見出し画像

魔法物語 竜の大地 No.29

 タイファを呑み込んだ巨竜はゆっくりと首をもたげ、明けぬ空に向かって吼えた。
 だが声にはならなかった。巨竜の大きさと、それを構築する物質の性質のため、声であるべき振動は、人の耳には聞き取ることのできない低い音だった。
 ただ、世界を震わせた。届く限りのすべてを、押し殺した声のように共鳴させた。
 なにもかもが震え、揺れた。固いものはカタカタと音をたてた。
 やがて静謐がもたらされる。

 その瞬間を見ていたのはィロウチだけだった。彼の小さな目が見たものは他の者にも見られるように投影される。けれど、その直前まで、映し出されたのは膝をついたまま動かないタイファの姿。変化に乏しかった。
 それでもィロウチは見ていた。見ていなければ映像が投影されないからだ。
 一瞬の変化を、けれど意識できてはいなかった。変化に乏しい情景を、きちんと観察し続けるのは難しい。
「ああぁ」
 ィロウチが思わず声を出したのは、したがって、事が始まって少し後のことだった。
 タイファが割れた。
 額から鼻、口から顎、喉に至り、さらには着た服さえもが裂けていた。なにかに切り裂かれたように、二つに。
 攻撃を受けたのか、それとも、夢で見ていた情景が現実を浸食しているのか。
 ィロウチの叫びでィタイファが反応した。
「大丈夫だ」
 だが、なにがどう大丈夫だというのだ。と、ィロウチが混乱しかけた時、状況が変わった。タイファの裂け目から、黒いものが吐き出されたのだ。
 それはタイファの頭より少し大きいくらいの、黒い楕円形の物体だった。卵形というよりは、左右の端が尖った印象だった。
 それは、煙のようにふわりと浮かぶ。
「種だ」
 とィタイファが言った。種はふわふわと漂うように飛んで、やがて地面に落ち着く。
 小さい目を通しては音が聞こえない。あるいは小さな破裂音が響いたのだろうか。次の瞬間、種は地面に、巨竜の内臓に刺さった。すっと沈んでゆく。
 するとタイファの裂け目が消えてゆく。左右から近づき、接触したところから繋がって、溶け合うようにひとつになる。元のタイファの姿に戻る。
「大丈夫だ」
 もう一度ィタイファが言った。だが今度は、心配事があるかのように声が濁った。

 リーラは迷っていた。オクライが飛行艇の制御を離れて、今やすべての責任が彼女にかかっている。魔法によって浮かんでいる以上、魔法を途切れさすわけにはゆかない。しかし着陸するには、魔物たちが群がる場所は選べない。危なすぎる。
 どうしようもなくて、ある程度の高度を保ちながら浮かんでいるだけだ。それだけでも簡単とはいかない。横風にあおられれば揺れる。下手に揺れれば、メイリをはじめ皆が、体調を崩しかねないだろう。
 空はまだ暗いが、眼下の巨竜の姿ははっきり見えている。眩いほどではないが自ら発光しているからだ。
 そのどこかにオクライがいるだろうと思うのだが、姿は見あたらない。
 竜が動いている。ゆっくりと、だが確かに動いている。なにかを準備しているようにも見える。
 逃げた方がいいのではないかと思ったりもする。オクライなら、取り残されたからと怒るようなこともないだろう。むしろ足手まといに思われそうだ。
 ただ妙に未練がある。
 漠然と、なにかが起こりそうに感じている。
 ホーサグとメイリは、いつの間にか眠っているようだ。どういうつもりかは分からない。ただ、今のうちに休んでおくのは良いと思う。
 ロブロウは膝を抱えている。けれどおそらく眠ってはいない。
「ロブロウさん、意見を聞かせてください」
「着陸のことか」
 即座に応えが返ってくる。しかも状況を把握していたと分かる。
「はい」
「浮かんでいるのがつらいなら、今のうちにここから離れるべきだ。嫌な感じがする」
 過不足のない答えだ。
「なら、どこへ行きましょう」
「山だ。そこに、魔導師がいると聞く」
 それは予想していない答えだった。魔導師がいる、というのも、むしろ避けるべき条件だった。だが、
「分かりました。行ってみましょう」
 もっとも、浮かせているだけで楽ではないので、思うように進める保証はない。
「どうした。なにかおかしいか?」
 思わぬ質問があがった。そうか、自分は笑っていたのか、とリーラは気づく。
「いえ、なんでもありません。やります」
「無理はするな。急ぐ必要はない」
 ロブロウはそう言うが、断定できるような状況ではないはずだ。と、それは分かっている。
「分かりました」
 そう応じて、飛行艇の操作を考え始める。

