見出し画像

小説『シビルミリタリーセルヴス: ダイジェストバージョン』(全文無料公開中)<㊤>




この作品は「縦書き用」に書かれています。
アラビア数字ではなく縦書き用の漢数字が使用されています。
Wordでの出版のため、ルビや縦中横の不使用などがあります。




 







  シビルミリタリーセルヴス 
  ダイジェストバージョン

 CIVIL MILITARY SERVUS
: DIGEST VERSION



 

目次
上巻部分

プロローグ 狸穴


起 出内機関


承 訓練開始


中巻部分

セレクション(第1週 各種素養試験)

 

修了式、そして――(第26週 物品返納)


ここから下巻部分

血盟団と竜崎


ロシアと早乙女

 

転 メディアかアレクトか


結 SLAVE,SERVUS


エピローグ 愛国心はならず者の最後の拠り所

主要参考文献

 


 


ウクライナ危機が去り、朝鮮半島統一後、世界的なポピュリズムが吹き荒れる時代——


 

プロローグ 狸穴



 二月末。
 学生も社会人も一つの節目を迎えるこの時期。青年はスーツ姿で立ち尽くしていた。
「煙草行ってくるから、よろしく頼むわ」
 そんな台詞を残し、青年の「一応」の上司はかれこれ三〇分以上戻ってこない。
 あの人の性格上、就活生の女子をナンパでもしているのかな……
 ため息を吐きながらそんな予想をする青年。それだけならまだ良かった。座る物が一切用意されていなかったせいで、運動とは無縁の人生を送ってきた青年のふくらはぎは張り詰めていた。何度目の気晴らしか分からなかったが、青年は自社ブース以外の様子を探った。
 東京ビッグサイト。東展示棟、国内外電気機器展示会。
 国内最大の国際展示場は、世界各国の半導体メーカーによる見本市と化していた。九〇メートル四方のホールが単独のフロアに六つ用意されており、天井高は三一メートルもあるらしい。丸見えで組まれた屋根の鉄骨構造には、いくつかの巨大な照明が備え付けられている。それらは展示物と人の波を照らしていた。企業向けの各ブースでは、自社製品を搭載したデスクトップPCなどの情報端末製品が展示されている。サングラスタイプのアイウェアで通話やタッチ操作もできる「グラスフォン」。6G対応の新型折り畳み式スマートフォン。立体映像が飛び出るタブレット端末。手のひらサイズのプロジェクター。いずれもアップグレートされた性能スコアをこれでもかと大々的に表記している。一番の目玉は16Kでのライブ配信に対応している高速回線端末だった。
 昔、ここで東京ゲームショーに客として参加していたな……
 流石に国内最大のホビーカルチャーの祭典に比べれば、年齢層も高い。肩がぶつかり合うような密度もなかった。しかし、業界に関わらなくとも聞いたことがあるようなメーカーには、やはり黒山の人だかりがある。出展のほとんどは日本の半導体メーカーではなく、国外の企業だった。一九九〇年代は、世界の半導体メーカーの売上トップ一〇の半分が日本企業だった。それが二〇一〇年代には一つか二つ、二〇年代にはランクにすら乗らなくなった。現在は有名企業のほとんどが吸収合併。米国、朝鮮連邦、中国、インドの「四強」となっていた。
 来場者の大半は中高年で、業界の関係者だということが見て取れた。一割にも満たない若年層は軒並み、これでもかと個性を削ぎ落としたスーツ姿に徹している。時期的に就職活動中だろうか。そろそろ決まっていなければ危ない時期。運が良ければ人事と繋がれると考えているのだろう。学生と思しき一団は、メモ帳片手に熱心に広報担当の話を聞いていた。聞かれる方も、二〇代前半の女子達に寄られて満更でもない様子だ。学生の方は片言の日本語を操る人間もいる。恐らくは留学生だろう。最後は互いの携帯端末で連絡先を交換したようで、双方の目的を達成。深いお辞儀をしながら、学生達が離れていく。
 俺もあんなことがあるのかな……
