小説『シビルミリタリーセルヴス: ダイジェストバージョン』(全文無料公開中)<㊥>
セレクション(第1週 各種素養試験)
「これって録音もされてんのか?」
「分からないけど、訊いたら警戒されると思って訊かなかった。というか、さっきの指導官、面接で来た人と同じだよね?」
「あの低い声は多分そうだろうな……ま、一週間に一回、こいつの充電を忘れなきゃ、大事だろう。後は俺達次第だ」
「——そうだね」
裾を整え、二人で廊下に出る。隊舎の外観通り、横長の廊下だった。訓練生達が荷物を抱えながら、ワックス掛けされたリノリウムの床を歩き回っている。山田は言われた通り、竜崎と共に廊下の中央へと移動。隊舎の表に戻る。そこには大量のRVボックスや、子供が入りそうな大きさの灰色のバッグが芝生に並べられていた。近くに濃い緑色の軍用大型トラックが停車している。そこから降ろされたのだろう。荷物には発送元を記した伝票が貼られていた。
「さて、俺達のは、と……」
山田も竜崎に続き、他の訓練生達の間に入る。自分と竜崎の伝票を探しながら、荷物の間をさまよった。見付けた人間は邪魔にならないよう、素早くはけていく。
恐らく、隊舎のどこかにある部屋割りの通りに搬入を進めているはずだ。これから先、どんなスケジュールか分からない。荷解きはなるべく早く済ませたいが——
芝生に何かが散乱し、山田は顔を上げた。
「あ、す、すみません……!」
どうやら訓練生の一人が、自分自身のコンテナボックスをひっくり返してしまったらしい。視界に転がってきた小型のポーチには、『早乙女』と明記されていた。拾い上げた山田は、その早乙女訓練生にポーチを手渡す。他の訓練生の顔ぶれより遥かに若く、一瞬、中学生かと疑ってしまうほどの童顔だった。どこか欧米のルーツが混じったような色白さで、目の色も青い。どちらかと言うと軍事施設より、アイドルのユニットに居る方が似合っている少年だ。
「はい、早乙女……君?」
この子、随分と若くないか? 背も一六〇センチくらいだと思うが、まだ学生か?
黒髪の小型犬を思わせる風貌の少年は、しきりに頭を下げて受け取った。
「ありがとうございます——あ」
自分の足でシャンプーの容器を踏んだようで、中身がブチュっと飛び出た。しかもよりによって、着弾地点にいた竜崎のパンツや靴にシャンプー液が盛大にぶちまけられていた。
「す、すみません」
「ま、まあしょうがねえっすわ……」
手で強引に足元を拭い始める竜崎。幸いなことに、早乙女訓練生の近くに自分達の荷物がまとめて置いてあった。竜崎にタオルを渡そうか迷っている早乙女訓練生を見兼ねて、山田は話し掛ける。
「これは仕方ないので、先に行きましょう」
「そうですね……」
タオルを受け取った竜崎を放置し、早乙女少年と荷物を抱えて隊舎の中に戻る。すると、階段に行列が出来ていた。
先に部屋の振り分けを見た方が、渋滞に巻き込まれずに済むな……
「先にどこの部屋か確認した方が良いみたいですね……」と、早乙女訓練生。
「そうですね……ちょっとここで待っていてください」
山田が荷物を下ろすと、早乙女訓練生は「分かりました。僕は自分の『番号』を知っているので、さっきの人に伝えておきます」と言った。
「番号?」
「教育中は番号で呼ばれるそうです。部屋割りが各階の廊下中央に張り出されていて、番号もそこに書かれていました」
番号で呼ばれるのは留置場以来だな……遥か遠い昔の出来事に感じられたあの一件から、まさかこんな環境になるとは。
ひとまず二階の廊下に出て、目当ての掲示物が貼られている壁を探す山田。が、すぐ目の前に黒山の人だかりができていた。恐らくはそこだろう。
前の列が行儀よくしゃがんでくれているおかげで、居室ごとに名前と番号が振られた巨大な用紙は、直ぐに見つかった。
一体、何人いるんだ?
山田は名簿にある名前を簡単に数えると、五二名分が記載されていた。訓練生は二階に宿泊するようだ。名簿には名字しか記載されておらず、ウッダードの言ったことは事実らしい。自分と竜崎が同じ居室であることに、まずは安堵。自分が「7」番で、竜崎は「6」番だった。驚いたことに、早乙女訓練生も同部屋で、彼は「9」番だった。
二階の一番端っこから手前にある一〇人部屋「クラスA」か。
場所を把握し、階段を下りると、6番と9番が合流していた。
「三人とも同じ部屋だったから、案内するよ」
「へっ、運が良いな」
二階の各部屋は、生徒である訓練生達が寝泊りする居室と、宿泊のための共用施設に分けられていた。部屋の戸口の上には「トイレ」や「洗濯室」、「給湯室」に「乾燥室」、「ボックスシャワールーム」といった突き出しのルームプレートがあるので分かりやすい。白を基調とした廊下は清掃が行き届いており綺麗だったが、それを訓練生達の入居で荒らしている状態だった。重量物を床に置いたり、ロッカーを開け閉めする雑音の中、「クラスA」と書かれた部屋に山田達は到着。開きっぱなしに固定されたドアの横に荷物を並べ、取り敢えず何も持たない空身(からみ)で入室する。
居室は狭く、七人の男女に溢れていた。乳白色の二段ベッドが室内中央を避けるように四つ設置され、奥には一段ずつのベッドが二つ置かれている。ベッドに居室の空間をほとんど占領されていた。ベッドの近くにはロッカーと小型の南京錠が掛かったキャビネットが備え付けてある。窓からは隣の隊舎が丸見えで、それは向こうからも同様だろう。既に荷物の搬入を終えて携帯電話をいじっている者や、ベッド下にコンテナをねじ込んでいる者もいる。いずれからも視線を感じた。
山田が自分のベッドがどこなのか調べていると、「ドアにベッドの割り振りがありましたよ」と、竜崎より大きな背格好の男性から声を掛けられた。
「ああ、ありがとうございます……」
入社初日と同じで、こういう時は社交的で世話好きな人から話し掛けてくれるからな……
内開きで固定されたドアの表面を見ると、山田は一番奥にある一段ベッドになっていた。その手前にある二段ベッドの上が、早乙女訓練生で、下は竜崎。割り振りに根拠があるのかは不明だが、先程教えてくれた人物は向かいの一段ベッドに座り、部屋の様子を観察しているようだった。山田は廊下に戻り、荷物を搬入。各人に与えられた狭いロッカーを開けると、ハンガーで服を吊るす棒だけ設置されており、他には何も入っていない。ベッドの下にコンテナを収納し、メディカルバッグをその隣に突っ込んでいると、「皆さん荷解きが済んだら、伝達事項があるのでこちらに注目してください」という指示が飛んだ。見ると、向かいの人物がメモ用紙を持ち、ベッドに片膝を付いて待機していた。
リーダーシップを発揮する人間は説得力がなければ務まらない。まだ居室内の微妙な力関係が解明されていない状況で指揮を執るのは、凄い勇気だ。それだけの自信を持つほどの経歴ということか……
「入口付近の人は一段ベッドに座ってください——良いですかね?」
促された山田は頷く。
「ええ、もちろんです」
居室の住人は全部で一〇名だった。リーダー格の男性と、自分と竜崎、そして早乙女訓練生、色白の妙齢の女性、日焼けした壮年の女性。それぞれがベッドの位置からこちらを眺めている。近くに寄ってきたのは、色黒の背の低い若い男性二名と、かなりの長身で山田より年上の男性、そして最年長と思しき無精髭の似合う男性だった。
どうして俺が一段ベッドなんだろうか……
「——えーと、初めまして。自分は空軍の基地警備教導隊から来ました、『空井(そらい)』です。番号だと、1番ですね。年齢は三三です」
全員が頭を下げ、各々がメモ帳を出そうとする。「大した内容ではないので」と空井訓練生は言う。山田は筆記用具をバッグに入れっぱなしだったのと、暗記して覚えるタイプだったので、次の動きに注目だけした。タイミングを見計らい、空井訓練生はメモ帳を読み上げる。
「自己紹介はこの後にやろうと思いますが、取り敢えず、先にここの指導部から言われたことを伝えます。最初にこの居室に入ったのが自分だったんですが、週間教育実施予定表が廊下に張り出されているので、それを各人で確認してくれとのことです。居室の全員が揃ったら、教育で必要な物を一階までまとめて取りに来るように言っていました。その時に、今日の夕食の弁当を配布するそうです。それと、今日の二一五〇に全員の携帯電話、撮影や録音ができる機器を週末の休養日まで回収するそうです——取り敢えず、取りに行きますか。今、言ったことで、質問はありますか?」
二一五〇(ニイヒトゴーマル)とは、軍隊や警察無線での時間の言い方だと、勝連で仕込まれたが……
山田が手を挙げる前に、「二一五〇とは二一時五〇分のことですか?」と早乙女訓練生が訊ねてくれた。
「……ああ、そうです。すみません、この中で公安職の経験がない方はいますか?」
一瞬、手を上げそうになったが、「真田」の設定を思い出し、竜崎と目を合わせる。どうやら完全な民間人は、早乙女訓練生だけらしい。
「多分、クラスごとにチームで教育を受けることになりそうなので、時間の表現や専門用語は後で説明します」
誰もその後を促さないので、「じゃあ、貴重品だけ持って行きますか」と竜崎が合いの手を入れる。全員で居室を出て、一階まで降りる最中、早乙女は周囲の人間を見回しながら、どこか釈然としない表情を浮かべていた。一階の廊下には折り畳み式のコンテナが番号順に並べられており、空井訓練生が指導員を職員室から呼び出すと、人数分持っていくように指示を始めた。養生テープの上から「7番」と書かれたオリーブドラブ色の蓋を、山田は開ける。中には森林地帯で使用するような迷彩柄の戦闘服と、オリーブドラブ色の綿のTシャツが三着ずつあり、迷彩帽が二個入っていた。他には何も入っていない軍用の登山リュック、重々しい軍用ヘルメット、真っ黒な安全靴のような編み上げブーツが二足、そして戦争映画で軍人が使う防弾チョッキのようなベストと、Y型サスペンダー、大きなバックルが付いた極太の固いベルト、恐らくはライフルの弾倉を入れるポーチが何個かに、赤十字のマークが付いた大き目のポーチ、かっぱのような素材の迷彩服、白地に「7」と書かれた布地が何枚か入っていた。そして、それらを貼る位置が書かれたラミネート済みの紙も混じっている。コンテナ横には「クラスA 一〇人分 夕食」と、黒い油性ペンで書かれた段ボール箱も添えられている。恐らく、弁当のことだろう。
結構、重いな。
各人がコンテナの上に弁当を乗せ、居室に戻ると、「今週の金曜日までに、戦闘服やヘルメットに自分の番号を縫っておくようにと言っていました。週間予定表や翌日の動きも確認しておいてくれ、だそうです」と、空井訓練生が指示する。ちらほらと返事が聞こえた後、「装備品の定位置は、ヘルメットと背嚢(はいのう)、弾帯(だんたい)サスペンダーはロッカーの上、ブーツとコンテナはベッドの下、貴重品はキャビネットの中、戦闘服とプレートキャリア、雨衣(あまい)はロッカーに掛けて——」そこで空井訓練生は唯一の民間人に向き直り、「背嚢はこの大きなバックパックのことで、プレートキャリアっていうのは防弾チョッキみたいなベストのことです。これは、抗弾(こうだん)プレートが入ってないけど……全部、旧自衛隊で使われていたのを流用していますね」と伝達した。
「空軍だと、フタじゃなくてニなんですね……」
「……あ、海軍の方ですか?」
「そうです、江田島(えたじま)の方で……」
「陸軍も、ニですね」
ようやく、居室内に雑談が生じ始めた。
「せっかくなんで、ベッドの位置で縫い物をしながら、自己紹介を済ませますか?」
山田も荷物から裁縫道具を取り出し、ベッドの上で戦闘服に番号を縫い始める。空井訓練生は室内を見渡し、切り出す。
「自分はさっき言った通りの経歴なんで、番号順にいきますか?」
「じゃあ、私から——」
名を上げた「2」番は、色白の妙齢の女性だった。
「私は警察官を辞めた後、身辺警護や施設警備、興信所の会社で働いていて、そこで募集がありました。『綾瀬(あやせ)』と言います。年齢は二七歳です」
民間の会社でもスパイのリクルートがあるのか?
ベリーショートの髪型は活発そうで、切れ長の目は意思の強さを感じた。元警察官や警備会社といった経歴から考えても、体力もありそうだ。座っているので分かり辛かったが、驚いたことに背は山田と同じくらいあった。
「『3』番の『南(みなみ)』です。自分は陸軍の体育学校にラグビーで行っていて、退職した後はスポーツインストラクターと即応予備役として勤務しています。訓練の時は通信科で幹部をやっています。年齢は三一です」
日焼けした壮年の女性も比較的短髪で、いかにも体育会系といったハキハキとした喋りだった。体格は早乙女訓練生と同じか、少し骨格を大きくしたくらいだろうか。
「即応予備役というのは、有事の際に召集された時は、現役軍人と同じように働く人達のことです。日頃は民間で勤務しながら、年間に何日かの訓練に出頭する制度ですね。大抵は軍を退職した後になります」
「へえ……」
補足を入れた空井訓練生に、早乙女訓練生は感心したように相槌を打った。
会話が落ち着くと、色黒で少し背の低い男性が拳を上げた。山田は仕込まれた前提知識で、軍人が勤務中に挙手する際は「パー」ではなく「グー」であることを知っていた。
「『4』番の『鈴木』です。自分は千葉県にある陸軍第1空挺団の普通科大隊から来ました。部隊では軽火器の小隊長をやっていました。歳は二七です」
普通科(ふつうか)」とは海外で言うところの歩兵科だ、と山田は勝連でウッダードや看守達から聞かされていた。戦後、日本では歩兵や戦闘といった単語を廃し、その過程で相応しい「普(あらゆる)通(じる)兵科」として代替設定したらしい。兵科を職種と言い換えたのも同様で、その中での軽火器とは文字通り、小銃や機関銃などの個人で扱える軽量な火器を用いて戦う特技を指しているのだろう。米軍や日本軍などでは、MOS(モス:ミリタリー・オキュペイショナル・スペシャリティ)と呼ばれる特技・資格で隊員が区別されているらしい。
竜崎が段々と鋭い眼差しになるのを山田は見逃さなかった。通信関係の人間が増えてきた。親近感から間違いなく探られるだろう。渡された偽軍人の身分に沿って、キャンプ内で何度もシミュレーションはしたが、居室内でも油断はできなくなってしまった。
「『5』番、『水島(みずしま)』です。広島県に所在する海軍の第1術科学校から教育参加しました。年齢は……三六歳ですね。軍の方がいるようで、安心しました」
それは本音らしく、山田と竜崎を除いた軍隊出身者達も、若干の笑顔を浮かべていた。水島訓練生も鈴木訓練生と同じくらい日焼けしており、どちらも一七〇センチに満たない程度の身長だった。私服の上からは盛り上がった上腕二頭筋が露出しており、筋骨隆々としている。山田は勝連で培った縫い物のスキルを活かしながら、目と耳だけは仲間の方へと注意を向けつつ、竜崎の紹介に注目した。
「6番の神崎っす。民間の長距離ドライバーから陸軍のシステム通信科に行きました。今は市ヶ谷で勤務してます。二五歳っすね」
東京都新宿区に所在する市ヶ谷駐屯地には、防衛省が設置されている。つまり、国防軍の総本山であり、秘密も多い。深く突っ込まれても、伝家の宝刀である「保全上言えない」が使える——これもウッダードが用意した身分に注意書きされていた技だ。
山田は軽く拳を上げ、「役者」を始める。
「7番の真田と言います。半導体メーカーで勤務した後に入隊して、防衛省情報本部で働いています。二四歳です。市ヶ谷から神崎と一緒に着隊しました。お互いに言えないことも多いと思いますが、よろしくお願いします」
こうして予防線を張っておけば、色々と遠慮するだろう。
すると、4番鈴木訓練生がハッとしたように、「さっき、オスプレイから降りてきましたもんね」と補足してきた。
……余計なことを。
険しい表情は心の中だけに留め、曖昧な笑みで「そうですね」と返し、パッチワークを再開する。
「……『8』番の『長谷川』です。外務省で勤務しています。以上です」
感情の無い挨拶をした長谷川訓練生は、黒いマスクを装着し、頭から爪先までスラリとした体形の男性だった。年齢は言わなかったが、推定では二〇代半ばくらいで、自分とほとんど変わらない気がする。身長は一九〇センチ近くあるだろう。八頭身のモデル体型と言えば聞こえは良いが、いかんせん、色白で冷たい表情をしているので、近寄りがたい雰囲気だった。2番綾瀬訓練生と似た、我が強そうな印象を受ける。
満を持してといった様子で、早乙女訓練生が咳払いをした。
「僕は『9』番ですね。アメリカ合衆国政府機関から派遣されて参加しました。一九歳です」
一部で、驚嘆の声が上がる。
あれ、名前は?
