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木曜日の朝に インターバル

 木曜の朝に、毎週ショートショートを書いて、その日のうちに公開する、ということをこれまでやってきましたが、今週は小説についてはお休みしようと思うわけです。
 さて……。
 こういうやりかたをしていると、日々の生活というのが作品に影響していきます。それをいかに楽しむか、というのが遊びで小説を書く、という行為に重なってくるわけです。実際、このところの体調不良や、社会に対する不満や不安を、小説の形にしてきた、という面も否定できません。
 そんな日々の中で、最近、小説を書くという行為そのものについて話している場面に遭遇しました。商業作品に挫折して、小説の世界から離れた、という話。あるいは、そんな中で生き残っていることのありがたさ、など。
 このあたり、私自身も長く考えてきたことなので、こうして無償で小説を書いて公開する、ということを、私自身がどう捉えているのか、書いておいてもいいのではないか、と思ったのです。
 ずいぶん昔に、小説の本を発表していて、今でも時々思い出してもらえる、という今の状況は、作家としては間違いなく挫折組です。こういう時、あるべき姿としては、静かにエゴサーチでもして、黙って過ごす、というのが基本的な姿勢であるようにイメージします。なのに、なぜ私は小説を書こうとするのか、それを発表するのか。
 それは、職業作家という状況に見切りをつけはしたものの、まだ小説という形式自体には見切りをつけられていない、からなのです。
 子どもの頃には、職業小説家になりたいと思いました。それは、小説を書くという行為によって生活をしてゆく、という状態へのあこがれでした。
 サラリーマンや、教師や職人や店の経営者、というあたりが子どもの頃の浅い認識での「生活の糧を得る」です。そんな中、小説を書くとか、マンガを描くとか、そういうことで日々を暮らしてゆく方向は、なんだかいかにも、主体的に「やりたいこと」で過ごす方法に思えており、そういう方向が自分には向いていると感じていたのでしょう。
 ではどうすればなれるのか。
 それは、出版社や編集者から求められるような作品を執筆し、それを読んで貰って職業にすればいい。新人賞とか持ち込みとか、そのための方法もある。
 実際、若い頃には、求められる作品ということを(大いに誤解してはいたものの)目指していたように思います。
 大いに誤解していたのは、求められる作品というのは面白い作品である、という考え違いです。そうして、面白いというのは、なんらかの絶対的な指標があるように決めつけていたのです。ですが、
 はっきり言いますが、ない、のです。
 絶対的に面白い、なんていう評価はあり得ないのです。なぜなら、読書は読者ごとに異なる反応を生む行為であり、ひとつのテキストに読者の数だけ異なる感想が生じるのが当然で、ならば面白いもつまらないも、同じ場所に生じる現象であるのです。
 ベストセラーなる作品を読んで、「なぜこんな本が売れるのだろう」と疑問に思うことはありませんか? 私はいつもそう感じていました。やがて、よく売れているのは面白いからではない、と結論します。だって、本を買ってる人は、その本を読んでないんですから。
 しかし一方、いかに面白いものを書くか、書こうとするか、という気持ちも確かにあって、そこはけっこう加速されちゃってもいる。そのため、自分なりに面白い、という感覚に偏狭になってしまってもいるんですね。こうなると、簡単に路線変更はできません。
 さらに、FSUIRIというところで世話役みたいなことをして、たくさんの人たちの「面白い」に触れていきます。そのこと自体を否定する必要はない。いろんな面白さがある、ということ自体を受け入れます。なにより、そういう話をする人はとても楽しそうなのです。
 つまるところ、作者自身が面白いと思い、その面白さをたくさんの人と共有できる状況がありえること。そうなった時に、職業作家としての好ましい状態が来る。作者が面白いと感じても、それを面白いと思う読者があまりいないのなら、職業作家としては成立しなくなる。
 それは仕方ないじゃないか、と。
 職業作家として頑張ろう、という気持ちはすっかりなくなって、作家が参加する集まりからも身を引くことになりました。本屋さんに行って、目にする本が、「売れるように面白く書いた本」というふうに見えるようになってきて、さすがにそれは失礼だな、と思ったからでもありました。
 ですが、その時点において私には、私なりに面白くあろうとして書いた作品が十冊以上ありました。出版されて、少しは面白がっている読者が存在していることも承知していました。
 そうして、私は自分自身を読者とした時に、その読者を喜ばせる作品を書けそうに思えていました。
 ついでに言うなら、小説によって収入を得なくても、どうにか生活ができるような状況が構築されていました。
 だから、ただ単に書けばいい。

 しかし、それなら別に公開する必要はありませんよね。
 でも、あらゆる創作活動は、自己承認欲求によってなされている、と私は思います。自分の存在を他者に認めてもらいたいという欲求が根幹にあって、ただし自分そのものを他者に評価してもらうのではなく、自分が作り出したものによって評価されたいというふうにねじ曲がっているのが、あらゆる創作物の存在意義なのです。
 さらに、時には読者が、他者の創作物を受け取った時にも、承認欲求が満たされることがある。であるとすれば、私のひねくれた作者が提供するような創作物は、他の、商業的作品からは得られない形の承認を与えることができるかもしれない。どんな形であれ、それは送り出されるべきなのではないか、と思うのです。幸いにして、今は商業出版というルートなしに、作品を送りだすことが簡単に行えます。
 ならば、出しておこう、と。
 書ける限りは書こうと、。
 そこに商業的価値があるのかというと、むしろ「ない」に違いないけれど、だからこそ形にしておこう、としているのですね。
 まあ、現実の社会はというと、私にはひどくひどく不愉快な、愚かしいものに見えているのですけれど、そんなものをどうこうすることは出来そうにない。そんなことはできない仕組みが出来上がっていると思えます。
 でももしかしたら、なればこそどこかのだれかにとって宝石となる可能性を、私は自分の作品に込めたいと思うのです。
 無駄なロマンチストですなあ。

 でもまあ、まだもう少し、書けると思います。
 どこかのだれかにとって、「読んでも良かった」になるために、私自身を確かめながら。
 書いてゆくつもりです。
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 イラストはBingのImageCreatorに冒頭部分を書かせたものです。
 抽象的な文でもなにかしら描きますね。
 

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