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魔法物語 タイファ2 No.26
踏みしめた舌は固く、だがおそらく全身中では柔らかい部位であるに違いない。
足下が、大きく波打つように動く。そのように動くことができる。
タイファは体勢を崩さぬように重心を移動させる。しっかり踏みしめるのではなく、重さと軽さを左右の足に適切に振り分けるのだ。
翻弄されぬうちに、用意してあった魔法の光球を点灯させた。十分とはいかないが、あたりがほのかに照らし出される。宙に浮き、持ち主の位置を追う高級品だ。
ふいに足下の動きが変わる。舌だけでなく、頭が全体的に動いている。急激に身体が重くなる。舌の傾斜がきつくなる。
タイファは剣を舌に刺して支えとした。なんとか奥に転げ込むことを回避した。次の瞬間、身体が軽くなる。まるで投げ上げられたようだ。竜の頭部が下がったに違いなかった。
宙で次の状況に備える。身体が叩きつけられる前に、衝撃を受け流す姿勢を整える。果たして、すぐに下に達し、軽く回転しながら受ける。剣を舌から抜いて次に備える。一瞬、上に動く。舌がゆるやかな傾斜となって、奥へと誘う形。
そこでタイファは、一気に奥に走った。最初から体内へ進むつもりだった。相手に翻弄されるのではなく、自分なりの思惑で進みたいからだ。
光球が追いかけてくる。竜の口腔内が揺らぎながら見える。洞窟のように無機質で、生物のように有機的な表層。いずれでもありいずれでもない、巨竜ならではの質感が動く。
鈍い振動が低く響く。
足音は響かない。
タイファの疾走を振動が追う。まるで押し包もうとするかのように。いや、実際に喉の内壁が狭まってゆく。
かまわずタイファは進んだ。
だが、ふいに足を止める。
そうして虚空に向けて話しかける。
「よお……」
けれど言葉の途中で静かに膝を折り、その場に崩折れていった。
「どういうことだ」
ィタイファが呻く。
その場に投影されていたィロウチの小さな目による映像によって、自分が倒れるさまを見ていたのだ。
ィセグロに言われて、ィロウチはようやく、自分が竜の内部を見られることに思い至った。食われようとどうしようと問題ないのだ。だからあえて口の近くに進み、鋭い牙をすり抜ける。
すでに口は閉じられていて光は入らない。だから最初は暗くてよく分からなかったが、魔法の光球が明かりをもたらし、ようやく状況が分かるようになった。
タイファが膝を折り、その場につぶれている。
「おそらく、幻を見せられている」
同じ映像を見ていたィセグロが言う。
「どんな」
「それは分からん」
小さな目の魔法は、そこまでの力はない。
「それが試練ということだろう」
横からィロブロウが補足した。
見えるものがそこに存在しているわけではない。
そうした経験をタイファは何度か味わっている。だから、目の前に登場した古い知り合いを、疑わないはずもなかった。なにより、外見が若すぎる。最後に会ってから二十年以上も経ったはずだ。なのに、あの頃と変わらない見た目なのだ。
「ルクセ、だよな」
一応そう確認してみる。
「もちろんそうさ」
その屈託のなさに笑ってしまう。
「テットはどうした」
「空に昇った」
誤りと真実とがないまぜになった言葉が返ってくる。だがしかし、なにが間違いでなにが正しいのか、もうタイファは確信できずにいる。
テットは歌う石だ。魔法を扱い、魔法を吸収し、空を自在に飛び、時に大きな破壊をもたらす。そもそもはルクセに寄り添って旅をしていたらしい。
それが奇妙な縁によってタイファの道連れになってくれたこともある。ただし今では、再びルクセと一緒にいるはずなのだが。
テテテテテ
懐かしい音。これがテットの歌だ。あたりを見回すが見あたらない。
テテテテテ
いやすぐ近くにいる。ルクセも音の出所を探してキョロキョロ見回す。
「ロンロンロン ロンロンロン」
いた。なぜ気づかなかったのか分からない。ルクセの足下、ちょっと後方で、なぜだか小さく跳ねている。
タイファは微笑んだ。ひどく、ひどく懐かしくて、少し泣きそうになっていた。
「ここだよ」
言いながらテットは、ルクセの目の高さまで跳躍する。ルクセが目を丸くした。すると、
「ここだよ!」
もう一度テットが叫んだ。
懐かしくて、けれど同時に、おかしくて、タイファは微笑まずにいられなかった。
もう夜が近い。
飛行艇は速度を落とし、二頭の巨竜を見下ろせる高度でゆっくり周回してゆく。
沈み行く太陽の光が、長く竜の陰を伸ばす。