 青年は周囲を見渡す。はっきり言って、自社ブースは弱小勢力だった。六つあるホールの一つに、一次請け(元請け)はブースを置いている。が、二次請け(下請け)である自分達は隅っこも良い方で、壁際に押しやられていた。隣にはブースではなく黄色と黒の標識用虎ロープが張られ、遠くには清掃用ロッカーが鎮座。屋外への出入口付近にブースがあるため、来場者は通り道としてしか思っていないだろう。実際、商品ではなくトイレの位置に関する質問しかきていない。展示物も煌びやかな液晶ディスプレイではなく、主に通信分野での電子部品や半導体関連の製品しかない。専門家でもない限り、一般人には何の部品が置かれているのか分からないだろう。これは自社製品のアピールではなく、まずは認知度向上——そして何より、一番の問題点である「若年層の人手不足」を勧誘で解消したいのが狙いだった。
「GPSとかWiFiが使えれば、中身なんかどうでも良いだろ」
 結婚指輪を付け直しながら戻ってきた広報担当の上司は、スマートフォン片手に「可愛い子あんまりいなかったわ」と吐き捨てた。ただし、その割には連絡先交換に使用したであろう通信アプリを操作し、素早くメッセージを入力していた。
「妊婦の嫁さんにバレたら健康に悪いからさ、お前に教えて貰っためちゃくちゃセキュリティの高いアプリ、早速使ってるよ」
 そういうことよくやるよな……
 青年は営業部から派遣されてきたこの人物を好かなかった。一見、短く刈り上げた色黒な風貌はフットワークの軽い営業マンを思わせるが、軽いのは口や腰の方だった。
「あれは、社内外で業務連絡できるように技術部が作ったんですが……」
「ていうか、お前も休憩がてら飲み物かなんか買って来いよ。俺ミネラルウォーター。肌に悪くないから」
 なら、なんで日焼けサロンに行くんだ?
「あの、お金は……?」
「会社戻ったら返すわ。親父の会社なんだから、返さないってことはないから安心しろよ」
 青年は不満を押し殺し、顔に出ないように努めた。
 まあ良いや、似たようなことは良くあるし……
 出入口に進もうと背中を向けた時、珍しく見物人が現れた。くたびれたジャンパーとジーンズを着た高齢の男性で、奥さんと見られる同世代の女性に手を引かれている。
「若いの、『半導体』ってなんだ?」
 上司は夫婦を一瞥。興味無さそうに答える。
「車とかパソコンで使ってるパーツのことですよ」
 素っ気ない回答に、男性は口の端に皮肉な笑みを浮かべた。
「そういうことじゃないよ、あんた知識ないね」
 青年は上司と目が合った。『お前が教えろ』と、顎で指示を出す。その表情には青年のような我慢は一切なかった。
 この人、業界人だったのかな。今は退職者か? 時間潰しに後輩を試そうとしているのか。
「半導体というのは、素材とする物質によって電気を通したり通さなかったりする物体です。電気を通す導体と、通さない不導体(絶縁体)の中間に位置します。素材はシリコンが有名で、ダイヤモンドもあります。電車、電気自動車、充電器などでも使われています。世界的には米国のカリフォルニア州サンタクララバレーに有名な半導体メーカーが密集しています。地形が渓谷(バレー)なので、『シリコンバレー』として有名です」
「今はテキサス州オースティンに移転しているよ。税制優遇措置と、コロナ対策での過度な規制が原因だ」
 予想はしていたけど、揚げ足取りか。取り敢えず、満足させたから良いか……
 青年がその場を去ろうとすると、老人は誰に言うともなく語りかけてきた。
「昔、青色発光(LED)ダイオードの研究をしていたんだ」
 まだ続くのか。「ダイオード」って確か、電光掲示板とか電子機器の液晶に使われている部品だろう?
 一瞬、逃げようかと思ったが、青年は老人に対して僅かに同情の念を抱いていた。一般には理解されない分野で孤独を感じるのは、何も年齢によるものだけではない。もしかしたら目の前にいる人物は、いつか訪れる未来の自分なのかも知れない。
「青色LEDは、なかなか開発されなかったと専門学校で聞きました」
「素材となる半導体が見付からなかった。赤とか緑はあったんだ。ただ、見付けた後が大変だった。発明した研究者に会社が大した報酬を支払わず、四年の裁判の結果、負け同然の六億円で和解したんだ。本人の貢献度は五パーセントとされ、会社は数千億、市場価値は兆を超える利益を上げたのにな……二〇〇五年のことだ」
「その方達は今、どうされているんですか?」
