小説『シビルミリタリーセルヴス: ダイジェストバージョン』(全文無料公開中)<㊦>
血盟団と竜崎
二〇三五年、五月。茨城県南部の山中。
大量の埃や蜘蛛の巣と格闘し、刈払機で周囲の雑草を殲滅させ、壊れたインテリアや使わない家具を空き部屋に運びながら、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を交わした引っ越し初日から数週間後。
悩みつつも古民家のリノベーションを早々に諦めた「チーム境」の下で、縁側から陽光が差すセーフハウス一階の広間に、山田は仲間と常居していた。正面玄関以外、人が侵入できる全ての窓や勝手口を閉鎖し、現代の人間が生活できるレベルにまで何とか復旧。その後、縁側を含めた一階から二階までの全てのガラス戸や窓にマジックミラーフィルムを貼り付け、国内のロシア諜報団や血盟団の動向を追うための機材を本格的に搬入していた。キャンプ勝連の情報を除いたニード・トゥ・ノウ(知るべき者のみが知る)の範囲内で、改めて血盟団についての説明を終えた境は、「全員で同じ目標やインツ(情報収集方法)」を用いても効率が悪い」と切り出した。
「役割分担をするぞ。竜崎は俺と共に非公開情報(クローズド・インフォメーション)を集める。インツはヒューミント(人的情報)だ」
「おっしゃ」
「取り敢えず運送関係を当たって、闇バイトなどの密輸に関する情報を仕入れる。並行して狸穴(まみあな)絡みの心当たりのある場所を巡っておこう。セーフハウスに戻ったら工作日誌にまとめ、竜崎がソクミント(SNS)、俺がジオイント(地理空間情報)で更に情報を集める——山田」
「はい」
「お前はロシアと関わりのある国内企業の情報をオシント(公開情報)で収集しろ。国内外の出版物、報道機関、ネット上のあらゆるオープンソースにアクセスして、格付け評価しろ。最終的にNSSを通して、政策意思決定者まで報告される可能性を考慮した上での二次処理を施しておけ——そして早乙女」
「通信の秘匿化は完了しています」と、早乙女はPCから顔を上げずに答えた。
「早乙女にはディープウェブやダークウェブを通して非公開情報を収集するように指示した。ほとんど画面に張り付けになる作業だが……」
「気にしないで下さい、僕の得意分野なので。それに日本の夏は死ぬほど暑いらしいので、研修を終えて行き先が決まるまで僕はここにいますよ」と、ライフラインの再契約後に設置した最新のエアコンを早乙女は指差す。既に冷房を稼働させていたが、PCやスマート家電の熱暴走を防ぐ目的があった。
「竜崎みたいな皮膚ガン予備軍になりたくありませんし」
「俺は自黒なんだよ、自黒」
「『セーフハウスには最低二名以上残す』というルールだが、大仕事でもない限り平時は早乙女と誰かが残ることになるだろう」
「コイツもいますし、一人でも大丈夫ですよ」と、早乙女は背後にある横開きのガラス戸を指した。僅かに開かれた戸口から、曲芸のように隙間を抜けて自律飛行型ドローンが現れる。
《登録されたルート上に反応なし》
「地上型は大きくて邪魔になるので、廊下と家の周りの監視だけに限定しました」
女性のデジタルボイスを発するサッカーボールサイズのドローンは、カメラとスピーカーを搭載したボディを浮かすため四つのローターを動かし、器用にスマートテーブルの上へと着地。ワイヤレスで給電が始まると、充電中を示す緑色のボディーランプが点灯した。テーブルの上にさえ置けば、ノートPCや携帯端末も全てワイヤレスで給電可能だった。
そこはまさに「和」と「デジタル」が混在したカオスな職場であり、異質な空間。
畳の上に巨大なスマートテーブルが設置され、その上にメンバー分のノートPCが展開されている。四隅は各々がパーソナルスペースとして利用。さながら一企業のオフィスが襖や障子で囲まれているような光景だった。各人に統一性はなく、椅子や周辺機器にいたるまで、好みや体型に合ったものを優先。壁際には各PCとリンクしている大型マルチモニターやプリンターが備え付けられている。モニターでは二四時間ニュースのライブ映像を配信するチャンネルを、国内や海外向けに分けて三つ表示中。報道内容は外付けの記憶媒体に常時録画されていた。またデジタルホワイトボードの機能も搭載されていた。IT企業などでも導入されている最新のミーティング機材であり、部屋の隅には工作活動における秘密情報や報告書を取り扱うためのノートPCを二台設置済み。インターネットや周辺機器に接続されていない完全なスタンドアローンで、頑丈な鎖で壁に固定されていた。勝手に持ち出したりUSBや一般のネット回線に接続すると、けたたましい警報音が鳴ると同時に内部データが全て削除される仕組みらしい。もちろんそんなことをすれば刑事責任を問われ、山田と竜崎の場合は勝連に逆戻り。その上、使用者はディスプレイ上部のウェブカメラで常時撮影され、妙な行動を取ると出内機関内のブラックリストに記載されるとのことだった。
これだけの機材が山の中に用意されていて、それも周辺を森に囲まれた古民家の中にあるとは思わないだろうな。
「仮眠も食事も勝手にとれ。外にある車や渡したプリペイドカードも自由に使え。経費になるか分からない物品や報告書については俺に聞け。クリティカル・インテリジェンスだけは見逃すな。細かいことをわざわざ言う必要はないチームだと俺は考えている。以上だ」
年齢から考えても、境は最新のデバイスに詳しいようで、ネットや電子機器の知識が豊富な早乙女も驚いていた。が、扱いは良く分かっておらず、その度に早乙女と山田が調整する役割を担っていた。しかし、AI搭載のPCなどは一度設定すれば、優れたツールと化した。声で指示すれば発生言語や単語から要求されているチャートやグラフを自動生成し、プレゼンに最適なデザインで情報提供してくれた。
竜崎のスペースにはダンベルやプロテインが散乱し、PCの基本操作や設定が書かれたメモがいたるところに貼られていた。
早乙女の周りには極度に甘いお菓子やジュース、それにマヨネーズが積み上がっており、蛇のように絡み合った配線がテーブルの上下をのたうち回っていた。
境の周辺は山田と同様、整理整頓されていた。が、PCの前には栄養サプリメントの袋や容器が並べられていた。首や腰に貼る湿布も山積みになっていた。喉を詰まらせるような量の錠剤を毎朝コーヒーで胃に流し込む姿に、最初は全員が驚愕。その度に健康に関するうんちくやメリットを聞かされ、少し経ってから竜崎が同じ物を購入。そこから全員でシェアを始めた。
山田は筋トレグッズを竜崎から借りながら、冷暖房完備で畳の広がる中部屋を使い柔軟運動や自重トレーニングをおこなった。怪我をしない程度に竜崎とミット打ちや柔術やレスリングのスパーリングも実施し、身体を動かしておいた。早乙女は自主的なワークアウトを絶対におこなわず、健康面から境が強制的に運動を強いた。
「早乙女、運動をすれば脳からBDNFが分泌され、脳の血管が活発になり、脳機能が健康に——」
「分かりましたから、もうそういう理詰めは止めて下さい!」
少し経ってから、境は山田に「柔術が分からないので教えて欲しい」と発言。組んだ瞬間の構えや力、年の離れた竜崎を上手く抑え込んでいたことから何かしらのスポーツや格闘技の経験者だと山田は認識。体力や柔軟性の問題から、山田は技を極められることはなかった。境はスパーリングを何本かやると息切れし、居間の隅で休んで山田と竜崎、早乙女の戦いを眺めるという流れを繰り返していた。
「山田……このメンバーでも可能な投げ技はあるか?」
「追い詰められた時に使えるヤツが欲しいぜ……」
「僕は遠慮しておきます……」
「そうですね……個人的に調べたんですが、巴(ともえ)投げとかが良いですね」
そうして何度か練習し、スポーツで脳と身体をリフレッシュさせていると、山田の中で「ゲームがしたい」という欲求が生まれた。ニュースなどで世の中の動きを把握する度に、新たなソフトやハードが発売されている事実を無視できなくなっていた。どうしても我慢ができず、据え置きのゲーム機を購入。空き時間にモニターに出力して遊んでいた。その内、竜崎と二人で遊び、いつの間にか四人用ゲームも購入。極稀に全員で遊ぶようになっていた。
意外なことに、給与は外務省から毎月しっかりと支払われていた。それは竜崎も同様で、専用のネットバンクに振り込まれているらしく、境から配布された業務用の携帯端末のみで支払いを済ませる約束だった。給与明細がないので額面と手取りは不明だが、二〇代には妥当な金額だった。
俺達の扱いって、外務省ではどうなっているんだ?
◆
七月、日が出始めた早朝。
全員が着席した後、広間の照明を落とした境は、いつものように「まずは俺からだ」と先陣を切った。壁際の大型モニターには境のPCディスプレイと同じ内容が表示され、全員の視線がモニターに集まった。画面には民間で利用されている衛星写真が出力されていた。
どこかの海岸か?
「結論から言うと、進展があった」
「お」と、身を乗り出す竜崎。山田はそこまで動じなかったが、気持ちは同じだった。
この数カ月間、大した成果はなかったからな。
スマートテーブルの中央部が光り、変形していく。扇状に、斜め上方に、六枚の板がテーブルから羽根のようにゆっくり起き上がる。上から見ると雪の結晶に似ていた。中心を起点に、花が蕾に戻るような光景。それらは完全に閉じることはなく、隙間だらけのサラダボウルのようになる。そして、球体の青い像が浮かび上がった。それは裸眼でも視認可能な3Dのバーチャル地球儀であり、六枚の小型空間再現ディスプレイが中央下の画面に映る映像を、立体のホログラムとして引き上げていた。ひと昔前はSF映画に出てくる「宇宙船での作戦会議」と称されていたが、現在では医療や建築の現場では当然のように利用されているらしい。地球儀は平面になり、日本全体まで拡大表示すると、高低差まで再現された列島は一定の速度で緩やかに横回転を始めた。
「モニターに出力されているのは神奈川県鎌倉市にある材木座(ざいもくざ)海岸だ」
真上からの航空衛星写真には緑がかった海と、黒や白でまばら模様となっている砂浜が映っている。波打ち際から海の家や国道までのスペースに、ビーチパラソルの屋根が色とりどりの石ころのように点在していた。そこにほとんど同じにしか見えない航空写真がオーバレイとして重なる。良く見ると、米粒のような点が二つ、波打ち際に追加された。
「個人のプライバシーや安全保障上の理由から、政府からのシャッター・コントロールを民間の商用衛星は受けている。拡大できる分解能(解像度)は本来ここまでだが……」
境は棒付きキャンディーをくわえながら椅子の上に体育座りをしている早乙女に一瞬、視線を投げ掛けた。そしてPCを操作。荒い画像と鮮明な画像を繰り返しながら拡大していく。最終的に二つの米粒が人間であることが判明し、二人の頭頂部がモニター全体に映し出された。一人は骨格から考えると黒髪の男性だったが、もう一人は胸部の隆起から推測するにサングラスを掛けた金髪の女性であり、どちらも水着のようだった。
「これは俺が独自に手に入れた衛星写真だ。男の方は後で説明するが、女の方はロシアのスパイだ。集音技術が発達した現代では、公衆の面前でノイズに紛れた方が盗聴はされにくい。波打ち際を延々と往復しながらの会話や、街中の雑踏に紛れる、などだ」
「へえ……って、おやっさん、衛星まで使えんのか?」
「俺じゃない。俺のエージェントが撮影した成果物を買い取ったんだ」
「どうしてスパイだと分かったんですか?」と、顎に手を当てる早乙女。
「ロシアの安全保障会議は毎週金曜日に非公開の下でおこなわれている」
モニターにはキリル文字の説明文が並ぶサイトが現れた。どうやら政府の公式ホームページらしい。
「ただし招致された専門家の名前はクレムリンのホームページで見ることができる。そこから会議の内容を推測することが可能だ。そして専門家の顔はSNSや論文掲載サイト、大学のホームページから特定できることがある」
画像が切り替わる。恐らくは権威ある専門家達なのだろう。スーツ姿の中年男性が何人かで食事をしていた。かたわらには美しい女性が数名列席している。どこかのレストランのようだった。
「男の方は在日米軍基地の引っ越しスタッフとして勤務していた杉本という派遣社員で、現在の身元は不明。SNS上では、以前の職場に対する不満を投稿していたようだ——カメラから顔を背けている長い金髪の女を覚えておけ」
運転席から車のサイドミラーにカメラを向け、自撮りをしている男の写真が出現。SNSにアップロードした投稿画像のようで、サングラスをしながら舌を出している。しかしよく見ると、巧妙に背後の金髪の女性を画角に収めていた。『めっちゃ可愛い謎の美女からSNSで逆ナンされた!』と、絵文字付きのメッセージが添えられていた。助手席の女性は携帯端末を操作しているようで、盗撮には気付かなかったらしい。ただ撮り方と角度、そしてサングラスの問題で横顔と耳が小さく見えているだけで済んでいた。
これだけで人物を特定するのは難しいが……
「この動画を良く見ろ」
PCか携帯端末は不明。だが、何かしらのビデオチャット画面が動き始めた。映っている人物達は全員白人だったが——
……?
「ロシアの大学でおこなわれた日本語学科でのオンライン授業の様子だ。複数名による通話画面をキャプチャーしたものだな。これはロシアにいる俺のエージェントが毎年送ってくれるものだが——」
「あ!」
雪のような白肌に映える長い金髪。
ハリウッド女優顔負けの微笑。
山田はその全てに見覚えがあった。
——東京ビッグサイトだ、ミカエラ・マルティニ!
しかし、そこで山田は自身の口元を片手で覆った。テーブルを見渡し、自身へと集中している全員の視線をかいくぐり、一瞬だけ早乙女を窺った後、「……すみません、後で言います」と何とか言葉を紡ぐ。
危なかった……早乙女は勝連のことを知らない。不必要な詮索を避けるために、後で境に伝えるべきだ。
早乙女と境の顔を交互に見たせいか、境は察してくれたようだった。竜崎の表情はなぜか恐ろしいほどに強張っていた。
「名前はアンナ・ゴルバチョワ。出内機関のDI(情報本部)によると、どうやら彼女は大学卒業後にSVR(対外諜報庁)の対外諜報アカデミーで教育を受けたようだ」
テーブル中央のホログラムがゴルバチョワ本人の頭部に変わり、三六〇度から造形を視認できるように回り始める。
「竜崎、『SVR』が何なのか、インテリジェンス課程での講義を覚えているか?」
竜崎の視線は、モニターをどこか懐かしそうに睨み付けたままだった。上司の質問を無視した状態なので、一応、山田は注意した。
「竜崎」
「……ん? ああ、悪い、SVRっていうのは確かあれだろ? アメリカでいうCIAみたいなもんだろ」
「——まあ、そうだな。日本にはSVRに該当する機関はない」
珍しく的を射た回答に、境はそれ以上の追及を止めたようだった。
「SVRのアカデミーは簡単に言うとロシアのスパイ学校だ。お前達が卒業したインテリジェンス課程を思い出して欲しい。有名な出身者ではロシアのプーチン大統領もここの卒業生の一人だ。SVRは対日工作を三つのグループに分けている。日本の内政や外交の動向を探る『ラインPR』、最先端技術の窃取が目的の『ラインX』、背乗りしたスパイを支援する『ラインN』だ。DIによると、ゴルバチョワは情報将校の契約軍人だったが、ウクライナ戦争においては狙撃手として暗躍していたようだ。専門はハニートラップやネット関係らしいが、その場合はラインXに所属している可能性が高い。だがここ最近、表舞台から姿を消していた」
「契約軍人?」
「通常の軍隊であれば徴兵制度で招集される徴集兵と、軍学校を卒業した常勤の職業軍人に分かれる。ロシアにはそれらに加えて契約軍人という制度がある。これは文字通り契約社員のようなもので、日本円に換算して毎月一四万円の給料で、徴集兵から三年契約するのが一般的らしい。ロシア軍の七〇パーセントは契約軍人で、徴集兵や職業軍人より多いんだ」
「どうやってここまで特定したんですか?」と、早乙女。
「耳の形だ。人相の分かる写真がなくとも、複数の判断材料があればDIのアナリストが画像分析をして照合する。今回は九一パーセントの確率で一致した同一人物だ。いつ来るかも分からない相手を現地で永遠と待ち続けるのは現実的ではない。特に相手がスパイなら『点検と消毒』のプロだからな。せっかくの獲物を失尾したり、こっちの面が割れたら意味がない」
境がPCを操作する音が部屋に響く。大型モニターにはこれまでの画像が縮小されて表示された。
「過去にアンナ・ゴルバチョワが、東京観光に来たロシアの専門家と共に来日した際の足取りを追った。成田空港からロシア大使館、大使館から神奈川県逗子市にあるロシア連邦通商代表部の保養所、保養所から海岸までの時間を逆算し、後はエージェントに丸投げした。お前達も優秀なエージェントをスパイとして大事に扱えば、それだけ有力な情報が自動的に集まってくることを覚えておけ」
「何だか私生活でも役立ちそうですね」と、早乙女。
「公私混同はするな。言っておくが国益ではなく自分の利益として利用した場合、それは犯罪行為に該当する。アメリカでも同じだ」
「わ、分かっていますよ」
「それと、アナリストも今は半分以上がAI解析に頼っている。情報の質も高価な機材に左右されるということだ」
「……スパイもAIに職を奪われるか、難儀なもんだな」
ただ、情報の全てがデジタルで補える訳じゃない。
「だから俺達のようなケースオフィサーがヒューミントをする、ということかな……」
「そうだ。ヒューミントは決して時代遅れのインツではない。むしろデジタルに注目が集まっている時こそ時代の盲点となる分野だろう。いつの時代も、人は噂話が好きだ。当面の間はアンナ・ゴルバチョワと杉本を追うことになるだろう——以上で俺の報告は終わりだ。質問はあるか?」
山田が他二名を見ると、「今の段階ではなんとも……」といった表情で首を横に振っていた。それを確認した境は資料をモニターから全て消し、PCとのリンクを切った。
「……良し、じゃあ次は俺だな」
竜崎が早乙女と目を見合わせると、早乙女はPCを操作。モニターには流行りのSNSやメタバースソフトに関する資料が表示される。
「半グレとか闇バイト関係ばっかりで、血盟団に直で通じるかは分からんが、こっちも進展はあった。オトメとも協力したから、一応、俺達二人の成果報告ってことで、お願いしやす」
若干、気まずそうな様子の竜崎。デジタルに疎い自分が力になれているか、不安なのだろう。しかし、二人の主戦場はネットなので、そもそも親和性が高い。バトンを受け取った早乙女はモニターに、煌びやかなバーチャル空間で3Dのキャラクター同士がメッセージのやり取りを行う様子を表示した。仮想の街——見覚えのあるスクランブル交差点から、恐らくは渋谷を模しているのだろう。デフォルメされた三頭身のポリゴンが大勢集い、ポップアップされるテキストメッセージの量も尋常ではなかった。
「これは僕と竜崎の仮想の分身、アバターです。血盟団と接触しやすいように組織や社会、政治に強い不満を抱いていることをプロフィールに書いています。説得力を増すためにリンク先のSNSでも同じ内容を投稿しました。カバーストーリー用のアカウントですけど」
「まあ、潜入捜査みたいなもんすね」と、竜崎。
「昨今はメタバース上での犯罪行為が横行しています。代表的なのはゲーム内通貨や報酬としても運用される暗号資産を不正送金する事案や、違法な活動に誘うための出会いの場として利用するなどです。僕はその原因が、当局の監視や法の規制をかいくぐるのに適しているからだと考えます。あのスパイ学校で境さんが『プリズム』に触れていましたが、多岐にわたるゲームアプリの中まで完璧に検閲することは不可能です。メタバースイコール、ヘッドマウントディスプレイ(HMD)や拡張現実(AR)と捉える人もいますが、浅はかですね。簡単に言えば、今の時代のオンラインコンテンツは全てメタバースとも言えます」
「プリズムって、なんだっけ……?」と、竜崎が小声で訊ねてきたので、「アメリカのNSAが運用する全世界ネット監視網のことだよ。『大統領暗殺』とかでネット検索すると個人が特定される、テロリスト予備軍検索エンジンみたいな……」と補足。
竜崎は「ああ、そうだったそうだった」と片手を小さく上げて咳払いした。
「ここは盲点だったな……」と、背後でぼやく境。腕組みしつつ、苦渋の表情を浮かべていた。世代があまりにも離れているので仕方がないと山田は思ったが、柔術の件といい、何歳になっても学ぼうとする性格から悔しさを覚えているのだろう。
「現在のメタバースのトレンドは有名アーティストによるバーチャルライブもありますが、携帯端末からもプレイ可能な『クラフトアドベンチャー』という無料のキラーコンテンツが盛り上がっています。これはチーム全体の休養日にみんなの前で遊んだので、覚えているとは思いますが」
早乙女がモニターに映像を出力して、竜崎を巻き込みながらプレイしていた光景を山田も覚えていた。境はプレイせずに後ろから淡々と眺めているだけだったが、「見ている分には面白そうだ」と言っていた記憶がある。
「これはプレイヤーが仮想空間内で3Dオブジェクトを使って建物を建築、設計するゲームです。フレンドを招待して一緒に遊んだり、敵を配置して冒険することも可能です。そしてクローズドな空間としてオープンチャットを閲覧できる相手も限定することができます。しかもクラフトアドベンチャーはアカウント作成もログインも必要なく、アプリ内でアバター設定が保存されます。人気の物件は入場料として他のプレイヤーから暗号資産を払うなどの要素があって、そういう有料コンテンツを利用する場合はアカウントが必要らしいですが、あくまで個人間の取引ということで運営側は介入しないようです。グレーゾーンですが」
「メーカー側にもブラックボックス、ということか」と、境。
「元々はインディーズゲームの開発者がいつか出る自分の新作をPRするために無料配布しているソフト、だったよね?」
「そうです。だから大手のような対応や自主規制もありませんし、中国に住んでいる凄腕プログラマーらしい製作者も正体を明かしていないので実態は不明です。中国は自国民を引き渡しませんし、やり取りをアプリ内に留めておけばプリズムやエシュロンにも引っ掛かりません。日本では『マラード』って言うんでしたっけ?」
マラード?
「日本にもプリズムのようなシステムがあるんですか?」
境は公然の事実と言わんばかりに、あっさりと答えた。
「ある。一般の目に触れたのはスノーデンが『JAPANファイル』という機密情報をリークした時が初だが、報道規制もあり、国外では話題となったがほとんどの日本国民は知らない。『MALLARD(マラード)』は日本全土の電話、メール、SNSなどネット上のやり取りや通信を傍受監視するシステムだ。これは一時間当たり五〇万件のネット通信を傍受し、民間の衛星から一般市民のメールも含めて監視している。旧自衛隊時代には反政府的な発言をしている国民を監視対象として情報収集していた事実から、防衛省が賠償金を支払う判決が出た。元を辿ればそうした監視ツールである『XKeyscore(エックスキースコア)』を日本に提供したのはNSAであり、マラードは防衛省情報本部(DIH)電波部とNSAによる共同衛星傍受システムとして現在も運用されている」
なんだそれは。
人質司法やレンディションのような「秘匿された事実」を告げられ、山田は瞬間的に込み上げてくる苛立ちを抑えるのに集中した。自由を奪われたせいで、自由を束縛するシステムに一種の敵対心を抱くようになっていた。
「そんなこと、インテリジェンス課程では教わりませんでしたが?」
無表情の境に山田が目を細めていると、「NSAのプリズムに関しては当時の大統領も『行き過ぎた面があった』と発言していましたが、日本国民に対しては周知すらナシですからね」と、早乙女も僅かに同調するような台詞を吐いた。
そんな中、「既に報道はされていたとしても、訓練生の時点で何でも教えると悪影響が出るんじぇねえか?」と、頭の後ろで両手を組む竜崎。
——確かに、本来であれば国の説明責任に対し、一諜報員に過ぎない境を咎めたところで何の解決にもならない。
「竜崎の言う通りだが、今後はなるべくニード・トゥ・シェアしよう。続けてくれ」
早乙女は咳払いしながら続ける。
「ゲームアプリ——特にクラフトアドベンチャーのようなメタバース上で動かすものは、マラードとかの検閲を回避することができますからね。最初は僕もディープウェブやダークウェブを漁って暗号資産の不正送金を追っていましたが、竜崎から応援を頼まれて一緒に情報収集をしていました」
「ソクミントだけじゃ限界があったのと、最近の報道でメタバースが犯罪に利用されているのが理由っすね」
「そこで反体制的な主張が見え隠れするSNSアカウントを通じて、メタバースの中でアバターとして親交を深めると、僕が最初に潜っていた海外の闇マーケットに繋がりました」
モニターに何かを段階的に分けた図が表示される。どうやらこれが不正送金の手順らしい。
「ここからはあくまで僕の推測ですが、『ローンウルフ(一匹狼)型のホームグロウン(自国産)テロや犯罪を組織的に発生させる』という矛盾を達成するために、血盟団は『システム化された非組織運営』になっているんだと思います。これも矛盾してるんですけどね……」
「俺も同意見だ。以前、血盟団の構成員を尋問したことがあったが、『血盟団は組織ではない』と言っていた。別の構成員は日本語学校に通ってはいたが、ろくに喋れず、自分が何をしているのか分からない様子だった。命令役である上流工程の人間の顔や名前は、実行役である下流工程の人間には決して伝達されない。芋づる式の検挙を回避するため、トカゲの尻尾切りにする。システム化されたテロや犯罪組織では常態化しているやり方だ」
「そうすっと、リーダーシップに頼らない組織運営が大事だな……やっぱ金か?」
「そうですね。違法行為の内容や方法をどこまで具体的に指定しているかは分かりませんけど、少なくとも報酬は支払ってるみたいです。境さんに教えてもらった血盟団の犯行と思われるこれまでのログをダークウェブで追いました。モニターを見れば分かりますが、過去に不正送金された暗号資産の流れを辿ると、何重にも資金洗浄をしているみたいです」
「あー、話の腰を折って悪いんだけどよ……資金洗浄とか暗号資産って、調べてもいまいち良く分かんねえんだよな」
「資金洗浄はマネーロンダリングのことです。犯罪収益など違法に手に入れた資産に捜査の手が及ばないようにするんです。送金手続きを複雑化し、足跡を辿れなくしたりとか。暗号資産は——そうですね、ブロックチェーンとかシステム的な話を竜崎でも分かるようにするには、何て言えば良いか……」
「面目ねえ」
「ひとまずシステムのことは良いんじゃないかな?」
「僕、日本語での説明が苦手なんですよ」
そうすると、俺自身もデジタル通貨という認識くらいしかないんだけどな……
「簡単に言えば、『お金のようなもの』だ」と、境が救いの手を差し伸べた。
「二〇二〇年四月に暗号資産法が施行され、五月に改正資金決済法で規制されて仮想通貨から暗号資産に名称が変わった。金融商品取引法にも『お金のようなもの』として定義され、税法により所得税が課せられている通貨だ。法定通貨である紙幣や硬貨との違いを明確化するために、仮想通貨という名称が使われたのだろう」
「具体的には何に使われてるんすか?」
「主に送金や決済手段だ。暗号資産交換所や取引所で扱う。一九七〇年代になり、国際銀行間金融通信協会、通称『SWIFT(スイフト)』という略称で知られる国際送金ネットワークが確立された。だが時が経つにつれ、銀行間をまたぐ手数料と送金速度に問題が生じた。為替レートに上乗せされた為替手数料は二〇〇〇円から六〇〇〇円掛かり、送金には三日から五日、土日や祝日を挟むと一週間以上掛かるという点だ。そこにサトシ・ナカモトという謎の人物が発表した暗号理論に関する論文が注目を集めた。これがビットコインやブロックチェーンといった概念であり、結果的には送金手数料は〇・一円以下、送金速度は三秒以下という画期的なものだった。俺も早乙女ほど詳しくはないが、ブロックチェーン自体も暗号技術によって取引履歴を分散処理、記録する技術のことらしい。銀行のような中央集権型の管理者がいるわけではない。ネット上の端末同士がデータ管理する様を鎖(チェーン)に例えたことからこうした名称になったようだが、リップル(XRP)などコインによっては会社管理のシステムもあるようだ」
「じゃあ、元々暗号関係の話だったから暗号資産っつー名前になったわけか」
「元を正せばな。だが通貨と言うのは国家の信認でもあり、利便性と政治性を持っている。自国通貨の価値が低く、信用性のない途上国では暗号資産を法定通貨として扱う国家も存在する。そして一般的に先進諸国は、外国為替市場でレートの高い通貨を保有する。その優位性を脅かす存在として政府は規制を強めた。同時に通貨同士を交換しやすいという取引の複雑性もありマネーロンダリングによるテロ、犯罪の資金源として流用されている事実もある」
管理元がいなければ、履歴も残らないということか。しかし、銀行が絡むと手数料や日数が掛かる。となると——
山田は「送金を請け負う民間会社はないんですかね?」と、気になったことを質問。
「二〇一一年にはロンドンでWise(ワイズ)という送金サービスの会社が誕生したが、送金限度額が銀行より低いため、複数回の送金が必要だ——早乙女、話を戻してくれ」
「そうですね。コイン自体の話ですと、世界で最初に誕生したビットコイン以外は俗にアルトコインと呼ばれますが、ほとんど価値がないような銘柄は『草コイン』と言われ、今では数万種類にまで膨れ上がっているみたいです」
「マジかよ。そんなの交換しまくったら訳わかんねえじゃねえか」
「だからこの図のようになるんですよ」
早乙女は左から順番にマウスカーソルで指し示した。
「まずメタバースやSNS上で実行役となる人間を勧誘します。謳い文句は『輸入代行の手伝い』とかが多いようです。指示通りに動いた実行役は報酬を現金で受け取ります。そのために不正に入手した日本人の個人情報や、母国に戻った外国人の口座など悪用してネット口座を作成するそうです。実行役が盗んだお金や物は換金され、『買い子』と呼ばれる人間がそのお金でゲーム機などを不正購入し、それをまた売って暗号資産に変えます。そこからは命令役に送金されたり、『出し子』というATMから現金を引き出す係が暗号資産から現金化されたお金を実行役に渡します。報酬は現金の場合もあれば、『受け子』と呼ばれる人間が荷物として自宅や空き家で受け取り、実行役に渡す場合もあるようです。成果物がなく、社会不安を煽るような仕事内容の場合は、海外の暗号資産取引所から通貨を何度も交換し、イーサリアムという新たな暗号資産を作りだす効果を持ったコインに変えられ、集約ポイントと呼ばれる場所から更に分散し、最低でも四つ以上の送金先を巡った後に不正口座へと振り込まれ、出し子から報酬を受け取ります。そして警察に逮捕される前に第三国へと渡るようですが、ここら辺の手引きはデジタルの痕跡がありません。境さんいわく、逃げ切れるかは五分五分らしいですが」
「どっちにしろ、命令役を叩かない限り解決しねえな」と、竜崎。
多分、血盟団に幹部がいるとしたら命令役なのだろう。しかし、足取りを掴まれないように何重にも対策する人物をそう簡単には——
「そんな命令役と思われる人物を、僕は見つけてしまったんですよ」
何だって?
自信に満ちた顔つき……というか、教育中に幾度となく見た得意げな表情に、山田は半信半疑になった。
「世界では一秒で一二人、日本では一〇秒に一人がサイバー攻撃を受けています。そこで僕は日本を支える企業や政府のサーバーに攻撃を加える『クラッカー』を追いました。血盟団やロシアにも繋がるし、それらしい事件を未然に防いだところでトカゲの尻尾を集めるだけだからです」
「クラッカー? ハッカーじゃねえのかよ?」
すると早乙女は苛立ちを隠さず怒鳴った。
「あのですね、ハッカーというのは僕も含めたプログラマー全体を指す単語でもあるんですよ。ハッキング自体に良し悪しはありません。厳密には違法なハッキングがクラッキングで、それをやるのがクラッカーです。少し前からホワイトハッカーやブラックハットという言葉で差別化されましたが、元を正すとネットリテラシーが無い癖に知ったかぶりをする竜崎みたいなのが混乱を引き起こすんですよ!」
「わ、悪かったな……」
鼻息を荒くした早乙女はモニターに表示された図を消し、『Tor』というブラウザを開いて、画面のパーセンテージが満たされるのを待った。そして端的にキーワードを打ち込み、何かを選択。すると、とてつもなく簡略化された検索結果のページが表示された。数世代前の古い作りのようで、文字化けしているようなサイト名が並んでいる。その中の一つを開くと、アイコンの横にメッセージが書かれた吹き出しが縦に流れるサイトが現れた。
「これはディープウェブにある匿名掲示板の一つです。個人情報やウイルス作成の手段がやり取りされる場合もありますが、基本的にはこうしたウェブサイト全てが違法なわけではありません。論文を探したり、政府の規制が強い独裁国家などではよく活用されますから」
マルチモニターの一つに深海を断面のように表示した図が出力される。どうやらネットの広大な海を三つの層に分けたものらしい。
「インターネットは三層に分かれています。誰でもアクセス可能なサーフェス(表層)ウェブと違い、ディープウェブやダークウェブは大手検索エンジンではない特殊なブラウザを使用します。だから一般的な検索エンジンの巡回プログラムであるクローラーでは辿り着けない検索結果を出せます。有料会員限定ページや、パスワードを入れなければ閲覧できないページもディープウェブです」
「ふと思ったんだけどよ、誰がいつこういうのを作ったんだ?」
「アメリカ海軍ですよ。元は軍事用に匿名性を確保した『オニオン・ルーティング』という通信技術が非営利団体に引き継がれ、『Tor(The Onion Router=トーア)』」と呼ばれるようになったんです。何層にも暗号化された様子を玉ねぎ、つまり『オニオン』に例えた名前らしいですね。今のように拡大したのは二〇〇五年頃からみたいですが、アメリカやドイツ当局がいくつか閉鎖に追い込んだようです。ですが、こうしたディープウェブの全容を把握している人間は恐らくいないでしょうね……話を戻すと、そんなダークウェブで『グール級クラッカー』として信奉されているアカウントを発見しました」
意味が分からず、山田は訊ねた。
「グール級?」
「クラッキングの『指導者(グール)』として大勢のクラッカーから尊敬されるプログラマーということです。ハッキングで言えば『ウィザード(魔術師)級』の超天才ハッカーみたいな感じですね。どうもアメリカやイギリス、日本に対するいくつものクラッキングを成功させ、その度に称賛を受けているようです。ただそれを良く思わない一部のクラッカーが、『ジーヴィッカ』というアカウント名から人物像を特定しようとしたみたいです」
「ジーヴィッカって……スラヴ神話に出てくる狩りの女神だっけ?」
「へえ、物知りだなヤマちゃん」
「いや、ゲームか何かでそんな名前を見た気がする……」
「わざわざスラヴ系を選ぶということは、出身地の可能性もあるのだろう」
「僕もその線で調べましたが、東側のクラッカーなんて山ほどいます。そこで信頼性は低いですが、掲示板内に書き込まれた複数の匿名クラッカーによる『ある情報』を信じることにしました」
「それは何だ?」
「『ジーヴィッカはクラフトアドベンチャーにいる』という書き込みです。それも『ログイン時間から考えて、ジャパンサーバーにいる』とか。どうやらある程度のクラッキング能力を見せれば参加できるコミュニティーがあり、そこでジーヴィッカと接触したアカウントが漏らしたようです。力を証明できれば、秘匿性の高いチャットアプリであるテレグラムのグループや、クラフトアドベンチャーなどのメタバース上にフレンドとして招待されるみたいですから」
「でもよ、クラッキングって違法行為なんだよな?」
「そこで境さんに相談なんですが、警視庁のホームページを小一時間ダウンさせても良いですか?」
境は一瞬、無言になり、「……警視庁でなければ駄目なのか?」と腕組みした。
「生半可なクラッキングでは招待されないみたいです。自作した練習用のゾンビサーバーをサンドバッグにしているのと変わりませんから。先進国の官公庁、それもサイバー犯罪に厳しい省庁に攻撃しないと認めないとか」
「……分かった、警視庁と内閣にいるアセットに相談しておく」
早乙女は背伸びをし、うなった後、モニターから資料を消した。
「と、いうことで、本格的な接触はこれからなので、僕の成果はこんなものですね——後は竜崎、例の件も踏まえてお願いします」
「あいよ」
モニターには大手SNSサイトがいくつか表示される。次に、竜崎の偽装のアカウントがダイレクトメッセージを送っているスクリーンショットが映った。そこからクラフトアドベンチャー内で竜崎のアバターが招待され、別のアバターと反社会的なチャットを繰り返している映像が出力された。
「俺はSNSとかメタバースの中でヤバそうなアカウントを探して、オトメの作ったディープウェブ監視ツールっつーものに世話になってました。命令役をとっちめる技術はないんで、実行役の内情を探ってたんすけど——」
チャットの中で、気を良くしたらしい相手のアバターが、竜崎に何かしたらの画像を送信する。
「その途中で、こんなエンブレムを見つけました。どうも、これが最近できた血盟団のシンボルらしいんすよ……」
「何?」と、境が思わず身を乗り出し、凝視していた。山田もモニターからスマートテーブルのホログラムに投影された立体画像を見る。盾のような枠の中には、熊とゴリラが合体し、そこから闘牛のような角を生やした怪物が描かれていた。
まるでアクションRPG(ロールプレイングゲーム)に出てくる魔獣「ベヒーモス」みたいだ。
「なかなか尻尾を出さないんで、途中から血盟団のフリをして接触しました。バレないか心配だったんすけど、危ない橋を渡ったかいはあったすね」
「何だか本物の構成員みたいでしたよ。反社なのは顔だけじゃないんですね」
「ま、まあな!」と、竜崎は焦ったのか皮肉にも応じず、「……それと、相手は龍崎重工の派遣社員らしくて、近い内に企業秘密を持ち出して誰かと交渉しようとしてるみたいっす」と締め括った。
「交渉日時と場所は分かるか?」
「『来月の下旬には海の上』とか言ってたっすけど、さすがにそこまでは引き出せなかったっすね。今後はエンブレムをその場で見せ合うのが仲間である印になるとか……」
ということは、スパイとして潜り込む場合でも必須のアイテムということか。
「見せ合うっていうことは、バッジとかワッペンみたいな現物があるってこと?」
「ニュアンス的にはデジタル名刺みたいな可能性もあるかもしれねえな。疑われたくねえからこっちもシッタカして、深くは突っ込めなかった——俺からは以上だ」
「僕達二人の成果はこんな感じですが、質問はありますか?」
境は首を横に振っていたので、山田はテーブルの中央を指しながら気になったことを訊いた。
「どうしてエンブレムが『ベヒーモス』みたいなのかは訊いてみた?」
「ベヒモ……なんだって?」
「ベヒーモスっていうのは、ゲームとか神話に出てくるモンスターのことですよ」
「いや、すまん。それすら分からなかった……カッコつけて強そうなエンブレム作っただけじゃねえのか?」
確かに、そういった理由もあるが——
「大事な理由があるはずだ」
そう言い切った境は、ホログラムから竜崎に目を移した。
「組織のシンボルだ。自分が建国して国家元首になるなら、国旗を適当なデザインにはしない」
「あーそう言われると、確かに……」
「ベヒーモスと訊いて、他に何が思い浮かぶ?」
話を振られた山田は、勝連で入校前に哲学書を読み漁っていた時を思い出した。
「……『トマス・ホッブズ』のベヒーモス?」
「俺もそれが頭に浮かんだ」
「なんじゃそりゃ?」
「ルソーも論じている社会契約論の一つだ。秘境の原住民からホームレスであろうと現代人は一定の安全を保障される代わりに国家と契約を結んでいる。対価は税金や労働だ。そこから逸脱した状態を哲学者のホッブスはベヒーモスに喩(たと)えた」
「逸脱?」
「国家体制の混乱、もしくは国家自体が崩壊した状態のことだ」
「つまり『マッドマックス』みたいな世紀末状態ってことですよ。警察も軍隊も機能しない、力だけが支配する自由と恐怖の世界ですね」
「やべえな、弱者は搾取されるってことか」
山田は想像してみた。
政府や自治体などの統治機構は機能不全。女性や子供、老人は真っ先に狙われ、銃や筋肉で武装した集団だけが食糧やエネルギーを奪い合い、生き残れる世界。荒れ果てた都市部にコミュニティーが築かれ、その中でのヒエラルキーに結局は従わなければならない人生。
かたや労働に明け暮れ、見えない未来のために、出口のないトンネルを永遠に走り続ける大半の現代人。
どちらも絶望的だが、少し前の自分だったらどちらを選んだか?
自分にとって、少しでも可能性のある未来はどちらか?