「早乙女君、名前を……」
「あ、『早乙女』と言います」
1番空井訓練生が遠慮がちに、「えーと、国籍は……?」と訊ねた。
「アメリカですけど……?」
居室内が少しざわついた。確かに国籍の制限は記載されていなかったが、まさか自国の諜報員を育てるのに日本人以外が入校するとは、誰も想定していなかったのだろう。
「あ、でも派遣ってことは、研修みたいな感じですかね?」と、3番南訓練生。
「同盟国との技術交流とかもありそうですね」と、一番空井訓練生。
「お若いですね」と、まだ自己紹介が終わっていない年配の男性。
「飛び級です。ワシントンDCのアメリカン大学にある国際関係論の修士課程を修了しました。政府からのスカウトですね」
不敵な笑みを浮かべた9番早乙女訓練生に対し、次第に何人かが苦笑いを始めるのが見えた。
未熟だな……色んな意味で。
それではマウントを取っていると誤解されてしまう。優秀さは後から実績として証明するもので、証明できなければ有名大卒や大企業という肩書きが、呪いとして圧し掛かってくるのが世の常だ。
ただ、もし居室内のメンバーがチームとして動くなら、早乙女訓練生の知能は貴重だろうと山田は思慮(しりょ)。後は周囲から孤立したり、むやみに敵を作らないように自分や竜崎がサポートしてあげれば、重要な戦力になってくれそうだ。努力をした人間なら、誰にでもこういう時期はある。重要なのは、そこで謙虚になれるかだろう。
「最後が私で、『10』番ですね。私は警視庁の方でリクルートを受けました。現職の警部で『毛利』と申します。今年で四二です。よろしくお願いします」
物腰の柔らかい眼鏡を掛けた紳士然な年長者に、山田達は自然と頭を下げた。身長は山田と同じ程度だったが、柔道か何かをやっていたのか、逞しい体格と太い首を持ち、耳が潰れていた。
「こういうのって、似たような経歴や出身が集まると思ったけど、意外ですよね」
5番水島訓練生の言葉に、大半の人間が頷く。実際、山田自身も警察官と軍人で埋め尽くされると思っていたが、元公安職の人間ならば民間からもリクルートされることに驚いていた。一体、どういったルートで入校募集が掛けられているのだろうか。男女共同も意外だったが、確かに入校案内には女性の志願を規制する文言はない。間違いが起こるような状況でも面子でもなさそうだが、着替える際などは色々と考慮しないといけないかもしれない。
「ま、腹の探り合いみたいになっているんで、楽しくいきましょうや!」
竜崎の無茶苦茶な空元気に、何人かが思わず笑顔になった。この竜崎という男は日常、非日常を問わず、ムードメーカーになってくれる。
廊下が急に慌ただしくなった。釣られて居室内のメンバーが数人、ベッドから立とうとした。すると、ドアから他のクラスの訓練生が顔を出し、「指導部から、『訓練生は二階の廊下中央に集合』だそうです」と伝言を残し、去っていく。
「行きましょうか」
10番毛利訓練生の静かな号令で山田達は立ち上がり、廊下に並ぶその他大勢の訓練生達に混ざることにした。
◆
——これで全員か。
「居室ごとに若い番号順で縦隊(じゅうたい)に並んでください」
境は部下の指導員と共に、廊下の中央ホールに集まって命令する。左右に伸びる廊下に二列縦隊が二個できて、階段側に縦隊が一個できた。人相を隠した部下は、椅子に小さなホワイトボードを立て掛ける。翌日の行動予定表が水性ペンで書かれていた。ホワイトボードには『メモ・撮影厳禁』という大きな注意書きがあり、上から横書きで、
『課業中や食堂での服装は、戦闘服上下・戦闘靴・戦闘帽』
『0530 起床及び朝食受領(各居室一名、一階事務室前。その際、クラスの健康状態を報告)』
『0815 一階会議室 教育全般説明(メモ不可)』
『1200 昼食(食堂・専用スペース)及び昼休憩』
『1300 一階会議室 面接試験(クラス番号順に呼び出し)』
『1700 夕食(食堂・専用スペース)及び課業終了』
『シャワー使用時間 1800~2100(※女性は1800~1900)』
『2235 営内清掃』
『2250 点呼(二階廊下中央集合)』
『2255 就寝(消灯)』
という、簡潔明瞭な予定が書かれていた。
境は訓練生全員の視線を受け止め、ホワイトボードの横で説明を始める。
「今後は椅子に置いてあるホワイトボードに日程が書き込まれます。教育参加の意思に疑問が生じたら、各クラスの担当官となる指導員をこの後に紹介しますので、それらを通して本人が直接来てください。この教育は強制ではありません。いつでも辞退や通院を申し出ることができます。詳しいことは翌日、説明します。今後、居室内外でこちらの意図しない行動や、教育に相応しくない行動を取った場合、本人またはクラス全員に教育の停止を通達させる可能性があるので、自覚ある行動をお願いします。では、各指導官は前へ」
それぞれの列へと散り、説明を始めた指導官と同じように、境は担当するクラスへと歩みを進める。
さて、問題のクラスAは——
廊下の左端を陣取ったクラスAの面々の反応は様々だった。
指導官達の奇天烈な格好に落ち着かない様子の者達。
腹が据わった者達。
山田と竜崎は後者だったが、一番の「不安要素」である9番早乙女訓練生は前者だった。
「クラスA担当官の『境』です。今、この場で、クラスの代表者を決めてください。指導部から伝達事項があった際には、私から代表者に伝達します」
訓練生達は顔を見合わせ、割と即決で「なら、私が代表者に」と10番毛利訓練生が挙手する。
軍隊経験者ではないが、年齢から考えれば妥当か。
「では、それでお願いします」
境は懐から、クラスAの訓練生一人一人の名前と番号が書かれた密閉式の食料保存袋一〇枚を引っ張り出し、代表者に渡した。
「二一五〇の点呼までに、この中に各人の携帯電話や撮影機器、外部と連絡を取れる電子端末などは電源を切って入れておいてください。私が回収します」
「分かりました」
廊下の中央に再び指導官達が集まったのを見計らい、境も列が落ち着いたタイミングで切り出す。
「トイレや喫煙所、清掃用具の場所、洗濯室、乾燥室、食堂、売店の位置、キャンプ内のランニングコースは壁の案内図を参考にしてください。消灯後は用便等を済ます以外はなるべく出歩かないように。隊舎の外ではジャージか戦闘服で、最低でも二人組で行動してください。日が落ちてから筋トレする際は、蛍光タスキを必ず付けるように。売店でも販売しています。日夕(にっせき)点呼の前なら屋上も開いています。分からないことがあれば、居室内の軍隊経験者や一階事務室の担当官まで訊ねてください。今後、こちらから訓練生を呼ぶ際は、クラスと番号だけ読み上げますので、その認識でお願いします。ここまで、質問はありますか?」
ちらほらと手が挙がる。境は適当に促した。
「アイロンや靴磨き道具はありますか?」
「戦闘服のアイロン掛けは必要ありません。手で皺を伸ばす程度で大丈夫です。戦闘靴はブラシで泥を落とせば磨かなくて結構です」
「ウェイトトレーニングができる場所はありますか? ベンチプレスとか」
「駐屯地南側にスポーツジムがありますが、インテリジェンス課程の訓練生は使用できません」
体力評価の種目を見れば、自重トレーニングが重要だと分かるだろうに。
境の中では既に訓練生の中で「見栄を張るタイプ」、「意識の高さをアピールするタイプ」と区別を始めていた。
「売店はドル払いのみですか?」
「円にも対応するようになりましたが、スタッフ全員が日本語を話せる訳ではありません。ほとんどのカードは使えます。ポッドや電子レンジは調理室にあります」
「体力測定に合否判定はありますか?」
「ありません。今後の教育を事故や怪我無く継続できるかの素養試験なので、極度に体力がない限りは、様子見になります」
「金曜日に体力評価検定『一回目』とありましたが、何回か実施する——という意味ですか?」
「三カ月後にある総合演習の前に二回目を行います。一回目は要領の確認も兼ねているので、規定回数に到達していなくとも合否の判定はありません。二回目に基準に到達しなかった訓練生でも、時間内に何度でもやり直すことはできます」
受からなければ、原隊復帰(送還)だがな。
他に質問者はいなかった。一人一人、自分の中で疑問を解決しているのだろう。
「それでは——ここは米軍の施設内なので、自覚ある行動をお願いします」
◆
週間予定表? せめて月間じゃないのか?
食事を済ませ、シャワーを浴びた後にジャージとサンダルに履き替えつつ、髪を拭きながら山田は廊下に立っていた。竜崎や居室内の他のメンバーは、まだ縫い物に熱中しているらしい。
壁掛けの大型ホワイトボードには「用紙類の持ち出し厳禁」と大文字で書かれていた。磁石で貼り付けられた『第1週 週間教育実施予定表 インテリジェンス課程』というA4用紙に、山田は目を凝らす。
『月曜日 午前:秘密保全の説明及び物品受領(戦闘服等) 午後:面接試験(動機などの基本事項・前倒し有り)』
『火曜日 午前:身体検査 午後:体力測定(通常の腕立て伏せと起き上がり運動を二分間ずつ、三キロ走)』
『水曜日 午前:知能検査及び適性検査 午後:学科試験(論文有り)』
『木曜日 終日:インテリジェンス課程コース一〇一(教育全般説明)』
『金曜日 午前:体力評価検定(一回目・縫い物を一着終わらせておくこと) 午後:適正検査』
『土曜日及び日曜日 休養日』
恐らく、月曜日の物品受領は今日に前倒しになったのだろう。早速、明日から試験が開始されるようだ。今のところ、体調は問題ないが、自分にとってのメインは金曜日の体力評価検定だろう。学科は今更詰め込んでも仕方がない。
「あの面接官、『境』って名前だったんだな。俺らのクラスの担当になったのって——」
いつの間にか隣に立っていた竜崎が、小声で耳打ちしてきた。
「やっぱり、俺達が特殊だからか……?」
「かもね……」
山田が居室内に戻ると、そこは十人十色。1番空井訓練生はスマートフォンで自分の部隊に現状報告をしているようだった。生真面目な方なのだろう。居室の窓から、すっかり暗くなった隊舎の正面玄関付近を覗く。芝生の上で、蛍光タスキを身に付けた2番綾瀬訓練生が腕立て伏せをしていた。他の訓練生を見て、体力に不安を覚えたのか、群れることを嫌ってか。3番南訓練生は既婚者のようで、屋上で夫や子供と電話をしているようだ。家庭の協力がなければ、教育に集中することは不可能だろう。4番鈴木訓練生と5番水島訓練生は、陸軍と海軍の違いについての話に花が咲いている。竜崎と10番毛利訓練生も上手く会話に溶け込んでいる。8番長谷川訓練生は完全に孤立しており、たまに毛利学生が話題を振るが、一言二言を返すだけでそれ以上の進展はなかった。長谷川訓練生は縫い物がスピーディーで、既に戦闘服の太腿、両肩、胸と背中への縫い付けを何着か終わらせていた。心ここにあらず、と言った具合か。
そして、どっちつかずが俺が……
最低限のコミュニケーションに留めるべきか、一定以上の信頼関係を築くべきか。山田は正直なところ、考えあぐねていた。竜崎はそういった線引きが得意そうだが、自分は思わぬところでボロが出そうなのだ。勝連やレンディションの件が漏れれば、今度こそ外に出れるか分からなくなる。自分があの収容所で年老いていくのは到底、耐えられなかった。
それか、教育の終盤、もしくは諜報員となった時に、そういった情報も共有されるのだろうか。それを知るために、自分は参加したのもあるが……今は悩んでも仕方がない、か。
山田は私物のバックパックから、明日の面接対策としてインテリジェンスの参考書を取り出そうとして——止めた。
そう言えば、勝連の件は面接では普通に動機として言って良いのか、軍人として通すのかどっちなんだ?
山田はそこで、「何かあったら自分か他の指導官へ」という境指導官の言葉を思い返し、「情報共有はしているはずだ」と思い、参考書をベッドの上で開いた。
「僕もその本、大学で読みました」
隣のベッド二段目から早乙女訓練生に声を掛けられ、山田はウッダードに本を手渡された時を思い出した。
「米国の大学で一番読まれているらしいね」
「アメリカ主観の参考書ですからね。『インテリジェンスは真実を語る仕事ではない』っていう一文が面白いと思いました」
早乙女訓練生は縫い物に苦戦しているようで、ヘルメットカバーの正面と背面だけに「9」の布地を縫った後、小型のノートパソコンを叩いていた。傍らにある売店のお菓子を次々に食べまくっている。
山田は早乙女に言われた一文を、もちろん把握していた。政策意思決定者にとって、例え真実だとしても、それが耐え難いものならば、受け入れがたいものとなる。その情報が権力者の意思決定を混乱させるだけのものか、また報告者のキャリアを危うくするだけのような事実なのか——結果的に国益に繋がるのであれば報告するべきだと山田は考えていた。他は倫理的な問題だろう。
今の時点で言えるのは、もし勝連で行われていることが日本の政策意思決定者に届いていないのなら、それは受け入れがたい真実として、闇に葬られるだろうということだ。
結局、二二時三五分の清掃の時間まで、山田は読書をしていた。早乙女訓練生は、空井訓練生から戦闘靴の履き方を伝授されていた。清掃後、廊下に番号順に並び、クラスAの面々は境指導官にジップロックを渡す。コンテナに早乙女のノートパソコンが一番大きい私物だった。山田は空のジップロックを差し出したが、担当官はそれを無言で受け取る。携帯電話やクレジットカード、運転免許証といった類は、全て勝連で没収されていた。それは竜崎も同じはずだ。
ことを完了し、居室内に戻ると、全員が就寝準備に移った。
「入口の電気以外、消しときます」
ドアの横に設置されている照明スイッチに一番近い、水島訓練生が消灯係だった。山田はベッドに横になり、枕元にあるベッドロッカーを開けて、延長ケーブルとUSBケーブルを取り出す。コンセントに延長ケーブルを差し、足のアンクレットの防水キャップを外して、USB端子を差した。隣に寝ている竜崎も、延長ケーブルに自分のケーブルを差した。竜崎の上で布団を引いている早乙女訓練生が、怪訝な顔でこちらを見てきたが、何も言わずに毛布を被って寝た。他のメンバーは明日からの試験に向けて、素直に眠り始めたようだ。
竜崎と目が合い、山田は頷く。
充電は消灯後にした方が良さそうだ。
水島訓練生が残りの電気を消し、暗闇に包まれた隊舎に、消灯を知らせるらっぱ放送が流れた。
◆
月曜日の朝、〇八一五。
隊舎一階、会議室。
集まった訓練生五二名は戦闘服と戦闘靴姿で全員着席し、山田は三人掛けの長机の上に置かれた書類に目を通す。
『インテリジェンス課程における秘密保全と同意書について』
『教育中及び履修後の注意事項と誓約書(訓練生に対する教育の停止等)』
全てに目を通す前に、巨大なプロジェクタースクリーンの前に境指導官が現れた。天気は良かったが、窓とカーテンが閉め切られ、異質な空間を演出している。長机が横に三つ、円弧を描くように境指導官を囲んでいた。もう一人の指導官は、信じられないくらい分厚いノートPCで手元の資料と同じものをスクリーンに投影する係のようだ。残りの指導官は最後尾に待機し、境指導官が切り出すのを待っていた。
境指導官は、主任教官みたいなものなのか……?
