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魔法物語 ラシリウス No.28

 その少し前の朝。夜がまだ残る頃。
 竜の大地を見下ろすニウルカの山の岩壁に、小さな洞窟がある。
 そこにひとりの魔導師が住んでいる。
 魔法をもってすれば不便ということもない。
 人恋しい、などと感じたのは遠い昔。
 別の土地に移る、ということもなく、ただおのれの過去と向き合って暮らしている。
 なにかを待っていたのかもしれない。だが、なにを待っているのかは分からない。あるいは、終わりを待っているのだろうか。いくらでも長く生きられる力をもって、すべてが終わる時を待っているのだろうか。
 魔導師は、終わりになにがいるのか知っている。知っているつもりだった。
 だがこの朝、予想していなかったなにかが来る。

 胸騒ぎがして魔導師は寝返りをうった。
 その日ラシリウスは、あまり眠っていなかった。形だけ寝台に横になり、ふと、ロカンドの顔を思い出した。長すぎるほどの人生の中で、ほんの数年、一緒に過ごし、ひとつの目的を追った。
 大魔導師と呼ばれる男だった。
 彼とふたりで、ラシリウスは世界を破局から救った、はずだった。
 その顔を思い出したら、眠れなくなった。
 記憶は霧のように広がって視界を閉ざす。今という感覚を覆い隠す。
 あの頃に感じ、考えた事が、現在の視線にさらされる。それは歪な反省をもたらす。
 静かに目を開ければ、寝所として使う洞窟の、入り口あたりに淡い光が踊っていた。立ち上がって、そちらに近づいてみれば、光は揺れている。小さな炎が風に揺らぐようだ。
 一歩、また少し近づく。すると、揺れる光は一頭の蝶に姿を変えた。それはラシリウスが、よく偵察のために使う魔法だった。
 蝶は白く羽ばたく。光跡を残して、軽やかにラシリウスに向かってくる。だが、それはラシリウス自身が飛ばした蝶ではなかった。
 蝶はやがてラシリウスの目の前に来る。なにごとかを確かめるように、見つめてくるように静止する。
 ぱん
 ラシリウスは両手で、はさむように蝶を叩く。両の手の中で蝶は光の粒子となって散った。
 古き魔導師は大きく垂らした髭をさすり、微笑み、それから少し待った。
 音が聞こえる。
 高い、うねる音だ。
 そして消える。風の音が残される。
 すぐに、足音が生じた。ついさっき蝶が姿を見せたあたりから、その足音は始まった。
「さて、どう挨拶したものか」
 足音が言葉を連れて来る。声にあまり聞き覚えがないのは、ある意味では当然なのだ。
 相手が姿を現す。知っている姿。知っているが、あまり聞き覚えのない声で話す者。
「いっそ、はじめまして、ではどうだ」
 ラシリウスは即座にそう返した。
「なるほど。ではあらためて、はじめまして。ラシリウスと申します」
「はじめまして。私もラシリウスです」
 入ってきたのはラシリウスだった。待っていたのもラシリウスだった。同じラシリウスだった。けれど、異なるラシリウスだった。
「驚かないようだな」
「自分が増えるのは経験済みなんだ」
「そうか。こっちは初めてだ」
 ただそれだけで、ふたりが異なるラシリウスであることが確かめられた。
 ただし、どういう事情で増えたのか、ということになれば分からない。逆に、来訪者の方は承知しているようだった。ここに、もうひとりの自分がいるだろうことを予想していたに違いない。
「では、用件を聞こうか」
 ラシリウスはすぐ本題にかかる。今の今までもうひとりの自分が来るなどと思ってもいなかった自分には、用件などあろうはずもない。だが、わざわざ訪ねてきたもうひとりには、用件があるだろう。
「異変が起こっている。かなり大規模だ」
「クローニがらみか」
 時の泥土・クローニは、世界に破局をもたらす存在であったが、光の子によって消滅させたはずだ。ただしその力が限定的である場合、なんらかの影響を及ぼす可能性がある。かつてラシリウスが増えたのも、そんなクローニの亡霊とも言えるような存在の所為だった。
「いや、たぶん違う。関わりがあるのかもしれないが、今のところその証拠はない」
「では、黄金の竜の関係か」
「黄金の竜?」
「別名、竜の大地だ。あの巨竜のことだ」
「ああ、いなくなったあれか」
「いなくなった?」
「もうずいぶんになる。竜の大地に横たわっていた竜が、消えてしまった。そのことだろう」
「ああ。そうかもしれないが、わしの知る限り、黄金の竜は消えてなどいない。むしろ、増えた」
「増えた?」
 ふたりのラシリウスは、竜の大地について語ることで、問題が整理されるのではないかと気づいた。
 ただ、ふたりはどちらも、時間などいくらでもあると信じていたのだ。
 そうして、語るべきこともいくらでもあった。