「——それが血盟団の目的かは不明ですが、今の世の中と比べて、そっちの方が良いと言う若年層はいると思いますよ」
「……それは参考になる意見だ。俺はお前達と違い、恵まれた時代に生まれた世代だからな。竜崎、お前はホッブスの政治理論書を買って読め。これも仕事だ」
「うお、マジか……了解」と、「哲学」や「理論」という単語に拒否反応を示す竜崎。項垂れつつも、メモを取っていた。
「俺達は日本という国家と社会契約を結び、国家に帰属している。愛国心ではない。国籍という契約書で家賃を払い、住んでいるということだ——山田、報告を頼む」
「はい」
PCを操作し、あらかじめ作成した資料をモニターに出力。何かと話題になる竜崎重工に関するネットニュースの記事が映り、山田は手元に置いていた眼鏡を掛けた。
「これは竜崎重工が以前開発した軍事用光衛星通信装置に関する記事です。『衛星搭載用モデルを台湾に三基輸出』という見出しですが、のちに輸出先が中国政府のダミーカンパニーだということが発覚し、輸出停止に陥りました。大手メディアの報道はここまでですが、週刊誌に寄稿したフリージャーナリストによる匿名取材で『通信装置の一基が行方不明』という情報が掲載されます。これは早乙女と共有してディープウェブでもチェックしてもらいましたが、似たような情報が現在も出回っているようです」
マウスを動かし、新たな資料を表示。報告用にAIツールでまとめた図がモニターに出力される。図の下端には『地表』と書かれた地球の表面が描かれ、そこに巨大なアンテナが目立つ基地局がいくつか設置されている。上空には高度に応じて役割が異なる通信衛星が何基か浮かぶ構図となっていた。『2030年代に起こった通信革命』と名付けたタイトルは「我ながら簡素で見やすいな」と、山田は安心した。
「ここで光衛星通信の説明を挟みますが、この中で詳しい方は指摘をお願いします」
「詳しくは知らない」「僕も何となくしか……」「なんか速そうだよな」と呟く三名。
俺も半導体関連の勉強で調べただけだけどな。
「日本の大手通信キャリアは地上の基地局を整備することによって、通信速度を6Gや7Gに向上させていますが、世界の主流は低軌道衛星通信になりました。従来の通信衛星は地表から三万六〇〇〇キロの軌道を静止軌道衛星が周回していましたが、距離があるため電波が届きにくいデメリットがありました。低軌道衛星は高度五〇〇から二〇〇〇キロを周回します。一基あたりがカバーできる地表面積は少ないですが、現在は大量の打ち上げに成功し、基地局の遠い山間部や海上でも光回線と同じ速度で通信可能です。災害や戦争で基地局が破壊されても影響がないというメリットあります。このセーフハウスの契約先も衛星通信です」
「正直、それが普通の時代に生まれたので実感が湧かないんですよね……」
「『俺の時代は』という言葉は使いたくないが、光回線が登場する以前のADSLは二〇二四年にサービスを終了しているはずだ。動画サイトで一〇分の動画など、読み込みにそれ以上掛かり、観れたものではなかった。シークバーを動かして好きな場所から再生するのは実質、不可能に近かったんだ」と、境。
「本題の光衛星通信に入りますが、タイトルにもある通り通信のゲームチェンジャーとなりました。真空である宇宙からのレーザー光なので電波とは違い、回線が遅いということはありません。しかも回線速度は10Gを超えます。全ての低軌道衛星にこれが搭載されるのは時間が掛かりますが、既にNATOでは軍事用として稼働しています」
「それに中国が目を付けたってことか。中国ではその光衛星通信システムは普及してねえのか?」
「技術的には中国も遅れを取っていない。だから、これは『第三国』による介入だと思う」
そこで山田は早乙女に話を振るため、マウスを動かし始めた彼に目線を送った。モニターには英語表記のショッピングサイトが映った。
「ダークウェブ上に出回っているのは、これらのパーツだと噂されています。山田さんいわく冷蔵庫くらいの大きさみたいですね」
ホログラムに光衛星の現物モデルが浮かぶ。通信機器や高分解能カメラを積んだ四角いボックスから、両翼に太陽光発電に欠かせない黒い電池パドルを生やしていた。ボックスは宇宙空間でも支障をきたさないように金箔のようなフィルムで覆われていた。
「分解後にただの機械部品としてマーケットに売り出しているんだと思います。買い手は限定されているみたいで、東側諸国の人間にしか販売していないようですね。直接的な交渉はメタバース上でのチャットを介して、現地で受け渡すらしいです。既に削除されていますが、以前はサイトのチャット欄に『アイランド』、『レストエリア』という単語が並んでいました。多分、取引現場を指定していたんだと思います」
「何かの暗号じゃないとしたら、『島』とか『休憩所』っていう意味かな?」
「日本語的にレストエリアはサービスエリアのことだとは思うんですが……竜崎の相手は『海上』と言っていましたよね?」
「ああ、全部矛盾してるけどな」
島、サービスエリア、海の上……
「全部の要素が合わせるのか、全て違う場所で取引するのかな……」
「犯人の特徴はエンブレムだけですか……他に手掛かりがないと厳しいですね」
「どうすっかな……クソッ、獲物は目の前にあんだけどよ。来月って意外に時間ねえな……」
——取り敢えず、一旦畳むか。
「自分からの報告は以上です。今回のことに限定した話ではありませんが、今後はエージェント運用のためにも週刊誌の記者と接触し、獲得工作を図ろうと思います。質問はありますか?」
部屋に沈黙が訪れる。早乙女がスマート照明を点灯させるために、拍手をした。その音だけが広間に響く。
資金の流れや重要人物達は掴めた。
犯行手順も分かった。
組織のシンボルも把握した。
しかし、肝心の取引現場が抑えられない。
「竜崎が入手した取引情報が光衛星の行方に繋がるかは不明だが、可能性は考えておこう……この数カ月で一番の成果だ。特にメタバース関係は他の情報機関にはない着眼だ。これまで通り、タッチパネル機能付きのマルチモニターをミッションボードに使う。チーム内の情報をライン状に結んで共有してくれ。俺からの総括は以上だ」
椅子から立ち上がった境は、いつもの言葉で締め括った。
「スパイ活動は点と点を繋げる作業でもある。どれだけ技術が発達しても地道な作業が続くことは変わらない。手に負えなくなったら、必ず仲間や上司に頼れ。気分転換に今日は寿司にしよう——早乙女」
「大丈夫ですよ、留守番は任せてください。僕未成年ですし、店でアルコール選ぶ必要ありませんから。買ってきて欲しい物リストは竜崎に送信しておきました」
「また俺かよ! まあ、助けてもらってるから何も言えねえけど……」
◆
「ゴルバチョワは山田を騙したマルティニであり、盗撮した人物は竜崎を陥れた行方不明の親友か……話を聞く分には、山田の携帯を利用した男はゴルバチョワの連中に始末されたんだろう」
「親友ではないっすけど、捕まえた暁には、せめて理由が知りたいっすね……」
スーパーで食料品を補充し、後部に積んだ後、復路である山道の途中、横道に逸れて境は私有車を駐車した。周辺は生い茂った林が侵入者の視界を遮っていた。銃猟禁止区域外らしく、時折、乾いた爆竹のような銃声が響いている。
車内に冷気を行き渡らせるファンの動作音とエンジンのアイドリングが、森の中で静かに唸る。蝉の鳴き声も聞こえていた。助手席の山田は竜崎と共に、運転席の境が神妙な面持ちで何かを決断するように腕組みを解くのを待った。竜崎の顔は不安げだったが、「いつから行方不明なのか」とセーフハウスで聞かなかったのは、早乙女に配慮しての行動だったのだろう。
俺も危うく、声を上げそうになったからな。
「……竜崎、今からこの車内でチャット相手とやり取りできるか?」
「え? まあ、時間帯的にはむしろ今くらいが頻繁にやり取りしてるっすけど……」
「『シノハラ』という名前を出して鎌をかけてくれ」
「シノハラ? それは良いっすけど、誰のことっすか?」
後部座席の中央に腰掛けている竜崎は、境の沈黙から悟ったのか「……まあ、言えない良いっす」と諦めた様子だった。
「——血盟団の重要人物と目される人間だ。その人物とお前は親しい間柄という設定にしてくれ。向こうが裏を取れる立場にないことが前提の、取引日時を引き出す賭けになる。失敗しても良いから、お前が最適だと思われる文言で思い切りやって欲しい」
「——へっ、ハッタリってことっすね。カマすのは得意なんで大丈夫っすよ」
「今から言うことは作業しながらで良い。耳だけ貸してくれ」
後ろで情報端末を操作し始めた竜崎から、山田は境へと視線を移す。
早乙女に聞かせられない話ということなら、勝連関係か。
「山田のいたビッグサイトや会食に使用した居酒屋、竜崎が逮捕された道路付近の監視カメラの映像は軒並み何者かによって消去されている。血盟団やバッハと呼ばれる男を始めとしたロシア諜報団への痕跡だけが途絶えた。内通者であるモグラがいるとしか考えられない」
「ええ、勝連でウッダードさんからも聞きました」
「だが公安にいるエージェントいわく、映像自体は回収しているらしい」
「え? なら、それを提供して貰えば特定できますね」
「紛失した、ということになっているらしい」
竜崎が後ろから「はあ? 管理体制お粗末すぎんだろ」と吠える。しかし、その後「……いや、違うな、ストーブ・パイプってやつか」と漏らした。
「紛失は恐らく事実ではない」
「情報共有をしてくれないのは、公安の実績作りですか?」
「血盟団やロシア諜報団に関するクリティカル・インテリジェンス(最重要情報)を会議で報告した情報機関は、間違いなく来期からの予算が増額される」
「やっぱり、縦割り行政の弊害(ストーブ・パイプ)ってことじゃねえか」
「どこの国もそんなものだ。事前に決められた予算枠から配分される。取り合いにもなる」
「クソッ、同じ情報機関なのによ……公安は信用できそうな感じするんだけどなあ」
「なぜ公安は信用できるんだ?」
「え、そりゃあ……」
顔を上げた竜崎に向き直った境は、「『公安』という名前を映画やドラマなどエンタメ作品でよく耳にする、正義の味方やヒーローだからか?」と、問い詰めた。
二人の様子に張り詰めたものを感じた山田は「同じ日本の組織だから、ですかね?」と横から割り込む。
「いずれにせよ危険な考えだ。同じ国家の組織なら信用できるというのは、あくまで国民側の視点であり希望的観測だ。俺達は国家公務員という扱いだ。同じ組織人という見方で考えるんだ」
公務員であり、組織……
「組織としての体裁を優先するっつーことっすか?」と、竜崎。
「その通りだ——メッセージは?」
「今、こんな感じっすね」
竜崎が端末の画面を見せてくる。そこにはゲーム上のアバター同士がメッセージで会話し、そのチャットログが画面下に流れていた。
『夕方には着く予定です』
『遅くないですか?』
『25日に海ほたるの駐車場で19:30じゃなかったっけ?』
「『海ほたる』?」
「……俺が言うのもなんだが、賭けに出たな」
なぜ「海ほたる」で鎌をかけたんだろうか。取引現場は「海の上」で——
その瞬間、山田は納得した。
「『島』と『サービスエリア』と『海の上』って、そういうことか」
「確信があったわけじゃねえ。ハッタリだけどな。全部バラバラの場所なら絶望的だが、三つの要素が全て揃う場所って言ったら、有名どころは一つしかねえ——ところでおやっさん、場所と日時が分かったら、俺達だけで取引を妨害すんのか?」
「その通りだ。他の情報機関には伝達しない。協力もしない。取引現場を押さえ、実行犯を拘束、証拠品を押収する」
「人員や装備は足りますかね?」
「作戦要員が足りない場合はDO(工作本部)に報告し、DOが他のチームとの調整をする。そこからは合同作戦だ」
「俺らの権限や、抵抗があった場合は?」
「出内機関に捜査権も逮捕権もない。詳しくは言えないが、あくまで『拘束』だ。追跡や確保をして情報を得ることが最優先だ。抵抗が激しければ無力化しろ。殺害しても構わない。その際はできるだけ大衆の目に触れない場所で実行しろ」
車内が静まり返る。空調が効いているという理由だけではない冷たさが空気に混じっていた。しかし、不思議と山田は冷静だった。これまでこなしてきた試練や緊張に比べ、「殺人」を特別視していなかった。
確かに、今までの流れを考えればそうなるかが、一応、訊いておこう。
「殺害行為は、刑法で言う正当防衛や緊急避難の範疇で、ということですか?」
「いや、出内機関に国内法は関係ない。法律の観点を考慮する必要はない」
「国内法?」
「これ以上はニード・トゥ・ノウだ。ただし、他の捜査機関は出内機関を知らない。現場に警察官や国防軍兵士が居た場合、捜査や作戦の妨害を受けても可能な限り危害を加えるな。逮捕された場合、各警察署に勤務するエージェントと連携し、出内機関の人間が留置場から釈放する手筈となっている」
「じゃあ、俺らが裁判にかけられるっつーことは?」
「あり得ない。だが、メディアによって完全に特定された場合は難しい。その場合は切り捨てる。当局は一切関知しないし、一斉に報道規制と関係各所への根回しが始まる。どうしても目立つ行為をする場合は、世間に言い訳が出来るようなものに留めておけ。それでも駄目な場合……お前達の行き先は『一つ』だ」
境の言葉をどこまで信じて良いか、山田は分からなかった。実際に逮捕されても裁かれない、という保証もない。切り捨てられるか勝連送りは恐らく真実だろう。ただ、これまで指示に従い、実際に成果を出しつつある自分達を今更、無意味に陥れる理由もない。
「そもそも情報機関に捜査や逮捕の権限はない。韓国の国家情報院などはどちらも持つが、警察組織以外が捜査権を行使するため、国民への監視活動など権力の暴走に直結するという見方もある。一応、スパイ行為の捜査や汚職のみに限定されているが」
「なら本当に、出内機関だけでやるっつーことか……」
「軍や警察とも連携しないということですよね? 」
「一般的に大規模で著名な組織の動きほど監視されている。インテリジェンス課程でも通信量や人員の出入りで、作戦の規模が察知されると習ったはずだ。こういった場合、他国においても大規模なストライクパッケージ(強襲混成部隊)が組まれることはない。作戦が漏れることを危惧して、全ての情報機関にも伝達されない」
「特殊な作戦では小規模なグループが有利ということですか……何でもできるような」
「そのための教育と訓練を施してきたはずだ」
そこから会話が途切れた。山田が時々、バックミラーで竜崎を確認すると、じっと携帯端末の画面を覗いたまま動かなかった。隣にいる境はブラックコーヒーの入ったペットボトルを開け、ゆっくりと飲みながら時間を潰し始めた。仕方なく山田も携帯端末で情報収集に努めていたその時、境が静かに切り出した。
「——『大川原化工機(おおかわらかこうき)事件』を知っているか?」
面を上げた竜崎と二人で首を横に振ると、境は続ける。
「二〇二〇年に警視庁公安部が『経済産業省の許可を得ずに生物兵器製造に転用可能な噴霧乾燥器(ふんむかんそうき)を中国に輸出した』として、神奈川県に本社を置く機械製造会社『大川原化工機株式会社』の代表、常務、相談役を外国為替及び外国貿易法違反の容疑で逮捕した事件だ」
「噴霧乾燥器?」と、竜崎。
「スプレードライヤーと呼ばれる液体を乾燥させて粉にする装置のことだ。牛乳を粉ミルクにする用途で開発された。俺達の飲んでいるインスタントコーヒーやカップ麺の粉スープなども、この装置で液体を原料に加工して製造している。医薬品にも使用されているな」
「それが生物兵器の製造に転用できるんですか?」
「できない。社内での検証実験の結果、そうした機能が無いことが判明している。そもそも経産省の規制要件にも当てはまらない。経産省の担当者はスプレードライヤーが規制対象外だと捜査機関に複数回伝えていた」
「じゃあ、なんで逮捕したんだよ? まさかまた人質司法か?」
「そうだ。大川原化工機事件は公安部第五系(がかり)の成果作り、与党と米国の対中政策に寄与するという外事第一課の存在感のアピール、そして捜査幹部が出世するために曖昧な輸出管理規制を利用した捏造工作の冤罪事件だ」
公安による冤罪事件。
その単語に山田は竜崎と顔見合わせ、息を呑んだ。
「五系は不正輸出捜査が専門だったが、部内から成果不足を指摘されていた。公安内部では『外事は年一』という不文律があり、年に一度、社会にインパクトを与える事件を検挙するという風潮があった。外事一課はロシアや東ヨーロッパの工作活動や不正輸出が捜査対象だが、人員と規模の縮小を防止するため、そして定年前の昇任を目論んだ捜査幹部によって、何らかの事件をでっち上げ、捏造することにした。防衛医科大学校の校長に目的を明かさずに面会し、供述調書を作成。署名押印した文書を警察にとって有利になるように一人称独白体として内容を改竄。別のスプレードライヤーメーカーにも協力依頼し、生物兵器の製造に使えるか実験報告書も作成していた」
「他のメーカーに依頼していたのなら、その会社が気付いたのではないですか? 不正輸出の法的根拠はなんですか?」
「『液体を粉末に加工後、スプレードライヤーの温度が一〇〇度以上になれば生物兵器製造に使用した細菌も殺菌できる。つまり作業者が安全に兵器を製造できるので外為法(がいためほう)違反になる』というのが公安部の主張だ。元々、『空焚きして装置の温度を上げれば菌を殺すことができるのではないか?』という、捏造が前提のこじつけから始まった捜査であり、実際は製品回収容器の底が一〇〇度に達することはなかったらしい。一つでも到達しない箇所があれば作業者の安全は確保できないので、公安のこじつけは破綻する。そこで測定結果が捜査記録に残らないように、公安は報告書の捏造を謀った。温度測定自体を協力会社が独自に実施したものとして、一〇〇度に達しなかった箇所がないように記載した。経産省は公安部との話し合いでスプレードライヤーが規制対象外だと説明した際に、捜査自体に疑念を抱いていたようだ。大川原化工機はスプレードライヤー分野において国内トップシェアである七〇パーセントを誇るリーディングカンパニーであり、要件次第で兵器転用が可能となる法改正時においても、専門的な意見を積極的に経産省と取り交わしていたメーカーだったからだ。またメーカーとしても海外の顧客と取引する際は法的拘束力がないのにも拘わらず、わざわざ兵器転用禁止の契約を結ばせるほど力を入れていたらしい。しかし公安部の強硬な姿勢に屈し、経産省は黙認する形となった」
「警察内部で反対はなかったんすか?」
「異常な捜査に反発する捜査官もいたが、五係長によって強引に進められた。そして役員や社員に対する取調べを開始し、調書を改竄。ただ代表、常務、相談役は逮捕後も弁解録取書の内容に納得せず、署名捺印を拒否し、修正を求めた。そこで五係は修正したかのように見せかけ、署名捺印された書類を入手することにした。しかし、その場で常務による指摘を受け、再度修正が加わった書類と合わせて二通の署名された録取書が発生した。この場合、どちらも検察庁へ送致しなければならないが、五係は自分達にとって不利な方の公文書を破棄した」
「検察は気付かなかったんですか?」
「当初の担当検察官は問題だらけの捜査に公安部の相手をしなかったが、後に着任した検察官が前任者の上司ということもあり、公安部の言いなりとなったようだ」
これも一種のストーブ・パイプか……
「最終的に代表、常務、相談役は拘置所に勾留され、『罪証隠滅のおそれがある』という理由から約一年間、保釈請求が下りなかった。その間、相談役は胃がん治療のために入院手術が必要だったが、検察官も裁判所も保釈請求を却下。最終的に勾留執行停止状態でも受け入れ可能な医療機関を弁護士が探し、入院させたが死亡した」
「……胸糞の悪い話だ」と、竜崎。
「ただ、初めから捜査自体が破綻していたこともあり、弁護団は公安部が経産省や安全保障貿易法人との話し合いの記録を部内に保存していることを確認し、裁判所を通して検察に証拠開示を請求した。結果、裁判が開かれる四日前に検察官は証拠開示ではなく起訴の取消しを申し立てた」
「取消し?」
「簡単に言えば、裁判で捏造が発覚する寸前に逃げたということだ。そして、後の証人尋問で当時の公安部捜査官である四名の現職警察官が法廷で『五系と外事の存在感のアピールと、捜査幹部の出世の為に事件を捏造した』と証言した。同時に別の公安部の捜査官は『警察にとって不利な証拠は捜査幹部が取り上げない』という組織としての体質を批判した」
「さすがに公安部は何かしらの処分があったんですよね?」
「外事一課は、警視庁長官賞と警視総監賞を受賞し、五係長である警部は警視に、その部下である警部補は警部に昇任した。他の捜査官達は論功行(ろんこうこう)賞を授与された」
「ふざけんな、降格とか懲戒免職じゃねえのかよ!」
「のちに賞は取り消されたようだが、昇任は変わらない」
狂っている。
警察権力への不信感がより一層募る山田だったが、すぐに波が穏やかになっていくことを感じた。
もう何も期待していないからか……頼れるのは自分と、僅かな絆で結ばれた彼らだけだ。
「大川原化工機は国内だけでなく五カ国に代理店を持ち、二つの拠点もある世界に誇る日本の町工場だった。だが逮捕後、大手取引先や銀行との仕事が停止し、倒産寸前に追い込まれた。日本の治安や国益を守る組織が自分達の出世と組織維持のため、国家に貢献していた一般市民を死に追いやり、重要な国益となる国内企業を破壊した。そして彼らも、お前達と同じく人質司法(ホステージ・ジャスティス)の犠牲者となった。組織では組織の正義が優先される。現実には正義の味方もヒーローもいない。自分の身は自分で守る時代だ」
それは国家という大きな枠組みや、出内機関のような独立した組織でも同じだということか。
「……それは、比較的独立した内閣官房の情報機関もですか?」
「内閣情報調査室(CIRO=サイロ)は選挙活動に諜報員を使い、対立候補の情報収集や街頭演説に私的利用している疑いがある。マラードやエックスキースコアも政権の基盤強化、他の情報機関の監視に利用されている可能性は否定できない」
「へっ、教育で教わったことと全然違うな」
「残念だが、教育はあくまで教育だ。現実では様々な既得権益が絡み合っている。最終的に何を信じるかはお前達の自由だ。だが、俺のチームでは『ゼロトラスト』でやってもらう」
その意味を山田は勝連で知っていた。竜崎と看守を交えた英会話学習で聞いたことがあった。
「『何も信じない』……」
「国家や組織に真の意味で結束などない。一丸とならなければならない防衛戦争であっても、国家や組織のリソースには限度がある。敵の侵略を止めなければ国家が崩壊する状況でも、国内外にある限られた人員や兵器、弾薬を配当するしかない。最前線が最優先になるのは誰が見ても必然だが、重要なのはそれ以降の順位だ。そこに忖度が生まれる。軍隊内では将校同士の関係、学校内での序列、先輩に後輩、出世や部下との相性、政治との兼ね合い——リアリズムから遠ざかり、アイデアリズムで判断される。そこに信頼を置いてはいけない。組織内政治や腐敗によって、メディアやマスコミを始め、いくらでもインテリジェンスは歪む。『戦争の一番の犠牲者は真実』という言葉は有名だが、俺達のやっているインテリジェンスという仕事は、戦前や戦後日本においても最優先事項ではない」
そう言えば、警察は国民にアピールできる案件を優先して捜査する、って留置場で聞いたな。
「ところで、ゼロトラストは何も他の情報機関にだけ当てはまることではない。今回の作戦で、お前達が血盟団のモグラでないか、見極めさせてもらう」
「それは早乙女も、ってことっすよね? 勝連のことを除いても、あいつ、ハブられてるって気にしてますよ」
確かに、早乙女は単独もしくは竜崎と一緒にセーフハウスに残ることが多かった。その際に竜崎に相談していたのかもしれない。
「そうだろうな。そして、俺自身もお前達に見られているということは意識している」
「相互監視かよ」
境は運転席からニヒルな笑みを竜崎に向けた。
「『信頼関係の醸成』だ」
不思議とその台詞に山田は嫌悪を感じなかった。
何も信じられない関係。
ただ「国益」という一つの目標に向かって、赤の他人が自分達のスキルを生かし、集まるだけ。
「——確かに逮捕されるまで、人質司法すら知りませんでした。成人後も自分が住んでいる国の司法制度がまともに機能していないことすら分からず、脇が甘かったのは認めます。落ち度がないとは言いません。ですが、俺達が無実であり無罪だということは、これから証明します」
山田自身の挑戦的な台詞に、竜崎は「よっしゃ、やってやろうぜ」と意気軒高(いきけんこう)に拳を振るった。その様子に境は相変わらずの仏頂面だったが、心なしか口角が上がっているようにも思えた。
今の表情に悪意はないように見えるが……
「いずれにせよ、タイムリミットは日露和平会談が開かれる来年の二月だ。それ以降は交渉に響く。できるだけ穏便に済ませよう」
穏便、か。それなら血盟団はまだしも……
「ロシアとの和平交渉前にゴルバチョワやバッハを捕まえるということですよね?」
「その通りだ」
「事前に潰したら、それこそ相手国を怒らせることになりませんか?」
「その心配はない」
「……その説明はニード・トゥ・プロバイドの範疇ですか?」
「ニード・トゥ・ノウだ」
回答はそれだけだったが、山田にとっては充分だった。それは竜崎も同じだったようで、端末のチェックに意識を戻していた。
そこで山田は、前々から気になっていた不安要素を訊ねることにした。
それは、恐らく自分達がやらされることになる、「とある行為」。
「血盟団だけでなく、最終的な措置として勝連のような強制収容所を利用、移送するということですか?」
境は無言だった。
山田は上司の横顔をじっと見詰めた。が、当の本人はブレスレットタイプの情報端末を動かしているだけで、何も答えなかった。
「さすがに一度戻るか。戻ったら、バンの内装変えを竜崎と俺、早乙女と山田は配線やPCの配置を調整——」
「お、メッセージが来たぞ」
自身の腕から視線を外し、「当たりか?」と、隆々とした肩幅を一八〇度回転させる境。山田も気になり、竜崎が見せつけてきた端末の画面を凝視。彼の表情から、成果の程が窺えた。
「ジャックポットだぜ」
液晶には、『俺は30日に展望デッキで14:30って言われてるけど』というメッセージが表示されていた。
◆
八月、千葉県木更津市。
海ほたるパーキングエリア、五階展望デッキ。
山田はデッキに設置された望遠鏡のそばで、旅行者のようなバックパックを背負いながら一眼レフカメラを携えていた。東京湾の潮風と陽光を浴びながら、観光客達が思い思いに会話や写真撮影に興じている。首からカメラを下げてスマートフォンを取り出し、山田は暗号化されたメッセージと時刻を確認する。
——もう一五時を過ぎている。
チームで連絡用に使用している通信アプリのグループチャットには、『置き配』という隠語が表示されている。送信元はリーダーである境。「罠」という意味の単語だ。長時間の待ち伏せも怪しまれる。
時間的にも、階数の変更による人員の入れ替えを開始しなければならない。
山田は隣に立つ長身の女性に気さくな態度で声を掛ける。
「戻ろっか」
「そうだね」
サファリハットとマスクで骨伝導型のインナーレスイヤホンを隠した人物と、ゆっくりと歩き出す。かつて同じチームとして過酷なスパイ教育を共に突破したその女性は、丈の長いポンチョブラウスと動きやすいロングパンツにシューズを着こなしていた。教育時の戦闘服姿とはまるで別人であり、カジュアルな夏服に身を包んでいる。
しかし、ゆったりとしてブラウスが腰のインナーホルスターにある拳銃を隠すためだとは誰も気付かないだろうと、山田は感心した。自身も半袖シャツと上から羽織ったベストで、腹部に隠した拳銃とナイフは隠匿済み。コンタクトレンズの上から黒縁の大きな眼鏡を掛け、相手への印象作りも怠っていない。眼鏡には極小カメラが搭載され、作戦指揮車へリアルタイム映像が送信される。不測の事態にも対応できるように、バックパックには小型のサブマシンガンも仕込んでいたが——
この様子じゃ、出番はなさそうだな……
「……手を繋いだ方が自然じゃない?」と、耳元でささやいてくる綾瀬。
「繋がない方が逆にカップル感が出るかな、と……」と、小声で返す。
「それもそうか」
彼女もヒールではないし、「いざ」という時のために両手は空けておきたいしな。
微妙な距離感を維持したまま、両サイドのエスカレーターを無視して中央の階段を二人で下りる。すれ違ったトラック運転手の顔をちらりと確認。グレーの作業着を身にまとっている。別のチームだ。山田はカメラが揺れないように片手で支えながら四階を見渡す。
走る子供を咎めながら歩く家族連れ。
カップルと思しき男女。
老年の夫婦。
そして、青いつなぎを着用して清掃業者に変装した、また別のチーム。大き目のマスクと同色の帽子で人相を完全に隠している。箒と三つ手のちりとりを持って、五階と四階のショッピングモールを巡回するのが彼らの役目だった。
「三階の駐車場で動きあり」と、耳打ちしてくる綾瀬。
「……了解」
無線で指示が届く分、他の要員に比べて山田にはタイムラグがあった。しかし、頭部を隠している人間が複数人いると怪しまれる可能性があり、作戦用イヤホンは渡されていない。綾瀬の背中を追い、そのまま階段を下り続ける。
観光スポットとしても有名な海ほたるは、一階から五階まである人工島だった。一階はバス乗り場兼自動二輪や大型駐車場、二階が木更津側、三階が川崎側からの普通車用駐車場で構成されている。四階と五階はショッピングモールであり、地下となる海底トンネルは東京湾アクアラインで、川崎方面に行くことが可能。そして木更津方面には約四・四キロメートルに及ぶ日本最長の橋「東京湾アクアブリッジ」が延びていた。
……いずれにせよ、逃走経路は全てカバーしている。逃がすわけにはいかない。
◆
《……なあ、あのトラック、なんで三階に来たんだ? 車高ギリじゃねえか》
《うーん……普通に間違えただけじゃないですかね?》
確かに、駐車にひどく手間取っているようだが……
清掃業者を装ったバンの運転席から、境は三階駐車場の半分を監視していた。作業着姿でコーヒーを飲みながら、手元のタブレットをタッチペンで操作。実際は各要員に指示を送り、送られてくるライブ映像を早乙女と共有して確認しているのだが、周囲は休憩中の作業員だと思うだろう。イヤホンマイクも装着しているが、仕事の道具として認識される。後部は作戦指揮車としてPCや通信器材が搭載されているが、黒いカーフィルムでバックやサイドからは見えない。前部座席との間には遮光カーテンがあるので、フロントからも遮蔽済み。なおかつ、後部に居座るオペレーター兼ネットワーク担当の早乙女とは、すぐにコンタクトが取れる仕様となっていた。
《俺の方からは良く見えないっすけど、一〇番さんからはどうっすか?》
「今、二番と三番を呼び出した。三階の巡回ついでに確認させる」
《了解っす。二〇番のモニターからは?》
《四番が設置したカメラの位置が悪くて見えないですね》
《なら今度からは自分で付けるようにな? 脚立とか使ってよ》
座席を全て取り払い、作業スペースとなっている後部から舌打ちが聞こえてきた。血盟団側に顔が割れている可能性のある竜崎は、同フロア内の別車両で監視待機させていた。駐車場中央近くの駐車スペースにトラックを停めた運転手は携帯端末を取り出し、猛烈な勢いでメッセージを打ち込み始める。誰かと連絡を取っているようだ。
傍受されたくないから電話は利用しないということなのか、それとも他に理由があるのか……
舌打ち以外はキーボードの打鍵やモニターのタッチ音しか聞こえてこないので、境はカーテン越しに「ネット上で動きはあるか?」と訊ねる。
《ダークウェブの海外人材派遣サイトに、荒事専門の『マーダー・シスターズ』という業者が出入りしていたようです。日本での活動が主らしく、こういう界隈では珍しい警察官などの公務員も相手にする業者らしいので、注意は必要かもしれません》
《『殺人姉妹』って……物騒な名前だな》
《サイト自体は『スイープ・カンパニー』という清掃業の請負を装っていますが、実態は殺人や脅迫の代行みたいです》
《そんなサイトなんで潰れねえんだよ……》
《経済の発展していない国では珍しくもありませんが、噂ではペーパーカンパニーを通して複数の政府機関も利用しているとか……二番と三番が来ました》
「良し……」
境はタッチペンで『白い大荷物の確認お願いします。品番は8843です』とグループチャットにメッセージを送信。駐車場中央にある階段から山田と綾瀬が登場。フロアから見える外の風景にカメラを向ける。隣にいる綾瀬が遠方を適当に指差し、観光客を上手く装っていた。
その時、問題のトラックに私服姿の何者かが、周囲を警戒しながら接近。両袖をまくったシャツにカーゴパンツを履いた人物であり、アジア人。顔は良く見えないが、境は見覚えがあった。山田が顔認識AI搭載済みのカメラをトラックにさりげなく向ける。早乙女によって組まれたそのカメラを通せば、バンにあるデータベースと自動照合され——
《——ヒット! この人、報告会で見た派遣社員、杉本です!》
「良し、トラックはそのまま泳がせろ。四番の車両で追跡して、交替したドライバーの方は——」
その瞬間、運転席から慎重に降りようとする男を、杉本が無理矢理引っ張った。バランスを崩しながらも何とか着地したドライバーに、手のひらサイズの紙包みを投げ渡す。そしてすぐにエンジンを始動しようとするも、スマートキータイプだったのか地上のドライバーに鍵を寄越すように催促を始める。その焦った表情、目線が素早く周囲に指向された。途端、境と目が合い、竜崎が乗っている車両方向にも目が向けられていた。
こいつ、気付いたな!
「作戦変更だ、手順通りにいますぐ全員確保しろ!」
杉本は道路標示の進行方向に従い、出口に向かって急発進。その眼前に竜崎のピックアップトラックが飛び出し、ロードブロックを行う。付近にいた山田と綾瀬はトラックを降りた方の運転手に迫ると、相手が懐から「手のひらに収まらない何か」を取り出した。
マシンピストル——
「銃だ、応戦しろ!」
銃声が鳴る前に、境は無線で警告。駐車場中に火薬の炸裂音が響き渡る中、隣のシートに伏せる。タブレットで『3Fでエマー、敵2銃あり』までメッセージを打ち込み、一旦、姿勢を起こして腰のホルスターからサプレッサー付き拳銃を抜こうとする。
《危ない!》
綾瀬の声がイヤホンを通して聞こえた気がした。しかし、顔の横に大量のガラス片と赤い何かが迫り、反射的にシートに倒れ込んだ。
「何で避けんのよ!」
喉の焼けた女の声。穴の空いたサイドウィンドウから見える人物に、境は拳銃を速射。が、異常なまでのしなやかさでバンの正面に移動。巨大な斧を何度もフルスイング。フロントガラスがひび割れ、砕け散り、鋭利な先端がヘッドレストに突き刺される。射撃しながら後部まで後転して回避。なぜか姿勢を低くして座っているだけの早乙女に激突する。視界の端で、腕を伸ばした斧女がシリンダーに差しっぱなしのキーを抜き取る。何発か撃ち込んだが、時既に遅かった。
「何をしている、早く出ろ!」
「待って下さい!」
突然、後部内に激しい火花が四散。巨大な半円状の鋸(のこぎり)がバックドアを斬り裂きながら車内に侵入してくる。音から察するに救助隊などが使用するエンジンカッターらしい。
別の奴か!
切断痕がいくつもあるバックドアに、跳弾が発生しないようにできるだけ銃口を真っ直ぐ向けた瞬間、今度はスライドドアから斧の刃先が侵入。二の腕を裂かれた境の照準は狂ったが、早乙女のパーカーフードを引っ張り、凶刃から少年を守ることに成功。同時に敵の狙いが分かり、フロントガラスから乗り込もうとしてきた人物目掛けて速射。人外の身のこなしで避けられてしまったが、得物は斧ではなくハンマーだった。背丈も大きく、斧とは別の人間。そしてドアロックは済ませていたがキーを奪取されている。つまり包囲されてしまった。おまけに早乙女は拳銃をタクティカルベルトごと作業用デスクの上に置きっぱなしだった。
一体、外に何人いるんだ!
《一〇番と二〇番は動かないように》
途端、近くで圧縮された破裂音が連続して鳴り響いた。何かが倒れる音が聞こえる。境がバックドアに何発か撃ち込むと貫通し、エンジンカッターが停止。女の呻き声が遅れて聞こえてきたので、弾倉を交換。
「行くぞ、銃を持て!」
穴の空いていない方のスライドドアを開け、素早く前後を確認。隣の車との間に一気に跳び出す。
「おらあ!」
怒声と共に眼前に何かが急接近。反射的に頭を下げて地面に伏せる。頭上にはバンと隣の車両のルーフに足を掛けた人物が一名。ガスマスクを装着しているので人相は不明。スパイン(仰向け)から、すかさず胸や腹に連射。怪人の手から斧が離れ、バンから出た早乙女の目の前に落下。少年は悲鳴と同時に車内に転倒。ガスマスクが再度、斧を拾おうとしたので脳幹と心臓に連射。身体が何度か痙攣した後、完全に停止。弾倉を交換する前に、周辺をサーチ。刹那、バンの影から何かが飛んでくる。
ハンマーの方か!
回避したつもりが手の甲にぶつかり、鈍痛と共に銃が弾き飛ばされる。空いた手でナイフを抜く前に、縁日で売られているような白ウサギの面とレディーススーツを身に着けた女が素手で突っ込んでくる。が、車内から飛び出した早乙女の脚に引っ掛かり、境の目の前で派手に転倒。脊髄反射的に境は女の脇に腕を差し込み、背中まで回して、もう片方の腕で頭を脇に抱え、ヘッドロック。そのままバンの前で倒れ込み、首元まで深く回した腕を締め上げていく。長身の女は力を振り絞って暴れ、境の身体が前後に振り回された。
細身なのになんて力だ!
しかし次第に意識が遠のいたのか、抵抗が弱まっていく。境は状況判断。工事現場で轟くような金属音が鳴り、そちらを注視。竜崎の車両は体当たりをされ、サイズの問題でそのまま押し切られそうだった。マシンピストルのドライバーは処理されたようで、他のチームの要員が倒れた身体目掛けて射撃中。刺客——恐らくは殺人姉妹を処理した綾瀬からサブマシンガンを受け取った山田が、トラックのタイヤに向けて構える。が、既にピックアップトラックを押し退けた杉本は出口の方向へと走り去っていった。
境は駆け寄ってくる別の要員に対し、首を横に振って制す。失神した女の面を剥ぐと——
「うわ……このケロイドは火傷、ですかね?」
いつの間にか隣に立ち、女の両手両足をプラスチックカフで巻いて、武器を隠していないかボディチェックを始める早乙女。
「それか硫酸のような化学熱傷か……」
「泡吹いてますが大丈夫ですか?」
「両足を上げて頭に血を送ればすぐに起きる——山田に習った『牛殺し』という絞め技だが、やってみるものだな」
《一〇番さん、すみません……最初のドライバーは俺が『完全に無力化』してしまいました》
山田の報告に、初めての殺人か、と境は感想を抱いた。
「何か訊き出せたか?」
《すみません、その前に……》
《スンマセン、突破されました!》
無線に割り込んできた竜崎の様子は元気そうで、横転しかけたピックアップトラックのエンジンを再度始動しようとしている様子だった。タクティカルベルトから止血帯を取り出しながら、「慌てるな、発信器はどこに付けた?」と訊ねる。
《……ヤベ!》
クソッ。
「追え、山田は竜崎の車両に乗って援護しろ」
《了解》
二人が乗った車両がスキール音を残して駐車場から消えて行く。斧の切創を止血している間に、綾瀬を始めとする要員達がガスマスクとウサギの女を車両に積載。その時、黒猫の仮面を付けたハンマー女が「離せ、うちらにはこれしか生きる道がねえんだよ!」と、カフの拘束から逃れようともがいた。
「お前らがいるから女が上に行けねえんだよ!」
「そんなこと言っている間は無理」と、綾瀬は女の口に粘着テープを貼ると、バックチョークを極めながら強引に立たせる。白目を剥いたタイミングで肩に担ぐと、そのまま車両の後部に放り込む——が、まるで投げたボールがそのまま返ってくるような反応速度で跳ね起きた。
ゾンビかこいつは!
唐突な覚醒に要員達と同様、境も銃を抜いて射撃。が、人間とは思えない膂力で足に巻かれたカフを車体にぶつけて破壊。銃弾を穿たれながら駐車場の壁面へとダッシュ。そのまま柵を超えて飛び降りた。唖然としながらも追い掛けると、眼下に広がる一階の駐車場には既に姿がなかった。
「白目を剥いたのは演技ってことか……」と、後悔を滲ませる綾瀬。境が言葉を掛ける前に、ハンマー女が走っていった経路にピンク色の錠剤が撒き散らされていることに気付く。その内の一粒を拾い上げると、早乙女が「スーツのポケットから零れ落ちていきましたね……」とコメント。
「分からんが、MDMA(合成麻薬)の一種かもしれん……」
こういった人間達の過去に何があったのか、深入りしないのが鉄則だ。
「バンの処分や薬莢回収、血痕など痕跡の除去は別のチームに任せろ。盗撮の疑いがある民間人や、さっき逃げて行った奴の対処も含めて一部をここに残し、他で杉本の方に対応する。早乙女は光衛星通信でそのまま無線を傍受しろ」
「分かりました、境さん達は?」
「追跡している二人はトラブルメーカーだ。その後始末をする」
◆
見晴らしの良い海上橋へと躍り出て、山田は助手席で太陽光に目を細める。車両にあった予備の作戦用イヤホンを装着し、綾瀬から返却されたサブマシンガンの弾倉を足元で交換。つなぎを着て作業員に扮していた竜崎は速度を上げ、前方トラックを追跡しながら叫ぶ。
「東京湾アクアブリッジを木更津方面に逃走中!」
《その先の料金所には別のチームが待機しています。一〇番さんが『そのまま追い込め』とのことです》
「おう、了解——いや、なんか壁に体当たりを始めたぞ!」
何度もハンドルを切り、執拗に道路端に伸びるガードに車体をぶつけるトラック。ぶつけて火花を散らす度に振り幅が大きくなっていく。隣の車線を走行していた一般車両にも激突。巻き添えを受けた車両が二車線を跨いで道路を塞ぎながら横転し、竜崎のドライビングテクニックでそれを回避。後続の一般車両は異常事態を察知したのか、遥か後方で停止した。
まるで橋から車を落とそうとして——まずい!
「竜崎! 多分、積み荷ごと海へ落とす気だ!」
「マジか! 衛星通信装置だったとしたら海水って大丈夫なのか?」
《パーツにもよりますが、その他の情報機器が証拠としてデータ復旧できなくなるのでビークルダウン(エンジン停止)させてください!》
「そうは言ってもな……!」
目の前で暴走を続ける宅急便の小型トラックか、それ以上のサイズの怪物に物怖じする竜崎。確かに、このまま体当たりしても車両を停止させることはできないだろう。
何か策が——いや、それを俺達は習ったはずだ!
「竜崎、スパイ教育でやったPIT(ピット=追跡介入技術)マニューバだ!」
半瞬遅れて、竜崎は合点のいった表情になった。
「……フィッシュテール現象って奴か! へっ、やるしかねえか!」
しかし、このままでは車重で押し負けてしまう。そうなると、やはり足回りか。格闘技と同じだ。
山田は思い立つと、サイドウィンドウを開き、サブマシンガンの銃口が出ないように気を付けながら身体を横に捻る。
「側面に付けてくれ、俺がタイヤを撃って不安定にさせる!」
「よっしゃ、頼んだぜ!」
荒ぶるトラックの右後方に移動し、タイミングを見計らって隣の車線である右横へと接近。
制限速度である時速八〇キロはゆうに超えているだろうが、並走するためには仕方がない。
山田は等倍のプリズムサイトのレティクルを後輪に合わせ、引き金を絞る。何度か点射を加えながら車上射撃を見舞うと、弾倉が空になる頃に後輪タイヤがバースト。火花が散り始める。
ホイールが完全に剝き出しになるまで続けたいが……!
「あぶねえ!」
山田の眼前まで幅寄せするトラック。急減速で回避し、再び後方に付く。その頃には目の前の道路をホイールが削る音が聞こえてきた。
「よっしゃ、掴まってろ!」
指示に従い、ルーフにあるアシストグリップとダッシュボードを握り、両足を適度に突っ張る。竜崎は巧みなハンドル捌きで右後方からトラックに接触。スピードが乗っていたので、バンパーで押し込む程度、車体の向きが僅かに変わるまで続ける。
その効果は抜群だった。「魚の尾ひれ」のように後部が左右に振られ、制御不能となったトラックは派手に横転。が、予想以上の勢いで車体が飛ぶ。海と橋梁(きょうりょう)を隔てる落下防止用のガードレールをすり潰しながら、二枚目のフェンスを吹っ飛ばし、車体の前面がレールに乗り上げた。一瞬、そのまま橋から落下すると思ったが、奇跡的なバランスを保ち、停止した。
竜崎は路肩に急いで停車。山田は発炎筒を道路後方に投げた後、トラックの後部ハッチのハンドルを回す。コンテナによじ登った竜崎は、運転席のドアロックに四苦八苦しながら、「クソ、気絶してやがる!」と叫んだ。
「ドアを開けるから手伝ってくれ!」
観音開きのため、片方のドアを竜崎に引っ張り上げてもらう。
「——そういうことか」
隣に降り立った竜崎も、驚嘆の声を上げた。
「マジか……こりゃあ、写真で見た衛星装置のまんまじゃねえか!」
「パーツ毎はブラフで、取引場所が分かれていたのも攪乱用か……」
荷台内部では、用途不明の巨大な資材や内装材が滅茶苦茶に散乱。ただ、その中にいくつかある機器——特に冷蔵庫サイズの衛星通信装置は、荷締め用の特殊なベルトで固定されていた。
その時、乗り上げた車体が徐々に水平へと傾いていくのを実感。恐らく、下敷きとなったガードレールが重みに耐えられなくなってきたのだろう。
とにかく装置ごと落ちないようにしないと……
「ラッシングベルトだらけだな……良し! この端末を持ってくれヤマちゃん、この強度ならコイツで車と装置を繋げて、外に引っ張り出す!」
「了解!」
山田は渡されたラチェット式の荷締めベルトの端末を握り締め、コンテナから飛び降りる。竜崎は衛星通信装置を固定しているベルトのバックルを、手早く解き始めた。その間にピックアップトラックまで走り、車両に乗って一度バックで切り返してから、車体下部後端の牽引用フックに太いベルトを通す。進捗を確認するために竜崎を見ると、ベルトを通信装置本体に巻きながらも、どこかそわそわして落ち着かない様子だった。その視線はトラックの運転席に向けられている。
そうか……竜崎の性格上、そうだよな。
見たこともない苦い表情で、竜崎が叫んだ。
「ヤマちゃん、やっぱり——」
「分かった! 杉本も回収するからトラックにも取り付けよう! 急ぐぞ!」
一瞬、驚いた表情を見せたが、すぐに「頼む!」と吠える竜崎。山田が運転席に戻ってアクセルを踏む前に、竜崎は鋼製ワイヤーが巻かれたハンドル付きの大型荷締機を見つけてきていた。先端のフックをトラックの足回り付近に、そしてもう片方を牽引用フックに接続しているようだ。
「よっしゃ、引っ張ってくれ!」
しかし、言われた通りにアクセルを踏み込むも、タイヤの回転が急激に弱まっていく。
やっぱり車重の問題か……!
「それで良い! そのまま続けてくれ!」
周囲にゴムの焼ける臭いが漂う。竜崎がコンテナの上に戻り、運転席の窓を何かがで割ったのをバックミラーで捉えた。ハンドルとアクセルを制御しながらサイドミラーも確認すると、トラックが横倒しになっている路面が何かで濡れていた。
——まずい。横転時か、射撃した時か!
聞こえるかは不明。だが、山田は思わず叫んだ。
「竜崎、ガソリンが漏れている! 早くしろ!」
天を向いている運転席の窓から、杉本を引っ張り出す竜崎。が、車体前部に重心が偏ったため、初めより明らかにトラックが傾き始めている。山田の車両も次第に引き摺られ、限界が近付いていた。
刹那、張力に負けてコンテナから吐き出された衛星通信装置が、路上に金属音を奏でながら転がった。
同時に竜崎も杉本を担いだ状態で、コンテナから路面にダイブ。二つのバラストから解放されたトラックが、頭から転落を始める。背後からの不可抗力で橋の下へと引き摺り込まれる山田も、ドアを開けて跳躍。地面を一転後、片膝立ち(ニー)で拳銃を抜き、ピックアップトラックと通信装置との間に伸びるベルトを射撃。切断されたベルトが弾け飛び、ピックアップトラックも橋の下へと吸い込まれていく。
やった……
数秒後に巨大な水しぶきの上がる音が聞こえた。後を追ってガードレールの上から確認。すると、四〇メートル先の海面に頭から突っ込んだ二台のトラックが、白波を立てながら沈んでいく光景が見えた。
通信装置以外の機材も気になるが、優先順位から考えれば妥当か……
意識を失っているのか、頭から血を流して人形同然となっている杉本。その両手にダクトテープを巻いている竜崎の隣に戻る。
「携帯は回収したぜ……ありがとな」
「情報が手に入ればリアリズムだからね……サブマシンガンは海の底だけど」
「へっ……」
遠方からサイレンが接近していた。ただ、パトカーの音ではなかった。
「やべえな、救急車だ……誰か通報したか」
「それにしては早い気もするけど……両手を縛ったのは、『暴走行為で精神が錯乱している可能性がある』ってことにしておこう」
「了解」
後方から到着した救急車はタイヤ痕や車両の破片、衛星通信装置の手前で停車。急いで杉本を運ぶと、後部ハッチからストレッチャーを出した長身の救急隊員が話し掛けてきた。
「衛星通信装置は公安が押収することになりました。早く乗せてください」
その台詞に思わず、マスクを着けた隊員の顔をまじまじと見詰める。
誰だ?
「教育で臨機応変に対応するように言われたのを忘れたんですか? このくらい想定済みですよ」
マスクを外した顔に対して声を上げる前に、杉本をストレッチャーに移した竜崎が反応した。
「その皮肉は一度聞いたら忘れねえよ……長谷川だな?」
教育時代の元クラスメイトの不満げな表情は相変わらずだった。
「杉本は生きていますか?」
「おう、行き先は?」
「移送用の車を用意していますが、そこで降ろした後は別の場所で尋問するようです。あなた方は高速を降りた先で、別の車両に乗り換えてください」
◆
千葉県、自動車工場跡地のセーフハウス。
カーチェイスの数時間後、車両を変えた山田は竜崎と共に境達と合流していた。夜の帳が下り切った頃、境の運転で人気のない敷地に到着。バックミラーで後部座席の竜崎を見ると、どこか物思いに耽った様子だった。セーフハウスに残った早乙女が「甘いお菓子なら何でも良いので買って来てください」と言っていたことを、山田は静かに思い出す。蝉と鈴虫の声にも導かれながら暗い獣道を引率されると、森に囲まれた空き地の隅に小さな建物がセーフハウスとしてポツンと保存されていた。
「アクアブリッジからの転落は、あえて大きな報道規制はされなかった。元々、横風の強い日だったからな。一般車との事故で道路が塞がれていたのもあって、トラック横転後の行動がSNSに出回る事態にはならなかったようだ。反対車線からドライブレコーダーで記録された映像がいくつか投稿されたが、『センシティブなコンテンツ』としてエックスキースコアによる自動クラッキングの対象となり、データ削除が実施されている。新しいバンは手配済みだ」
「自動クラッキングって、そんなネット検閲みたいなこともできるんだな」と、竜崎。
「AIの技術も確立され、エックスキースコアやマラードもアップデートされたからな。言論統制や世論操作もある程度可能だ。日本の法執行機関ならば捜査関係事項照会を行政や企業に要請することによって、個人情報を得ることもできる。これは来日したスパイの監視にも有効だが、あくまで事実関係の報告を求めるもので、犯罪の証拠や書類の提出、新たな調査や意見聴取を強制させる権限はない……杉本の携帯電話は早乙女が解析中だが、まだ大した情報は得られていない。最低限の怪我の処置はしたが、尋問の時間は限られている。明日には身柄が移されるが、そこからは『情報の質』が変わってしまう」
境の淡々とした説明を聞きながら、側面のドアから建物内に侵入。境はドアノブや足元を照らす時のみ赤色の小型ライトを使用。ただ、内部は外と同じで照明はなかった。
そんな中、淡い光が二つ。一つはドア越しに小部屋から。もう一つはそれより少し大きい部屋から。恐らく、外部から建物内に人がいることを悟られないための処置。数少ない窓にも目隠しが貼られているようだ。用心するに越したことはない。
「無線は常に傍受している。血盟団やロシア諜報団に繋がる情報を訊き出すんだ。俺や早乙女では声を掛ける資格がないからな……広い方の部屋に杉本が居る。彼は食事と煙草、睡眠をとった後だ。事前の打ち合わせ通り、やり方はお前達二人に任せる」
山田は竜崎と頷き合い、自分だけ黒のフェイスマスクを被り、入室。革の破けたソファが二つ、九〇度に配置されていた。間には壊れそうなテーブルがあり、蝋燭が灯っている。テーブルにはプラスチック製の容器が散らかっていた。飲食をしたのだろう。四方はコンクリートに覆われており、廃棄される以前は塗装などに使用していたのかもしれない。そして、ソファには市販のガムテープより何倍も強力な防水補修用粘着テープが両手に巻かれ、目隠しをされた人物が掛けており、頭に包帯を巻いていた。
隣に立っていた長谷川が部屋を出て行く。山田はタクティカルベルトから下げている装備が邪魔にならないように、ソファに着席。竜崎は杉本に隣にどっかりと腰を下ろす。杉本はそれにビクッと反応。
「……俺は顔も見せれねえ奴とは喋りたくねえんだよ」と、態度とは正反対に威勢の良い台詞を吐いた。
その瞬間、竜崎の手が杉本の顔面に伸びた。殴るのか、と考えた山田の予想に反し、竜崎は目隠しを剥いだだけ。どことなく憔悴しきった同世代の男の顔が現れる。そして真横に座る男の顔に、杉本は唖然。急いで顔を背ける。そこからしばらく、部屋は沈黙で満たされた。数本ある蝋燭のぼんやりとした明かりが、三つの人影を壁に作り出していた。
事前に「今回は手出し無用だぜ」と言っていたが……どうするつもりだ、竜崎?
「こんなことになると思わなかった……」
唐突に切り出した杉本は、そっぽを向いた状態で呟く。
「悪い……」
しかし、竜崎はどこまでも無反応。山田もそれに従うしかなかった。
訊きたいこともあるだろうが……この空気感を利用するのか?
「——なんでだ?」
たった一言、竜崎が問い詰めた。山田の側からは表情が窺えない。その台詞を噛み締めるように、杉本は嘆いた。
「ただの嫉妬だ……お前の親父が大企業の社長だって知ってから、なんで俺達の世界に来たのか分からなくなった」
大企業の、息子?
「中卒のお前がうちの引っ越し屋に来た時、おやっさんは受け入れた。俺達も受け入れた。在日米軍の引っ越しスタッフは余裕があったから……でも、人数には限りがあったんだよ。拳に爆弾を抱えたお前にはみんな黙ってたけど、歳を考えれば若くて健康な奴から切られるんだ。そうなると……残った奴の懐を調べたくなるだろ」
杉本は皮肉に塗れた笑みを浮かべる。
「お前が龍崎重工の息子で、苦労人だってことは酔わせたおやっさんから聞いた。親に勘当されて、ボクサーの道も諦めて、貧乏人がやるような仕事で食っていかなきゃならない事情も知った。けど、地頭も要領も良くて、すぐに周りに溶け込めるお前の優秀さに、段々と腹が立つ自分がいた。どんなに努力しても、結局は生まれで勝てないってことだ。学生の時から親の介護と兄弟の世話が必要だったから、お前より先に働き出した俺が馬鹿にされてるみたいで、余計にムカついた。いざとなればどうせ実家に泣きついて、金持ちの苦労話になるのがオチだ、ってな」
ヤングケアラーだったのか……かつては小学生のうち一五人に一人はいるとうたわれていたが、現在は更に増加しているという記事を見たことがある。
山田は竜崎の拳を見た後、自分の手のひらを見詰めた。
そういう意味では、健康というだけで恵まれている人生だ。
「だから、SNSで知り合ったイタリア人の女から仕事の話を聞いた時、天罰だと思った。当時、お前が担当していた送り先と被っていたから。後から入ったボンボンに負けて、先に入った俺の方が追い出されなきゃならない——そんな現実、納得できねえ。だから、防衛産業の重鎮でもある龍崎重工の息子が、在日米軍の装備を横流したとなりゃあ、企業の面目も潰れる。ビビらすつもりだった……だから、俺から警察にバラして、お前が逮捕されることを企んでいたわけじゃない。お前が消えたのは、偶然だった」
そこまでの独白で、山田は合点がいった。
ようは、自分がクビにされたことによる腹いせ。職にあぶれたタイミングで、SNSで不満を爆発。そこにゴルバチョワが目を付け、勧誘。在日米軍関係のスパイから武器を調達するためか、はたまたスパイ自身の金儲けのためかは不明だが、横流しを依頼。そこで杉本は一計を案じ、竜崎の車両に武器を積載。本人としてはささやかな復讐のつもりが、公安が嗅ぎ付けて即逮捕。そして、血盟団の動きを警戒し始めた日米にとって危険分子となった竜崎は、事件の詳細が明らかになるまで勝連へとレンディションされることとなった。気になる点としては、ゴルバチョワ自身がリスクを冒してまで、なぜ直接接触したのかということ。それはバッハにも通じることだが、ロシア諜報団において二人がどういったポジションなのかは不明。幹部なのか現場工作員なのか、それとも組織内で冷遇されているのか……
若干の沈黙の後、竜崎がようやく口を開いた。
「——龍崎重工は軍や防衛省の天下り先だ。政府の利権とも複雑に絡んでる。例え親族が逮捕されても、報道規制されるのが関の山だ」
口を閉ざしたままの杉本に対し、竜崎は「やけに」優しい声音で語り掛けた。
「気まずくなると喋りっぱなしなのは、変わんねえな」
杉本は驚いたように竜崎の顔を見ると、竜崎は彼の肩に手を置いた。
「なんで何も言わねえんだよ……」
——嘘だろ。
竜崎の表情を覗くと、「辛い境遇を隠していた友に対する憐憫(れんびん)」をこれでもかと滲ませていた。
その菩薩のような対応に、杉本は涙を流し始めた。
「そう言えば、お前はそういう奴だったな……」
「頑張ってるんだから、そんなことしてまで頑張らなくて良いじゃねえか。一緒に生きようぜ。時々、様子を見に行くからよ」
二人は肩を抱いてむせび泣いた。その光景に、今度は山田が呆気に取られた。
「今は時代や環境の変化が激しいから、デジタルの分野で新たな希望が見つかるかもしれねえ……それまで、自分を痛めつけちゃ駄目だ」
「悪かった……」
「ついでに聞きてえんだが……バンが標的だと、どうして分かった?」
「『バンが標的』って、なんのことだ?」
「……いや、なんでもねえ。気にすんな、二度目のチャンスはある」
竜崎が受けた扱いを考えれば、まるで茶番劇のような展開に山田は閉口。もし高本が同じようなシチュエーションで現れたとしたら、殴るだけでは済まなかっただろう。これらは竜崎の人徳がなせる業なのか、それとも——
◆
あらかたの情報を訊き出し、用済みとなった杉本は別のチームによってどこかへと連れ出されていった。廃墟のようなセーフハウスを封鎖し、竜崎と共に境の車両に乗り込むと、今度は自分達のセーフハウスに向けて出発。夜霧に割り込む緩やかな運転で、千葉県から茨城県に延びる高速道路へと進入する。
「まあまあの演技だったろ、おやっさん」
「殺人姉妹の件は通信衛星強奪事件とは無関係か……逃走したハンマー女の方はまだ見付かっていないが、恐らくは時間の問題だ。怪我や精神状態から考えても長くはもたないだろう」
「けど、結局のところ手柄は公安かよ」
「世間的にはそうだが、出内機関の評価基準は年功序列でも成果主義でもない。組織の動脈硬化や、大川原化工機事件のような捏造に繋がるからな」
「じゃあなんだよ?」
「長期的目標にどれだけ近付いたか、だ。評価されるのは遅いがな」
二人のやり取りを聞きつつも、山田は先ほどの尋問が頭から離れなかった。特に竜崎の詳しい過去については不明だったせいで、余計に気になった。助手席から深夜の高速巡行を眺めながら、遠慮がちに後部座席へ声を掛けた。
「最初はどうするのか分からなかったけど、竜崎の演技力は凄かったよ……俺だったら殴ってたかも」
「どうせ勝連送りになるだろ。その前に優しく接しときゃあ、その後に面会があっても情報が引き出せる」
その早口な台詞に境はノーコメント。山田も気圧されて返事ができなかった。車内に冷房以外の冷たい空気が流れた。色々と考えた結果、山田は「思いやりがあるな」と、お茶を濁した。すると、竜崎が聞いたこともないような冷たい声音で「思ってねえよ」と吐き捨てた。
「教育でおやっさんから習った通り、『謀略は誠なり』、だろ? 裁くのは俺らの仕事じゃねえ。司法の問題だ。独りよがりの正義感振りかざしてガキみてえなヒーローごっこするのは、悪徳警官とか検察だけで充分だろ」
それは取調べや留置場での扱いも含めて抱いた感想なのだろう。しかし、ここで訊かなければ、永遠に知る機会がこなさそうなので、山田は意を決して口を開く。
「竜崎、答えたくなかったら答えなくて良いんだけど……」
「勘当された理由は、まだガキだった俺が軍に選定される装備品の談合について口を挟んじまったからだ」
「談合……?」
「中坊の時、たまたま家の中でそんな話をしている場面に出くわしちまった。俺はその話を聞いて、クソ親父に対して『それって悪いことじゃないのか?』と何度も訊いた。その度に『違う』と言われたが、その時点で俺への対処法は決まっていた。『金がない』って理由で、俺は進学校じゃなくて田舎の県立高校への進学が決まった。ま、五人兄弟の四男だったからな。替えはいくらでも要る。そんなあからさまな『左遷(させん)』に反発した俺は、家出した。向こうも縁切りができて万々歳だったのか、一切追い掛けてこなかった」
「それは……」
「エスカレーター式に進学して就職すると、会社の関係者とか子息との関わり合いが強くなる。そいつらは未来の取引先だ。その中で変な正義感を持った不安分子が混ざっていると、将来的なリスクとして家ごと危険に晒されるからな。エリート街道からは遠ざけておくのが正しい選択だ」
静かに運転を続ける境は、涼しい顔をしながら片手でコーヒーを飲んでいた。その様子からして、彼は知っていたのかもしれない。
「内部告発なんてされたらヤバイだろ? そういうのは、早い内から切り捨てるんだ。子供が多いからできることなんだけどな……ったく、金持ちは大変だぜ」
勝連時代から、彼の丁寧な所作や英会話などの教養は見てきた。それらは幼少期からの英才教育で学んだことなのだろう。「竜崎」という名前もあえて捨て切らないことによって、名家への反骨精神を示したかったのだろうか。
「お人好しの馬鹿は、今日までだ」
竜崎はどこからか取り出した加熱式煙草をくわえる。窓を開けて星空を仰ぐと、静かに煙を吐き出した。
「結局、何かを自分で決めてきたじゃなかった。適当に走っていれば、何も考えずに済むから走っていたんだ。こんなことになる前に、自分で自分の人生を決められる内に動けば良かった」
「いや、俺もそうだ。ある意味で、ずっとぬるま湯に浸かっていたから……油断してたんだ」
「ヤマちゃんは夢があるだろう?」
「……それも潰えたよ」
「諦めんなよ——って言っても、逮捕されてから俺達の人生は変わっちまったからな。一寸先は闇だ」
静かにハンドルを握っていた境が諭してきた。
「生きていれば新しい生き方が見つかるさ。それに耐えられず、命を絶つ人間もいる。途上国では生きたくても明日はどうなるか分からない状況に陥っている人間達もいる。性別も人間も関係ない。自分で選ぶことも出来ずに死んでいく」
「悩む時間があるだけ、恵まれているということですか」
「心が弱っている時に邪悪な誘いがある。血盟団もその延長に過ぎない——夢か現実、逃げるにしても一つだけにしておけ」
「……そうっすね」
竜崎は空ではなく前を見据えて「へっ」と、いつものように口角を吊り上げた。
「口先だけのチキン野郎じゃなく、結果と生き方で語るしかないっすね」
◆
ビールを飲みながら畳の上に布団を敷いていると、いつまでも玄関口で煙草を吸っている竜崎の姿が目に入った。
そう言えば、あいつにとっても色々あった日だったよな……
俺は、初めて人を殺した日。
余った酒を持ち、中部屋から玄関へと出ると、蚊取り線香の匂いが鼻をついた。加熱式煙草をひたすら吹かしている相棒は星空を眺めている。線香の近くに座り、ビールを譲ると竜崎はわざとらしく大きな溜め息を吐き、一気に瓶を煽った。
「お互い、大変だったな」
光害の少ない夜空は美しく、いつの日か入校前に収容所で見上げた景色と似ていた。
あれから、丁度一年くらい経ったのか……
「……そう言えば、昨日で二五歳だ」
「マジか、そういや俺も来月で二六だ」
竜崎はかつての宣言通り、自分を陥れた原因と向き合い、過去の自分と決別した。
今後どうなっていくかは不明だが、彼の場合は引き続き、ケースオフィサーとして活躍していくのかもしれない。
俺自身の目標も彼と同じで、バッハとゴルバチョワを捕らえて詳細を解明すること。
けど、現実での夢を失った俺は、その時に自分の中で何か変わることができるのだろうか?
俺が働き続ける理由って、一体なんだ?
