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魔法物語 空の闇 No.31
異なる世界の同じ場所。
そのことに気づかなかったとしても仕方のないことだったろう。
初めて訪れた時、そこは夜だった。状況がよく見渡せなかった。なにより、最大の目印がいなかった。
竜の大地と呼ばれる土地に、その名の理由となった巨竜がいなかったのだから。
けれどようやく、ィロウチは気づいていた。ここには来たことがある。正確には、この場所を通り抜けた記憶がある。
ただしその時も、音がなかった。冷たいはずの風の感触もなかった。ただ魔法の、小さな目を通して見ただけだったと。
同じ場所。たぶん同じはずの場所。小さな相違があるには違いないけれど、そこまでは分からない。だいたい、おおよそ同じ場所。
ニウルカの山。竜の大地を越えて、その山の中腹にある、魔導師の住む洞窟に、一度だけ来たことがある。
今、空を覆い尽くすほどに大きくなった闇の大樹が背後にある。けれどィロウチはそれを見ない。ただ、魔導師のいるはずの洞窟を目指す。
音が聞こえていないから、背後で大きな変化が生じても気づけない。
すみやかに昇り、少し迷い、けれどほどなく洞窟の入り口を見つけた。ィロウチが暮らした世界では、ここにラシリウスという魔導師が住んでいた。
ためらわず中に入る。小さな目だけでは話すこともできない。けれど、ラシリウスは気づいてくれた。気づいてもらえれば、なにか変われるかもしれない。
小さな目は進む。入り口から光が射し込み、反射光がもう少し先まで見せてくれる。その程度で、ここで誰かが暮らしていたと分かる。
だが、それまでだった。
奥まで進んでも中に光が届かない。ほとんど見えないのだ。それでも、ここに人気がないのは分かる。どうやら留守らしいのだ。
しばらく飛び回ってみた。暗くて分からず、岩壁に突っ込んだりもした。だが収穫はない。
諦めて外に出ることにした。
その眼前に闇の大樹があった。洞窟の中からは、その全貌を見ることはできない。空高く、それは延びているに違いない。ただ、根本付近を見下ろせる。
そこに、残された巨竜の姿があった。
まるで闇の大樹をへし折ろうとでもするように、強大な尾を打ち下ろしている。なぜだかその尾は闇の大樹に呑み込まれることなく、とはいえ闇の大樹を砕くような様子もなく、ただその根本の地面を穿つように打ち下ろされるのだ。砂礫をまき散らし、近くにいた魔物たちを巻き添えにして。
徐々に闇の大樹の根が露わになる。それは意外なほど貧弱に見えた。遙かな空に届く樹にしては、ほとんど広がることなく、ただその場につながっているだけ、と見えた。そうして巨竜は、その根が張った地面を掘っている。
風が吹けば、倒れてしまうのではないか。
ィロウチはそう思う。けれど小さな目は風を感じられない。闇の大樹が、風に吹かれている様子も見えない。
抜き身の剣を手にしたままのタイファを抱いて、オクライは空にあった。
闇の大樹と残った巨竜が、なにか剣呑な関係になったと察して、急いで距離を取ったのだ。
風が強い。だが、闇の大樹はそよぐ様子もない。樹の形状をして、枝や葉もつけているように見えるが、物質的な存在ではないのかもしれない。
巨竜が身体を回す。尾を立て、闇の大樹に迫る。そこから、なぜだか尾を使って大樹の根本を攻撃し始めた。攻撃と見えた。
だがしばらくするうちに様子が分かってくる。
(くびきか……)
オクライはそう感じた。
大樹の根を、大樹全体を支えるものと考えるのではなく、その反対に捉えたのだ。この大地に、あの巨樹をつなぎ止めておくものと考えたのだ。
貧弱な根が現れても、闇の大樹は不動のままで、倒れるどころか揺らぎもしない。風にそよぐこともない。状況的には、巨大な風船を根が大地につなぎ止めているようだ。が、あまりに巨樹はどっしりと重く見える。
巨竜は止まる。様子を見るように少し離れる。すると巨樹が揺れた。ゆっくりと大きく、まるで背伸びするように動く。
「浮かぶぞ」
タイファがそう言うのを、かろうじて聞き取って、オクライはふと、身体に力が入るのを感じた。それに合わせるように、闇の巨樹があっけなく浮かんだ。