 なぜ飲み食いするのか。
 魔法をもってすれば、そんな作業は不要だ。
 そんな話が始まったのは、ふたりで朝食を取ろうという流れになったためだった。
 せっかくだから、それぞれ最良とされる朝食を用意し、互いに食べてみるか、という運びとなった。そうして、なぜ食べるのか、という話題になる。
「つまるところ、それが生きるということだから、なのだろうな」
 いきなり結論を提示するラシリウス。
「生きるというのは、身体を生かすことにほかならないからな」
 たちまち同意するラシリウス。
「身体は小さな部分によって構成されている。そのすべてが、食べることと呼吸することによって生きられる」
「こうして語ることも、あるいは魔法をもって大きな力を使うことも、身体のいずれかの部分を生かしている結果にほかならない」
「どれもこれも身体の一部によって成され、その身体は飲食と呼吸によって生かされている」
「それをすることが、生きることなのだろう」
「それを支える身体の部位に、魔法で代替できるから不要であると判断するのは愚かのきわみだ」
「それは、自らの営みのすべてを否定するに等しい」
 まるで自問自答だが、やりとりそのものを心地よく感じているのは自己肯定を外部からしてもらっているからだ。ラシリウスもまた、生き物であるに過ぎない。
 そうこうするうちに朝食の準備が出来る。
 ほどほどに大きく焚いた火に向かい、まだらに受ける熱と光。傍らに台を置いて、それぞれのラシリウスが一杯の椀を作り上げる。
 汁物である。さまざまな形の具材が入って、穏やかに湯気と香りを昇らせている。野菜であれ肉であれ、それぞれに最適な加熱を行った状態で、通常の料理ならきわめて面倒な手順が必要なのだが、魔法ともなれば、完成形にいきなり到達できる。適度な塩味、加えた素材によってもたらされる複雑な旨味。
 いずれにせよ、どちらのラシリウスが作ったものも、よく似た椀であった。それを交換する。
「どうだ」
 匙を用意して、長い髭が汚れるのも構わず、互いに無言になってすすり込む。
「少し濃くないか?」
「少し薄くないか?」
 同時に言って、目を合わせた。
「そんなこともあろう」
 同時に言って笑った。ほどほどの違いと、おおかた同じであることを確認できた。それは、大切な共通認識だと了解しあえた。
 同じだが違う。違うが同じなのである。

 おそらく黄金の竜も、同じだが違う。違うが同じ、であるはずだと、考える。
 それはあたかも、同じ一頭がふたつに分かれたもののように思われた。
 だが今、ラシリウスは分裂して二人になったわけではないと分かっている。一方のラシリウスは、世界の境界を越えてきたのだ。ならば、あの巨竜も、一方はなんらかの方法で世界の境界を越えてきたのではないだろうか。
「まず、世界がふたつある、というところから考えるべきだろう」
「少なくともふたつある、だ」
「似たような世界がふたつ以上ある」
「似ている、というところが鍵だ」
「おのおのの世界が独自に時を経てきたなら、こうも似ているとは考えにくい」
「ひとつの世界が、なんらかのきっかけで分かれた、と考える方が無理がない」
「もちろん、無理がないから正しいとはいかない。しかし、検討するに足る仮説だ」
「だがなぜ分かれた」
「クローニだ。わしは自分がふたりになった経験がある。そのきっかけがクローニだった」
「時の泥土。時の流れに潜む秘密」
 しばし黙り、それぞれに考える。
「ニルガ」
 ふたりのラシリウスは、ほぼ同時にその名を口にした。それは、ラシリウスを魔導師にした、師匠ともいうべき魔導師の名だった。はるかな昔、ふいにラシリウスの前から姿を消したのだ。
「もしやニルガは、クローニによって過去に飛ばされたのではないか」
「憶測に過ぎないが」
「だが、ニルガになら出来るかもしれない。世界の可能性をふたつに分ける魔法が」
「ニルガが過去に跳び、そこで世界の可能性を増やした。ああ、だがなぜだ」
「分からん。分からんが、手がかりはあるかもしれぬ」
「手がかりとは」
「同じニルガの名を持つ、ふたりの魔導師だ。すなわち、ラド・ニルガとラウル・ニルガ」
「おお、聞いたことがある」
「このふたりには、なにやら因縁があるように思えてならんのだ。その目指すところも、知識の魔法と思索の魔法に分かれて、意味ありげでならん」
「調べねばならんだろう」
「ああ。だが、もうひとつ大切なことがある」
「ん。分割したこの世界の、今後のことだな」
「そうだ。どうやら、分割された世界が、近づきつつあるのではないか」
 世界の境界を越える者が現れてきている。ほかならぬラシリウスもそのひとりだが、そのことに気づかせてくれたロウチという少年のこと。ふたつに増えた黄金の竜のこともそうだ。おそらく、それ以外にも。
「分かれやすくなっているかもしれん」
「分裂と融合が、起こりやすく」
「なぜだ」
「理由などいくらでも考えられるだろう。だが、それが分かったとしても、止められる保証はない」
「止めるべきであるかどうか。それも分からん」
 焚いた炎が小さくなって、灰のにおいをさせる。
 洞窟の外はもうすっかり明るくなっている。
 ゆっくりと歩き、ふたりのラシリウスは洞窟の入り口まで進んだ。なんの合図も言葉も交わさず。その場で立ち止まり並ぶ。
 そこからは竜の大地が見渡せる。光も音もにおいも、魔法など使わずに、ただおのれの感覚によって受け止めるだけ。
 二頭の竜がいる。なにごとを企むのか、なにも考えてなといないのか。
 霧のような瘴気に巻かれる。日差しを受けて輝きと陰とを描く。
「わしは、ラド・ニルガに会いに行こう」
「では、わしがラド・ニルガと会おう」
 ふたりのラシリウスは、どちらがどちらということもなく自然に分担を決める。
「急ぐか?」
 と一方が尋ね、
「その必要はあるまい」
 ともう一方が応じる。
「ではまあ、明日としよう」
「もう少し語ろう」
 ふたりのラシリウスは、さびしいなどと思ったことはなかった。そのはずだった。
 少なくともラシリウスの一方は、さびしくない状況などほとんど経験したことがなかったのだ。
 もうひとりのラシリウスは、ふいに自分が三人いた時の状況を思い出した。だからどう、ということもなく、ただ思い出しただけだったが。

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