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魔法物語 竜の大地2 No.24
陽光を受けてなお、薄く闇に包まれている。
風景は暗く、濁っている。
音はしている。無数の状況を表現する音たち。だがそれらはあまりに多様であり、ひとつの意味をもたらさない。たとえば阿鼻叫喚を強く押しつぶして生まれた静寂。
時に重さがあるだろうか。軽やかに過ぎる時間というものがあるかもしれない。けれど今、限られたこの空間には、進むこともままならぬ、固まりかけた溶岩に似て、粘り着くような重い時が流れている。
空間を構成する巨大な竜が二頭。広い平原すべてを覆い隠すように、身を寄せて横たわっていた。
竜の大地と呼ばれたのは、巨大な竜の上に地面があったからだ。その地面からは独特の瘴気が吹き出し、その場に集う魔物たちの生きる糧となっていた。
だが竜が二頭となった。今、竜はその全身を露わにしている。竜の大地に暮らしていた魔物たちの多くは、徐々にこぼれ落ちて、それでも生きるために竜を取り囲むようにしている。
あたりには霧のように瘴気があふれている。だが、状況が大きく変わったことは間違いなかった。
長い間、魔物たちは互いに殺し合い、食らい合いながら生きていた。それは生きる糧として、というよりも、おのれがおのれであることの証明であった。ここでは、生きるために他を否定しなければならなかった。
だが今、なにかが根本的に変化した。
ただ生きるだけであれば、おおむね保証してくれていた竜の大地が、その恩寵を与えてくれなくなる。その背に、魔物たちを負ってくれなくなりつつある。
竜は急いでいなかった。
ある日、それが始まった。だが、最初の変化はあまりに小さかった。ただ地面に小さな穴が開いただけ。竜の大きさと比べて、あまりに些細な変化。だが、それは少しずつ大きくなってゆく。その身体の大きさに相応しく、ゆっくりとこの変化は進行した。何日もかけ、背中の地面が徐々に裂け、砕け、周囲に落ちていった。その場に暮らす魔物たちも、かまわず落としていった。
そんな変化の中で、さらに起こる。
竜の背が露わになると、変化そのものも見えてくる。
分裂。巨竜が分裂していった。広い背中を、左右に分けてゆく。裂け目には新たな肉が生じる。やがて頭部までもが、ふたつに分かれた。
ゆっくりと静かに、竜は二頭になった。
オクライは飛行艇を上昇させた。距離を取るためだった。竜の大地に横たわる二頭の巨竜を、つぶさに観察するためであった。
「おい大丈夫か」
飛行艇の挙動が予想外であったため、ロブロウが驚いた声をあげる。
「大丈夫」
答えたのはリーラだった。オクライは返事もしない。
外の情景は見えている。全員が、巨大な竜が二頭並んだ様子を確認していた。
竜の周辺の魔物たちと、ほんの少し竜の背中に残った魔物の姿もかろうじて判別できる。だが、それはあまりに小さい。飛行艇の高さと竜の大きさを感じる。
ホーサグは剣の柄を握り、そんな武器のあまりに頼りないことを知る。それでも、そんなものでも、他に頼る物などないのだ。
なぜだかメイリだけはニコニコしていた。
ィセグロが周囲を確認する。
全員が、目覚めた状態で投影された映像を見ていた。状況は共有できているようだ。
「覚悟が必要かもしれないぞ」
ィセグロがそう言うと、ィリーラは怪訝そうな顔をした。このあと起こるかもしれない展開を、おそらく考えてはいないのだろう。
「なにが危険だ?」
とィオクライが尋ねる。ゆるやかに羽根を広げているのは警戒しているということか。
「まずは、飛行艇の挙動だ」
巨竜と戦う、などという愚かしさを発揮することはないだろう。だが、戦わずとも事故は起こり得る。
「墜落させられる可能性は、あるか」
ィオクライが言えば動揺を呼ぶ。