「みんな、アメリカに連れていかれてノーベル賞をとっちまったよ。日本の研究者はみんな『スレイブ』だと言われてね。何年か前に国が半導体を国家事業に指定したが、手遅れだった」
 スレイブ。「奴隷」か……
 人混みに消えていく夫婦の背中を青年は見送る。見送りながら、中小企業の末端社員である自分が「社畜」と揶揄(やゆ)される現実を思い出す。下請けとして向かった、技術部としての取引先への謝罪。納期の遅れは確かに致命的。だが、無茶な仕様書やコストダウンで委託してくるのは、いつも先方(せんぽう)だ。注文部品の欠損や不足だってある。相手にいかに非があろうが、開封と同時に点検しなければ全てこちらのミス。それらに付随したサービス残業。もっと悲惨なのは中間マージンを抜かれて安い報酬でやらなければならない三次請け(孫請け)の方だ。
 一体、何度怒鳴られたことか……ところで、あの老人も自らを「開発者」だと言っていたが、仲間達と渡米はしなかったのだろうか? それとも、「俺はスレイブに甘んじた。お前達はどうだ?」ということを、伝達したかったのか。
「お前、よくそんなの知ってたな。技術部の奴らに女ができない理由が分かったわ」
 嘲(あざけ)りで若干の負け惜しみを隠すようなその台詞に、青年は自分の頬が引きつるを感じた。そして思わず、素で呟いてしまった。
「営業部が猿しかいない理由も分かったな……」
「何か言ったか?」
 普通だったら弁解するところだろう。頭を下げるところだろう。しかし、青年は運動とは無縁だったが、「喧嘩」と無縁だったわけではなかった。そんな一触即発の空気を壊したのは、異国の男女二名だった。
「初めまして、日本とイタリアで経営コンサルタントをしている『バッハ』と申します」
 青年も直射日光の入らない職場のせいで色白だったが、相手は人種から違っていた。流暢な日本語で「バッハ」と名乗った男性は、人当たりの良さそうな笑みを浮かべている。丸眼鏡を掛けた中年の白人男性だ。スーツを僅かに張らせた腹部を除けば、身長一七二センチである青年と背格好は変わらない。むしろ、隣に立っている女性の方が若干、上だ。
「ミカエラ・マルティニです。私と彼もイタリア人で、同じ営業を担当しています」
 雪のような白肌に映える長い金髪を持つ美人だった。ゲームでしか観たことがないような人種に、青年は思わず気後れする。
「初めまして、弊社の展示ブースで営業を担当している高本です。デジタル名刺で大丈夫ですか?」
 先程の老夫婦への態度が嘘のようにスマートフォンをかざした上司を見て、青年は慌てた。
「お、同じく説明の担当をさせて頂いております」
 バッハ氏と互いのスマートフォンを近付け、データ通信による名刺交換を済ませる。液晶に表示された質素なデザインには長い横文字の会社名と名前、連絡先が記載されていた。マルティニ氏と上司はこちらをそっちのけで、他愛ない話に興じ始める。
 イタリア——勝手に小麦色の肌を連想したけど、それは失礼に値するステレオタイプだったんだな。
 バッハ氏は柔和(にゅうわ)な表情で、「こちらこそ、よろしくお願いします」と微笑んだ。
「実は、マルティニと一緒に日本で半導体メーカー向けのコンサルタントをしようと考えています。そこで現場の方々のご意見を伺いたく、こちらへ来ました」
 バッハの訪問理由に、「そうなのですか」と相槌を打ちながらも、青年は思わず首を傾げたくなった。
 なら、人選も含め、場違いじゃないか? どうして大手企業ではなく、わざわざこんな端っこに構えるブースに来たんだろう?
 目の前の優しそうな好人物には訊きにくい。青年は横目で上司に助けを求める。しかし、「おいくつですか?」「二三歳になります」という鼻の伸び切った会話を目撃し、仕方なく諦めた。
 多分、日本に来て日が浅いか、調査不足なんだろう。確かに日本は技術大国だったイメージが強いからな。
 青年は純粋な親切心で、遠慮がちに申し出た。
「実は……弊社はブースを出展はしているのですが、半導体の先端企業かと言われると、ちょっと——」
「いいえ、あなた達にお願いしたい」
「え?」
「私達は現場の意見を重要視しています。良ければ、ご一緒にお食事でもどうでしょうか?」