ロシアと早乙女
一〇月、セーフハウス。
「杉本氏や、海ほたるにいた血盟団の構成員から回収した情報機器を解析したところ、面白いものが記録されていました。当日の事件後も、しばらく通信の痕跡がありましたが、すぐに連絡は途絶。メッセージの削除がされました。ですが、それまでのデータは僕が全て保存しておいたので、問題はありません」
広間で週末の成果報告が始まると、マルチモニターに通信アプリのチャット画面が出力された。杉本を含めて、複数のアカウントが同時に表示される。そこには何かしらの隠語を交えた日本語のメッセージがやり取りされていた。ただ、山田が注目したのは文章ではなく、それらを取りまとめている連絡先のアカウント名だった。
「『sievicka』……ジーヴィッカ?」
「杉本の闇バイトを考えると、ゴルバチョワがジーヴィッカってことか?」と、竜崎。
「例の衛星事件の後、僕は境さんから許可を貰って、警視庁のホームページを数十分アクセス不能にしました。短時間なので世間もそこまで反応しませんでしたが、その後、ジーヴィッカが束ねるクラッカー集団のコミュニティーにメタバース上で招待されました。話は主にハッキングの方法や経歴に関することでしたが、そこでの会話を通じて、僕も同一人物だと感じています——ロシアと血盟団が組んでいる可能性はありますか?」
「組織的親和性の有無から高いとDIも判断していたが……具体的な証拠が出るのは初めてだ。杉本の方はどうなった?」
「メッセージは全て運び屋の依頼に関するものでした。ただ、末端の構成員には場所や日時のみを伝えていたようで、大した情報はありませんでしたね。彼らには暗号資産ではなく現金をその場で手渡していたようで、足取りは掴めませんでした。ロシア軍やアメリカ軍の横流し品や、武器になる物を日本各地に運び込んでいたみたいですが、詳細は不明です」
「わざわざ潜入までしたんだけどな……捜査は振り出しかあ」と、頭の後ろで手を組みながら椅子で回転する竜崎。その様子を眺めていた早乙女が、ふいにニヤニヤと不敵な笑みを浮かべ始めた。
「……なんだよ?」
「僕を誰だと思っているんですか?」
「生意気な年下同期」
「クソガキハッカーとかって言われるかと思ったんですけど……まあ良いです。ジーヴィッカとしばらくメッセージのやり取りを続けた結果、特殊な暗号解読プログラムが組まれた解析ソフトが送信されてきました。それを使って仕事の指令を受け取り、成果次第で暗号資産が送金されるようです——竜崎、ここに座って、このURLを検索して下さい」
「え、俺?」
「日本には『百聞は一見に如かず』ということわざがあるじゃないですか。良いから早くして下さい」
早乙女と席を入れ替えた竜崎は、モニターに表示された検索サイトのアドレスバーにある『https://www.youtube.com/watch?v=uYk0AmD5pbk』というURLをクリックし、エンターキーを押して検索。
すると動画サイトが開き、広告の後に三〇秒程度の動画が無音でいきなり再生される。
「この動画を良く観てください」
「……何だこのシロクマみてえなキャラは」
動画を最後まで再生しても、動画中央のキャラクターがまばたきする以外は特に変化はなかった。
「あのー、早乙女さん……何も見つからないんですが……」
「次にこのソフトを起動してください」
「無視かよ」
「キーボードの『Ctrl(コントロール)』と『Alt(オルト)』、『E』キーを同時に押してください」という指示に従い、竜崎は手元を動かし始める。
すると、何らかのプログラムが起動。大画面モニターに出力される。これまで表示されていなかったアプリのウィンドウが開き、検索バーのような長い入力欄が画面中央に現れた。
「ここで二七桁のパスワードを入力します。これです」と、早乙女はディスプレイの端を指した。恐らく、付箋用紙か何かにメモをしてあるのだろう。竜崎の手によって、不規則な文字や数字の羅列が打ち込まれる。すると『Image』というタイトルのソフトウェアが画面に出力された。どうやら画像ファイルをドロップして、何かに変換するソフトのようだ。
画像を別の形式に保存するソフトってことか。いや、その前に説明した暗号解析ソフトなのか?
早乙女は竜崎に、トーア・ブラウザを開かせ、マルチモニターの一つに表示させる。ブラウザ内で日本語表記のサイトをクリックすると、美しい自然風景が撮りまとめられているウェブページにアクセスした。
「この画像を良く見てください」
「あん? 何の変哲もねえじゃねえかよ」
朝霧に陽光が差す幻想的な樹海の画像に、首を曲げてモニターを睨み付ける竜崎。山田も視覚で得られる以外の感想を持ちえなかった。その画像をソフトウェアまでドラッグしていく早乙女。すると読み込みが始まり、パーセンテージが満たされた瞬間、文書ファイルが出現した。
『あなた達はこれより、日本において長期の任務に従事して頂きます。そのための資金はたった一つの目的を達成するために与えられました。それは日本の政策立案に関わるインテルをサイバー空間から引き出し、ジーヴィッカを通してCに報告することです。それはプライベートなネットワークから送信され、元となるデータの削除も遠隔操作で実行されます』
「ステガノグラフィーか……!」
広間の壁際で、境が腕組みを解いて唸っていた。
「インテルとは秘密情報のことですね?」と早乙女。
「そうだ。Cはモスクワ・センター、つまりSVRのことを指す。かつてFBIがロシアスパイのステガノグラフィー・プログラムを回収解析した際、こういった指令文が解読された」
「っつーことは、さっきのシロクマにも……!」
「あれは僕が適当に作っただけで大したメッセージはありません」
「ねえのかよ!」
それにしても、画像の中に暗号文が隠されているとは……
「プログラムが組まれたソフトがなければ画像の解読ができない、ということですか?」
「画像だけじゃない。アプリアイコンや音声ファイル、動画にもテキストデータが隠されている。マラードやエックスキースコアでも検出はできない。かつて旧北朝鮮工作員はA3放送というラジオ放送やユーチューブの動画で五桁の暗号指令を読み上げ、日本人の拉致命令などを送信していた。実例で言えば『七、八、八、一一、一三、一五』という多い桁の場合、押収した暗号解読表に照らし合わせると『九月一三日金曜日までに世田谷区神社の何番目のベンチ下に調査結果を埋めておけ』という指令文となる。ラジオ放送では『一一月一四日に新潟から出港する万景峰号(まんぎょんぼんごう)で北朝鮮に帰り、三カ月のスパイ訓練を受けなさい』という具合だ。それもしばらく前からステガノグラフィーというデータ隠蔽技術へと切り替わった。第二次大戦時、目に見えないインクを使用し、火にかざして炙り出すことで暗号文を浮かび上がらせる技術があったが、それがステガノグラフィーの始まりだとも言える」
「コンピューター・ステガナラシスの分野ではAIによるステガノグラフィー自動検出システムが研究されています。JPEG形式の画像がもっとも検出しやすいようです。ただ、秘匿性の高いトーアなどになるとクローラーが動かないため、難しいようですが」
モニターに現れたスパイ活動の実態に、山田は竜崎と共に口を噤んだ。これら技術に詳しい境や早乙女は自然と会話が成り立っていた。が、ケースオフィサーとしてまだ日の浅い素人の山田にとって、他の国が敵意を剥き出しにしている現実を呑み込むのに時間が掛かった。
平和ボケ、ってやつか……
「手法は把握していたが、メタバースやダークウェブでのやり取りとはな……言い訳に過ぎないが」
「行政は感知しにくいと思いますよ。官僚化が進むと僕みたいな頭の柔らかさは排除されそうですし」
確かに、無数にあるメタバースに一つずつ潜入し、黒か白かも分からない無数のアバターを個別訪問するのも骨が折れる。深層ウェブの知識にも長けていないと発見できない。砂山から極小の砂金を見つけ出すようなものだろう。
「これは盲点だった。お前達の柔軟な発想と頭脳のおかげだ、さすがだな」
早乙女だけでなく自分達まで含めて称賛するその姿勢に、山田は感心した。
「へっ、さすがウィザード級ハッカーってやつか?」
「今回は向こうがソフトを送ってきただけで、本物のウィザード級はこんなものではないです」
「この技術は全て独学か?」と、境。
「いえ、凄腕の妹に教わったので……それは置いといて、ジーヴィッカの信奉者達である末端のクラッカーは、彼女に情報を伝達する際、指令文にも書かれている通りプライベートな無線ネットワークに加入する必要があります。リモートでインテルを削除する場合も同様とありますが、こういう時は恐らく画面を共有して削除する可能性が高いです——ちょっとどいてください」
竜崎と席を入れ替えた早乙女が自身のPCを操作。すると、モニターにこれまでと全く違う画面が出力された。内容は一般的な検索エンジンのブラウザであり、普及しているSNSのサイトが複数のタブで管理されている。その中の一つ、メッセージ投稿型のサービスで、政治に関する不平不満をぶつけているアカウントが中央に表示された。と、同時に、マウスカーソルが『壁紙用』というファイルをクリック。私服姿から水着まで、様々な格好の女性達の画像が次々と現れる。女性達全員に共通して言えることは、自分達の年齢より遥かに年上だということだった。
「あれ? これ俺のダミーアカウント——っていうか、俺のPC画面じゃねえか!」
竜崎、かなり年上の人がタイプだったのか。
「こういった技術を用いれば、僕が現地でジーヴィッカに報告する際、彼女やクラッカー達が何の情報に目を通しているかを知ることができます。多分、公衆の場にPCなどの情報端末を持ち込んでも違和感のない空間——コーヒーショップとかの可能性が高いです」
「その予想は当たっている。米国ではそういった場所にSVRの人間がミニバンで乗り付け、データ通信ができる距離まで接近し、遠隔でエージェントのPCからデータを削除したらしい。ロシアの諜報機関は建物内にある電子端末が出す微弱な電波を拾い、手元の端末に同じ画面を映すという技術を使う。FBIに逮捕され、スパイ交換で帰国したロシアのアンナ・チャップマンなどが有名だ」
「それなら僕が現地で待機している間に、それらしき車に発信器を取り付ければ追跡できますね」
「いっそのこと海ほたるみたいにロードブロックして、車から引き摺り出してやりてえな」
「中にいる人間次第じゃないかな。そのままロシア大使館に逃げられる可能性もあるし、外交問題に発展するようなオフィシャルカバーだとまずいと思う」
「いずれにせよ、次の報告までに勝負を仕掛けよう。早乙女は指定された場所で待機するしかない。作戦車両と追跡車両に分かれて、俺達で何とかするしかないだろう」
「もう少し懇意になってからの方が、相手も油断しないですか?」と、早乙女。
「発覚するリスクの方が大きい。以前、数カ月かけて似たような潜入捜査をした事件があったが、都内のテレビ局に嗅ぎ付けられ、作戦中に記者が割り込んでくる事態となった。衛星事案の件から日も浅い。疑われる前に畳みかけるべきだろう」
「まあ、宴会とかで親交を深めるタイプではねえだろうな」
「敵はロシアだけではない。軍や警察、官公庁や民間、そして政府の中枢にも血盟団のモグラがいるはずだ。いつリークされてもおかしくはない」
そう考えると、情報共有や共同作戦も簡単にはできないな。
「でもジーヴィッカ本人、つまりゴルバチョワが来るかな?」
「それは僕も懸念していますが、これまでの行動から考えると、結構アクティブな人だと思います」
「確かに戦争にも行ってるし、敵国で自分からエージェントを獲得してるもんな。立場的には現地のエージェントをまとめてるから、スパイマスターだとは思うんだけどよ」
「もしかしたら、ロシア諜報団の中ではそれほど地位が高くない、とか……」
山田の推察に割り込むように、境が「ロシアは中国と違い、スパイマスターが現地でエージェントをリクルートすることも珍しくない。みずから情報収集するんだ——いずれにせよ、ゴルバチョワも早乙女も目立つ容姿だ。場所は東京、それもヨーロッパや北米系の多い港区や渋谷区、新宿区になる可能性が高いだろうな」と結論付けた。
「今のところ考えているのは、現地でジーヴィッカの無線LANをスキャンして、逆にスニッフィング(盗聴)することです。彼女の居場所を特定すれば、その後の成果に繋がると思います。指令は先ほどのサイトでステガノグラフィーとして送信されるので、それまではリモートハックされても良いPCを用意したり、ロシアに有益そうなダミーデータをでっち上げて、マルウェアを忍ばせようと思うのですが……僕からの報告は以上です、質問はありますか?」
「居場所の特定って、ハッキングしてGPSを起動させたりするってことか?」
「別にGPSが使えなくとも、携帯電話やPC、タブレットは自分で位置を特定する能力を持っています。カーナビと同じで、ネットワークのIPアドレスや無線LANのMACアドレス、電話基地局の位置情報から現在地を特定しているんです」
他に質問もなかったので、「次は俺だ」と境が言った。
「『リヒャルト・ゾルゲ』というロシアのスパイを聞いたことは?」
ゾルゲ? 確か、勝連で諜報の歴史を勉強している時に、そんな名前を見たことが……
手を挙げたのは早乙女のみで、境は「無理もない。ロシアのプーチン大統領が憧れたスパイ像として有名だが、一〇〇年近く前の人物だ」と、モニターにモノクロの人物写真を映し出した。大きな鼻と形の良い眉毛が特徴の中年の白人男性だった。
「ロシア系ドイツ人であるゾルゲはソ連時代の伝説的なイリーガルスパイだ。イリーガルの意味は俺達でいうところのノンオフィシャルカバー、教育では『ルーフ(屋根)』と習ったと思うが、GRUの前身となる赤軍第四本部という情報機関に所属していた。元々、第一次大戦をドイツ陸軍として戦い、除隊後に共産主義に傾倒し、赤軍に移った。よって、国籍もドイツだ。ジャーナリストとして東京を拠点に活動し、ナチス党員としてのカバーストーリーを持った。朝日新聞の記者で日本政府や軍に強い影響力を持っていた尾崎秀実(おざきほつみ)などをエージェントに、ゾルゲ諜報団——別名『ラムゼイ機関』を創設。駐日ドイツ大使の大使顧問という立場も得て、中華民国——つまり台湾全土に情報網を築き上げた」
「スパイマスターとしてはかなり優秀ですね」と、早乙女。
「そうだな。特に諜報団は米国内での反日工作、日本政府の対中国強硬論や南進政策を推進し、米国から核兵器の設計図をソ連へともたらした。本人は日本が米国との戦争に備え、ソ連に侵攻せず東南アジアに向かうこと、そして日本自体の戦争遂行能力やドイツのソ連侵攻計画をモスクワにクリティカル・インテリジェンスとして報告した。それによってソ連軍は極東の部隊をヨーロッパに移動させ、対ドイツ戦線を強化することに成功した。その後、ゾルゲは特高警察に逮捕され、ソ連大使館に大使への面会を求めるも、『ゾルゲという人物は存在しない』とソ連側が否定。日本側が捕虜交換による釈放を持ちかけるも、ソ連大使館は同国の最高指導者であるスターリンの命令によって拒絶し、一九四四年一一月七日に巣鴨の東京拘置所で処刑された。その後、同棲していた日本人女性が多磨霊園に埋葬した」
モニターには花飾りと赤い薔薇の花束が献花されている墓所が映った。黒い墓石にはキリル文字が刻まれ、ロシア国旗を模した小さな垂れ幕が花飾りの輪に掛けられている。『石井』という漢字が手前の石にも刻まれているが、ゾルゲを葬った女性の苗字だろうか。
「こうしたセレモニーは年三回、午前一〇時頃におこなわれる。赤軍の創立記念日で祖国防衛の日でもある二月二三日、ドイツとの戦勝記念日である五月九日、ゾルゲの命日でロシア革命記念日となる一一月七日だ——この動画では制服軍人に見えるが、GRUはロシア軍の一部門だ。よって、外交官や駐日大使以外はGRU所属の陸海空における駐在武官となる」
モニターでセレモニーの動画が再生された。墓の後方にある木の上から隠し撮りしたようだ。解像度が高く、参列者の人相まで把握できる。一輪の薔薇を持ったスーツの男達が横隊になり、その前を三名の武官が勇ましく行進していく。いずれも軍帽を被った濃紺と薄緑の制服姿で、先頭で敬礼をしながら歩く武官にならい、足を高く上げながら左右後方の二名が続く。その二名は花輪を墓に供えると、献花者を迎えるように墓の両脇で直立不動の姿勢を取った。そして制服の人物の一人が一団に向き直り、演説を始めた。
「この人物が在日ロシア連邦大使館の武官長だ。公安はセレモニーに参加するGRUや外交官の顔や名前をここで確認し、捜査資料を作成する。向こうもそれを分かった上で参拝している。武官のポストは昔からGRUの指定席であり、各国に武官の肩書きでオフィシャルカバーを送り込んでいる。無論、外交官でもあり外交特権を有している」
演説が終わり、武官長が墓に献花した。続いてスーツの男達が墓の前で一礼し、薔薇を順番に置いていく。大人が終わると、今度は子供達も続いた。
「在日ロシア大使館、通称『狸穴(まみあな)』の中には在日ロシア人向けの外国人学校が存在している。一年生から一一年生、つまり小学生から高校生までが通学している。運営はロシア外務省だ」
「未来のスパイを育成するスパイ学校だったりな」と、ニヒルな笑みを浮かべる竜崎。
「そういった側面もある。学校の正式名称は『ソビエト連邦英雄リヒャルト・ゾルゲ名誉学校』、通称『ゾルゲ学校』だ」
「マジかよ……」
境は動画を早送りにした。参列者があっという間に消え去り、天気が切り替わり、かなりの日数が経過していることが窺える。すると、動画をいきなり停止。しばらく経つと、雨の中にもかかわらず、花束を抱えた私服姿の二名が歩いて来た。一人は口髭を蓄え、丸太のような四肢を持つ大男。帽子とサングラスを着用している。もう一名も帽子を被り、丸眼鏡を掛けていた。大きな腹でスーツを僅かに張らせた白人で、どこかで見た覚えがあった。映像が拡大されると、人の良さそうな柔和な笑みが——
バッハだ……!
山田は興奮して徐々に高鳴る心臓を落ち着かせるように、テーブルの上で拳を握る。境に対して強い眼差しを向けると、承知しているように彼は頷いた。
「定点カメラの映像なのでその後は追えなかった。が、眼鏡の方は恐らくはロシアのスパイであり、公のセレモニーに参加できないSVRの人間だと思われる。ロシアではスパイ仲間同士を『サセード』と呼称するが、GRUやSVRが情報を共有することはない。中国が人民解放軍と共産党の派閥関係でそれぞれの組織のために実績を上げるのと同じなのだろう。また公安のアセットに訊いたが、GRUのリストにこの男は見当たらなかったそうだ。SVRは外事警察が常に監視しているが、恐らくそうだろうという意見だった。九〇日ビザでロシアから来日している可能性もあるが、多分、日露間の貿易を担う駐日ロシア連邦通商代表部か航空会社、もしくは国営通信社に身分を偽装しているんだろう。代表部はロシアの在外公館であり、日本国内でのスパイ活動の根城にしている。事務技術職員と外交官の見習いである外交官補を含めると、代表と二名の副代表(代表代理)を合わせて二〇名以上のスパイが勤務するスパイの巣窟だ」
「そいつらも外交特権に守られてるのか。ったく、難儀な話だな」
「事務技術職員と外交官補には外交特権はない。外務省に赴任を知らせる義務もな。副代表の内一つはSVRの指定席だが、大抵片方は空席が多い——大男の方は俺の見立てが正しければ、日本とロシアの血を引くバイレイシャルで、旧自衛隊時代の元陸上自衛官だ。ロシアに渡った後は、ヘビー級のプロボクサーとして地下格闘技に出場していたらしい……早乙女」
「以前に話したスイープ・カンパニーというダークウェブサイトには、高評価ランキングという機能があります。仕事の成果次第でランクが上下するようですが、上位の登録者は信頼性を確保するために顔写真と名前、簡単な経歴や実績、特技などを表示する義務があったようです。現在は強制ではないようですが、かつて投稿された写真と大男の顔の特徴が八〇パーセント一致しました」
モニターに出されたのは不鮮明な証明写真だった。しかし、確かに良く似ていた。帽子とサングラスを取れば、耳の形から特徴的な顎鬚、そしてゴツゴツとした輪郭も酷似している。写真の下には名前と簡単な経歴や特技が英語で書かれていた。
「『Vorganov(ヴォルガノフ)・B』? Bはファミリーネームだな」と、竜崎。
「一度、間近で見る機会があったが、その時と比べると少し雰囲気が違う気もするが……」
「モニター越しだからですかね?」と、早乙女。
「……そうだな、体格の良さから考えても注意は必要だろう。闇討ちでもされたら厄介だ。今回の報告はこれだけだ。ヴォルガノフとSVRの男は引き続き調査する。質問はあるか?」
誰も手を挙げなかった。マルチモニターのミッションボードに表示された人物相関図に新たな名前が付け加えられる。
「次は俺だけど、正直オトメの手伝いをやってるだけで、何も成果はないっすね……」
「竜崎にはSNSやメタバースのアカウントをいくつか運用してもらっています。僕が日本政府を過度に神格化、擁護するような論調のテキストや動画、サムネイル画像をAI生成して、それを投稿してもらっているんです」
「過剰反応してきたアカウントを追っかけて、血盟団予備軍としてリスト化するって作戦っす」
「その中には既に活動している構成員もいると思います。スパイ活動や自国産テロを未然に防ぐことにも繋がるはずです」
早乙女のフォローを遮るように、境は「分かった。その活動は続けてくれ」と手で制した。
「エックスキースコアやマラードもあるがSNS、AIを『大きな政府』として規制することは事実上不可能だ。メタバースなどのゲームコンテンツも規制をすれば、政府の目の届かない所に潜られてしまう。お前達のような『小さな政府』としての役割が必要だ」
「規制をすれば裏で流通するだけですからね。大麻は合法化した分、コントロールしやすくなりました。法の基準に合わせれば、リスクなしで儲けやすくなるわけですから」
一時期、ネット、AI、ゲーム、マッチングアプリなどの規制を強めた結果、より有害な海外製コンテンツが加速した時代があった。
そんな混沌とした記憶が甦り、山田は思わず口走る。
「馬鹿は規制に走るが、馬鹿自体は規制できない。常識で動かないからだ」
「まあ、犯罪に走るのは余裕や判断力のない人達ですし、境界知能に関する問題もありますからね……濁流のような流れの速い今の世の中を手で止めることはできませんよ。その都度、対応するしかないです」
「質問は……まあねえよな、そりゃあ」
沈黙が長引かない内に、始めるか。
「次は自分が報告します。衛星事件の前に、通信装置の紛失を週刊誌に寄稿した記者とSNSのアカウントを通して連絡を取りました。元大手メディア勤務のフリージャーナリストらしく、名前は『朝日奈霧子(あさひなきりこ)』。自分と同じで、二〇一〇年生まれの二五歳。東京都練馬区在住で一人暮らし。SNSの投稿から賃貸マンションに住んでいるようです」
モニターにSNSの自撮り投稿から拾ってきた顔写真と全体像を出力し、隣接している画面の人物相関図に加える。
「来月までには元公安警察職員として朝日奈記者と接触し、衛星通信装置に関する情報源が何なのか特定します。情報提供者として価値がある場合はエージェントとして運用する予定です」
「服装といい、容姿に気を遣っているようだが、大手を辞めた理由はなんだ?」と、境。
「確かに。ちょっとダウナーな感じが気になるけどな……」
「SNSの投稿には、『業界の体質に合わなかった』とありました。現在はモデル業との兼業らしく、知名度はないようですが、取材で有利になる肩書きだとは思います」
「意外ですね。竜崎は熟女好きだと判明したばかりなのに」
「お前のパソコンぶっ壊すぞ」
「言うまでもないが、ジャーナリストや作家は取材のネタや好奇心のためには無茶な行動をする人種だ。深入りには気を付けろ」
「分かりました。報告は以上です、質問はありますか?」
何もなかったので、境がいつものように立ち上がり、報告会を終わらせる。
「地道なスパイ活動が国益に繋がる。新たな相関図はミッションボードに表記しておいてくれ。分からなくなったら、必ず仲間や俺に頼れ。功を焦って、自分だけの判断に頼れば自滅する。総括は以上だ、買い出しに行こう」
◆
一二月、練馬区立中村かしわ公園。
待ち合わせ場所って、ここで合っているよな……
雲一つない空から照りつける陽光を避けながら、山田は携帯端末の画面を覗く。タッチ操作に対応した防寒用革手袋の上から画面をスワイプすると、時刻は一二時。SNSのDM(ダイレクトメール)で送られてきた文面は、『公園のトイレに一番近いベンチに一二時で!』という内容。なるべく真面目な印象を与えて信頼関係を築くために、革靴とネクタイにチェスターコートを羽織って待機していた。平日の昼間ということもあり、公園には山田以外の人間はいない。
もしかして、あれか?
当日の服装をお互いに教え合ったわけではない。が、ブーツを履いた山田と同じくらいの背丈の女性が、コンビニのビニール袋を片手にキョロキョロとしながら歩いていた。SNSのアカウントにアクセスし、投稿されている写真と照らし合わせる。すると、人相の特徴が合致していた。山田が手を挙げると、保育園のある方の入り口から姿勢良く歩いてきた。
「真田(さなだ)さんですか?」
女性は金具の付いたベージュのキャスケットを外し、風でなびくロングヘアーを手で押さえた。カジュアルにコーディネートされた動きやすい私服に身を包んでいる。縁なし眼鏡と防寒用の手袋が目立っていた。明るい色の服装が印象的で、写真で見るより大人びた風貌。露出はしていないが、スタイルの良さを強調するタイトな格好だった。
色仕掛けとまでは言わないが、自身の武器を利用するタイプなのか……職業的にも自身を客観視できているはずだから、無意識なはずはない。
「フリーで活動しているジャーナリストの朝日奈です。元公安警察でDMを送ってきた真田さんですよね?」
「はい、真田です。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
二人掛けの木製ベンチに腰掛けると、彼女はビニール袋から「寒いですねえ」と言いながら温かいカフェオレが入ったペットボトルを二つ取り出した。
「コーヒー飲まれますか?」
「……ああ、すみません、気を遣わせてしまって」
自分が男だということと彼女のモデル業を考え、変な手土産はしない方が良いかと思ったが……素直に何か持って来れば良かった。念のため、懐に少なくない情報料を包んではあるのだが。
「駅から遠かったので、タクシー使っちゃいました。真田さんは何で来ましたか?」
「私はレンタカーで」
「……駐車するとこありました?」
「近くのスーパーに停めました」
「あ、そうだったんですね」
会話もしっかりリードされ、山田はペットボトルを両手で握る。空っ風が時折吹くので、手袋越しでも有難い温もりだった。
「どうぞ飲んでください」
「ありがとうございます。しばらく温まったら飲みます」
……大丈夫だとは思うが、指摘されるまで口は付けないでおこう。さすがに毒物が入っているとは思わないが、彼女が出内機関のケースオフィサーをおびき出す罠の可能性は否定できない。
朝日奈記者はペットボトルを開封すると、あっという間に中身を半分空にした。
「前は喫茶店とかで取材してたんですけど、人が多くて目立つし、うるさいので公園にしたんです」
「そっちの方が良いと思います。初対面の人と個室とかは緊張しますし」
「ですよねえ」
どんな交渉事でも、まずは相手に対するリスペクトが大事だ。肝心なのは、それが嘘偽りのない本心からの言葉でなければならない。
実際、山田はスパイ活動に従事してから、真実と公平性というインテリジェンスを追求しなければならないジャーナリストという職業に尊敬の念を抱いていた。
「大手に勤めてらっしゃったんですよね? 凄いです」
「全然ですよ。大企業との癒着で、日本の報道の自由度ランキングは先進国で最下位です。日本のマスコミの大半は数字を取るために叩くことが仕事で、ジャーナリズムなんて二の次ですから」
憂いを帯びた整った横顔からは、山田は嘘を感じ取れなかった。
「……メールでも送らせて頂いた通り、週刊誌の記事を読みました。私もその頃には警視庁公安部を退職していたので、記事の正確性に驚かされました」
「今回は情報元が凄かったんで……今は何をされているんですか?」
「興信所で探偵業務をしていますが、まだ見習いなので何も分かっていません」と、笑顔で誤魔化す。
「元公安の人多いですもんね、興信所の人って。でも、私と同年齢というのはかなり若い方ですよね? そういうのって大抵、年配のベテランの人がやっているイメージなんですが」
「入庁してすぐ理想とのギャップに失望したんです。気付いたら辞めていました」
「あー、それなら私も人のこと言えないですね」
良し、カバーストーリーも上手く繋がった。今度はこっちの番だ。
「フリーの記者の方だと、情報源となる取材対象に接触するのは難しいですか?」
「何のツテもない場合は難しいと思います。勤めていた時の人脈を当てにしたり、記者自身が元公務員というパターンが多いですから。そういった意味では経歴として有利な大手に感謝していますが……平和ボケしている日本でCIAだの国民の盗聴だの言っていると、頭のおかしい陰謀論者扱いされますからねえ。今の日本の成り立ちを知りたいのなら、戦後の傀儡政権から勉強しないと。文科省に都合の良い義務教育のお勉強ばかり信じて、国際的視点からの世間知らずを陰謀論といって誤魔化しているだけなんです。CIAなんて日本で言えば行政の一つに過ぎないじゃないですか。私も『記事にできない』、『論理が飛躍している』って、キー局から追い出されたクチでして」
「そうだったんですね。でも、今が良ければそれで良いですよね」
「はい、おかげで、ずっと気になっていた出内機関と血盟団の秘密に迫れそうなんです」
……何だって?
激しい動悸が山田を襲った。自然とボトルを握る手に力が入り、汗ばんでくる。
「やっぱり、ご存じですよね? 今の日本で暗躍している情報機関と犯罪組織ですもんね」
眼鏡の位置を指で調整した彼女は、射抜くような瞳で山田の反応を窺っていた。かつてのスパイ教育において、双葉指導官が「女性は力で勝てない分、男性より嘘を見抜けるように脳の使い方を変えた」と言っていたのを山田は思い出す。
ここで変に嘘を吐いてもバレそうだ。何しろ唐突過ぎて、誤魔化す準備も怠っていた……
「ええ、表には出ていませんけどね……」
「良かった! 今まで色んな人に取材してたんですけど、中々はっきりと肯定してくれなかったんですよ」
花開いたかのように明るい笑顔を見せる朝日奈記者。それが演技だとしたら、役者としても満点だろう。山田としても、最後まで演技を続ける必要があった。
「現役の方とかは、難しいと思います」
「そうですよね、私も血盟団に潜入している出内機関の工作員の方から情報を提供してもらったんです」
——マジかよ。
動揺を隠し切れているかは不明。だが、彼女はまたとしても山田の顔を見詰め、相手の出方を見ていた。交渉事は情報を小出しにし、双方の利益になる量で終わらせるのが定石。今回もそういった流れだと踏んでいた山田は、完全に出遅れてしまっていた。
「……工作員の方と知り合いになるのは凄いですね。中々いないんじゃないですか?」
「いないんですか?」
「……すみません、私も聞いただけなので」
「真田さんは探偵業なのに、どうして衛星通信装置に興味を抱いたんですか?」
完全に会話の主導権を握られてしまった。相手の訊き出す能力が上手なのか、単に自分が墓穴を掘っただけなのか。
「退職はしたんですが、公安とは今も協力関係にあるんです」
「捜査の一環ということですか。そしたら私の取材って大丈夫なんですかね? 出内機関と公安警察って仲が悪いと聞いたんですが」
「私のような退職組と同じで、記者の方も大事な情報提供者になるので、問題はないと思います。お互いに出所を隠せば大丈夫です」
「そうなんですね、良かった」
良し、ここで友好的なニュアンスで少し攻勢に出てみよう。
「血盟団の情報は公安も積極的に収集しています。特に幹部に繋がるものは重要なので、私はインテリジェンス機関同士の利害関係を無視して情報交換をおこなっています。出内機関も含めてです」
こっちは出内機関に関する情報のアドバンテージを持っている。血盟団に潜り込んではいないが……
「コリント(コレクティブ・インテリジェンス)ですか。公安調査庁の方に訊いたら、『今は血盟団予備軍が収容所まで移送されているから、そっちの手続きに尽力している』と聞きました。部署によって色々と違うんですかね?」
嘘だろ。
どこまで知っているんだ、この人は。
「でも、今一番ホットなのは移送でもなく『政軍隷属(せいぐんれいぞく)計画』ですよね?」
この人物をこのままにしておくのはマズい。一旦、報告を——
携帯端末が震えたので、液晶を彼女から見えない角度で覗く。『試合開始』というメッセージが境から送信され、その隠語から山田は意味を察した。
——向こうも始まったか。
山田は少し悩んでから、境に現状報告しようと、ベンチから腰を浮かし——留まった。
「電話なら構いませんよ」
「……いえ、何でもありません」
彼女はどこまで知っているのだろうか?
少なくとも、山田より出内機関や血盟団に詳しい可能性はあった。明らかに大勢のケースオフィサーを抱え込んでいるか、重要な情報にアクセスできる立場の人間と信頼関係を結んでいる。スパイマスターのような規模なのかは不明だが、まだケースオフィサーとして日の浅い山田が自己判断できる範疇を超えていた。こういった場合、必ず自分だけの判断ではなく、仲間や上司の力を借りるようにと境は忠告していた。しかし同時に、真実に辿り着きたい欲求もあった。ケースオフィサーとなり、「情報への欲望」のようなものに抗えなくなっていた。
——そもそも、境が隠しているせいで、自分が所属している組織について俺はほとんど何も知らないじゃないか。いつになったらニード・トゥ・シェアになるんだ? しばらくは変わらないだろうが、自分達が自由になる気配は一向にない。ロシア諜報団を壊滅させたところで、本当に俺や竜崎は自由になるのだろうか?
山田は頭の中でふと、サラリーマンとして勤務していた頃を思い返していた。出口の見えないトンネルを、ひたすら走り続けなければならないような虚無と焦燥感。
彼女のことを境に報告すれば、間違いなく潰される。以前、出内機関や血盟団に迫った記者は懐柔されるか、記事が揉み消され、圧力を掛けられると言っていた。今回も例外ではないだろう。
仮に違うとしても、俺が真実に辿り着ける機会は、二度と訪れないかもしれない。
山田は携帯端末をしまった。
「色々と、詳しく教えてもらっても良いですか?」
◆
目の前の並木道や、公園中に落ちている茶色い落ち葉を山田はじっと見詰める。
「——つまり、血盟団の幹部陣に出内機関のモグラがいて、その計画を知ったということですね?」
「はい、最近はロシアンスパイの幹部会にも出席したようです。『政軍隷属』が何を意味するのか、私も詳しくは知りませんが、少し前から重要事項として検討されているそうで……真田さん、知りませんか?」
ここで見栄を張っても仕方ない。むしろ、そのモグラと何とか接触して情報を得るべきだろう。
「私も出内機関のケースオフィサーとは懇意にしているのですが、訊いたことありませんね。どうやって知り合ったのですか?」
「それは言えませんね。その人のためでもあるので」
それもそうか。
「分かりました。他に何か……」
名前の分からない枯れた木々が寒風で揺れる。しかし、彼女は微動だにせず、こちらを測るように見詰めてきた。
これ以上知りたいのならお前も喋れ、ということか。
「……例の衛星通信装置に関する件なんですが、無事に解決したようです」
「本当ですか、どういった手段で? 記事に書ける範囲で教えてもらって良いですか?」
「輸送中のところを検挙したんです」
「犯人は?」
「血盟団です」
「検挙した捜査機関は?」
「警視庁公安部です」
「場所と日時は?」
「それはさすがに……」
「うーん、困りましたね……それでは記事にできません」
彼女はカフェオレを全て飲み干すと、容器をビニール袋の中に放り込み、尻に付着した埃を払いながら立ち上がる。
「情報量も違うみたいですし、お互いのためにも今後は合わない方が——」
「場所は……東京湾アクアブリッジです」
「……そう言えば最近、トラックが横転する事故がありましたね」
彼女は再びベンチに腰掛け、「警察オタクがSNSで『公安機動捜査隊の車両が来ている』と騒いでいましたが、それと関係が?」と、興味津々な様子で訊ねてきた。
「そうです。事故車両に衛星通信装置が積載されていました」
「事故で偶然発見したんですか?」
取り敢えず、ここまでで良いだろう。今度はこっちが黙る番だ。
「……そうですか。これも潜伏工作員の方からの情報ですが、政軍隷属計画は出内機関と血盟団の両方に関わることだそうです」
やはり情報を小出しにしていたか。何が「詳しくは知りませんが」、だ。
「……もう腹の探り合いはやめましょう。朝日奈さんとは今後も情報交換をしていきたいと思っています。定期的な報酬の用意もあります。私は衛星通信装置に関する件を記事になる部分まで話すので、計画について知っていることを全て教えてください」
「話が早くて助かりました。同級生ってことで敬語もやめません?」
「分かった。装置を輸送していたトラックを横転させたのは『とある諜報機関』で……ところで出内機関と血盟団っていう名称は出すの?」
「出さない。どうせ消されるし、ブログで書いていた勘の良いオタクは電波扱いされて職場に通報された後、失職したみたいだから。匂わせる程度が一番安全」
「そっか……とにかく、衛星装置の件を解決に導いたのは、とある諜報機関だということ。世間では公安ということになっているけど」
「なるほど、それでどうやって見つけたの? 捜査方法は? とっくにロシアあたりに盗まれていると思っていたけど」
「それは捜査機関側でも考えていたらしいけど、『サイバー関係に強い捜査官』の手で、まだ国内にあることが判明したみたい。そこから諜報機関の手を借りて、取引現場を特定して監視した」
「取引場所は海ほたる?」
「そう、それで逃走を図ろうとしたところを『捜査関係者』が阻止して、最終的にああなったとか……報道規制は最小限だったと思うけど、俺の知っている情報はこれだけだよ」
「トラックを運転していたのは血盟団の構成員?」
「そうみたいだね」
「ということはやっぱり、ロシアと血盟団は手を組んでるってこと?」
「それで間違いないと思う。というか、かなり危険な案件に首を突っ込んでいると思うよ。俺が心配するのも変だけど、大丈夫?」
「分かってる……けどここまで来るのに、本当に何でもしてきたの。ある意味、今の日本のジャーナリズムに対する私の復讐だから」
「……怖くないの?」
「生き甲斐だからね」
復讐か……冤罪でレンディションをされても、国家権力に歯向かわないどころか公僕に成り下がった自分が、余計に惨めになるな。
懐の携帯端末が震えた。『取引終了、成果あり』というメッセージが境から送信されている。山田も朝日奈に一言断ってから、『了解、こちらもじきに終了する予定』と返し、端末をしまった。
「それで、政軍隷属計画が出内機関と血盟団に関係あるっていうのは……」
「そんなことを話しているのを聞いたんだってさ。計画の内容自体は情報提供者の工作員の人も分からないって言っていた。『篠原』って人がロシア人スパイと話す時に使っていた単語らしいんだけど、どうもニュアンス的に計画そのものじゃなくて、計画の内容が書かれたファイルか何かを指しているんじゃないかって……機密書類のことなのかも。篠原って誰かのことか分かる?」
「いや……」
やはり、境は『何か』を隠している。
衛星通信装置回収作戦の前、車両の中で境が竜崎に対して「篠原」という名前を出して、血盟団の信頼を得るように命じていたことを山田は思い出した。すると朝日奈は得意気に笑みを浮かべる。
「その篠原って人が血盟団のリーダーらしいよ」
「え……」
なぜそんな重要な情報を、境は教えてくれないんだ?
山田の中で不信感が募っていく。手の中のカフェオレは既に冷え切っていた。
経歴から考えて自分と竜崎が信頼されないのは仕方ない。しかし、これではわざわざ遠回りをして捜査しているようなものだ。それに出内機関に関わる機密情報がなぜ血盟団側にあるのかも謎だが——それか、わざと遅らせるため? まさか、来年二月の和平会談に間に合わせないようにして、成果を上げさせずに勝連に逆戻りさせることが目的じゃ……
「その工作員の人が篠原ってオチはないよね?」
「それは違う。篠原って人は定年間際のおじさんみたいな人で、いつも眼鏡を掛けているみたい。詳しくは言えないけど、出内機関の人はもっと若いから」
だとすれば、篠原は境と同年代か。
「分かった。こっちでも篠原について調べてみる、何か分かったら知らせるよ」
「ありがと。それと最後に工作員の人は『現代の血盟団は出内機関が創設されてから作られた』って不審に思っていたみたい」
「それは、時代的特性を鑑みてじゃないかな? 出内機関は俺達が生まれる前からあったって聞いたし、不況からの世界的ポピュリズムを考えれば復活してもおかしくはないと思うけど……」
「そうかな? 言い方的に『出内機関が創設されたから血盟団が復活した』って考えられない? 私も詳しくは教えてもらえなかったけど」
なんだそれは。それではまるで出内機関に対抗するために血盟団が甦ったような……
「私が今言えることはこれくらいだけど、工作員の人に真田さんのこと教えても大丈夫?」
「……そうだね、むしろ頼むよ。何か力になれるかもしれない」
「なら今度からはSNSじゃなくて、秘匿性の高い通信アプリでやり取りしよう」
「メッセージが消えるやつ?」
「そう。お互いのためにね」
普段から使用しているアプリで互いの連絡先を登録した後、「ちょっとトイレ行ってくる」と朝日奈は席を立った。近くにあった防災備蓄倉庫兼トイレはかなり大きな造りで、公園を一望できる展望回廊まで備えてあった。女子用トイレの出入り口は反対側なので、朝日奈は円形の施設を回り込み、姿を消す。誰も居ない見知らぬ土地に一人残され、山田は何となく不安を覚えて周囲を観察。すると、小柄でスキンヘッドの男が何度も後ろを振り返りながら、公園の奥からトイレへと接近していた。山田も男性用トイレに向かう振りをして、カフェオレをポケットに入れてベンチから離れる。
雰囲気的にも時間帯的にも、明らかに堅気じゃない。
今回のために山田は、懐に拳銃とサプレッサーを忍ばせていた。男は周りを少し見渡し——女子トイレへと入っていく。山田は拳銃を抜き、サプレッサーを装着。すぐに後を追い掛ける。中で物音が聞こえたので、走ってトイレに侵入。中は個室トイレが四つ並んでいた。
どこだ……?
男の姿はなかった。が、床のタイルにふちなしの眼鏡が落ちていた。踏まれたのか、レンズが割れている。争ったことは明白だった。仕切りとドアの下には僅かな隙間があったので、山田は銃口を向けながら覗く。全て洋式のようだが、朝日奈や男の靴さえ見えなかった。
開けるしかないな。
内開きのドアを順次開けていく。一枚、二枚——そして最後のドアをゆっくりと開く。
「銃を置いて、外に出ろ」
朝日奈は人質として、首にナイフを当てられていた。男は洋式トイレの蓋の上に立っている。身長差のある朝日奈の首に片腕を巻き、自身は彼女の背中に頭ごと隠していた。山田が一歩下がると、男は恫喝する。
「俺の近くに置け!」
朝日奈は意外にも冷静で、巻かれた腕を下げる形で両手を被せていた。ナイフが細首に少し食い込み、出血が始まる。山田は銃口を外し、ドアの前の床に置いた。
「良し……両手を上げてそのまま外に出ろ」
男は口を開きっぱなしで、目が潤んでおり、全身に力が入って震えていた。指示や発音は明確なので、薬物ではなく単なる緊張か。山田が出入り口近くまで後退すると、代わりに蓋から下りた男が前進。朝日奈を仰け反らせながら、個室の外へと押しやっていく。山田はナイフの位置を意識した。男は拳銃を足で寄せ、朝日奈の腰を更に曲げさせる。首を抱えている手にナイフを持ち替え、拾おうとした。
瞬間、山田が動き出す前に、朝日奈がナイフの刃ごと男の腕を確保。腰を一気に落とし、背負い投げの要領で前方に投げ飛ばした。
「逃げろ!」
外へと駆け出す朝日奈。寸前に奪ったナイフを山田に投げ渡してくる。その要領の良さに山田は驚く。
やるな……!
