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魔法物語 侵攻 No.36
空に在る。
小さな目は、移ろう色のどこにも溶けず走る。浮かんでいる。
太陽は地平に消えかけて、強い橙色の輝きを残しているが、もうすぐ姿を見えなくする頃合い。
太陽のあったあたりには濁った朱を溶かす。そこから、照らされて色を見せる反対側の空まで、色は変わり続けている。暗い灰色と鈍い黄色、濁った紅。溶け合うことはなく、しかし輪郭を持たず、雲との兼ね合いで自由に形を作る。
視覚だけを連れてその中に在る。
風の冷たさも爽やかさもない。けれどそれに似た錯覚が生じている。
眼下に街。グリニウスという名の巨大な街は、いくばくかの灯火はあるが、まだその数は少なく、空の圧倒的な鮮やかさに負けて暗く沈む。
見下ろせば、城と、その前の広場の様子に、視線は引き寄せられる。異質さが、際立っている。そこに、隊列を作ったたくさんの兵士たちがいる。数百、数千、いや万を越えるかもしれない。これほどの人数を一度に見たことはない。見渡せば酔いそうだ。
兵士たちは揃いの防具に身を包み、けれど手にした武器は思い思い。長剣、槍、斧、棍棒。武具を持っていないような者も少なからずいる。しかし隊列は乱さない。それぞれが強い意志をもってこの場に集結しているのだろう。残照を受ける男たちは、真剣な目で前方を見据える。
一段高くなったそこに、豪華な防具に身を包む小柄な男の姿があった。おそらく、声高に檄を飛ばしているに違いない。戦意を高揚させ、これからの戦いに必勝を誓うのだ。が、その声は聞こえない。
なにかを叫び、兵士たちが応じる。無音であっても、その昂揚が伝わる。今まさに、戦地へ赴こうとする者たちの興奮。
だが、どこへ行く。王都の近くに戦場があったろうか。攻め寄せてくる敵軍があったろうか。この朝に街道を歩いて来た限りでは、あたりは平和そのものだった。いや、それどころかたった今、上空から見下ろした景観にも、侵略者の気配はなかった。
兵士たちの様子と、あたりの平穏さがひどくチグハグだ。出陣式といった感じだが、徒歩で戦地に向かうのだろうか。これから暮れる。夜の行軍だとしても、無駄につらくなるだけではないのか。
ところが状況が変わる。兵士たちに檄を飛ばしていた男から、いかにも魔導師然とした老人と交代。すると、魔導師らしき男は、両腕を広く挙げてなにごとか始める。まるで呪文を唱えているようだが、もちろん声は少しも聞こえない。
けれど分かった。諸々の状況が、この後の展開を予感させていた。
来るのだ。きっと、やって来る。
すぐ近くに、夜が来るより早くたどり着けるところに、戦地がやって来るのだ。
そして扉が開く。
気配がおかしい。そのことにリドウは気づいていた。
牢の外から、かすかに歓声のようなものが聞こえてくるようなのだ。
外の様子を見る、という少年は壁にもたれ目を閉じている。それが彼の持つ魔法であることは察したが、なにがどうなっているのか分からない。こんなことなら、外を見ながら会話が出来るのかどうか、事前に確かめておくべきだったと悔やんだ。
横から余計な邪魔をして、少年になんらかの負担をかけてしまう可能性がある。その負担がどれほどのものか判断できない以上、危険は回避する必要がある。
もちろん、なんの危険もないのかもしれない。だが、勝手な思いこみが大きな問題をもたらすことを、リドウは十分に承知していた。
だから待つ。ただ待つのだ。
「大変です」
待った末に、少年はそんな一言を発した。すかさず質問したいと思ったが、そこも待った。けれど、ここにいるのはリドウだけではない。
「なにが大変だって?」
軽挙妄動とそしられても反省したことがない、仕立屋のボームがすかさず尋ねていた。
「兵隊です」
「あ?」
「たくさんの兵隊が、別の世界に攻め込みます」
「なんのこっちゃ」
いや、たったこれだけのやりとりで、リドウはおおよその状況を把握していた。
乗っ取りである。
つまり王族もしくはその側近は、この世界を見限り、別の世界を奪おうとしているのだ。ということはつまり、権力者たちはこの世界が滅ぶであろうと予想していることになる。さらには、別の世界の存在と、その行き方についても承知しているのだ。
予想通りではあった。しかし、こんなにも事態が早く動くことまでは予想できていなかった。
リドウは魔法感覚を持っている。しかし、あまりにその力は弱く、不確かなものだった。それは、言葉にまつわる能力なのだが、リドウ自身の意志ではどうすることもできないのだ。