 ◆

 都内の居酒屋は、日曜の夜ということもあって店員の動きがせわしなかった。
 ただし、それは引き戸を通した環境音としてしか伝わってこない。スーツの状態で青年達四名は、四人掛けの腰掛けソファのテーブル席を占領していた。ブースの中でアルコールと揚げ物を口に運びつつ談笑していると、青年は隣の上司に肩を叩かれる。
「もっと食えよ、ガリガリなんだからよ!」
 好きで痩せているわけじゃないんだけどな……
 酔いの回ってきた上司に愛想笑いを浮かべると、マルティニ氏がハリウッド女優顔負けの微笑を向けてくる。
「羨ましいです」
 そんなフォローに対し、青年は苦笑いを返す。
「女性ならそう思うかも知れませんね……」
 バッハ氏は会話には積極的に入らず、青年の前で野菜を少しずつ食べていた。野菜以外を箸で取る場面がないので、ベジタリアンなのかもしれない。
「このお店はどうですか、お気に召しましたか?」
 最初の挨拶以来、口を開かなかったバッハ氏の言葉に上司は陽気な表情で何度も頷く。
「最高ですね、職場の近くで、こう……なんというか高級感もありつつ質素な雰囲気の穴場を探してたんで。培養肉なのに味付けが上手いから、ガンガン食べれます」
「飲み過ぎてもホテルが近いので安心なんです」と、微笑むマルティニ氏。
「……へえ、それは良いこと聞いたなあ」
 下心丸出しの上司に、青年は目を背けた。そして、机の下で静かに薬指から指輪を外した光景が視界に入り、ため息も吐きたくなった。しかし、確かに雰囲気は良かった。穏やかな赤みが掛かった照明は、テーブルの上に適度に並んだ料理に暖かい光を与え、食欲をそそる効果がある。青年にとって嬉しかったのは、メニューを注文する液晶端末の他に小型のテレビが壁際に設置されていたことだ。社交性が足らず、話題作りに苦労する青年にとってはありがたいツールだった。
「日本には子供の時から住んでいるので」とマルティニ氏。
「へえ、それで日本語が上手いんですね。俺も子供の頃にハワイなら行ったことがありますよ」
 彼女は目線で青年にも話題を振ってきた。ビールを飲むのを中断し、青年は僅かに悩んだ後、正直に答える。
「自分は、ゲームばかりしていた思い出がありますね……」
「それは良いですね。私もゲームは大好きです、特にゲーム音楽が。日本産のゲームは良く売れていますね」
 本音か建前か、多少のリップサービスも込めてフォローしてくれたバッハ氏に、青年は好感を覚える。
 この人も好きなのか。でも優しそうだから、過激な描写とかがあるゲームはやらなそうだな。
 青年はそれ以上掘り下げることは止め、「昔は、ゲーム業界に入りたかったんですが……」とだけ伝えた。
「まだ二二歳で社会人三年目なら転職しろよ。根性ねえな」
 簡単に言うなよ。お前は親のコネ入社で就職活動もしてないだろう……!
 思わずそう口走りそうになってしまったが、青年はこらえた。上司とはそもそも世代が違う。頭の中に、就職活動での記憶が甦ってくる。
「やりたいことなんてどうせ見つからねえんだから、なるべく楽して生きてくのが正解なんだよ」
「在職中に考えられないほど、冷遇されているのですか?」とバッハ氏。
「いやあ、技術部は結構、ひどくて——」
 バッハ氏と上司のやり取りも耳に入らなかった。
 当時の怒りや不安が込み上げてきて、青年は上の空となる。
 元々、電子系で厳しい専門学校だったので遊ぶ時間はなかった。それでも就職活動の時期になると、それに輪をかけて自分の時間がなくなっていった。慣れないスーツに袖を通し、電車に揺られ、合同企業説明会へと向かう日々。
 似たような外見。似たような思想。似たような中身。
 一切の個性を廃した学生の一団に入り、会場への列に並ぶ。まるで有名な起業家や投資家のように振舞う壇上のリクルーター。その熱意に答えるように、一心不乱にメモや動画をとる就活生。青年はその光景をぼんやりと眺めながら、心のどこかで冷めていた。青年にとって壇上の人間は詐欺師だった。一〇代の何にも染まっていない真っ白なキャンバスを、情報商材というどす黒い絵の具で塗り潰す偽善者。家に帰って、学校や説明会で共有した就活生同士のグループ通信アプリでやり取りされるメッセージを見ても、何の感慨も浮かばない。専門学校だろうが一流大学だろうが、結局は横並びで「これ」をやらなければならないという現実になぜか納得がいかなかった。