受け身を取って起き上がった男が拳銃を構える。山田はナイフを逆手に持ち、拳銃を持つ腕を両腕で抱え込み、スライド部分を握りコントロール。そして頬を切り付け、流れでグリップしている両腕の間に腕を突っ込み、銃口が向くよう男の方へ捻り上げ、奪い取り、発砲。が、男はサプレッサーを横から握り、弾道を避けて突進。山田は壁に激突。銃とナイフを握った手を壁面に押し付けられる。ナイフごとグリップして力の入らなくなった手に対し、男が跳び蹴り。拳銃のハンマー部分が踵で蹴られ、銃とナイフが床のタイルを滑って、出入り口付近へ。バランスを崩した男の顎目掛けてアッパーカットを狙うも避けられ、フックも腕でブロックされた後、鼻に衝撃が走った。
フックパンチ。
ローキック。
ミドルキック。
ストレート。
山田の口元が鼻血で濡れる。
小柄だが、力は強く四肢も強い。打撃が得意なのか。
山田は隙を見てカフェオレの容器を取り出し、体当たりして顎に頭突きをヒットさせた直後、開封。握力で潰し、顔面目掛けて噴射。怯んだ間に出入り口に跳躍。だが武器との距離は遠く、相手も警戒していたのか足にしがみ付かれ、引き摺り倒される。山田は反転し、顔面を蹴り上げ、その反動のまま柔術の立ち方でスタンド状態に。押し倒そうと組んできた相手を受け止め、腕で脇を差し、身体を入れ替えて壁際まで押し込む。男は襟を掴み、押し退けようと膝蹴りの体勢になる。山田は伸びた肘のジャケットを真横から掴み、内側に絞る。奥襟を首裏まで持つと真横に一歩踏み出し、相手の腰を蹴ってコマのように転がる。
引き込み腕十字。
しかし顔に足を掛けて極める寸前、倒れた男は腕を流されないように反対の手で押さえ、頭を引っ込めてきた。何とか向き直ろうと半身になって起き上がってくる。そこで山田は腕十字を諦めた。
なら——
守ろうとする腕の肘内を蹴り、脚を差し替え、片腕を押さえながら、今度は男の首を両脚で挟み、後頭部を両手で引き付け、三角形に組み直す。そのまま腕を流し、肘と腹で押し込むと、片手で脚を掬い上げ、サイドからマウントポジションを奪う。
三角絞め。
空いた拳をハンマーのように振るい、男の鼻っ柱にひたすらパウンド打ち。顔が血塗れになり、抵抗する力が弱っていくのを確認。そのまま顔の上でマウントを取り、全体重を掛けると、頭を抱きかかえ、潰すようにあぐらを組む。両脚で作った三角形の隙間を無くしていく。呼吸が獣のように低い喘鳴(ぜんめい)に変わっても、一〇秒間はキープする。四肢が完全に弛緩したのを感じ、腹の下にある顔を確認。金魚のように口をパクパクしながら、目が斜め上を向いているのを見て、確信を得た。
「朝日奈さん、戻ってきてくれ!」
息を整えながら、首の後ろに『弾丸』という漢字が彫られた男のボディーチェックをしながら服を脱がし、両手両足を服の裾で縛り上げる。男の靴紐も適当に解き、トイレの給水管に足ごと縛った。
「朝日奈さん……!」
嫌な予感がしたので、男の所持品であるスマートフォンと財布をポケットに突っ込み、銃とナイフを回収すると、急いで外へ出る。
彼女の名を呼び、周辺を見渡しても、姿は確認できない。代わりに公園の出入り口に何かが落ちていることを発見。彼女の身に着けていたキャスケットであり、方向から考えると車か何かで連れ去られた様子だった。
「クソ……」
冷静さを保ったまま山田は、スキンヘッドの元に戻りつつ、自分の携帯端末を取り出した。
◆
茨城県、常陸太田市、深夜。
境が運転するバンは、盆地を貫く県道を爆走していた。
《そのままで良い。まだ時間はあるから無線と呼び出しのチェックをする。もう一度作戦を確認するぞ》
《こちら一一(ヒトヒト)、良しです》
《一二(ヒトニ)よーし》
《一三(ヒトサン)、了解です》
車内は慌ただしかった。あの後、セーフハウスに戻り、対赤外線加工が施された黒いフェイスマスクと、つなぎのアサルトスーツを山田は竜崎と共に着用。加えて車両後部でホルスターやナイフ、救急品ポーチが固定されたタクティカルベルトを腰に巻く。その上から前後ネックアーマーやショルダーソフトアーマー、股間部にグローインハードプレートが合体したフルアーマープレートキャリア(防弾チョッキ)を身に着けていた。軍用軽量型ヘルメットに装着されたブームマイク付きイヤーマフを通して、境の声が届いてくる。交渉とドローン運用のため、比較的軽装備となる早乙女は助手席で準備を整えている。特徴的な三本アンテナが付いたドローン用のデータ送受信機を調整していた。その間、両手両足をダクトテープで縛られ、目隠しとヘッドホンで視聴覚を奪われた外交官補が、座席にロープで縛られて大人しく座っていた。若いロシア人の男で、これから何が起こるのか皆目見当もつかない様子だ。
「ジーヴィッカから早乙女に人質交換の提案があったのが、今から一時間半前だ。拘束した外交官補、つまりは見習いSVRと朝日奈霧子の交換だ。海老名での動きから早乙女が捜査機関側の人間だと気付いたんだろう。交換のタイムリミットは薄明期であるBMNT(ビギン・モーニング・ノーティカル・トワイライト)、〇六四一までだ。時間的制約から三時間以内に移動可能な竜神峡(りゅうじんきょう)の大吊橋(おおつりばし)をこっちが提案したが、相手の拠点位置が不明な以上、既に待ち伏せしている可能性もある。だが最速で到着すれば、逆に俺達が有利となる。相手には橋を渡った先の左岸で待機するように伝えた。多少の時間は稼げるはずだ」
「公安はどうしてあのタイミングで僕に接触してきたんですか?」
「公安のアセットに訊いても分からないと言われた。そこで防衛省のアセットに訊いたが、理由はいつも通りの『外務省への妨害工作』らしい」
「へっ、どうせ外務省が手柄を立てると政治的影響力が強まって、海外製兵器の輸入が増えるとかそういう理由だろ?」
山田は軍用ヘルメットに拡張式暗視ゴーグル(ENVG)を装着し、ゴーグルを下ろした時のポジションを調節。それを終えた後は、小銃の弾倉に実包を込める作業が待っていた。グローブを片手だけ外し、紙の箱から七・六二ミリNATO弾を弾倉に押し込んでいく。
「そうだ。海外製兵器の配備や採用が増加すると、国産防衛産業が縮小する。これまでの入札談合もできなくなり、国防軍や防衛省の天下り先も減るからな。俺達は軍の情報保全隊にも目を付けられているらしい。どうやら反政府、反軍的なSNSのダミーアカウントが網の目に引っ掛かり、そこから公安に情報を流したようだ」
「俺達外務省の実績になるくらいだったら警察の手柄にした方がマシ、ということですか?」
「恐らくな。そういう意味では協力関係を築くんだ——一三いわく、朝日奈霧子は重要な情報源だということだったが、もう一度それを認識させてくれ」
バンは街灯がほとんどない田舎道をひたすら走行していた。山田は不可視のレーザー照準器付きスマートスコープがマウントされた自動小銃や、拳銃のセットアップをしながら昼間の会話を整理した。
「朝日奈霧子は血盟団にモグラとして潜伏している出内機関のケースオフィサーと繋がっています。彼女自身はジャーナリストですが、そのケースオフィサーは血盟団やロシアの幹部会合にも出席できるほどのポジションを確立しているようです。このことから彼女をエージェントとして運用する価値は非常に高いと判断し、救出を提案しました」
「俺も他のケースオフィサーが何をしているか把握していない。それは出内機関のDOや公安も同じで、そもそもケースオフィサーや捜査員のリストを作ってはならない。情報機関の鉄則だ」
「仲間同士で情報共有したり、連携する時は不便っすね」
「同じチーム内ならまだしも、他のチームと関わることは推奨されないからな。公安もかつては警察官を退職してまで潜入捜査を行っていた時期もあるが、費用対効果もあって現在はしていない。内部でエージェントを獲得した方が効率的で安全だからだ。ドラマで一時期話題となった防衛省の非公然諜報組織『別班』も同様だ。彼らは商社マンではなく一度外務省に出向して、在外公館で外交官として勤務したり、公用パスポートで防衛省職員として海外渡航している」
「なら、今も潜入捜査をしているのは出内機関くらいですか?」と、早乙女。
「分からない。俺も初耳だ。だがそこまで敵の中枢に入り込んでいるケースオフィサーが本当にいるのなら、パイプを持つエージェントの価値は極めて高い。俺も交換には賛成だが、相手も素直に渡す気はないだろう。俺達をまとめて排除する絶好の機会だと思っているはずだ」
小銃と拳銃にサプレッサーを装着し、ウェポンライトの点灯を確認する竜崎。山田も全く同じ型の銃器を同じようにドレスアップし、スコープのレティクルを再度点検。込め終わった弾倉をプレートキャリア前面のマガジンポーチに収め、残りをバックパックに詰めた。
「ジーヴィッカがゴルバチョワだと仮定するならば、直接狙撃してくる可能性もあるだろう。竜神大吊橋に着いたら予定通り二手に分かれるぞ。地図アプリの衛星写真で確認した通り、俺は狙撃位置を確保する。早乙女は俺のそばで外交官補を監視、ジーヴィッカとのやり取りを続行しろ。山田と竜崎は遊撃組として右岸を安全化。左岸からの狙撃に注意しろ。こっちの提案通りなら、橋中央で人質がすれ違い、両岸まで戻ってくる。交換後に対岸にいる連中を拘束、もしくは無力化する。相手が遅れてきたのなら、俺達が待ち伏せすれば良いだけだ。DOには色々と説明したが、『危険すぎるから諦めろ』と増援を拒否された。訓練を思い出せ」
貴重な情報源なのに随分と素っ気ないのが気になるが……
「了解」
山田は小銃に弾倉を挿入し、薬室に実包を叩き込んだ。
「へっ、まさかこんなガチで戦うとはな」
「何だか楽しそうですね……」
「俺はこっちの方が性に合ってるのよ」
「スパイじゃなくて軍隊に戻った方が良いんじゃないですかね……?」と、早乙女。かなり不安な様子だった。
山田はプレートキャリアのポーチに差し込んだハンディ無線機とアンテナを調整しながら、「心配しなくても、敵は俺達で片付けるよ」と勇気付けた。PTTスイッチの位置を肩部までずらしていると「……はい」と元気のない返事が聞こえた。
県道を北上すると、境はENVGを装着してバンのヘッドライトを消し、左手にある狭い側道から、曲がりくねった山道へと進入した。
「少し遠回りだが、『竜神大吊橋』と書かれた看板から坂を上るルートは目立ちすぎる。作戦通り、裏から回って森を抜けるぞ」
しばらく山道を進み、「竜神峡第3駐車場」の手前で道を逸れる。そのまま森の中に突っ込み、停車。エンジンも停止し、外交官補を含めて全員が下車する。バンの排気が止まると、一帯は静寂に包まれた。山田が腕時計を見ると、「05:20」。呼吸と足音は外気に溶け込み、白い息が暗黒に浮かんでは消えた。
「まだ少し距離はあるが、ここからは森の中を歩いて行くぞ……僅かだが雪が降り始めている。何か食べる物は持ってきているか?」
「お菓子くらいしかないですが……」
「それで良い。落ち着いたらなるべく高カロリーのものを食べておけ」
早乙女がバックパックから袋で小分けされたチョコレートを取り出し、全員に配布していく。山田はそのまま口に入れて、ハイドラパックという減った分だけへこむ水筒を取り出し、飲み口を強めに吸引。流れてきた水で喉を潤す。中身が容器内でぶつかっても水音を立てることがないボトルで、境が教育用に何個かストックしていた物だった。
「良し、作戦開始だ。俺と早乙女は人質と水府物産センター付近の林内から橋と対岸を監視する。早乙女がドローンを飛ばして周辺を確認したら全員で動き出すぞ。お前達は後方の林内を索敵し、事後は南東を警戒して合図を待て」
「了解」
◆
「武器は取り上げました」
境がウェポンライトを全身から顔へと当てると、フェイスマスクを脱いだゴルバチョワは眩しそうに顔を背け、草むらに横たわったまま肩で息をしていた。隣に狙撃銃と拳銃を没収した早乙女が戻るまで、周辺の地物をまとめて捜索。すると、破損した情報端末や装備が地面に転がっていた。対赤外線迷彩マントが破れた状態で放置されており、境は銃をロシアスパイに指向しながらマントを踏む。生地がかなり厚く、人体が放出する赤外線をほとんどカットする仕様だった。
羽織って中から銃で狙えば、発射炎やガスも隠匿できるようだな……
「どうりで赤外線に反応しないわけだ」
「素人ばかりじゃ、歯が立たないか……」
流暢な日本語だな。
「屈強な七人と窮地に陥る方が、役立たず百人となるよりマシだ」
ゴルバチョワは鼻で笑うと、「……チャールズ・ベックウィズのつもりか?」と皮肉を返してきた。しかしすぐに咳き込む。吐血しており、寒さもあって金髪の先まで震わせていた。
「お前が『メディア』だな……?」
「……すみません」
「男だとは思っていたが、こんな子供だったとは……油断した」と自嘲して咳き込むゴルバチョワ。早乙女が接近し、手を取って救急品を取り出そうとするが、それを力なく払い除けた。
「止めろ……そんな死に方はしたくない」
「あの身の上話が嘘でも、僕は……」
「嘘じゃない……」
「どうして教えてくれたんですか?」
ゴルバチョワは一瞬、早乙女の顔を見てから、「……分からない。祖国にも見捨てられ、もう、疲れたのかもしれない」と発言。境が迷彩服の上からウェポンライトで点検すると、手榴弾の破片が首元や腹部に刺さっている様子だった。
「血が黒い」
内臓か。どちらせよ、出血量が多い。
「自前の兵隊はどうした?」
「蒔いた分は自分で刈り取る……それがルールだ」
「……何か言い残すことはあるか?」
境の言葉に、ゴルバチョワは白けてきた虚空を見詰め、「憎んでいたが、この国に住んで分かった」と、絞り出すように嘆いた。
「なぜ、大事にしないんだ……?」
それは、自身の国と比べた上での発言か。
早乙女が無理矢理手を握り、傷口をおさえる。ゴルバチョワは少し笑うと、「ここにはその価値が、ある……」と言い切り、虚空から「何か」に視点を移した。
「いらないなら、よこせ……!」
早乙女の腰に伸ばした腕を、境は撃ち抜く。驚いてひっくり返った早乙女のダンプポーチから、ゴルバチョワの拳銃がこぼれ落ちた。前転しながら拾った彼女の鼻先に、照準を合わせる。しかし境は引き金を絞らず、する必要もなかった。自身の口内へ銃口を押し当てていた彼女は、その場に崩れ落ちた。土の上に倒れた彼女の顔を確認すると、見開いた状態で鼻と口から大量に流血し、ピクリともしなかった。
「自殺はスパイとして最悪だ……何も持ち帰れないからな」
彼女の瞼を閉じてやると、早乙女は視線を落としながらも拳銃を回収し、遺品となった狙撃銃の背負い紐を肩に掛ける。BMNTの時刻を過ぎ、視界が明瞭となっていく。
《一〇、相手の商品を確保。家まで配達する》と、山田の無線が入った。
「了解。こっちも一一とMGVを回収したら家に戻る……『女神は死んだ』。一二、これより家の位置まで全配達員が向かう。事故はなし」
《了。お疲れした。迂回してたクレーマーはこっちで処理したんで、問題なしっす》
「了解、良くやった——早乙女、MGVの方へ向かうぞ」
山を登りながら、前を歩く境。振り返ると、虚ろな様子で早乙女が続いていた。
「しぶとい相手だったが、良くやった。お前のドローン戦術は素晴ら——」
「止めてください」
絞り出すように言葉を吐く早乙女。その台詞に境は前に向き直り、ひたすら上を目指す。
「すみません……彼女にも理由があったんです」
「敵のスパイに入れ込むな。内側から壊されるぞ。そういうやり口もある」
お前は一体、どっちなんだろうな……
先導する境が急斜面をよじ登り、早乙女に手を差し伸べる。しかし、早乙女は渾身の力で這い上がり、自力で乗り越えてきた。日の出となり、朝霧に日光が差し込む。
「大丈夫です、もう子供じゃないので」
輝く太陽に目を細め、橋まで戻れるハイキングコースに出ると、「昨日、二〇歳になったんです」と早乙女は告げてきた。彼は前を向いて先を歩き始めた。
「もう大人です」
「……そうか」
◆
MGVを二人で担いでバンまで戻ると、山田と竜崎が四周を警戒待機していた。朝日奈と外交官補はバンの後部に乗せられているようだ。どちらも目隠しと耳栓をさせられ、椅子に縛られているらしい。先ほどの銃撃戦が嘘のように、鳥のさえずりが早朝に澄み渡る。勝連組の二人は警戒を解くと、「結構苦戦してたじゃねえか」「二戦目だから手を抜いたんだよ。足震えてたけど大丈夫?」「これは武者震いよ」と罵り合いながらも、互いの肩や胸を叩いて健闘を称え合っていた。
「チュカビナライフルじゃねえか、こいつはレアだぜ」
ゴルバチョワの持っていた狙撃銃を回収し、弾倉を抜いて薬室から弾を抜く竜崎。寒さか興奮からくるものなのかは不明だが、彼の手は僅かに震えていた。
「お、弾の互換性もあるモデルだな」
「再調整して、チームの武器庫に入れてくれ」
「良いんすか?」
「米国の州によっては、押収した銃を改修して警察の装備に加える。日本では証拠として不必要になった時に溶鉱炉で溶かすだけだが、俺達は出内機関だ——それより、迂回してきた連中をよく殺れたな?」
全員で協力しながらMGVを積み込み、来た通りのポジションで乗車。山田と竜崎は後部で装備を脱ぎ始めた。境も対向車や道行く人間に怪しまれない格好まで武装を外す。
「一人だけだったんで。死体も確認したっすけど、俺らみたいな暗視装置やスーツもなければ、射距離もない上に整備不良の銃で逆に可哀想だったっすよ。どれもこれも欠けたりひん曲がったりしてたんで、使えそうな実包や弾倉だけ回収したっすけど、死体はどうするんすか?」
「さあな、増援も送らないような組織の建前など知らん」
竜崎は「へっ」と独特な笑いを浮かべながら、「マジすかおやっさん?」と訊ねてきた。
「冗談だ。DOにメッセージは送った。後は彼らが警察と連携して処理する予定だ」
自律飛行型ドローンを回収した早乙女が助手席に着いたことを確認し、境は車両を発進させる。
「朝日奈はこれからどうなりますか?」
「顔は見られていないな?」
「はい」
「ここまで関わった以上、そこら辺に放り出すのも危険だろう。何より情報も欲しい……少し寄り道するぞ」
◆
目隠しとヘッドホンを外すと、彼女は大きな目を細め、次第に緊張からか硬直していく。
それもそうだ。人里離れた森の中で手を縛られ、目の前に覆面を付けて腰に拳銃を差した男達が仁王立ちしていたらなおさらだろう。早乙女と山田は見えない場所に停めたバンで待機中だが。
境がしばらく反応を窺っていると、「……これってまだピンチってこと?」と精一杯の薄ら笑いを見せた。竜崎には声を聞かれないように指示していたため、必然的に境が話を進めるしかなかった。
「我々は味方です。あなたを救出したのは、公安職の極秘部隊だと認識してください」
懐から山田が回収したキャスケットを取り出し、倒木の上に座っている彼女に返した。
「もしかして、真田さんが……?」
「そうです。重要な情報源として救出を要請されました。話は全て彼から聞いています」
「そうだったんですか……後でお礼言わなきゃ——」
彼女はハッとしたように、「あのスキンヘッドは?」と訊ねてきた。
「警察に連行されました」
実際は応援に駆け付けた別の班に身柄を拘束されたのだが。
境は片膝をつき、朝日奈霧子と同じ目線になった。
「今後もジャーナリストとして活動する予定ですか?」
「はい。死んでも止めませんから」
迷いなく答えた女の瞳からは、情熱のようなものが感じられた。
俺にも、そんなものがあったな。
隣に立つ若者の目を見ると、同じような気迫を湛(たた)えていた。
「——橋から飛び降りた際に、恐怖感は?」
「……正直、凄くスリルがあって興奮しました」
「しばらく身を隠すつもりはありますか?」
「そうですね……でも、ジャーナリズムに危険は付き物ですから」
「ですが、ここまで目を付けられた以上、一般的な仕事や日常生活にも支障をきたすでしょう。常に狙われる危険がありますから。心当たりは?」
「分かりません。メッセージのやり取りも秘匿性の高い通信アプリを使っていたので……」
今すぐどうにかなる問題ではない、か。となれば、彼女を徹底的に調べ上げ、味方につけるしかない。
「分かりました——そこで今後の活動に関する提案ですが、知的好奇心も満たし、真のジャーナリズムにも迫れる職業を紹介することはできます。体力的に厳しい試験もありますが、朝日奈さんのような勇敢な女性ならパスできるかもしれません」
横から向けられる矢のような視線を無視し、境は続けた。
「あなたにとって、絶好の就職先だと思います。それまでこちらで保護も——」
「ぜひ教えてください!」
無邪気な回答に、境はフェイスマスクの中で微笑を隠した。
◆
数週間後、都内。
チームリーダーに住所非公開の会員制バーへと誘われた山田は、他の二名と共に店の前へと来ていた。指紋と顔認証という仰々しいセキュリティーに登録し、パスすると、暖房の利いた店内は完全個室制でカウンターはなかった。
「イスラエル人が経営するバーだ。ここには『西側』の人間しか入れない。一般人はお断りで、俺達のような人間だけが入れる」
クラシカルな雰囲気の四人掛けテーブルを囲み、落ち着いた照明の下、席に着く。と、白人のスタッフがメニュー表を持って現れた。開かれたメニューを見ると、中東料理だけでなく和食もあったが、どれも値段の記載がなかった。
「俺の奢りだから気にせず頼め。仕事の慰労会と、先週二〇歳を迎えた早乙女の成人祝いだ」
「お、なんだよオトメ、誕生日だったのか。おめでとさん」
「おめでとう」
「あ、ありがとうございます……」
恐縮する早乙女にナプキンとフィンガーボールを配る境。いつもより優しいのは、ゴルバチョワの件があったからだろうか。それとも竜崎に指摘された「仲間外れ」を気にしてか。
それから一時間近く経過しても、食事と会話は尽きなかった。思ったより気心が知れた仲だと山田は実感。時折、早乙女が自分と竜崎の軍隊時代について訊ねてきたが、適当にはぐらかして答えた。ドライバーである境を除き、ビールを飲み始めた自分達を見て、「ウォッカを飲んでみたい」と言った早乙女がむせ、竜崎の腕に吹き出すまで会は賑やかに進んだ。
「——でも、本当に良かったんですかね? 例の教育に挑ませるなんて……」
「ああいう手合いは関わるなといっても無駄だ。俺達の正体も隠すことができないのなら、いっそ仲間に引き入れた方がこっちのためだ」
「外交官補の人や、海老名で拘束した人達はどうなったんですか?」と、早乙女。
「警視庁と外務省が対応しているが、例の組織の構成員だったアジア人達は旅券不携帯として入管難民法違反の疑いで逮捕、勾留された。その後、起訴猶予となって出入国在留管理庁によって退去強制手続きが始まり、都内の在留管理局に収容された。入管のアセットによると子供もいたようで、児童相談所が引き取っている。基本的に無期限の長期収容だが、仮放免で解放されたとしても、就労禁止や居住都道府県からの外出禁止などの条件付きだろう——出てきた際は、色々と事情聴取させてもらうがな」
「非正規滞在だったんですか?」と、早乙女。
「母国のクーデターが内乱へと悪化したらしい。日本政府に保護を求め、難民申請をしたようだが、在留資格が付与されることはほとんどない。入管職員の人事評価は強制送還できるかできないかで決まる。加えて自分が入国を許可した外国人が不法残留になる、もしくは難民申請をすると評価が下がるからな」
「ウクライナの時はどうしたんですか?」と、早乙女が再び食い付くように質問をした。
「ウクライナの時は『避難民』として、観光と同様の九〇日間短期滞在資格を与えた。希望者には一年間、日本で労働できる特定活動在留資格への切り替えを実施し、情勢が安定するまで資格の更新を認めていたんだ。難民認定されれば五年間の在留資格が与えられ、そのまま永住者となったウクライナ人もいる」
「じゃあ、難民になる場合ってどうするんすか?」
「あまり知られていないが、『一時庇護(ひご)上陸許可』という制度がある。外国人が空港で『自国で迫害の恐れがある』と保護を求めた場合、実務上はこの許可の申請手続きに誘導される扱いだ。だが先程も言った通り、許可をしない方が入管職員は人事評価に結び付きやすい。毎年一〇〇名程度申請して、許可されるのは一人から多くて四人だ。ほとんどの場合はこの制度を案内されることなく上陸拒否され、退去命令が出される。そこで出国しなければ、大人は入管施設に無期限の強制収容となる。子供は児相行きだが、これは学校で授業中であっても強制連行となる。在日大使館が収容者へ書簡を送ったケースもあったが、入管当局が送り返した」
「それは、領事関係に関するウィーン条約違反じゃないですか? 確か、『領事館は派遣国の国民と自由に通信し及び面接することができる』と定められていると思いましたが……」と、山田は言い淀んだ。
「第三六条だな。だが二〇〇七年以降、一七名以上が病気や自殺、餓死で死亡している施設では何があっても不思議じゃない。病院や診療所の医師は医療法によって名前を提示する義務があるが、医療法施行令が適用される入管施設では名前も隠せるからな」と、他人事のようにグラスのビールを飲み干す境。
「大人はてめえの事情があっても、子供はかわいそうだぜ。オトメの住むアメリカでも同じなのか?」と、赤ら顔の竜崎。懐から加熱式煙草を取り出し、誰も居ない部屋の隅に煙を吐き出していた。
「アメリカは出生地主義を取っていますから、まず非正規滞在者がアメリカで出産した場合、アメリカ国籍が与えられて保護されます。幼少時に入国した場合は、強制送還を猶予する救済措置『DACA(ダカ)』が二〇一二年のオバマ政権下で導入されました。これは一六歳未満で入国し、犯罪歴がなく、軍や学校に所属もしくは卒業しているなどが条件で、就労なども認められていましたが、その後の政権で廃止となりました」
「かつて最高裁は『日本国内の外国人に対する基本的人権は外国人在留制度の枠内で与えられているにすぎない』という判決を一九七八年に下した。それは今も変わらない。ベトナム戦争に反対する政治活動をしていたアメリカ人英語教師の在留期間更新を拒否したことから、教師の名前を取ってマクリーン判決と呼ばれている」
「なら、何とか非正規から正規化するしかないよな」
「在留特別許可制度、通称『在特』がある。日本人との結婚を始め、日本社会に定着した外国人の在留を認める入管難民法に基づいた法的措置だ。不法残留や不法入国に対する強制退去の手続きが始まると、入国警備官による違反調査が開始される。入国審査官による違反審査、特別審理官による口頭審理、法務大臣による裁決という三審制だ。そこで法相の許可が下りれば在特が出るが、基準は曖昧で現場担当者の心象に左右されるようだ。その上、不許可処分を多く出す職員が入管内部では評価される。しかし同時に、難民申請中は強制送還できない送還停止効を悪用する刑法犯もいる。強制送還に応じない外国人は三〇〇〇名以上いるが、約三〇〇名が不法滞在以外に罪を犯し、その半数が難民認定申請中だ。こうした現状から申請上限を定め、懲役三年以上の実刑判決を受けた場合には送還できる条件も付した改正法案も提出されてはいるが、改正には至っていない」
「それでは、本当の難民にとって迷惑ですよ……」と、グラスを握る早乙女。
「何事も側面がある。今、日本には総人口の二パーセント以上である約三〇〇万人の外国籍者が生活している。国内では経済と治安の悪化によって外国人排斥運動が盛んになっているが、日本人の民族的イデオロギーを遡ると腑に落ちる。領土の拡大を進めていた大日本帝国時代は『日本民族は南北アジア諸民族の混合であり、日本民族と血縁関係にある』、『天皇家にも渡来人の血統は流入している』といった混合民族論が流布された。しかし敗戦後は一転し、『日本は太古から日本人という単一民族が住み異民族抗争のない平和国家だった』、『天皇家は外来の征服者ではなく、平和民族の統合の象徴だった』という単一民族神話が一般化した。これらは戦後に象徴天皇制へ移行したことや、敗戦によって国際的立場が低下したことによる自信喪失、そして戦争忌避からの一国平和主義への転換と分析されている。国家が弱い時は単一民族論で身を守り、強大になると混合民族論で外部を取り込むという民族イデオロギーの変化があるようだ」
「へっ、イデオロギーってのは都合が良いな」と、竜崎はビールの入ったグラスを傾ける。
「これは他の国にも言えますよね。貧しい民衆は自信を失うと、最後に残った血筋や家系に縋りつくしかなくなりますから……」と、ウォッカを止めてビールを飲む早乙女。
「それでアイデンティティーが保たれるのであれば悪いことではない。ただ貧しければ情報弱者となり、ビジネス的なクリティカル・インテリジェンスも見逃すことになる。『貧すれば鈍する』という言葉もある」と、境。すると唐突に、「早乙女、お前の家族は元気か?」と訊ねた。
「——元気ですよ」
端的に答えただけの早乙女に、境は質問を続ける。
「両親はアメリカか?」
「そうですね」
山田もついでに、気になっていたことを聞いてみた。
「そう言えば、妹にハッキングを教えてもらったんだっけ?」
「そうです。今は大学生ですが」
「オトメの妹ってことは有名大学なんじゃねえか? ネイビーシールとか」
「アイビーリーグね」
「いえ、治安の問題から日本の大学に通わせているので……」
「なんだ、ちけえじゃねえか。最近会えてるのか?」と、竜崎。境の顔が若干、険しくなった気がした。
「互いに仕事と学業に集中しているので、今はコンタクトを取っていません。彼女は小さい時から周りと少し違っていて……適切な環境と教育が必要でした」
でも、せっかくアメリカの政府機関から日本に研修しに来ているのに、会わないのはもったいないな……
「天才ってヤツか……」
「でも、社会的な信頼やお金がなかったので、誰かが公的な職業に就く必要があったんです。妹は頭が良かったので、色々と免除されて助かりましたが、言葉や生活の問題もあって借金することにはなりました。返済には二〇年くらい掛かるみたいですが、世界的には大学進学が六割で、日本でも四割と聞いていたので……新卒採用が前提のシステムなので、返済も兼ねて妹には卒業してすぐに就職して欲しいですけどね。取り立ては外部委託だと聞きますし」
そうだったのか。そういう事情が……
「……苦労人だね」
「借金は悪いことではないさ。今や二人に一人は奨学金を借りている——しかし、先進国ではほとんどが返済なしの給付型だが、日本はほとんどの場合、返還の義務がある。なぜわざわざ日本を選んだんだ?」
「日本のカルチャーに興味を持った本人の希望もあったんですが、治安などの環境的な問題もあって……」
「それは家庭的な——」
突然、目頭を指で押さえていた竜崎が早乙女の肩を抱き寄せた。
「お前、そんな良い奴だったのか!」
大泣きし始めた竜崎を押し退けようとする早乙女。「誕生日祝いに綺麗なお姉さんがいる店に連れてってやるぜ!」「嫌ですよ、絶対みんなババアじゃないですか!」「てめえぶっ殺すぞ!」と言って竜崎は口の中の氷を早乙女に連射。早乙女が発狂する。そんな二人の取っ組み合いを窺っていた境は、何かを諦めた様子でビールを飲み始めた。
何が訊きたかったんだろうか? インテリジェンス課程の教育参加者なら身の上を全て把握している、というわけではないということだろうか。
仲の良い兄弟のような二人の姿を見ながら、山田は残りの食事を平らげた。
……年齢差もあって、まるで疑似家族だな。
山田は世間的な建前と保身にしか興味を持たなかった両親を思い出し、自分は二度と会うことはないだろうな、と考えた。
早乙女も立派な目標があったんだな。偉そうに怒鳴った時もあったけど、俺は……
完全に酔っ払った竜崎は、帰る際は大人しくバンに乗車した。セーフハウスに帰還すると、各人は粛々と就寝準備を進める。どれだけ飲んでも羽目を外さないチームだった。早乙女は最近体重が増えたらしく、隠れ食いが原因ではないかと竜崎に指摘されて否定していた。
俺も酒のせいか、体重が増えたな。背も伸びたような気もするが……
歯を磨いて中部屋で就寝準備を終えた山田は、携帯端末を開き、カレンダーのメモにあるToDoリストを無感情に眺める。そこには目の前のタスクを処理するだけの予定で埋まっていた。将来の目標や、それに近付くためのものは何一つなかった。
俺は結局、流されるだけなのか。
転 メディアかアレクトか
二〇三六年、二月中旬。
茨城県守谷(もりや)市、守谷SA(サービスエリア)の下り側駐車場。駐車中のSUVの助手席で、山田は作戦要員から届くメッセージをリストバンド型の情報端末と骨伝導イヤホンでチェックしていた。タクティカルベルトもコートの上から目立たないように装着しており、抗弾プレートが挿入されたプレートキャリアも巨大な手提げバッグに入れて準備していた。
「もうチームリーダーだなんて、出世頭だなヤマちゃん」と、運転席に座る竜崎が加熱式煙草を吸いながら暖房の温度を調整。窓を少し開け、曇り空に向かってタバコ葉の蒸気を吹いた。人工照明なしで活動できるEENT(エンド・イブニング・ノーティカル・トワイライト)の時間が迫っていたが、まだ明るさは保たれており、SAには多種多様な利用客がまばらに行き交っている。
「境さんが不在なんだから、今回だけでしょ」
「おやっさん、セーフハウスにオトメだけ残すのをやけに嫌がるよな? だからオトメと二人で留守番にしたのか、俺達のことを試しているのか……」
「『DOから報告書の内容について指摘があって、急遽参加できなくなった』っていう言い分を信じるなら、今頃セーフハウスで秘匿通信アプリでの会議とかしてるんじゃないかな?」
「まあ、今回は他のチームの応援もあるから良いけどな。姉御と長谷川のチームじゃねえけど……それにしてもなんで俺らの車に乗せちゃダメなんだろうな?」
「さあ? 一時保護するセーフハウスはこっちなんだけどね」
「相手のコードネーム、何て言ったっけ?」
「『堀(ほり)』」
「その『堀』さんは、公共機関や車に自転車、徒歩まで利用しても血盟団を振り切れないから、予定の回収時刻までにこのSAに逃げ込むって話だったよな?」
「『警察だろうが軍だろうが誰が味方か分からない』ってメッセージだったからね。けどそんな張り付かれているなら、やっぱり車で入れるSAは無理だったんだろうな」
「ここは二〇三〇年にスマートIC(インターチェンジ)が併設されたからな。一般道からサービスエリアに直接入ることが可能となれば、その分、悪用する方法も色々ある。高速道路を利用する前提で、そっから一般道に戻ったり、サービスエリアの施設だけの使用はご法度だが、恐らく下道から目立たないように徒歩で侵入するんだろ。逆に都内にスマートICなんてほとんどねえし、田舎なら目立たないからな。五〇キロ先にある俺達のセーフハウスから四〇分程度だし、都合も良い」
確かにSAの高速道路側以外は森や畑、大き目の池に囲まれている。並走している一般道側にも簡単によじ登れる薄い柵しかない。人口密集地とは言えないだろう。
閑散とした土地に囲まれていることを思い出し、山田は「用意していた武器は?」と訊ねる。
「M4を後ろに隠しておいたぜ。ビークルタクティクス用にセットアップしておいた。セーフハウスにあった中では一等まともなヤツだ。ゴルバチョワ戦の時におやっさんがエージェントから借りた七・六二ミリは、整備して返納しちまったからな」
山田が振り向いて下を覗くと、他の銃より銃身が短く、取り回しが重視されたM4カービンが後部座席の下に隠されていた。少し引っ張り出して見ると、引っ掛かりやすいスリングやサプレッサーが外され、三〇発入り弾倉ではなくショートタイプの二〇発入り弾倉が挿入されていた。等倍のプリズムサイトもマウントされているようだ。
「堀さんの言葉が正しければ、ドンパチの可能性もあるからな——お、特徴的にあれか?」
加熱用ホルダーからヒートスティックを抜いて充電器型ケースにしまった竜崎の視線を追う。フードコートなどが内包された大型施設『Pasar(パサール)守谷』から現れた一人の男が、そそくさと別の作戦車両へと向かっていた。厚手の私服は、浮浪者のように汚れている。眼鏡を掛け、僅かに髪の毛が薄くなり始めた、どこにでもいる中肉中背の中年男性だった。バンの助手席にいる要員と言葉を交わしている様子で、後部座席に乗るように言われているのだろう。が、堀はなぜかこちらに向かって足早に接近して来た。
「おいおい、なんでこっちに来るんだ?」
竜崎が疑問を覚えたのも一瞬で、山田が助手席側の窓を開けると、到着した堀は開口一番に訊ねてきた。
「朝日奈から俺のことを知った真田っていう子は君か?」
素直に返事して良いものか、他のチームに連絡しようとする山田に「向こうの車両で訊いたら、『助手席の人間がそうだ』と言われた」と、堀は続ける。
「……確かに、私がそうですが?」
「こっちの車両でセーフハウスに送ってくれ、向こうとは話をつけた……中で渡すものがある」
自身の懐を叩いてみせた潜入スパイに対し、山田は「ちょっと待っててください」と、相手の了承を確認してから窓を閉じた。リストバンド端末の液晶を見ると、秘匿通信アプリのグループチャットに『チーフの方で対応お願いします。本店で待機している店長クラスの関係者としか話せないそうです』というメッセージが流れてきた。店長とは本来のチームリーダーである境のことであり、チーフである山田自身の判断で進めるしかなさそうだった。
「……まだ信頼したわけじゃないから、堀は助手席に乗せる。おかしな真似をしたら、俺が後ろから絞め上げる。走行中の運転手に危害を加える可能性は少ないからな」
「了解、運転以外は任せたぜ。『勝連上がりということも黙っておけ』って、おやっさん言ってたよな?」
「ああ」
外で寒そうに待機する堀に「助手席に乗ってください」と指示、入れ替わる形で山田は後部座席に移動。作戦通り、SAを離れて常磐自動車道へ復帰し、セーフハウスのある北へと向かう。背後からはバンが一台追従し、何かあった際の防衛要員として備えていた。
そして、俺達を見張る「監視要員」でもある、か。
「今のうちにこれを渡しておこう。翻訳した方も一緒に入っている。今回の成果報告書も簡易的にまとめておいた。もしもの場合に備えてな」
クシャクシャになったジッパー付きの黒い薄い防水袋を渡され、山田はいぶかしんだ。
「中身は何ですか?」
「朝日奈から聞いていないのか? 政軍隷属計画のファイルだよ。まだ中は見るなよ。信頼できるチームリーダーとかにそのまま渡してくれ」
政軍隷属。
『これも潜伏工作員の方からの情報ですが、政軍隷属計画は出内機関と血盟団の両方に関わることだそうです』
朝日奈と出会った日に言われた台詞が、山田の脳内で反芻した。ドライバーの竜崎は聞き慣れない単語に敢えて反応しなかったのか、それとも聞き漏らしたのか無言で運転に集中している様子。堀は大きなため息と共にシートに深々と沈み、大きく伸びをした。
「全く疲れたよ。三年間、血盟団のネットワークを探るのは。システムエンジニアとして潜ったからまだ良かったけど、下っ端は捨て駒扱いだからな」
「お疲れ様でした。PCの修理とかを担当していたんですか?」
「いや、俺はAIで血盟団の構成員をかき集めるのが担当だった。まあ、そういう技能があるから、深いところに潜れると踏んでモグラになったわけだが……」
「AIでかき集める?」
「血盟団の候補者集めには、テキストマイニングツールを使用していたんだ。これはブログやSNSで反政府的発言や社会に対して不満を漏らしている人物を効率良く特定するためのプログラムだ。グラウンデッドセオリーアプローチという方法を合わせて内容分析をおこなう。特定のキーワードをふるいにかけることによって、その人物がどういったことに対して言及しているのか炙り出し、政治的傾向が分かるからな。これを厳選と呼び、そこからいくつものカットアウト(中間連絡員)を通じて、要員として獲得する。まさに『MICE(マイス)』の応用だな。だが、そう上手くはいかなかった」
「時間と手間が掛かりすぎるってことっすか?」と、竜崎。早乙女とネットで血盟団候補を日夜探していた彼ならではの意見なのだろう。
「そうだ。ただ量子コンピューターの使用権や待遇に不満を抱えていた人間達を血盟団へと勧誘した際に潮目が変わった。クラウド経由で利用できる量子コンピューターで、とある解析をおこなっていたんだ。簡単に言えば——『民族的イデオロギーの解析』だ」
イデオロギーの解析?
「これによってヘイトマップシステムが完成し、政府は治安維持部隊を事前にヘイトの高まった地域へと派遣することが可能になった。マラードのシステムも流用してな。管理者の中には血盟団のスパイがいるらしい。スノーデンの件で日本は何も学ばなかったところか、日本国民を監視している事実をメディア規制で徹底的に弾圧、陰謀論に仕立て上げた。だから逆に動きやすかったんだろう。そして最終的に、マラードとヘイトマップシステムはAIによるディープラーニングにより、日本人の民族的イデオロギーを学習し、どのようなワードが、どのような思想で、どのような行動を取るのか感情の解析をすることが可能になった」
感情の解析、か。
「それは、日本人の感情がどのようなワードで動くのか分かった、ということですか?」
「そうだ。例えば『卑怯な日本人』という言葉を用いればたった六文字のワードでも、一定層の人間の感情を逆撫ですることができる。これが記事や動画の見出しやサムネイルに使用されていれば、キャッチコピーとして閲覧数が伸びるだろう。次に閲覧者はタイトル通りの内容に感情を支配され、自身が求める答えや反論を探しに行く。自身の言葉を発信してくれている代弁者をな。そして自分の気持ちを肯定し、なおかつ矢面に立って反論する者を見つけ、応援するか、自分の思想にそぐわないものを排斥する準備を始める。その結果、対立構造が生まれ、どちらも影響力を持つ。影響力とはカリスマ性であり、それらはインターネットを飛び出し、現実を侵食していく。俺も関わることで分かったが、昨今のAIキャスターやネット上のAI論客の一部は、血盟団の関連会社が世論誘導のために作成したものだった」
堀は懐から出した食べ物や飲み物を消化しながらも、話すことを止めなかった。
「話を戻すと、影響力を持ったそれら二つが血盟団という同一意思によって創造されていたんだ——丁度、こんな奴らだよ」
車載モニターを指差す堀。山田は液晶の中で、エリートと大衆を代表するネット上の声に耳を傾けながらも、微妙に持論を拡張しようとする二つのAI論客の対話に寒気を覚え始めた。広告が流れると、今や警察や軍、政治家とAIキャラクターが気軽にタイアップし、逆に大衆の指導者としてネット上で祭り上げられているキャラもいた。ビジネスでもキャラを起用したことによる商品売上アップに繋がることが証明されていた。
それが実際に存在するわけでもないのに、人々は代弁者の言葉に流され始めている。
「大衆はマッチポンプに踊らされていることも知らず、二つの象徴によって世論を分断、『対象国』の国民間にポピュリズムの波風を立たせる。AIは生身の俳優と違って不祥事を起こさないし、官公庁がイメージキャラクターに利用するにはうってつけで、交渉はモデリングや動画投稿を運営する企業の担当者と済ませれば良い。つまり、AIを使った購買意欲や国民感情の逆撫で——『AIアジテーション』は可能なんだよ」
「AIによる扇動(アジテーション)、ですか……」
「その成果は既に現れているんだ。昨今、有名人や富裕層、政治家に対する庶民の攻撃が多発しているだろう? これら一連の事件は、彼らが意図せずアジテーションされていることを示している。既に司法は機能せず、キャンセルカルチャーによって私刑に追い込まれ、全ての経歴が晒され自死、つまり自殺に追い込まれる。血盟団の邪魔になる人間は、アジテーションされた大衆が自動的に排除する。ポピュリズムによる席巻と分断だ。エリートと大衆を対立させたその先には、多数決が勝利する退歩した民主主義しか存在しないのに、思想と知能が貧困だと自分が加担していることにも気付かない」
皮肉な笑みを浮かべながらジャンクフードを頬張る堀は、バックミラー越しに山田と視線を合わせてきた。
「この国の多数派とは何か分かるだろう?」
「……高齢者ですね」
「そうだ。憎い敵を叩いているつもりが、自分達の首を絞めて自爆の道を歩んでいるってことさ。民族的イデオロギーのデジタル化に成功した二二世紀のクーデターは、AIで事足りるだろうな。既に俺達のようなヒューミントによる革命は時代遅れってわけだ。陸海空宇宙サイバーの次、『第六の戦場』である『認知領域』——その認知戦にAIが利用されることをウクライナ戦争で世界中が知った。敵国の内部を崩壊させるなら、まずその国家の民族的イデオロギーを量子コンピューターに解析させれば済むんだ。人の感情を動かす波を人工知能は理解できなかったが、一定の方向性をディープラーニングさせることは可能だ——それは『怒り』だ。単純で最も強い感情だからAIにも理解できた。あと少し経てば、喜びや悲しみなどの複雑な感情までコントロールできるようになるだろうな。エンタメコンテンツは全部AI生成に置き換わるんじゃないのか?」
山田は幼い頃から自分を形作ってきたコンテンツを否定された気分になり、反論したくなった。
「小説や漫画、ゲームや映画などをAIに作成させても人の心を動かすことは難しいと言われています。やっぱり、最後は人間の手が加えられないと……」
「否定したい気持ちは分かるが、世に出ている人為的に作成されたとされるコンテンツが本当に『人の手によるもの』だと言い切れるか? 苦労している製作者の顔を直接観たことがあるのか? その人間が本当に作っているのか分からんだろう。『大衆に売れる作品の傾向』なんて、起承転結とか三幕構成で既に解析されているじゃないか。ちなみに少し前から人気の『クラフトアドベンチャー』ってゲームがあるが、あれはAIによってプログラムが組まれたらしい。それに人間達が群がっているんだから、これは『楽しい』って感情をAIが作り出せているのと同じじゃないか?」
「それは……」
山田はこれまで触れてきた創作物に思いを巡らせる。多くのコンテンツ、特に日本のクリエイターは顔を隠すことが多い。それでも作品の魅力が失われることはないが、全て機械の手によるものだとしたら……
「感情の解析を応用すれば、対象国家の民族をコントロールし、自国から直接スパイを送り込まなくてもAIによって間接的にクーデターを発生させることが可能だという演習結果も出てきた。その限定的な演習はつい最近、日本でおこなわれた」
「日本で?」
「ヘイトマップシステムがその成果の一部だ。あれは政府主導で開発された暴動指数を示すアプリとなっているが、実際は血盟団が入り込んだ民間の業者に委託して製作されたAIツールだ。虚偽のパーセンテージや地域を指定すれば、治安維持部隊の誘導だけでなく民間人をテロに巻き込むことも可能になる。これは既存の技術の流用だ。君達の世代なら、位置情報とリンクしたスマートフォンのアプリゲームを知っているだろう? 実際に現地まで移動しなければレアアイテムが手に入らないとしたら、多くのプレイヤーはアイテムが消える前にその場所に集まる。そこに爆弾をセットすれば、アイテムが出現する時間に起爆するだけで多くの犠牲者が出る」
「なんてこった……確かに精度の悪いアプリだとは思ってたけどな」
「君達に話したことはクリティカル・インテリジェンスだ。俺に何かがあった場合、君達が信頼できる人間を通し、政策意思決定者まで報告するんだ」
「信頼できる人間って……出内機関のDOやDIでは駄目なんですか?」
「俺が今回、潜入を計画したのは血盟団側のエージェントを探るためでもあった。さすがにエージェントのリストは作られていないようだったが、軍の情報保全隊や公安警察、政府や情報機関、東京地検特捜部や各マスメディアには奴らの手先が潜り込んでいた。出内機関も例外ではない。スパイの特徴もさっきのファイルに入っている。俺が君らにこのことを話したのは、朝日奈が信頼できるジャーナリストで、そのジャーナリストが『信頼できる』と言ったケースオフィサーだからだ。君と、言葉遣いの悪い同僚をね」
「言葉遣いの悪い同僚」という言葉に、竜崎は「俺のことかよ」という表情で、口をへの字に曲げていた。
「分かりました。アプリを閉鎖して、運営側を取り締まれば、ヘイトマップを利用したテロを防げるわけですね?」
「いや、事態は複雑なんだよ。『日本人の民族的イデオロギー』が解析された演習データが、近い内にロシア側へと引き渡されるらしい。ロシア諜報団のスパイマスターを通してな」
「もしそんな新型の心理戦兵器みてえなのが、他国に渡ったら……」
「敵国でAIアジテーションによるクーデターを発生させ、国内を分断。反体制側の地域に自国民の保護などを理由に侵攻、占領して住民投票を行い、独立させた後に傀儡政権を樹立、自国と一部を併合させる——日本で人口減少が進み、ロシアに近く、過疎化から移民政策を取り入れ、なおかつ本州と分断しやすい行政区域はどこか分かるか?」
そんな場所は一つしかない。
「北海道……!」
「なんでも完成した第二青函トンネルを日本とウクライナの首相が、近日中に視察するらしいじゃないか。血盟団は演習データと引き換えにロシアの諜報団から大量の武器を仕入れる約束らしい。北海道やトンネルには、少し前から血盟団構成員やロシアの傭兵が集結しているみたいだ」
山田は民間人の格好をした兵士や、国防軍兵士の戦闘服に偽装した人間達が一斉に蹶起する場面を想像する。どのくらいの規模なのかは不明。通常であれば弾圧されるだけ。しかし、人質や他国の支援があると話は別だ。
「ここまではモグラとして集めた情報だが、俺の予想ではトンネルで首相を始めとした政府要人を人質に取り、北海道にいる警察や日本軍、現地に向かう在日米軍の動きを遅延させる。トンネルを封鎖して本州と分断、一時的に孤立させた後、重武装化した血盟団や傭兵連中が北海道に駐在する軍や治安部隊、盾となる民間人を拘束し、その隙にロシア軍を招いて占領するつもりだ。その間も演習データを使って北海道や本州にAIアジテーションを発動し、道内の分断や本州からの孤立を煽る嘘の情報をネットメディアに撒き散らす。北海道全土は広すぎて無理だが、逆に広すぎる土地の一部を切り取り、占領することはできるだろう。日本国民に蔓延する政治不満を利用し、独立国家としての魅力をアピールする戦略も使うかもしれない。『若年層のための政治を追求する』とかな」
「それが政軍隷属計画なんすか?」と、竜崎。
「いや、それとはまた別の話だ」
「ですが、どうしてこの日露和平交渉のタイミングで?」
「このタイミングだからこそ、二島返還を許さないロシア政権内の過激派が行動を起こしたのだと俺は推測している。AIアジテーションによるクーデターが失敗したにせよ、こんなことが起これば和平交渉や北方領土の返還なんて百年先まで無理になるだろう。それに日本国内での分断は国際的地位の低下に繋がる。歴史的に、ドイツや韓国の統一が評価されたのとは真逆の現象が起こるだろう」
「でも、日本軍を撤退させても在日米軍部隊がいるんじゃ——」
「……いや」
その台詞に山田は竜崎の横顔を覗く。表情に焦りを見せ始めた彼は、自然とアクセルを強く踏み込み始めた。
「北海道は軍事基地が日米共同使用ってだけで、常駐している在日米軍部隊はいねえんだよ……! それにヤマちゃん、トンネルの視察って確か——」
そこで竜崎の言わんとしていること、境から「気にするな」と忠告されていたイベントの予定日が重なった。
「まずい、境さんの情報では視察は今日の午後だ! 今すぐメッセージを——」
山田は携帯端末を取り出し、即座に通信アプリを起動する。が、振り向いて来た堀によって、液晶に触れた手を止められた。
「待て、君らの上司は境正義(さかいまさよし)か? あの有名なスパイマスターの」
「正義というファーストネームは初耳ですが……初老で強面の人ではあります」
「やっぱりそうか」
堀は一人納得したように言い切った。
「いいか? 境正義は血盟団のスパイだ」
山田の中で、時が止まった。その後、心拍が上がる。それは竜崎も同様だったようで、ハンドルを動かす肩が浮き、明らかに動揺していた。車内が暖気とエンジン音だけになっていた。
「昇進のために、元血盟団の人間を利用したマッチポンプをおこなっているらしい。最近だと強制収容施設に拘禁した構成員を仮釈放して、自身の支配下に置いているとのことだ。元犯罪者を捜査機関側に引き入れることは珍しくはない。捜査協力という名目で出内機関に浸透させて、捜査情報をリークするつもりなんだ」
思い当たる節が多い計画に、山田は息を呑む。同時に、なかなか訊き出せなかったことを引き出すチャンスだと感じた。
「それが昇進に繋がるんですか? いや、その前にそういうことをやって評価された人がいるんですか?」
「君らが上司を尊敬しているなら申し訳ない。けど、ケースオフィサーとして従事させるかは別として、強制収容所の元構成員を利用する計画は以前にもあった。グアンタナモ強制収容所に拘禁された七七九名の内、有罪だったのはたったの五名だからな。その反省から『敵性戦闘員』の有効活用を始めたわけだ。でも結局は諜報員課程を修了できる人間なんていなかった」
「諜報員課程っていうのは、インテリジェンス課程のことっすか?」
「今はそういう名前に変わっているのかもしれないが、ようは在日米軍キャンプで受ける秘密戦教育のことだ。境は日本にしかできない諜報戦を重要視して、欧米諸国のいわゆる『スパイ学校』や『スパイ教育』と一緒くたにされることを嫌うからな。君らも受けただろう? 出内機関という名称だって最近のもので、それまでは『嫌悪な部隊』って呼ばれていたんだ。だから今まで誰も成し遂げられていない『強制収容所上がりの人間を要員にまで育て上げた指導官。敵を味方につけた偉大なケースオフィサー』という功績と前例を作ろうとしているのだろう。今はスパイマスターなのかもしれないが、現場要員の俸給(ほうきゅう)なんてたかが知れている。退職金だって違うんだ。あの人は出内機関創設当初の頃から有名なケースオフィサーだったから、機関長から表彰されれば部長クラスである指定職の1号俸くらいまでは部内昇任するんじゃないか? もう何十年も前から出内機関の諜報員はインテリジェンス・コミュニティーで敵対視されていたから、昇任を遅らせるような嫌がらせもあったしな」
山田は、はからずも大川原化工機事件のことが頭をよぎった。
「……ですが、血盟団が復活したのは経済が低迷した最近の話ですよね?」
「何言っているんだ? 血盟団が誕生したのは二〇〇三年に米国がイラクに侵攻してからだ。最近の教育では教えてくれないのかもしれないけどな」
次第に辻褄が合わなくなっていた。収容所やスパイ学校で聞いた話とは異なる展開に、山田の脳は混乱。運転している竜崎も、恐らく同じだろう。
「なら、血盟団は一体誰が作ったんですか?」
「俺も気になっていたが、血盟団に潜ったおかげでようやく分かった。血盟団を生み出したのは、かつての出内機関であり、血盟団の目的は日本と出内機関を内部から破壊することだ」
山田は愕然とした。
血盟団を作ったのが、出内機関?
以前、竜崎が血盟団に送ったメールで篠原という名前があった。それ自身、境が血盟団と何かしらの関わりがある裏付けとなっていることは事実だろう。このことを出内機関は把握した上で任せているのか、それとも……
「信じられないっすよ……俺らが……」
「正確には、元出内機関のケースオフィサーである『篠原』という男が復活させた。境とは旧自衛隊時代からの同期で相棒だったらしい。今は血盟団の最高幹部であり、指導者だ。俺の筋書きでは、多分二人とも危機意識のない日本のインテリジェンスや国防に嫌気が差し、独自に動こうと思ったんだろう」
そう言われると、怪しい動きも多々あったかもしれない。
けどもしかしたら、堀の方が血盟団に懐柔されたスパイで、自分達を混乱させようとしているのかもしれない。しかし、それを判断する材料は自分達には、ない。
なぜなら、当の本人である境がニード・トゥ・ノウの原則に従い、何の情報も与えないから。
そんな状態で一体、何を信じれば良い?
