被愛妄想
両腕に力を入れる。
「もっと、強く、締めて」
美衣が言う。
「これでは死ねない」
ありったけの力を振り絞って長いコードを、後ろから薬で眠らせた美衣(めぐり)の細い首にかけ正面で一度、交差させてから、更に強く締める。
もっと、力を込めろ。
誰かが僕に命じて来る。これは、運命だ! たじろぐな。彼女が事務所に抹殺される前に、世界で一番彼女のことを愛している僕がやるんだ。
美衣、君を、一番愛しているのは僕だ。
「美衣。美衣。美衣。美衣」
涙が溢れ出る。
「こうするしか、なかったんだ。僕と君を終わらせるには」
僕は、シンガーソングライター小倉美衣の死体を抱きしめる。
まだ温かい。その温もりが、恐ろしくて僕は美衣の死体から慌てて両手を放す。
バランスを失った、美しい死体がゴロンと重く転がった。
さっきまで、生きていた美衣を冷たい死体にしたのは僕だ。ああ、忘れていた、警察に、電話を掛けないと。いったい、なんと言えばいい?
四十歳の無職の冴えない僕が、二十年以上密かに交際を続けていた歌手の小倉美衣を殺しましたと、それだけ、言えばいいのか。
誰が信じるんだ。
そんな滑稽な話を。この年になっても、家の離れに住み、親の脛を齧っている、無職無収入の中年男、それが僕だった。
美衣がこんな僕を好いていてくれたから、僕たちは二十年以上繋がっていたんだ。
「彼女の後を追え」
誰かが僕に囁く。
人は殺せても、自殺する勇気はない、それが、僕だった。警察には、明日、自首しよう。急に死体は腐らない。
そう、思ったら気が軽くなりとりあえず、離れの鍵を閉めて母屋に晩飯を食いに行くことにした。
美衣の歌う歌は全て僕へのメッセージだった。
美衣はバックに大きい組織のいる、所謂、ヤクザ絡みの事務所に所属している。
それに耐えられなかったのか、美衣は時々、脱走していた。
美衣の作る歌詞は、
「ここを飛び出したい」
「早くここから連れ出して」
「自由を手に入れたい」
「私が還るのはあなたのところ」
全ての歌詞は愛する僕へのメッセージに溢れていた。脱走を図ろうとしては、連れ戻され、また、無理やり歌わされるのが美衣の毎日だった。
とりあえず、一晩、美衣と一緒に過ごす事にした。
美衣に毛布を掛けた。寒かったら、言ってくれ、愛する美衣。警察には明日電話しよう。
僕が美衣を殺したんだ。だから、今夜だけ美衣は僕だけのものだ。
気が付けば僕は取調室にいた。何かが有った気がする、そうだ、僕は美衣を絞め殺して自首しに来ているのだ。
美衣の身体は、もう焼かれてしまったのだろうか。
美衣の鎖骨が欲しかった。
僕はぼんやりと思った。
「だからね、小倉美衣さんは今日も元気でTVで歌っていますよ」
何を言っているのだろうか、この若い刑事は。
「違います。それは偽物の小倉美衣です。美衣は僕が殺しました。そして、彼女もそれを望んでいた」
僕は言った。この刑事の僕を見る目は何だ。
「二十年以上も愛しあっていたんだ、美衣は芸能界から逃げたがっていた。僕は美衣を助けたかった。でも、連れ戻されては監禁される可能性が高い。だから、美衣を殺したんです。殺してくれと頼まれた。そして、今、自首をしに、ここに来ている。今は悔いている」
「長野さん」
若い方の刑事が年配の刑事に向かって言った。
「彼の言っている、美衣の死体って? 」
「あのマネキン人形の事だ。通信販売でも数千円で手に入る」
「全て単なる彼の妄想です。死体もないし、当の小倉美衣さんはTVで歌っていますよ。部屋にはマネキンが転がっていただけだ。あの、二十歳の時から、歌手の小倉美衣と恋愛関係にあったというのは? 」
「あったようだ。空想の世界でだけだが」
「被愛妄想ってやつですか」
「案外な沢山いるんだ、こういう奴が、何十年間も空想の中だけで、恋愛をし、果ては本当に殺しちまう。マネキン人形を恋人だと疑わずにな。今回は良かったよ、細い釣り用のテグスがマネキンの首に巻きついていただけだ。統合失調症だ。間違いない」
「統合失調症なら、病院送りですか」
「仕方ないだろう」
声が聞こえる。
「お前はこの恋に取り憑かれたまま、死んでいくのだ」
誰だ? 大天使ミカエルか? そうだろう?
「この男は命の最後の瞬間まで、最愛の小倉美衣。自分を彼女を殺した、自身を呪い恨みながら」