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魔法物語 夢の交錯 No.33
夢は断片的だった。
父が寂しそうな目をした。
その顔が忘れられなかった。
特別な状況だったという記憶がない。ただ、まっすぐに父の顔を見たこと自体、あまりなかったのかもしれない。まして彼が無防備に感情を露わにしていたことは、とても珍しかった。
いつも、たくさんいる子どもたちに囲まれて、楽しそうにしていた。幸せそうにしていた。けれど本当に幸せだったのか、楽しかったのかと疑ってしまう。あの寂しそうな目が、その理由になる。
楽しい? 幸せ?
そんなふうに尋ねることも、もうできない。
記憶は、それぞれにとって確かであることを作り上げるけれど、記憶そのものはどこか不確かで、不定形の輪郭を持つ。無数の記憶が不確かな輪郭を重ね合わせ、時に溶け合って、より大きな記憶を構成してゆくことで、個々の記憶はその位置を確保する。あたかも強固な立ち位置があるかのように作用する。
人はそれを確かであるとし、“正しい”と呼ぶ。揺るがすことができない真理として深く沈む。
それぞれの記憶が異なるために、それぞれに異なる真理が構築される。
母が微笑んでいる。
「あなたの名前は、おばあちゃんと同じなの」
そう説明された姉は、少し不満そうだ。
「なんでよ」
自分だけの名前がいい、と言う。
「お父さんがそうしたのよ。おばあちゃんは、あんまり幸せじゃなかったからね」
「不幸になる名前なの?」
母は少し首をかしげる。
「お父さんはね、おばあちゃんに拾われて育てられたの。だからずっと、おばあちゃんを幸せにしてあげなくちゃって、思ってたって」
母は空を仰ぐ。草原に伸びたその道は、母が子供たちを連れて行く散歩道。今日は、いちばん上の姉と、いちばん下の自分のふたりだけ。
「おばあちゃん、死んじゃったんでしょ」
「だからよ。お父さんが幸せにしてあげられるようになる前に火事で死んじゃったの」
「あたしも死んじゃうの?」
風が吹いた。周囲の草たちがざわざわと騒いだ。
母は静かに姉を見つめる。
「きっと誓いなのね」
「誓い?」
「決意、と言うのかな」
ゆっくりと進む。ぼくの足でもついてゆける。
「なにそれ」
「だからね、お父さんはあなたを、決して不幸にしない、そういうつもりだったのよ」
母は姉の頭に手を置いた。
もう少し歩くと木陰を作ってくれる樹があって、そこで少し休んだり遊んだりしたら帰る。
姉はまだ納得できていないようだった。けれど、それ以上は言わなかった。
記憶そのものと、記憶の欠片がつながりあって物語のように変わったもの。いずれにも属さない、動かない絵のような情景。声、音、におい。
けれどいずれもが、正しいと証すことができない。
ただ夢の中にある。
居間に兄がいることに驚き、喜んでいる。とっさに浮かんだ言葉は、
「おかえり」
帰ってきたの? 疑問を呑み込む。なんの理由もなく、そんな質問をためらう。
「やっと、な」
心の声に応えたみたいに、長兄はなぜだか右腕に力こぶを作って見せる。
「兄さん、旅はどうだった?」
次兄がためらわず尋ねる。
「つらくて面白くて、きつくて楽しい」
汚れたように日に焼けた笑顔。
「すげー」
なんだか分からないまま反応する。
「いつかおまえも行くさ」
「無理無理、この子には無理」
いつからいたのだろう。姉たちが声をそろえる。
「行くさ」
「その前に俺」
次兄が兄を真似て力こぶを作った。
「がんばれー」
姉たちがからかうように笑った。
嬉しい情景があって、ただ懐かしむ。けれど思い出そうとすると不確かになる。細部がはっきりしているのに、大きな欠落があると感じている。見ていなかったのかもしれない。聞いていなかったのかもしれない。勝手な想像でおぎなってしまえば、あるものがなかったことに、ないものがあったことになって定着する。
思い出すたびに情景が繰り返され、けれど正しいことばかりが繰り返されるとは限らない。強まることもあれば薄れゆくこともある。そうして記憶は積もってゆく。
どれもこれも完全には信用できない。それでも、どれもこれもが大切で愛おしい。
父と追いかけっこをしたら絶対に勝てない。
兄弟はみんな承知で、それでも父に追ってほしくて、ちょっとしたいたずらをした。
父の背を叩いて逃げる遊び。同時にふたり以上で叩いて、別々の方向に逃げる。ただそれだけ。一瞬、父がどっちを追うのか迷う。それが楽しくて。
けれど何度も繰り返すうちに、父は小さい順に追ってくるらしいと分かってくる。いちばん小さいぼくは、真っ先に捕まってしまう。
それが悔しくて、いつも必死だった。
ある日、ぼくはすぐ上の姉を追い越した。振り返ったら、父が驚いた顔をしていた。
ひどく誇らしい気持ち。
ああ、これは竜が呼んだのだ。
竜がこれらの夢を呼び出しているのだ。
ただ竜は無数の情景を、無数の意味を、無数の意図を、言葉でない形で放ったのだ。それを受けて、おのれの中にあった記憶を、そこに沈殿していた思いを、池の底をかき混ぜたみたいにされて見通せなくなった過去から、高く浮かび上がった破片がもたらした夢。