 オクライは少し浮かんだ。
 巨竜の動きに異変が生じている。
 タイファから、奇妙な魔法が放たれたことも分かっている。それが、おそらくテネアとメイリの持つ魔法と、同傾向のものであることも気づいている。
 すぐにも、なにか起ころうとしている。それは、危機感を増大させる。ただ、どうすればいい、という具体的な対策には至らない。
 今はしばし、見守るべき時だと、判断した。
 翼を大きく広げる。状況を受け入れるために。空の上は暗いが、あたりはほの明るい。白い翼がかすかに青い。
 音がしている。足下から鈍く響いている。巨竜の背中全体から聞こえてくる音が、遠く近く重なり合って、うねりを生じさせる。
 もう、石も砂も滑り落ちてしまったが、軽い埃が残っていて、煙のように立ち上る。だが、あくまでそれは表面的な状況だ。
 内部へ、タイファのいるあたりへ改めて知覚を伸ばす。そこに変化が生じていた。
 芽吹いていた。
 ゆっくり動く巨竜の体内、内臓の一部に落ちた黒い魔法が、あたかも植物が芽を出すように、上方に伸びている。成長しているように感じ取れる。
 漆黒の種が漆黒の芽を出して、大きくなろうとしている。ただ、そこには幻のような頼りなさがある。黒く育ちゆく木は、まるで霧でできているようだ。
 タイファはどうか。呆けているように動かなかった状態から目に生気が宿った。少し口を開けて、呼吸を整えつつある。
 だがそれで間に合うか。これから起こるに違いない大きな異変の前に、身を守れるところまで回復するか。
 もとよりオクライにタイファを守る義理などない。出会ってさえいないふたりだ。それでも、オクライ自身が関わっている件にとって、あの男が重要な意味を持つであろうことは察せられる。
 ただし、どう助ければいいのか、即座には思いつかないのだ。
 芽はたちまちのうちに育ってゆく。タイファの横には光る玉が浮かんでいるから、その黒さが際だっている。それは、さながら闇だ。闇の大樹が、育とうとしている。
 だがそこは竜の体内である。いかに巨大な竜であろうと、おのずと限界がある。やがて、梢が内壁にぶつかるだろう。その時、闇の樹はその壁を破れるのか。少なくとも、穴を穿ち、破壊してゆくような印象はない。それほどまで固くは感じられない。
 いや待て、ならば根はどうだ。闇の樹の根は、巨竜の内壁に伸びているのではないか。壊さずとも成長できる方法があるのかもしれない。
 ふいにタイファが動く。茫然としていた状況から、なんとか回復したようだ。身体を左右にひねる。頭を前後させる。
 それから跳ねるように立った。
 闇の樹は、洞窟の天井まで達しようとしている。
 気がつけば音が聞こえていた。いつしか大きく育っていた音。辺り一面から響く、歌のような、怨嗟の叫びのような音。
 タイファは剣を手にしていた。その剣を、膝ほどの高さで横薙ぎに振った。その感覚を確認して、夢と現実を分けようとでもいうように。
 闇の樹は天井に刺さる。そして、崩れた。
 内壁が、肉色の粒子となって宙に流れる。だが闇の樹が小さな無数の波になってそれを包み込む。
 闇の樹はさらに成長する。すぐにでも竜の身体を突き破ってしまいそうに。
 オクライはふいに生じた不安に、今まで浮かんでいた場所を移動した。さっきまでいた場所の足下に穴が開いて、そこから闇の樹が現れる。
 朝に満たない空へ、新たな夜を告げるように伸びる。周囲のすべてを呑み込んでゆく。
 不思議な想像が湧いた。闇の樹は、竜を構成していた人を、あるいは人の意識を吸い込もうとしているのではないか。竜の形をした牢獄から解き放ち、別の地平に導こうとしているのではないか、と。
 飛んでさらに後退する。翼を大きく一度、強く羽ばたかす。
「おぉおぉ」
 思わず声を吐く。意味のない声を吐き出す。
 その向こうで、闇の樹はさらに空を目指す。
 