まるではぐらかされたような気分。だが同時に、驚きもする。
闇の大樹が通常の物質ではないことを、オクライは承知していたはずだった。その成長速度といい、外見上の黒さが尋常ならざることといい、なにより、闇の種という魔法そのものから発生したことといい、樹木として見るべきではないと考えるべきだった。だが、その形状とその成長の仕方が、あまりにも植物的であった。
この世界において、この闇の大樹に匹敵するほどの大樹は、確かに存在している。メイリが眠っていた樹も大きかったが、あれよりずっと大きな樹木が存在していることも承知していた。その知識が、オクライの感覚の混乱の理由だったのかもしれない。
闇の大樹はゆるゆると浮かんでいく。大地に広がっていた根も、もちろん浮かんで行く。そればかりか、根から枝が出る。上方に伸びた幹や枝と少し状況は違うが、あらためて根を枝として伸ばし、葉も茂らせてゆくのだ。
なにかを表象しているのか。もしそうであるとすれば、それは……。
(空間か)
オクライにとって空間とは、連続性を作り出す理由となる現象、その基礎となるものであった。そうして、闇の大樹の発生過程は、まるで連続性そのものの発生であるかのようにも考えられる。
一方、闇とは光が存在しない状況だ。物理的な意味で光とは、直線的に貫く現象であり、それは空間の広がりそのものでもある。光のない状況での連続性は、空間の限界を示すことがない。つまり、大きいとはいえ有限に見える闇の大樹は、空間の無限性を象徴的に内包する。
オクライは微笑む。
その思考は半ば冗談だった。理解の及ばぬ状況を、無理矢理自分の理解に落とし込むならば、諦めと諦めきれない希望の衝突によって、笑いを生む。
理解したことにしない。理解できなかった標として、オクライはここで微笑んだ。
「下ろしてくれ」
タイファの声を聞き取れた。羽交い締めのように抱いている魔法の源は、あの大樹に向かって、その長剣を振ろうとでもいうのか。
「分かった」
オクライはなめらかに弧を描いて着陸する。少し地面より高いところで、予告もなしに腕を離した。
だがタイファは、あせることもなく姿勢を整え、危なげなく降り立った。それから剣を正眼に構える。切っ先が闇の大樹や巨竜に届くはずもないが、おそらくそれがタイファなりの落ち着き方なのだろう。少しして何度か振り、それから背中の鞘に納めた。
その横にオクライは降りる。
タイファは、翼が風を切る音を聞く。
あの魔導師がすぐ横に立ったが、あえて見ない。ただ気配がある。体温と体臭と、魔法の気配。
闇の大樹の威容には圧倒されていた。自分が作り出したものなのだと、あえて強く考えている。
面白い、と言えないこともない。ただ風景だけなら面白がることができる。けれど、それでは済まないだろう。あんなものが空にあれば、それだけで様々な悪影響が生じるだろうと予想できる。
思うに、あれは世界の終焉を前提に生み出された魔法なのだろう。どのみち世界が終わってしまうなら、ある程度の破壊なども許容されるからだ。
だが、クローニによる破局が去った今、条件は変わってしまっている。もしかしたら、破滅を救う手段によって別の破滅がもたらされるかもしれないのだ。
「あれをどう思う」
オクライに尋ねられて、タイファは答えられない。不吉だ、とでも言えばいいのか。それはあまりに無責任な態度だ。
あれ、すなわち闇によっ構成された大樹。幹があり、枝があり、葉がある、ように見える。だがもちろん、当たり前の植物ではない。それを透かして見る空は少し歪に感じる。青空のはずが、やや紫がかっている。
「世界を、呑み込んでしまいそうだ」
やがてただ、それだけを答えた。
「そうかもしれんが、あるいはあれ自体が世界なのかもしれん。この世界を呑み込んで、次の世界をもたらすのかもしれん」
「かもしれんばかりだな」
タイファは答えたのではなく、ほとんど独り言のような調子でそう言った。だがオクライは聞き咎める。
「放たれた大きな力がなにをもたらすのかを、正確に知ることはできん」
「かもしれんな」
承知の上でそう言ってタイファは冷笑した。だが、なればこそ自分は責任を感じるべきではないのか、とも思った。もっとも、どんな責任を取れるかは分からない。なにもかもが未知数なのだ。