タイファの様子は変わらない。魔法によってその姿を確認したオクライだったが、状況に変化がなく、飛行艇のことも気がかりで観察をやめてしまった。
今はィロウチの力で状況の確認が出来ていると分かってもいた。ただ、音が聞こえないのが気にはなる。
もっとも、気がかりなのはそれだけではない。
特に、幼い少女が同乗していることが問題で、なにくれとなく手間がかかる。とりあえず用事のないロブロウとホーサグが面倒をみてはいるが、どことなく危なっかしい。とはいえ、女だからといってリーラが頼りになるわけでもない。それくらいなら、オクライは多少の経験がある、という話になったりもする。育児などというほどの実績はないが、魔法で作った少女たちを生かしておいた、程度の経験ならあるのだから。
あてにはならない自負ではあるが、オクライは今、手詰まりでもある。
竜の背をこぼれ落ちた魔物どもが、暗くなるにつれ元気になってゆくようだ。とはいえ、そういうものたちと戦う意味はない。
二頭の竜も今は動かない。
なぜ竜は二頭に増えたのか。そこになんらかの意味があるのか。オクライにとって、そこがきわめて重要なところであるのは間違いない。やつらが、ただ分裂したのではなく、空間ごと分かれた、あるいは他の空間から一方がやってきた、どちらかではないか。
魔法によって空間の性質を研究してきたオクライである。この状況が考察への鍵になるだろうと、考えぬはずはなかった。
夕暮れの光の中で、竜はかすかに色を変える。発光というほどではないかもしれないが、単なる外光の反射ではないだろう。なにより、二頭の色が微妙に異なる。一方がやや青いのに対し、他方はわずかに黄色いのだ。
「おい、なにか食う用意はあるか?」
ふいにロブロウが声をかけてくる。必要とあらば魔法でどうとでもするが、ひとまずオクライは空腹ではなかった。そもそも、食べるという行為にあまり興味がなかったのだ。
そういえば、巨竜はなにも食べていない。あんな大きな身体を維持できる食べ物があろうはずもない。それでいて口があり牙があり舌がある。消化器官もあるようだが、まともに使われているはずがない。
なにか理由があるのだろうか。なんらかの目的があるのだろうか。
「ふむ」
調べてみる必要があるかもしれない。オクライがそう考えを巡らそうとした時、
「子どもが腹をへらしてるんだ」
ロブロウの言葉で思索は途切れる。
過去は記憶の中にある。記憶の中にしかない。
どれが正しいかを確定する方法はない。整合しない記憶はいずれかが間違いであったろうと推測することができるが、整合すれば正しいと保証されるわけではない。
今タイファは、記憶によって構築されたとおぼしき感覚の世界にいた。
それがどれほど正しそうに感じられても、一種の幻であると考える。そう考えることが出来る経験を積んで、タイファはここにいる。
「テット、元気だったか」
幻であろうとも、かたくなに拒否することもせず、軽やかに対応できる。
「元気? 元気だったさ」
クルクルと回って、ぴょんと跳ねて、空中にぴたっと止まってみせる。
「あなたは元気でしたか」
ルクセが、ちょっと遠慮ぎみに尋ねてくる。
「元気と言い切ることは難しいな」
それでもタイファは笑ってみせた。
ここは、試練であるはずだった。光の子の魔法を、闇の種の魔法を、真に覚醒させるために踏む段階であるはずだった。だが、だからといって緊張し固くなる必要などないだろうと。
再会と言えば間違いには違いない。それでも、再会によく似た時間。
「ぼくと戦ってみませんか」
ルクセがはにかむように言う。まるで、気が進まないまま引き受けた舞台に、役者として立っているように。
ただタイファは面白いと思ってしまう。どのみち夢を見ているような状況だ。それなら、やってみる価値はあるだろう。
「テットはやらないぞ」
「うん。そうしよう」
ルクセはひょいと手を伸ばし、テットを空に向けて放り投げた。それは恐ろしいほどの速さで視界から消える。
しばらく空を眺めていた。夢の中で空を見ていたことなんてなかったな、と思いながら。
そのうちテットが切れのある動きで戻ってくる。
「どうだった?」
とルクセが聞いた。
「高かった」
とだけテットが答えた。
「動いた」
とィロウチがつぶやく。それを、ィホーサグがすぐに聞きつけた。
倒れていたタイファが、静かに立ち上がっている。しかも、剣を構えている。
「どうやら試練というやつが始まったらしい」
ィホーサグが言い、ィタイファが頷く。そうして、こう付け加えた。
「たとえ幻が相手でも、感覚は重要だ。おぼつかない足でも地面を踏みしめ、剣の重さが感じられれば、より思い通りに動ける」