「まずはこの教育に参加して頂き、ありがとうございます。結果がどうなろうと、人生を豊かにするような何かを持ち帰って貰えれば幸いだと考えています」
随分と丁寧な対応だな……
指導官のリーダーは胸の前で両手の指を組み、「まずは秘密保全について説明します。手元の該当する資料を開いてください」と命じる。山田も一緒に置かれていたボールペンと茶封筒をどかし、資料を開きつつ、スクリーンにも注目する。
「まず初めに、本課程に関する全ての情報は秘匿されます。官公庁や民間企業に属する者、自営業者、起業家問わず、肉親なども含めて公言した場合は特定秘密保護法の罰則規定により、刑事罰の対象となります。あらゆる媒体への投稿、出演、関与は許可されません。もちろん、経歴として書くことも含まれます。何かしらの手段でこちらに連絡されても、一切の関与を否定します。ただし、配偶者が居る方は一定の理解を得るため、『外務省職員としての身分』を明かすことは可能ですが、不必要な詮索を回避する手段としてのみ用いてください。また、暗号、通信、衛星写真、核関連については履修後の保安関係者であっても暴露は許されません。入校案内にもあった通り、採用された場合、最低五年間の労働契約が発生します。良ければ手元の同意書に日付と実名の横にサインをして、封筒に入れるようにお願いします。封はまだしないでください」
——五年、か。この課程は、外務省が関わっているのか。それとも、これも単なる偽装に過ぎないのか?
山田は同意書に全てを書き込むと、茶封筒に放り込んだ。スクリーンの映像が切り替わり、山田も別の資料を手に取る。
「次は本課程教育中及び履修後に関しての注意事項です。訓練生に対する教育の停止に関する項目について説明します——『修業成績が不良の場合』、『課程の目的に応ずる水準に達する見込みのない場合』、『訓練生としてふさわしくない行為があった場合』、『履修者の資格に適応していない場合』は、こちらから教育の停止を当該訓練生に直接、通達します。また、『疾病、妊娠、出産等を理由とし、課程の目的に応ずる水準に達する見込みのない場合』も同様です。以上は教育の途中や、全ての課目を修了した後にも判定されるので注意してください」
ということは、課目を全てクリアしたとしても、諜報員としての資格が与えられるわけではないということか……
スクリーンが動き、「異性との交友関係について」という項目が出力される。
「配偶者を除く異性との交友関係についてですが、外国人の異性、同性と接触する際は、その都度、こちらに報告をお願いします。日本国籍を持った日本人だとしても、八日以上、宿泊の有無に関わらず一緒に過ごす場合はこちらに申請を上げてください。性風俗従事者との接触についての報告義務はありません。ただし、同じ従事者に二度以上会う場合は必要です。接触する従事者を毎回、変更する場合は、同じ風俗営業店に通うことについて報告義務はありません。総括として、外国人との接触を制限するものではありませんが、これらも評価に関わってくるので、自身への影響を考えて行動するようにお願いします。良ければ先程の同意書と同じように、誓約書にサインをして、封筒の中に入れてください。今回は封を閉じてください」
山田は資料を封筒に詰め込み、蓋の部分に貼られたシールを剥がして、ピッタリと閉じた。
「最後に——教育中は『拳を握って挙手をする、じゃんけんや挙手の敬礼、室内や部隊の敬礼等、それに準じた行為』が禁止されます。また、北関東や九州の方言や強い訛りは、権力を有し、組織内で矯正されずに済む警察組織の刑事や軍人だと誤解を生むため、入校前から企業に勤めている民間人のような標準語を意識するように。ただし、意識しすぎると、公安警察だと疑われるため、あくまで自然体を装うようにお願いします。罰則等はありませんが、今後は評価の対象になりますので注意してください。質問はありますか?」
何だ、そのルールは? でも、「じゃんけん」については意識しないと、ボロが出そうだ。
数人が「平手」を挙げて、境指導官が答えていく。
「訓練生同士の所属や階級については、どこまで明かして良いんですか?」
「秘密区分度の高い所属なら、自隊の指示に従ってください。訓練生の内情については、仲間内でいつかは暴露すると思います。自身の得意分野や階級などを、事前にクラス内で共有した方が円滑に進むのであれば、こちらが関与することではありません」
「外出や外泊は可能ですか?」
「課業後や休養日ならば可能です。外出先や、外出時間に制限はありません。翌日の課業に遅れないように注意してください。外出する際は、一階事務室で外出申請用紙に名前と時間の記入だけお願いします」
その台詞で、室内が少しざわついていた。山田自身は内心、「何かするたびに申請とは、問題児の集まりみたいじゃないか」と感じた。
「それでは午前中はこれで終了します。居室に戻って、午後の面接に備えてください。お疲れ様でした」
妙な規則を課せられた後、山田は周囲の訓練生の後を追うように腰を上げる。顔を隠した指導官達は、机に散った茶封筒を回収していった。
◆
「俺の喋りって、自然体だよな?」
キャンプ富士の食堂は空いていた。迷彩帽を腰とズボンの間に挟んで、上衣で隠し、配食レーンへと山田は並ぶ。
「許容範囲だとは思うけど……市ヶ谷勤務っぽくはないかな」
「うーん……」と唸った竜崎は、米兵からの配食を受けた後、食堂の隅へと向かう。「Trainees Only(訓練生専用)」という札が置かれたテーブルに着席し、山田も隣に腰を下ろした。同じテーブルに空井訓練生、鈴木訓練生、水島訓練生、南訓練生、そして毛利訓練生と早乙女訓練生も着いた。食堂自体の収容人数は百名以上入りそうだった。その中で、仕切りが設けられたスペースがあり、そこが訓練生専用テーブルとなっている。利用者のほとんどは戦闘服やジャージ姿だった。
「いただきます」
全員で食べ始めると、保全の件もあってほとんど無言だった。早乙女訓練生は飲み物を忘れたようで、颯爽とドリンクバーの方へ消えていく。今日のメニューはマッシュポテトとコロッケ、何かのスープにスクランブルエッグ。配食レーンで自由に選べるのでこれが全てではないが、野菜と日本食がほぼなかった。山田はスプーンでそれらを口に運ぶ。全体的に大味(おおあじ)だが、不味くはなかった。
「ザ・アメリカって感じだな」
竜崎が特大のベーコンを、笑いながら嚙み砕く。南訓練生が微笑を浮かべながら相槌を打っていた。
「——綾瀬訓練生は?」と、鈴木訓練生。
「声を掛けたけど、『筋トレをしてから』と言っていましたね」と、毛利訓練生が努めて明るく言った。
「長谷川訓練生も居ないですね」と、水島訓練生。
「『面接対策をする』って言っていましたよ。まあ……独特ですね。外務省っていうのが気になりますけど——」
毛利訓練生が、空井訓練生の言葉を遮るように首を横に振った。どこで誰が聞いているか分からない。食堂に指導官がいたら、もしかしたら減点対象になるのかもしれない。
それか、陰口に発展することを恐れたのか。
「そう言えば、この教育って減点方式なんですかね?」と、戻ってきた早乙女訓練生がジュースを飲みながら訊ねた。
「そうかもしれませんね。こういうので加点方式ってあんまり聞かないので……」と、南訓練生。
山田も、「『最後に結果が分かる場合もある』って言ってましたしね」と調子を合わせた。
「——まだ良く分からないっすけど、チームで採点されるなら、喧嘩とはしたくないっすね」と竜崎がコメント。その台詞に、テーブルに着いている者は全員頷いた。
「他のクラスではちょっとした争いもあったみたいだからね。今週は淡々と試験をパスすることに集中した方が良いと思うよ」と、毛利訓練生が締めた後は、クラスAは黙々と昼食を平らげていった。
全員が食事を終えると、食器を返却口に流し、山田は食堂を出て隊舎に向かう毛利訓練生を追った。
「争い」って言ってたけど、そんな騒ぎあったかな……?
「——争いっていうのは喧嘩とかですかね?」
こちらを見る毛利訓練生の表情は明るくなかった。噂好きの野次馬だと誤解されないように、「官公庁出身者と、民間しか知らない子が上手くいかない恐れもあるので」と、少し先を歩く早乙女訓練生に視線を向ける。引き合いに出して悪いが、懸念材料なのは事実だと山田は認識していた。
「——まあ、そう言わないとコミュニティーの崩壊に繋がるからね」
そういうことか。
「そうですね……」
「隣の芝生は青く見える」のではなく、治安の悪い荒野に見せることで、結束を高める手法だ。働いていた時も、「ここより給料が低いところはいくらでもある」と、仲間内で慰め合っていた。
嘘も方便、ということか……
◆
昼食を済ませた境は一足早く、訓練生の身上書類を持って面接会場のドアを開く。部屋はそれなりに広かった。隊舎一階のカーテンを閉め切った作戦会議室にスペースを作り、長テーブル一つと、対面に椅子を一つ置いただけだったが——
見慣れた人物が、テーブルに着いていた。
「新渡戸(にとべ)、もう来ていたのか。工場での件以来だな」
旧友であり、現在は上司となっている肥満気味の男の隣に席を作り、境は腰を落ち着ける。すると、新渡戸は唐突に「青函トンネルの調査、こっちでは何も出なかったぞ」と報告してきた。
調査……か。
「完成時には偉いさんが見学しに来るだろうから、テロの線も考えた。けど、日本の政治家をわざわざ殺す手間はないだろう? 失脚させれば良い」
境は自分でも難しい表情になっているのが分かった。
しかし、あいつが意味のないことを進んで行うとは思えない……今後も情報を集めるしかないだろう。
「……そうだな」
「それと、あんたの教育方針だが、数カ月も経てば大半が消えるのに、随分と丁寧な対応をしているらしいな」
境はテーブルに書類を広げながら、「リアリズムで考えてみろ」と緩く息を吐く。
「なるべく丁寧な対応を心掛けなければ、悪評が立つ。悪評は憶測を呼び、不信感を抱いた人間は教育に参加しない。公益通報があった日には、監査機関の立ち入りによる課目の見直しや、教育の存続が危うくなる」
「お客様扱いで勘違いされて困るのはこっちだし、本人のためにならないけどな」
苛立たしさを隠しもせずにペーパーを揃える新渡戸に対し、境は涼しい態度で書類を眺めた。
「優しさにかまけて受け身になる訓練達は、『意志薄弱』としてふるい落とす」
「それはそうとして、何で幹部まで面接に参加しないとならなくなったんだ?」
「クラスの担当官だけだと、評価に偏りが生まれるらしい。自分のクラスから修了者を出しても人事評価には繋がらないが、組織内で自慢するオフィサーもいるようだからな」
「ふん、つまらないプライドだな。俺達や今の期の修了価値は理解できるが、上になっている連中は肩書きだけの腐った教育時代しか知らないじゃないか」
「質より量の時代で、指導や課目も確立されていなかったからな。本人達もある意味、被害者だ。こうして陰口を言われるのだから」
五歳下の同期は、「このふざけた仮装はいつ外せるんだ?」と黒いフェイスマスクを忌々しく摘まみ、今にも剥がそうとしていた。
「『PM訓練』が終わってからだ——実家、帰ってるのか?」
「帰る時間なんてないよ。独り身だし……別に良いだろ」
ぶっきらぼうな捨て台詞に混じる、疲労の声音。
「俺が幹部になって変えてやる」——その言葉を聞いたのは、もう三〇年近く前になるだろうか……
妙な空気を払拭するために、境は「面接の時は隣に座っていれば良い。もうすぐ来るだろうから、採点だけしてくれ」と、採点用紙を新渡戸に渡す。新渡戸は腕組みの姿勢を解除し、ボールペンの頭を押して、用紙に目を通し始めた。
「——弾くのは、『大アジア主義者』か『ルサンチマン』だけで良いんだろ?」
「ああ。簡単に言えば、パターナル(権威主義)か右翼か、リベラル(自由主義)か左翼かを見抜くリトマス試験紙だ。戦前の地政学的失敗から逃げる大アジア主義者か、知識人に見えて不平不満で現場を混乱させるルサンチマンかを見抜け。モラトリアムにも満たない幼子ならともかく、成人後に中道など有り得ないというのがこのテストの見解だ。国益を追い求めるリアリストがなるべく欲しい」
「仮にやばい奴だとしても、これだけで原隊復帰する奴なんているのか?」
「周囲に悪影響を与えるほど、極端に思想が先鋭化していればな。よほどの人格破綻者か悪性のサイコパスでも無い限り、通常は金曜日までは保留にする」
「一人目は防衛大学校卒で、陸軍の精鋭部隊第1空挺団出身か、あんたと篠さんの古巣——いや、何でもない、悪かった」
「……もう時間だ、来るぞ」
境は腕時計を外し、表示面を自身に向けて、テーブルの上に置く。部屋に元々並べてあったテーブルと椅子は奥に寄せている。外の景色も覗けなければ、掛け時計もない。床を覆った灰色のカーペットにはいくつかの染みが作られている。それ以外は人的痕跡のない、殺風景な空間。白壁が室内灯に照らされ、じっと座っていたら眠くなりそうな環境だった。
一〇秒にも満たない沈黙の後、ドアが外側からノックされた。
「どうぞ、お入りください」
ドアレバーが動き、それなりに日焼けした青年が入室。青年は肘掛けの無いオフィスチェアの横まで前進するも、座ろうか迷っているようだった。
「どうぞ、掛けてください」
「はい、失礼します!」
若干、その場にそぐわない声量。着席後、クラスA4番鈴木訓練生は、両膝の上で拳を綺麗に握った。隣で書類を眺めている新渡戸からは、溜め息が聞こえてきそうだった。
この時点で、彼はこの教育の意図を見抜いて参加した人種ではない可能性はあるが……
境は面接用紙の採点項目にちらりと目を向ける。
各項目にはフローチャート方式で「主要質問」と「副次質問」がある。それらの下の段には「思想傾向」の欄が設けられていた。そこには左から順番に、
(ルサンチマン・リベラル・パターナル・大アジア主義者)
という単語が並んでいる。
中道はない。傾いていない人間など存在しないからだ。
国民の物言わぬ大衆(サイレント・マジョリティー)であるノンポリ層は例外かもしれないが、政治に無関心なスパイを育成するつもりはなかった。
これは、「健全な愛国心」を持っているか見抜く面接だ。
「——では、志望動機は送付して頂いた書類にも記載されていますが、この場でも簡単に『自身の言葉』で説明をお願いします」
「はい、自分は現代では情報戦が重要だと考えており、それを学ぶため、この課程教育に参加致しました。自分は、陸の——訂正します、陸軍の第1空挺団という部隊で、空挺レンジャー課程を修了して、部隊の中では小隊長の役職にも就いているため、そう言った意味でも、自分を試すためにも参加を希望しました」
少し緊張しているのか、言葉の繋がりが若干、怪しかった。しかし、誰かに言わされている訳でも、媚びを売っている訳でもない。自分の言葉で思いを口にしていた。それは素晴らしいことであり、志望動機をいくら噛もうが、特に評価には関係ない。境は質問を進めることにした。
「自己PRと、ご自身の長所と短所を簡潔にお願いします」
「はい、自分は他の訓練生に比べ、リーダーシップがあると自負しています。また、長所は一つのことに集中することができ、短所はそれによって周りが見えなくなることです」
何というか……少しレベルが落ちたな。
「リーダーシップを証明する実績はありますか? また、短所を克服する努力は何かされていますか?」
「はい、リーダーシップは部隊で小隊長をやっているという実績と、短所はそうならないように……周囲に注意を払うようにしています」
尻すぼみの回答に、新渡戸が食らいつく。
「『他の訓練生に比べて』、という意味ではなくて、元の職場でのリーダーシップがあるということですか?」
「……はい、そうです。訂正します」
まあ、ここまでの質問はジャブのようなものだ。特に気にすることはない。
境はその言葉を伝えるように、「何か特技はありますか?」と挽回のチャンスを与えた。
「特技は、ラグビーなどもやっていたので、体力はあります」
……その回答は準備不足だな。
「分かりました」
境は隣の新渡戸が鼻で笑い出す前に、本格的な思想調査に移ることにした。
「第二次世界大戦におけるアジア太平洋戦争において、日本の敗戦理由は何だと思いますか?」
「それは、情報を甘く見ていたことだと思います」
——確かに、大きく外れてはいないが。
「具体的にお願いします」
「はい。まず、アメリカの戦力を甘く見ていたのと、早期に決着させれば、そのまま終戦させることができると考えていた点があります。もっと長期的に考えていれば、日本軍の戦力を充分に準備して、開戦に臨むことができました」
「——情報収集を怠っていなければ、米国に勝利することは可能だった、ということですか?」
「はい」
大きく頷いた鈴木訓練生に対し、新渡戸のペンを持つ手が何度か動く。境もペンを持ちながら、次の質問に移る。
「……日本はなぜ米国と開戦し、枢軸国側として戦線を拡大したのか説明をお願いします」
「はい、日本は欧米列強の国々に植民地化されたアジア各国を解放するための大東亜戦争を遂行するために、日本の石油資源を絶ったアメリカと開戦しました」
「開戦を回避することは可能だったと思いますか?」
「いえ、アメリカの要求は呑めるものではなかったのと、アジアの解放のために、開戦は避けられなかったと思います」
