、共同体さんからほんの少し視線が逸れた。自分の前髪が眉のあたりにかかっているのがわかった。
「ぜひ来てほしいな。お相手は火星の人だっけ」
顔を上げて再び視線を戻したが、相手の顔は見えなかった。自分のことばかりが気にかかる。
「そうです」
わたしは平静を装おうとした、あるいは、自分が平静であると信じていた。
他国からの移民が地元民のパートナーを得る。それは、それだけで、階層の上昇を意味する。
「パートナーさんは地球出身ですか」
「どうかな? 人型ではあるけど。地球以外の血も入った新猿種(ネオサピエンス)さ」
これは彼のブラックジョークだ。地球人というより、人型生物全般を劣等種とみなす偏見は根強い。ヒューマン•パワーとか新猿種と言われたのも今は昔だ。
「差し支えなければ。パートナーさんとはどこでお知り合いに?」
「見合だよ。知人がいい人がいるからと紹介してくれた。古くさいだろう?」
「いい人が見つかるならどんな方法でもいいですよ」
わたしの肩が少し緩み、胸に空気が入った。わたしの胸と背中は空気を含んで、少しだけ丸まった。
「ありがとう。いい生物だよ。生まれかわってもまた結婚したい」
わたしは同じように言えるか自信がない。出会ったその場で出会ったその人を好きになってしまう気もする。
「結婚式はその証ですか」
彼はわたしよりいくぶんまつ毛が長いし、眉もわたしより濃い。眉間に力がはいっているのか、ゆるい弧のようなしわが出ている。
「うん。だいたいそう」
彼はテーブルに肘をついた。胸が机に近づき、首が均衡を保つように少しうしろに傾いた。
「誓い直しというのかな。いっしょに生きて行くための」
「こんな人間によくついて来てくれたよ」、と彼は言った。ご謙遜を。人型種のエリートじゃないですか。当たりくじですよ。わたしはそう思ったが、言わなかった。何かの裏返しではなく、素直に言いたくなかった。
「珍しい二人が早いね」
他の会員が到着した。やって来た彼はするりと椅子に座った。共同体さんの向い、席を一つ空けて、わたしの右隣のその隣だ。三角形ができる。いつも通りでない空間の秩序は作られかけて、あっさり壊れた。そして、いつもの空間が回復した。
「今日のテーマはなんだっけ?」
三人目の山田さんが問う。
山田さんのもたらしたものはわたしにとって、少し残念であり、少しほっとする変化だったように思われる。親密になりすぎてはいけない。短い時間なら不思議な体験で終わらせることができる。
わたしの相方は火星の中でも上流階級の生物である。そうした生物にありがちなように、彼女は芸術とかいうよくわからないものにうつつを抜かしている。いや、よくわからないものというのは言葉が足りないかもしれない。正確にはどうやったらお金になるかよくわからないものだ。芸術自体はわたしもけっこう好きである。
火星にはもともと知的生物はいなかったとされている。(それが本当かどうかはわからない)火星人たちは最初に火星に植民した生物の子孫である。
帰ると、家の中は少し蒸し暑かった。彼女はわたしにとって暑いくらいの温度と湿度が好きなのだ。
「○月○日空いてる?」
彼女はわたしに斜めに背を向けて作業していた。丸い横顔が少し見える。彼女の背中の後ろの空間が妙に広く感じた。
「おかえり。空いてるよ。なんで?」
彼女はこちらを見ず、エアモニターの確認ため頭を左右に動かした。同じ肩の上に乗った顔なのに、顔の見える範囲が大きくなったり、小さくなったりした。
「例の人の結婚式行こうか」
「いいよ。気が変わったの?」
彼女が振り返る。肩の上で赤い顔が揺れる。
「うん」
彼女はまぶたのない目でこちらを見る。わたしより丸い輪郭はわたしよりずっとやわらかそうだ。彼女を好きになったとき、彼女の小さな目が好きだと思った。
受付に行くと、本人たちが出迎えて挨拶をしてくれた。
「いらっしゃい」