「落とされても、我々は大丈夫かもしれんが」
飛行艇に乗った全員が、死んでしまう、といった場合でも、この世界の者たちには具体的な影響はないのかもしれない。そのための世界であるはずだ。だが、精神的な衝撃は小さくないだろう。自分自身が死ぬ、という経験を、平気で受け止められるとは思えない。とりわけィメイリはまだ幼いのだ。
だが、ィセグロが本当に心配しているのはそこではなかった。
「最大の問題は、この中のことだ」
「なにが起こるっていうんだ」
ィロブロウは、あのことを未経験だ。だが、説明するとなると厄介だ。
「来るかもしれん」
と、それだけでィオクライは察したようだ。
「来るよ」
ィメイリがかわいい声で断言した。
小さな動揺が走る。
巨竜の姿を見下ろす映像も見える。その迫力は見る者を釘付けにする。けれど、そこにある不自然さに気づいているのは、まだひとりきりだった。
そこに、映るはずのないものが投影されている。
明確な形を知るわけではない。
それが作られたのはィロウチがこの世界に生じたよりも後のことだ。当然、全体像を見たわけではない。
けれど分かる。
竜の大地に横たわる二頭の巨竜の映像に、小さく映り込んでいるのは、オクライが作った飛行艇だ。
小さな目はルシフスを追って異なる世界へと跳躍したはずだったのに、今、また同じ世界へとたどり着いてしまったということなのか。
いや、そもそもルシフスに出会ったのが異世界だったはずだ。ということは、ルシフスを追ってたどり着いたのがこの世界だったのか。
それとも、もっと別の、複数の異なる世界を結びつける力が存在するのだろうか。
だがィロウチは、もうひとつ可能性があることに気づく。それは、オクライが何人もいて、そのオクライがそれぞれに飛行艇を作り、竜の大地を目指して移動してきた、という考え。
ィロウチは小さな目を進ませる。素早く飛行艇の内部に入り込もうとする。小さな目なら、それくらいのことはたやすくできるはずだ。
けれど臆した。ふいに巨竜が動いたからだ。二頭の竜が、飛行艇と小さな目のどちらかに気づいたように、視線を動かし、頭部をひねった。ィロウチはその一頭の視線に射すくめられたように凍りつく。
その時、飛行艇が上昇を開始した。まるで小さい目の視界に近づこうとするようだ。いや、二頭の巨竜から逃げるようだった。
すると悲鳴が聞こえた。
「来た」と声が重なる。
どちらも少女の声だった。
小さい目を通しては音声は伝わらないはず。だから、
思わずィロウチは目を開ける。
そうして圧倒された。
視界いっぱいに広がるそれは、ついさっき睨まれた竜の姿だった。ちょっとした城ほどの頭部が、すぐ近くにあった。身体の大きさは判断も出来ない。
他の仲間たちの姿を探す。とっさには全員いるかどうかを確認できないが、いない者があるかどうかも確認できない。
数歩下がる。
視野に下りてくる影があった。白い翼を持つ、後ろ姿でもィオクライと分かる。あえて巨竜の眼前に進んだに違いないのだ。
なにをするのか。
けれどィオクライはなにもしない。ただ竜の発する圧力を受け止めている。
しばしの対峙を、ィロウチは息を呑んで見つめた。
緊張を破ったのは、鳴き声だった。
青き竜ルシフスの呼ぶ声であった。どこへ行っていたのか分からないほど遠くに消えた竜が、おそらくは巨竜の気配を察して戻ってきたのだ。
ィロウチの腕が強く引かれた。
「離れよう」
ィセグロだった。
風が巻いた。
大きな渦が、二頭の巨竜を包むように流れて、魔物たちを生かす瘴気の雲が吹き払われる。
竜の片方がゆっくりと頭を上げて左右に振った。石や砂が強くばらまかれる。
「だれかいるぞ」
ホーサグが声を上げる。
「いるよ」
メイリが断言する。
頭を動かした竜の、前方。なぜか魔物たちの密度が薄くなっている。霧のような瘴気も吹き払われ、地面が露出している。