「世界を呑み込んで、どうなる」
オクライは責めるように言う。
「新しく世界を作る材料とするのかもしれん」
「世界の材料が世界か」
奇妙な問答だった。問いと答えが、合わせ鏡のように、互いを映し出す。
世界を破滅から救う、という言葉が奇妙なのかもしれない。それはたとえば、人が生きていけるという意味で世界なのだろうか。人が皆死んでしまって誰もいなくなれば、それで世界は終わったことになるのか。だが、それで世界が滅びたことになるだろうか。
あるいはまた、世界が新しく作られるとはどういうことなのか。新しいとは、なにをもって新しいと判断されるのだろうか。
もしかしたらそれは、時を経て作り直されたということなのか。
「世界というほどではないが、街がひとつ、作り直された場面に出会ったことがある」
オオクラクと呼ばれた過去の街が、かつての時間から再生された状況に、タイファは出会ったことがあった。あれは、ある意味、世界の作り直しということにならないだろうか。もし、新しく世界を作るということが、あれと似たようなものだとしたらどうだ。
「それは、時を作り直すということなのではないか」
オクライが言う。なぜだか急いだように。
タイファは一瞬混乱した。街の再生は、街の時間のやり直し、なのか。
「……そうか」
いや、それはただ言葉でだけ、言い換えただけということにならないだろうか。
ただひとつ言えることがあるとしたら、どのような世界が作られてしまったとしても、タイファが思い描くようにはならないだろうということ。
やり直しの機会を作ってしまったのだとしても、ならば自分に取れる責任などないだろう。
もちろん、だからそれで良い、とはならないだろうが。
「動いている」
オクライのつぶやきが聞こえた。
たとえば雲のように、動きを簡単に感じさせたりせずに、いつしか動いている。
「上に、行くのか」
タイファは自分の言葉に納得する。上に、はるかな高みに行ってもらえば、災害は回避できるかもしれない。だが、上とはなんだ。
タイファは知らない。上には、途方もない広がりがあるのだということを。
あまりに分からないことばかりで、ィセグロは苛立つばかりだ。
ィロウチが小さな目によって外の映像を見せてくれる。けれど、それはきわめて限定的だ。
しばらく見えていたのは、山の中腹にある洞窟の内部だった。
そこがラシリウスという魔導師の住処であることは、以前に聞いていた話から推測できた。
その人物が、現在の自分たちの状況に大きな変化をもたらすであろうことを、ィセグロは当然のように察していた。こういう危険を伴うような話には、昔から奇妙な感覚が働く。ある種のにおいとして感じるのだ。焚き火の燃え残りのようなにおい、鍋を空焚きした時のにおい、降り始めた雨の滴が地面に達した時のにおい。そうした、少しだけ特別な状況を示すにおい、感じ取る嗅覚。
どうやらラシリウスは留守と思われた。だがィセグロはまだ、火薬が燃えた後のような、不安を誘うにおいを感じ続けている。
小さな目が早々に見切りをつけて外に出た後も、後ろ髪を引かれるような未練が残る。
とはいえ、眼前に広がる景色には圧倒されるのだ。
闇の大樹の根を攻撃する巨竜。
大地を離れ浮かび上がる大樹。
ゆっくりと空へ、さらに上昇する。
「ぉお」
誰かが声にもらした。ィセグロ自身であったかもしれなかった。
小さな目によって投影されるその情景は、切り取られ限られた映像に過ぎない。音もない。ただ、ひどく想像力を刺激する。記憶が想起される。
とりわけ空。空だ。かつてオクライに抱えられ、はるかに高い場所から見た情景。前を見て、地面を含むことのない風景。まさしく風の景色。全身を包んでいた冷たい風の記憶とともに。
この時、ィセグロは思い出す。
空にある、冷たい光球のことを。ルーニの瞳とも呼ばれた、夜空を照らす光のことを。
闇の大樹は、あそこに行こうとしているのかもしれないと、なんの根拠もなく思う。
なにかにつけ対応策を考えてしまうィセグロが、どうすることもできない状況を思い描き、それでも絶望も希望もなく、ただ夢想する。
もしかしたら闇の大樹は、あれを食うのかもしれない。たとえば別のなにかになるために。
ただしまだ、光球は姿を現さない。