パートナーは人間型だった。骨太で肩や体幹がしっかりしている。わたしや彼よりも肌が赤黒く、目が大きかった。
「素敵ですね。これが和服の再現ですか?」
「うん。時代考証はあまりに複雑だから、それっぽくしただけなんだけど。まぁ、現代版民族衣装か」
彼のパートナーさんは何も言わずにニコニコしている。わたしの相方も黙ってわたしたちの会話を聞いている。
「こちらがわたしのパートナーです」
わたしは相方を表舞台に引っ張りあげた。彼女はこんにちは、と卒なく笑った。上流階級の笑顔だった。 彼女は紹介され慣れている。きっと子供の頃からいろんなイベントやパーティーで「こちらスプークトさんのお嬢さん」と言われてきたのだ。
それに応えて彼も紹介した。「こちら『妻の』シャシ。僕の最良のパートナーだ」
「こんにちは、よろしく」と「日本語」で応える「妻さん」をわたしはつい凝視した。人型としては大柄だが、大人しそうな印象だった。でも、それはわたしの偏見かもしれない。
妻さんの目は大きくてグリグリしている。目が大きいせいか眼球があちこち忙しなく動き、ときおり下を向くのがよくわかる。それで気づいた。あ、怯えた動物か。何かに似ていると思ったら。飼い主の顔色を伺うあれだ。もちろん、思っただけで、「妻さん」が本当にそう思っているかはわからない。
わたしの彼女は感情をあらわにしない笑顔で、スマートな会話を続けている。彼女は顔をかすかに傾むけている。正面から相手を見つめすぎない。相手に無意識に威圧感を与えないための体勢だ。それがごく自然に見えるほど身体化している。彼女は視線をときおり外しながら、声は朗々とはっきり出す。ときどき視線を外すのは相手の関心をこちらに惹きつけるためだ。声も一直線に発音してはいけない。抑揚をつけて、物腰柔らかに、優雅に、でもバカではないと示さなくてはならない。わたしはそのふるまいを喜んだし、彼女を誇りに思った。
「日本語でなくていいですよ」
わたしが火星標準語で話しかけると、彼女は笑って「ありがとう」と火星標準語で返した。この妻さんは日本語で挨拶をさせられることに疑問を感じていないのだろうな。むろん、わたしの共同体さんへのイメージは偏見に満ちている。妻さんにもその偏見が適用されている。
「出身はどちらですか?」
彼女が応えたが、わたしはその星を知らなかった。
「二人で星に帰られたりするんですか?」
わたしが尋ねると「ときどき」とだけ彼女は答えた。そして笑った。
火星標準語がわからないわけでもないだろうにどうしてこんなそっけない回答なんだろう。いや、もしかして本当に火星標準語が不得手なのだろうか?
わたしより彼女の方が背が高いせいか、わたしを見下ろす目は伏し目がちに見える。共同体さんがやり手らしい決断力で妻さんをリードするのが見える気がした。嫌な想像だった。
「これはどうだい?」「いいですわね、あなた」「こっちはどうだい?」「それもステキですわね、あなた」
妻さんに自分の意思がないなどというのは失礼極まりない想像だろう。本人が聞いたらきっと怒り出す。
「実は君以外の女性と関係を持った」
「浮気は男性の甲斐性ですから」
「ありがとう。君に嘘はつきたくなかった」
「正直に言ってくれてありがとう。うれしいです」
さすがにこれはないだろう。スポーツマンシップというか、規則と公平性を重んじる人だ。
「ぼくは一生浮気をしない。きみもしないね?」
「はい」
「したらどうなるか……覚悟はできているね?」
「はい」
「なら、いい。さすが僕の妻だ。愛してる」
うん、こちらの方がありそうだ。
わたしは彼女に問う。
「高橋さん、あなたのことがよほど好きなんですね。大事にされている感じがします」
妻さんは笑った。あいかわらず伏し目がちだったけれど、頬の筋肉がぷっくりと盛り上がった。微笑がはっきりした笑顔になった。けれど、それはすぐに微笑に戻った。わたしはその笑顔が本物かどうかはよくわからなかった。(笑顔に本物とか偽物とかあるのだろうか?)