 もちろん、そんな態度で採用されるはずがなかった。企業面接のグループディスカッションでも、何の役割も持たず、自己アピールもしなかった。いや、できなかった。仕事は「自分の時間を犠牲に労働をして対価を得る」という認識でしかなかったから。部屋に入る前にノックをして、わざわざ聞き耳を立ててから入るのすら、心のどこかで否定していた。自分自身が、それに疑問を覚えない大半の学生の一部だという事実にも嫌悪した。それでも枕元の携帯電話に着信やメッセージが届いていないか確認してしまう自分がいて、ますます自己嫌悪に陥った。同級生が次々と内定を貰っていくのを横目で眺め、余計に焦りも生じていた。
 何かないか、自分でもできるアピールは何か……
 ただがむしゃらに行動する前に、青年はそう考え始めた。そして、驚くほどあっさりと現在の会社に内定が決まった。採用理由は簡単だった。「技術」があったから。青年は面接で他の就活生と真逆の態度に出た。自分の能力でできることを列挙しただけだった。それ以上も以下もせず、志望理由で「自分のできることだけやります」という台詞を発した時は、周囲の志望者からは「終わったな」という目線で見られた。青年は開き直り、「どうせ今後も落ち続けるのだったら、自分のできることやできないことだけ言ったらどうなるのか?」という検証も含めて意に介さなかった。結果は、現在の職場で二年以上勤務することとなった。
「——そうですよ、理系ばかり冷遇しているんですよ。なあ?」
 唐突に肩を叩かれた青年は驚いて背筋を伸ばし、曖昧な頷きだけを何とか返した。
「お二人とも半導体エンジニアなのですか?」
 バッハ氏の質問に、上司は一気にバツが悪そうな顔になる。
「いえ、エンジニアはこっちですけど……」
「お若いのに素晴らしい——いえ、年齢で判断してはいけませんね」
 壁際のテレビにバッハ氏が目を向ける。ちょうどその時、『昨今の先進国における、若年層と移民によるテロ行為の急増』という報道内容についてメディアの話題が持ち切りとなっていた。かつて世界中で蔓延した呼吸器に異常をもたらす疫病も、大多数の感染とワクチン接種により、いつの間にか季節性の風邪扱いになった。報道も下火となったのだ。ただ、国外と比べて感染拡大が遅かった分、鎮火も緩慢だった。
 テレビ画面には『富裕層への攻撃が増加中?』というテロップで、実際に被害にあった有名芸能人がスタジオで語っていた。ただ富裕層どころか中間層ですらない青年にとっては、心情的には同情したくなるような内容だった。どうやら、派遣労働者の集団が生活手当も打ち切られ、都内の高級住宅街を軒並み襲撃したらしい。また、日本の三大重工業として有名な新井重工の若い社員が、東京湾に浮かんでいるのが発見された。「過労による自殺」という線で捜査を進めているようだ。最後は更に派手で、都内のコンクリート工場でガス爆発の騒ぎがあったらしい。近隣の住民から「爆竹のような音がする」という一一〇番通報があったらしい。警察の発表では、「外国人窃盗団の関与が濃厚」とのことだった。ネット上では、「昨今の若年層の過激思想は、自身の境遇を社会のせいにしているだけだ」と言い張るコメンテーターの見解が炎上とのことだった。
 そんな精神論じゃないだろう。九〇年代以降、先進国どころか二〇〇カ国中、四〇年以上も経済が停滞しているから、職や貧困による格差が……
「言葉狩りですよ! 最近の若いのは守られてばかりで。本当、治安も悪くなりましたよ」と、力説する上司。
 テレビ画面では「公安調査庁」という警察組織の一部が、犯罪グループのアジトに一斉に立ち入り検査をしに行く映像が流れていた。