「……分かりました。次の質問に移ります」
まさか、ここまでテンプレートのような回答が来るのは久しぶりかも知れない……
境は、各項目の下にある(大アジア主義者)に丸を付けた。
今後の質問では、もう少しリアリズムに則った、具体的な意見が聞きたいものだが……
しかし、問いを投げ掛ける度に、鈴木訓練生は期待に応えてはくれなかった。おかげで、予想以上に面接時間が間延びした。むしろ、彼の大アジア思想は、今回の教育中に柔軟な発想を取り入れることすら不可能なレベルにまで凝り固まっていると、境には見受けられた。共に教育を受ける訓練生に悪影響を及ぼす可能性を考慮する必要もあった。
「……では、第二次世界大戦をアジア各国の開放を目的とした戦争と位置付けます。時代は進み、現代や未来の国益を考えなければなりません。日本はアジア各国を開放する戦争に負けました。今後はそれをどう生かしますか? 現代と未来の国益を論点にお答えください」
「なぜ負けたか、考えます」
「考えて、具体的にどうしますか?」
「今度は勝てるようにします」
「何にですか?」
「アメリカとか、中国とかです」
沈黙が訪れた。
最後に、横に居た新渡戸がアイコンタクトを取ってきたので、境は取り敢えず頷き、任せた。
「――教育終了後についてですが、今いる職場を完全に離れることになります。それについては、職場やご家族の理解は得られていますか?」
「大丈夫です」
言うことは言った、という満足気な空挺隊員に、境は感情の無い声で伝達する。
「お疲れ様でした、以上で面接は終わります。クラスに戻ったら、南訓練生に一三三〇からドアをノックして、面接を始めるということだけ伝えてください。面接で何を訊ねられたかは、伏せておいてください。ありがとうございました」
「失礼します」
行儀良く退出していく鈴木訓練生。境は最後の記入欄に、「短期的アイデアリズム・典型的な大アジア主義者」と書き込み、天井を仰ぎながら目元の張りを指で解した。
◆
境は腕時計で課業時間が終了していることを確認しつつ、次の訓練生の書類を眺めた。新渡戸は椅子から立ち上がり、軽く唸り声を上げ、大きく伸びをして身体を回し始める。
「——ところで、面接の順番は何で決めたんだ?」
「早く終わりそうな順だ——次は二分後からだ。トイレに行くなら今の内にしてくれ」
「やっとラストか……他のクラスは終わったところもあるらしいぞ? まあ、勝連組——とは言えないから『K組』か。あいつらがいるから仕方ないけどな……やっぱり、民族主義の機運が高まっているな」
「国全体が貧困化すると、国民は右傾化する」
「歴史は繰り返すってか」
「そうならないために面接している。民間と同じだ。『問題意識』を持って『建設的な意見』を『理路整然』と『言語化』できるかどうかが求められている。問題意識だけでは愚痴であり、建設的な意見だけではネット上のコピーアンドペーストで事足りる。理路整然だけではパートタイマーであり、言語化できても文章に落とし込めなければ、オフィサーとして報告書にまとめられない」
「自分の経験や知識も含めて、血肉化した言葉なら満点だろう?」
「そんな人材は、もっとやりがいのある仕事や一流の会社やポストで動いていることだろう。正解があるとすれば、これからの自分の職業となるスパイ行為への影響に全て繋げれば良い。現段階では健全な愛国心に辿り着けなくとも、教育中に気付けば問題ない」
「技術は伝えられても、信念を教えることはできないな——時間か」
ノックがあった。
「どうぞ」
境の言葉に反応し、入室してきたのは7番「真田」訓練生。もとい山田太郎。迷わず着席すると、落ち着いた様子で室内を眺めてから、境に視線を合わせてきた。
本教育において早々に退場するか、否か……
「——勝連での件は、指導部の間で周知の事実となっているので遠慮なく話してください」
「はい」
「一応、自己PRと、ご自身の長所と短所を簡潔にお願いします」
「私は半導体メーカーに三年務めていたので、他国の諜報員がどのような技術を欲しているかを予測でき、防諜の分野において役に立つと考えています。長所は元々エンジニアだったので、完成度を高めていくような細かい作業が得意です。短所は七割追及のところを、より完成度を求めようとしてしまう部分ですが、これは私自身をそういった部署に配置しないか、完成度を求める仕事だけ振れば良いと考えています」
新渡戸の目線が、手元の用紙から山田へと切り替わったのを横目で捉えつつ、「何か特技はありますか?」と境は質問。
「……記憶力は良い方だと思います」
「それを証明することはできますか?」
「勝連にあなたが来た時から、『目立たず、非攻撃的な人間』を追求し、『国益とは何か』とずっと考えていました」
境自身、自分が発した言葉を全て覚えているわけではない。が、それなりに真剣に備えてきたのだろう。
「……分かりました。最後に訊ねようと思います。第二次世界大戦におけるアジア太平洋戦争において、日本の敗戦理由は何だと思いますか?」
「『短期的アイデアリズムの国益』を追い求めてしまったからだと思います」
本質を突いてくるじゃないか。
「具体的にお願いします」
「地政学的に、日本はランドパワーを追い求めるべきはありませんでした。島国としてのシーパワーに回帰し、アイデアリズムではなくリアリズムとして経済合理性を主とした政策を取れば、米国の挑発に乗らずに済んだと思います」
「挑発に乗らなければ、敗戦することもなかったということですか?」
「はい、『中国大陸とインドシナから撤退する』という米国からの交渉文書であるハル・ノートに調印し、戦線や軍事の拡張に使用していた戦費を国内での資源開発や社会福祉、技術投資や医療、教育に使用していれば、長期的に見て現在の日本がより大きく発展し、対外依存度が低下していた可能性もあります」
それは理想論(アイデアリズム)寄りだな。
「戦前の日本は治安維持法などで自由主義的な思想や言論が弾圧されていました。また、急速な軍国主義が進み、軍部の独走が続いていました。そのような方針変換は当時のリアリズムとして考えられますか?」
「考えられませんが、二回の核攻撃を受け、国民と国土に甚大な被害を与えることはなかったと思います」
境は迷ったのち、用紙の(リベラル)に黒で丸を付けた。
「天皇は必要だと思いますか?」
「王族は外交カードとなるので、維持すべきだと思います」
「具体的にはどのように運用しますか?」
山田は顎に手を当てて、一語一句確かめるように返答してきた。
「……国家元首クラスの閣僚が外遊している際や持ち場を離れられない時に、来日してきた政府高官や要人を国内で接待させる、などです。そうすれば、機嫌を損なわせることもなく、今後の交渉を進めることができると思います。他国への皇室訪問は国際親善になりますし、意外な情報を収集できる場合もあると思います」
天皇崇拝者が聞いたら物申すであろう言い草だが、間違いなくリアリズムだ。アイデアリズムで言えば、王(キング)は数あれど皇帝(エンペラー)は世界で唯一、日本の天皇家しか残っていない。人類史においては、その貴重性から残すべき家系といったところか。
「日本の核兵器保有について、どう思いますか?」
「……保有の有無は別として、非核三原則は『あるべきタイミング』で撤廃する外交カードとしても考えなければならないと思います」
質問の答えになっていない。
「具体的にお願いします」
「日本の地政学的リスクが高まったと同時に撤廃すれば、脅威を与えてきた相手に対する外交カードになるということです」
「日本が核保有に至ったと相手国に思わせる外交カード、ということですか?」
「その通りです」
リアリズムとしては可能なカードだろう。しかし——
「イスラエルも核兵器保有については曖昧政策を取っており、それを周辺諸国に対する牽制へと利用しています。しかし、徴兵制があり、人口も少なく国防意識の高いイスラエルと同様か、それ以上のリアリズム的判断が必要な外交を日本の議院内閣制でおこなえると思いますか?」
「……寸前では、不可能だと思います」
「では、それはアイデアリズムだと言うことですか?」
畳み掛ける境に対し、山田は沈黙してしまった。
隣で質疑応答を見守っていた新渡戸が、こっそり耳打ちしてきた。
「圧迫面接になってないか……?」
「あいつは質問に答えていない」
気付け、お前の政治的発想など訊いていないということに。
山田が口を開く前に、境は話を振り出しに戻すことにした。
どうやら「真田訓練生」は、「アイデアリズム」という単語に嫌悪的反応を示すらしい。典型的なリベラリストの特徴の一つだ。
「質問を日本の核兵器保有に戻します——どう思いますか?」
「保有した方が国際的な交渉テーブルには付けると思いますが、日本の政治家が危機管理できるかは分かりません」
「管理できるようになるには、何が必要だと思いますか?」
「……分かりません」
できれば日本の災害事情から考えて、地下式発射サイロの大陸間弾道ミサイル(ICBM)ではなく潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の方が核兵器運用に適しているなど踏み込んで欲しかったが、安全保障についてはまだ勉強不足らしい。
「国際連合について、どう思いますか?」
「機能しているようには思えません。中国がおこなっている隔離政策や、ロシアのウクライナ侵攻を止めることはできませんでした」
「今後はどうすれば良いですか?」
「地域コミュニティーでの連携を強化していく必要があります。日本でしたら、東南アジアが急成長していますし、そこに注力するべきだと思います」
まあ、及第点と言ったところか。
「今後の国内情勢について、どう思いますか?」
「経済的困窮者が増加し、今後は国内での反政府運動や暴動の気運が高まる恐れがあります」
奇しくも、血盟団のことが境の脳裏をよぎる。
「——日本の技術や資源について、どう思いますか?」
「日本のエネルギー自給率は一割で、対外依存度はほぼ一〇〇パーセントだということから考えても、積極的な保護や開発、政策支援が必要だと思います。技術と信頼がなければ、日本に国際的な価値はなく、価値がなくなればエネルギー供給を絶たれ、戦前の大アジア主義イデオロギーに回帰する恐れがあります」
「日本国憲法第九条改正条項について、どう思いますか?」
山田は目を閉じて、少し悩み始めた様子だった。
戦後から改正に至るまで、第九条の主な争点は二つの項目で成り立っていた。それは、
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
という「戦争の放棄」、「戦力の不保持」、「交戦権の否認」の三要素だ。元々はGHQの草案を翻訳したもので、「国権」は「国家権力」を指す言葉として解釈はされているが、「交戦権」が具体的に何を指すのかなど、改憲議論の争点になっていた。
それが現在では、
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
(2)前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。
第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
(2)国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
(3)国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
(4)前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
(5)国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。
第九条の三 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。
山田はまぶたと口を同時に開いた。
「——現代の国際情勢や、日本の周辺諸国の地政学的リスクが敗戦時から大きく変化したことを考え、時代に合わせた憲法改正は良いとは思います。第二次大戦以降、ドイツは六〇回以上、イタリアも一五回以上は憲法改正をしました」
「九条の代わりに今後の憲法改正論の対象となっている九六条についてはどう思いますか?」
日本国憲法第九六条。それは——
「それは、『改憲には国会の三分の二の賛成で発議し、国民投票で過半数が必要』という内容だったと思いますが、島国の民族的イデオロギーを考えると、本気で改憲に迫られる事態になるのは地政学的リスクが最大限に高まった戦争寸前の状態だと思います。本来なら憲法改正も、他国との緊張度合いと改正のタイミング次第で上手く利用すれば、外交カードとなると思いますが、日本の議院内閣制による決議の速度や島国の民族的イデオロギーを考えると、アイデアリズムに寄り過ぎて上手くいくとは思いません」
そこで「簡潔に言うなら」と一拍置いて、山田は「改憲や護憲が本質ではなく、国家の安全保障を本質として捉える必要があると思います。自衛隊が国防軍の名称で憲法明記されようと、本質を守ろうとしなければ意味がありません」と結論付けた。
「国家の安全保障が問題なのであって、改憲や護憲に捉われてはならない、ということですか?」
「その通りです」
言いたいことは分かるが……
「地政学的に日本に近いシーパワーの英国には明文化された憲法がそもそも存在せず、判例の蓄積や議会制定法が憲法と見なされています。ドイツでは国民投票を行う必要はありません。議院内閣制の中でもイスラエルは、首相を国民が選ぶ首相公選制を九〇年代に実施にしましたが、首相派と議会派で混乱し、制度を元に戻しました。世界で大統領制が本来の機能を果たしているのは米国以外見受けられません。『侵略戦争の放棄』と明記されており、武力行使の手段を完全に放棄する条文がある国でも、自衛手段としての放棄を明記している国家はほとんどありませんでしたが、改正前の第九条と類似の法律は他国にもありました。これらのことから、リアリズムで日本が取れる安全保障政策を予測してください」
「……リアリズムで考えれば、今後も改憲派と護憲派、両陣営の妥協点を探る必要があると考えます」
国会で紛糾する政治家達の映像を、境は思い出した。果たして、彼ら政策意思決定者達に冷静な判断が下せるだろうか。下せるのなら、ドイツのような修正憲法で今頃は溢れているだろう。
「具体的にお願いします」
境の足元に、山田は視線を合わせてきた。何かを絞り出すような表情で両手を組み、「確か……」と呟いた。
「……国際連合憲章には、加盟国が攻撃され、国連の決議が上手く機能しない間、個別的及び集団的自衛権を容認するという記述があったと思います」
国連憲章第五一条。
安全保障理事会による平和と安全の維持に必要な措置が取られるまで、国連憲章のいかなる規定も、国連加盟国の個別的及び集団的自衛の権利を侵害するものではない。
「国連安保理への期待も含めて、という意味ですか?」
「いえ、安全保障理事国には拒否権があるので、期待はできません。ただ、国連憲章にもあるそれを修正第九条に追加すれば、改正前でも『戦争の放棄』、『戦力の不保持』、『交戦権の否認』を否定せず、なおかつ自衛のための武力行使を国内外に法的にも認めさせることが可能だったかもしれません。護憲派、改憲派どちらのイデオロギーも満たし、大々的な改正に忌避(きひ)感を抱いている勢力にも、追記か解釈を加えるだけで自衛の武力行使が認められる——今後はそういった政治的中立性を保つという観点からも憲法改正を考える時が来ると思います」
妥協、か。ベストは無理でも、ベターで突き進むしかない。それがルサンチマンにならない方法だ。
境は(パターナル)と(リベラル)に交互に丸を付け、「日本のインテリジェンスについて、どう思いますか?」と訊ねる。
「対外諜報機関が設立されていないので、そこに人材と資金を投資すべきだと思います。恐らくは外務省傘下になると思いますが……ここがそうだと思います」
隣にいる新渡戸が何度か頷いたように見えた。
勘は悪くない。
「スパイ防止法について、どう思いますか?」
山田訓練生は、無言になった後、「必要だとは思いますが……」と口ごもった。
さすがにこの質問は酷か。
「先に、日本の刑事司法制度を改善し、国際水準にアップグレードして各国からの信頼を得る必要があると思います」
「分かりました。では、日本の『国益』とは何か、答えてください」
それには迷いは無かったようで、山田は真っ直ぐな瞳で語った。
「シーパワーによる経済合理性に基づいた、長期的リアリズムの国益です」
「では、その逆は何ですか?」
「アジア太平洋戦争に発展させたような、シーパワーがランドパワーを志向してしまう民族主義的な短期的アイデアリズムです」
ウッダードの入れ知恵か。ということは、他の訓練生との公平を期すために、メッキを剥がす必要があるな。付け焼き刃のイデオロギーでは続かない。
「分かりました。最後に質問です」
境は最後の主要質問項目を読み上げる。
「あなたにとって、最も大事な存在は何ですか? 直感で答えてください」
想定外の質問だったのか、山田は口を閉ざしてしまった。
さあ、何が出てくる?