わたしの彼女は共同体さんから、われわれの故郷「日本」の話を聞き出している。わたしが生まれた頃にも、共同体さんが生まれたころにも、もう既に日本は存在していなかったが。
話を止める潮時だろう。次の客もやってきた。わたしたちは会場となる部屋へ向かった。
一つの四角い部屋の中に受付も挙式セットもすべてが設置されている。入口から縦長の部屋に入ると、左手に受付がある。受付で署名のために背中を丸めると、何か乾いたスベスベしたものが髪をかすった。薄くて軽いのに、それは妙に頑丈だった。受付脇の造花は、わたしの頬骨の辺りを下から上へと削ぐように滑った。
造花は堂々たる白い花瓶に入っている。飾られているのは桜の枝だ。桜の花びらは白地に薄くほんのりしたピンク色がついている。中央の花芯ほどピンクが濃く、外に行くほど白く薄い。
わたしたちは受付を済ませて、部屋の奥の座席に向かった。
「いい人でしょ?」
わたしは相方に尋ねた。彼女は笑った。
「そうね。キビキビしてしっかりした感じの人ね」
「でしょ?」
わたしは自分の言葉が通じる相手がいることを喜んだ。
部屋の奥は移動型パーテーションで仕切られている。仕切りの中が挙式スペースのようだ。
仕切りの奥には入口に向いた演説台のようなものがある。入口から演説台へは一本の道が伸びている。その道の終着点に演説台がある。道は並んだ長椅子によって形作られている。長椅子は中央の道となる部分を空けて、左右に一脚ずつ並んでいる。長椅子は位置を逸らすこともなく、すべてきれいに演説台の方を向いている。その向きでいるのが当然とでもいうようだった。
白いパーテーションの上方から、部屋全体に、桜の造花が吊り下げられている。壁が白いので、部屋自体が白々と明るい。桜の花芯は、昼間についた祭りの豆電球のように、そっとその紅さを主張している。花芯の紅色は、外側に行くに連れ薄桃色になり、花弁の輪郭ではほとんど白に近くなる。ぼんやり見ていると壁の白さに溶け込むようだが、よく見ると花弁の縁で仄かな紅が断ち切られるのがわかる。
桜の造花は冠のようであった。この部屋を区切り、締め付ける冠。白い箱は決して狭い感じはしないのだけど、桜に覆われ、閉じ込められている気になる。
わたしと彼女は通路に一歩踏み込んで、すぐに脇の椅子に避ける。
「地球式はどう?」
相方に聞いた。
「ぜんぜんわからないから、おもしろいわ」
うん。そうだね。わたしにもぜんぜんわからない。
挙式が始まった。二人が演説台の上に立って詩を読みあげる。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔の生すまで
日本が存在したころ、この詩は数十年に渡って国歌だったという。自分のことは一言も述べない、相手を讃えるだけの愛の歌。
この二人にはぴったりかもしれない。愛と尊敬しかささやかない二人。崇高な理念で結びついた上昇志向の二人。説教する彼のイメージが湧いて出た。
「ぼくだって愚痴くらい言いますよ」彼はそう言う。でも、彼の言葉の後ろには本当は「でもね……」と続いている。省略されているだけだ。「でも」や「だって」は存在すら許してもらえない。
愚痴も弱みもない。二人は正しい方向を見て、前を向いて生きて行く。「最後は前向きに行こう」と、わたしはまだ言えない。わたしの最後はまだ来ていないからだ。
ふいに、彼女を好きになった日のことを思い出す。「家族の話はしないで」と彼女が怒りを露わにした瞬間。その時からわたしは自分の恋心を認めざるをえなくなった。
お金持ちの家庭。火星の上流階級。つやつやした赤く湿った肌、小さくて黒目がちな目、先端の少し丸い柔らかい腕と、濁りのない白い吸盤。ハキハキとした発言。気の利いたジョーク。……完璧すぎて苦手だった。でも、好きだった。