一言で表現するなら、「言葉を強く感じることがある」というもの。ただ、それだけである。
感じる強さには、おそらく重要さが関わっている。言葉自体の重要さでは、もちろんない。その言葉を強く感じるべき状況を意味している。たとえば家が火事になっているなら、「火」や「家」を強く感じる。話している時なら、そこの声が大きく明瞭に聞こえる。あるいは本を読んでいる時なら、そこの文字が太く大きく見えるのだ。
リドウが学者になったのは、その能力と大いに関係している。生活の中で、言葉は必ずしも必要ではない。なにも話さずに一日を過ごす、などということも不思議ではない。が、それでは魔法の感覚が働かない。それよりは、なるべくいつも、さまざまな言葉に触れている方が、力を発揮できる。多様な言葉を覚え、語彙を増やしてゆけば、その力を強く発揮できるわけだ。
多くの本を読み、多くの話を聞くことが、リドウの生きる道になっていた。それは知識を深め、その広がりに関わることでもあった。
重要さは、リドウ自身の価値観による。自分の身に危険が迫っていれば最重要評価となる。興味のある分野も、それなりに重要である。
だから、言葉の強弱感覚だけでは魔法による利点はあまりない。十分に知識を蓄え、魔法の意味するところを読み解く、魔法ではない当たり前の能力が必要なのだ。
そんな見識があれば、魔法の感覚などなくても、あれこれ読み解くことが出来るだろうから、魔法に意味がない、と考えることもあった。
だがすぐに考え直す。この魔法感覚があってこその喜びがあるからだ。それは、興味がある分野のすぐれた書籍などに出会った時の感覚。そういう時、本を手にするだけで軽い酩酊状態になる。それから読み始めれば、さながら舞踏会に参加したかのような昂揚。なにものにも代え難い喜びに包まれることになる。
学び、知る喜びを肉体感覚として味わえる。これが悪いことのはずはなかった。
ただし、おのれの感覚が正しさを保証するものでもない。そうと気づいた時には失望もあった。それでも、ないよりは良い。それがリドウの、目下の結論だ。
今、自分たちの置かれた状況を判断することが出来るのも、そのおかげなのだ。
世界が滅びかけている。まず、そう結論する。だが世界とはなんだろう。滅ぶとはどういう状態を示しているのだろう。単に言葉で示されただけでは分からない。状況を、より精密に把握し、判断し、その上でどうすればいいのかを考察する。
自分の出来ることとその限界。他者がどう考え、どう対応するかを予測する。そうして、どうするべきか。
きわめて危なっかしく、まさに極限状態と呼ぶにふさわしい。しかしこの追いつめられた感覚を、リドウは少し楽しんでいる。
「ひとまず、これは予想通りだ」
仲間たちに言えば、皆が頷く。もう何度となく話し合ってきた。世界が滅びる。ならばどうするか。
考え方は三つある。
まずは抗う方向。世界の滅びに対抗し、滅ぼさないように抵抗する道。
次に逃げだす方向。滅ぶ世界から脱出し、滅びない世界に行くこと。
最後に、受け入れる方向。どのみち人の生命など有限であり、逆らってみても仕方がない。いっそ世界とともに滅ぶならと、受容する考え方もあるだろう。
しかしいずれを選ぶにしても、あまりに曖昧で不確かであり、具体的にどうするべきかは判然としない。あるいは、なにが出来るか、方法を選ぶ余地があるのか。
どうやらこの街の権力者は、この世界から逃げ出すことを選び、その手段を得て、逃げた先を征服する、という結論に達したのだ。
「戦争になる」
リドウは小声で言った。それは侵略だ。
「じゃ、止めなきゃな」
リドウの言葉を聞きつけて、ボームが大きく体を揺すった。
「最悪、までは行ってねえだろ」
鍛冶のヘパイツがため息まじりにもらす。
「なんとかしようじゃねえか」
だれからともなくそう提言され、リドウは大きく頷いた。「しよう」と強く聞こえた。それが魔法に由来するものであるかどうか、即座には判断できなかったが、それはどうでもいい。これは決意の問題だ。
おっさんたちが八人。たったそれだけだ。
それっぽっちで、戦争を止めるなんて言っている。ロウチには到底信じられない。
なにしろ相手は数千人。もっと。どんな魔法を使えば、あの軍勢を止められるだろう。一騎当千の豪傑、にはとても見えない八人。いっそ巨竜でも呼び出して行軍の邪魔をすれば、なんとかなるかもしれない。けれど、そんな魔法を使えるとも思えない。
どう見ても、街のあちこちで見かけるような、普通のおっさんたちだ。
「大丈夫なんですか」
思わず尋ねてしまう。
するといくつもの笑いが返ってくる。
ロウチは気づく。
大丈夫なんかじゃない。
けれど、大丈夫と思うしかないのだ。