家族や恋人か? 仕事か趣味か?
それとも金や夢、名誉に直結する「何か」か。
いずれにせよ、国家や国民など、抽象的なものに縋っているのなら、それは長期的な職務では直ぐに不平不満へと変わる。上辺だけの綺麗ごとは——
「……知的好奇心と、友人です」
——まあ、人間らしい答えだ。
「では、友人と国益、どちらかしか守れない場合、どうしますか?」
「どちらも可能な限り、守ります。不可能ならば、国益を優先し、友人が守るべき国益を上回る利益を持つのであれば、友人を優先します。どちらにせよ、友人を守るためには現在、住んでいる国家を守る必要もあるので、車の両輪のように考えています」
境は新渡戸と見合わせた。国家や組織という答えは、直ぐにボロが出る。
「K組」は、意外としぶとそうだ。
◆
木曜日。
山田は朝から前日と同じ会議室に来ていた。恐らく、ここが基本的に使用する教場なのだろう。相変わらず、素顔を隠した境指導官が一番前に立っていた。薄暗い室内で手元の資料に目を通しながら、周囲の訓練生や他の指導官は無言で様子を見守る。
「——今日の午前中に説明するのは、インテリジェンス課程修了後に配属される各本部の職務内容についてです。修了後は外務省職員としての身分が与えられる場合や、民間委託企業の社員として振る舞う場合があります。午後は翌日に行われる体力評価試験のために、休養時間にしています。戦闘服や装備品の縫い物が終わっていない訓練生の方は、本日中に終わらせてください」
ついに来たか。ここから全体像が掴めれば良いのだが……
境指導官は前方のスクリーンに投影された一枚図に、レーザーポインターを照射。枠で区切られた部門ごとに解説を始めた。
「皆さんが所属することになる本部は大きく分けて二つあります。一つは『DO』——ダイレクトレート・オブ・オペレーションズ。『作戦本部』や『工作本部』と言われる部門です」
スライドが切り替わる。映し出される画像も、ドレスコードのありそうなパーティーに出席する男女や、海外で現地の住民とレストランで会話している日本人の写真になった。
「内部ではDOと呼んでいます。任務は情報収集、防諜、対テロ工作など多岐に亘ります。ここに所属する要員はケースオフィサーと呼ばれ、主に情報源であるエージェントから集めた情報を『DI』——ダイレクトレート・オブ・インテリジェンスと呼ばれる情報本部に流します。今期は入校者全員がDO志望だと聞いていましたので、ケースオフィサーとして勤務するための専門課程となっています。修了後は全員がここに——」
「え!」
部屋の後ろから、素っ頓狂な悲鳴が聞こえた。数名の訓練生と一緒に山田も振り返ると、いつも以上に顔の白い早乙女訓練生が、どんぐり眼を更に見開いていた。境指導官は、一種の威圧するようなオーラを滲ませながら、「何か?」とドスの利いた声で訊ねた。
「あ、いえ……後で、訊きます……」
「DOは皆さんのイメージにあるスパイ活動を主に担当しますが、全員がスパイではありません。そこでもう一つの部門を説明します」
スクリーンに、どこかのオフィスで真面目にパソコンを打ち込む女性の姿が映し出された。
「DO要員が収集した情報はDIに流され、そこで勤務するアナリスト達により分析評価のふるいに掛けられ、最終的には外務大臣やインテリジェンス・コミュニティーに提出する報告書にまとめられます。アナリストは、世界各地に詳しい専門家や社会学者、各国指導者の行動や表情から体調を読み解き、その後の政策方針を分析する精神科医、その他、物理学者などの専門家達によって構成されています」
DOが収集し、DIが分析するということか。
出力された画面が切り替わる。スーツで会議に出席中のシーンや、複数人でパソコンの前に座り、何かを研究開発している人々の写真が投影される。
「他には科学技術本部や管理本部がありますが、これらは前者二つの部門を補助する役割なので、ここでは割愛します。科学技術本部では情報収集の新たな手段を模索しています。管理部では、例えばこれまでに書いた秘密保全に関する同意書に違反するような疑わしい行為があった場合、ここの保安課が追跡します。三年毎に更新される身分や身辺の調査、人事なども管理部が担当しています」
いわゆる「内部監察」なども管理本部は担当しているのだろう。どっちにしろ、自分には無縁か。
スクリーンの前に境指導官は移動する。大勢の前でプロジェクターの光に照らされた素性不明の人物は、一種のカリスマ性を演出しつつ、釘を刺してきた。
「ですが、どんな部門であろうと、皆さんに課せられる責務は重大です。日本にとって重要な情報はクリティカル・インテリジェンスとして、内閣総理大臣に直接報告されます。そうでなくとも、日々の細かい情報は精査され、政策意思決定者達にレポートとして毎朝読み上げられます。自身の行為次第で、日本の未来が左右されることを忘れないでください」
訓練生の半数は大きく頷いていた。顔ぶれから見て、平均年齢は二〇代前半から三〇代といったところか。いずれも使命感に燃えて、自身が国の命運を左右するゲームや映画の主人公になったような気分を味わっているようだ。
これから壮大な「何か」に、携われる人生が送れるのだと。
まあ、俺は……意味も分からず逮捕されたあの日から、政府や組織といったものに不信感を抱いているからな。
公安職に従事せず、一歩引いた身分である山田にとっては、境指導官の覇気のようなものが尻すぼみになっていくように見えた。それは、自分が就職説明会で壇上のリクルーターに対して感じた、「理想と現実」のギャップに酷似していた。
◆
「一九歳で政府機関に入庁か……」
「年齢よりスキルで評価するのは、米国の良さだろ? サイバー関係の天才らしいぞ。日本語も半年で修得したとか」
新渡戸の声を聞きながら、『SF-86』と印字されたCIAの身辺調査用紙を境はパラパラとめくる。事務室は節電のため最低限の照明だけ点けており、暗い。自分達を除く他の指導官は、週末ということもありそれぞれの場所へと散っていた。境も誘われたが、「業務上の優先順位」を理由に断っていた。自席のPCに背を向けて、回転椅子に深く腰掛けた状態で資料を読み込む。
クラスAの訓練生達に関して、簡易的にまとめられた報告書に指導部長は目を通しつつ、「今回の研修もCIAの肝入りっぽいな。自分達をモデルにした組織が、今更気になるのか知らないが」と、愚痴っぽく呟いていた。境は資料をテーブルに置き、代わりにインスタントコーヒーを飲み込む。
「『協定』の礎となるアセット達の監視かもしれない——『9番』に関する詳しい身上調書を見たい」
「訓練生の完全な面割りは越権行為だぞ。適格性検査も本国の方ではやっているから、『ホワイトなヤンキー』で——」
「どうせ、『本国の方でやっているから、日本の適格性検査をやらなくて良い』と言われているんだろう。経歴がホワイトなヤンキーでも、ホワイトなジャパニーズではない。ダブルチェックがないなら穴がある。しかも向こうは移民大国だ。大学在籍前にどこから来て、何をしていたのか、家族構成は全員アメリカ人なのか、それが気になる。二重スパイなら、金、イデオロギー、諦めたのか脅迫されたのか、自尊心の塊か、様々な理由が——」
「でも、CIAも推しているぞ」
「ここまでCIAが推薦してきたことは一度もいない。だから怪しいと思って、データを『事前に』差し替えたんだ」
新渡戸は一瞬、固まったようにこちらを見てきた。そして、次の瞬間には立ち上がり、早乙女訓練生に関する資料を境のテーブルから取り上げた。
「『志望する本部はDI』……これはマズいぞ。DO以外は二週間のオリエンテーションだけ受けて、PM訓練は除外だろう?」
顎に手をやりながら悩む仕草をする指導部長。しかし、その様子とは正反対に台詞は他人事のようで、資料を放った。
「本性を暴くには丁度良い。このまま外務省のDIに逃がしてスパイだったらどうする? それに、『教育修了後は本人の適性を鑑みた部署に配置。一定期間の勤務後、帰国する』と書いてある。適性はこっちで判断するものだ。無事に修了しようが、途中で潰れようが、尻尾を出すまで監視してやる」
「教育中に事故でもあったら、責任は取れないぞ?」
「『書類上のミス』だ。今回のような特殊な入校では仕方ない」
「もし教育を突破したら?」
「体力的に厳しいとは思うが——」
境は腕を組み、半年後に教育を修了する少年を想像する。
「その時はK組と同じで、修了後は特別行動となる。心配しなくともどのみち、生き残るのは多くて一割だ」
「ふん」
デスクに戻った新渡戸は、テーブルの上に常備しているガムの入ったボトルを開け、ストレスを発散するように噛み砕き始めた。
「他は元公安が二人に、海軍の特殊部隊上がりもいるんだろう? 有力候補じゃないか」
「これは軍や警察で行われている一般的な教育とは違い、『修了させる教育』じゃない。評価次第では、修了しても原隊復帰になる場合もある——悪い意味でな。その時にならないと分からないというのは、ある意味では残酷だ」
境はパソコンに向き直り、訓練生達の前で使う講義資料をまとめに掛かった。
「これからは、自分が訓練生の中でどの位の順位にいるのか、常に意識することになるだろうな」
修了式、そして――(第26週 物品返納)
二〇三五年、三月末の金曜日。
小雨が続く日の午前。
最後に課程の改善すべき点を記載する紙を渡され、各々が書いて提出した後。
隊舎前の道路上に、ここへ来る前の格好をした年齢も性別も不統一な男女が並んでいた。手荷物以外は近くに停車している三トン半トラックに積載、もしくは各人の住所へと送られていた。
残ったのは八人だけか……
教育で使用した全ての物品を返納し、キャンプ富士から離れる手続きを全て済ませた山田は感慨にふける。
思えば、体力や肩書きだけには自信がある人間から消えていったな。総合演習前半が終了した時点で一七人。後半で一気に半分以上の訓練生が消えたことになる。理由は不明だが、恐らくはエージェントの獲得や捜査機関への対応に苦戦したのだろう。先週で最後の課目が終了したのに、そこから荷物をまとめて去った訓練生も多かった。総合成績が足りなかったのか、最後の最後まで気の抜けない戦いだったが……
「ずっと気になってたけどよ、米軍基地の施設をよく借りられてるよな?」
傘を差すほどではないが、それでも服に付着した水滴を嫌そうに払う竜崎。その姿を見て、山田も天を仰ぐように溜め息を吐く。
「普通は国防軍の駐屯地でも良さそうなんだけどね」
「日本の外務省の所管だからじゃないですか? 日本政府がまた高いお金を払っているんですよ」と、路面で跳ねている蛙を眺めながら早乙女が答えた。首には痣があり、エージェントとして獲得したアイドルオタクの女性に上着を引っ張られたのが原因らしい。
「ズブズブだとしても、訓練地域とか武器まで借りられんのか? 逆に防衛省とは協力できないってんなら、どうして国防軍も教育に参加できるんだろうな?」
「外務省より上が動いているんですよ、下っ端には関係ありません」
バッサリと言い切った長身の男性は長谷川訓練生で、隣で折り畳み式の傘を差している綾瀬訓練生が「内閣とか?」と返した。
「さあ? 政治レベルの話ですから」
クラスAのメンバーで無事に終了式を迎えられたのは綾瀬、長谷川訓練生と竜崎、早乙女、そして自分を含めた五名。偶然か必然か、勝連から来た「訳あり組」が生き残ることとなった。それを除けば、当初の五〇人以上からは一割未満しかない生存率。他の三名も隊舎の壁に寄り添うように密集し、うち一名は空挺降下で骨折した人物で、今も松葉杖を突いて立っていた。
あそこからここまで生き残ったということは、相当なリカバリーがあったんだろうな。
三名との接点がない山田は、長谷川訓練生と軽い挨拶を交わしている彼らから目を背けた。すると、満を持して登場した素顔の主任指導官が整列するように指示を飛ばし、傘を閉じて横隊となった山田と他の修了者の正面に立った。
「この時点で、ここにいる全ての訓練生は教育を修了した者と認めます」
まあ、そうだろうな。
しかし、改めて言われ、山田はこの施設にいる間に常に感じていた独特の緊張感から解放される。隣にいる竜崎も少し気の抜けたような溜め息を吐き、早乙女は小さくガッツポーズをしていた。が、綾瀬、長谷川訓練生は微動だにしない。
「今から伝えることは訓示ではなく警告です。日本企業の平均寿命は二三年、中小企業生存率は起業して三年経つと七〇パーセント、個人事業主は一年で六〇パーセントまで低下します」
次第に強くなってきた雨あしを睨んだ後、境指導官は一人一人の顔を見るように力説する。
「ただし、『自由』があります。公務員は当人の努力に限らず給料は一定で安定していると思われますが、国家や社会へ奉仕するほど心身が摩耗する職業です。嘘偽りのない人生か、自分自身も欺き続ける人生か、迷った際はしがみつくことなく、一般社会へと溶け込む努力を怠らないようにしてください。いずれにせよ最後は民間人に戻るからです――教育参加、ありがとうございました。官公庁から入校した修了者については既に所属先へと連絡しておいたので、他の修了者と同様に外務省からの通達が来るまで、それぞれの勤務先で転属、入省の準備を進めてください。神崎、真田、早乙女訓練生についてはここで待機するように。以上です、お疲れさまでした」
あっさりと終わった修了式の後、戸惑いながらも全員で握手をして解散する流れとなった。各々が言葉を交わす間、山田は不思議な感覚に囚われた。
出自も性別もバラバラだが、一種の絆を感じるのは長谷川訓練生の言う通り、共に苦難を乗り越えた仲間という宗教的な側面があるのだろう。
「――じゃあ、またどこかで」
「ありがとうございました」と、早乙女。
「一緒に仕事するかもしれないしね」と、綾瀬訓練生。
「それはないでしょう」と、長谷川訓練生。
「夢がねえなあ、とりあえず連絡先は消すなよ?」と、竜崎。
他の三名と一緒に、車両や徒歩で去って行くクラスメイト達。それに手を振って見送った後、山田は強雨から逃げるように二人と隊舎の中へ戻った。
「どうして僕らだけ残されたんですかね?」と、事情を知らない早乙女は首を傾げる。
山田は竜崎と顔を見合わせ、思わず苦笑。しかし、理由が推測できないわけでもなかった。
「……毛利訓練生の荷物もまだ残っているから」
その言葉の重みに、二人は反応しなかった。山田も正面口のドア越しに、地面を叩く雨粒の音のみに耳を傾けた。
◆
「――体力検定や射撃が何の役に立つのか、私には分かりませんが」
境はかつての「クラスAの居室」に一人残した訓練生に対し、引導を渡していた。具体的には、いつものクリップボードを持ち、いつものように「評価内容」を伝えていた。