授業が終わって、わたしたちはランチタイムのテーブルにいた。彼女を中心に輪ができていた。わたしがそばにいる理由はたいしてなかった。が、「まあ、せっかく学校に来たから学校の人と交流しようか」とくらいに思っていた。今日の教育でリアルミーティングの授業は少ない。
誰か一人が彼女を褒め出した。それが誰だったかは覚えていない。半分は本当の賞賛、半分は妬みのように聞こえた。
「コートさんは歌も踊りもこどものころからやってるんでしょ。美術館とか博物館とか劇場にもこどものころから行ってたの?」彼女はええ、と短く答えた。
「だからそんなによくわかるんだー。わたしは年をとってから始めたからよくわからなくって。家族みんなで観に行ったりとか?」
そういうときもあったね、と彼女は返す。赤い頬の動きは小さい。
「いいねー。うちの家族はそういうのぜんぜんダメで。歌も踊りも後から練習したの。いいねー、そういうお家」
それはありふれた光景だった。語り手はこの後、いかに自分がついていなかったを話し、いくばくかの援助を請う。
わたしはこの段階で直接のせびりまではいかないだろうと思っていた。また、金持ちがこの種のせびりに慣れていないはずがないとも思っていた。
「恵まれた家だったわ。だから、その話はしたくないの!」
それは今までの流れにふさわしくない唐突な怒りの発露だった。なんで急に、なんでそんなに、と言いたくなるような怒り方だった。
相手方は目を開いて彼女を見つめたあと、一瞬下を向いて、それから上目遣いになった。
「ごめんね」
と相手方は言った。鼻から喉にかけて異物が張り付いたかのようだった。濁って、イガイガして、聞き取り辛い声だった。
「いいわよ。もうしないで」
彼女は威圧的に言った。その様子は板についていた。まるで、王侯貴族が気に入らない家臣に命じるみたいだった。
彼女の触手の先は何かを弄ぶように左右に振られている。それはムチの動きにも似ていた。相手方の触手は驚いて縮こまり、動かずにいる。
これが金持ちというものか、わたしは素直に驚いた。
「わたし、悪いけど今日は帰るわ」
彼女はそう言って席を立った。
わたしは「あなたたちもこんな生物置いてついてらっしゃい」と言われそうな気がした。(もちろん言われなかった)
彼女は長い足を滑らせ、颯爽と去って行った。
彼女が去った後は嫌な空気が残った。何が罪なのか、何が問題なのか、曖昧なままお互いの顔色を探り合う。相手の方を見るが、顔が上がらない。視線は合うのに目が向き合わないような、横から下から探り合うような目つき。
わたしは正直、彼女の振る舞いを大人気ないと思った。
もちろん悪いのは相手方である。でも、そんなに怒らなくたって……と思ってしまった。それは金持ちが金持ちであることに対するわたしの逆恨みだ。そして、わたしの中にある金持ちへの憧れでもあった。颯爽と去って行く彼女は、確かに、洗練されていた。怒りはむしろその優雅さを引き立てていた。この人にはこうする権利があるとでも言うように。
わたしは周りの顔色を伺った。が、周りが彼女と相手方のどちらをどれくらい悪いと思っているかは読み取れなかった。
いずれにせよ、恋の準備は整った。「彼女は家族と上手くいっていない」その醜さはわたしにとっての天啓だった。彼女がわたしのところに降りてきた。もう、わたしは彼女を避ける理由がなかった。
家を出てからの彼女は、少し顔色が悪くなった。それは単に加齢のせいかもしれない。あるいは不規則な食事や生活が祟っているのかもしれない。
彼女とわたしは二人の信用貨幣(クレジット)を合わせて暮らしている。わたしは某金融機関につとめ、彼女はフリーの情報デザイナーとして働いている。二人合わせれば、そこそこの暮らしだと思う。中流か中流の上くらいではあると思う。でも、大金持ちではないのだ。
ある日、彼女に聞いてみた。 なんで家が嫌なの?