「自衛官時代は二人とも、第1空挺団という部隊内に準備された実験的な班に所属していたという噂があった。米国特殊部隊を模範とするG班と、英国特殊部隊を模範とするS班で、一般的にはG班が今の特殊作戦群の前身にもなったと伝えられているようだが、実際にはS班が採用され、解散したG班メンバーの一部は極秘の諜報任務に携わることになったんだ。それが——」
「ビークル! 後ろだ!」
◆
カーチェイスを生き残り拠点へと帰還できたのは、夜の帳が下りた後だった。止血帯と包帯、ダクトテープで可能な限りの応急処置をしたものの、堀の容態は悪化。薄く積もった雪をSUVで蹴散らし、セーフハウスの二階リビングまで山田は竜崎と二人で堀を運び込んだ。するとその間、堀が蚊の鳴くようなか細い声で忠告してきた。
「出内機関の中に、ロシアと血盟団のスパイがいる。暗号名は……『アレクト』だ」
アレクト。ギリシャ神話における女神であり、意味は「止まらない女」だったか? 幸い、うちのチームに女性は不在だが……
動線はあらかじめ状況を連絡しておいた境と早乙女が確保済みであり、テーブルにはAED(自動体外式除細動器)が設置されていた。二人はなぜか灰緑色のアサルトスーツにタクティカルベルト、プレートキャリアに対赤外線加工が施された黒いフェイスマスク、そしてヘルメットまで着用していた。
失血して意識レベルが低下している堀を簡易的な担架が敷かれたテーブルの上に乗せると、感染防止用の青色が目立つラテックスの手袋をした境が言う。
「お前達は装備を一旦外し、お互いにブラッドスイープ(全身観察)をして負傷がないかすぐに確認しろ。終わったら俺達と同じ格好をしろ。敵が来る」
堀のプレートキャリアを脱がし、注射器型止血装置「XSTAT(エックスタット)」を取り出していた。言われた通り山田は、プレートキャリアとタクティカルベルト、私服を脱衣。頭の上から首や四肢、胴体を直接手で触れながら出血箇所を探すブラッドスイープをおこなう。
「『防弾ベスト外傷』っすよね? 撃たれた時の『三〇秒以内にチェック』は一応したっす」と、竜崎。
山田も竜崎の身体をチェックしながら報告する。
「相手は全て拳銃弾でした」
「BABT(ビハインド・アーマー・ブラント・トラウマ=貫通を伴わない鈍的外傷)はなさそうっす」
「余裕があれば抗弾プレートも確認しろ。銃弾のエネルギーで最大四センチはへこむ」
境にXSTATの先端を創傷に突っ込まれ、大粒の錠剤のようなスポンジを体内に流し込まれた堀は絶叫。スポンジの主成分は抗菌作用のあるキトサンであり、水分を吸収して急激に膨張、そのまま創部や血管を圧迫止血するという仕組みを山田は以前説明されていた。
「何回か吸って吐いてくれ、ヤマちゃん」
「フレイルチェスト、心臓震盪もなし」
ほとんど裸の状態から、リビングの隅に置かれた『山田:アサルト』という赤いタグが巻かれた大型バッグを手に取り、『竜崎:アサルト』というバッグを本人へと投げ渡す。中にはアサルトスーツや戦闘用のフルアーマープレートキャリアを始めとした物品が入っていた。なるべく隠密を守らなければならない青いタグの『ステルス』作戦用とは別で、周囲の状況を気にせずに作戦を遂行するために用意された装備だった。最悪、中身を確認せずとも現地で合流できるようにと境から言われ、日頃から入り組み品を揃えていたことが功を奏したようだ。
「そのまま聞いてくれ。実はかなり厄介のことになった」と、境。顔面が蒼白となっている堀の頭部と両足の下には、高めの枕が敷かれた。更に、車内でも経口させた麻酔成分を含んだフェンタニルキャンディーを追加で口に放り込まれていた。
「厄介ごとには慣れてるぜ」と、素早く装備を身に纏う竜崎。
「そうだな。だが俺達は恐らく、DOのQRF(緊急対処部隊)到着までの一〇分間、このセーフハウスで籠城戦をすることになる」
「敵は血盟団ですか?」
「もっと面倒な連中だ——早乙女」
いつの間に消えていた早乙女が巨大なバックパック、そして随伴するMGVにあるだけの火器と実包を積載して登場。良く見ると、キャタピラ式のMGVはゴルバチョワ戦で鹵獲(ろかく)したものだった。
「どうやら僕達の居場所が竜神大吊橋の一件から露呈したようです。血盟団の追っ手は撒いたようですが、以前調査していたダークウェブとは別のロシア系サイトで、ステガノグラフィーを発見しました。さっき暗号解読を終えたところ、日本に潜伏している『ルドゥート』の戦闘員に対して僕達の排除を命じたものでした。どうやら今日の日没から行動を開始するようで、逆算するともう時間がありません」
「ルドゥート?」
「ロシアのPMSC(民間保安会社)だ。かつてワグネル・グループという別のPMSCがあったが、解体されて多くの構成員がルドゥートに流れた。実態はGRUの尖兵であり、ロシア軍や諜報機関の元スペツナズ——つまり特殊部隊員が多い。バッハがSVRではなくGRUだと仮定するならば、命令を出したのは奴かもしれない」
「よりによってスペツナズかよ……日露和平の流れに逆らうっつーことは、なかなかの過激派だな」と、床に置かれたM4カービンを拾い、空の弾倉に実包を込め始める竜崎。
「お二人のカーチェイスによって、こっちの詳細な位置情報が暴露した可能性もあります。そこでDOからこのセーフハウスの廃棄が通達されたみたいで、境さんが『第三段階破棄』を発動しました」
第三段階破棄。情報端末も含め、全てを破壊すること。
フェイスマスクを着用し、ENVGが装着された軽量ヘルメットを被り、顎紐のバックルを嵌め、全ての身支度を整えてから、他の空弾倉に実包を込める山田。境は呻き声を上げる堀の足の先端から、大腿部の付け根まで包帯を螺旋状に巻いていた。
「お二人が来る前に、持ち出せない情報媒体の破壊は七割完了しました。PCや書類、装備をまとめた後、この建物ごと焼却処分する予定でしたが、さすがに時間が足りません」
早乙女はバックパックの中に、自分達の使っていたノートPCや記憶媒体をまとめていた。他に最低限の紙媒体やスタンドアローンのノートPCも混ざっているらしく、ケースオフィサーとしての痕跡が分かるような物品も大量に詰め込んでいるようだ。彼は時折、プレートキャリアの胸部パネルを開き、一体化している液晶タブレットを覗くと「まだ反応はない……」と呟いていた。
「ここにあるまともな銃は、ゴルバチョワのチュカビナライフルに耐用年数の過ぎたM4A1カービン、経年劣化した破片手榴弾が残り一個と、おやっさんが全員分用意してくれたFNX45ピストルくらいだ。89式と64式小銃は銃身がちと曲がってるし、照星、照門が欠けてる上にグリップとストックもガタガタだ。あくまで予備や接近戦用に使った方が良いぜ」
「それならUGVに一丁、搭載しましょう。遠隔操作で射撃できるようになります」
64式小銃をドローンに搭載し始める早乙女。その作業の手伝いにまわる竜崎。山田は「台所で経口補水液を作ってくれ。三リットル入る」と、境から空のハイドレーションバッグを投げ渡された。
「了解」
ランナーや登山家が愛用するホース付きの背負い式給水袋のキャップを外し、緑色の袋部分が完全に膨らむまで、山田はシンクの中で水道水を入れ続ける。その間にリビングを見渡すと、市販品の経口補水液が入ったペットボトルが何本か空になっているのが目に映った。
「青いボウルが塩で、黒い方が砂糖だ。ボウル皿の上に中身を全て出しておいた。三リットルなら塩は三つまみ、砂糖は三つかみで良い」
「了解」
パンパンになったハイドレーションのキャップを閉める前に、言われた通りの分量を投入する山田。一リットルの場合は塩四グラムなので一つまみ、砂糖四〇グラムとなり一つかみとなる。これらを水に混ぜるだけで、普通の水より二五倍も速く体内に吸収される経口補水液が完成することを事前に教えられていた。吸収された水分をもとに体内で血液が生成され、薄まることなく血液量が増量するという仕組みだった。
境は堀の両腕にもミルテックを施していた。山田がハイドレーションバッグを渡すと、堀の口からキャンディーを取り出し、「ゆっくり飲み続けろ」と言って代わりにホースの先端をくわえさせる。そして、液晶タブレットとリンクしたポケットエコー(超音波装置)で胴体を観察しながら、話を続ける。
「外と一階は危険すぎる。CQB(クロース・クォーターズ・バトル=近接戦闘)においては基本的に上を取った方が有利だ。建物の性質上、階段やエレベーターの場所が固定されている上に移動速度が落ち、突入する人員も限られる。野外においても隠掩蔽(いんえんぺい)に注意すれば、高台からの一方的な狙撃が可能だ。屋根の上や梯子を伝って最上階から侵入するのがベターだが、開豁地の中央という立地を考えれば突入班と火力支援班に分かれ、十字砲火の隊形を維持しながら一階から制圧するだろう。人質も居ない場合、最初は離れた場所からドローンによる偵察を行い、火力支援班が数分間の射撃を始め、撃ち終わりと同時に突入という流れがベーシックではある」
「相手の規模は推定できますか?」と、早乙女。MGVと小銃の接続が完了したようで、手持ちのタブレットで銃口の向きをコントロールして見せた。
「セーフハウスの間取りを把握している可能性は低いが、屋内への突入における最低人数は、その建物内で最も大きい部屋を制圧できる人員数だ。幸い、台所のある一階のリビングは八メートルと六メートルのせいぜい四八平米、四人で事足りるだろう。そんな人数で来るとは思えないが、奴らの狙いは恐らく俺達の排除と情報の取得だ。いきなりロケット弾や放火という手段を取るとは思えない——全員、無線機の導通点検を済ませておけ。コールサインは前回と同様、俺が一〇、早乙女が一一、竜崎が一二、山田が一三だ」
《一一、OKです》
《一二、了解っす》
《一三、了》
その瞬間、セーフハウス内の全ての電源が消失。室内が闇と静寂に包まれる。山田はタクティカルグローブを嵌めて、ヘルメットのENVGを下ろし、起動。境は青色のLEDライトを堀の胴体に当てる。青い光で血液を照らすと黒く見える特性を生かし、出血部位の最終確認をしているのだろう。他の二名もENVGを起動。89式小銃を抱き寄せた早乙女は胸部パネルの液晶を確認していた。シミ一つない白い顔が、液晶のバックライトで照らされている。
「外に設置した自律飛行型のMAVと監視カメラに反応はありませんが……一応、二台のMGVは一階で待ち伏せ、警戒型の飛行ドローンはセーフハウスの裏で監視させます」
「電線が切られたか……暖房も利かないな」と、境。ポケットエコーを片付けると、山田にチュカビナライフルを譲ってきたので、背負い紐で肩に掛けた。
「だが一気に突入してくるわけではなさそうだ。向こうも準備が整っていないのかもな——竜崎と早乙女は二階の窓やベランダから見付からないように外を見張れ。山田は俺と来い。VIPを奥の寝室にある押し入れに隠すぞ。このセーフハウスの最終防衛ラインだ」
各々が「了解」と答え、山田は堀の足側に回る。担架の両下端を持って、逆側にいる境の誘導に従い、廊下に出た。
「山田、堀がメッセージで送ってきた『成果』とは何だ、何か預かったか?」
「いえ何も、成果が何なのかも聞いていません」
思わず反射的にそう答えてしまい、一瞬の間が空いた後、境は「そうか」とだけ答えた。
まさか、「あなたが敵のスパイかもしれないからです」とは言えない。
奥の寝室に入り、担架を下ろす。境は押し入れを開け、中にあった毛布やマットを平らに伸ばし、上体が寄り掛かれるように羽毛布団を丘のようなフォルムに成形。山田は境と協力しながら、堀を羽毛の丘に寝かせた。
「俺達が来るまで隠れていろ。一〇分以内に必ず助けに戻る。それまで動くな。止血帯も緩めるな。寒さや痛みがあるだろうが、もう少しの辛抱だ」
朦朧とした状態で僅かに頷く堀。ハイドレーションバッグとフェンタニルキャンディーを抱えさせたまま、境は呼吸ができるギリギリの位置まで掛け布団を引っ張り上げ、周囲の毛布でミノムシのように包み、襖を閉める。最後は近くにあった大きなタンスを動かし、押し入れごと隠蔽。担架をリビングまで運び出す中、境は所見を述べた。
「パルスオキシメーターで血中酸素飽和度を測定し、止血も確認したが、VIPのショック状態は変わらない。エコーのデジタル所見には『心タンポナーデ』という表示はなかった。それが間違いだった場合、心停止まで五分から一〇分らしいが……」
「その場合は、AEDを使っても良いんですか?」
「分からん。俺の知識やお前達に施した教育は、医療従事者に引き継ぐまでに傷病者をもたせることが目的だ」
確かに境はケースオフィサーであって医者ではない。一般人より知識はあるだろうが、あくまで応急処置がメインなのだろう。
「やれることはやった。後はQRFが到着するまでの耐久戦だが……やはり装備が足りないか」
境はそこまで言うと、唐突にヘルメットからENVGを外し、プレートキャリアや靴まで脱ぎ捨てていく。雑草取りや屋根の修理時に使用していた地下足袋(じかたび)を履き、ゴルバチョワが使用していた物を加工して作った対赤外線仕様のギリーフードを被って、タクティカルベルトから装備を外していった。
「どうするんですか?」
「俺は火力支援や増援阻止を担当している連中を排除してくる。突入班はそっちで対応してくれ。早乙女には伝えたが、俺のスーツやギリーフードには敵味方識別用のIRテープを貼っていない。暗視装置を通すと視認されるからな。逆に相手の装備が整っていれば、ENVGで確認できるはずだ。骨伝導イヤホンと無線機は一応持っていくが、応答は期待するな。突入班とは離れた場所で戦うことにはなると思うが、誤射するなよ?」
境は保管されていたグレーのタクティカルベストに、ナイフやサプレッサー付きFNX45ピストル、フラッシュライトの他にダクトテープやワイヤーロープも取り付けていく。雑木林の伐採に使用していた手斧まで持ち出し、レッグポーチに固定。ジャンプしたり伏せたりして、衣擦れや装備が邪魔になったり、音が鳴らないか確かめていた。上腕と大腿部に備わっている止血用パラシュートコードを引っ張る動作を見ながら、山田はチュカビナライフルの負い紐を肩から外す。
「……信じて良いんですよね?」
チーム全員で戦った作戦、過ごした休日。
そして思わぬ場所で竜崎と聞くこととなった、境の本音と姿。
それは嘘ではないはずだ。嘘ではないと思い込みたい。
しかし、一流のスパイなら容易く欺くことができる。
意外なことを言うものだな、とでも言いたげに、境はこちらに視線を向ける。
まさか、この状況を機に一人で——
「ああ、信じろ。今だけはゼロトラストじゃない」
折り畳んだ担架を脇に挟み、階段を下りていく境。その背中を見送りながら、山田ふとプレートキャリアの上から自身の胸を手で押さえた。
アサルトスーツの内側には、書類入りの防水袋が眠っていた。
◆
——穴熊を決め込んだか。全く、虫唾が走るな。
「君は監視役か、ヴォルガノフ。それとも借りを作りたくないだけかな?」
何も答えずにいると、用意できる限りの最新式装備で固めたロシア傭兵達のリーダーは柔和な笑みを浮かべた。GRU特殊軍事外交アカデミー出身らしいこの男は、人の警戒心を解く訓練を施されているのだろう。
「まあいい、逃げ込んだモグラと『ファイル』の処分はそちらに任せる。予定通りマサヨシ・サカイとこちらのサセードの回収を始める。eVTOL(イーブイトール)のAPU(補助動力装置)を始動しておけ」
敵の戦闘員が根城にしている民家から、およそ三〇〇メートル手前の林内。指揮者の流暢なロシア語の命令に反応した一四名と、一匹からなるコントラクター(契約戦闘員)達が、一斉に動き出す。中途半端に積もった斑雪(まだらゆき)が葉から零れ落ちた。
まるで冬眠から目覚めた獣の集まりだな。
人の世界に戻ることができなくなった傭兵達。
モスクワの意向ではなく、ウクライナ侵攻で「爪弾きにされた」国家主義者で編成された厄介者達の部隊。
サプレッサーを装着したロシア製のAKに機関銃。防弾性を重視したフルアーマープレートキャリアに、赤外線モードが搭載された暗視装置を装着した軽量ヘルメット。そして人相を秘匿した対IRフェイスマスクとアサルトスーツで完全武装し、猟犬まで随伴させた奴隷達によるコンサート。
彼らは奴隷の中から選抜された「もっとも賢い奴隷」によって統率され、静かに行進を始める。ヴォルガノフはヘルメットから両眼タイプの暗視装置を下ろし、リストバンド型の通信端末からメッセージを送信。少し離れた場所に駐機させている帰りの便に、出立の準備を進めさせる。ヘルメットと一体化している顔全体を保護する透明なバイザーに、顎まで覆う強固なフェイスガードを鼻先まで引き上げ、合体。はたから見ればバイク乗りが被るフルフェイスのヘルメット。だが、その材質は鋼鉄の一五倍の強度を誇る超高分子量ポリエチレンで構成され、五・五六ミリNATO弾に対しても防弾能力を発揮する代物だった。
草葉の陰で携帯端末の液晶を操作していたコントラクターが、首の前で手刀を斬る仕草をする。どうやらドローンが叩き落とされたようだ。
「ジャミングか」
「ですが、こっちも向こうの蠅を潰しました」と、ジャミングガンをAKの下部に装着していた傭兵が報告する。
「ならば、古き良き『即興演奏』といこう」
「バッハ」の名に因んでいるつもりなのか。痛々しい奴だ。
優雅にも見えるゆっくりとしたハンドサインによって、傭兵達は二手に分かれる。ここから最も近い著明な道路を封鎖する増援阻止班と、目標建物に侵入して制圧する突入班、残りは火力支援班として猟犬と共にこの場に残り、包囲網から逃げ出す敵(リーカー)に対応するのが主な任務だろう。
「ここは『にほんの里』という名所にも選ばれるほどの田舎だったが、今は人の姿が消えた集落となっている。寂しいものだ」
突入班に紛れ、ヴォルガノフは雑木林を進んだ。
干乾びた棚田に面した林縁が見える位置まで来ると、突入メンバーの一人が大層なバックパックを下ろした。数名で協力しながら大型のMGVを取り出し、組み立てる。抗弾プレートやベルト給弾式五・五六ミリマイクロガン、そして山ほどの実包が詰まった弾薬箱を数箱搭載した後、制御用の長い有線を本体と接続。極細の有線が巻かれたドラムとコントローラーを調整。一連の準備を済ませた後、本体のカメラ映像が出力される液晶と一体化したコントローラーを操り、高台の上に建つ家屋へと前進させた。すると、すぐに妨害電波を検知。しかし、無線を用いずに制御できるMGVには何の意味もなさない。今度は抑制された銃声が響き、本体に命中。それでもわざと目立つ畑を掘るように突き進むMGVのキャタピラは止まらない。動作に直結する機構部をプレートで防御された重MGVは、速度と引き換えに堅牢な移動砲台と化していた。本体や周囲にも次々と銃弾が穿たれるが、極細の高透過率ワイヤーがあらゆる衝撃をいなす。切断や銃撃に耐える「太い有線」とは逆転の発想で生まれた、人的資源を重要視するイスラエルの科学技術による産物だった。
「どうやら彼らの装備は貧弱らしい。火力支援開始、二分間。ゴルバチョワへのレクイエムだ」
《了解(ダクトーシュナ)》
位置を特定されないように、MGV以外は曳光弾の使用が許可されていなかった。目標建物の一階や二階に対し、火力支援チームからの苛烈な機関銃掃射が開始される。閑静な谷津田(やつだ)に苛烈な銃声が轟き、演奏が開始された。アンサンブルには重MGVの多砲身電動マイクロガンが加わる。目標の家屋に照準すると、肉眼で目視可能な赤い照準用レーザーが木造の壁を鈍く照らす。そして瞬間的に多量の銃弾がばら撒かれた。航空機の機関砲に近い銃声も相まって、敵に恐怖を植え付け、投降を促す意図もあった。
その破壊力はまるで、巨大なチェーンソーが古民家を横一文字に切り裂いていくような光景。
穿たれていく曳光弾が時折、四方八方に跳ねて夜空に消えていく。閃光に近い直線の火花が連続投射され、弾道が闇に溶け込んでいた畑や森を照らす。暗視装置を使わずとも視認できる明確な殺意。真紅とピンクを混ぜた色彩を煌めかせる灼熱の弾頭は、もはやSFに出てくるレーザーのような芸術性まで醸し出している。
暴力の嵐だ。人質や回収要員を考えない雑さは実にロシアらしい。
傭兵達はサプレッサーを嫌うが、その理由が「オーケストラの邪魔になるから」というものだと初めて知った時、ヴォルガノフは自分を超える異常者がこの世にいることを初めて実感した。しかし、しばらく経つと火力支援が唐突に中断された。バッハは無線で増援阻止チームに確認をとり、交替するように呼び掛けていた。
やられたか。篠原は「残念だが彼の部下は殺される」と言っていたが、果たして予言通りになるか。
ルドゥートの傭兵は重MGVの機銃を二階に向け、正面から横薙ぎにする。その間に二個分隊八名の突入チームが林縁を抜け出し、一気に目標建物の玄関前まで移動。闇夜に炎上する弾痕まみれのバンの横を通過する。ヴォルガノフはバッハの後を随行した。一個分隊が折り畳み式の梯子を取り出して展開し、二階ベランダを目標に立て掛ける。が、室内から何かで押され、梯子の先端にある鉤爪が引っ掛からず、断念した。
そこで玄関を挟む形で二つの分隊が突入隊形(スタック)をそれぞれ組み、背負っていたグローインソフトアーマーの垂れた防弾盾を傭兵達は取り出す。MGVを回収したスタックは丁度残弾を撃ち切ったマイクロガンをMGVから外し、ドラム型弾倉を装着した軽機関銃へと換装を始めた。一分間に数千発を消費するため、あくまで敵に対するサプライズに留めるつもりだったのだろう。換装を終えると玄関からMGVを突入させ、ドローンオペレーターが内部の偵察を始める。その間に人が一人分隠れられる盾を構えた傭兵が先頭に立ち、なるべく身体を晒さないように拳銃を突き出しながら縁側を警戒していた。正面に大型のストロボライトが複数搭載されているライトシールドなので、敵の視覚や照準を阻害することが可能なのだろう。今は単純に敵の捜索に使用しているようだった。バッハは前腕に小型の盾を装着、拳銃で武装していた。抗弾プレートが仕込まれており、ヴォルガノフ自身が装備しているフルアーマープレートキャリアと同じ耐弾性能があるらしい。家屋の中で何度か銃声が響いた。
閉ざされたドアの枠に銃弾を撃ち込むことで、トラップの反応を窺っているのか。
《一階の廊下、角部屋、リビングに人影はありません。ジャミングで停止しているMGVが一台。後はドアの閉まった部屋だけです》
「良し、まずは一階から制圧する。突入しろ」
バッハの命令で、盾持ちを先頭に戸口から二個スタックが廊下へと侵入。前方の二階への階段を避け、右回りでルームクリアリングを開始するようだ。右側のスタックは襖を挟む形で待機。その間、壁通過型感知装置を襖に押し当て、内部の心音の数を検知している。廊下を挟んで左側にある襖は、もう片方のスタックが開いて突入。狭い和室のようで、生活感はあるが目ぼしい物は何もないようだ。和室を制圧したスタックの内、二名がMGVと役割を交替。残りはもう一つのスタックと合流し、MGVを先頭にエントリーを開始。中部屋と思われる畳の間へと突入する。傭兵達がハンドシグナルのみによる無声指揮によって、止まることなく制圧していく。その様をヴォルガノフは背後から見学した。
「美しいだろう? 我々は演奏経験が豊富だ」
どうやらこの音楽家気取りは、黙って指揮を執ることができないらしい。
安全化が完了したことを示すIRケミカルテープが壁に貼られていく。それらをヴォルガノフは見て回る。持ち出しの難しい大型モニターなどの機材は徹底的に破壊されていた。その他のあるべき生活雑貨も廃棄されるか回収されているようだった。若干の例外はあるが、元々、整理整頓の行き届いた空間だったのだろう。
和室。中部屋。広間と縁側の渡り廊下。リビングに台所。脱衣所と洗面所。
最後に風呂場やトイレに角部屋——ほぼ全ての居住区域をクリアリングし、動かなくなった連中のMGVを引っくり返す。残すは二階のみとなった。スタックは全員廊下に移動。人ひとり分の横幅しかないストレートの階段。その上り口に集結する。両サイドを挟む隊形になった。先行させたMGVから送信される映像をドローンオペレーターがバッハに見せていた。どうやら階段を上りきって右側に出る構造となっているようだ。
「閉所なので後ろを取られないよう、踊り場で待機中です。準備が良ければトラップのチェックを始めます」
「始めろ」
上階から銃撃音が届いた。ドアに向けて発砲しているのだろう。チェックを終えると、《直線の廊下にドアが四つ。全て閉じている。ドローンは最上段で待機中》というロシア語の無線が入る。その報告でスタックが動き出した。ストロボ点灯させた盾を先頭に一個スタックが階段を少しずつ上り始める。MGVの映像では突き当たりのドアにスタックが到着したようで、残りのスタックも階段の下から詰め始める。ドアの開閉を確認した後、閃光音響手榴弾(スタングレネード)を投げ入れる様子が映し出された。そのまま突入し、内部のサーチングを——
瞬間、爆音を伴う地震が起こった。家全体が揺れる衝撃。しかし震源は地下ではなく、二階だった。複数人が倒れるような音と連続した発砲音が聞こえ、思わず後方のスタックやバッハ、ドローンオペレーターが身を竦めた。途端、階段から「グラナータ(手榴弾)!」という叫び声が響いた。第二の炸裂音がこだまし、呻き声と共に二名のスタックメンバーが転がり落ちる。盾持ちと最後尾が負傷者を後退させると、「部屋が爆発した!」と叫んだ。
「ガス爆発か?」と、語気に僅かな焦りを滲ませるバッハ。
市販の小麦粉などでも再現できる粉塵爆発の可能性もあるな……
盾の下端を地面に接地させ、全員が遮蔽物の裏に隠れる。唯一、ヴォルガノフのみ棒立ちだった。二名の負傷者は床を足で蹴りつつも、和室まで仲間にドラッキングされていく。
「分かりません、カメラをやられました。適当に動かして戻します」
「最初の楽団は?」と、バッハ。
「廊下まで吹っ飛んできた奴もいますが分かりません、手榴弾を列の真ん中に投げ込まれました!」と、階段を警戒する傭兵達。
「ゲラシム、生きているのなら報告しろ」と、無線で呼び掛けるバッハ。
丁度その時、上階から複数の銃声が鳴った。無線の返答がないということは、初撃で倒れたスタックに止めが刺されたのだろう。
「ドローンはどうなった?」
「反応ありません」
「リスタックして突入する。お前もだ。私が最後尾だ」
肩を叩かれてコントローラーを放棄したオペレーターも加わり、四名のロシア人が階段の下に集う。再び盾を先頭にスタックを組み直し、牽制のために最上段付近目掛けて各々が射撃。すると今度は火の点いた何かが投擲され、床下にぶつかり四散。すぐに液体と炎が土壁にまで拡散する。ただ燃え広がるだけでなく、ゲル状の物体もいたる所に付着していた。
削った発泡スチロールを混ぜた火炎瓶か。古典的だが、ウクライナ戦争でも効果は実証済みだ。
再び飛んできた可燃性のカクテルを盾で受け止め、ストロボを点灯。スタックは強烈な連射を上階に見舞う。その様子をヴォルガノフは角部屋から盗み見ていた。ゲリラ攻撃が収まり、状況が好転するとバッハが吠えた。
「突撃!」
間隙を空けずに交替で途切れのない射撃を続け、スタックはストロングウォール(スタック済みの縦隊)の隊形を維持する。無理矢理階段を上り続けるスタックに、大量の液体が掛けられる音が響いた。傭兵達の頭や壁面をバウンドしながら、空のバケツが一階まで落ちてきた。
ガソリンと灯油を混ぜた臭い。これは——
二階の陰から再度投擲された火炎瓶は、盾によって防御された。が、撒き散らされた燃料に引火。傭兵達は火に包まれた。しかし難燃性のアサルトスーツとアーマーによって、ほとんどの炎は一瞬で白煙と化し、立ち昇るだけだった。最新のFR生地はもはや自動消火に近い機能が備わっており、スタックは階段を突破して廊下へと消えて行く。ヴォルガノフも続行し、階段を上ると、廊下で銃撃戦が発生していた。どうやら連中はこちらをガンロックし、各居室に分散して複数方向からのバリケードシューティング(遮蔽物からの射撃)を実施しているらしい。廊下には先行したロシア傭兵達や重MGVが引っくり返り、動かなくなっている。
火力を集中させているのか。
スタックは廊下(ホール)や室内には突入せず、あえてフェイタルファンネル(危険領域)であるドアウェイ(戸口付近)に留まって反撃している。全身を晒して突入するダイナミックエントリーとは真逆のリミテッドエントリーという戦術だが、時間が掛かるというデメリットがあった。その間、「盾がうぜえんだよ!」という日本語も聞こえた。ヴォルガノフは腕時計を確認し、思わずため息を漏らした。
全く、ここまで死を恐れるとは虫唾が走る。所詮は傭兵か。
エントリーするにはまず身体を上下に振る、もしくは二名以上で高低差をつけて銃を指向する「ダブルガン」などで、相手のガンロックを外す必要があった。だがそれら全ての定石を無視し、ヴォルガノフは突進。両手を顔の前で交差させ、煮詰まっているスタックを弾き飛ばし、廊下を突っ切り、半開きのドアをタックルでぶち破り、荒れ果てた室内で呆気に取られていた敵戦闘員に正面から体当たり。子供のような体格の戦闘員は、縦回転しながらリビングを舞い、背中から床に激突。リビングだと思われる間取りだったが、爆発の影響か壁や床板に亀裂や穴が発生。謎の粉塵やガスの臭いが充満していた。誰かを治療した痕跡もある。後方では好機と見た傭兵達が一挙に雪崩れ込み、敵の戦闘員がいる他の居室に突入しようしている。
その瞬間、爆発の影響か、脆くなっていた二階の床板が裂けた。
身長二〇四センチ体重一一五キロのヴォルガノフは、よろめきながら身体を起こそうとしていた戦闘員と自由落下。二階から一階リビングへと天井が抜け、大量の木片と共にテーブルへと着地。小柄な戦闘員は受け身を何とか取りながら、ヴォルガノフに正対。体格の違いに恐れを抱いたのか、僅かにたじろぐ。が、それも一瞬。すぐに拳銃を抜いた。発射された銃弾はプレートのある胴体や股間付近に数発着弾。すぐに弾切れを起こした。
だから刃物も銃も信用できないんだ。だが——
ほとんど大人と幼児の体格差。ヴォルガノフは相手が弾倉交換を済ます前に、跳躍。テーブルから颯爽と飛び降り、拳銃のスライドを上から鷲掴み。自慢の拳で顔面にストレートパンチを見舞う。手加減はするも顎先を完全に捉え、戦闘員は自動車に衝突されたように吹き飛び、食器棚に激突。ガラスや皿が粉々に砕け散った。上階の騒音を聞きながら床に伸びた戦闘員のヘルメットとフェイスマスクを剥ぐ。すると、死んだように脳震盪で気絶した白人少年の顔が現れた。
画像にあったチビはこいつか。あとはモグラの処分だな。
刹那、喧騒が止み、背後に気配を感じる。野生の勘を働かせ、横っ飛びで回避。ガラス戸を破壊しながら広間に転がり込む。食器棚には銃弾が撃ち込まれ、リビングに何者かが飛び降りてきた。
敵が来たということはバッハ達を無力化したのか。やるな。
棒立ちしていると、広間に小銃を構えた二名がエントリーしようとしていた。
ロシア人とは明らかに異なる兵装。
ヴォルカノフは中央に設置されている巨大な多機能電子テーブルを引っくり返す。同時に盾となったテーブルから着弾音が響く。隔てた先、銃声の発生源に向け、テーブルを投擲。人が倒れ、壁が壊れ、器材が砕かれる音に苦鳴が混じった。すぐに接近し、テーブルに圧し潰されていない方に体当たり。先ほどのようにはいかないものの、土壁に押し込まれた戦闘員はもつれながら立とうとする。その間に素早く小銃を奪い、弾倉を抜き、ボルトキャリアも引き抜き、射撃ができない状態にして投げ捨てる。拳銃を向けてきたが、それも同様。先ほどの要領で没収し、スライドを外して縁側から外へと放り投げる。すると片脚にタックルを繰り出し、脚にまとわりついてきた。どうやらナイフを取り出し、カーフ(アキレス腱)を狙っているらしい。が、レガースプロテクターには超高分子量ポリエチレンで出来た脚絆(きゃはん)を仕込んでいたため、ナイフが折れる。ヴォルガノフは脚の力だけで戦闘員を振り払うと、バランスを崩した相手にローキックをかます。体重差もあるが、何より脚絆を生かしたカーフへの一撃。戦闘員は横回転しながら宙に舞う。床に叩き付けられると同時に、ヴォルガノフは動く。相手のアーマーの首根っことタクティカルベルトの腰部を掴むと、振り子の要領で縁側へと投げ飛ばす。
技量も何もない剛力。
全てを破壊する暴力。
しかし強烈無比で、戦闘員は障子を突き破り、渡り廊下を貫通し、屋外との隔たりであるガラス戸を粉砕して闇夜へと消えた。
その時、ヴォルガノフは背後からの危険を察知。襖をぶち破り、畳のある中部屋へと飛び込み前転。そして、広間からの銃撃を回避。どうやらテーブルに潰されていた方が復帰したらしい。崩れた襖越しに息を潜めている様子が窺えた。
どうせ廊下からリビングを通って迂回してくると思っているんだろう。
ヴォルガノフは立ち上がり、首を左右に倒して筋肉をほぐした。
違うんだなそれが。
畳がめくれるほど蹴り込み、襖に向かって猛然とダッシュ。ぶつかった仕切りは左右に弾き飛ぶようにして崩壊。撃ち込まれた弾は全てアーマーが受け止め、倒れているテーブルを遮蔽物にしていた戦闘員目掛けてダイブ。細身の戦闘員は俊敏な側転で回避。が、僅かに接触。その余波で小銃が床を転がる。ヴォルガノフはそれを拾い上げ、土壁に叩き付けて完全破壊。二つに分離したM4を捨てると、サプレッサー付きの拳銃を速射しながら中部屋へと退却を始める戦闘員。しかし脚絆のみならずアームプロテクターやショルダーアーマーも防弾素材のため、ヴォルガノフは顔の前で前腕を交差させながら突進。
拳銃弾は蚊に刺されるよりも刺激がない。
追い付くと胴体を両腕でクラッチ。壁にぶつけ、拳銃を持つ腕ごと脇に挟み、もぎ取る。相手も必死にクラッチを解こうともがく。が、体重が六、七〇キロ程度しかないのだろう。幼子が腕の中で暴れているのに等しい。全身をアーマーで固めようが、肉体は華奢。ヴォルガノフはベアハッグ(鯖折り)で下から抱え上げ、中部屋の中央へと反転。畳に向かってプロレスラーのように身体ごと床にダイブ。戦闘員は肺を潰され、呼吸を一挙に吐き出し、微動だにできない様子だった。馬乗りのまま相手のヘルメットとフェイスマスクを剥ぐ。必死に酸素を取り込もうとしている若い男の表情が見えた。
その顔面に対し、拳をハンマーのように固め、振り下ろしていく。青年は両腕でブロッキング。が、パウンドだけでなく側面からのフックも織り交ぜる。格闘技用のオープンフィンガーグローブではなく、パンチに特化した特殊な防刃仕様のフルフィンガーグローブを装着しており、人体への破壊力は計り知れない。棒のような腕と並みの男の大腿部より太い腕部では勝負にならず、青年の頭部は見るも無残な形に腫れ上がり、血だるまとなっていく。どさくさに紛れてナイフを抜いてきたが、小振りな刃ごと握り締め、破断。割れた刃物は投げ捨て、パウンドのラッシュで腕ごとへし折る作戦に変更する。
すると突然、ヴォルガノフの視界が消失。背後から毛布のような物を頭に被せられた。同時にロープのような物を首元に巻かれ、圧迫される。が、ネックアーマーのおかげで絞められることはない。その隙に細身の方が脚の間から抜けたことに気付いた。
馬乗りから脱出したか。
ヴォルガノフは首に巻かれた紐状の物体を引き寄せる。そして重心を落とし、前方に腰を折る。背後の人物が浮かぶのを感じ、そのまま正面の畳に叩き付けた。被せられていた毛布も一緒に剥がれ落ち、ルドゥートとは違う戦闘服の人間が畳を転がり、悶絶していた。どうやら先ほど庭に投げ飛ばした比較的長身の戦闘員のようだ。
ヴォルガノフは足元に違和感が生じ、すぐにサイドステップで回避行動を取ろうとした。しかしいつの間にか足を拘束されていた。細身の方がヴォルガノフの足を脇に抱え、逆立ちの要領で両脚を巧みに操り伸ばし、腰骨を蹴り反対側の足も腕ですくって来た。バランスを崩され、体重差で油断していたせいもあり、ヴォルガノフは後方に尻もちを付く。
柔道か?
絡み付いて来た戦闘員は起き上がらず、脇に抱えていたカーフを手放し、今度は下から腕を回してきた。踵を肘の内側で捻り上げようとする。ヴォルガノフは直感で危険を察知。片脚立ちになり、振り落とすために回し蹴りをする。しがみついている青年は遠心力と膂力の差に敗北。頭部が土壁に激突し、ガラスや襖の破片が散乱する広間へと吹き飛ばされる。
膝に一瞬、痛みが走った。この戦闘員は危険だ。
一気に距離を詰める。受け身を取ってスタンド状態に戻る青年。ヴォルガノフは再び体当たり。が、若い戦闘員はインパクトの瞬間にジャンプ。ヴォルガノフに跳び付いて来た。胴体を両脚でホールドされ、腕は脇に挟まれ、首裏も抱えられる。空いた腕で腹にパウンドを落とす前に、背中で交差されていた足が解除され、代わりに首の横と脇の間を通って再度組まれる。そのまま両脚の間から伸びている右腕の肘を、戦闘員は両手で必死に伸ばそうとした。ヴォルガノフは肘が伸ばされないように、もう片方の腕とクラッチを組む。
体格差から関節技は無理だと思うが素晴らしい。
ならば最大限の敬意で。
身長差を生かし、腕を掴まれた状態で青年を頭上高く持ち上げる。そして重力も利用し、頭を床に叩きつける。パワーボム。しかし戦闘員は自分のへそを見るように頭を曲げて、それを回避。感心したヴォルガノフは再び床にぶつけると見せかけて、落下軌道に入った瞬間に方向修正。近くのテーブルの端に青年の頭部のみを激突させる。青年は昏倒。鼻血を噴き出し、落下。人形のように崩れ落ちた。
その頭部に対し、床を踏み込み、サッカーボールキック。
が、背後から組み付かれ、軌道が逸れる。抱き着いてきた戦闘員を適当に投げ飛ばすと、体勢を立て直し、膝頭やカーフ、脛を蹴ってきた。良く見ると、長身の方はオープンフィンガーグローブを装着し、指の間にプッシュダガーナイフを保持していた。ヘルメットを外しており、格闘戦に持ち込もうとしているらしい。
面白い。
お互いにファイティングポーズを取る。プレッシャーを掛け、畳の間へと戦闘員を押し込む。戦闘員はそのまま拳を固め、ボクシングスタイルになる。しかし、相手の体重はどう見積もっても七〇から七五キロ前後。八〇キロはないだろう。ミドル級とヘビー級の差は技術では埋まらない。戦闘員は明らかに怯えを我慢していた。
ヴォルガノフは熟練のボクシングスタイルを生かし、コンパクトなパンチをリラックスしながら繰り出していく。相手もスウェーやダッキングでサイドに回り込む。畳みはリングと化していた。
側頭部や後頭部を狙っている節があるな。
次第にヴォルガノフのコンビネーションに圧され、戦闘員は壁際に追い詰められる。
面白かったが、決めるか。
タイミングを見計らい、大振りのフック。が、合間を縫い、ストレートが来る。距離感で外す。と、バイザーに引っかき傷が残った。
忘れていた。ナイフの分だけ射程が伸びたのだろう——だが、今だな。
頭を下げ、サイドに回ろうとした瞬間、ハイキック。ボクサー特有の頭を下げて避ける動作に蹴りを合わせる。腕で受け止める戦闘員。衝撃で身体が後傾。威力を殺し切れなかったのが丸分かりだった。
動きが止まった瞬間、ヴォルガノフはラッシュ。ガードの上からも強烈なフックを加え、壁を背にして苦しまぎれに放ってきた蹴りを片手ですくい上げる。脚を戻し、バランスを取ろうとした瞬間、頭を掴み、顔面に膝蹴り。鼻がへし折れる感触が伝わる。脳が揺れ、立っているのもやっとの男。その顎先にヴォルガノフは照準を合わせる。ヘビー級のパンチをまともに受ければ命の保証はない。
なかなか楽しかったぞ。
ストレートを叩き込む最中、ヴォルガノフは室内が徐々に明るくなっているのに気付いた——
◆
境はアクセルを踏み込み、ハンドルを真っ直ぐ保持したままセーフハウスに突っ込む。ヘッドライトで照らされた家屋。穴の空いたガラス戸を吹き飛ばし、渡り廊下に乗り上げ、タイヤで畳を引き裂き、正面で部下と戦っていた巨人に激突。巨人はボールのように跳ね飛ばされ、中部屋から広間まで宙を舞い、壁際のモニターを潰し、リビングへとバウンド。境はRPKを手に運転席から畳へと着地、室内外を警戒する。
既にセーフハウスとしての機能は失われていた。玄関前の廊下は火の海になり、二階は屋外から確認できるほど炎と黒煙が回っている。中部屋の土壁に衝突したSUVもエンジンが停止。竜崎は倒れた家具や器材で荒れた畳の上で、四つん這いになっていた。まだ意識が定まっていないらしい。が、時間の猶予はない。無理やり身体を引き起こした。
「格好はロシア装備だが、俺だ。突入してきた連中はどうなった?」
境が拳銃を渡すと、回らない呂律で「全員無力化したっす……」と、竜崎が答えた。
「山田と早乙女は?」
「リビングで気絶中……」
「堀は?」
竜崎は首を横に振った。
「分かった。お前は二人を守れ。火力支援組は殺ったが、増援阻止の連中は何人か仕留め損なった。俺はあのデカブツの様子を見てくる」
「あいつには弾もナイフも効かなかったっす……」
「なら別の手段を講じる——山田、早乙女、生きていたら返事をしろ!」
煙が漂い始め、畳や床板、天井にまで炎が拡大。暗視装置なしでも視認できる状況になった。竜崎と銃を構えながら広間に入ると、破損してひっくり返ったテーブルの裏で山田を発見。竜崎がドラッキングしながら、縁側から家の外へと運び出そうとする。それを尻目に、境は火の手が迫るリビングへと歩みを進める。
さっきので死んだとは思えん……早乙女はどこだ?
天井が抜け、食卓として使用していたテーブルは陥没。荒れ果てた床板と食器棚。唯一無事な台所。
そのそばで、武装した小さな人間がぐったりと横になっていた。
「早乙女——」
唐突に影が揺らめく。空気の流れが変わり、煙が動き、境も動いた。
巨大な影が接近。
軽機関銃を影に向け、引き金を絞る。が、間に合わず、銃身を握られ、プレートキャリアに正面蹴りを受ける。
まるで鉄骨に突き飛ばされたような感覚。
境は後転し、失ったRPKの代わりにナイフを抜く。が、竜崎の言葉を思い出し、プラズマライトに変えた。巨人——ヴォルガノフ・BはRPKを分解し、勝手口へと放った。挑発するように拳を眼前に構える。
あくまで格闘にこだわるか。かと言って、全身を筋肉とフルアーマーの鎧で固めた大男に肉弾戦は不利。どうするか。
以前に画像で見たことのあるロシアの重武装アーマーとヘルメット、そして難燃素材のアサルトスーツ。境の記憶が正しければ、RPKの弾でも抗弾プレートを貫けないタイプ。しかし早乙女と堀の生存を確認するまで、境はセーフハウスから出るつもりはなかった。
ヴォルガノフが一気に迫ってきた。パンチを中心にコンビネーションを組み立て、リビング中央にあるテーブルを盾に旋回する境を追い詰めようとしてくる。その度に境は特殊なLEP(ライト・イミティング・プラズマ)ストロボライトを顔面に照射。高輝度(こうきど)光線を眼球に直射された人間は、残像による視界不良と脳へのダメージを受ける。ヴォルガノフの双拳は正確に対象を捉えられないようだった。
ギリギリで打撃を回避し、ナイフで手元を傷つけようとする境。
イタチごっことなり追い回す巨人。
圧倒的なフィジカルと防護服を前提とした暴走機関車のような立ち回りが封じられ、テーブルを蹴り壊すヴォルガノフ。境はライトを浴びせる。が、片腕で視界を光から守りながら巨人は突進。胴をクラッチされ、境は壁に激突。背骨に痛みが走り、呼吸が一気に苦しくなる。ネックアーマーとヘルメットのチンガードの隙間を狙い、ナイフを刺突。が、相手はナイフの持ち手ごと、グローブのような手で包み込んでくる。そのまま刃だけを境の方に反転させ、じりじりと押し込んできた。ライトを手放し、空いた手で防ぐも貫通。燃えるような激痛と共に刃が頬を裂いた瞬間、壁を支点に両脚を突っ張って巨体を食い止めた。
まずい——
その時、巨人の背後から迫る人物に、境は気付いた。
「ヴォルガノフ……」
時間稼ぎに、境は質問。
「全自の会場に、お前も居たな?」
旧自衛隊の話題を出され、集中を乱されたのか、ヴォルガノフは一瞬、視線を合わせてきた。
その瞬間、背後から現れた山田がバックチョークを仕掛ける。背中から跳び付き、胴体に両足を四の字の形にフック。首元に蛇のように腕が侵入し、絡み付いてきた乱入者にヴォルガノフは暴れる。拘束を解かれた境はナイフを抜き、ヴォルガノフのバイザーに血塗れとなった自身の手を擦り付けた。視界と酸素を奪われる大男。巨体を振り回し、しがみ付いている敵を振り下ろそうと背中から壁に何度も衝突。それが無理だと分かると、前傾に振って前に落とそうともがき続ける。すると視界を確保するため、ヴォルガノフはヘルメットを脱いだ。
「ヤマちゃん、動きを止めてくれ……!」
「良いから、早く!」
そういうことか!
脳にダメージが残っているのか、足元をふらつかせながら竜崎が登場。手には拳銃。しかし激しく抵抗する巨人の頭部を外せば、銃弾は山田に直撃する。そこで境は床に転がっていた外作業用のスプレー缶箱を漁る。
噴霧式殺虫スプレー、潤滑スプレーに塗装用——
それらを吹っ飛ばし、真っ黒なボディーの催涙スプレーを入手。意図を察した竜崎が拳銃を境に投げ渡し、ヴォルガノフの両脚にタックル。しかし頭を掴まれ、膝蹴りを顎に何発も食らい昏倒。が、動きが止まったその隙に、境は首元にしがみ付いている山田を巻き込みながら、スプレーを噴射。呻きながら更に暴走する巨人。正面に立った境は丸太のような脚で脇腹にミドルを受ける。バキバキ、という肋軟骨が粉砕される音が体内に反響。直後、台所のシンクまで吹き飛ばされる。呼吸ができなくなった境は、シンクの上から床へと落下。山田が力尽き、振り落とされる瞬間を目撃する。境はホルスターに収めた拳銃を何とか抜こうとした。が、そこにあるべき物がなかった。先ほどの衝撃でベルトに固定する基部が破損したのか、拳銃がホルスターごとどこかへ飛んでいったらしい。
クソ……!
目の見えない巨人の腹いせにも見えるグラウンド攻撃を受け続ける山田。片手で抑え込まれ、強烈なパウンドの連打を浴びせられた部下は失神。ピクリとも動かなくなった。
「動くな!」
誰だ……
ロシア語ではなく、日本語の命令。ロシア傭兵の格好をした三名がリビングへと雪崩れ込んでくる。取り逃がした増援阻止組と、見知った顔のロシア人。
バッハ……!
その時、屋外から複数の車両が接近する音が僅かに聞こえてきた。境は折れたであろう肋軟骨の痛みに耐え、脇腹を押さえながら立とうとする。が、呼吸が戻らず、うずくまることしかできない。
「生きているのは我々だけだ」
バッハは自身の首元に絡んでいた紐状の物体を、忌々しく外す。
「途中で仲間を助けに向かったおかげで、失神で済んだらしい。記憶が定かでないが——目をやられたのか?」
顔を押さえながら壁伝いに歩くヴォルガノフを、傭兵の一人が支える。
「モグラの死体は確認した。失血死だろう。マサヨシ・サカイとサセードを回収する」
まずい。
境は床を這い、台所の下に隠していた物を自身の足首に装着する。
「政軍隷属ファイルが、まだだ……!」
ヴォルガノフが初めて発した言葉に、境は痛みで冷や汗をかきながら驚愕した。
政軍隷属だと……?