長身、長髪。おそらく男と見えた。長い剣を抜き、右手で斜めに下げていた。
黒い髪が、風に巻かれる。
ふいに、黒い翼を持つ魔物が襲いかかる。剣を切り上げ、男はその影を断ち切る。目に見えないほどの速さで切り、元の体勢に戻る。
「すげえ」
ホーサグが率直な賞賛をもらす。
「強い」
リーラが呟く。
「だが、どういうことだ。なにをしようとしている」
オクライが呻いた。
その時、竜が動く。剣を持つ男を、食べてしまおうとするように、大きな口を開ける。首を伸ばしてくる。
魔物たちの影が一斉に動いた。竜に呑み込まれてしまわぬように、離れようとする。
男の剣が無造作に動く。邪魔になる魔物たちを払いのけるように。そうして、大きく開いた竜のあぎとに向けて、ゆっくりと進む。並んだ歯の隙間を抜けて、竜の舌の上に乗る。
「ああ」
メイリが悲鳴をあげた。
竜の口はおそろしい勢いで閉ざされた。
ィセグロは動いていた。
老いたと自覚してはいたが、この世界でならほとんど疲れるということがなく、身体の痛みから躊躇したあれもこれも、ただ気持ちだけで乗り越えられる。
もちろん、心が老いた身体に合わせてしまっている。習慣は染み着いている。
面倒だと思う。厄介ならば腰が引ける。なるべく楽をしたいと考えてしまう。
けれど本当にやるべきことがあり、それと気づけ、対策を考案することをずっと習い性にしてきたセグロの魂が、出来るのだと察してしまった。
未知の危険に、この身ひとつで向かうのだ。
素早くは動けない。力もあまりない。誰にも負けないと誇る知識も、もっとも効率的に働かすことのできる知恵などもない。
それでもセグロは、危機に対する臆病さを持ち合わせ、どうすればいいかの対策については、滅多に誰かに負けたりしないほど繰り返し考え続けてきた。
巨竜の登場はとうに想定内だ。
青き竜の再登場も予想できていた。
自分という存在を、この場でどう捉えるべきかについてはまだ結論が得られてはいない。だが、無謀な賭けを回避できるようにする。
あれこれ予想できた時点で動き出していた。
子どもたちをまとめておく。おそらく、巨竜が登場しても同じその場所を使うことはない。これまでに増えた者たちの出現を考えれば、それは当然の定めだ。
ならば集まっておく方がいい。
ィロウチだけが状況を把握できていないようだったが、そこは後回しにした。彼は彼で重要なことをしているらしいと判断したからだ。
ィホーサグとィリーラには、子どもたちの保護を、さらにィロブロウに、全体の観察を頼んだ。自分では行き届かないところまで見てもらえることを期待した。
そうしてィオクライに頼んだのは、出現するかもしれない巨竜を牽制することだ。どのみち竜の考えることなど予想できるはずもない。だから、持てる最強の手駒を使う。自力で逃げることも、戦うことも、なんらかの魔法を使うことも、そこは任せるしかない。下手に具体的な指示を出すべきではない、ということもわきまえている。
危険であるのかどうか、危険であるならどう対応できるのか、ィオクライにしか分かるまい。愚かな者なら、無駄に指示を出す。知らぬ事態に、知っている知識を振りかざそうとする。それは不幸な結末を引き出すだけだ。
どれほど考えておいても、予想外は必ず生じる。それも想定しておき、あわてず対応する心構えをする。
きわめて面倒な心性だ。自分で評価しても面倒に思う。それでも、可能な限り準備しておく。
青い竜が、巨竜の頭部に下りる。ゆっくりとあたりを見回している。余裕のある態度が少し、気に障る。
それでもィセグロはこの状況を楽しんでいた。
ところがもうひとつ、想定外が起こる。
長い剣を手にした見知らぬ長髪の男が、この白い世界に出現したのだ。
男はタイファを名乗る。