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魔法物語 準備 No.32

 ロブロウもィロブロウも、口出しせずにずっと様子をうかがっていた。
 船長という役職は、つまるところ、船を正しい場所に連れて行くための仕事すべてに責任を持つことだ。そういう経歴を長く積んできた。
 今は船長ではない。おそらく、そこまでのことは期待されていない、ということだろう。それになにより、今自分の置かれた状況が、馴染んだ船とは違いすぎる。
 それでも、自分がここにいる理由は、船長として過ごしてきた時間、経験によるものであるはずだ。ひとつには、行く先が決まった時に、どう行くべきかの指示を出すこと。これは本来、航海士の役割だが、ロブロウをこの場に導いた者たちは、そういう知識がないのだろう。だが、数を増やさずさまざまな役目を果たす必要があるなら、船長の経験は意味がある。
 だから見守ってきたのだ。
 さらに、船長にはもうひとつ大切な役目がある。
 それは船の目的を決めることだ。
 ロブロウはこの数日の間に、十分長く生きてきたと自認する人生で、一度も出会ったことのない経験をした。それは間違いない。魔導師たちは、自分には及びもつかない知識や知恵を持っていると感じてきた。
 だが、全体としての目標のようなものが見えてこない。船長にあたる魔導師がいたのに、あろうことか飛行艇を放棄して出て行ってしまった。
 それでも、なにか大きなうねりのような運命を感じてはいるが、自分たちがなにをし、どう進めばいいのかという基本的な指針があいまいなのだ。
 多人数で運命を共有しようという場合にあって、それは大きな弱点となりうる。だから、ロブロウとィロブロウは、互いに相談することもなく、状況を観察することにしたのだった。ロブロウ自身にも指針などない。だが、状況を取りまとめる中から、見えてくるかもしれない。そういうものだと思ってきた。
 ィロブロウが頼りになりそうだと見込んだのはィセグロだ。たいていの場合、なにを考えているか分からない男。だが、必要そうなことを先んじる印象があった。かつて仲間だった者の中にも、そんな感じの人物がいた。一言で表現するなら心配性。余計なことばかり考えている。それでも、思いもよらぬ助言をしてくれる場合もあった。
 今のところィセグロから意見を聞いてはいないのだが、そろそろ自分たちがどこに向かうべきか、議論してみるのも良いだろうと思う。
 ロブロウの近くにはセグロがいない。こういう場合、思い出すのはかつての仲間イロウパだが、今どこにいるのか分からない。

 時は夜に向かう。
 闇の大樹は枝葉を増やしてゆく。全体として徐々に球体に近い形状に変化しつつ、空に昇っていく。
 その様相は、もはや自分たちでは手を出せないという諦観を生む。とりわけ、魔法についての力と知識があるぶん、リーラに顕著だった。
「なあ」
 そんな時、声をかけてきたのはホーサグだった。自分にできることを割り切る。とっくにそんな心理的な壁を越えていたようだ。
「少し、身体を動かさないか」
 奇妙に倒錯した喜びを感じて、ためらいはしたがリーラは承知した。遠い昔、彼と戦った記憶がまだ残っている。当時はリーラが圧倒的に強かった。だが、身体の構造を変えた今、もう勝てないかもしれない。
 だからこその申し出か、と疑う。いや、身体がなまることを心配しているのだろう、と考え直す。
「剣でいいか?」
「そうだな」
 ホーサグが笑う。
 飛行艇の外に出て、模擬戦闘を始める。
 濁った風を感じる。竜の大地が変わってゆく。
 それでも構わず、揺らぐ光の中に剣をさらす。
 たちまち気合いが満ちる。
 最初の一太刀で、記憶があてにならないと理解する。ホーサグは研鑽を積んできた。一方リーラは、剣とは遠い時間を過ごしてきた。
 それでも、魔導師は若さを維持できる。ホーサグは、おそらく洗練されて、しかし衰える。