彼女は四本の触手の先を弄ぶようにしならせた。
「……なんかさー、平等なふりすんのも、謝るのも嫌になったんだよね」
腕のうち二本は空で円を描いている。何かを混ぜ合わせて、うやむやにするみたいに。
「みんな平等なわけないじゃん。全員違うとこから始めるのに。それなのに、できるとかできないとか勝ったとか負けたとか。馬鹿みたいだよ」
彼女はめったに馬鹿という言葉を使わない。冗談でもだ。彼女といっしょになってから、わたしも馬鹿とは言わなくなった。
「平等なふりするのも、恵まれてるって言われるのも疲れた。馬鹿馬鹿しいよ。もったいないとか、せっかくとか言われるのも疲れた。馬鹿みたい。気持ちはわからなくもないけど、そんなところに行きたくない。息苦しくて、重たくて、それこそ自分が馬鹿な気がしてくる」
今まで聞いたことのない馬鹿の洪水だった。お嬢様は悪口を他に知らないのかもしれない。わたしは本当にお嬢様なのだと妙に感心した。
わたしの家族はあまり裕福ではなかったが、家族はわたしが「立身出世」するようにと骨を折ってくれた。高等教育を受けたのは移民の子の大出世だ。わたし自身も金持ちになりたかった。親の期待はプレッシャーだったけど、それを上回って自分が金持ちになりたいと思っていた。自分は金に汚い方ではないと思う。が、彼女のようにお金に無頓着ではいられない。
わたしは彼女が好きだ。彼女が好きなのは、彼女が「世界は不平等だ」と叫び続けるからだ。こどものように。
そう、世界は不平等だ。不平等なのに、平等なフリをしてレースをする人間は嫌いだ。母はなかなか医者に行かなかった。胃が飛び出しそうなほど激しく吐き、痙攣し、それでも医者に行けなかった。わたしはあのときの恐怖を忘れていない。
でも、わたしはそれをうやむやにしてレースに乗った。レースに乗らなきゃお金は手に入らなかった。お嬢様はこどものように怒る。それはお嬢様の特権だ。わたしはお金でそのお嬢様の特権を愛し、支えることができる。
彼女はときどき「食べさせてもらって申し訳ない」と言った。わたしはそういう言い方が嫌いだった。わたしは親の金と奨学金で食わせてもらってここまで来たのだ。心から感謝している。他人のお金でここまで来た。でも、わたしは卑屈にはなりたくなかった。そして、ない者にはある者に卑屈になってほしくなかった。わたしは本気で怒った。今では彼女はあまりそう言わなくなった。
彼女のもう二本の腕の先は振り子のようにゆらゆらゆれている。
攪拌するか漂うか、迷って彼女は前者を選んだのだろう。彼女はかき混ぜたいし、めちゃくちゃにしたい。
でも、引っ掻き回しながら、彼女は今でも世界に思いを残しているのかもしれない。わたしの知らない世界、漂うための懐かしい世界がきっとずっと彼女の中にある。
壇上の二人は、いや、共同体さんが皆様へのお礼を述べている。早口でもないのに声はミサイルのようにわたしの頬をかすめる。明るいのに重苦しく、主張に溢れた「ユーモア」が壁にぶつかって消える。(あるいは、重たいユーモアはわたしをかすめているのではなく、貫通しているのかも。むしろわたしの内部で爆発、破壊している?)
白くてささやかに飾られた空間。かすみそうな淡い桃色に縁どられて、屋根も壁もある箱の中。小さな四角の中でのアイデンティティのお祝い。きっとそれは喜ばしいことのはずだ。
「大丈夫?」
相方がわたしにこっそり声をかけてきた。
「何が?」
わたしは返した。相方は心配して続ける。
「具合悪そう」
「そう見える?」
「うん」
相方の黒い目が赤い肌の下で瞬く。
「大丈夫だよ」
「外に行く?」
外か。この箱の外は庭になっていた。外は緑の芝が植えられていて、地球風のしつらえになっている。(わたしも本物の地球には行ったことがないが)
「大丈夫。でも、あとで外行こうか」
わたしは答えて、彼女と外に出る自分を想像した。
小さくて窮屈な箱、ぬくぬくとしたやわらかい外壁。今結婚式をあげている二人は家に入ったり出たりできるだろう。わたしは家を持たないので、外にいるしかない。でも、だから不幸かというとそうでもない。わたしには彼女がいる。わたしには家に入らずにここまで来たというプライドがある。
彼女とわたしは以前に別の地球式庭園を歩いていたことがあった。たまたま人工雨の景観を楽しむイベントがあった。二人であずまやから雨に触れた。あずまやは壁のない屋根だけの簡素な小屋だ。あずまやから二人で手を伸ばして雨を触り、雨粒をたがいの頬にすりつけた。雨は思いもかけず、あたたかった。
そうだった。わたしには彼女がいる。
彼女を好きになったとき、わたしは彼女のつやつや光る火のような肌に触りたかった。彼女の白い吸盤がわたしに触れてくれないかと思った。
いっしょに出かけ、食事をし、同じベッドで眠れたらと思っていた。
夢の中の雨は、いつも本当には冷たくない。生ぬるい湿った空気の中で、わたしと彼女は夢を見ている。 現実はときどきしんどい。でも、彼女の夢はたいていあたたかい。
わたしは彼女の赤い触手を握る。頭の下の方にある目。黒くてツヤツヤした瞳。白目のない柔らかくて湿っている黒い球体。
愛してる。これが夢ならいいのに。わたしの持っているありったけの愛とお金をあなたにあげる。ぜんぶぜんぶ、あなたにあげる。
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