かすかに残った理性が、醒めた視線で夢を選び出して、淡く評価している。
幸せであった記憶。幸せであった夢。
けれど理性は思い出してしまう。
ここに描かれた幸せは、それをもたらした家族は、自分のいるこの世界にはいない。
きっと、はじめから存在していない。
空を行く夢にいる。
空を越えて空(くう)に届く。
そこから見下ろせば世界が見える。いくつもの世界が泡のようになってひしめく。どの世界も世界で、等しく世界であり、あり続けている。
「どれが本当の世界ですか」
問いかけてみても答えはない。それとも、「いずれもが本当の世界です」と返ってきている。
ここは夢だから、同時にふたつのことが起こる。起こりうる。
どれもが本当の世界で、どれも本当の世界ではない。
気づけばぼくは、一羽の黒い鳥になって、無数の世界が連なるこの空を飛んでいる。翼を広げて、軽い羽ばたきひとつで、いくらでも速度を上げて飛ぶことができる。
ラギュ。不吉とされる鳥。
ぼくは不吉な鳥となって、複数の世界を貫いて飛ぶ。かすかに、少しずつ世界を感じる。
世界のすべてに不幸があり、あるいは幸福がある。どれも同じでどれも違う。ただある。
かまわず飛ぶ。飛び、越えてゆく。
ここは夢だ。だからなんでもありで、けれどぼくの夢だ。だからぼくという限界の内側から出られない。どんなに飛んでもぼくの中。
気づいてしまえば、夢が果てる。
朝がもたらされる。
小鳥のさえずりが聞こえた。
ロウチは静かに目覚めた。
河原に風避けをして簡単な寝どころをこしらえ、毛布に包まれて寝ていた。身体のあちこちが痛むが、こうした寝方ももう慣れてきている。
ただこの日、いつになく淡い目覚めだった。
ふわりと家族の顔を思い出していた。きっと、見た夢のせいだった。なぜだか頬に、涙の痕があった。まるで家族が恋しくなったみたいだと苦笑。
それだけではない。
奇妙な白い闇の世界に閉じこめられているような気分がする。それがなんであるのかは分からない。息苦しいような、むしろ開放的であるような、混沌とした感触。包み込まれている。
なにか特別なことのような気がしたが、単なる夢とどう違うのか判断できなかった。
ひとまずあれこれと片づける。川の水を飲み、干し肉を少しかじって朝食とした。荷物をまとめ、出発。
ロウチは緊張していた。
これまでの旅は、とりたてて危険なことも、困難な行程もなかった。些細な怪我や、思いがけぬ出会いさえもなかった。
それはあらかじめ小さな目による偵察をしていたからでもあった。平穏な旅であることに不満を抱くのも贅沢というものだろう。
けれど今日、旅の状況が大きく変わるはずだった。ついに、最初の目的地に到着するのだ。
王都・グリニウス。この国で、もっとも大きな街。小さな目で眺めただけでは、どのような危険があるのか、それさえ判断できない。
それでも偵察だけはした。かつて兄から聞いた街の様子とは、なにかが違っている気がした。ただし、音もにおいも気配も、魔法の小さな目からは伝わらない。違っているなにかは、そんな伝わらないなにかの中にあるように感じていた。
今日の夕方には、到着するはずだ。
そんな朝に見た奇妙な夢を、なんらかの予兆であるように感じてしまうのも仕方ないのかもしれない。けれど、それがなにをあらわしているのか、少しも思い浮かばないのである。
それならば進むしかない。自分の目で、耳で確かめる必要があると思うのだ。
「さあ、行くか」
自分に聞かせてやる。たよりない自分を声と言葉で支えてやる。それでなんとか行動する。
旅に出たからといって、そんなにすぐにたくましくなるはずもなかった。砂や石に足を取られ、最低限にしぼった荷物の重さが相変わらずつらい。
けれど気持ちはまだ折れていない。
なにか壮大な変異が、世界で起こっているらしいことを、なんとなく感じている。けれど自分の力でそこに関わることになるだなんて、とうてい思えなくて。それでも、こうして旅に出たことが、なにかちょっとした意味をもたらしてくれるかもしれないと思う。
それだけで十分だ。いや、正直なところ、世界の命運、なんてことに正面から関わりたくはない。
顔を上げる。空を見る。濁った空だ。
それと同じくらい濁った、鳥の声が聞こえる。
ラギュ。覚えのあるその声は、ラギュの声に違いなかった。
反射的にその姿を探す。と同時に、ラギュはもう一声鳴いた。
見つけた。
河原沿いに並んだ木の、ひときわ高い一本、その梢近くに、黒い鳥の姿があった。濁ってはいるけれど比較的明るい雲を背景に、ラギュはこちらを見ている。
ロウチは目を閉じた。小さな目は、すぐ横に連れてきていた。そいつを行かす。ひゅんと飛んで止まる。
小さな目はラギュのすぐ近くまで行って、するりと静止してラギュを見る。すると、心なしかラギュもまた、小さな目を見つめているような気がした。
「どうした」
思わず声に出して問うた。声など届くはずもないのに。 ただなぜだか、ラギュが小さく頷いた。
それから顔をあげて、一声。