「確かに、PM訓練の課目がケースオフィサーとしての職務に大きく関わることはありません。ただし、秘密戦教育においては『やる必要のないことはできなくても良い』ということではありません」
丁寧に畳んだ衣類をスーツケースにまとめながら、元公安の男は虚しそうな、寂しそうな表情でこちらを見上げてきた。
「では、エージェントの獲得や、仲間同士の連携ですかね?」
「チームプレーも時には必要ですが、日本人の民族的弱点が露呈しないかの確認で、あなたの行動に『不可』が付きました。幸福感の一因となるセロトニンが遺伝的に少ない日本人は、その不安感から民族的イデオロギー特有の『スパイト行動』が現れることがあります」
「スパイト行動?」
「他人の足を引っ張り、組織の秩序や自己の利益を守ろうとする行為です。昨今、日本向けに商品を販売する企業がレビューやコメントのブロック規制をしている理由の一つに、『日本語でのスパイト行動が多い』というものがあります。これは『日本人は他人の意見や周囲の環境に流されやすく、評価というインテリジェンスにおいては当てにならない』という統計学に基づくマーケティング戦略です。特に否定的で過激な炎上商法が目立っており、景気悪化と共にその動きは顕著となりました。現実で承認されない鬱憤を立場の弱い相手で晴らそうとする一種の防衛本能とも言えます。全体の評価が下がるので日本語のみ非対応にし、レビューの書き込みを禁止する企業も増加しました。スパイト行動は閉鎖的な組織における秩序の維持なら有効ですが、グルーバルで有能な人材を集めたスタンドプレーによる目標達成において、ルサンチマンやスノッブとなります。個人の能力を重視する少数精鋭型のチームプレーでは不要です。これらは国内生産力と消費力を低下させ、海外企業の進出や誘致を阻むことにも繋がっています。そうしたルサンチマンを排斥するため、肉体や精神に負荷を与えた上での発言や反応を評価していました」
「なるほど……心当たりは、ありますね」
教育の課目に対して時折、否定的な態度を取っていたことを思い出したのだろう。彼は頭をかいて、自嘲するように皺の刻まれた頬を歪めた。
「要員の選抜は単純ではありません。陸軍中野学校では、諜報員の多くが一般大学卒業生や下士官でした。士官学校を出ているような幹部や警察のキャリア組、一〇年以上勤務しているような人間は一般人を装うことが次第に難しくなります」
「まあ、組織の中では通じますが、一般社会からしたら偏っていますからね」
「この教育は『自分は特別』だと思い込んでいる人間を『特別な集団』に組み込み、気付かせる役目も担っています。終末医療に携わった介護士が死に瀕している多くの患者から聴取した結果、『自分に正直な人生を送れば良かった』という回答が最多でした。情報過多や清貧思想、貧困の時代によって挑戦者を尊重する姿勢も失われてしまいましたが、自分の向き不向きを気付かせ、本当の人生を歩ませるという目的もあります。組織的なやりがい搾取をすれば、個人的な報復行為を生み出しかねません」
「なるほど……私は凡人だったようです」
スーツケースを閉めた毛利は、諦めたように長い溜息を吐いた。どこか清々しさを感じるその表情に、歳も近いせいか境は僅かに感情を動かされた。
「……常に客観視が求められる立場でない限り、『自分は特別』だと思い込まないと大半の人間はやっていけませんから。それに、ある意味でこの教育は『器用貧乏な凡人』に向いているんです。修了できなかった人間の才能を測るものではありません」
「ありがとうございます。ですが、年齢もあるのでこれで潔く諦めることができます」
晴れやかな気持ちなのか、毛利は全ての荷物を持って一階へと下りていく。見送るために境も続くと、隊舎の窓を降雨が静かに叩き始めた。
「雨ですね」と、毛利は一度立ち止まる。そして正面ではなく舎側に設けられたドアの前まで進み、「お互い、身体が持つ限り頑張りましょう。職場に無理を言って来たので、敗者に居場所が残されていると良いのですが」と、皮肉を述べた。
「挑んだ者を笑ったり、中傷する資格はその土俵にすら立たなかった者たちにはありません。敗者とは挑まなかった者です。挑戦は経験で失敗ではありません」
「……そうですね、ありがとうございます」
「雨が止むまでここで待っていてもかまいません」
「いえ、少なくとも家族は待っていますから」
家族、か。
その単語と雨によって、境は郷愁を感じた。そして固い握手を交わした後、傘を差した毛利「元」訓練生は、強雨の中をしっかりとした足取りで歩き出していった。
◆
「――で、これから俺達はどうなるんだよ? 境のおやっさん」
三人で廊下の壁に寄り掛かりながら待機していると、かつての主任指導官が舎側から現れた。「会話するのも億劫」といった具合の早口で、情緒のない指示が飛んだ。
「これからは訓練生と指導官じゃない、上司と部下だ。この四人でチームを組む。変な敬称も肩書きも禁止だ。今からセーフハウスに行くぞ。ここには二度と戻らない。九時には俺の車に乗って出発だ」
「どこまで行くんですか?」と、早乙女。
「茨城県だ。途中、東京に寄って仕事や生活に必要な物を買い出しする。お前達も用事があったら済ませておけ。今日の分の食事と生活必需品を買うのを忘れるな。地方にあるセーフハウスだからな」
まさか、初めての任地が自分の地元になるとは……
出身地を互いに把握している竜崎と、山田は目線だけ交わす。早乙女がいる手前、下手な質問を避けるためにその話題で盛り上がるわけにはいかなかった。颯爽と二階に消えていった境に、竜崎が一言漏らす。
「……俺達、嫌われてんのかな?」
山田は早乙女に聞こえないように小声で、「まあ、まだ疑いが晴れたわけじゃないし」とだけ伝える。
疑惑の掛かった相手と懇意にしたくはないのかもしれない。自分も逆の立場だったら、テロリスト予備軍と進んで親しくなろうとは思わない。
「へっ、さっきまでは学園青春モノみたいな雰囲気だったのによ」
「教育中とそんなに変わりませんよ。僕に対しては結構、当たり強かったし」
「お前は運転演習の時に、おやっさんを森に放置したからな」
「そんな些細なことを根に持つ人には見えませんが」
「いや、それ以外にも色々あっただろ……」
◆
「これをセーフハウスに着くまでに覚えろ。ノンオフィシャルカバーとしての新しい身分だ」
境の運転する四人乗りの白い国産セダンに乗車した後、山田は助手席から流れる風景を楽しむ間もなくA4サイズのペーパーを手渡された。後部座席の二人にも同じ物が渡される。緩やかに走る車内には、備え付けのモニターから情報番組のAIキャスターが話す声だけが響いた。
「覚えたらセーフハウスで燃やせ。忘れたら俺に聞け」
書かれていることはいたって単純明快だった。若干の静寂の後、「リアが全部スモークだけど、覆面パトカーにしてんのか、おやっさん?」と竜崎。しかし、境は一切反応しない。気まずい空気を読んだのか、早乙女が「真田さんが『山田』さんになって、神崎か『竜崎』になったんですね」と、ペーパーを見ながら一言。
「おう……そうだな――って、何で俺だけ呼び捨てなんだよ」
「『早乙女』と『境』さんは変わらずだね」
カバーストーリーの設定は、『別れた息子とその友人達を預かり、地方にある古民家に期間限定で田舎暮らしを体験しにきた家族』で、息子は――俺か。
山田は思わず、隣でハンドルを握る境の顔を覗いた。
父親が肉食獣なら、息子は草食動物みたいな顔つきだが……まあ、ギリギリ似てなくもないか。
「俺がヤマちゃんのダチなら、『おやっさん』ていう呼び方も間違ってねえな」
「何でも良い、それらしくしろ」
「自分達の苗字が『山田』と『境』で違うのは、親が離婚したからですか?」
「そうだ。あえて複雑な家庭環境にした方が、他人は突っ込みにくい」
「けど、地方でアメリカ人がいたら目立つんじゃねえか?」
「『日本の田舎文化に興味を持った留学生』と書いてあるだろう」
「……結構無理のある設定じゃねえか?」
「心配するな、人は多くない」
相当、辺鄙な場所にあるってことか……?
途中のサービスエリアで小休止を挟み、首都高を乗り降りする境。その後、なぜか都内にあるアウトドアやキャンプ用品専門店を巡ると、時刻は正午を回っていた。「あまり使われていないセーフハウスだから、若干の手入れが必要だ」とのことだった。
人が波のように押し寄せてくるスクランブル交差点を横断し、地下駐車場へと向かう最中、買い物袋を持った早乙女が立ち止まる。つられて山田も止まると、早乙女の視線の先には大型ビジョン。屋外広告の立体映像が出力されていた。内容は海水浴やプールで使う水着の宣伝。強烈な日光と眩しい砂浜、そしてこちらに手を振る若い男女が映し出されていた。
もう四月だからな。昔の夏は六月とか七月からだったらしいけど……
「アメリカの方がこういうのは発展してんじぇねえのか?」
物珍しさから立ち止まったと思ったのか、同じように買い出し品が詰まったリュックを肩に掛けた竜崎が早乙女の隣までやって来た。
「……ニューヨークとかなら」
そう呟いた早乙女はこちらを見向きもせず、先を行く境の背中を追い始めた。珍しく感情を出さない少年の態度に、山田は肩をすくめた竜崎と目を合わせた。
◆
「え、良いんですか?」
「せっかく東京に来たんだろう。買い物はこの二人に手伝わせる。気にするな。量も少ない」
「ありがとうございます!」
「一三時には車の位置に集合だ。遅れるな」
さきほどの様子を見かねたのか、境のその提案に早乙女は喜んで同意。足取り軽く去って行く。車のトランクに荷物を詰め終わった竜崎が、「おやっさん、結構優しいんだな」と呟いた。
「血盟団の疑いがあるお前達だけに、今後のことを話す必要があるから切り離した――移動するぞ」
今まで邪険な態度を取っていたのに、妙に優しくなったと思ったらそういうことか。
駐車場を出て、しばらく付いて行くと、新宿駅東口付近へと到着。そのまま人混みと騒音に紛れて歩いた。
「お前達は特殊な事情だから正直に話す」
境を挟む形で、山田は竜崎と肩を並べた。
「血盟団はどこにでも存在する」
信号が青に変わり、横断歩道を渡り、ビルの間に入る。
「スパイとはなんだ? 普段は一般人を装っている。彼らを見てみろ」
山田は石畳の通りで、生き急ぐように道を行くビジネスマン、熱心にビラを配る女性、フラフラと自転車を漕ぐ老人を観察する。
「誰がどんな組織に所属しているかなんて誰にも分からない。今や公安を含めた警察、国防軍の中にも血盟団のスパイ『モグラ』がいる。家族などへの報復を恐れて、法執行機関でさえ誰も触れたがらないアンタッチャブルな存在にまで成長してしまった。だから表のインテリジェンス・コミュニティーから外れた首相直轄の特務機関が必要になった」
ビルの影を抜け、スクランブル交差点の手前で立ち止まる境。山田はそこまでの説明で合点がいった。
「……そして、その機関員となる『クリーンな日本人』に独自の教育を施し、建前として国外でも活躍できる日本初の対外情報機関として機能させている――ということですか?」
日差しを避けるように、再び繁華街へと進入。歩道をひたすら突き進む。車道は実質、規制され、左右に立ち並ぶ店舗や工事用の車両しかない。
「職務上、公にすることもできない。マスコミとは報道協定を結び、嗅ぎ付けたフリーの記者は情報が出回る前に懐柔されるか、記事が揉み消され、圧力が掛かる。今後は誰も信用するな」
遥か前方にある高層ビルの上には、有名な巨大怪獣の頭部のオブジェがそびえ立っていた。
「ただ、特務機関には柔軟な面もある。『敵の敵は味方』という面から上が採用したんだ」
「『敵の敵』?」と、竜崎。
「お前達のことだ。アンクレットは引き続き充電を忘れるなよ。今後も監視は続けていくからな」
「へっ、そういう扱いなのかよ」
「血盟団の目的が何であれ、日本に敵対する国家やグループと結託している可能性は高い」
怪獣の前を横切り、ゲームセンターやインターネットカフェを内包するビルの横を通り過ぎる。壁面に飾られた液晶モニターにはファッションブランドの広告塔となっている有名なAIモデルの他に、ヘイトマップの暴動指数を小さく表示していた。
「二〇三〇年、CIAが最も精度の高い未来予測を弾き出す米国の量子コンピューターで分析した結果、今後二〇年間において中国の成長は低迷し、GDPの維持も困難となる。米中の成長率も再度逆転し、日本では若年層と高齢者層が入れ替わり始める。逆を言えば、その間は日本の貧困や治安悪化はピークとなる」
歩みを止めた境の視線の先には、一〇年以上前から社会問題となっているストレートチルドレンがたむろしていた。段ボールを地面に敷いて横になっている少年もいれば、携帯端末から流れる音楽に合わせて楽しげに踊っている少女達もいる。組織犯罪の温床として有名な地域の一角だった。
血盟団は、こうした居場所のない子供達も勧誘するのだろうか。
「俺が所属する特務機関は、日本を二〇五〇年まで延命するために戦っている」
歩道から遠巻きに子供達を見詰める境の横顔から、国家の未来を憂う一人の大人の決意を山田は感じ取る。
「残りの一五年間、この期間が自国産(ホームグロウン)テロで最も危険な期間であり、中国が台湾に侵攻する可能性が高い時期でもある。戦前のように失敗の本質を捉えなければ、国内でクーデターが発生するかもしれない。それを未然に阻止するのが特務機関の目的だ」
「特務機関ってことは、名前があるのか?」と、竜崎。
「インテリジェンス・コミュニティーの中では『出内(いでうち)機関』という名称だが、公的には通用しない。覚えても無意味だ」
赤ん坊の大きな泣き声がこだまする。声が聞こえる方に顔を向けると、母親がベビーカーを押すのを諦め、しゃがんであやしていた。周囲の反応は十人十色だが、心配そうに見詰める人間は少なく、どちらかと言うと顔をしかめて歩く割合の方が多い。
この場に不在なだけなのかは知らないが、母子家庭というのも、現代の貧困の象徴か。
山田はかつて知り合ったシングルマザーの女性を思い出し、自分の取った態度を少し反省した。
「日本の平和が節目を迎えようとしているんだ。世界を席巻するポピュリズムによる国内の分断、中国との対立、そしてロシアの不穏の動向。それらに加えて、血盟団という反政府勢力によって国内でのクーデターの気運が高まっている。それが日本人によるものなのか、外国勢力による主導なのかは不明だが、いずれ分かるだろう。いつかは血盟団と戦う必要がある。そして主要な構成員を捕まえることができれば、全体像を把握することができる」
「だから俺らみてえなのを捕まえて、あの収容施設にぶち込んだのか」