 打ち合うこと数度。衝撃と、そのたびの体さばき。
 感じる。
 もちろんこれは殺し合いではない。その一線を越えないことを、互いに守れている。技量を試し、確かめ、侮ることなく、ぎりぎりを感じ取る。
「いいな」
 ホーサグがつぶやいた。
「いいね」
 と応じ、少し赤面した。剣の打ち合いで、楽しいと感じている。そのことを自覚したからだ。
 メイリが見ている。少し寒い風を受けても、楽しそうにしている。
 楽しい。
 だがいいのか、と思う。この旅は、なにか大切な、重要な目的を持つものであるはずだろう。だったらもっと真剣であるべきだ。
 迷いが一瞬の遅れをもたらし、次の一撃をさばきそこねる。指先に痺れが生じ剣を取り落とした。
 ホーサグと視線が合う。
「飯にしよう」
 彼が笑った。リーラは「参った」と言わなかった。

 ィホーサグは外のことなど知らず、ィメイリとィスティナを相手にして遊んでいた。
 ただし、武術的な体術を使う遊びだ。訓練、と言ってもいい。立ち、歩き、走る。腕を広げ、身体をひねり、腕をたたみ、身体を反らす。足を振り、腕を振り、頭を振る。その反動で動く。
 ひとつひとつは難しくない。
 拳を作り、指を広げ、手首を曲げ伸ばしする。当たり前の動きだ。けれど、同時に複数の動きをしようとする。しかもそれぞれ意識して動かすとなると簡単なことではない。さらに左右を別の動きにしたり、様々に組み合わせるところまで考えるとなれば大変だ。
 これらの動きは、ホーサグ自身が考えたものだった。昔、テネアとの旅の中で身体が変化してしまい、魔法によって元に戻りはしたものの、自分でも動きがぎこちなく思えた。そこで、自分の動きというものを確認するため、少しずつ考えていったのだ。
 動きは、考えているものと実際の動きが異なる。訓練を始めた頃は、そんな基本的なことさえ分かっていなかった。そのぶん、鏡など使って確認してみた時に見つかる差異に焦りを感じた。身体が自分のものでない感覚、とまで感じた。
 けれどやがて、そういうものだと納得できた。なんであれ、見方が変われば別の印象がもたらされるものだ。それが自分の身体であっても、内側と外側で印象が違うのは当然なのだ。
 ただし、身体を動かすということになれば、この差は小さい方がいい。思うままに動くとは、内側の動きと外側の動きを、合わせることなのだ。
 さらに剣を扱うなら、剣の存在もまた内側の視点で扱うことになる。それができるようなら、剣を身体の一部のごとく自在に扱えるだろう。
 当然ながら、そのために身体を鍛えることが関わってくる。筋力をつけ骨を太くしなければ、物それ自体の重さや固さに対応できない。
 そうした条件を考慮して、ホーサグは自分なりの訓練の体系を作り上げてきた。もちろんそれは、ひとりでただ身体を動かすというだけの訓練だ。相手がある戦いにおいては、上手に動くだけでは意味がない。互いの状況を把握して、どう動くべきかという一瞬の判断が勝敗を分ける。それは、自分だけの訓練では成長できにくいのだ。
 それでも、メイリに体術を教えることは意味があると思う。剣で戦う必要がなくても、動ける身体を作っておくことは大切だと思うからだ。たとえこの世界では筋肉を増やすことができなかったとしても、意識の上だけでも、おそらく鍛えることはできるだろうから。
 それにしても、ィメイリの成長速度はめざましいものがあった。新しい動きを、ちょっと試すだけで覚えてしまうのだ。
 それはこの世界ならでは、ということではない。いっしょに教えているィスティナは、ィメイリのようには覚えられないのだから。
 それにしても、
「楽しいぃ」
 余裕たっぷりでィメイリが言う。この世界ではほとんど疲れることがないから、いくらでも動いていられる、にしても、まるで集中力が途切れない。
「踊りみたいだね」
 ィスティナがィメイリの動きを評してそう言う。なるほど、そんな感じだった。