天井が炎と共に崩れ落ちる。既に煙が回り、呼吸が難しくなってきていた。誰しもが口元に手を当て、姿勢を低くし始める。
「時間がない、撤収するぞ!」
「他の人間はどうします? とどめを——」
そこで庭の方向から射撃音が轟いた。サプレッサーのない銃撃音。明らかに狙いはロシア傭兵達であり、境は身を隠そうと床を這う。が、傭兵の一人に取り押さえられ、頭に袋か何かを被せられた。消失した視界の中で、バッハの声が聞こえた。
「裏口から出る、大人しくさせておけ」
手足を何かで拘束された後、首を強烈に絞めつけられる。
身体を引き摺られ、意識が薄れていくのを境は感じた——
◆
都内某所、高級マンションのリビング。
「——ふん、それでチームリーダーである境やDOにクリティカル・インテリジェンスを報告する暇がなかったというわけか。なかなか判断力のあるケースオフィサーだな」
「面目ないっす……」
「ケースオフィサーである堀は死亡、彼らも奴らに連れ去られた。ここで攻めても状況は変わらない」
かつての秘密戦教育指導官である新渡戸(にとべ)と双葉(ふたば)両名に挟まれながら、ソファーベッドの上で謝罪する竜崎。氷嚢で定期的に頭や腕を冷やす彼の様子を見ながら、頭に包帯が巻かれた山田もリクライニングチェアーに身体を預け、安静にしていた。
山田が竜崎と共に意識を朧げに取り戻したのは、境と早乙女が拉致された後だった。QRFに持ち回りとして編成されていた綾瀬と長谷川に搬送され、茨城県を離れるバンの中で救命処置を受けていたらしい。竜神大吊橋の件で、関東に点在するケースオフィサーのチームが証拠の隠滅をさせられていたとのことだった。その過程で、都内で勤務する同期の二名も参戦。一五名を超える四個チームが派遣されたとのこと。燃え盛る家屋から自分達と堀の遺体を運び出す際、境と早乙女らしき人物を連れ去るロシアの傭兵達を目撃したという。追跡できなかったのは、民間人の介入や注目を避けるために警察や消防の上層部と相談し、現場の証拠品を押収、死体を内密に処理していたから。その後、県外へと離脱。都内まで運び込んだのは、なるべく人目につく場所で保護しなければ再び急襲を受けるとの判断から。東京組のセーフハウスに到着後は、本格的な治療を開始。銃創はないものの、強烈な打撃による打撲や骨挫傷、肋軟骨の骨折と切創があり、医療スタッフが対応。脳や口内へのダメージもあり、首の裏などもアイシングされた。細かい傷の処置を行い、覚醒してからは飲食によるエネルギー補給や点滴を済ませ、安静にして回復に努めることとなった。その間、DOから新渡戸、DIから双葉が派遣され、セーフハウスを利用する四名のケースオフィサーが各インツを駆使して情報収集に専念。QRFとして集合した他の面々は、自分達のセーフハウスへと帰還。ルドゥートが残置していった装備は、この場所で全て保管することになっていた。
壁際に置かれたネット専用の大画面モニターにリモコンを向け、新渡戸はあらゆるライブ報道チャンネルに目を通していた。
「セーフハウス襲撃から既に三時間以上が経過した。報道では何もないが、インテリジェンス・コミュニティーでは情報が錯綜している。なんてったって、現職である日本の首相と政府間の連絡が取れないんだからな。しかもウクライナの首相も巻き込んでの事態だ。安全面の問題から夜間にトンネル内は視察しない予定だったらしいが、セキュリティーを密着させる条件の下で急遽、変更したらしい。それ自体は良くあることだが……」
椅子に腰掛け、ノートPCと携帯端末を双葉は交互に監視していた。
「今回はそのお忍びが仇となったみたいね。今の段階で確定しているのは津軽海峡トンネル、つまり『第二青函トンネル』の自動運転専用レーンで複数の爆発が発生。崩落と出水が確認されたということ。水自体は、トンネル内部にある三つの排水基地に集められて、排水ポンプによる地上への排出が進行中。だけど、北海道側坑口と本州側坑口、どちらも物理的に通行不能になった。そして血盟団と名乗る反政府武装組織が、トンネル内と地上にある『津軽海峡トンネル記念館』を占拠し、両国首相や同行していたセキュリティー、保守点検中の作業員達と列車の運転士が囚われたということ。要求は警護していた日本陸軍特殊作戦群の隊員が所持していた通信端末を通して、拘束されている首相の顔写真付きで政府へと送信されてきた」
「トンネル内でも地上と電波が通じるんですか?」
「通じるわ。トンネル内には交換局から光ファイバーケーブルとアンテナが張り巡らされているから——話を戻すと、要求内容は二つ。『北海道に所在する日本国防軍の即時撤退』と『三〇〇人分の保存できる食糧を提供すること』。長期戦を見積もってのことだと思うけど、人数については突入への牽制の意味も含めているのかもしれない」
「ま、脅しの意味もあるのでしょう。こんなものは盛ってなんぼですよ」と、テーブル上にあるエナジードリンクを飲む長谷川。
「一二時間以内に要求が受け入れられない場合、両国の首相を殺害すると通告してきている。ロシア軍の動きは今のところない。今日のために点検整備という名目でトンネルの利用は制限されていたから一般利用客はいない。マスコミには報道規制を敷いている。SNSでは、警察マニアや撮り鉄によって要人警護の車列がトンネルに向かう映像が投稿されているけど、トレンドには上がっていない。首相不在の日本政府は、米国とウクライナどちらの政府とも水面下で目下協議中、というのが現状ね」
リビングの隅で、PC作業をしている四名の女性ケースオフィサー達。新渡戸は彼らがプリントアウトした資料を取り上げ、それを見ながら報告する。
「綾瀬と長谷川が集めてくれた資料をプレゼンテーションAIソフトにディープラーニングさせていた。今まとめ作業が終わったから、生成された情報群をモニターに出力する」
またAIか……
単語の響きに嫌気を差しつつ、大型モニターに出力された資料に山田は集中。電球色のような照明と疲労が眠気を誘ったが、綾瀬が用意してくれたエナジードリンクを飲んで脳を何とか働かせていた。が、暖房と加湿が程良く利いた環境のせいでそれも難しかった。
「最初の要求は良いとして、食糧提供できないのは連中の自業自得じゃないっすか?」と、縫われた眉の上を手鏡で確認する竜崎。
「そう言うと思って資料作成したんだよ」と、若干苛立たしそうに語る新渡戸。彼は会議用のテーブルに並べられた傭兵達の置き土産を、邪険に扱っていた。
いくつかある画像の中で、双葉はトンネル内部の断面図を拡大。斜め上から見下ろす画像となっていた。彼女はいくつかのポイントにマウスカーソルで円を描き、プロットと説明を始める。
「第二青函トンネルは第一青函トンネルと並行する形で、三一キロメートルにわたって内径一五メートルの円形状に掘削(くっさく)された。海底下一〇〇メートルの第一と比べて、三〇メートルという浅い位置を走っている。約一・五倍の広さがあって、トンネル上部には自動運転車専用の車線が二つ伸びている。これは片側一車線の道路ね。下部には貨物専用の列車が走る単線と、避難通路兼緊急車両用の道路がある。上部の車線はスリット式の隔壁によって中央で分離されている。ここと屋根に当たる換気用送風スペースのコンクリート壁が同時に二カ所以上で崩落したみたいね」
トンネル正面からの断面図も表示されると、「まるでオームの法則を引っくり返したみたいですね」と発言。山田も何かの形に似ていると思い、記憶を掘り起こしていたので上手い例えだと感心した。インテリジェンス課程に望む際に、学生時代の勉強を復習したことが役に立っていた。
「崩落によって、先頭と最後尾の警護車両は激突。エンジンは破損し、足止めを受けた。間を走行していた首相らの車列は巻き込まれずに済んだけど、SPの最後の報告では、挟み撃ちによる襲撃を受けたことを示唆する内容だった。それに付随して、さっきの質問の答えとしてトンネル下部の線路を利用すれば物資の輸送は可能になっている。爆破による揺れを検知してから、列車はトンネル内で停車中。運転士は人質になった。恐らく、自分達の脱出経路も兼ねて意図的に残したんだと思うわ」
「なら、そっから特殊部隊を送り込むしかねえな……」と、再び氷嚢で頭部を冷やす竜崎。
「そんな単純なら苦労しませんよ」と、長谷川。
「トンネルという性質上、侵入経路が限られているから、どうしても待ち伏せを受けやすい。それに突入によって強引に人質を救出するなら、直前まで姿を現すことはできないわ。部隊を危険に晒すし、何より犯人達を刺激すれば人質を殺しかねない」
「首相は血盟団にとっても切り札ですから、そう簡単には殺しませんよね?」と、腕を組みながら壁際に寄り掛かる綾瀬。彼女は資料をまとめながら、山田と竜崎が口に入れられそうな食事を用意してくれていた。
「そうね。けど、指や耳を切り落とすくらいだったら出血も抑えられる。段々と細かく刻んでいく方法を取るのよ。それに、相手の手札が首相しかないと決まったわけじゃない。突入を煽るようなことも言っていたらしい。あえてトンネル下部をフリーにすることで、アクティブディフェンス(引き込み作戦)を狙っている節もある。何より人質の居場所が分からない——けど、私達の『仲間』も囚われていることは確かよ」
ということは……
「境さんと早乙女?」
「彼のGPSがトンネル内で反応したの。途中で途絶えてしまったけど、シグナルは専用のものだから間違いない」
山田は思わず、竜崎と視線を合わせた。
「じゃあ今、おやっさん達が青函トンネルに居るってことか?」
モニターにマップが表示され、津軽海峡部分が拡大される。トンネルまでは表示されないが、GPSのシグナルの痕跡が海の真ん中へと消えていた。夜間に船舶に乗って停止している可能性は低く、何よりメリットもない。海底トンネルへと向かったことが明らかだ。
むしろトンネル内だから位置の検出ができなくなったんだろう。だとすると——
「ちょっと待てよ……ならロシアの傭兵達はどうやってトンネルに入ったんだ?」
「貨物列車だろ?」と、竜崎。
「でもトンネルは規制しているはずだろう? どこからも乗れないし、途中で捕まるはずだ」
「そりゃあ……歩いて行った、とか?」
竜崎は首を傾げながら、適当な回答。山田が口を開く前に、「今回に限っては、竜崎が正解ね」という双葉の台詞が聞こえた。
「え?」
「実は資材搬入出用の斜行エレベーターが通っているトンネルもあるの。さっきまで説明したのはあくまで『本坑』。これは車や列車が通るメインのトンネル。海底トンネルには他に『先進導抗(せんしんどうこう)』と『作業坑』がある。青函トンネルは第一も第二も、三本のトンネル——つまり複数の坑道を一つにまとめたものなの。そして、細かい坑道はもっとある」
3Dモデルで表示された第二青函トンネルと思われる図面。それが大画面に出力される。一本の太い本坑が、海底である中央部に向けて両端から下り勾配となっている。それだけ見ると、中央で鈍角に折れ曲がったストローのような形状だった。その本坑に対し、何本ものトンネルが縦や横に繋がり、地上へと伸びている構造。各トンネルの名称や役割に関する端的な説明が記載されており、併記されている距離は総延長約三一キロ。その巨大さが窺えた。
「ふん、まるで迷路だな」と、回転椅子に腰掛ける新渡戸。
「どっちかっつーと、ムカデの足みたいだぜ」と、竜崎。その表現に、注意深くモニターを凝視していた綾瀬の顔が強張る。
しかしそれは誇張ではなかった。
中央に走る太い「本坑(本線)」。
本坑の左右に一本ずつ並走して伸びる「作業坑(誘導路)」。
本坑と作業抗の間を繋ぐ「連絡横坑(連絡誘導路)」は、一定の間隔を空けて節足動物の足のようにトンネルを何本も生やしている。
「先進導抗(排水坑)」は本坑と作業抗より低い位置、連絡横坑の真下を走っており、作業坑へ複数のトンネルを通じて繋がっていた。
最後に作業坑の両端、北海道側吉岡定点と青森側竜飛(たっぴ)定点から地上へと向け、「立坑(たてこう)」と「斜坑(しゃこう)」という二つのトンネルが伸びており、本坑とは別の脱出経路を設けているようだった。
「基本的に第一も第二も構造自体は変わらないわ。先進導坑、作業坑、本坑の順に掘り進められた。本坑は説明不要ね。両端と中央である最深部で崩落が確認されている。最低でも四カ所が爆破、分断された。出水は囚われている作業員達が対応しているという連絡があった」
双葉が3Dモデルの本坑に四本の斜線を引く。現在は等間隔で分かりやすいが、実際は敵の侵入経路を分断、混乱させるためにより多くの障害を設けている可能性があった。
「鎮圧部隊を乗車させた追加の貨物列車を送ったとしても、爆破されて足止めを受ける可能性がありますね」と、綾瀬。
「そうね。ポイントが悪ければ脱線したり、列車や隊員自身を損耗させることになる」
「そんなこと言ったら、作業抗とか連絡横抗もヤバいじゃねえか」
「だから簡単に突入させられないんですよ。これだから体力や根性だけが取り柄の『首から下族』は……」
「あん?」
怪我をして気が立っているのか、普段は反応しない言葉にも苛立つ竜崎。手負いの猛獣が暴れ出す前に、「そしたら作業坑がかなり重要な経路ですね」と山田は一言添えた。
「私もそう思うわ。なにせ、本坑への唯一のアクセスである連絡横坑と繋がっているし、地上からの侵入経路となる斜坑や立抗とも繋がっている」
「作業坑は、今は保守点検用通路や利用客の避難誘導路として利用されているのか」と、新渡戸。
「ええ。トンネル掘削時は資材運搬用の通路として使われていた。保守作業はJR北海道が担当している」
「先進導抗にも繋がっていますね。今の用途は『トンネル内の換気と排水』とありますが、人が通れるスペースはありますか?」と、綾瀬。
「あるわ。元々、本坑に先んじて地質や出水の情報を集める調査坑という名前だったから。ただ爆破による大量出水で汲み上げポンプの処理能力がオーバーしている可能性がある。その場合、先進導抗に集水されるから徒歩では通れないかもしれない。ここは本坑や作業坑、そしてトンネル最深部で滲み出して来る地下水が集まる排水抗になっているから。ただトンネル内では毎分二〇トンの水が岩盤から噴出し、それを排水している。簡単にはキャパオーバーにはならないと言う専門家もいる」
「いざとなれば泳ぐってことっすか。そうなると救出チームは良いとして人質は通れないっすね」
「海底トンネルは数十キロに及ぶようですね。外部の空気は届いているのですか?」と、長谷川。
「北海道と本州側の斜坑口付近にある送風機室から外気を送っている。斜坑は三本の主要抗を掘削する前に掘られた確認用のトンネル。海底部に一〇本以上ある断層の規模と性状を明らかにするのが目的。その後は『ずり』と呼ばれる掘削された後の岩石や土、水を運び出すのに使われていた。今はケーブルカーが通る地上への避難通路となっている」
「バッハもここを通ったのか……?」
忘れもしない。セーフハウスで交戦した際にあの柔和な笑みはなかったが、背格好と顔立ちは間違えようがなかった。勝連に居た時は夢にまで出てきたのだ。生憎、絞め殺す前に早乙女と竜崎をピンチから救い出すことを優先したが——
瞬間、頭痛が発生し、山田は包帯の巻かれた額を押さえた。
どうやら感情が高ぶると、脳に血流が集中するようだ。側頭部が脈打つごとに、ズキズキと締め付けられるような痛みがくる。
「送風機は坑内の温度調整や自動車の排気ガス排出も担っている。斜坑から先進導抗、そして最深部の連絡横抗から本坑に流れ、各坑口に向けて換気される」
「火災対策にもなっているんですか?」
「そうね。斜坑にある風門を開けて、換気流を斜坑から送って、立抗口にある排煙機で立抗から吸い上げるシステムになっている。立抗は斜坑の補助として掘削され、斜坑で補え切れない量の作業物資を搬送するために作られた。今は火災対策用の排煙坑道になっている」
「インテリジェンス・コミュニティーにおける現時点での噂では、特戦は斜坑と立抗から潜入を開始するらしい」と、新渡戸。
「逆にそこ以外はねえもんな……本坑は崩れてるし」
「斜坑は分かりますが、排煙坑道となった立抗は人が通れるのでしょうか?」と、綾瀬。
「可能らしいわ。環境は良くないけど——ただ斜坑からも潜入、というのは初耳ね。北海道と本州、どちらの大型エレベーターも作業坑の位置まで持っていかれたことに加え、風門が封鎖された影響で、そのルートは死んだという話を聞いたけど」
「俺も内閣のアセットに確認したんだ。どうも図面に記載されていない斜坑線があるらしい」
「ありました。どうやら竜飛と吉岡、どちらにも二本ずつ通っているようです」
女性ケースオフィサーが、プリントアウトした資料を双葉に手渡す。
「……この略図では、作業坑とは繋がっていないように見えるわね」
すると、「資料を送信します。このブロガーによると、一般公開はされておらず、緊急時に避難誘導路として利用されるようです」と、別のオフィサーが言った。
双葉がタブレットPCの画面をスワイプすると、大型モニターに新たな資料が提供される。表示されたブログのスクリーンショットには、旧国道を探ることが趣味の人物が掲載したいくつかの写真と文章があった。そこには人や家屋の気配もない山中の画像が並べられている。と、その中で、コンクリートで作られたトンネルの坑口を発見。ブログの人物はその珍しさから歓喜したことを文に認めており、動画まで投稿していた。再生内容から察するに、山腹にポッカリと空いた穴は斜坑口。その証拠に、錆びたフェンスゲートの先から覗く坑口は奥へと傾斜がついており、鉄製と思しき巨大な門で閉ざされていた。一帯は人の手が加わっていないようで、ほとんど放置された状態。伸び放題の蔦がフェンスに絡まり、地面は雑草が生い茂っている。山田は今頃、消し炭となってしまったであろうセーフハウスを思い出した。
「このブロガーが独自のコネを利用して退職した工事関係者に取材したところ、図面には記載しなかった斜坑と作業坑の連絡誘導路があるとのことでした。今、現地のアセットからの情報と衛星写真を取り寄せています」
作業に戻る前に、情報を紙媒体にまとめたオフィサーが新渡戸に手渡して去って行く。
「ルドゥートの傭兵や境達も、こうした斜坑の一つを通っていった可能性が高いな。記念館が占拠されていると言っても、周囲は警察とSATが完全に包囲している。外部からの侵入は注目を浴びるはずだ」と、新渡戸。
「現状、捜査機関側で目撃情報が上がってないということから、可能性はあるわね」と双葉。
「スペツナズはなんでおやっさん達を拉致ったんだ?」
「ケースオフィサーのトップであるスパイマスターは、アセットであるエージェントが誰かを知っている。だから敵対組織に捕まったら拷問を受け、内部のモグラをあぶり出すための情報を引き出される」と、双葉。
「境は日本の諜報史の生き字引きみたいなもんだ。米国ともコネがある。今の役職に限らずとも、東側にとっては高価値目標なんだよ」
「早乙女は?」
「ついでなんじゃないか?」と、携帯端末に来たメールに対応しながら、ぶっきらぼうに答える新渡戸。
「私達にできることはいつもと変わらない。情報収集だけよ。実力行使は特殊部隊に任せるしかない。こういう時のために高い税金で訓練しているのだから」
それなら、俺達だって訓練はしたはずだが……
「ケースオフィサーなら、現地の情報に直接触れた方が良くないっすか?」と、竜崎が代弁。
「既に東北と北海道方面のチームがトンネル付近で情報収集に当たっている。関東組の俺達は現地と情報共有し、任せるだけだ。土地勘も違う」
「通行不能となった現状や人質の管理、法執行機関や日本軍による突入を考えると、本坑の最深部近くに潜んでいると考えられますね」と、綾瀬。
「そうね。恐らく血盟団や傭兵も作業抗や連絡誘導路で待ち伏せしている。人質は北海道と本州、どちらから侵入された場合にも、最も遠い位置にある本坑最深部に囚われている可能性が高い。多分、重要な人間や器材も最深部に集まっているはず。同行していたセキュリティーの安否は不明だけど、生き残っているのなら連絡を取りたいところよ。最深部付近には指令所があって、そこでトンネル全体の設備を制御しているらしいから、そこに集まっている可能性は高い」
「血盟団側の首謀者は?」と、長谷川。
「不明よ」
端的な返答に、肩を竦めた竜崎が呆れたようにこちらを見てきた。
……堀の話が本当なら、世代的に篠原のことを双葉や新渡戸も知っているはずだ。
「敵も三〇キロのトンネルを全て防御しているわけではないだろうな。要所ごとに防衛拠点を設けて待ち構えているはずだ」と、新渡戸。
「ここに食糧や武器を持ち込んで本気で籠城されたら、もはや軍事基地ですよ」と、長谷川。
「基本、直進だから罠とか待ち伏せも仕掛けやすいし、ヤべえな……」
「経路が狭いから、一度に突入できる人数も限られる」と、綾瀬。
「ふん、まるでSF映画に出てくる地下要塞だな——それにしても、君がそんなにトンネルに詳しいとは思わなかったよ」と、新渡戸
「私も境から血盟団関連で『ゾーン539』という単語の調査を頼まれたから調べたの。ただ青函トンネルの方ばかり見ていて、津軽海峡トンネルの方は警戒していなかった」
「まあ、いずれにしても本州側は警戒されているはずだ。特戦群は既に突入の準備と訓練を始めている。在日米軍のアセットによる予想では、彼らは北海道側と本州側にある斜坑と立坑から侵入するらしい。記念館に突入するタイミングで交換局がトンネル内の無線設備を停止させ、血盟団の連絡網を遮断し、孤立させるつもりなんだろう。坑道内は距離がある。バイクか自転車を用意しているはずだ」
「崩落地点を回り込んで、本坑や作業坑、先進導抗を経由して最深部を目指すっつー流れか」
「ウクライナ側は突入させる気満々らしい。ロシア傭兵のことは既に報告されているからな。現首相はウクライナ戦争を戦った筋金入りのタカ派だ。日頃から自分の命を顧みない発言が多かったが、こうした非常事態に閣僚達も非常に冷静だ。『日本で起こっている戦争なので、日本の部隊に任せる』とのことだ」
戦争。確かに、二カ国の首相が武装組織に囚われていることが公表されれば、それと同等の騒ぎになるだろう。
「冷静に考えれば、首相が死亡してもロシアの関与が認められることにより、後々の外交に有利に働く。公表すれば国際世論はウクライナにもう一度傾くし、これを機に様々な支援を期待できる。救出に失敗すれば日本は更なる支援を約束せざるを得ない。公表しなくとも欧米との関係修復を望む現ロシア政権に対し、国際外交の場で強気に出ることができる、というシナリオですか」と、綾瀬。
「米国は静観ですかね?」と、長谷川。
「『事態の早期解決と両国首相の解放を望む』としつつ、裏で各方面に突入を推奨させるように圧力を掛けているわ。救出に成功すれば、事態を丸く収めるためにも和平交渉を進める。失敗しても戦争回避のために交渉を進める。かの国にとってはどちらに転んでも関係ない。和平交渉自体、米国がお膳立てしたものだから。領土返還をした時点で、軍事基地化するつもりなのよ。一応、ロシア軍への牽制として空母を寄越すらしい。それまでは日米海空軍の合同演習という名目で現地の戦力を集中させるみたい」
「それに対し、霞が関はまだ右往左往しているみたいですけど」と、長谷川。
「北海道側の対応はどうなっていますか?」
「もちろん、日本軍の完全撤退という要求を呑むことはできない。内閣のアセットによると、北海道の方ではゲリラ対策として101(いちまるいち)戦闘隊が編組された」
「101戦闘隊?」
「これは知らなくて良いことよ」
……またニード・トゥ・ノウか。
「トンネル内部の様子は分かりますか?」と、綾瀬。
「防犯カメラのライブ映像が配信されていたけど、今は停止されている。けど画像ならある」
モニターにいくつかの写真が出力される。線路の伸びる薄暗い本坑。地下水の溜まった坑道。照明が通路の床を照り返す作業坑など、多くの情報が出現する。
「壁伝いにあるこの太いパイプのような物は——」
「それは排水管で——」
「移動用の大量の自転車が——」
今、俺が集中できないのは、疲労だけのせいじゃない。
不確かな真実を残したまま消えた二人の動向。
充分なインテリジェンスの収集と報告がなされず、勝手に進んでいく作戦。
そして、情報をシェアせずに要点をぼかす上司。
山田は血管が脈動する度に起こる頭痛を無視し、椅子の背もたれを起こした。凝り固まった身体を動かそうとリクライニングチェアーから立ち上がる。その時、アサルトスーツの内側で何か動き、腹部まで滑り落ちた。ジッパーを下ろして確認すると、黒い防水袋が見える。
ゴタゴタのせいですっかり忘れていた……そう言えば、政軍隷属計画の情報を信頼できる上司に伝えてくれ、と堀が生前に言っていたな。
山田は周囲の人間を観察する。
「トンネル内の照明を落とせば、装備の充実した方に有利になるのが一般的ですが……」と、腕組みする綾瀬。
「傭兵達が関わっている以上、相手側にも暗視装置はありそうね」
「外部から送電を停止しても、非常用の電源や発電機があるのでは?」と、長谷川。
「あるわ。停電から七二時間は稼働するらしい。最深部にある指令所からも照明設備が遠隔操作できるみたい」
「暗闇を利用した戦術は、逆に奴(やっこ)さんの方が使ってくるかもな……」と、竜崎。
正直、もう誰を信用すれば良いのか分からない。唯一、自分と同じ情報量の人間は……
「別の部屋で休憩します。ここに居ても休めないので」
「分かった」と、モニターから視線を逸らさずに了解する新渡戸。
「洋室を使って。仮眠室になっているから。一番端のベッドが空いている」
綾瀬の台詞に頷き、山田は目の動きのみで相棒に合図を送る。
「……あー、俺もそうすっかな。身体を動かせなきゃ役に立てねえし」
高級感溢れるインテリアや調度品。高価なタブレットPC。そしてソファーベッドで彩られたリビングを山田は竜崎と後にし、無人の廊下へと出る。
「へっ……俺達のセーフハウスとは雲泥の差だな」
「今になって思えば、あれはあれで悪くなかった」
「まあな」
二つのシングルベッドと一つのマットレスが並んだ別室へのドアを開き、内側から鍵を閉め、手近な椅子に二人で着席。開口一番、竜崎は「例の計画だろ?」と察してくれた。
「さすがだな」
「伊達に何年も組んでねえよ」
懐から防水袋を抜き出し、ジッパーを引いて中身を開封。クシャクシャになった数枚の用紙をテーブルの上に並べる。英語と日本語で書かれた文書があり、書式や行数から翻訳された物だと一目で分かった。英語の方を竜崎に渡し、山田は翻訳された文書を手に取る。横書きで端的に書かれたタイトルから、山田は一気に読み込んでいく。
『国内防諜における政軍情報組織に属する日米共同隷下部隊に関する協議書について 2012年現在』
『時系列(西暦年表)』
『2007年 日米間で「軍事情報包括保護協定」締結』
『2008年 日本の政権交代に伴う右派政党台頭と、内向き姿勢の米国政策の将来を考慮、修正した議題「日米同盟の将来」を日米合同委員会にて協議』
『同年 対日政策提言報告「アーミテージ・レポート」の一部であった「国内防諜における政軍情報組織に属する日米共同隷下部隊に関する協議書」、通称「政軍隷属(シビル・ミリタリー・スレイブ)」計画を採用』
『2009年 左派政党が政権樹立。日本国自衛隊や警察内部から選抜した人員は一時解散。日本国外務省内部のインテリジェンス部門へと非公式に移転』
『2012年 第二次安倍内閣発足。インテリジェンス部門は我が国CIAとの連携や教育を受ける』
『2013年 日本版NSC発足後、インテリジェンス実働部門の本格運用を開始(予定)』
『2025年 内閣官房を内閣情報局に格上後、実働部隊を情報局に移転(予定)』
『2030年 辺野古(へのこ)地盤沈下を理由とした移転先に勝連沖埋め立て案を提案(予定)』
『2035年 防災庁設置。平時は医療介護福祉の分野での活躍を期待。勝連沖埋め立て後は後述の収容所として運用(予定)』
『成案内容』
『1.日本国の財政悪化に伴う貧困、不満分子をアジアへと向け、覇権国ではなく「トップ集団」となった我が国を中心とした西側諸国のアジア(中国)への影響力を最大限維持するための在日アメリカ軍、自衛隊運用を目指し、それらを可能にする内部工作組織の創設。日本国の各省庁、警察組織の利権が絡まない情報局と我が国による実力工作部隊の獲得』
『2.我が国の影響力低下に伴い加速する日本国内における敵国によるスパイ活動を防止、または無力化するために徹底した実力組織の構築。我が国CIAとの綿密な連携を基調とし、国内における秘密保持の観点から当該部隊司令部を横田エアベースへと設置』
『3.我が国における情報機関との連携を密とした国内での実働工作を視野に入れた外務省傘下の情報機関設立。我が国の情報漏洩を考慮し、日本国への情報公開は局限化される』
『4.我が国CIAの秘密収容所運営を提供することにより、ファイブアイズ加盟、国連常任理事国入りのために国連憲章変更の打診、日米合同議事録の見直しを協議する通称「痛み分け協定」を非公開に締結』
全ての行に目を通した山田は、竜崎と静かに視線を交差させた。
◆
「——なるほど、それで俺達を呼び出したというわけか」
ドアノブに椅子の背もたれを下から突き刺し、てこの原理で完全封鎖する竜崎。双葉と新渡戸を「内密なクリティカル・インテリジェンスがある」と呼び込み、二人を閉じ込めた山田は、頭痛に苦しみながらもベッドに腰掛けた。
「……ここに書かれていることは事実ですか?」
「これをどこで手に入れた?」
「まずはこっちの質問に答えてくれよ。世代的におやっさんのダチなんだろ?」
竜崎の刺すような睨みと圧力に、新渡戸は腕組みして答えた。
「ふん、良いだろう」
「出内機関は、日本の組織ではありませんね?」
「……指揮系統はCIAの下部組織だ」
あっさりと認める新渡戸。
「国内じゃあり得ないような活動も、CIAの下請けだったからできたってわけか。なら外務省職員っていう身分も嘘だったってことだな?」
「ああ」
「在日米軍施設などを利用できたのも、米国の後ろ盾があったからですね?」
「そうだ」
「出内機関の本部であるDOとDIは外務省ではなく、横田基地内の在日米軍施設にあるということですか?」
「そうかもな」
「へっ……俺達は日本じゃなく、アメリカの国益のために働いていたってことか」
その台詞に、新渡戸は大きな腹部が揺れるほどの勢いで竜崎と対峙した。その表情には明らかに怒りが込められていた。
「どうしてそうなる?」
「出内機関っつーのは結局のところ、CIAが日本で過激な活動をするための隠れ蓑じゃねえか」
「業務がCIAから委託されていたのなら、NSAなどの指示もあったのではないですか? 私達は政治的問題や非難が発生した時の責任逃れや、スケープゴートとして扱われる、PMSC代わりのレンディショングループだったということですから」
「それがどうした? 国内からロシアや中国のスパイを排除し、平和ボケした無知な国民のために日米共同で国益を守るのが目的だ」
「共同? 強制の間違いじゃねえのか? 沖縄をブラックサイトにしたのも、収容所の閉鎖を迫られたアメリカが別に拠点を作りたかったからじゃねえか」
「日本でレンディションを許可することを条件に、ファイブアイズ加盟を打診できたんだ」
「アングロサクソンオンリーの枠組みに情報漏洩ばっかする黄色人種が入れるわけねえだろ。逆にNSAが日本の内閣や官公庁、銀行や企業を盗聴してそのデータをファイブアイズの同盟国に垂れ流してるって、スノーデンにリークされてるじゃねえか」
「ファイブアイズ加盟だけじゃない。協定を結べば国連常任理事国入りが期待されていた」
「密約レベルの話でしょう? それに非常任理事国の中で国連予算の分担金を一番払っているのが日本じゃないですか。常任にして更に多くの分担金を肩代わりさせたいだけです」
「国連の安全保障理事会だってアメリカの票が一つ増えるだけだろ。機能不全の国連に今更擦り寄る意味が分からねえ」
その問いに、新渡戸は心底見下した態度で睨みつけてきた。
「ふん、お前達の頭はお花畑か? 日米は国会じゃない、密約で動いているんだぞ。それに英国も加わる根回しとなっていた」
「それでキャンプ勝連を作って、何が変わったよ? よくよく考えればレンディションもアメ公の戦略だ。何が『謀略は誠なり』だよ、結局アメリカの犬じゃねえか! 国際外交に口約束を持ち込んで何が変わったんだ? 結果的におやっさんと篠原が血盟団を復活させたじゃねえか!」
その瞬間、「お前達に境と篠原の何が分かる!」と、顔を赤くして激昂する新渡戸。その痴態に、双葉が制止するような仕草をする。
——引っ掛かったな。これで裏付けが取れた。
「やはり、篠原という人物が血盟団のリーダーだったんですね」
沈黙する新渡戸。感情に任せてこれ以上の言葉を紡ぐ前に、細くしなやかな腕が巨漢を制した。
「おやっさんと篠原は旧自衛官時代からの同期なんだろう? あんた達も知っているはずだ」
「それは誰から聞いたの?」
本人から。
そう答えようとした山田だったが、逆に彼女の意志の強さを象徴するような眼差しに射抜かれていることに気付いた。一瞬、竜崎の顔を見て、回答に迷う。
堀いわく、境と篠原は相棒だった。相棒なら絶対に仲間を売らない。つまり——
「本人以外から」
発言からおよそ三秒。ため息を吐いた双葉は、静かにベッドに腰掛けた。
「ニード・トゥ・ノウは不信感を生み出す……彼らみたいな現場の人間にとっては特にそう。やっぱり時代遅れね……まるで昔の私達よ」
「俺らはあんたらのおかげで透明人間だからな、何をしでかすか分からないぜ?」と、包帯の巻かれた拳を鳴らす竜崎。今度は山田がそれを制する形で訊ねる。
「境さんと篠原の過去に、確執があったのではないですか?」
「……そうね。二人とも志が高く、頭の切れる自衛官だった。けど、それは自衛隊では評価されないの」
「なぜですか?」
「自衛官として優秀なら、兵士や軍人には向いていない。なぜなら訓練の内容より隊員の参加率で評価されるシステムだから。一佐まで昇任して天下りを狙ったり、組織としてはお役所になってしまったのよ。『身分は国家公務員であって軍人ではない』——これは皮肉ではなく、事実よ。軍隊は基本的に貧困層の受け皿であって、勉強やスポーツもしくは芸術、このどれかを一つも頑張らなかった先に行きつく就職先でもある。より実戦的な訓練と愛国心を求めていた二人は、士気の低い自衛官の中では浮いていた。けど、二人のような人材を求める組織もあった。米国で教育を受けた二人は身分を隠し、アジア人という特徴を生かして白人では目立ってしまう作戦に参加した……そこで袂を分かつ出来事があった」
「なんだよ、それは?」
「あなた達と同じ、日本ではなく米国の国益のために働かされていると考えたのよ。当時は対テロ戦争の真っ只中だった。作戦を遂行すれば、米国や自衛隊では英雄として迎えらえる。けど、篠原はそれを拒否した。日本をテロに巻き込む可能性があると考え、米国に破壊的なダメージを与えようとした。CIAは篠原が作戦中のストレスで心神喪失に陥り、思想が先鋭化したと分析。境もそれに同意した。そして二人は激突し、境は新設された諜報組織——出内機関に残った。篠原は長い間、消息不明となっていた。けどつい最近、血盟団の幹部、恐らく首謀者となっていることを確認された」
「じゃあ、おやっさんが敵のスパイになったっつー可能性は?」
「境が敵のスパイ? その可能性はあるかもな」と、口元を歪める新渡戸。双葉はそんな彼に咎めるような視線を向けていた。が、新渡戸は半笑いしながら答えた。
「なにせ篠原と同じで頭が切れるからな。昔から敵の行動を先読みするから、味方にはいつも『二重スパイなんじゃないか』と疑われていた」
双葉は再度ため息を吐きながら、「スパイでないと言い切ることは、リアリズムではないわ。客観的な証拠がないから。基本的にはゼロトラストよ。最初から何も信じていないし、そうであった場合の対処法も用意されている」
「対処法?」
「……ここへ来る前に、NSS(国家安全保障局)も交えた緊急の合同会議に参加してきたんだ。現政権は大した実績がない。もうすぐで任期終了だ。そんな中で日露平和条約締結による四島返還は、歴史的快挙となる。多少の無理をしてでも調印式まで推し進めるつもりだろう。そのための邪魔者はついでに排除する」
「邪魔者って……まさか出内機関も?」
「もちろん、同じ国であっても情報機関同士はライバル関係にある。情報会議であっても腹の底は隠している。新しい歴史の幕開けとなる前に、今回の蹶起(けっき)解決の手柄を巡って各省庁の思惑が対立したの」
「内部にいるアセットや友人達がもたらした情報では、防衛省としては篠原とバッハ、そして——境と早乙女の排除を狙っている」
「待て待て、二人はともかくなんでおやっさんとオトメを殺す必要があるんだよ!」
部屋の外まで聞こえそうな勢いで声を荒げる竜崎を、山田は手で制した。
「境は優秀ゆえに多方面から恨みを買っている。早乙女に関しては……」
新渡戸は双葉の同意を得るように表情を窺い、彼女が頷いた後に続けた。
「ロシアの二重スパイという疑いがある」
エアコンと加湿器の作動音だけが室内に響いた。山田は一瞬、呆ける。が、すぐに感情を取り戻す。
紆余曲折あるも共に厳しい教育を受け、敵対国家のスパイと戦ってきた仲間。
それが敵国のスパイ?
だとしたら、多くの矛盾が生じるはずだ。
「彼はCIAからの研修という名目で秘密戦教育に参加したが、それ以前の経歴は不明だった。米国のアセットが調査したところ、ウクライナ系アメリカ人でCIAに入庁する前はワシントン大学、その前はウクライナにいたらしい。CIAが情報を開示しない以上は憶測の域を出ないが、出内機関の内部情報を入手するために潜り込んできた可能性がある」
「根拠はあんのかよ?」
「一連のスパイ狩りの最中、作戦の情報漏洩があった。お前達も何度か奇襲を受けたはずだ」
奇襲。
山田の脳裏に浮かんだのは、海ほたるでのマーダー・シスターズ戦。次に練馬区の公園で遭遇したスキンヘッドとの格闘戦。そして、堀を回収した際にやって来た防弾車とバイク集団とのカーチェイス。
彼らはルドゥートではないだろう。血盟団かダークウェブの求人募集で雇われた外国人集団だ。では、どうやって自分達の居場所を特定し、襲撃してきたのか……?
「早乙女がロシア側とコンタクトを取る機会があったはずだ。今回の外患誘致(がいかんゆうち)を幇助(ほうじょ)した容疑が掛かっている」
そう言われれば、常にインターネットに接していた早乙女はいくらでも相手に情報を流せる立場にあった。しかし、それならば……
「だとすれば、わざわざセーフハウスを襲撃しなくとも私達を殺害できる機会はいくらでもあったと思います」
「海底トンネルに首相を閉じ込め、蹶起できるタイミングまで引き延ばそうとした可能性もある。いずれにせよ、防衛省やそれに近い関係省庁は全員の排除を望んでいる。警察以外ね」
「なんでサツと対立しているんだ? それに、特戦群は内閣の管轄なんだろ?」
「警察は境を除く全員の逮捕を追求している。そうしなければ、世間に公表できる手柄にはならない。逆に逮捕した後は、報道規制で特戦群や防衛省の功績として主張できない。今後の他国とのオペレーションで『テロリストを排除して首相を救出した』という最高峰の実績をアピールできなくなる。そうなる前に内密に処理するつもりだ。ブラックオプスの世界では誰がやったかすぐに分かる。一般社会で評価される必要はない」
「だから篠原だけでなく、おやっさんとオトメを殺すのか?」
「『内閣には曖昧なインテリジェンスを渡し、省益さえ追求できれば良い』という考えが省庁にはあるの」
「その情報に踊らされるのは特戦群じゃないですか?」
「俺達もオペレーションの内容は直接知らされていない——これはあくまで仮定の話だが、特戦群には出内機関についてや、ケースオフィサーが二名拘束されているという情報は恐らく伝達されていない。むしろ『どこかの国のスパイ』として報告され、排除が命じられている可能性の方が高い」
「どうしてそう言い切れんだよ?」
「NSSとしても出身者がこうした事態を引き起こしたことへの追及がある。今の会議での発言権はない。むしろ何かしらの責任を取る必要がある。同時に潔白の証明が必要なの。その上、人質として囚われたことが知られたら、出内機関とNSSの面目は丸潰れになる」
「組織の面子を保つための犠牲にすると?」
沈黙が訪れた。訊いてから、山田は自分の発言に少し後悔する。
新渡戸のあの反応から推測するに、この二人が一番納得していないのかもしれない。
「……この場合、救出はアイデアリズムよ。感情論でしかない。それで——この文書はどこで手に入れたの?」
「血盟団にモグラとして潜入していた出内機関のケースオフィサーから」
「堀か……出所は篠原だな。日米同盟を揺るがすカードとして伏せていたんだろう」
新渡戸はドアノブと床の間に挟まった椅子を外し、鍵を開錠した。
「いずれにせよ俺達にできることは何もない。情報を集めて支援するのが本来の任務だ。この件は伏せておけ。公開したところで、日米両国の信頼に傷が付くだけだ」
確かに、そうなのかもしれない。あらゆる事態に対応する訓練は受けたが、根幹にあるのは「インテリジェンス」という業務。それを収集するための組織であり、チームだった。
だったのだが——
これで本当に良いのか?
これが真実なのか?
これが結末なのか?
部屋を出ようとする新渡戸。その背中からは、どことなく境に似たものが感じられた。その時、判断に迷った際に教えられた格言を山田は思い出した。
『謀略は誠なり』、か……
「——出内機関としてはどうなんですか?」
「……何?」
「バッハと篠原を拘束し、境さんと早乙女を回収する——それがベストな選択ではありませんか?」
「——そうだ。おやっさんがスパイじゃねえことは分かった、じゃあ早乙女がスパイじゃなかったらどうなんだ?」
「どうも何も、どうすることもできん」
「早乙女がCIAの内偵として派遣されたのなら、早乙女は日本の国益ではなく、同盟国である米国の国益として救出する必要があるということです」
「CIAがそこまで重要視している人材とは思えないな」
「ここで恩を売れば、出内機関としてもCIAに貸しを作ることができます」
「あいつはスパイだ。だから傭兵共が一緒に連れて行ったんだ」
「……それは俺らが決めることじゃねえ」
吐き捨てるように言う竜崎に、山田も同調していた。
自分がスパイや犯罪者ではないということを、どうやって証明すれば良いのか。囚われの身では不可能に近い。
「……この国にスパイ防止法がない理由が分かった気がします」
結局は、近世の魔女裁判や異端審問と同じだ。自分や竜崎、早乙女もスパイではないことを訴える場所もコミュニティーも用意されなかった。そうした司法制度が整備されていない未熟な国家でスパイ防止という大義名分を掲げ、声高に叫んでも、現実やネット上で気に入らない人物に後ろ指を差すのと変わらない。事実無根の密告と風評被害によって、都合良く排除される相互監視社会となるだろう。
「ふん」
山田と竜崎を無視し、ドアを勢い良く廊下側に開く新渡戸。すると、バランスを失ってよろける一人の男と、気まずそうに顔を伏せる女が現れた。
「どうせドアの外で聞き耳を立てていたのでしょう」と、双葉。
「いきなり二人も消えればこうなりますよ」と、長谷川。
「どこから聞いていた?」
「……出内機関が日本の組織ではない、というところから」と、綾瀬。
つまり全部か。
舌打ちをした後、新渡戸は「とにかくお前達には関係のないことだ。盗み聞きしようが何をしようが現実は変わらん。今から青函トンネルまで助けに行くつもりか?」と豪語する。
「新幹線で三時間は掛かりますね」と、ニヒルに口元を歪める長谷川。
新幹線で三時間……
山田は竜崎と一瞬、視線を交差させ、腕時計型デバイスを確認する。
現在時一九〇〇。
「『一二時間以内に要求が受け入れられない場合』……」
移動に三時間、トンネルに到着するまで更に数時間、そこからトンネル最深部まで片道一五キロ。普通に歩けば五時間掛かる。が……
「トンネル内でバイクを使えば——」
間に合う。
山田は目の前の全てを無視し、無言で廊下へと歩き出す。そのままリビングに直行。テーブルの上にあった武器や装備から最適な物をチョイスする。
相互運用性を考えて、武装は自分達の物ではなく敵のAKを基準に合わせた方が良い。戦闘は避けたいが、いざとなったら弾の補給が難しくなる。
部屋で情報収集に当たっていたケースオフィサー達は突然の出来事に矢のような視線を送り、「おい待て!」という新渡戸の怒声が室内に響き渡る。
「正気か? トンネル内には血盟団の連中がうじゃうじゃと待ち構えているんだぞ! バッハが率いるロシアの傭兵達だっている。そいつらを突破して二人を救出できたとしても、どうやって脱出する? それにお前達が殺されかけたヴォルガノフって奴もいるかもしれない」
アサルトスーツや拳銃は上に何かを羽織れば車内では誤魔化せるとして、銃やプレートキャリア、ヘルメットなどはバッグに詰めるしかない。この中では七・六二ミリロシアンショート仕様のAKV521ライフルがコンパクトで強力だ。銃床部(ストック)を折り曲げることもできる。更に分解すれば簡単に持ち運ぶことが可能だ。破片手榴弾は一発、スタングレネードなら二発余っている。これも持っていこう。
「結果がどうなろうとベストを尽くして、最低でもベターにしたい。誰もやらないなら俺がやります。誰のためでもないリアリズムです」
「どう考えても自殺行為——おい!」
「なるほど、相互運用性(インターオペラビリティ)ってヤツだな」
作業用に使用していたテーブルの横。隣で一人の人物が装備品を並べ始めた。部屋中の人間が注視する中、その男はマガジンポーチにAK用の弾倉を詰め直し始める。
「別に傍観してて良いぜ。責任も取る必要はねえ。俺達は存在しないレンディショングループだ」
その単語に反応した新渡戸が、すかさず竜崎の肩を掴む。それを予測していたかのように肩の動きだけで振り払うと、竜崎は弾を込め直したFNX45ピストルを新渡戸に向けた。さすがに止めようとした山田だったが、そうする前に竜崎が固い表情を崩し、拳銃を一回転させてグリップを新渡戸に預けた。
「だから邪魔をすれば容赦しねえ。口出しするなら覚悟が必要だろ」
止めたいのなら殺せ。
勝ち馬に乗って、世間に媚びれば良い。心の中で大小さまざまな理由を付けて、必死に言い訳すれば良い。
全てが終わった後に、さも当事者のごとく綺麗ごとを並べろ。
そんな副音声が聞こえた山田は、手近にあった黒いバッグに銃以外の装備を投げ込む。投げ込みながら、最後まで一緒に戦おうとする相棒に何を言おうか迷っていた。
「竜崎、俺は——」
「ったくよお、こういうのは机の上だけで判断しちまう温室育ちにはできねえぜ」
「え?」
「だから俺達がやるしかねえ」
竜崎は手を止めて、山田の顔を見た。
信念の灯った眼で見た。
「どっちも学んだ俺達が」
その瞬間、山田は竜崎の眼から海ほたるでの一件以来、気負いしていたものが消え去っているのを知った。
為すべきことが見つかった者の瞳。
「ま、馬鹿一人じゃあ、自分のケツも守ることができないだろうからな」
「おいおい……」
「馬鹿は駄目でも大馬鹿ならやれるかもしれねえ。もう一人追加なら尚更だ」
勝手な持論で早乙女の残していったドローンや無線機までバッグに入れ始めた竜崎。怒りを通り越して完全に呆れ返った様子の新渡戸は、拳銃を持て余していた。
「お前らも公務員なら分かるだろう? あんなのは形だけの訓練で、実戦なんて考えてない」
「形だけの訓練に税金使ってる方がおかしいだろ。俺たちゃ教育が終わって配属された後におやっさんと一緒に備えてたんだ。だから何も怖くねえ。組織がやらなきゃ自分でやるだけよ。それに人間はいつか死ぬんだぜ? 生き方か死に方、どっちに価値を見出すかは自由だ。その時に後悔するのは一番笑えねえ」
テーブルの上でAKの前部に装着されたアクセサリーキットを点検し、ウェポンライトの動作を確認する竜崎。
「ルドゥートとつるんでるってことは、血盟団の武装は最低でもアサルトライフルとそれに耐えるプレートアーマーを持ってるにちげえねえ。多分、AKとか手榴弾だろう」
「トンネル内部が消灯していることを考えればENVGとライトも必須だ。武器は七・六二ミリに統一しよう。敵の実包や弾倉を共有できる」
日頃から使用している光学照準器を搭載し、「ちくしょう……どこかでゼロイン(照準規正)してえな」とレティクルを除く竜崎。バックの中のプレートキャリアを調整するため、山田は身を屈める。すると肋骨付近にキリキリとした激痛が走る。呼吸ができず、急いで姿勢を戻し、テーブルに手をついた。
「……壁にぶつけられた時か」
アサルトスーツの上半身部分を脱ぎ、炭素繊維の防火インナーシャツをめくって、脇腹を手で確認。すると、何かが出っ張っているような感触があった。
「肋軟骨の骨折かもな。呼吸はしづらくなるけど、片肺固定しておくか」
息を吐き出している間に、手早くテーピングをしてくれる竜崎。肋骨付近の骨の動きを制限するため痛みが最小限となる処置だった。が、片方の肺を潰した状態で固定するため、常に息苦しさを感じた。
「……俺らはシャバを知っている社会人上がりだから良いぜ。でも、早乙女は違うだろう。あいつには未来がある。年齢と境遇がどこまで本当か知らねえ。けど、あの年齢でスパイなんて真っ当じゃねえ」
「まともかどうかは本人に訊こう」
「そうだな——さて、タクシーでも呼びますか」
山田も携帯電話を取り出した相棒にならい、ネックレスを装着。カスタマイズされたAKをバッグに放り込む。パッキングした黒いバッグを肩に担ぎ、リビングから出ようとした。が、目の前に携帯端末と拳銃を手にした巨漢が立ち塞がる。
「待て。こっちのアセットの情報によると、たった今『トンネル内で敵の二重スパイとなったケースオフィサー二名の排除』という副次目標が特戦群に与えられたらしい。彼らに悪意はない。特戦群に遭遇する前に救出するしかないぞ。もし二人の排除を妨害すれば、交戦することになる」
「だろうな。けどよ、どのみちおやっさんを失えば俺らの後ろ盾もなくなんだよ。ここ数年働いて分かった。全てはおやっさんありきだったんだろ? それがなくなれば、邪魔者である俺達の行き先なんて一つしかねえじゃねえか」
再び先の見えない収容に戻るくらいなら、死んだ方がマシだ。
「……助けに行く理由はアイデアリズムじゃないな?」
「境さんは対日有害活動から日本を守るのに必要な人材であり、早乙女もそれと同等のスキルを持っています」
一旦区切り、山田は自信を持って前に進み出る。
「長期的リアリズムによる国益です。私達は組織や政治屋、法律の奴隷じゃない。国益に仕えているのでしょう?」
僅かに逡巡があった。が、一挙手一投足に注目していた他のオフィサー達に対し、新渡戸は柔らかく通知する。
「……現場が少し混乱したが、こいつらはとある機密保持の観点から存在しない要員だ。だから——」
拳銃を竜崎に返しつつも、言い淀む新渡戸。そこですかさず、双葉が言葉を繋ぐ。
「だから、ここから先はあなた達の人事査定には響かない。みんなで彼らを支援して頂戴。英雄か犯罪者になるかは歴史が判断することよ」
その言葉で止まっていた作業、人員が一斉に動き出す。新渡戸は誰かと連絡を取り始め、双葉はタブレットPCを操作し、モニターに津軽海峡トンネルまでの経路を出力した。
「要求から既に一時間が経過している。新幹線は遅い。ここから横田基地まで行って」
「こっから横田までだと一時間くらいか」
「横田からは?」
「ガルフストリームジェット機で三沢基地まで行って。時速九〇〇キロなら約一時間。三沢からはトンネルまでヘリで行けば三〇分も掛からない。手配する航空機は無人化されているから、パイロットへの言いわけは考えなくて良い。隠し斜坑の位置は端末に送信しておく」
「現場上空は完全に封鎖されているようです」と、別の女性オフィサーが報告する。
「そう。けど、外務省として現地に話は通しておく。米国の意向として押し通せば上手くいくかもしれない」
「ま、こういう時は便利だよな」
「そこからは最深部到着まで約一五キロ。普通に歩き続ければ五時間ね」
山田は竜崎とスマートウォッチの時刻規正を実施。同時にストップウォッチ機能も起動し、タイムリミットが分かるように表示した。
「徒歩オンリーなら猶予は三時間か……」
廊下で電話をしていた新渡戸は戻ってくると、「特戦群はバイクを使うようだ。現地調達らしいから、余った車両を回して貰えるように手配しておく」と宣言。
「ありがとうございます」
「感謝は必要ない——それと、これで境の位置が分かる」
山田はブレスレットタイプの小型デバイスを渡され、液晶が見えるように腕に巻いた。
「境が出しているシグナルは、お前達と同じGPSアンクレットのものだ。微弱な電波も発しているから、近付くとレーダー上に反応が出る」
「そんな便利な物があるなら、特戦も持っているんだろ?」
すると、居心地が悪そうに新渡戸が視線を逸らした。
「……渡さなかったんですね」
「へっ、何だかんだ仲間が大事なんじゃねえか」
鬱陶しそうにその台詞を無視すると、新渡戸はモニターの方に顎をしゃくった。
「トンネルに到着する午前零時頃には、血盟団が指定したタイムリミットまで残り六時間を切っているだろう。首相が殺されるタイミングで境や早乙女も消されるはずだ。最深部到着までバイクを使えば早いだろうが、足止めを食らえば間に合わなくなる可能性もある。極力、血盟団や特戦群に遭遇せずに、日の出までに境と早乙女を連れて脱出しろ」
「できれば両首相も救出して欲しいけど……そっちは特戦群の仕事。横やりを入れない方が得策ね」
「ヴォルガノフや篠原もいるが、遭遇したら迷わず逃げろ」
「救出した後はどうすりゃ良い? 真冬の北海道や青森にほっぽり出すわけにもいかねえし、怪我をしていたら治療も必要だぜ」
「誰かが回収する必要があるな……」と、新渡戸。
「こっちの内情を知っている誰かが」と、双葉は回転椅子をターンさせ、手の空いている二名のケースオフィサーに向き直った。
「私が行きます」と、綾瀬。
「私は無理です」と、長谷川。
「機密情報を盗み聞きした場合、懲役一〇年だけど、参加拒否なら更に——」
「仕方ないですね、やります」
「もしもの場合も考えて、空路とは別に陸路で向かって。新幹線で東京から青森まで向かい、そこからヘリでトンネル付近まで接近してちょうだい。新幹線で約三時間。時速三〇〇キロのヘリなら約一五分で現着する」
「適当な場所にヘリを降ろして騒ぎを起こすわけにはいかないからな。一時間半掛かるが、三沢まで行け。調整しておく」
「そうすると、仮に代理で私達が救出に向かったとしても、最深部到着後の猶予は一時間半……」と、綾瀬。
「こんなことなら茨城県から青森まで新幹線で行けば良かったな」と、笑いながら竜崎は新渡戸から投げられた車のキーをキャッチ。
「茨城県は全国で唯一、新幹線が県内を通っているのに停車駅がないんだよ」
「マジかよ……」
「群馬県ですら停車駅があるのに悲惨ですねえ」
「『跳ばずの長谷川さん』は群馬出身なのかよ?」
「そうですけどそのあだ名は止めてください。蹴り殺しますよ?」
「失敬失敬」
最低限の装備を整え始めた二人の同期をおいて、リビングから廊下に出ると、背後から「山田、竜崎」と名前で呼び止められた。
「トンネルに入ったら、お前達のGPSアンクレットも通じなくなる」
そう言えば……
アンクレットに薄く表示されるバッテリーの残量を確認。緑色に四つ点灯するメモリーの内、三つが消え、残り一つが赤く輝いていた。
「……バッテリーも、数時間後にはなくなる」
「そいつをモニターしているのはDOでお役所仕事をしている一部の内勤、それと境だけだ」
そこで一旦区切り、新渡戸は背中を向けた。
「俺達は知らん」
山田は何も訊かなかった。
竜崎も何も訊き返さなかった。
二人でマンションのドアを開け、無人の内廊下へと跳び出した。
◆
一時間後。
横田飛行場、ガルフストリーム機内。
滑走路を飛び立つビジネスジェット機の中で、山田は竜崎と装備のチェックをしていた。
ヘルメット、無線機、小銃、拳銃、ナイフの点検。
ENVGとIR照準レーザーの視準校正。
プレートキャリアのポーチの位置や衣擦れの音。
タクティカルグローブやブーツがタイトか否か。
フェイスマスクでアイウェアが曇らないようにアンチフォグ(曇り止め)を塗ったか。
最後にサプレッサーをAKとFNX45に装着し、トンネルの図面を見ながら頭に叩き込む。
目的は潜入と救出、そして脱出だ。脱出後は……
そこでふと、山田の脳裏に妙案が浮かぶ。携帯端末を取り出し、とある人物に連絡。
「どうした、ヤマちゃん?」
「脱出後の保険を用意しておく。多分、大丈夫だと思うけど……」
頭の上に疑問符を浮かべた竜崎を放置し、メッセージの返答を確認。了解の旨を取る。すると、携帯端末に着信が届いた。なぜか発信者の名前や電話番号すら液晶に表示されない。が、端末の特性とタイミングを考え、間違い電話の可能性はないと山田は判断。竜崎のことも考え、スピーカーモードで応答する。と、懐かしくも忘れられない人物の声が聞こえた。
《久し振りだね》
「……ウッダードさんですか?」
《そうだね。現地の調整を頼まれたのと、懐かしさから電話してしまった。日本の特殊作戦群は既に突入を開始したらしい》
竜崎と頷き合うと、彼は木目調のテーブルに置いた端末に向かい訊ねた。
「あんたもCIAだったのか?」
《君達と同じケースオフィサーだったよ。まだ色々と信じていた時代のね》
全てが仕組まれていたような感覚に陥り、山田は自嘲する代わりに皮肉を飛ばした。
「これで出内機関にも貸しができましたね」
《いいや、むしろその逆だよ——なんにせよ、これが君達のリアリズムなら検討を祈る》
一方的に切られる通話。山田は気にせず、無線機とドローンの制御端末のケーブルを整理していく。エンジン音しか聞こえなくなった機内で、ソファーに堂々と座って見取り図を眺める竜崎。真面目そうなその姿に、山田は妙な笑いが込み上げ、それを噛み殺した。
思えば、もう何年も一緒にいた気がするな……常に境と早乙女もいたが、二人は今、北の大地に囚われの身となっている。
「……正直、一人で行くのは不安だったよ」
「今までチームだったからな。俺は一度始めたゲームは途中でリタイアしないたちでね」
「俺もだ」
端末整理を終え、ソファーに座り、円形窓から闇夜を覗く。眼下に見える街明かりは曇りがかっていた。が、それが気候によるものではなく、窓ガラスの性質によるものだと気付いた。
逮捕されて沖縄の秘密収容所に監禁され、静岡の米軍基地でスパイ学校に入校し、地元茨城での田舎生活の後は空の上、か……
「人質司法やレンディションで自由を奪われて、初めて自由を知ったよ」
「へっ……自由って、良いもんだよな」
飛行場で手に入れた炭酸飲料をガブ飲みする竜崎。山田も真似して、途中で購入した食料品の入ったビニールから同じジュースを取り出し、喉を刺激する。
俺は今、自分の意思でここにいる。
「いつも自分に言い訳していたんだ」
「ヤマちゃんが?」
「ああ。努力した後ならまだしも、全てを社会のせいにしていた。でも、死ぬまでそれを続ける訳にはいかないって気付いた。どこかの時点で、切り替える必要がある。それは転職だったり、やりたいことを追い求めることだったり、人それぞれだけど、住む国を変えることもできる……俺は上京して、夢を目指して、強い何者かになりたかったんだ」
クリエイターになりたかったかつての自分。しかし、欲しいのは夢だったのか、うだつの上がらない自分を変える肩書きだったのか。
「けど、それは一定の努力をした先、成功体験を積み重ねて自信を掴んだ後にある話だった。弱い自分に自信と説得力を持たせる行為から逃げていた。情報過多の時代で、都合の良い情報だけ見ていた。他人に責任をなすりつけることしかしなかった……目指すものが見つからなかったのは、今まで何も挑まなかったからなんだ」
山田はこれまでの強烈な体験を振り返り、自分の中で結論を出していた。
「才能がないから努力もしないで生きていく——それが通じるのは創作の世界だけだ。才能がないならどんなことでも努力して挑むしかない。ゲームが終われば現実が待っている。いつかは闘うしかないんだ」
「ま、口を開けて待っている奴とか、ただ泣きわめている奴とは関わりたくねえし、他責思考を助けようとも思わないからな。簡単にはいかないけどよ。ただ……とことん追い詰められた奴らが血盟団になっちまうんだろうな」
「余裕がない人間、目的がない人間は誰かに託すしかない。足を引っ張るスパイト行動ではなく、全員で支えるリアリズムで。それがないから、血盟団のような存在が大きな社会不安をもたらした。本当は政治にやって欲しいけどね」
「政治が無理なら俺らがやるしかねえ。人生最後の瞬間、愚痴と批判ばかりで、結局、自分は何もできなかったって後悔したくねえからな。人間は自分以外の何者にもなれねえし、説明もできねえ。どんなに遠回りしても自分を偽ることは不可能だ」
逮捕されてから、散々裏切られてきたのにもかかわらず、人や組織を信じてきた。
今思えば、それが間違いだった。期待することが間違いだった。
自分が望んだ反応以外の答えが返ってくると、勝手に「裏切られた」と怒っていただけだったのだ。
組織や社会、国家は親ではない。
自分の道は自分で切り開く。
「何者」になんかならなくて良い。
「何者」にもなれない自分を責めなくて良い。
自分が求める自分に挑めば良い。
その先でしか見つからない道がある。
——そういう意味でも、境はゼロトラストと言ったのだろうか。
諜報機関の不祥事など、業界に入って来た人間を失望させるようなインテリジェンスの世界の真実を、先に説明したのか。
それは境自身、今この瞬間と同じように、組織に裏切られ続けてきたからか。
そして篠原という相棒にも、裏切られたと感じているのだろうか?
会話が途切れたタイミングで、山田は残りの準備を終える。と、大きな欠伸を漏らした。しばらく仮眠をとることに決め、ソファーに横になる。竜崎も疲労が溜まっていたのか、仰向けになって回復に専念している様子だった。
数時間後には、行ったこともない土地、見たこともない巨大施設で殺されるかもしれない。恐怖はある。でも、不思議と落ち着いている。神経が麻痺しているのか、仲間の前で格好悪い真似はできないと虚勢を張っているかのどちらかだろう。
それとも「自分にならやれる」という根拠のない自信を持ち合わせているからか。
「このゲームならクリアできるはず」だ、と。
山田は重くなった瞼に逆らわず、トンネル内の構造を思い返しながら眠りにつく。
海面下一七〇メートルに拡がる、極寒の海底トンネルでの決戦のために。
結 SLAVE,SERVUS
「知っているかな? 戦後の青函トンネル建設時、映画館の看板書きをしていた岡坂虎雄という人物が建設所に入所し、工事に携わった。完成が近付くにつれ、受付や見学者の案内役を担当していったが、元は陸軍士官学校卒業後に中野学校で教育を受けた後、特務機関に所属していたらしい。つまり、俺達を育てた出内機関の先輩が築いたトンネルなんだ」
旧友の解説に耳を傾けている内に、境は目隠しを外された。
疲労と痛覚を遮断し、室内を見渡す。白色照明の眩しさに目を細めながら、視界に入ってきたもの全ての情報を頭にインプットする。
そこは連結された横並びの長テーブルに、大小のマルチディスプレイが設置された指令室だった。インテリジェンス課程で使用していた教場くらいの奥行。回転椅子には血盟団と思しき軽武装の人間達が着席、モニター監視を行っている。白い壁面にビルトインされた横長の巨大モニターには、第二青函トンネルと思しき図面が出力されている。現在地の光点を見ると、トンネル最深部である『第2非常運転制御室』になるようだ。
ここは運転指令所に近いものなのか……地上だけでなく海底にもあるとはな。
両手を腰の後ろでダクトテープによって拘束された境は、冷たい硬質の床にひざまずかされていた。そのため、アサルトスーツに内蔵されているニーパッドに膝の皿を乗せる。腰や関節は痛み、ナイフで刺された頬や手は動かす度に神経がズキリと反応した。が、手には包帯が巻かれ、一応の処置はされていた。背後にはバッハとヴォルガノフ、そしてルドゥートの残党が数名。隣には目隠しとイヤーマフを外された早乙女が同じように拘束されており、汚れた服と顔のまま膝を崩して座っていた。
どうやら全ての武装を奪われているようだ。彼がロシアのスパイなら、拘束を解かれていても良いはずだが……
制御室の隅にはスーツを着た二名の男が目隠しとイヤーマフをされ、椅子に座らされている。両腕にはワイヤーか導線のような物を巻かれており、胸元にはC4プラスチック爆薬が分かりやすくセットされていた。他にも拘束されている私服やスーツ姿の人物がちらほら居たが、あからさまにトラップが仕掛けられている者はいなかった。加えて、人間爆弾の片方は白人だった。
どう見ても日本とウクライナ両国の首相だが……人質に取られたか。
「本来であれば、こうした人命に関わる公共事業従事者の身辺調査は必須だ。今後はこうしたテロ対策も重要になってくる。教訓になったな?」
現職の総理大臣の肩を叩く篠原。背格好は竜崎に似ていたが、アサルトスーツとタクティカルベルトで武装している。そして、相変わらず銃火器は身に着けず、ナイフを一本だけ——ではなく、レッグホルスターに拳銃を入れているようだ。
木製のグリップが見えるが、あれは狸穴の時に落としたp220「9ミリ拳銃」か……
「まあ想像できなくとも無理はない。津軽海峡トンネルの保守点検作業員のほとんどが血盟団の構成員だとはな」
作業服とヘルメット、そしてAKを身に着けた数名が、制御室のモニターとリンクしたタッチパネルを操作していた。どうやら他の構成員に使い方を指導しているらしい。肩のベルクロには血盟団のシンボルであるベヒーモスのワッペンがあった。室内は人質も含め、ざっと一五名程度。その中で、黒猫の仮面を着けた長身の人物が回転椅子に腰掛けていた。ベージュのレディーススーツは破れやほつれが目立ち、ストッキングは所々伝線している。長い脚を組み、妖艶な雰囲気を醸し出しながら、こちらに向けて優雅に手を振っていた。手元には巨大なハンマーがあり、その先端は赤黒く染まっている。
海ほたるのヤク中女か……
「それ以前に、獅子身中の虫を何とかすべきだったかな?」
紺のスーツとネクタイで着飾った一人の中年男が、首相達の眼前に手を振って「……聞こえてないよな?」と、篠原に訊ねる。
あの男は確か、防衛省の政務次官か?