「日本の現行司法制度では犯罪やテロの抑止には繋がらない。ノルウェーの法曹いわく、『犯罪は幼年期の愛情、成長期の教育、現在の金銭の三つが不足した時に発生し、刑罰や社会システムの役割はそれらを補うこと』らしい。日本の再犯率の高さは刑務所が受刑者を痛めつけることしか考えておらず、社会復帰を考えていない。結果的にそれが更なる犯罪者や社会への復讐心、治安悪化、血盟団のような反社会勢力を生んでしまった」
「勝連での生活が比較的自由だったのって……」
禍根を断ち、復讐心を抱かせず、懐柔し、引き込む――リアリズムか。手間は掛かるが、理にかなっている。
「他にもチームはいるが、俺達は国内のロシア人スパイと血盟団を担当する……もう時間だ。車の位置まで戻るぞ。セーフハウスまで二時間以上掛かるからな」
そう言って駅まで戻り始めた境。その背中を追うと、背後から竜崎が楽しそうに話し掛けてきた。
「でも、秘密基地って、ワクワクするよな」
「俺は何だか嫌な予感がするんだよな……」
◆
「って、廃墟じゃねえか!」
「ホラー映画に出てきそうな感じですね……」
茨城県南部から山奥へと入り、車一台分の幅しかない山道を進んだ先にある小高い丘。そこに一軒の古民家がポツンと放置されていた。車を降りた三人に続くと、山田の視界に手入れを怠った古民家の末路が映し出される。周辺は全て鬱蒼と生い茂った森。そこから問題の一軒家を中心に、放置された畑が広がっている。開豁地の中央、高台の上に建てられたその家屋は一見、解体前のお化け屋敷にも思える外観。建物自体は二階まである一戸建てで、それなりに立派だった。それらを台無しにしているのがジャングルのように生い茂った雑草、苔まみれの瓦屋根、伸び伸びと育った蔓(つる)に包囲された縁側、元が分からないほど変色した壁面、そして建物の一部のように二階へと覆い被さっている大量の植物群だった。
俺の実家もこんな田舎じゃないぞ……
「ホームセキュリティは高い。高台から周囲を見渡せるから、何かが近付いてきてもすぐに分かる」
「いや、そもそも周りに人がいねえからな!」
「隣近所から覗かれる心配もない」
「ここ以外に家ないですからね……僕はネット環境さえ整っていればどこでも良いんですが、電気水道ガスはどうなってるんでしょうか? 日本なら深夜の買い出しも楽しめると思っていたんですが」
「さっき寄ったコンビニとかスーパーまで最低でも三キロ以上はあるね……」
「虫とかもヤバいだろ……つーか、山を下りなきゃ何もできねえじゃねえか」
境は玄関の引き戸に近付き、懐から取り出した鍵で錠を開く。意外にも建て付けはしっかりしているようで、横開きのドアがあっさりと動いた。
「荷物を搬入するぞ。今日からここを拠点に生活する。日が落ちる前に部屋を清掃して、各人で寝床を確保しろ。靴は脱がなくて良い」
「マジかよ、俺は車泊で良いぜ?」と、真顔の竜崎。
「『シャハク』って何ですか?」
「野宿のことだ、おめえは地べたに寝てろ」
「ええ!」
中に入り、蜘蛛の巣を回避しながら家の中を調べる境。山田の目にはその姿がなんとなく、文明の利器に染まった現代の若者の反応を楽しんでいるように映った。台所と思しき場所で蛇口のハンドルを捻り、「水出ねえぞ!」と騒ぐ竜崎。「元栓は外にあるかもしれない。見てきてくれ」と上司に命令され、山田は素直に従った。
「電気通ってないんですが……」
「アンペアブレーカーは上がるが、漏電ブレーカーが上がらない。右にあるテストブレーカーを一つずつ上げて確かめるしかない」
「だから途中、ガソスタで携行缶にガソリン詰めてたのかよ……発電機買った時から嫌な予感はしてたけどよ」
家の中から喧々囂々(けんけんごうごう)とした声が聞こえる中、山田は家屋の周囲をぐるりと歩く。生い茂った緑と大自然で立派に育った昆虫と格闘していると、足元に『量水器』と書かれた青い蓋を発見。
これか。大災害の時、実家の水道管を点検した時があったからな。
蓋の間に詰まった土と雑草を取り払い、近くの小石を使って蓋をこじ開ける。すると中から大量のダンゴムシやムカデ、良く分からない手足の長い虫が一斉に逃げ出してきた。その内の一匹が手の甲に這い上がり、山田は思わず「クソ!」と叫びながら手を何度も振った。
「これって日本のカブトムシですか?」
「カブトムシ? こんな早いわけ――馬鹿野郎、それはゴキブリだ!」
「ゴキブリ? こんな大きいゴキブリいるわけないじゃないですか。ゴキブリっていうのは冷蔵庫の中にいるコバエみたいな――」
「それ以上近付くんじゃねえ!」
竜崎と早乙女が中で暴れる度、外壁が揺れた。自分まで騒いだら境が爆発しかねないので、山田は手をズボンで拭いた後に水栓を捻った。ドタバタと駆け回っている二人の顔を想像し、少し笑う。
「水道の元栓を開けたので、確認してください!」
「分かった――よし、流れたぞ。戻ってきてくれ」
「了解です」
今までの自分とは違う。何があってもリアリズムで判断する。
山田は世間知らずだった青年時代を脱却し、二度目のチャンスを見逃さないように覚悟を決めていた――
――さすがは日本屈指の豪邸街だな。虫唾が走る。
男の目に映る家々は全てその土地の景観協定を厳守していた。土地の広さである敷地面積に対する建築面積「建ぺい率」は二割から四割。高さは八メートル。電気通信関連の電線は全て地中化。住宅の境界となっている植栽や家自体の色彩も審査される。塀は禁止され、常に警備員やパトロールカー、防犯カメラによる監視や巡回もあり、セキュリティーも高い。電柱や電線は存在せず、日本に巣食う各界の著名人の豪邸が立ち並んでいる。頭上の障害が排除された日本とは思えない光景。完全に富裕層向けであり、「日本のビバリーヒルズ」とも呼ばれる住宅地。
神奈川県逗子(ずし)市小坪(こつぼ)、披露山(ひろやま)庭園住宅地。
逗子市西側の高台に所在するその場所からは、相模湾が一望できた。都内からは車や電車で約一時間。南には伊豆大島、そして西には江の島と富士山を望める絶景スポット。
そんな街の一角が、ロシア連邦通商代表部の保養所となっている。
「お前のボスは遅刻か?」
NSAと同じ、微弱な電波も漏らさない特殊なスモークガラス。そのガラス越しに外を眺めていた男は振り返る。
ロシアの調度品に彩られた内装。広々とした天井の高いリビング。時代を超えた工芸品であしらわれた室内装飾――今となっては、それら全てが虚像でしかない。
「口がきけないのか、ロシア語が話せると聞いていたんだが……でかい図体のくせに亡霊みたいに不気味な奴だな」
「やめろ、少尉ゴルバチョワ」
「名前も階級も捨てました、ウクライナで負けた時に」
「ならマルティニ、彼もこちら側だ」
マルティニ。背も高く鼻筋も通った金髪の映えるスラヴ系の美人だが、その顔にはどことなく疲労感が漂っている。
「あー、ごめん、遅れたかな? バッハ」
スーツに眼鏡という出で立ちで現れた篠原は、流暢なロシア語で挨拶し、二人のロシアスパイと同じテーブルに着いた。
「座らないの?」と、篠原。
壁を背に立っている方が落ち着くんだ。
「ま、良いか」
「寡黙な男は好きだ、シノハラ。彼はナイフとジュウドーの達人なんだろう? 私もジュウドーを見るのは好きなんだよ」
「ちょっと違うけど、似たようなものだね。それより俺が入って来た時、『ゴッドファーザー』みたいな空気になってたけど大丈夫?」
篠原の台詞にマルティニが無表情で顔をそらす。
「最近、本国からの支援が消極的になっている。我々の身分がイリーガルとなったのも、それの影響だ」と、気にせず会話を続けるバッハ。
「計画がクレムリンに発覚した恐れは?」と、篠原。
「無いとは言い切れないが、クレムリンでもノボロシアグループが根回しをしている。我々は完全に孤立はしていない。ロシアも一枚岩ではない。和平派と急進派で対立している」
「日露平和条約か」
突然、マルティニ――ゴルバチョワ元少尉がテーブルを拳で叩く。
「二島譲渡などありえない、いや交渉自体がありえない!」
その発言に、周囲の護衛数名が頷く。
やはり、そういった「意思」の集まりか、ここは。
「ウクライナでの敗北後、日本がアメリカに隷属しているように、ロシアは中国のジュニアパートナーに成り下がってしまった」と、バッハがなだめるように言った。
「日本に私達の領土を明け渡すなど、断じて許されません」
「ウクライナの二の舞になってはならない。アメリカは南米とのいざこざに集中し、ヨーロッパではドイツが動乱を経て、ネオナチが復活した。今のロシアに他国と争うエネルギーはない」
ゴルバチョワが政治的イデオロギーについて熱を上げ始める。篠原はポケットから取り出したソフトキャンディの包みを剥がし、頬張った後、インテリアを興味深そうに眺めていた。
「侵略的なのはいつもヨーロッパの方で、私達は被害者です。元はと言えば、一八一二年にフランスがオーストリアとドイツ、イタリア、ポーランド、スペインやスイスなどと組み、ロシア帝国へと侵攻したのが始まりです。ヨーロッパの経済を支配しようとしたナポレオンの遠征を食い止めた私達こそ、ヨーロッパの真の解放者です」
「『祖国戦争』は、確かにロシアに大義名分がありましたね」と、篠原がキャンディを噛みながら喋る。ゴルバチョワは一瞬、「お前が語るな」と言いたそうな顔をした後に続けた。
「一九一四年の一次大戦もそうです。かつての侵略を水に流し、ドイツがフランスに侵攻した際は、イギリスを加えた三国協商を締結していた私達がドイツと戦いました。代わりにベラルーシやウクライナ地方を失いましたが、同盟国を守るために戦ったのです。長引く戦争で国は疲弊し、ロシア帝国は崩壊した上、内戦が五年も続き、一〇〇〇万人以上の犠牲者が出ました。五〇〇万人以上が餓死し、親を失った戦災孤児は七〇〇万人を超えます。それでもヨーロッパの平和を守るために、私達が身体を張ったのです」
そこでゴルバチョワは拳を握り締め、今にもテーブルを叩き壊さんばかりの剣幕で語り続ける。
「それにも拘らず、ロシア国内の混乱に乗じ、ドイツはウクライナ、ベラルーシ、ラトビア、エストニア地方まで占領し、西部のロストフも奪いました。トルコもカフカス地方を侵略し、ロシアが共産主義政権になった途端、直前まで同盟国だったイギリスとフランスは北西部のムルマンスクを占領し、極東のウラジオストクには日本軍、イギリス軍、そしてアメリカ軍も上陸してきました。ヨーロッパだけでなく、アメリカや日本まで私達を食い物にしたんです!」
「そして、第二次世界大戦で欧米に対する不信感は極限に達したのかな?」
篠原の疑問に、ゴルバチョワは「そうだ」とだけ告げた。
「一九四一年の大祖国戦争、ヒトラーのドイツは『独ソ不可侵条約』を一方的に破棄し、私達ソ連へと侵略を開始した。三ヶ月に及ぶモスクワ攻防戦で二五〇万、バグラチオン作戦では一八万ものソ連兵が死傷した」
「アジア太平洋戦争での日本の戦没者が約三〇〇万人だと考えれば、たった一つの都市なのに凄い数だね」と、篠原。
「スターリングラードでは半年間で一二〇万人のソ連兵が死傷した。アメリカを始めとする連合軍が当時のノルマンディー上陸作戦を今もなお馬鹿みたいに何度も語っているが、連合軍側の戦死者は四〇〇〇人、ドイツは九〇〇〇人だ。ソ連はナチスドイツの手からヨーロッパを解放するため、二七〇〇万人もの国民を犠牲にした。国民の七人に一人が死んだ。一七〇〇の街、七万の村、三万の工場、一〇〇〇の鉱山、六万キロの鉄道が破壊され、国民財産の三分の一が消失した」
距離だけ考えれば、地球一周が四万キロ。確かに壮絶だ。しかし、まるで自分が戦ってきたかのような言い草だな。
「それら外敵は全てウクライナやベラルーシを通ってロシア本土へと侵入してきた。だからその二カ国が西側寄り、しかもNATOへ加盟することなど絶対に許せないんだ。大祖国戦争から半世紀が経った一九九一年、NATOに対抗してきたワルシャワ条約機構を解体し、ソビエトからロシア連邦となった時、NATOの解体を要求したが断られた。ならせめて拡大や、他の旧ソ連圏の東欧諸国を引き入れるのは辞めて欲しいと妥協した時、当時のアメリカは『一インチも東には拡大しない』と合意した」
あくまで談話だけどな。
「でも、ロシアの反対を無視して一九九九年には旧ソ連圏のチェコ、ハンガリー、ポーランドを加盟させていたね」と、篠原。
「そうだ。冷戦終結時に一六カ国だった加盟国は三〇カ国まで拡大した。西側に歩み寄って共産主義から資本主義へと変換した時も、国内経済はインフレを起こした。しかもウクライナにNATOの迎撃ミサイルシステムまで配備すると言う。もし中国、旧北朝鮮、旧韓国、フィリピン、台湾、インドネシア、マレーシア、そしてロシアが軍事同盟を結び、日本に軍事と経済の両面で圧力を掛け、不利な外交条件を突き付けてきたらどうする? 軍事力の拡張や核武装の検討をし、孤立するだろう。それと同じ状況に私達は追い込まれたんだ」
「アメリカ国内でもNATOの東方拡大には否定的な人間もいた。西側に歩み寄り始めたロシアを怒らせ、再び冷戦が始まってしまうという地政学的リアリズムを熟知した国務省の高官達だ。冷戦期に共産圏の拡大を妨害した『封じ込め戦略』を発案した外交官ですら、『アメリカ外交の致命的な誤り』と批判した」と、バッハ。
「それでも九一一の時にアメリカ軍がアフガニスタンに侵攻する際、ロシアは対テロ戦争に全面協力し、アフガンに関するあらゆる情報と中央アジアの基地を提供した。東西に限らず、国民国家の共通の問題としてテロを認識していたからだ。だがアメリカは国連決議もないまま、二〇〇三年に『大量破壊兵器を保有している』という言いがかりを付け、イラクを攻撃し、結局兵器は存在しなかった。私達は国連やIAEA(国際原子力機関)による核査察を主張してきたが、国際社会を無視したアメリカの論理で押し切られてしまった。四年前にNATO軍が国連決議をせずにコソボ紛争へと介入し、ユーゴスラビアを爆撃したのと同じだ。二〇〇四年にはブルガリア、ルーマニア、スロバキア、スロベニアの東欧諸国、そしてエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国を私達の反対を無視してNATOに加盟させた。エストニアとラトビアはロシアと五〇〇キロもの国境を接している。国境からモスクワまで六〇〇キロしかない。その上、ウクライナでNATO加盟を目的とした西側による反ロシア革命工作が発生した」
「ユーロマイダン革命だね」と、篠原。