夢の中の動きに応じて、身体が動いてしまうことがある。そうすることで夢はより本当らしく感じる。本当らしく感じられれば、より正確に夢を描ける。戦うなら、本来の強さを実現できる。
あらゆる修練は、身体の動きと、そこから生じる感覚との連動をもたらす。意識は、身体の状態のすべてを把握しているわけではない。脳まで情報が届くより早く動けたり、自覚するよりうまく対応できるように、身体は訓練によってその仕組みを作り上げてゆくのだ。
魔法の光球がもたらす頼りない明かりの中で、タイファは動き始める。
見えない敵と戦うように。あるいは、ひとりで演舞を始めたように。
長い剣は鋭く速く空を切る。その動きに応じて、姿勢が、体重の分散がなされる。流麗にして豪快。素早く力強く次の動きが始まる。動き、止まる。
「すげえ」
ィホーサグが言い、あらためて自分の横にいるィタイファを見た。この男は、あれが出来るのだ。
「まるで足下が見えているようだな」
夢と現実の間にずれがない。そう見える。
「よほどの相手と戦っているのだろう」
ィタイファは微笑んだ。
強い相手と、互いを斬り殺す心配なしに戦うこと。持てる力をすべて解放し、死力を尽くすこと。それは、強さを求める者にとって、至福であった。
その頃、飛行艇の中では忙しく食事の支度を終え、そろって食べ始めるところだった。
「いただきまーす」
と、少し早すぎる感じでメイリが叫んだ。
たとえ夢の中であっても、斬られるわけにはいかない。それが最低限の決まりだ。
構え、間合いを読み、動く。そこから始まる。
「いけー、やれー」
タイファは剣を振り、また剣を受ける。ルクセはみごとにかわし、隙をみて突き、振る。
ルクセの剣は重い。よほどの膂力がなければ振ることはできないだろう。そんな剣を、まともに受ければ間違いなく弾かれる。たたき落とされる。はぐらかすように受け、衝撃を逸らす。
さばく。離れる。
わずかでも間合いを狂わすことなく、淡々と処理していくだけだ。その間に打ち込む隙を探す。
タイファの剣は長く、遠間からも打ち込める。しかしそのぶん、打ち込んだ後に姿勢を崩しやすい。もちろん、タイファはその隙を承知している。
あらゆる状況に気を配り、そのすべてに最良の対応をしようとする。
緊張の上にも緊張する。
「がんばれー、まけるなー」
テットが飛び回って応援してくれる。緊張の度合いが高いぶん、失笑し力が抜けてしまいそうになる。が、身体を固くしないよう応援を受け入れる。
テットはどちらか一方を応援しているのではない。両方を同じように応援しているのだ。それがテットらしい。
地面をこするような低さで横薙ぎした。ルクセは最低限の跳躍で避ける。
その空中にある一瞬を狙って剣を跳ね上げる。
あらかじめ想定してあったらしいルクセは後方に跳んでおり、かろうじて避けきる。
ほぅ、と小さく息がもれた。
その時、剣を横から叩かれる。タイファの剣の到達範囲の外からルクセが切ってきたのだ。振りはゆるいようだったが意表をつく速さだ。
反射的に剣をねじる。そのままだと折れてしまいそうだった。それでも指が痺れる。
「いけー、やれー」
心のこもっていない口先だけの応援。緊迫した場面がゆらぐ。
「うるさいよ」
ルクセが小声で言った。
テットが聞いた様子はなかった。
さあ、どれだけこの緊張を続けられるだろう、とタイファは思う。持久力にはかなり自信があるが、夢の登場人物なら疲れるということはないだろう。どこかで、なんらかの決着をつける必要がある。
ィタイファがおおよその解説をしてくれる。
見えるのはタイファの動きだけだが、本人ともなれば分かることも多い、というわけだ。その話によれば、タイファは楽しんでいるようだ、と。
この世界に封じられた大小二頭の竜は、まるで微睡んでいるようだ。現状について肯定的、ということだろう。あるいは、なにかを待っているのか。
「しかし、このままとはゆくまい」
ィタイファが断言する。だが、どうなるか予想することができない。
その時ィメイリが声をあげる。
「ねえ、あたしも入ってみたい」
ィタイファの一人舞台をしばらく見ていたのだ。それはある意味で舞踊のようで、美しくもあった。
「え?」
大人たちは顔を見合わせ、あわてて止めに入る。けれど、それはもっともな希望なのかもしれない。
夜が来る。
魔物たちは争い、おのれの命を賭ける。
瘴気は霧となって沈む。風がない。
濁りは大地に落ちて空が澄む。星の輝きを浮かす。
二頭の巨竜は動かない。
いや、尾が震えた。まるで何事かを準備するように。