 穏やかで、心安らぐ時間が過ぎてゆく感触。
 そうか、と思うのは、自分流の訓練は、踊りの形にすれば覚えやすいかもしれない、ということ。もっともホーサグには、音楽に素養も踊りの経験もなかったのだが。
 けれど、
「そっか」
 小さく頷いてィスティナが動き出す。さっきまでのぎこちなさは薄れて、うまく動いて……、踊れている。
 ィホーサグはふと、なにかが分かった気がした。自分の訓練は、きっと戦うためにするものだった。ほんの今しがたまで、行いには目的があって、そのために組み立てられてゆくのが正しいと思いこんでいた。
 いや、そんなことさえ気づいていなかった。
 そうではなく、ひとつの行いによって何かを拘束するのではなく、別の可能性を拓いてゆくことがありうる。時には、目的が変わることもあり得る。
 戦いのための訓練が踊りのための訓練になったり、逆に、踊りのための訓練が戦いのためのものになったり、いやもっと別のなにかになったりもする。
 ィメイリとイスティナが踊る。いつしか戦いの訓練という枠を外れて、ただ楽しそうに踊る。動きを合わせ、時に外し、会話するように動きを交歓する。
 ああ、けれど……とィホーサグは気づく。
 この楽しさの基礎に、自分が教えた動きがある。互いに共有していること、そのための確認をする視座が必要とされる。
 そうしてィホーサグはふっと醒める。
 だが、ならばどうだというのだ。
 なにかとても大切なことに気づいたようなこの感触は、なにかをもたらしてくれるのか。
「踊ろうよ」
 ィメイリが声を上げた。
 疲れそうだと反射的に臆し、すぐに、ここではその心配はいらないかもしれないと思う。それでも、
「おれのは踊りじゃないぞ」
 と返した。

 どこまでも続くこの白い世界に、広さは、限りはあるのだろうか。
 ィロウチは考える。
 ただ青い竜だけが、一度この場から遠ざかった。確かめようとしたのだろう。
 ィロウチは自分の持つ力、小さな目が、この世界の外に出たことを知っている。なんらかの形で出られるのだ。
 今、自分の目を開けている。
 だから外の様子は見えない。闇の大樹がどうなったのか、気にはなったけれど、ずっと見ていられはしなかったのだ。
 この世界、無限に続きそうな白い広がりに、ひときわ大きく、強く存在感を放つ大小二頭の竜の姿がある。なにか知っているのかどうか、それさえも分からない。
 ただ、なぜだか恐怖心がなかった。
 最も強く、あるいは賢くさえある、けれど残酷で、人、とりわけ魔導師を食うとされる竜。なのに、この世界にいる竜二頭は、暴れもしない、襲ってもこない。強い存在感があるのに、なにも主張していない。
 不思議だった。
 かなうならば、あれらと話してみたい。けれどきっと、竜は人の言葉など使わないのだろう。それでも、ただ遠ざけているだけではなにも分からない。なにも変わらないに違いない。
 行ってみよう、と思った。
「ちょっと、行ってみます」
 とだけ声をかけた。返事はなかった。
 そうして歩いてゆく。
 歩く、という行動ができることも、考えてみれば不思議だ。この世界は、なにか勝手が違う。身体なんてあるようでないようで、やっぱりあるようだ。あるのだけれど、自分の知っている身体ではないように思える。ただ、自分の知っている身体について、ちゃんと知っているのかどうか自信がない。漠然となんとなく、こういうものだで過ごしてきただけだという気がする。今だって、漠然としか感じられていない。漠然と漠然と比べてみたって、どこが正しいのかどう間違っているのか、判断なんてできそうにない。けれど、それでも違うと思ってしまう。なにか気持ち悪く感じてしまう。
 近づけば、竜の姿がより鮮明に見える。固そうな皮膚を持つ生物。それは想像の通り。けれど、実際に見た印象は想像とは違う。想像よりでこぼこしている。小さな突起がたくさんある。山の肌が固くなったようで、よく見れば滑らかな印象もあって。