「ヘッドホンから音楽も流れているから聞こえていないよ」
安心したように額の脂汗を袖口で拭う男。ふと、境の視線に気付き、「こいつは?」と指してきた。
「問題ないよ。もう自由にはなれない」
「そうか。まあ、今回の黒幕が防衛省だと知ったら——」
そう言うと、男は総理大臣の腹部に蹴りを放った。革靴の先端が鋭角に突き刺さり、総理は椅子から転げ落ちると、脇腹を押さえて呻きながら亀のように背を丸めた。
「腰を抜かして驚くだろうな。この野郎……秘書時代にくだらないことで何度も、何度も!」
背中を何度も踏みつけられ、その度に咳き込む総理大臣。満足したのか、男は息を切らしながらテーブルにあったペットボトルで水分補給をする。
「政務次官まで出世したのに、スキャンダルとは運が無かったね」
「霞が関の誰かがリークしたんだ! ただでさせ落ち目の防衛省で働いてやったのに……NSSにお株を奪われ、外務省までインテリジェンスに出しゃばり始めた。特殊作戦群も掠め取られ、イージスアショアも失敗し、度重なる防衛装備品の談合問題で防衛省の発言力は地に堕ちている」
「ま、特戦は内閣の指揮下だからね」
「軍の人員不足や待遇改善の稚拙さ、隊員の不祥事から現政権は防衛省を除け者扱いし、特戦群を内閣直轄として影で運用している。これでは我々の手柄にはならない。防衛省には防衛省の部隊がいる。彼らを投入させれば良かったと後悔させてやる」
「今回のオペレーションを失敗させれば、インテリジェンス・コミュニティーでの発言力は間違いなく高まるさ」
「戦闘ありきなら初の国内実戦任務だ。失敗すれば存在意義から見直す必要も出てくる。何より、建前は防衛省国防陸軍所属だ。明るみになれば総理はともかく、大臣は引責辞任するだろう」
「そして悲劇の英雄として生き残った君は、堂々と記者会見を開き、副大臣として返り咲く」
「内閣や外務省にイニシアチブを取られて困るのはうちだけじゃない。公安調査庁や警察庁も畑を荒らされることになる。予算は限られているんだ。どこの省庁の功績か明確にしなければ、来期の予算に響く。それに、昨今は検察庁も一枚噛みたいらしくてな。コミュニティーの裏側では、今回の計画に対して賛同者が多かったよ」
……何とも稚拙で杜撰な計画だ。こいつらのやっていることは国益どころか、省益を追求しているだけに過ぎない。が、人質を取った犯人を怒らせてもメリットはほとんどない。逆上させて四肢にダメージを負えば、それだけ脱出が難しくなる。
むしろ迎合することが大事だと、境は聞こえないふりをして目を伏せた。
それより、ルドゥート達に政軍隷属計画を知られている方が問題だ。
「今の政権は財務出身の閣僚を起用した内閣で構成されている。私も財務省から防衛省に出向させられたが、これは左遷だ。せめて閣僚に食い込むくらいの実績を上げなければ、政治家になった意味がない」
政務官は床から椅子に戻された総理の禿げ頭を叩いた後、ウクライナの首相の前に屈んだ。
「政治は人徳じゃない。『地盤、看板、鞄』だよ。そこに家柄と最低限の学歴があって初めて出世できる——あんたの国もそうだろう?」
「汚職政治屋が……平和の価値を知らない国と一緒にしないで下さい」
怨嗟の声に、境は顔を上げた。発信源は隣。色白の青年であり、精一杯の侮蔑を込めた視線を政務官に送っていた。
「早乙女、無駄に挑発——」
唐突に、早乙女の頭部が視界から消えた。接近した政務官による一撃。渾身の前蹴りを顔面に受けた部下は受け身を取れず、背後にいるヴォルガノフの脚に激突。鼻血を噴き出した。
「お前達のような単純労働者が、最低限働ける国にしてやっているのに、どれだけ功績を上げても理解せず、人の揚げ足取りばかり……下らないことばかり報道して中傷する……」
総理と同じように、政務官は早乙女の腹部を何度も踏みつける。
「政治家舐めんなよ庶民が! 俺もな、最初は国家や国民のためと思って勤めていたんだ! 確かに生まれは裕福さ、だからこそ一般的な家庭の苦労を知って、貧困で苦しむ人に寄り添い、助けようと思った! 家を出てバイトをして、就職活動をして、サラリーマンを経験してから議員になった! 多くの勉強会に出席して、本を読んで、現場を視察し、労働に関する問題を提起し、働き方で病んだり、自殺した人間に心を痛めた!」
身体を丸めて防御姿勢を取り続ける早乙女。乳酸が溜まったのか、政務官は再び息を荒くしながらその場を離れていく。
「……そして一気にくだらなくなったよ。真面目にやっても、政界で出世するわけでもない。寝ないで努力しても、あることないことメディアに叩かれ、毎日の執務に疑問を覚えたよ。そこから割り切って出世のことしか考えなくなったら、とんでもなく楽になった。自分のことだけしか考えず、努力もしないで他人を叩き、足を引っ張る生物のために、俺が犠牲になる必要はない。利用されるか、するかなら、俺はする方を選ぶ。人生は食うか食われるかだ。今まで俺を見下してきた連中を全員顎で使ってやる」
中身を飲み切った空のペットボトル。政務官はそれを総理大臣目掛けて投擲。小気味良い音を立てながら、容器が跳ね返る。
「お前達がそうさせたんだよ」
そう愚痴をこぼす政務次官。懐にあった刃渡りの短いナイフを手の中でもてあそびながら、篠原はその様子を眺めているだけだった。が、掛けていた眼鏡のフレームを指で押し上げると、早乙女の近くまで椅子を引き寄せ、静かに腰を下ろした。
「ここにいるほとんどは社会に尽くしてきた人間ばかりだ。確かに半グレもいるが、元は真っ当な人生を歩んできた者達ばかり。それが血盟団に集まる理由が分かるかな?」
女性の構成員が横から現れ、早乙女の鼻にティッシュを詰め込む。
「なぜですか?」
すると、顔の切創にガーゼを押し当てながら女性が答えた。
「だって虫がよすぎない? 自分の生活のために、お金のために私は医療に従事していた。あなた達と同じ。それなのにパンデミックの時だけ頼って、まるで慈善事業のように扱った。それって、国民皆保険だから気付かないだけでしょ? 交番やごみ収集、救急車に水。全部無料で安全に手に入るから勘違いしている」
処置を終えた女性が去ると、篠原はナイフをペンのように指の間で回しながら語り出す。
「血盟団は集合体だ。バイト仲間や大学のサークル、部活動と変わらない。組織や個人ではなく、財務省の緊縮財政や政治屋の怠慢によって、回り回って自然的に発生した。だから止められない。自然災害と同じなんだ」
「社会的弱者を食い物にして、自分達の目的を果たしているだけじゃないですか?」
「確かに。その見方も正しいと思う。聡明だね——別の見方もしてみようか。社会的弱者を生み出す側になるよりはマシだと思ったんだ」
「生み出すことはなくても助長しています。国の成り立ちや経済的な不満に固執せず、自分の人生は自分で切り開くべきです」
「と、言うと?」
「世界中、大半の国家が日本より過酷な状況に置かれています。弱者でもネットにアクセスして発言権を得た気になれるのがその証明です。本来は可視化すらされずに死んでいく。どんな国でも弱音を吐く弱者が生物として淘汰されていくのは必然です」
早乙女の論は詰まるところ、「原因と結果」。確かに正論だが……
「早乙女、ここで怒らせても——」
「さすがはウクライナ出身の二重スパイ。説得力があるね。君は日本でも生活しているからなおさらだよ」
……早乙女、それは果たして、事実なのか?
境は確かめるように部下を見詰める。視線に耐え切れなかったのか、早乙女は顔を背けた。
「本やネットの情報だけで物事を判断する人間ほど、愚かな生物はいないからね。言葉じゃ信念は曲げられない。やっぱり背中で見せなきゃね」
ナイフをしまい、立ち上がる篠原。それに同調し、境は無理矢理身体を起こされた。隣にいる早乙女は更に荒っぽく、ヴォルガノフに引き上げられる。
「適当な位置情報ばかり送るから、結局こちらから特定するはめになったぞ。その責任を追及させてもらおう。ゴルバチョワや演奏家達の分までな」
背中を突かれながら、制御室の出入り口であるドアまで境は連れて行かれた。背後には早乙女。先頭には篠原とルドゥート達。アサルトスーツを貫くような寒気の中、坑道内を歩かされる。遮蔽物も何もないトンネルに、複数人が歩く靴音が響く。
床や壁、天井も全て無機質なコンクリート。壁の上部には延々と続く蛍光灯。制御室に表示されていたマップが正しければ、ここは「作業坑」か……
そこから右に曲がると、黒地のプレートに白字で『No.18 連絡誘導路』と書かれた狭い通路があり、そこを潜らされる。
ここが「連絡横坑」か……するとこの先が本線の通る「本坑」。奥の方がやけに騒がしいが——
通路を抜けた瞬間、一気に開けた空間へと躍り出る。同時に飛び込んできた光景に、境は絶句。内部の白色LED照明のおかげで、その全貌があらわになる。
中央にスリット式の隔壁を挟んだ片側一車線の海底トンネル。
道路上に蠢く集団。
その数、見渡す限りでざっと二〇〇名以上。
それもここだけの規模であり、他の坑道にはもっといるかもしれない。隔壁を無視すればトンネルの幅は一五メートル程度。東京湾アクアトンネルに酷似した構造。車線の延長線上には武器や弾薬、装備を整えながら待機している人の山。その黒山のような人だかりからは金属同士がぶつかる音、連携を取り合う声が響いてくる。全員が統一された迷彩服とAKで身を固め、無線機や機関銃、携帯式のロケットランチャーまで保有していた。
どうなっているんだ、これは……
一〇〇メートルほど先では天井や隔壁が崩落しており、潰れた車両の影響もあって道路封鎖されている。それは反対側も同じで、境の居る位置は崩落地点を背に集団へと向き合う形だった。集団の中には赤ん坊をおぶった女性構成員までいる始末。年齢も性別も滅茶苦茶。良く見れば半分は外国人でありアジア系。その上、大型犬や猫までいた。
構成は滅茶苦茶だが、まさに軍隊だ。
実包を詰めておくウッドボックスが階段のように積み重ねられ、壇上が設けられていた。その階段部分に座る篠原。境は早乙女と階段の後ろでひざまずかされた。篠原は作業に集中している大勢の構成員達には向き合わず、まるで内緒話をするように屈みながら語り掛けてくる。
「報われない社会が憎いだけだよ。だから俺は社会に変革をもたらす」
手下からワイヤレスのヘッドセットを受け取ると、階段を上がり、壇上に立つ篠原。かつての相棒は、群衆を見下ろすだけで何も言わない。
次第に構成員達が作業を止めていく。
ボスの行動、言動に備えるかのように、静かに視線を一点に集中させていく。
命令を待っているのだ。リーダーの命令を。
歓声も何もない。ただ全員がこちらを崇め、直立不動の姿勢を取る。
《リヴァイアサンの犬共を引き入れよう。彼らの首輪を解放して、初めて俺達の力が証明される》
車線の隅、路肩に設置されたスピーカーから増幅された声が轟く。声を発する度に内壁に反響し、コンサートのような迫力と荘厳さが演出される。
《俺達の日常は、映画になるほどの感動もなければ、賞賛を浴びることもない。恵まれた人間の足元で、食い散らかされた残飯を奪い合い、社会にとって必要な仕事をしても認められることはない。それが永遠だと自分達で気付いた》
言葉を区切り、穏やかな口調から一転、確信へと導く声音へと変貌していく。
《今までそそのかしてきた連中が、観客席から儲けている事実に》
トンネルの中で爆発があった。音の爆発。円形にくり抜かれた壁に怒声や赤ん坊の泣き声が反射。地上で発露できない恨み辛みは今、この海の底で正当化されている。
《俺は約束通り、日本人民民主主義国を建国する》
何だって?
今度は拍手が鳴った。鳴り止まない拍手。だが、篠原が手を挙げるとすぐに鎮静化する。
《日本にとっての外圧は常に米国だった。奴らの圧力で日本人は去勢された。誇りを失い、権力と戦う気持ちを忘れ去った。それが戦後の対日洗脳工作だったからだ。野球やテレビを普及させ、核攻撃による民間人虐殺から目を背けさせ、マスコミは決して米国の悪口は言わない。それは百年近く経った今でも変わらない。日本人の民族的イデオロギーを取り戻すには内圧しかない。島国の民族的イデオロギーは内圧でしか変わらないんだ》
「俺達」という分かりやすい一体化。「米国」という共通の敵。それらを上手く組み合わせ、篠原は言葉を紡いでいく。
《この世で最も強者なのは誰か? それは警察でも軍隊でも政府でもない》
自分自身の胸を何度も指し、篠原は語り続ける。
《それは武器を持った国民であり、戦闘能力のある死を恐れない集団だ。死を恐れないということは、失うものがないということだ。逮捕されようが収監されようが関係ない。世間体もない。法治国家では常識外の存在だ。常識外の存在に法律は勝てない。常識とは法律のことだからだ!》
声を荒げたのはその瞬間だけだった。オーディエンスはただ静かに壇上の指導者を見守っている。
《俺は君達が報われない社会が憎い。だから全力で立ち向かおう》
一斉に、肩に貼られたベヒーモスのワッペンに手を置き、胸を張る群衆。彼らなりの敬礼。相互への敬意。それは異様な光景だったが、統制された美もあった。篠原が手を下ろすと、各自は無言で作業を再開。装備を整えた集団は武器を持ち、次々と連絡横坑を通過。いずこかへと消えて行く。
これが血盟団。これが新しい国家。ベヒーモスなのか。
無秩序の獣達が去って行く中、階段を下りてくる篠原。
「イデオロギーは法ではなく、アイデアリズムでコントロールするんだ——感想を聞かせてくれ」
「……ポピュリズムに対する詭弁に聞こえました」
演説が終わると、境は早乙女と来た道とは別の連絡横坑へと連行された。作業坑に入ると、薄暗く、積み上がった資材で閉鎖された区間に座らされる。構成員の気配もなく、境は嫌な予感がした。冷たい地面がその悪寒を更に助長する。バッハとヴォルガノフ、ルドゥート、そして篠原に加え、どこからともなく現れたハンマー女にも囲まれる形となった。
「……お前が裏切るとは思わなかったが、これで妹の命はないと思え」
バッハの宣告に、早乙女の後ろ髪を強く握るヴォルガノフ。そのまま引き摺られ、後頭部を壁に押し付けられて苦悶の表情を浮かべる早乙女。
話だけ聞く分には、「人質に取られた妹のために仕方なく」という風にも捉えられる。が、この状況でどうする? 直接問い質して真実を訊きたいが……
ヴォルガノフの肩に手を置き、篠原がなだめる。
「二度目のチャンスを与えよう」
篠原は早乙女の眼前に屈み、目線の高さを合わせる。首の動きを制限されている早乙女。境の位置からは二人の横顔が見えた。老年の革命家と、青年のスパイ。
「聡明な君なら、妹さんだって才能溢れる人だろう。彼女がどこにいるか知らないが、君達に金銭的なバックアップを約束する。出内機関の情報とハッキング技術を血盟団で役立てて欲しい。どのみち、出内機関には戻れないだろう?」
口を真一文字に結び、視線を下げる早乙女。
「これからは自分のために生きるんだ。自分のために生きれば、最終的にそれが大勢の幸福に繋がる時代だ」と、そそのかす篠原。
「有り得ない……信用できません」
すると、近場に居た構成員の一人に向き直る篠原。
「君はなぜ血盟団に入った?」
「お金です」と、即答する構成員の若い男。彼は早乙女に対面する。
「食べていくためですよ。夢やプライドで飯は食えません。就職と変わらないと思います」
「あなた達は、反社会勢力なんですよ……?」
「血盟団の構成員がいくら貰えるか知っていますか? 一年いれば手渡しで五〇〇万ですよ? 二年目からは更に上乗せされて、三年目からは要職に就ける」
「その間に捕まるはずです」
「全員が非合法なことをしているわけじゃありません。二回以上、行動確認や尾行がつけば『退職』です」
境は思わず「退職?」と、訊き返した。
「大陸側への非公式な亡命ルートがあるんだ。日本人だと勤勉さが評価されているから、向こうでのポストは確保されているし、語学を履修する時間も設けられている」と、あっけらかんと話す篠原。
「今の日本はね、『普通に生きていくこと』が難しくなっているんだよ? 大半の人間が薄給で長時間労働を七五歳までやって、貰えない年金を無能な政府に奪われ続ける。そして老後は再就職か、老衰か病死。年々減っていく一人当たりの所得、結婚もできず子供もいないから、頼れる存在もいない。そんな国で人生を無駄にするより、ちょっとリスクを齧った後に、適当に働いたりサボったりして、好きなことをちょっとずつやって死ぬ。そんな人生で何がダメなんだい?」
確かに、時代に助けられた俺と、部下達の時代は違う。「景気が良い」という状態を知らない世代は、そういった思想を抱いても仕方がない。それにしても——
「これだけの資金をどうやって集めた?」
「スポンサーがいるからね。暗号資産はコールドウォレットに入れて持ち運べば、インターネットからは隔絶される。電脳から現実の世界に持ち運べるんだ」
「やはり中国とロシアか」
「それだけじゃない。出内機関の隠れ蓑であっても、秘密戦教育を出たオフィサーの活躍が外務省の功績となることは変わらない。それを疎んじる連中もいるんだよ。暴力団も規制され、汚れ仕事を請け負う組織の需要も高まっているから職には困らない」
モグラどころか、国内の支援者がいるということか。
「腐っているな」
「お互い様だろう。綺麗ごとだけでは外交は進まない。政軍隷属だってそうだ……お前、あれを知っていたのか?」
真っ暗な瞳で、境の顔を覗く篠原。かつて一緒に戦った友人の面影はある。が、眼鏡を通し、暗い焔を灯した目の奥に睨まれ、境は背筋に冷や汗が流れる。
「……お前が姿を消した後に知った」
「そうか——まあ今となっては良い。それで早乙女君、どうかな? 君と同じような思いをする人を減らす選択でもあるんだよ、これは」
早乙女は秘密戦教育時の態度から別人のように、気丈に振る舞う。
「さっきまでは『自分のため』と言って、今度は『人のため』ですか? 誘いたいからって、矛盾していますよ」
篠原は「気にするな、社会が悪い!」と、笑顔で発言。青年の肩に手を置く。
「そして、自分のために生きて何が悪い? 大抵、大勢を救おうとする人間は、自分と周りを不幸にする。そして、救おうとした人間達に最後は裏切られ、勝手に世の中を恨んで死んでいくんだ。これもメサイア・シンドロームの副作用だよ。国や政府が君に何をしてくれた? 君の魅力や技術に気付けない馬鹿に奉仕しても、誰も報われないぞ?」
「僕が裏切ったら、CIAを……アメリカごと敵に回すことになりますよ?」
「もちろんだ。頑張るぞ」
その言葉に唖然とする早乙女。
「そうやって、色んな人を後戻りできない場所まで誘い込んでいったんですか?」
「むしろ救った。そういう場所に来た人間達をね。本来はどうすることもできない。二度目のチャンスなんか、この国は設けないからだ。だから、『謀略は誠なり』を実行したんだ。社会に仕えてきた人々に報いるためのね」
「……お断りします。日米を相手に戦うなんて、狂人の世迷言ですよ」
キッパリと誘惑を断ち切る部下。篠原は静かに立ち上がると、真顔になった。
「社会的弱者の味方になるということは、それ相応の覚悟が必要だ。相手からの支援は一切望めない。それを分かった上で、君を誘ったことを忘れないで欲しい」
途端に、早乙女の両腕が真横に引っ張られた。左右の構成員達によって壁に磔にされ、ヴォルガノフの巨大な片腕で頭を鷲掴みにされる。
「残念だよ」
無理やり正面を向かされる早乙女。境は冷静な振りをして焦っていた。
早乙女に何かあれば、自分が脱出する確率も低下してしまう。それに、これで彼が本心からスパイ活動をしていなかったことが分かった。「謀略は誠なり」、ここで出内機関にもう一度懐柔させれば、様々な情報をもたらしてくれるはずだ。
懐から黄金色に鈍く光る実包を二つ、篠原が取り出す。それをヴォルガノフが受領。その内の一発を指で挟み、早乙女の右目を刺すような位置で保持する。
「ロシア製の五・四五ミリ弾は、七・六二ミリロシアンショートより発砲時の反動が小さい。貫通力も劣るし、障害物に当たった際、跳弾が起こる可能性がかなり高いんだ」
眼球に直進するようなポジションで浮く実包。
それに目掛け、ハンマーを軽くスイングし始める女。
その瞬間、境は目の前の集団が何をしたいのか理解した。それは部下である青年も同じに違いない。早乙女の呼吸は乱れ始め、まばたきの頻度も増していた。
「運が悪いと、雷管を叩いてしまうかもしれないな……行こうか、かつての相棒に見せたい一面ではないからね」
境は縛られた後ろ手を篠原に持たれると、地面から浮き上がるような勢いで引き上げられた。
何だ、今の力は。
「何か言い残すことはあるか? 我々は革命で忙しい。手短に頼む。ここの演奏家達は身体や知能も弱く、心も折れやすい人間が多いからな」
震える唇。そして、青ざめていく顔色。ただでさえ白い肌のせいで、もはや死人のような面持ちの部下。境は二人の構成員に両側から確保されながら、周囲に利用できそうな物がないか視線を走らせる。
——駄目だ。物がない上に、何よりダクトテープがきつく巻かれた腕ではどうすることもできない……!
早乙女は必死に余裕を取り繕いながら、「ふ、ふふ」と苦し紛れの嘲笑をする。
「……人生を懸けたもっともらしい言い訳の理由がそれですか。人は自分が努力できない理由を環境に求める。最初は自分、次が親、そして社会、最後は国家です。今の世の中は、努力できないことを正当化するビジネスで溢れている。それで自分を慰めた次の日の朝、現実は変わっていない。逃げ続けた結果、後戻りできない地点まで引き摺り込まれていく。現実逃避のはずが、そのツール自体に搾取されていたと気付く。儲かるのはそうした人間を嘲笑うビジネスマンだけです」
秘密任務訓練生時代から早乙女を知っている境は、驚いた。
こんな状況で、一体どこからそんな勇気が湧いてくるんだ?
「僕も現実が予定通りにいかず、何度も諦めそうになり、ネットの匿名掲示板に群がっているような人間に成り下がる寸前でした」
気が付くと、早乙女の身体の震えは収まっていた。
「そんな中、僕はどんな環境に置かれても、現実から逃げずに立ち向かう人達を知ったんです」
顔を上げる早乙女。首元には、仲間の証として作ったワイヤーネックレスが見えた。
「何度も助けてくれた仲間を裏切りたくない。ネットの世界じゃなく、現実でも頑張れるようになった自分——それが本当の僕です」
その真っ直ぐな視線からは恐怖を読み取れなかった。そして、その一点は境に向けられていた。
境はそれを直視できず、瞼を閉じて頷く。
頷くことしか、できなかった。
「素晴らしい」
両脇を抱えられ、境は連絡横抗へと連行される。先導は篠原。背後には構成員達が群がり、固められる。
早乙女……!
「さようなら」
篠原が別れを告げた後、境は再び制御室への道を歩かされた。
◆
青森県、津軽海峡トンネル。
空き地に降着した無人ヘリから離れ、GPS誘導に従い飛び去って行く機体を確認後、山田は竜崎と携帯端末に送信された位置まで前進。ENVGを起動し、警戒を厳重にしながら山道を登る。整地されていない草花をかき分け、葉の落ちた茂みを超える。と、セーフハウスのモニターで見たフェンスゲートを発見。既に開錠されており、銃を構えながら奥のトンネルに接近。すると、斜坑口前の小広場に数台のオートバイが駐輪していた。全てキーが差してある状態。更に奥を覗くと、頑丈そうな鉄扉が開門しており、暗闇の中で他者が通過した痕跡があった。
「『既にSの突入から数時間が経過。報告では内部で戦闘が発生。異常出水により迂回した場所あり。付近のバイクは本作戦のために急遽集められたもの。好きに使って良し』——だってよ、ヤマちゃん」
「なら使わせて貰おう」
以前、私有地で境に乗せてもらったバイクに似ており、山田は右ハンドルにある赤いスイッチの下にあるボタンがエンジン始動用セルボタンだということを認識していた。そこを押し込み、セルモーターがカラカラと作動。エンジンが静かに唸り、車体とマフラーが振動を始める。竜崎も別のマシンに跨り、エンジンを始動。雪が降り始めた深夜に二台のオートバイがアイドリングを開始した。が、排気量の大きくないバイクが動いたところで、不気味な山奥が醸し出す雰囲気には勝てず、寂しい暖気となる。アサルトスーツの中に着込んだ防水難燃パーカーを貫通する寒気に、山田は身震いをした。フェイスマスクの口元も呼気で濡れ、水気を帯びて冷たくなる。ENVGを通して夜空を見上げると、星と月が白い光点として輝きを放っていた。
「軍で使ってる偵察用オートバイだな。KLX250ってことは……お、ヘッドライトの常時点灯も切れるみたいだぜ。ガソリンも充分だ」
「良し、照明を点けずに暗視装置のまま運転しよう」
「分かった。このスイッチを、えーと……『4』番に設定しよう。灯火管制ってやつだ」
山田は言われた通り、右太ももの後ろに位置するセレクタースイッチをいじる。扇形のスイッチの中央にあるリリースボタンを押しながらセレクターを回すと、最も端にある狙いの番号まで動かすことができた。
《俺が先導する。任せとけ》
肩に掛けた銃のスリングを調節し、AKを忍者刀のように背負う竜崎。同時に、無線機のPTTスイッチを左ハンドルにダクトテープで固定していた。山田もそれを真似し、グローブ越しにハンドルをしっかりと握る。クラッチを握り、一速にシフトチェンジし、無線で合図する。
「準備良し」
竜崎は肩越しに頷くと、そこからトンネルの鉄扉を潜り、闇の中へと消えて行く。まるで暗黒へと誘う地獄の門のように見え、山田は少し怯えた。それを察したかのように門を抜けた先で竜崎が一度振り返る。
今更ビビるな。二人を救助し、特戦群と血盟団に遭遇しなければ良いだけの話だ。
右ハンドルを捻り、クラッチを解放して発進。白色に近い薄緑の視界を通して、鉄扉を抜ける。
するとそこには延々と下に続く洞穴があった。トンネルの左半分は長大な階段であり、簡易的な柵を挟んで、右側には縦四列の排水管が同様に下へと続いている。斜坑内に照明は点いていないが、左側の壁上部には蛍光灯と思しき物体が等間隔で設置されていた。その下には一本の排水管があり、天井とその隣のキャットウォークには何かのケーブルが伸びている。それらがひたすら階下へと続いており、山田は吸い込まれるような錯覚を覚えた。吹き抜ける風音のせいで、巨大な大蛇か魔物が奥に潜んでいるような感覚にも陥る。
《行くぜ》
ひたすら斜坑を下っていく竜崎。山田も恐る恐る立ち乗り気味に続く。急な角度や加速はないが、階段を連続して下るため、タイヤとサスペンションが跳ねる振動に耐え続ける。
大した距離ではないことは分かっているけど、早く下りないと手が痺れるな……!
山田はスマートウォッチに表示されている時刻を確認する。
タイムリミットまで、残り六時間半。
◆
《やっぱここまでか》
薄暗いトンネルで、山田は竜崎とバイクから降り、胸元の情報端末を開いた。付属のタッチペンを取り出し、インプットされているトンネル図面に新たな崩落地点をプロットする。
現在時〇四一三。
斜坑を下り、どことなく潮の香りがする作業坑や本坑を、連絡横抗を経由して通過。血盟団と特殊作戦群の戦闘の痕跡を辿りつつ、走行を続けると瓦礫や障害物の山に何度もぶつかった。その度に少し戻り、連絡横抗を使って作業坑か本坑へと迂回していた。が、ついに両坑道が封鎖されている地点へと到達。エンジンを切って、前後を警戒しながら坑道内の奥へと進む。蛍光灯が設置されており、ENVGは必要なかった。
山田は端末の図面を指でスワイプして、移動と拡大をおこなう。
「作業抗と本坑がダメな場合は……換気立坑を下りて先進導坑を進むしかない」
「マップ上では最深部に近いはずだぜ。行くしかねえな」
「かなり狭いかもしれない。バイクはここに置いて行こう」
二人で話すだけでも、かまぼこ型の壁面のせいで相当な反響があった。亀裂の入った岩盤からは地下水が滲み出しており、ブーツで歩く度に足元から水音がした。装備を整え、AKを携えながら立坑への道を探る。
コンクリート床に散乱する弾痕や空薬莢。爆発か何かで破壊された排水管や電線。壁面の出水と漏電。
そして死体。血盟団の構成員と思われるものがいくつもあった。死体は既に「追い剥ぎ」にあっており、無線機や弾倉などの装備品が何者かに回収された様子だった。
考えることはみんな一緒か。
どこかで銃声が轟く。屋外で聞くような乾いた音ではなく、くぐもった響きの低音。まるで映画館に閉じ込められたようなシチュエーションだが、距離換算で換気立坑のポイントに到着すると、何のエンターテイメント性もないことに気付く。
そこは、長大な梯子が壁にビルトインされている狭い空間だった。ENVGを通して底を覗いても先が見えず、山田はポーチから早乙女の残した小型ドローンを取り出し、投入。搭載された暗視モードを起動し、暗い立坑の先を電波が届く範囲で突き進む。制御端末の液晶を確認すると、一〇〇メートル以上先に梯子の最下段があった。更に先の先進導抗は狭い上に一切の照明がなく、地面は水浸しとなっていた。ブーツの裾まで届く位の水位に見える。
「——敵はいないけど、相当長いね」
竜崎はケミカルライトを折り、緑色に淡く輝く棒を遥か下へと落とした。山田はドローンを回収、ポーチに収め、スリングを回してAKを背中に固定する。
「それなら体力勝負だな」
颯爽と階段を下り始める竜崎。山田も後に続き、ひたすら手足を動かす。立坑内には鉄製の階段を硬い靴底で蹴る音だけが響く。踏み面自体は広くしっかりしていたので、安定性を保ちつつ最終的に到着。ENVGを眼前まで下ろし、照準用のIRレーザーを何度か発射、点検して戦闘に備える。
「今度は俺が先頭になる」
幅四メートル、高さ三メートル程度の坑道を山田は突き進む。天井には電線が伸び、トンネルは緩やかなカーブとなっていた。バシャバシャと音を立てる水たまりをなるべく避け、膝を高く上げる。
何も遮蔽物がないから、敵が跳び出してきたらマズいな。
その矢先、前方数十メートル。別の換気立坑への登降口と思しき横穴を発見。ハンドサインで竜崎に合図を送りながら、すぐにその穴へ向かおうと——
「カイジュウは?」
え?
「『怪獣』は?」
声の方向、前方。
何者かが視界の中で、穴から何かを突き出しながらこちらを覗いていた。
脊髄反射で、AKの引き金を絞って叫ぶ。
「走れ!」
ノイズキャンセリング付き骨伝導イヤホンとサプレッサーでも遮音し切れない銃声。
恐らくは血盟団の合言葉。
特戦群なら誰何(すいか)などせず判別できる装備と練度のはず。
単連射で横穴から出ていた敵の頭を下げさせ、その合間に竜崎が接近。
「蛙跳び(リープフロッグ)だ!」
反撃の隙を与えないように、交互躍進で距離を詰める。坑道内の壁面を滑るように飛来する銃弾。硬い物体に接触し、火花が四散。暗黒に煌めく花火。IRレーザーを横穴に指向し、断続的に射撃する。弾倉交換の暇がないので、AKを背中に回してセカンダリである拳銃を抜く。正確性ではなく制圧射撃としての速射。竜崎も拳銃に切り替え、目標へと最接近する。壁際で拳銃の弾倉を交換、待機しながら、敵が跳び出してこないように、入り口付近に竜崎と足止めの射撃を続行。「エマー!」と叫び、AKに戻して、古い弾倉を地面に落とし、マガジンポーチから新たな弾倉を引き抜く。
「オフェンシブいくぞ!」
山田は安全ピンを抜き、身を乗り出し、横穴にスタングレネードを投げ込む。小さな黒い塊から安全レバーが外れ、壁に反射し、奥へと消失。トンネル中に反響する炸裂音と閃光が数回生じた後、すぐさま突入する。
ENVGの視界内で横たわり、呻く二名の人間。立ち上がって反応した他の二名にはウェポンライトのストロボ照射。強烈な可視光線を当てながら、容赦なく胴体に銃弾を撃ち込む。左をカバーする竜崎と被らない位置で掃討し、動かなくなるまで頭部や胴体に対して射撃する。
心臓の鼓動とアドレナリン。独特の緊張と僅かな高揚感。油断すれば目と口が開きっぱなしになる集中力。
横穴にある梯子でこの場所が別の換気立坑だと知り、周囲の安全を確認した後、弾倉を交換。ケミカルライトを光らせ、遥か上へと続く梯子の真下に置いた頃には、山田の背中は汗でべっとりと濡れていた。ヘルメットの中も蒸れており、外気との差が嘘のように体温が上昇していた。
「クソ……!」
悪態を吐きながら足を引き摺り、梯子の方へ寄る竜崎を跨ぎ、山田は拳銃の銃口だけ突き出して撃ちまくった。ついでにスタングレネードも敵方へと投擲。数回の閃光と破裂音、火花と白煙が坑内に満ちたのを見計らい、背中のAKを正面に戻し、肩付けして覗き込む。続けてレーザー照準で何度も発砲。ただ相手も換気立坑に繋がっている横穴へと隠れたのか、姿形が消え失せていた。
「止血は?」
「できた、けど——」
竜崎はAK片手に壁を使って立ち上がるが、とてもあの長すぎる梯子を上れるようには思えなかった。相手を倒していない以上、手を貸すこともできず、山田はガンロックを続けるしかなかった。
マズい……動けなくなった……!
そもそもたった二人の潜入。片方が躓いたら、片方が支えるしかない。しかし、それは両手が塞がることを意味する。竜崎は壁から離れ、山田のそばでAKを抱えながら、膝をついた。
「ヤマちゃん、俺さ……」
止血帯は脚の付け根に巻かれていた。ふくらはぎの傷口をエックスタットと包帯で塞ぐ竜崎。負傷箇所と歩き方から、アキレス腱が使えていないことが分かった。
「ここにちょっと残るわ」
それは、リアリズムに基づいた結論。
しかし、山田の中のアイデアリズムがそれを阻害しようとする。
「スパイト行動したくねえし」
無事な足をニーリングしたまま、竜崎が山田を押し退けてきた。半ば力づくでポジションを交替させられ、山田はかける言葉を失う。数発の偵察射撃があり、彼もそれに応戦した。
「勝連で約束したからな。どう考えてもこの梯子は上れねえし、その隙を奴らは狙ってる」
『約束しよう。これから迷惑を掛けることになりそうで、どう考えても助けられない状況になったら……その時は、お互いに見捨てよう。アイデアリズムにならないように』
『ま、その時はお互い様だな。それで頼む』
ここにきて、自分で紡ぎ出した言葉を後悔するとは……
何か言わなければ。
何を言えば良い?
山田は拳銃とAKに新たな弾倉を挿入後、水が滴る暗い洞穴の中、口を開いた。
「……ロシア語が聞こえたってことは、相手はルドゥートだ」
「そうだな。スペツナズの雑魚だ」
ヴォルガノフとかいう奴もやっちまって良いだろう?
そんな副音声が聞こえた山田は口を閉じ、全ての意図を察して、こちらを見ようともしない相棒に最後の台詞を吐く。
「分かった」
ポーチから一つしかない破片手榴弾を取り出し、竜崎に手渡す。
「早乙女とおやっさんを頼む」
「ああ」
こちらを見ずに、「あとから行くわ。のんびりテーピングでもしてからな」と独り言のように呟く相方。すぐに抑制された発砲が飛び交う破裂音がこだました。それを背に受け、山田はAKを担いで急いで階段を上がる。
多分、「じゃあ」とは、言いたくなかったんだ。
お互いに。
自分でも驚くほど冷徹に、冷静に、山田は梯子を上り続ける。
これがリアリズムになるということなのか、境。
◆
暗闇の中、両腕を相互に動かして空間を作る。
椅子の背もたれにあるロックハンドルをじっくり回し、引き抜いた後、両腕を背中に付けながら再び挿し戻す。
丸くなって足元から腕を抜き、靴紐を緩める。
ケブラーの靴紐を両手の中央にあるダクトテープに通し、足を交互に動かして摩擦熱で焼き切りながら、境は室内に残っている構成員の様子を窺っていた。
緊急用の電源も破壊されたのか、制御室は本格的な停電に陥っていた。室内に残された三名の構成員は、自分達がモニター監視を続ければ良いのか、それとも戦場と化した坑道に向かった方が良いのかで揉め始める。次第に、人質そっちのけで討論を開始。激しい戦闘によってトンネル内の異常出水が止まらなくなった現状にも混乱。次々と排除されていく味方には愚痴をこぼしていた。
規律や士気、技量もない集団が武装したところで、所詮は烏合の衆。訓練されていない人間などこんなものだ。
テープが千切れた瞬間、境はテーブルにあったAKの安全装置を解除。夜目を利かせ、ドアに近い構成員から銃撃。突然の戦闘と混乱に慌てふためく中年の男女達。背中に撃ち込まれた構成員は前のめりに突っ伏し、頭部や胸部に穴を空けられた女性は床に後頭部から激突。最後に遮蔽物へと飛び込んだアジア系の青年は、足を隠し切れず、プローンの姿勢から地面と平行に銃を構えた境の単連射に倒れることとなった。
最後に「お母さん……」と、嗚咽を漏らす声が聞こえた。
悪いが、自業自得だ。
三人の頭蓋や胴に対し、呻き声が聞こえなくなるまで交互に銃弾を撃ち込む。没収されていたヘルメットや、タクティカルベルトにプレートキャリアも部屋の隅で回収。倒れた構成員からは刃が上を向いた銃剣付きのAKMと弾倉を奪い、境は部屋を出る前に人質を視認する。
突入部隊は恐らく、特殊作戦群やSATの部類だろう。合流しても良いものか……
C4とワイヤーが巻かれた両国の首相に近付き、ヘルメットのヘッドライトを白く点灯させ、トラップの構造を確認。とても境の手に負えるものではなかった。そこで動かなくなった構成員からナイフを調達。一緒に拘束されているSPと思しき人物のダクトテープを剥ぎ、イヤーマフと目隠しを外してやった。
「これで他の人質を助けるんだ。救助がくるまでここで待つか、全員で武装して逃げろ」
ウェポンライト付きのAKを黒服の男に押し付け、小銃を持った境は出口へと直行。手足に絡みついているテープを剥がしながら「あなたは?」と、SPが訊ねてくる。境は無線機の制御端末で津軽海峡トンネルの図面を撮影、保存する。その画像を頭の中で反芻しながら、早乙女と引き離された場所までの経路を思い返していた。
「別の人質を助けに行く」
◆
換気立坑の梯子を上り切り、先進導坑から抜け出した山田は、作業坑内の照明が全て消灯していることに気付いた。
いや、もしかしたら津軽海峡トンネル自体の電源が消失したのかもしれない……
銃を前方に指向しながら、山田は作業坑を壁沿いに進んでいく。銃声や爆発音が近付いてくる中、いくつかの連絡横坑を通り過ぎると、腕に巻いていた小型デバイスの液晶に反応があった。
『境が出しているシグナルは、お前達と同じGPSアンクレットのものだ。微弱な電波も発しているから、近付くとレーダー上に反応が出る』
境……?
AKを指向しながら壁沿いに突き進む。水浸しとなった路面を極力蹴らず、上半身は固定。脚だけを獲物を狙う肉食獣のように動かす。落石と流水の狂騒曲に、男の荒い呼吸音が紛れ始め、その発信源へと山田は接近していく。プレッシャー式のリモートスイッチに左の親指を重ね、ウェポンライトを作動させながら、人の気配がする隔壁の裏へと一気に回り込んだ。
「……やはり、ビッグサイトで会ったな?」
流暢な日本語。
丸眼鏡。
小太りの中年男。
そして、全ての災厄が始まった根源。
「ああ……そうだよ」
バッハはニヒルに鼻を鳴らすと、血のあぶくを吐き漏らした。
その様子を見て、山田は冷淡な感情に落ち着く。
「それで——言いたいことはあるか?」
男は最後に柔和な笑みを作ると、口角を吊り上げた。
今なら暗視装置越しでも理解できる。
その表情に感情が宿っていないという事実に。
「ここで喋ったら二流だろう……後悔は残るが、悪くないカンツェルト(コンサート)だったろう?」
彼にとっては、全てが酔狂な演劇。
他人の人生さえ、合奏に表現を加えるファクターに過ぎない。
人たらしの楽劇家。
気付くと、山田は彼の頭部から下腹部に掛けて風穴を空け続けていた。
頭の中では冷静に、時間がないことを理解していた。
それでも自分の中に燻っていた残滓を焼却するため、交換したばかりの弾倉を再び「フレッシュな」ものへと変える必要があった。
——これでケリをつけた。全てをここに置いて、前へ進もう。
ロケットランチャーの発射機を抱き、動かなくなったバッハ。指揮官として最低限の装備だったのか、小さく厚みのないプレートキャリアは機能を果たさなかったらしい。かたわらに立て掛けられているAKには弾倉が装着されておらず、スライドが開きっぱなしの拳銃が捨てられていた。すると、腕のレーダーデバイスに急速な反応が見られた。捕捉した電波の波長が鋭角に尖り、中心部のマーカーを回り込む形で変化していく。
足音も聞こえるけど、でも……一人じゃない!
半身を晒し、山田は遮蔽壁からAKを槍のように突き出す。
が、唐突に段差の下から伸びてきた腕に銃身を掴まれる。そのまま水没した路面へと落下。何とかバランスを保って着地。が、胸元のワークスペースに侵入してきた腕にはグリップ部分を握り返され、あっさりとAKが手元を離れ——なかった。スリングによって略奪は阻止。お返しにホルスターから拳銃を抜きながら喧嘩キック。闖入者(ちんにゅうしゃ)はAKを放して距離を取り——似たようなAKを構えてきた。が、すぐに銃口を下げる。
山田もウェポンライトを常時点灯させ、相手の正体を知った瞬間、銃を下ろした。
「山田……? なぜお前が?」
ENVGを外し、銃口を真上に向け、ウェポンライトの光を天井に当てて周囲に拡散。そこにはなぜか目元を包帯で巻いた早乙女と、セーフハウスで別れた格好のままの境が立っていた。
良かった、二人とも無事だったのか……!
山田は二人をバッハが死んでいる隔壁の裏へと誘導。すぐに明かりを消し、ENVGを下げる。早乙女の手を引きながら、境は水面から段差によじ登り、その間に山田は華奢なチームメイトを引き上げた。
「竜崎と一緒に助けに来ました」
「竜崎だと?」
「敵を引き付けてもらっています。あいつは脚を撃たれて動けません——早乙女は?」
「……似たようなものだ。両目は見えないが歩行可能だ。首相達はどうするか聞いているか?」
「特殊作戦群が救助する手筈となっています」
「これは合同作戦ということか——お前達の任務、地位、役割は?」
山田は回答に一瞬詰まる。が、隠しても仕方がないので正直に報告する。
「これは合同ではありません。正規の作戦でもありません。双葉さんと新渡戸さんは知っていますが、勝手に助けに来ました」
一瞬、上司の顔が強張る。が、「分かった。とにかく脱出するぞ。ここはもうじき沈む」と、即決。柔軟に対応してくれた。
「途中までバイクで来ました。ここから排水抗まで降りて、竜崎を回収してから脱出します」
「了解、先導してくれ。早乙女と後ろは任せろ」
やはり、この人が上司で良かったのかもしれない。
水飛沫を上げながら段差を飛び降り、早乙女を受け止めて地面に下ろす。二人の用意ができたことを確認後、山田はAKを携えて元来た道を辿り、換気立坑へと向かった。
◆
「竜崎!」
「生きてるよ……」
やはりここまで水が流れ込んできたか……!
梯子を下り切った先、別行動になった場所で拳銃を持った竜崎が立っていた。ただ水位は膝まで上がり、ブーツの中やアサルトスーツの下衣は完全に水没していた。
「鉄砲水みてえなのが来てくれたおかげで、奴らの陣形が崩れたんだ。弾は全部使っちまったが、何とか——おやっさん!」
「話は聞いた。双葉達が認識しているのなら問題ない」
「オトメも一緒か、これで脱出だぜ!」
「急ごう。トンネル自体が脆くなってきている、早乙女は俺が!」
竜崎の肩を支える境に代わり、山田はAKを腰だめに抱えながら、もう片方の手で早乙女を引率する。
「早乙女、何があったんだ?」
「山田さん……すみません、僕は——」
突如、後方から一気に押し寄せてくる冷気と水圧。膝下だと思っていた水位は気付かない内に上昇。足をすくわれそうになった山田はAKを手放し、早乙女を引き寄せて壁に手をつく。
「ヤベえ、また鉄砲水だ!」
「戻れ、二人とも!」
後方を振り返ると、大蛇が迫っていた。
濁流の大蛇。
山田は腰まで上がってきた水位に呑まれ、身体ごと押し流される。が、早乙女は脇に抱え、何とか死守。片腕で壁を引っかき、ブレーキを掛けるも引き摺られる。すると、別の横穴が出現。坑道を逸れ、吸い込まれるように二人で押し流される。坑道から流入してくる冷水が胸元までせり上がってくる前に、山田は早乙女に梯子を急いで上らせる。下から彼の靴底を叩いて急かしながら上っていく内に、スリングとAKが梯子の段差に引っ掛かった。無線器材などのコードと複雑に絡み合ったスリングを解こうとするも、みるみるうちに水位が急上昇。首まで浸かり始め、肺が圧迫され、口を大きく開けた。
ただでさえ片肺固定しているんだぞ……!
止むを得ずスリングのアタッチ部分を切り離し、AKを分離。あっという間に波にさらわれ、水中に没する小銃。その後、要領を得た早乙女が急ピッチで上り続けてくれたおかげで、山田も危機を脱出。水位の上昇が緩やかになったタイミングで、骨伝導イヤホンから馴染みの声が聞こえてきた。
《……えるかヤマちゃん!》
梯子にしがみ付いたままPTTスイッチを探り、即座に応答。
「聞こえる、そっちはどうする?」
《俺とおやっさんは別の……で脱出する。ヤマちゃん達はバイクで……早乙女は頼……だぜ!》
「了解だ、任せろ!」
聞き取れない部分はあったが、互いに伝えたい部分は理解していた。早乙女の速度に合わせ、若干の休憩を挟みながら、山田は黙々と梯子に手を掛けていく。
分断はされたが、大きな問題じゃない。目的は達成できた。
「もうちょっとだ、頑張れ……!」
「はい……」
こちらの頭上に水滴を垂らしつつ、せっせと上る早乙女。ヘルメットとENVGの重みで、顔を上げる度に頸椎がおかしくなりそうだった。その時、壁を伝う上からの落水があることに気付き、山田は焦る。
血盟団の主力は本坑や作業坑で戦っていた。そこで亀裂が生じれば、ここにも流れてくるかもしれない。急がなければ……!
◆
早乙女にタクティカルベルトの腰部を後ろから掴ませながら先導していた山田は、幾分か見通しが改善した連絡横坑を通過しようとしていた。
「照明が復旧したから、バイクの位置まで予定より早く着きそうだ。今は見えないと思うけど、頑張るぞ」
現在時〇五四三。もうタイムリミットは関係ないが、トンネルから出る際はなるべく人目に付きたくない。
サプレッサー付きのFNX45ピストルを構え、横坑の石壁の際から本坑を覗く。最深部方面は来た時と同様、崩れた壁面や隔壁で封鎖されていた。違う点は天井から溢れ出す出水によって、車線にプールのような水たまりができていることだった。慎重に本坑への段差を下り、壁際を早乙女と二人で進む。路面は綺麗な舗装を保っていた。が、ブーツの靴底の厚みが沈むくらいにはまんべんなく水没している。時折、どこかで決壊するような轟音が響き、トンネル自体が機能不全に陥るまで猶予はないと実感した。
「この先にバイクを停めてある。乗る時は俺の背中にしがみ付け。そのまま脱出しよう」
頼むから放置されたままであってくれ。
武装は拳銃一丁とナイフ一本。一五発入り弾倉が挿入され、銃本体にはプラス一発が装填されている。予備弾倉は一本。しかし、換気立坑で弾を消費したため、一発しか残っていない。心許ないが、何もないよりはマシだった。早乙女にいたっては、武器はもちろんプレートキャリアとタクティカルベルトも身に着けていない。そもそも目を怪我しているようなので、戦力になれるかは難しいところだった。視力が戻るのか否かは不明だったため、山田は当たり障りのない励まし方で前進させる。
「早乙女、もう少しだから頑張れ」
「……オレクシー・ミハロフです」
「え?」
唐突な名乗りに面食らう山田。が、歩みと警戒は止めなかった。
本名はスラブ系ということか?
「妹は日本の大学に通っていますが、今後どうなるか分かりません」
「何のことだ、早乙女?」
「……海老名での作戦前に、僕が動画サイトでステガノグラフィーをみなさんに見せたのを覚えていますか?」
山田はセーフハウスで何の変哲もないシロクマのようなキャラクターを見せられたことを思い出した。
結局、内容がなかったから竜崎がキレたやつか。
「ああ、覚えてはいるけど、それがどうした?」
「あの動画に僕や妹の情報を隠しました。僕に何かあった時のために、託せる人に見せたんです」
いまいち要領を得ず、噛み合わない会話。
そんな中、カーブを描く道路の先、壁際に停めてある二台のバイクを発見する。
良かった、これで助かった。
「セーフハウスの庭にあるプランターの中に解析ソフトを隠しています」
「早乙女、バイクが——」
「僕はロシアのスパイです」
心臓が止まったような感覚に陥る山田。思わず振り返ると、手を離した早乙女が壁に手をつき、伏し目がちに謝罪するように頭を下げていた。そこで山田は、新渡戸達が危惧していた早乙女——オレクシー・ミハロフ工作員の情報を思い出す。
「CIAから派遣された……ロシアの二重スパイ?」
「そうです。ロシアで教育を受け、CIAのモグラを通じて、出内機関とCIAの情報を窃取する任務でした」
「アメリカにいる家族というのは?」
「カバーストーリーです。でも、妹がいるというのは本当です。血は繋がっていませんが……」
岩盤が割れるような轟音がどこから響いてきた。山田はオレクシーから距離を取り、拳銃を握る手に力を込める。
「ウクライナからどうしてロシアに——」
殺気。
山田は青森方面を再度向き、隔壁付近を睨み付ける。
「やっぱり……出内機関にも情報は伝わっていたんですね」
前方一〇〇メートル以上先。バイクまでの距離とほぼ同じ。
「でも結局、未熟でした……家族だと思ってしまいました。これが『謀略は誠なり』なら、境さんは人たらしですね」
隔壁の裏、照明の影に銃口を向ける。
「……俺もここへ来る直前に聞かされた」
「境さんを助けにですか?」
背中越しに語り掛けてくるオレクシーに対し、集中力を切らさずに返す。
「お前も含めてだよ。俺と竜崎は『早乙女はスパイじゃない』と啖呵を切って、出内機関を抜けてきた」
「そんな——」
影の接近。
有無を言わさず、山田は拳銃を発砲。深い「影」がぬるりと車線に侵食。影は次々と撃ち込まれる拳銃弾など意に介さず、両腕を交差。堂々と歩き、確実に迫ってくる。一〇発の抑制された銃声が響いた頃には、巨躯が目前に立ち塞がっていた。
ヴォルガノフ。
「オレクシー、壁伝いに一五〇メートルくらい移動しろ。そこにバイクがある」
「……敵ですか?」
「ああ」
全身にまんべんなく撃ち込んだはずなんだけどな……
何も身に着けていない頭部を晒し、左右に首の骨を鳴らす巨人。サプレッサーを外し、相手が油断した隙に顔面目掛けて片手撃ちをする。が、反射的に右腕を上げられ、振り払われる銃弾。壁に跳弾した弾頭は地面に虚しく着水した。
——セーフハウスでは視界不良にしても勝てなかった。だが、このまま無駄弾を消費するのは得策ではない。あの時みたいにバックを取って、首元をナイフか銃で狙えば倒せるかもしれない。
山田は拳銃を構えながらENVGのアタッチを外し、路面へ落とす。フェイスマスクも口元が出るように剥いで、拳銃をホルスターにおさめると、ヴォルガノフは悠然とこちらに向かってきた。どうやら前回と同じように、銃器やナイフの類は携行していないらしい。
……いや、むしろ格闘しかない。
道路上でお互いに、ファイティングポーズをとる。オレクシーを置いて逃げることも考えていた。むしろそうすべきだと、もう一人の自分が警告する。しかし、山田の中では彼がスパイになった理由、裏切ることになった発端が気になっていた。
それは本人に訊けば良い。
「終わったら話そう、色々と。そこで見ているか、先に行っててくれ」
幸い、足元の水位はさっきとそこまで変わっていない。まだ持ちこたえられる。
接近戦だ。
「分かりました……何も見えませんが」と、自嘲気味に返すオレクシー。壁に寄り掛かりながら、歩みを進めている様子だった。脅威に集中するあまり、その台詞の意味に気付いた山田も、思わず口元を歪める。
互いに前へ。
山田は頭の中で作戦を組み立て、四肢を柔らかく動かし、フットワークを始めた——
◆
——柔道の奴か。
距離を取りながらフットワークが始まると、水面に波紋が広がった。
武装は拳銃と……ナイフ一本か。前回のように複数を相手にすることはなさそうだ。だが、背後を取られないように立ち回る必要があるな。
前後左右に動き回る戦闘員。隔壁を背にすると、駐輪している自動二輪に向かう裏切り者のスパイの姿が視界に入った。
奴が生きているということは、餌にして誘き出す作戦は失敗したか。ルドゥートは全滅し、部下を失ったバッハも生きては出られないだろう。
裏切り者の盾になるような立ち回りをする戦闘員に対し、ヴォルガノフはあの青年を逃がすための時間稼ぎだと把握する。
やはり、母を捨てたロシア人など信用できない。篠原もとんだ食わせ者だが。
ヴォルガノフは前にステップしようとする。瞬間、戦闘員は膝頭の上を踏み付けるように蹴って来た。ダメージは何もないが、容易に踏み出せないようにしているのだろう。何度か腕を振るうと、戦闘員は広いスペースを生かしながら、執拗にキックにこだわる。
なるほど、膝関節や金的を狙っているのか。素晴らしい。だが向こうも打撃が通じるとは考えていないだろう。それに……
照明のいくつかが破壊され、坑道内の明度が落ちる。原因は、異常出水による噴出口の出現。地響きのような揺らぎや天井の落石、壁面には亀裂が走り、ヴォルガノフは楽しむ時間がないことを悟る。
年齢的な体力差もある。一気にいかせてもらおう。
ヴォルガノフは車線の中央から離れ、ステップワークで壁際へと戦闘員を追い込んでいく。
組み技は広い場所が有利だと聞いたことがある。俺は全くできないが、それなら逃げ場のない壁に押し付け、袋叩きにすれば良い。
頭一つ分以上の身長差がある獲物を、じっくりと追い詰めるヴォルガノフ。
草食獣は肉食獣には勝てない運命だ。
前ステップで、一挙に距離を詰める——が、途端に獲物は姿を消した。
何だ——
気付くと、股の間に飛び込んできた獲物は、ヘルメットを支点にして片脚に両脚を絡めてきた。
またそれか……!