 いるはずのないテットの声を聞いた。
「ほらほらほら」
 と、ただ急かすだけの声だった。
「うるせえ」
 豆でも噛むように小声で言ってタイファは、すぐに頭を振った。
 きわめて混乱している状況にある。それだけは分かったが、すぐには頭が働かない。ついさっきまで、死んでいたような気分なのだ。
 自分の置かれた状況を思い出すより先に、目の前の闇の樹の姿を認めた。生涯で一度だけ、そいつを見たことがあった。自分の身体から出るという闇の種の魔法。そこから成長した姿だ。
 だが迫力が違う。タイファ自身になんらかの覚醒が起こったのか、あるいはただ近くにいるからなのか。分からないがいずれにせよ危機的状況なのだ。
 剣を手にしている。
 上等だ。
 ルクセと戦った夢の続きなのか、あるいはこれが現実なのか。分からないが、あらがうことができそうだ。
 光の球が浮かんでいることに気づく。明かりを連れ歩くことができる、魔法の品。高級品だ。テットに似ている。少しかわいく感じる。テットのように憎まれ口をきくこともない。おかげで、あたりの様子がおぼろげながら分かるので、現実らしいと感じ始める。
 周囲に小さな音が満ちている。闇の樹の成長に伴う破壊ではない。まるで泡が弾ぜる時の破裂音。いくつもいくつも破裂する音。けれど、泡は見えない。
 タイファは剣を振った。膝ほどの高さを、愛用の長剣で横薙ぎにした。
 気休めのようなもの。それでも、ほんの少しの間、破裂音が静まる。
 徐々に落ち着いてきている。
 闇の樹は休むことなく成長し続けている。太くなってきている。それでも、伸びてゆくのに比べれば太くなる速度はさほどでもない。十分に距離をおいて対応できる。なぜだかほとんど落下物もない。
 タイファはあたりを見回した。声を、言葉を聞いたように思ったからだ。
「助けてくれ」
 そう言っているように聞いた。無数の破裂音の中に、溶けているように聞こえた。
 体勢を立て直す。どこかに敵がいるのかもしれないと、まずはそう思った。
 だが、闇の樹の圧倒的な気配の他に、なにかが潜んでいるとは感じられない。そうではなく、おそらくあの声は破裂音の中から聞こえてきたのだ。
 ひとたびそう感じれば、他の破裂音も言葉を含んでいるように感じる。破裂音を伴って、声は徐々に闇の樹に接近してゆくようだ。
 呪詛の声を、怨みの呻きを、闇の樹は吸収している。それを糧にするように成長してゆく。
 だがタイファにはどうすることもできない。助けてやることも、消し去ることもかなわない。
 闇の樹は表面の様子が分からない。光の球によって、あるのは分かる。だが、光を反射しない。どんな表面なのか、成長に伴って動きがあるのか、そんなことさえ分からないのだ。
 逃げ出す、という選択肢をタイファは考えもしなかった。自らの魔法がもたらす異変を、驚異を、ただ受け止めるばかりだった。ただ、闇の樹に近づいてはいけないと、それだけは強烈に感じていた。
 やがてあの破裂音が止まる。
 呪詛の声も聞こえなくなる。
 闇ほどに濃い静寂が、あたりを押しつぶす。が、次の瞬間、
 ザァッ
 響いたのは風の音だった。強い風の音が、唐突に聞こえてきた。
 思わずタイファは身構える。剣の柄を握り直す。
 光の球が、輝きを失う。あたりが暗く……、ならなかった。天井が抜けた。
 朝の空。
 薄紫に鈍く輝く空が、頭上に広がった。
 しかし視界の大半を占めるのは漆黒の、どこまでも高く成長した闇の大樹。
 風の音。けれど風は闇の枝に触れて音をたてているのではなかった。遠くから遠くへ、ただ通り過ぎてゆくだけの大きな風が大地を撫でる音。
 気がつけばタイファの周囲を取り囲んでいたはずの巨竜には大きな穴があいている。今も、竜であった無数のかけらが、闇の大樹に引き寄せられ、渦を巻いているのが分かる。なにかを語りながら呻きながら叫びながら。
 闇の樹は、彼らを天に連れてゆくのかもしれない。
 見上げてタイファはそう思った。

いいなと思ったら応援しよう!