 まるで自分が近づくのを待っているようだ。
 そう考えたら、ふいに緊張してきた。恐いのではなくて、まるで自分が試されているみたいに感じたから。
 なにをどう試されているのか、具体的には想像もできないけれど、なにか重要な、とても大きな役目があって、それに自分が相応しいかどうかを判定されるみたいな、なんの根拠もない感触。
「おまえに世界は救えない」
 いきなり誰かにそう言われたら……。
 それでもィロウチは止まらない。気がつけば手に武器を握っている。兄にもらった突きのための剣。父の名を持つ武器。こんなもので竜に勝てると思うわけではない。ただ心強くある。
 ここには風もない。それでも呼吸する。長く、少し強く吐き、短く吸う。鼻先に小さな風。
 徐々に大きく、圧倒的に聳える巨竜。近すぎれば会話など成立しないだろう。遠ければ声も届かないだろう。こんなことで、ささやかな決意さえ砕け散る。足がすくむ。
 青き竜、ルシフスが飛び立ったのが分かった。一瞬、逃げだそうかと迷う。けれど竜は、ィロウチのためらいなど忖度するはずもなく、一気に近づいてきて目の前に降りたのだ。行く手に、立ちふさがるように。
 竜の表情など分からない。自ら死地に飛び込んだィロウチを嘲笑しているのか、いぶかしんでいるのか、そんな区別さえつかない。
 なにか言おう、と思う。けれど言葉にならない。なぜ自分はここに来たのだろう。きっと、なにか尋ねようと思っていたはずなのに。
 もちろん戦うつもりなどなかった。なのに気づけば、剣を向けていた。
 ルシフスの視線を、この時初めて感じた。次の瞬間、それは来た。世界を圧縮して放つ、それは意味の洪水であった。
 身体を支えていられない。この世界でも身体があって、重さがあって、だからィロウチは膝から崩折れる。滑らかで柔らかな地面に引き込まれる。それでも、ィルシフスの攻撃は終わらない。
 不思議な感覚だった。
 それはきっと言葉ではない。けれど、言葉を受け取る仕組みに関わっている。感覚が生じ、感覚は自分なりの形に解釈されて受け取る。その解釈のひとつの形が、言葉というやり口だ。言葉は、過去に感じた感覚を、ある音の連鎖に代表させて整理する仕組みだ。感覚はいつだって、まったく同じになることはない。けれど、似ている感覚を言葉でまとめ、同じであることにする。そうすることで、感覚を再利用可能にする。さらに、出会ったことのない複数の感覚を、比較したり統合したりすることもできる。
 ィロウチは青き竜からほとばしる感覚を、ただ受け止めている。逆らわず、かわすこともなく、ただおのれの感覚と共鳴するところだけを感じ取る。
 青い竜から送られてくる情報の波は、言葉のように、なにかを象徴し代表する粒子によって作られているようだ。だからきちんと受け取るには、それを解きほぐしてやる手段を必要とするのだろう。今のィロウチには、そんなことができるはずもない。それでも、相手が伝えようとしていることが正しく受け取れなくても、自分なりに、自分の中にある感覚や感情が引き出される。勝手に思いこむことができる。
 言葉と同じように。
 ィロウチが受け取れるのは、ただ、ィロウチ自身、ロウチの経験の中にあるもの。そこから想像によって広げられるだけの心象まで。
 誤解であるに違いない。伝わってなどいないのかもしれない。だが、ィロウチにはィロウチなりのなにかが受け取れてしまう。
 やがてふいに、ィルシフスから放たれていた情報の奔流が途絶える。
 その時ィロウチは、わき上がる無数の、自分自身の記憶によって生み出される夢の中にいた。
 感じている。理解している。
 すべてが、自分自身の身体と身体によってもたらされる感覚、その蓄積によって構築される記憶からなる。
 例外はない。
 すべてだ。

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