脚をすくうように抱え、まるでポールダンスのように四肢を巻いてくる。バランスを保ちながら、戦闘員を引き摺る形でヴォルガノフは後退。が、片膝を前後からロックされ、膝裏にも足を掛けられて転倒。その瞬間、ブーツの踵部分を脇に抱えられる。そこで無事な方の足を振り上げ、踵落としをお見舞いする。
厄介な奴——
唐突に、バキッという破壊音が聞こえた。
仰向けのまま、抱えられている自身の足を凝視。
踵は天井を向き、膝はあらぬ方向に曲がっていた。
何——
痛みを感じる暇もなく、地面を転がり始める戦闘員。腰、裾を引かれ、抵抗しようとすると足を垂直に蹴り上げられ、絡まれる。起き上がろうとすると、今度は背後に付かれた。
まずい!
水浸しの路面の上で何度も転がり、背中にまとわりつく敵を振り落とそうともがく。が、相手は脇下から両腕を通し、アーマーの肩部ストラップを掴んで落とされないように対策をしていた。その内、首横に回ってきた腕を防ぐつもりが、反対側の襟を引き絞られ、呼吸を阻害される。
息が——
中腰で立ち、前に落とそうともがく。が、今度は膝横の余ったパンツを掴まれ、思わず姿勢が崩れる。胸元や肩に乗せられた足を除けようと暴れるも、頸動脈が絞めつけられ、次第に意識が遠のいてきた。
こんな……馬鹿な……
この体格差で……
円を描くようにもがいた。
もがき続ける。
バシャバシャという水音が聞こえる。
深い水の底に沈むような感覚が訪れ——
◆
銃声が鳴った。
サプレッサーを外したのだから当然だが、山田は意識を喪失したヴォルガノフの鼻に銃口を押し当て、更に撃発。計四発。最初は慌てて二発撃ったが、失神した上に即死したことを確認。念のため、更にもう二発を追加し、脳幹を完全破壊する。
目の焦点が合わず、人形のように脱力している……もう脅威ではない。
膝関節を破壊する「内ヒールフック」と、必殺技である「ボーアンドアローチョーク」が成功した後、何とかヴォルガノフを排除することができた山田は、上昇した心拍数に後押しされるように出口へと向かう。目標はバイク。荒い息を吐き出しながら、予備弾倉をポーチから引き抜く。弾倉のトップに一発だけ残った実包を抜いて、拳銃に挿入していた弾倉に移し替えつつ、歩みを早める。
オレクシーは——あそこか。
天井の一部が落盤し、大量の地下水が出現。山田は慌ててバイクの位置まで身体を引き摺る。
「おい、大丈夫か……!」
偵察用バイクの横にある壁面にもたれ掛かり、青年は出水から逃れていた。が、良く見ると腹部からガラス片のような突起物が出ている。山田が無理矢理引き起こすと、オレクシーは低い呻き声を上げながら腹を押さえる。
「多分、同じ奴です……もう無理です」
「まだだ、ここから出るぞ!」
一台を放置し、地下水に足を取られながらも一つのマシンに二人で跨る。外装の一部やミラーが割られていたが、関係なかった。タクティカルベルトを外し、長さを調整。自身の身体ごとオレクシーに巻いた。すぐにエンジンを始動し、山田はスロットルレバーを全開にし、クラッチを解放。最深部から遠ざかるにつれ、水位は下がっていく。が、背後から水が追ってくるのが分かり、山田は次々とシフトアップ。決して速度を緩めなかった。
◆
連絡横坑での戦闘と、出水と落石で血盟団の残党が潰れた後、境はナンバープレートの無い坑内車を発見していた。保守点検作業で坑内を回るための車両らしく、シートベルトも未設置。だがそんなことは気にせず、竜崎を助手席に乗せ、ディーゼル車で本坑と作業坑を往来しながら、北海道方面へとアクセルを踏み続ける。
マズいな、予想以上に弾と時間を消費してしまった……!
鉄砲水で弾が回収できなかったこと。
拳銃の弾倉も空になってしまったこと。
そして、天井や排水管、電線や壁の崩壊、水没が散見されること。
それら事実に境は危機感を覚える。タイヤが埋まるぎりぎりの浸水を蹴散らしながら、前照灯の明かりを頼りに作業坑を突き進む。
すると、急に開けた空間へと突入した。
資器材が積載された大型のエレベーターが現れ、慌ててブレーキを踏む。境はただちに竜崎を車から降ろし、AKを片手に肩を貸しながら歩く。目的の斜坑線は照明が生きており、文字通り遥か上へと続いていた。その様はまるで果てしなく続く巨大な登山道であり、先の見えない巨大な空洞からは異様な雰囲気が漂っていた。
AKの予備弾倉はもうない。薬室には一発、弾倉の中には残り三発のみ。
敵が残っていないことを祈りながらプラットフォームへと搭乗。竜崎を操作用スイッチが並ぶ制御ボックスの近くへと座らせ、嵌め込まれた取扱説明図を読み解きながら昇降機を起動する。足場が大きく振動した後、焦らすほどの速度で上昇を開始。プラットフォーム上には送風機や発電機、何本かにまとめられた排水管やコンテナボックスまで積まれていた。境は荷物で入り組んだ足場から下を覗く。幾束の太いケーブルが力強くプラットフォームを引き上げていたが、到着までもうしばらく掛かりそうな様子だった。
「竜崎、足はどんな具合だ?」
コンテナに背中を預けている竜崎は、「へっ」と口角をだらしなく歪ませた。フェンタニルキャンディーを舐め続けているせいで口内が麻痺し、五感が少し鈍っているのかもしれない。
「追加で巻いてもらった包帯のおかげで、止血はされたっすね……クソ痛いっすけど」
「生きている証拠だ。地上に戻ったら治療するぞ」
「おやっさん、俺とヤマちゃんは……」
「心配するな、俺が何とかする——」
銃声が鳴った。後頭部に衝撃。誰かに背後から殴られたような感覚。
振り向きざまに、全ての元凶に向けて境はAKを発砲。
足場に居たのは篠原だった。
篠原は資器材に身を隠し、拳銃を乱射。境のプレートキャリアに着弾。ダメージはなし。境は竜崎をコンテナの裏に突き飛ばす。その後、AKを再照準。
近過ぎる……!
拳銃を撃ち切ったらしい篠原は低姿勢で疾走。的を絞らせない。服装も相まって、その姿はまるで野生の黒豹。こちらの銃弾が尽きる頃にはあっという間に投げ倒され、AKを蹴り飛ばされた。視界の端で、竜崎がそれをキャッチ。
すると、新手が出現。どこからともなくハンマーが振り下ろされる。
「ちきしょう……!」
鉄の鈍器をAKMの中心部で受け止め、コンテナを背に立ち上がり銃剣で対抗する竜崎。
またあの女か……!
境は押さえ込んで来た篠原を手足のガードを使って跳ね除け、柔術を生かして態勢を立て直す。
「新しいな」
「『優秀な』部下に教えてもらった」
この惨状に対する皮肉として言ったのが伝わったのか、篠原はほくそ笑む。空になったP220拳銃のスライドを閉じ、ホルスターに収め、鞘からゆっくりと刃渡りの短いナイフを取り出し、手持ちのフラッシュライトも構える。境もすぐにナイフを抜き、空いた手にLEPライトを持った。
「俺が教えたことも覚えているみたいで嬉しいよ」
互いに一定の距離を保ちながら円を描くように足を運ぶ。プラットフォームの奥では、竜崎が巨大な鉄槌を振り回す狂人と交戦。資器材を障害物として上手く利用しながら、AKを槍のように駆使して大立ち回りをしていた。どうやら敵は斜坑内にある停止駅から降って来たようで、丁度エレベーターが斜坑側面にある横穴を通過したところだった。
「予習復習が大事だからな」
閃光と刃が空気を裂き、宙を舞う。互いの眼球に光線をスポット照射。視覚を撹乱し、その隙に切り付ける。前腕が傷だらけになり、続いて頬、膝にも刃先が食い込む。境の肘からは血が滴り落ちていき、足場のパネルには血痕が次々と付着していく。
「お前は騙されている。時代や任期で変わる実体のない国家に振り回され、守る価値のあるものを見失い、後戻りできない状況になって初めて気付いたんだろう? 『自分の人生は何だったんだろう』ってな」
……戯言を。
手首の内側を切られないように、腕同士で死角をカバーしながら斬撃を回避。最悪なことに、篠原はアームガードらしき薄い防刃カバーをアサルトスーツの上から装着していた。
篠原とは違い、頭部や胴体はヘルメットとプレートキャリアがあるので心配はない。問題はアキレス腱と頸動脈。そこを裂かれたら終わりだ。長いナイフで眼球を刺されれば脳幹を砕かれるが、刃渡りから考えると、その心配はない。
「誰でも自分の選択を正当化したいだろうな。『辞めて正解だった』と」
そう吐き捨て、ガードのない手の甲に刃を走らせる——が、グローブも防刃用らしく、思わず舌打ちした。
「現実で戦えない癖に、非現実的な戦場に期待し、希望があると勘違いした痛々しいルサンチマン達をお前も見ただろう?」
周囲の混乱に慌てふためく中年男。
仲間にしがみ付いて足を引っ張る小柄な女性。
坑道内で撃ちまくるだけの少年。
「あれが俺達の守ろうとしていた国民の姿だ。真の弱者は救いたくなるような姿をしていない」
身を低く、足を狙い始める篠原。蹴りは決して使わず、境は切っ先を常時相手に向けながら距離で外して避ける。竜崎はハンマー女に何回か銃床打撃や刺突を加えた様子だったが、相手はまるで痛みを感じていないかのように振る舞っていた。境はかつて篠原が豪語していた台詞を引用する。
「弱者救済はキリスト教の概念があるから成立するんだろ?」
「それが日本にあるか?」
自問自答させ、判断力を鈍らせるのがこいつのスタイルだ。
今までの棒立ち気味のスタイルから、ナイフを持つ左手を奥手に構える篠原。
そう言えば、こいつは左利きから両利きになったんだったな……
途端、斜坑の底から地鳴りに近い轟音が聞こえてきた。バックステップした篠原が下を覗いたのに合わせ、境も原因を確認。どうやら本坑や作業坑の出水管理が限界を迎えたようで、トンネルに漏れ出た海水の水面がこちらまで這い上がろうとしていた。
これだけの被害、復旧まで何年掛かるのか。
「……同一民族からくる純粋さもあるだろう」
「純粋は単純の裏返しだ。直ぐに騙される」
「下種の勘繰りじゃないのか?」
「目に見えない信念に縋る人間は単なる能力不足だ」
視界を遮るLEPの可視光線に目を細めながら、境はプラットフォームの端まで移動する。エレベーターの四方は腰までの高さの欄干で囲まれていた。
「信念は生き方で語らないと陳腐化するぞ」
「強さとは自分の意見を押し通すことだよ。信念なんか綺麗ごとに過ぎない」
斜坑といっても角度はかなり急だ。この上昇速度を考えれば、足場から落ちた後に復帰することはかなり難しい。
「くそ……!」
視界の端で、竜崎が苦戦しているのが見えた。銃剣が折れたようで、ハンマーの柄で首を圧迫されている。
時間もない……!
意図を察したのか、篠原は笑みを浮かべながら攻撃の頻度を上げてきた。境も頸動脈を守りながら、多少の出血や傷は無視して迫る。前腕や顔面の肉や皮膚が削げ、下肢もアキレス腱以外は切創まみれとなる。が、長年の経験から痛覚と意識は切り離して戦っていた。
海底へと叩き落とすしかない。
ライトで意識が逸れた瞬間、相手のナイフを刃ごと片手で握り、反対の腕も脇に挟んで固定。一気に相手を押し、背を欄干へと押し付ける。篠原は脚を駆使して立ち位置を入れ替えようとする。が、セーフハウスで山田が実践していたレスリング技術を思い出し、顎下に頭突きをして移動を制限する。
「リスクしかないヒューミントは今や時代遅れだ。俺達は対テロ戦争時代の残滓(ざんし)、老兵ではなく老害。ここで歴史の闇に消えよう」
免れない運命を知ったのか、境のタクティカルベルトを掴んで道連れにしようとする篠原。境はバランスを取りながら、篠原の望みを叶えることにした。
「詩人より、医者か料理人の方が向いていたぞ……!」
重心を下げ、今度はナイフを持った相手の腕を脇に挟む。もう片方の手で相手の脇を差し上げ、腰を抱え込み、一気に足を——払えなかった。
馬鹿な。
篠原は抱えられた腕を上げ、境ごと持ち上げていた。ブーツが足場から完全に浮く。そのまま片腕で床に叩き付けられた。背骨に硬い材質がぶつかり、呼吸が止まる。異様に冷たい腕で首を絞められ、境の目の前に星が散る。
常人の力じゃない……!
鉄のように硬い腕。こちらに伸ばし切っている左手を左右から掴み、距離を取ろうと床を蹴る。が、逆に腹に膝を押し付けられ、欄干まで追い詰められてしまう。
何だ、このプレッシャーは……
篠原は床にぶつかり刃先が折れたナイフを捨て、ホルスターから拳銃を抜く。膝裏の裏に銃を挟むと、片手で器用に弾倉交換する。
「筋電義手(バイオニックアーム)だよ。肩ごと換装した。お前達に奪われたからな」
拳銃を奥手に構える、かつての相棒。肺が潰され、呼吸が止まる寸前にまで陥る。手を伸ばして抗う。が、虚しく見詰めるだけの篠原。
「俺と一緒に戦え。この国には二回目のチャンスなんかない」
もう息が……
朦朧とする意識。
だが、見覚えのある体勢。
何度か練習したポジション。
身体が自然と動き、境は相手の肘下の衣服を掴んだ。
「いいや、ある……」
視線の先で、部下が失神しかけていた。仮面の女が馬乗りになり、止めを刺そうとしている。
「それを証明したやつらと共に戦う、そう決めたんだ!」
自身に喝を入れ、肘下を引き、両足を相手の骨盤に当てる。
巴投げ。
宙を舞う篠原。腕を固定していたことが逆に仇となり、体勢が逆転。相手の身体が欄干を飛び越えた瞬間、境は起きた。床を転がった拳銃を拾い上げ、ハンマー女の側頭部に照準。すぐに撃発。脳から電気信号が遮断された女の身体は弛緩。息を切らしながら近付き、咳き込む竜崎の上から女をどかし、仮面の鼻先に目掛けて三発叩き込む。が、脳幹を砕いたはずが、女は仰向けでケタケタと笑いながら四肢を放り出して震え出す。痙攣が断続的に続いた後、女の笑い声が収まり、その後、一切動かなくなった。
ジャンキーめ……
傷口に詰めたエックスタットの止血剤が漏れたのか、包帯の巻かれた竜崎の脚からは再び血が滴り始めていた。筋疲労と呼吸不全の境は、覚束ない足取りで欄干まで歩く。下を向き、水位が追ってきていることを再確認。同時にかつての相棒の姿を探したが、そこには影も形もなかった。
義手だったとは……
「助かったぜ、おやっさん……」
顔を血と汗で汚し、ボロボロの格好で竜崎は、コンテナへと身を寄せてポーチから加熱式煙草を取り出した。出血量のせいか身体がふらつく境。何とか竜崎の近くに腰を下ろし、拳銃を握ったまま排管に背を預ける。
「こんな状況でも吸うのか……」
先程までの死闘が嘘のように、昇降機のケーブルが張力を限界まで働かせる機械音のみ響く。と、境の脇腹に激痛が走った。手で触れると、黒い血がグローブに付着する。
内臓か……
竜崎がしきりに口を動かしていたが、次第に音も光も拾えなくなる。
死と復讐心が煮詰められた海底から遠ざかるにつれ、地上からは幾人もの声や騒音が聞こえ始め——
◆
「オレクシー……海だぞ」
身体中から発信される悲鳴を無視しつつ、美しい太陽に照らされながら山田はバイクを停めた。真っ白なガードレールの真横で降車。青年をシートから降ろした後、互いに肩を支え合い、最低限舗装された道路から極小の砂浜へ。
過労で思考は麻痺。
仄暗い閉鎖空間にいたせいか、青空に流れる雲すら美しく感じた。
疲れた……
息苦しさからヘルメットを脱いで手に持つ。
「波の音は、聞こえるんですけどね……」
本坑の浸水から逃れ、斜坑口前の小広場に帰還後も、山田はとある約束の地までバイクで走り続けていた。禿げた山中を抜け、廃道を下り、海沿いに到達。出血の多さからすぐにでも治療が必要なオレクシーは、助けを呼ぶことを拒否。互いの事情を考えれば当然の判断だったが、腹部のガラス片を抜くこともできない。山田は破片が体内で動かないように二つの包帯で挟み、穿通物を固定。しかし、オレクシーの顔色はみるみるうちに悪くなり、出血も抑えられなくなっていた。
「自由もチャンスもない人生でしたよ……」
砂の上に崩れ落ちるオレクシー。山田も支えきれず、膝を着く。青年の口から、フェンタニルキャンディーが零れ落ちた。
「山田さんは、自由に……本当の自分を、生きてください」
チームメイトの身体を堤防の壁に預ける。
本当の自分……それは、何だ?
スパイであってもなくても、大半の人間は自分を偽りながら死んでいく。
趣味、仕事、夢、恋人、婚約者。
そして人生。
本当の望みを叶えられる人間など、何人いるのだろうか?
本当の自分で在り続けられる人間なんて、何人いるのだろうか?
「できれば妹を……」
山田は出来ない約束はしない人間だった。
叶えたい目標も口に出さないタイプだった。
が——
「分かった……セーフハウスの庭だったな? 行ってみるよ」
「ありがとう、ございます……あなたの、本名は……」
どこからか、ヘリや車両の音が近付いていた。ここへ向かっているかは不明。だが、ぼうっとしている場合ではなかった。自然に身体が動いたその時、山田は全てを察した。
何も考えずとも、最適解を追求しようとする精神に。
違和感も抱かず、脳内に思い描く逃走経路を全うしようとする肉体に。
そして早乙女——オレクシー・ミハロフ工作員は、事切れた。
僅かに回復した足を庇いながら、山田は立ち上がる。
目元と腹部の包帯が真紅に染まった二重スパイの友人に、自問自答し続け、自由を知った先に辿り着いた答えを返した。
「——これが本名だよ」
俺は、自分で在り続けるために戦う。
近くに車両が停止する音が聞こえた。
「早く乗って!」
山田は声の方向へ足を引き摺りながら歩く。
砂浜に打ち上げられた漂流物とぶつかりながら。
エピローグ 愛国心はならず者の最後の拠り所
都内某所、大学病院。
境は、生きていた。
「今日で一週間っすね。なんか分かりましたか?」
「北海道や本州にも情報はない。例の騒動以外はな」
「……ま、同じくっすね」
病室に訪れ、勝手に部屋中を物色する竜崎。彼は車椅子を押し、病床が一つしかない個室でくつろいでいた。互いに青の病衣を着ていたが、決定的に違うのは境自身、まだ身体を自由に動かせないということ。腹部まで掛けた布団の下も包帯だらけであり、電動式のリクライニングベッドに預けた上半身もやはり包帯だらけだった。頬にはガーゼが貼られていたが、頭の包帯は既に外されている。都内の街並みが眺められる一面の窓からは、部屋の隅まで陽光が差し込んでいた。ベッドの横にはクッションの置かれたソファーがあり、五メートルほど離れた棚の上には大型液晶モニターがあった。個室の出入り口までの間には高級感溢れるリクライニングチェアーが用意され、床は格子模様のカーペット。人工木材があしらわれた壁には、電話が一つ設置されている。
個室とはな。どういう風の吹き回しなんだか……
柔らかい光の照明が組み込まれたクリーム色の天井や、一部の白壁が清潔感を演出するのに一役買っている。室内にはクローゼットや冷蔵庫収納まで完備されており、手元のベッドサイドテーブルには液晶タブレットが付属。ネット通信は有線接続のみだが無料らしく、境は入院時から常に情報収集を怠らなかった。竜崎はどうやって持ち込んだのか、サプレッサーのないFNX45ピストルを常に隠し持っていた。暇さえあればブラスキャッチに興じており、弾倉を小指に挟んだまま、スライドを引いて薬室から排出される実包を空中で掴む。その動作をひたすら繰り返していた。
入院して、もう七日も経つのか。
全身を切り刻まれた記憶が脳裏に甦る。竜崎に冷蔵庫から飲み物を取ってもらおうと思ったその時、ドアノックが三回、一回、三回と小刻みに聞こえた。装填済みの拳銃を構え、待機する竜崎。境は竜崎が調達、分解した丁字型のカミソリを枕の下から手の中へと隠し、来訪者が顔を出すまで気を引き締める。すると、無遠慮にドアが開かれる音が聞こえた。
「——どうかな? 普通に入院すれば何十万もする特別個室だぞ?」
「……出内機関の計らいではありませんね」
「私の計らいだよ」
薄い眉毛と大きな額、黒縁眼鏡を掛けたNSS局長。その背後から、眼鏡を掛けた小太りで禿げ頭の白人が現れる。
「元CIA東京支局長が何の用だ?」
「怪我はどうかな?」
「悪くない」
腕を上げて手を握ったり開く動作を実施する境。穏やかな表情で頷くウッダードに対し、脱いだコートを壁のフックに掛け、ソファーに座る局長。銃を隠そうともしない竜崎に、彼は眉をひそめた。
「病院に銃を持ち込むとはね」
「それも私の計らいだ。海ほたるの一件から、血盟団やルサンチマン共は姿を隠さなくなった。今の時代、日本であろうと自分の身は自分で守ってもらわなくては」
「……まあ良い。今回の『海底トンネル事件』について話そう。まずは津軽海峡トンネルについてだ」
「報道規制がありましたね」
「そうだ。『異常出水による崩落事故』として扱っている。幸い、証拠は全て海の底だからね。現在、国土交通省が対応中だ——それと、両首相は『周囲に勧められてトンネルへと入った』らしい」
「誰かにそそのかされた、ということですか?」
「ウクライナの首相が乗り気だったことは事実だが、可能性はあるだろう。報告にあった例の政務次官ではない」
血盟団のような反乱分子が、政府中枢まで入り込んでいるということか……
「総理とウクライナの首相はどうなったんすか?」
「人質達を救出後、医療チームが派遣されたが命に別状はない。特戦群には多少の損耗があったが、覚悟の上だろう。政務次官は逮捕後、事情聴取を行っている。日ウのみならず、米『ロ』もこの件に関しては口を噤むことに決めた」
その発言に、片眉を吊り上げる竜崎。
「アメリカはまだしも、なんでロシアが訳知り顔で介入してるんすか?」
局長とウッダードが顔を見合わせた後、両者の視線がこちらへと向けられた。
「……竜崎が政軍隷属計画を知っていることは、入院中に本人から聞かされた」
政軍隷属。
堀というケースオフィサーによって漏らされた日米の密約。
かつて境と篠原が忌み嫌った約束事。
そして、それでも守り続けてきた呪いの協定。
「実は、君が参加した一連のロシア諜報団壊滅作戦は、ロシア政府からの要望でもあったんだ」と、ウッダード。
「要望? 自分のとこのスパイを狩ることが?」と、唖然とする竜崎。
「日本で工作活動をしていたイリーガル達は、旧態政府の信奉者だった。現政権は親欧米派であり、政策の邪魔になる。どこかで切り捨てる必要があったんだ」と、局長。
「じゃあ、和平交渉には何の影響もなかったんすか?」
「妨げになるどころか、アクアリウム(GRU本部)の連中から感謝状を贈られたいくらいさ。ロシア大使館での序列や出世争い。SVRの暴走。これらがジャパンのレンディショングループの活躍によって、親NATO派のGRU出身官僚が重要なポストに登用されることになる。もちろん、その中には親米派も多く含まれている。ロシアにとっては獅子身中の虫を駆除し、アメリカは恩を売るチャンスだった。騙して悪いが、願ってもないことだった」と、ウッダード。
「それを俺達に肩代わりさせたってことか……体のいい尻尾切りになるところだったぜ」
「痛み分けと呼んで欲しいな。それに、実は蹶起に反応した親ロシア派議員の中にはスパイと言っても過言ではない人物もいた。それを騒動に紛れて特定、逮捕することができたらしい。アメリカとイギリスは今回の蹶起をあえて見過ごしていた節がある」
「つまりはグレートゲームの一環だったってことかよ……踊らされたな」
ぐうの音も出ないほど打ち負かされた表情になった竜崎に、境は少し同情した。
「常にそうだ。そして日本政府としてのアピールやプロモーションも兼ねていた。無駄じゃないさ……ところで、交渉はどうなりましたか?」
「延期だ。今回の事件を鑑みて、時期早々だと判断したようだ」と、局長。
「へっ、また振り出しかよ……」
「残念だが、振り出しですらないのだよ。AIアジテーションに関する説明は受けたか?」
「竜崎から」
ウッダードは大型モニターの電源を点ける。海底トンネルでの決戦を終え、情報収集をするにあたり何度も見た報道が液晶に出力される。
白昼堂々、高級店を襲う犯罪集団。
電車やバスなどの公共機関、歩行者天国などでラミングアタックを繰り返す単独犯。
そして、いくつかの駐屯地や基地で武器を盗み出し、逮捕されていく国防軍兵士達。
「篠原君の目的は、『貧困層をアジテーションして国家社会にカオスをもたらすこと』ではなかった」
「真の狙いは、革命思想に感化された日本兵達による自主的な軍事クーデター、か……」
「自衛隊から国防軍となった矢先にこれだ。日本にとっては大きなイメージダウンに繋がる。同時に、世間では『二二六事件の再来』、『軍国化への回帰』と騒がれている」
「一部の識者からは『血盟団』という単語まで飛び出してきた。既に規制が難しくなってきている。篠原の望んだ通りになったということだろう」と、ウッダード。
「血盟団は組織ではない」という言葉を、境は思い出す。
篠原の残していった火種は今、ルサンチマン達の間で確実に燃え広がっている。
「報告では『坑道内を落下し、水中へと没した』とあったが、事実かね?」
「事実です。この手でやりましたから」
「そうか……血盟団に対する日米の対応は協議中だ。何せ、AIを利用したクーデターなど前例のないことだ。ヘイトマップシステムは終了させ、社会不安やヘイトを煽るようなアカウントは次々と停止させている。それでもイタチごっこなのは否めないがね……ここまでが今回の事件についてだ。ここからは処遇を伝える。居ない人間も含めてね」
「——双葉と新渡戸のことですか?」
「それもあるが、君達を地上で回収した別動隊のこともある」
「姉御と長谷川か」
「道中、新幹線の車内で襲撃を受けたらしい。最終的には撃退したようだけどね——彼らは『命令で動いた』らしいので、お咎めはなしだ」
……どうやら、部下をうまく庇えたようだな。
「ただ前者に関しては別の問題が発生中だよ。もう知っているかもしれないが」
テレビのチャンネルを変える局長。地上波のテロップに映ったのは、『人質司法』という文字だった。
「初めはネットでしか取り扱っていなかったが、国際世論に後押しされてキー局でも渋々報じ始めた。決定的だったのは、英国のメディアが放映したこの映像だ」
テレビでは、どこかの警察署にある殺風景な取調室の様子が映し出されていた。明らかに盗撮と思われる角度だったが、同時に撮影者が部屋の隅に座っている記録係であることが分かる。取調べの内容はひどく横暴で、調べを受けている人間はまだ若い白人の青年だということが見て取れた。
「内部流出はまだ序の口で、最終的に現職警察官三名による顔出しと実名により、日本警察の取調べの様子が全世界に公開された。この被疑者は車を運転中に職務質問で停車させられ、車内を調べた結果、大麻が発見された。署内での尿検査でも陽性反応が出たらしい。問題なのは、これらが警察によるでっち上げだったということだ。弁護士によると、車内に麻薬入りのパケを仕込んだ瞬間が警察車両のドライブレコーダーに記録されていた上、内部告発によると尿をすり替えたとのことだ」
「ひでえな……けど、どうしてここまでの騒ぎになったんすか? 普通だったらメディアが忖度すると思うんすけど」
「冤罪被害を受けたのが在日米国大使館職員の子息だったからだよ。これは他国ではセンシティブな問題として取り上げられた。人種や外見を理由に職務質問をするレイシャル・プロファイリングとして。そして日本の弁護士同伴不可などを見直すホステージ・ジャスティスとして、今では外交問題にも発展している」と、ウッダード。
テレビでは警視庁による記者会見中、ネット上に違法な取調べや職務質問の映像が新規に公開され、記者達の質問にしどろもどろする警視庁長官の姿が報じられていた。
「……不思議なことに、これら海外メディアへのリークが、二名のケースオフィサーが取調べされるタイミングで行われた」
「取調べとは?」
「双葉工作員と新渡戸工作員は現在、情報漏洩の疑いで公安検察の取調べを受けている最中だ。検察庁の九階にある一室でね。日本の取調べ体制全体にスポットが当てられた今、霞が関のアセットから迂闊な追及はしづらいという情報があった」
「それはご苦労なことです」
局長は分厚い瓶底眼鏡の奥で、瞳を縮小させる。
「君達は篠原君含めて諜報員課程立ち上げの同期だったね——何か知っているかね?」
「何も」
「そうか」
予定調和な質問と回答。
見ているか、篠原。日本はこうやって変えるんだ。
局長はテレビに視線を戻し、「だが、東京地検特捜部が内密に動き出している。世間の注目を逸らすようなネタを摘発し、事態の鎮静化を図る気だろう」と、コメント。
東京地検特捜部。
通称「日本最強の捜査機関」。
「日本にルーツを持つ人間や組織は、検察には逆らえませんからね」
「どういうことっすか?」
「主要メディアは国有地払い下げの際に財務省に便宜を図られている。いざとなれば、特捜を仕向けられる。政策意思決定者と報道各社のトップも日頃から食事会を重ねているから、それもまずい。内部監査により交際や経費のごまかしをでっち上げられる。政治家も重箱の隅をつつくような公職選挙法違反などで逮捕されるから歯向かえない。日本で最も権力を握っているのは検察であり、その中で最強と言われるのが汚職や脱税、経済事件を取り扱う東京地検特捜部だ。企業も検察OBのために天下り先を用意している」
「GHQが生み出したモンスターだよ。理想的な国家は理想的な民衆によって成立する。この問題は政治家や公務員では解決できない」と、ウッダード。
「何言ってんだ? 『東京地検特捜部』ってのは日本の組織だろ?」
「東京地検特捜部は元々、日本ではなくアメリカが作った組織なんだよ。実際、米国大使館の書記官経験者でなければ出世の道を歩むことは難しい。前身は第二次大戦時に旧日本軍が隠した貴金属や軍需物資を接収するために設置された『隠退蔵(いんたいぞう)物資事件捜査部』という一部門に過ぎなかった。政界の汚職や脱税を取り締まる内に国民の人気を得ていったが、それが難しくなると今度は劇場型捜査という世間の注目を集めるような経済検察へとシフトしていった。三権分立を謳えども裁判官も『特捜部の看板』には弱い。何しろ同じ法曹資格者である検察官のチームとやり合うんだ。加えて上部組織である法務省の幹部と、実務の中心を担う法務官僚のほとんどは検事だ。実質、法務省と検察庁は一体化しているんだよ」と、局長。
「三権分立できてねえじゃねえか。裁判官が突然、検察官になったりしたらヤバいだろ」
部下の鋭い指摘に、境は静かに答える。
「なるぞ。刑事裁判の部門では廃止されたが、民事では判検交流という人事交流制度がある。これは一定期間、裁判官が検察官、またその逆を経験させる制度だ。戦後間もない頃に民法の法律家が少なかったことから続く名残だが、現在も継続中だ。裁判の公正を損なうと禁止を求められているがな」
「……おやっさんのダチ、大丈夫なのか?」
「双葉と新渡戸がどんな様子か分かりますか?」
「黙秘を貫いているらしい。君も知っている通り、日本国憲法第38条が黙秘権を保障しているが、ミランダ警告に相当する制度や判例は日本に存在しない。憲法第38条の規定を受け、刑事訴訟法第198条2項は取調べにおいてあらかじめ黙秘権を告知することを定めている」と、局長。
「ミランダ告知の義務が生じるのは検察官や検察事務官、司法警察職員が取り調べを行う時であって、逮捕時に警告を与える義務は規程されていませんがね」
「あの二人なら大丈夫だろう。供述調書を取られないようにするための時間稼ぎだよ。調書もパソコンを叩くだけだからね。証拠の開示で調書を検察側のストーリーしか書いていないことが判明したから、メモを取るようにはなったが……」
「最高裁の判例でそのメモも開示の対象になったので取らなくなりましたね。パソコン上で小説家のようにプロットだけ残し、調書にストーリーを一気に書き込み、元のデータを消去するというやり方になっているはずです。だから裁判で公開されるのは調書の後半部分で、前半と途中経過は非公開なんです」
「『私が犯人です』っつーラストシーンだけが公開されるってことか……すげえ作風だな」
「そう言えば、日本にはアメリカの司法取引に似た制度があったな。それをちらつかせる可能性はないか?」と、ウッダード。
「『捜査・公判協力型協議・合意制度』のことか。被疑者あるいは被告人が共犯者や他人の犯罪について供述や証言をしたり、証拠を提出する見返りとして検察官が求刑を軽くしたり不起訴処分にする制度のことだ。組織犯罪の全容解明が目的とされているが、実際の裁量は検察側にある。二〇一八年から導入された日本版司法取引だが、知っている人間なら利用することはないだろう。虚偽供述は五年以下の懲役という罰則もあるが、無実の他人に罪を擦り付ける危険性もある。その上、米国のような証人保護プログラムはない。出所後や不起訴後に報復される可能性もある制度だ」
「微罪で終わっても、後が怖いか」と、ウッダード。
「いずれにせよ前科がつく。今後は経歴虚偽の記載にも注意しなければならないし、海外渡航の度に別室に連れて行かれ、逐一確認を取られる人生となる」
病室をテレビのAIナレーションが支配する。局長は姿勢を改め、眼鏡の縁を指で押し上げた。
「長い戦いになるね……後は、CIAから教育参加していたケースオフィサーについてだ。結論から言うと二重スパイであり、死亡が確認された」
ここに来ない時点で、何となく予期はしていた。
境は部下に視線を合わせる。彼は目を閉じ、天井を仰ぎ、大きな溜め息を吐いて上体を前に倒すと、落ち着いた表情で口を開いた。
「オトメは、真っ当な人生だったんすかね……」
「早乙女——オレクシー・ミハロフ工作員は、青森県北津軽郡中泊町の景勝地(けいしょうち)である袰内(ほろない)の海岸で発見された。ミハロフ工作員の経歴についてだが……ウッダード」
「ああ。もしやと思って、アメリカに亡命した元SVRのスパイに訊ねたら、ヒットしたよ」
ベッドサイドテーブルに携帯端末を置くウッダード。境は液晶に出力されている画像を竜崎と覗いた。
そこはどこかの密室だった。監禁された小学生くらいの白人の子供達が映っている。数十名の幼子が部屋の隅に集まり、身を寄せ合っていた。
ぬいぐるみを抱き締め、俯く少女。
こちらを睨み付けるように佇む少年。
そして、背の高い少女に守られるような形で膝を抱え、怯えている黒髪の男児。
特徴的な大きな瞳に気付き、境は竜崎と視線を交わす。
オレクシー・ミハロフ。それが早乙女の本名。
「これは彼が六歳の時の写真らしい。二〇二二年、ロシア軍はウクライナから大量の子供を拉致した。その内の一人とのことだ。GRUやSVRは拉致した子供をロシア国内で洗脳教育し、敵愾心を植え付けて将来有望なスパイに仕立て上げる活動を行っていたんだ」
「なんてこった……」
「教育が実施される閉鎖空間では、赤の他人である子供達同士を『兄弟』『姉妹』と呼称させ、スパイ指導官のことを『お父さん』『お母さん』と呼ばせていたらしい。本当の親や国を忘れさせるためだろう。そこでオレクシー・ミハロフ少年はプログラミングの才能を開花させ、サイバー戦に特化したスパイとしてカバーストーリーを与えられたようだ。その後、アメリカへと渡り、CIAに潜り込んだらしい。もう一名、突出した才能を持った少女もいたようだが、ミハロフが上回ったせいでスパイにはなれなかったそうだ」
「その子はどうなったんすか?」と、竜崎。
「不明だ。見込みのない子は通常の孤児か養子として引き取られるらしい」
「そっちの方が幸せかもな……」
その台詞で境は、ミハロフがかつて「誰かが公的な職業に就く必要があった」と発言していたことを思い出した。
ミハロフは凄腕の妹からハッキングを伝授されたと言っていた。彼が言う凄腕とは「ウィザード級ハッカー」ということだろう。そんな人物を簡単に超えることができるのだろうか。もし、意図的に手を抜いていたとしたら——
ミハロフは、妹をスパイにさせないためにスパイになったのではないだろうか。
つまり、自己犠牲。
境は病室で、静かに、強く目を閉じた。
「金」でも、「イデオロギー」でも、肥大化した「自尊心」でもない。
「妥協」と「脅迫」。
謀略は誠なり。
還暦を過ぎてもなお、この言葉の間で彷徨い続けている。
本名すら知らなかった青年は、凍てつくロシアから日本に来たが、最後は再び寒空の下で人生を終わらせたのか。それとも……
「こっちも当初はスパイだとは疑わなかった。ロシアは大学生の頃からスカウトする。スパイにしては若すぎると踏んでいたが……」と言いながら、局長は視線を合わせてきた。
「聡(さと)い部下のおかげで気付くことができた。持つべきものは優秀な部下だな。官邸に知られるわけにはいかなかった。身から出た錆だ。笑い者になるだけでは済まされない」
「……竜崎も優秀な部下です。命も救われました」
「そうだろうな……しかし結果から伝えると、命令違反と単独行動によりキャンプ勝連へと再収容することを決定した」
……そんな馬鹿な。
「その代わり、勝連に収容される敵性戦闘員を有効活用する案は継続させてもらうよ。今回のような形になるかは約束できないが、ロシア諜報団壊滅という成果も出したことだ。情報会議でも言い分は通るだろう」
「レンディション自体に意味があるとは思えません」
「レンディションがあったから、同時多発テロの首謀者を捕捉できた」
「そして、首謀者捕捉に協力した現地の医師は祖国で何十年も刑務所にぶち込まれた」
「それに釈放されたうち、本国の方では何割かがテロ活動に戻っているという報告もある」
「その数値に根拠はありません。釈放後に米国政府を批判することすら活動に含まれている場合があります。加えて、恨みから本当にテロ活動に従事している可能性もあります。収容ではなく保護しなければ、新たな火種が増えるだけです」
「だが、これは君自身が最初に取り決めたことだろう? 命令違反や指定された範囲から逃走した場合は勝連に逆戻りにさせる、と」
詰みとなった境は、どうすることもできなかった。
「……これが限界ですか?」
「これが限界だ。私の立場も理解してくれ」
だが、もっと何かできることが——
「良いっすよ、おやっさん」
両手を頭の後ろで組み、のんびりと窓の外を眺める竜崎。
「ま、そうなるよな」
まるで、二度と望めない光景を眼に焼き付けるかのような眼差し。
いや、彼はこれから本当に……
「移送は完治後だ。一応、君を信頼してこの場で伝えたんだ。頼むから逃げないで欲しい。境君の顔に泥を——」
「へいへい、分かってますよ」と、適当にあしらう竜崎。
「……さて、そろそろお暇しよう。報告書をまとめなくてはならないんだ。境君も治療が終わったら書類に事の顛末をまとめておいてくれ」
「……分かりました」
「正確に頼むよ。旧日本軍は情報を不完全に評価し、スパイの報告書を過大評価する癖があった。結果的に連合軍の偽情報や、それを売る民間人に騙されてしまったからね」
局長は立ち上がり、ウッダードの隣に立つ。
「功績が大きくても、救えない物事もあるんだ」
しっかりと釘を刺してきたボスは、竜崎に「苦労を掛けるね」と言い残し、病室から去ろうとする。
が、最後にコートをゆっくりと羽織りながら訊ねてきた。
「……ああ、言い忘れていたよ。ミハロフ工作員は誰かに治療を受けた痕跡があった。そして、海岸の砂浜にはもう一人の人間が居たような形跡があったが……知らないね?」
「知りません」
「知らないっすね」
「——なら結構」
ドアが開閉する音が聞こえた後、境はテレビに映っている有名人達の顔ぶれを確認。早速、特捜部が政治家の資金問題を暴き、週刊誌が芸能人の不祥事だと騒がれている話題を取り上げていた。
「……歴史に闇が訪れる時は、一部の善意と悪意、そして多大な無関心が発生した時だ」と、ウッダード。
その通りだ。世間の目を欺こうという魂胆だろうが、そうはいかんぞ。
「……出版社にいるアセットに、編集長の社内不倫の現場証拠や、異性にストーカー紛いの取材をしている記者の写真を押さえてもらった。それをホームページにある問い合わせメールのアドレスに送信したから、人質司法問題が霞むような芸能ネタは記事化されないだろう」
「なぜメールで送ったんだ? 本人に届くか分からないし、世間にも公表されないだろう?」
「問い合わせの対応には、ほとんどの場合バイトが雇われている。メールは基本的に社内の編集部で共有するから、そっちで出回った方が本人へのダメージが大きいらしい」
「なるほど。蛇の道は蛇か——私もそろそろ沖縄へ帰ろう」
「またよろしくな、ウッダードのおっさん」
「ああ。だが……同じ待遇で扱えるかは分からないんだ」
「良いって良いって」
手だけを振り、目線を交わさない竜崎。ウッダードも背中を丸め、それ以上は何も言わずに退室。病室には人の肉声と変わらないAIキャスターの読み上げ音声だけが虚しく響く。メディアの話題は奇しくも、芸能関連から制定間近と言われ始めたスパイ防止法へと切り替わる。
「日本国憲法ってのはアメリカの憲法学者が原案を起草して、日本人が数週間で翻訳したものだろ? 民主主義国を標榜する国に住んでいるだけで、俺達は本当の民主主義を知らない……それがスパイ防止法とか人質司法にも直結してんだろうな」
「敗戦直後、一部の軍人や知識人が尽力したが、戦後日本は国民自身が自らの権利を勝ち取ってきたという背景がない。日本人の民族的イデオロギーとして、相互監視と密告社会になる危険性があり、人質司法がある以上、日本でのスパイ防止法は欧米各国のような対スパイ政策として機能しないだろう。最悪はスパイが無実の日本人を身代わりにするということも考えられる。日本の政治家は秘密保護法の対象にはなるが、憲法上、免責特権があるので処罰はされない。そのことから国際的な防諜機関からは信用されず、日本はスパイ防止の枠組みに入れないのだろう」
「人質司法があるのに死刑制度があるのも怖いっすよ。誤認逮捕からの死刑が一番ヤバいじゃないすか?」
「スパイ防止法を施行しても、拘束からの流れが組み立てられていない上に、国民への説明義務が果たされていないからな。政策や法律の説明に民間を登用し、インターネットなどあらゆる媒体で分かりやすく発信するべきだろう。日本に根付く文書主義、そして公文書の書き方は官僚に対する説明であり、国民は誰も理解できない。玉音放送で敗戦が理解できなかったのと同じだ——テレビはもう消そう」
「そうっすね。見ているだけでイライラするっすから」
沈黙が流れた。竜崎は車椅子を窓際まで動かし、陽光を全身に浴びて目を細める。
「——そう言えば、おやっさんはやけに法律に詳しいっすよね。どこで勉強したんすか?」
「……昔の仲間が、法学部出身だったんだ」
「その仲間は?」
「血盟団を復活させてしまった」
自分で言って、境は後悔した。
「本当に二〇五〇年まで持たせれば、何とかなるっすかね?」
「……希望がなければ人は戦えない。茹でられたままでは絶望しかない」
「……そうっすね」
「心配するな。俺がやる」
俺の代で始めたことは、俺達で終わらせる。
いつかは血盟団という不況や貧困の闇と全面対決しなければならない。
誰かが立ち向かわなければならない。
「東京タワーの眺めが良いっすね」
「ああ……」
慰めるわけではないが、今のうちに何か言葉を掛けておかなければ。
「……国家の危機的状況を救っても、たった二五〇ワードの文章でしか周知されない。もちろん当人の名前はなしだ。出内機関に居続けたとしても、世間に功績は公表されない。この国では本や映画にもならないし、給料や評価が上がることもない。ほとんどは自殺で処理されているが、見せしめで殺されるケースオフィサーもいる」
「おやっさんは、何でスパイになったんだ?」
「自分の能力を出し切れる仕事だからだ。好き嫌いじゃない」
——そして、お前達のような子供を戦争に行かせたくないから、自分が生きている間は平和を守りたい。
「へっ、俺と同じっすね」
境は突然、リハビリで動かしていた手が麻痺し、腰に痛みが走る感覚に襲われた。数秒間の出来事。だが、竜崎には見抜かれていたようで、苦し紛れに笑うしかなかった。
「……それも難しくなってきているがな」
「身体が動かなくなったら、DIに移っても良いんじゃないすか?」
「そうだな。だが——現場で引き金を引くのと文書で命令をすることに違いはない。いずれにせよハードワークだな」
「また部下集めて、スパイとか血盟団をぶっ潰してくださいよ」
「お前達のような人材ならば雇ってみよう」
マイクロマネジメントをしたくなるから、部下は持ちたくないんだがな。
お前達のような部下を失うのが怖い、とは言えなかった。慣れている部分もあるが、手塩にかけた手をかけた人間が死亡したり辞職をすると嫌な気分になるので、境はなるべく関わらないことにしていた。
「……老害になる前に、血盟団と決着を付けなければな」
「『老害』なんて単語、似合わないっすよ。俺達が『なんとか世代』とか『今どきの若者』って言われて腹が立つのと同じで、新聞やテレビ局が世代間論争を煽るキャッチコピーで広告収入を増やしたいから生み出した造語じゃないっすか」
「……随分と弁が立つようになったな」
「へっ……相棒の受け売りすっかね」
「……そうか」
日の光に包まれながら、竜崎は小声で何かを呟いていた。
「そっちは楽しいか? ヤマちゃん」
◆
時が流れ、東京ビッグサイトにて——
「トイレに行ってくる」
「分かりました」
老人は妻にそう言い残すと、男性用トイレの中に入る。トイレには他に白人の男が一人、手洗い場の前に立っているだけだった。
老人は小便器の前に立つ。
「……一階フロア東五番、4Dプリンターを説明している若い男」
すると、手を洗いながら白人が答える。
「分かりました。交友を深めてきます」
「そう言えば、サセードが最近死んじまったらしい……あいつは名が売れ過ぎたからな。後で俺も変えなきゃいかん」
「では、なんと呼べば?」
「好きに呼べば良い。この世界じゃ、名前に意味なんかないんだよ、若いの」
「了解です、バッハさん」
『政軍隷属:CIVIL MILITARY SERVUS』
——おわり——
邦人や外国人を問わず、日本国において冤罪で無罪判決を勝ち取れる確率は〇・一パーセントである。
しかし二〇二四年現在、日本国民にとって自国の刑事手続きと現実のスパイ活動を教育される機会はない。そして、二つの関係性を考慮した教育資料も存在しない。
主要参考文献
『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』 戸部良一/寺本義也/鎌田伸一/杉之尾考生/村井友秀/野中郁次郎共著 中公文庫
『「超」入門 失敗の本質 日本軍と現代日本に共通する23の組織的ジレンマ』 鈴木博毅著 ダイヤモンド社
『大本営参謀の情報戦記』 堀栄三著 文春文庫
『昭和一六年夏の敗戦』 猪瀬直樹著 中公文庫
『皇軍兵士の日常生活』 一ノ瀬俊也著 講談社現代新書
『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』 一ノ瀬俊也著 講談社現代新書
『経済的徴兵制』 布施祐仁著 集英社新書
『「昭和」の学校行事』 今野敏彦著 日本図書センター
『血盟団事件』 中島岳志著 文藝春秋
『トレイシー 日本兵捕虜秘密収容所』 中田整一著 講談社
『「陸軍中野学校」の教え 日本のインテリジェンスの復活と未来』 福山隆著 ダイレクト出版
『インテリジェンス 機密から政策へ』 マーク・M・ローエンタール著 茂田宏監訳 慶應義塾大学出版会
『インテリジェンス用語事典』 樋口敬祐/上田篤盛/志田淳二郎共著 川上高司監修 並木書房
『特務 スペシャル・デューティー 日本のインテリジェンス・コミュニティの歴史』 リチャード・J・サミュエルズ著 小谷賢翻訳 日本経済新聞出版
『日本インテリジェンス史 旧日本軍から公安、内調、NSCまで』 小谷賢著 中公新書
『内閣情報調査室 公安警察 公安調査庁との三つ巴の闘い』 今井良著 幻冬舎新書
『防衛省と外務省 歪んだ二つのインテリジェンス組織』 福山隆著 幻冬舎新書
『警視庁公安部外事課』 勝丸円覚著 光文社
『外事警察秘録』 北村滋著 文藝春秋
『諜・無法地帯 暗躍するスパイたち』 勝丸円覚著 山田敏弘構成 実業之日本社
『秘匿捜査 警視庁公安部スパイハンターの真実』 竹内明著 講談社文庫
『スパイと日本人 インテリジェンス不毛の国への警告』 福山隆著 ワニ・プラス
『わたしはCIA諜報員だった』 リンジー・モラン著 高山祥子翻訳 集英社文庫
『CIAは何をしていた?』 ロバート・ベア著 佐々田雅子翻訳 新潮社
『対テロ工作員になった私 「ごく普通の女子学生」がCIAにスカウトされて』 トレイシー・ワルダー/ジェシカ・アニャ・ブラウ著 白須清美翻訳 原書房
『秘密戦争の司令官オバマ CIAと特殊部隊の隠された戦争』 菅原出著 並木書房
『CIA秘密飛行便 テロ容疑者移送工作の全貌』 スティーブン・グレイ著 平賀秀明訳 朝日新聞社
『ルポ 入管 絶望の外国人収容施設』 平野雄吾著 ちくま新書
『人質司法』 高野隆著 角川新書
『隷属への道 ハイエク全集 I-別巻』 F・A・ハイエク 西山千明翻訳 春秋社
『検察の正義』 郷原信郎著 ちくま新書
『冲方丁のこち留 こちら渋谷警察署留置場』 冲方丁著 集英社インターナショナル
『オキナワ論 在沖縄海兵隊元幹部の告白』 ロバート・D・エルドリッヂ著 新潮新書
『日本人が知るべき東アジアの地政学』 茂木誠著 悟空出版
『戦略の地政学 ランドパワーVSシーパワー』 秋元千明著 ウェッジ
『戦争の常識』 鍛冶俊樹著 文藝春秋
『「第5の戦場」 サイバー戦の脅威』 伊東寛著 祥伝社新書
『ベリングキャット デジタルハンター、国家の嘘を暴く』 エリオット・ヒギンズ著 安原和見翻訳 筑摩書房
『量子コンピュータが本当にわかる! 第一線開発者がやさしく明かすしくみと可能性』 武田俊太郎著 技術評論社
『2035 10年後のニッポン ホリエモンの未来予測大全』 堀江貴文著 徳間書店
『2030 半導体の地政学 戦略物資を支配するのは誰か』 太田泰彦著 日本経済新聞出版
『Global Trends 2040: A More Contested World』 National Intelligence Council著 Cosimo Reports(PDFで英文閲覧可能)
『陸・海・空 軍人によるウクライナ侵攻分析 日本の未来のために必要なこと』 小川清史/伊藤俊幸/小野田治/桜林美佐/チャンネルくらら共著 ワニブックス
『ウクライナ戦争は世界をどう変えたか 「独裁者の論理」と試される「日本の論理」』 豊島晋作著 KADOKAWA
『ロシアの論理 復活した大国は何を目指すか』 武田善憲著 中公新書
『「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略』 小泉悠著 東京堂出版
『ワグネル プーチンの秘密軍隊』 マラート・ガビドゥリン著 小泉悠監修 東京堂出版
『ロシア点描 まちかどから見るプーチン帝国の素顔』 小泉悠 PHP研究所
『ウクライナ戦争日記』 Stand With Ukraine Japan編集 左右社
『青函トンネル物語 津軽海峡の底を掘り抜いた男たち』 青函トンネル物語編集委員会著 交通新聞社
『検証 福島原発事故 官邸の一〇〇時間』 木村英昭著 岩波書店
『「地下鉄サリン事件」戦記 出動自衛隊指揮官の戦闘記録』 福山隆著
『共通テスト過去問研究 倫理、政治・経済/倫理 2022年版共通テスト赤本シリーズ』 教学社編集部編集 教学社
『大学入学共通テスト 倫理、政治・経済の点数が面白いほどとれる本』 奥村薫著 KADOKAWA
『別冊NHK100分de名著 読書の学校 苫野一徳 特別授業『社会契約論』』 苫野一徳著 NHK出版
『イラストでまなぶ! 戦闘外傷救護 COMBAT FIRST AID 増補改訂版』 照井資規 ホビージャパン
『いちばんわかりやすいテーピング』 花岡美智子監修 成美堂出版
『SAS隊員養成マニュアル 訓練・戦闘技術・知能・闘争心』 クリス・マクナブ著 小林朋則翻訳 原書房
『ネイビー・シールズ 実戦狙撃手訓練プログラム』 アメリカ海軍編集 角敦子翻訳 原書房
その他、関係各省庁、内閣、日本弁護士連合会、ふくしま復興ステーション、アメリカ連邦捜査局などのホームページや動画から引用。
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この作品はフィクションです。
実際の事件や出来事をモデルにしていますが、実在の人物や団体など架空の設定が含まれています。
また現実といかに類似していても、それは意図しないものです。作中の描写の模倣、思想等の影響を受け、法によって禁じられた行為が行われた場合、著者は一切の責任を負いません。
◆
※米国の大学、大学院にて「インテリジェンスの教科書」として最も高い評価を受けている『インテリジェンス 機密から政策へ』にならい、CIAやNSAは「局」から「庁」へと規模的にもより適切に訳していることをここに追記します。
※法律や条例等の改正により、現在の社会状況に当てはまらない場合がございます。
©Saito Daichi 2024
二〇二四年二月 初版
著者 Saito Daichi
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