「ウクライナまで加盟すれば、ロシアの西部はベラルーシを除いて全てNATOに包囲されることになる。だからベラルーシを核武装させたんだ。日本は島国だから理解できないだろうが、九州から中部地方までが中国と軍事同盟を結んだとしたらどう思う? 安心して暮らせるか? 私達は暮らせない。しかも西側は何度も裏切ってきた。『関東までは拡大しないから安心しろ』と言われて信用できるか? 日本の中部地方は私達にとってのウクライナ。かつての領土がナチスのような過激思想に洗脳されたのであれば、私達はそれを非ナチ化し、鎮圧する必要がある」
「だから戦争ではなく、『特別軍事作戦』と呼称していたのか」
「ウクライナは元々私達の領土の一部だ。これは戦争ではなく、内乱の鎮圧に過ぎない。そこに正義があるから国民の八一パーセントが支持した。これがお前達の言う『ウクライナ戦争』の正体だ」
まさに「ロシアの論理」か。どんな国家であれ、加害者意識より被害者意識の方が強い。NATOの東方拡大はロシアの恐怖心を強く煽り、結果的に第三次世界大戦寸前まで陥らせ、国家を破綻状態まで追い込んだのだ。
「そして今回もヨーロッパの犠牲となり疲弊したロシアに対し、経済支援をだしにして『南クリル(北方領土)をよこせ』と言う。譲渡した途端、アメリカが軍事基地を設置することは分かり切っている」
「どうしてそう言い切れるんだ?」
その疑問に、バッハが口を開く。
「一九七三年に日本の外務省が作成し、一九八三年に増補した『日米地位協定の考え方』という密約の内部文書があるだろう。これは『基地提供が困難な場合を除き、日本がアメリカからの軍事基地化の提案や提供要求を拒否することは、安全保障条約上、考えられない』という内容のものだ。また、北方領土返還の条件として、『返還後の北方領土には施設・区域を設けないという条約をロシアと結ぶことは、アメリカとの安保条約上、そして地位協定上、問題がある』という注意文も書き加えられている。つまり――」
「ロシアの西部のみならず、東部までNATOに囲まれる、ということだね」と、篠原が結論付けた。
僅かな沈黙が流れた後、バッハが唐突に告白する。
「私はアメリカが好きだ。日本も好きだ。アメリカには留学経験がある。ハリウッド映画が好きだ。日本には着任する前から何度も旅行に来ている。美しい風景と健康で美味な和食には今も感謝している。日米だけでなく、ヨーロッパの文化も興味深い。私はどの国とも争いなど望まない。クレムリンの近くではとても言えないが……幸い、大使館の幹部以外でこの保養所に来るのは、SVRやGRUの東京駐在部の中でもごく一部だけだ」
バッハは広い室内を見渡し、ゴルバチョワに向けて言った。
「そして何より、ロシアが好きだ。私はロシア人と日本人の民族的イデオロギーはとても似ていると考えている。共に強い指導者や社会システムに隷属しなければ、大半の国民は生きていけないのだ。日本も自由民主党による一党独裁だ。ロシアはKGB派閥であるシロヴィキ、新興財閥のオリガルヒ、日本は元特高警察の検察、財務省や経団連といった旧財閥――どちらも既得権益の構造が似ている」
バッハは部下の女と違い、穏やかな口調だった。ただその瞳の奥では、二つの民族の歩み寄りではなく、黒い欲望で濁った光を爛々(らんらん)とちらつかせていた。
「しかし昨今、日本にはNSSを始めとし、地政学的リアリズムを理解した優秀なインテリジェンス機関が生まれてしまった。『アイデアリズムの国』として、GHQが普及させたテレビや野球の人気が陰り、愚民政策の効果が切れてきたのもあるだろう。これは由々しき事態だ。日本は観光名所であり防波堤、そしてメガバンクであって、東アジアの均衡――『バランスオブパワー』を変えてはならない……シノハラ、君の古巣だな?」
篠原は否定も肯定もせず、話を進める。
「前に『出内機関は存在しない組織』と言ったのは比喩ではないよ。俺達と同じだ。日本人の組織的欠陥を考慮し、編制表も何も存在しないんだ。各地に散らばったケースオフィサーがチーム内で意見交換し、アナリストに吸い上げさせるだけだ。民族的イデオロギーの弱点を補うべく、一部のエリートで構成された新たな組織の形だね。給料の出るフリーランスの集合体みたいな感じかな。オフィサー同士、互いの本名も知らない。隠れ蓑である外務省との連絡もチームリーダーのみか、一切取らずに間接的な命令で動く場合もある。それに情報漏洩も最低限に抑えられる。肥大化した日本の組織へのアンチテーゼみたいだ」
「そんな組織体制で部下が動くのか? 強いリーダーや上層部はいないのか?」と、ゴルバチョワ。
「一〇年以上前、日本国防軍が『自衛隊』と呼ばれていた時代に、敵基地への反撃能力や極超音速ミサイル、第六世代ステルス戦闘機、巡航ミサイルなどの配備を防衛省が急激に推進した時期があったでしょ?」
「ああ、ついに平和ボケが終わったのかと思って、我々も焦ったよ」と、バッハ。
「あれはNSSが推進させたんだよ。防衛費増税のためや政治批判、そしてNSSにスポットが当たらないように防衛省の手柄として報道するけどね。実際はイージスアショアの件といい、談合や癒着、内ゲバでスパイト行動をするだけだ。だから官邸主導としてNSSが舵取りを始めた。こういうのは日本の共産党が良く調べているから、勉強になるよ」
「日本では共産党が合法なことに驚かされるよ。だが、なぜそこまで情報が?」
「軍に恨みを抱いた元国防軍兵士や現役隊員が情報提供するんだ。与党と軍が推し進めるクリーンなイメージ戦略に対し、腐り切った組織の内情を知っている分、辞めた後も苛立ちや義憤に駆られてね。待遇への不満とか、単純に人間関係での復讐もある。彼らを獲得すると、驚くほど有力なエージェントとして機能する。大半は一般の競争社会で生きていけないから入隊しているんだ。スキルもないし、金に困ってるんだよ。そして有名組織の肩書きが通用しないと、自分の存在意義を求め始め、差し伸べられた手を掴んで離さない。MICEで言うイデオロギーだ」
「それが血盟団の実行役というわけか」
篠原は否定も肯定しなかった。
「報酬には暗号資産によるサラミ法も駆使している。小数点第四位以下の切り捨てられたコインをかき集め、再分配するんだ。半グレが多いけど、中国系や残留孤児、外国人労働者で足もつかない。資金提供もあなた達や『他の友人達』から受けているし、AIツールで作成したネットアイドルへの投げ銭をそのまま資産運用して増やしている構成員なんかもいる。色んな人がいるね」
まさに、現代人の心の空虚さを表しているな。
「話が逸れたけど、NSSこそ日本の安全保障戦略で重要なポジションを担うシステムだ。そしてクリティカル・インテリジェンスをダイレクトにNSSへと提供し、細かい動きを支えるのが出内機関。このままだと、陸軍の特殊作戦群や外務省の国際テロ情報収集ユニットのように、日本初の正式な対外諜報機関に発展するかもね」
「出内機関が実施している諜報員課程について説明は受けたが、アメリカの土地や施設が絡んでいるとなければ、我々も簡単には手が出せない。特戦群やユニットの方はどうだ?」
「組織上は防衛省や外務省に所属しているけど、実態は官邸直轄だ。厄介な連中だよ。欠点としては少数精鋭だから常に多忙で人員も少ないけど、士気はそれなりに高い。まだ出内機関の方が良い。黎明期にかき集められた諜報員の選抜方法は曖昧で、今は諸先輩方が丁度ルサンチマン化している頃だよ。最近は『インテリジェンス課程』という教育名に偽装して厳密なカリキュラムを組み、脱却を図ろうとしているらしい。けど、優秀な人員を輩出しようとすればするほど、最終的に補充できる訓練生は減る。他の情報機関との縄張り争いやストーブ・パイプに耐えられるかが問題だろうね」
「ルサンチマンならエージェントとして獲得することもできる」と、ゴルバチョワ。
「いやあ、頭のキレる奴も何人かいる。コンクリート工場で鹵獲したドローンには自己破壊プログラムが組まれていて、解析できないようになっていた。奴らはチームを組んでセーフハウスを拠点として活動する。活動は内容ごとに変わるけど、お互いに動いていればその内――」
篠原が面白そうにこちらを見てきた。
「ぶつかることになるだろうね」
「私達がレンディションされる可能性は?」と、ゴルバチョワ。
「我々がイリーガルである以上、避けられないだろう。噂ではオキナワにホスピタル(監獄)があるらしい。日本の刑事訴訟法81条を調べたことは?」
ゴルバチョワは首を横に振る。
「これは世界で日本にしかない制度であり法律だ。要約すると『裁判所は、被告人が逃亡し又は罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由があるときは、勾留されている被告人と弁護人以外との接見を禁じ、授受すべき書類とその他の物を検閲、禁止し、差し押さえることができる』という内容だ。簡単に言えば留置場に拘禁されている間も配偶者、親戚、友人、知人と会うことや文書のやり取りをおこなうこともできない。つまりレンディション以前の問題で、日本の捜査機関によって警察署に連行された時点で外界から隔離されてしまう。日本では毎年約三万五〇〇〇人が警察の留置場に拘禁後、犯罪の事実があろうとなかろうと、この接見禁止によって密室監禁されている。はたから見れば失踪だ」
「連行された場合、暗号などでやり取りしますか?」
「刑事収容施設法113条、117条にある『暗号の使用その他』によって、職員が理解できない発言をしたり、『罪証の隠滅の結果を生ずるおそれのある』発言をした場合、発言や面会が停止させられてしまう。文書は全て検査され、これも『罪証の隠滅の結果を生ずるおそれがある』と判断された場合、やり取りを禁止され、当該箇所の抹消、削除ができる条文がある」
「……まるでナチスの強制収容所ですね」
「それは面白い例えだね」と、篠原は食べ終えたソフトキャンディの包みを全てポケットにしまった。
「戦後ドイツでも六〇年代までは司法にナチスの体質が残っていたらしい。けど、若い世代を登用することによって徐々に淘汰されていった。日本の場合は逆に若者や国際基準を全て排除したんだ。一八八二年に施行された治罪法(ちざいほう)にあった『密室監禁』という制度をそのまま引き継いだんだよ。八年後には刑事訴訟法が制定され廃止されたけど、一八九九年には偽証罪によって拘禁された弁護士が無罪放免になった後、長期間の密室監禁によって不健康になり死亡した。そこから『密室監禁』は『接見禁止』という呼び名に変更された。けど、実態は変わらなかった。敗戦後、その危うさに気付いたGHQは『罪証の隠滅の結果を生ずるおそれ』という文言をはっきりさせるように司法省へ勧告したが、自分達の武器を失いたくなかった日本の検察官はそれを無視して、『罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由』という条文に書き変えた。結果、数字には残らない冤罪が多発するようになったというわけだ」
「日本やイギリスといった島国が閉鎖的だとは知っていたが、中東以上の拷問国だったとは意外だ」と、ゴルバチョワ。
「拷問の定義にもよる。日本では古来より『タイバツ』という文化がある。日本人は拷問に慣れ親しんだ民族だ。いまだに自発的なクーデターが起こらないのも、その影響かもしれん」
「なら起こすしかないでしょ」
篠原のあっさりとした回答に、バッハは頷く。
「世界を席巻するポピュリズムを日本にも浸透させ、国内を分断、国際的に孤立させるのだ。手始めにアジア太平洋戦争を『大東亜戦争』と呼ばせたい。第二次世界大戦で『日本は正しかった』、『アジア解放のため、そして自衛のための戦争だった』と流布するのだ。知識層やインテリはリベラルが多いので、感染は遅い。しかし、貧困層は保守派が多い。これら思想を、ネットを駆使して疫病のように蔓延させろ。いずれ知識人に耳を傾ける者も減る。政治内部へも浸透させろ。日本を大アジア主義へと回帰させる。アメリカとヨーロッパ、インドや東南アジアからも遠ざけ、孤立させる。そこに我々が付け入る隙が生まれる」
「ロシアと中国、そして日本を加えた同盟ですか?」
「中国は永遠の敵国だ。重要なのは、今後、日本が衰退した時や他国と紛争を起こした時、ロシアが少しでも日本の領土を入手できるように工作することが肝心なのだ。そのために日本の貧困化を利用しない手はない。これを二〇五〇年までに追及するのだ。日本の政治には多くの弱点があるが、『数字だけしか見ない』というポイントを突け。組織や政府の実態に不信感を抱く者——特に愛国者達だった者を『ノバートル』する。それらを水面下に進めるために外見で目立つ我々ではなく、『アジア人の同志』である君達の力が必要なのだ」
ノバートル……「新しいスパイとして確保する」、か。
バッハの熱い眼差しを笑顔で受け止めた篠原は、「『巣作り』と『工芸品』は?」と話を進める。
「並行して進めている――『シミュレーション』はどうなった?」と、ゴルバチョワ。
「効果は実証済みだ。ドイツでは既にクーデターの一歩手前まで成功しただろう?」
「あれだけでは確証がない、状況設定が違う。テストはどうなった?」とバッハ。
「あれは俺達の『力』の一端に過ぎない。こっちの二重スリット『は』上手くいってるからね。そこは信用して欲しい。もちろん解析対象を変更すれば、ロシアの再建にも使える――内側からのね」
篠原の台詞に、二人のロシアスパイは目を細めた。
「もちろん最終テストは残ってるよ。そこで判断してもらえれば良い。ただ規模が大きくなるから、データの取引は即時おこないたい」
「それに関しては問題ない。現地で確認する」
「危険です」と、咎めるゴルバチョワ。
「自分の目で確かめたい。それに、彼らが付いている。心配ない」と、落ち着いた笑いを見せるバッハ。視線の先では、取り巻きであるロシア人の部下達が一様に頷いていた。
「……しかし、このシミュレーションデータはロシアやアメリカ、中国だけでなく、西側諸国の築いたバランスオブパワーをリスクなしで変更する恐るべき兵器となるかもしれん。失敗しても、いざとなれば例のファイルもある……そうだな、シノハラ?」
「そのカードは出内機関と日米にダメージを与える最後の切り札だ。早々に切るわけにはいかない」
「無論だ。急いては人に笑われる、より静かに進めばより遠くまで行ける。まずは我々の力で解決しよう。こういう時は敵の気持ちになって考える必要があるが――私なら捕らえた敵の構成員を利用する。相手は逆に組織の全容の把握を期待するだろう。それはこちらも同じだ」
「それでは、こちらも二重スパイとして送り込むということですか?」
「いや、既にこちらの『モグラ』は仕込んである」と、バッハは柔和な笑みを浮かべた。