「それだけ先進国との経済格差が広がったということなのですね」と、マルティニ氏が役者のように、いささか大袈裟に悲痛な表情を浮かべて同意する。が、表情筋やリアクションが自分の見知っている文化と違うせいで、そう見えてしまっただけかも知れないと青年は反省。残りの報道は、日本の首相がロシアの大統領と領土返還を交えた和平条約に向けて会談を進めているという内容。そして、かつて「自衛隊」と呼ばれていた日本国防軍の人員不足に関するものだった。特に海軍における船乗りの数が足りていないらしい。政治の中枢における内閣において、海軍のみ一部徴兵制すら検討されていたという事実が野党側にリークされたようだ。防衛大臣は「現状、陸軍からの人員移転や、兵器のスマート化という形で解決できる」と、世論やメディアの反発を抑えるための釈明会見を開き、報道陣に対応する与党の一場面が映し出されていた。不況と少子高齢化に喘ぐ先進国の社会情勢を真っ先に反映しているのは、もしかしたら軍隊なのかも知れない。
 青年の会社がブースを出した東展示棟で、産業関係の堅物な展示会が開かれるのも珍しい事例だった。ビッグサイトの中でも巨大な部類に入るスペースだったからだ。昨今のイベントスケジュールが埋まらないのを、見栄えだけでも誤魔化そうとする会場側の思惑もあったのかも知れない。
 政治的な空気を入れ替えるように、バッハ氏が専門的な分野へと話を振った。
「そう言えばあなた達のブースを訪ねる前、別のブースも見学していました。その際、貴社が半導体製造装置に市販されていない金属3Dプリンターを試験運用するということを聞きました。順調ですか?」
 ああ、あの巨大な箱型プリンターか。
 青年はビールで口を潤しながら、数カ月前に納入された製品を思い出した。
「あくまで元請けから供与してもらって、下請け企業がコスト削減のために実験しているだけなので……まだなんとも」
「そうだったのですか。日本では、『多重下請け構造』が昔から問題になっていますからね。私のコンサルも、管理マネージャーの推進などを行う予定です」
 価格交渉力がなく、永遠と中間マージンが吸い取られる下請けや孫請けの運命に青年も納得できない思いを抱えていた。そこに現れた3Dプリンターは革命だった。早い話、会社を持たなくとも個人で工場を持てるようなものだ。それで小規模なグループを作り未開拓の市場へと繰り出せば、先行者利益で大手との取引も夢ではないと考えていた。プリンターで製造できる種類も樹脂だけではない。年々増加している。金属3Dプリンターはその一つだった。
「3Dプリンターが少しでも役に立ってくれればと思っています。正直、自分が何次請けかは厳密には分からないものでして……自分も電子系の専門学校から、半導体メーカーだったら間違いないと思って就職しただけなので」
「まあ、それでも業界では有名な方だと思いますよ! 光半導体ってやつも取り扱ってるんで!」
 アルコールが回ってきたのか、上司は気が大きくなっているようだ。見栄を張りたいのだろう。顔と目が赤い。飲酒量は派手だが、体質的には酒に弱いのだろう。
「素晴らしいと思います。ぜひ、個人的にもお話をお訊きたいです」
 マルティニ氏は目を輝かせていた。青年はこの女性が本当に半導体製品に興味があるのか、単純に社交辞令して言っているのか分からなかった。
「じゃあ、個人的な連絡先でも交換しますか。親が会社の上の方にいるんで、色々面白い話も訊いてきますわ」
 一瞬、コンサルタントの両名が互いに目配せしたような気がしたが、青年もほろ酔いで細かいことは気にしなくなっていた。
 ちょっとがっつき過ぎってことかな? でも、一応は営業だからな。
「ぜひお願いします」
 上司とマルティニ氏が嬉々として携帯端末で連絡先交換を実施している間、青年はバッハ氏がテレビをこまめに確認していることに気付いた。多分、マルティニ氏と目配せしたのではなく、国外に関する報道を気にしていたのだろう。海外にルーツがあるなら当然だ。報道内容は青森県と北海道を結ぶ海底トンネル「青函(せいかん)トンネル」に新幹線だけではなく、一般車も通過できるよう工事を進めているというものだった。それと並行してロシアやアメリカの情勢に関するニュースも報じられていた。バッハ氏の奢りとなる目の前の料理に青年は箸を伸ばしつつ、キャスターの言葉に耳を傾ける。ひっそりと、国外から自分の現状を打破してくれるような労働基準が輸入されることを祈った。
《——大統領報道官によりますと、大統領の任期終了に合わせ、地盤沈下が問題視される辺野古(へのこ)基地から勝連(かつれん)基地に機能の移転が完了するとのことです……次のニュースです。米軍がテロリストを収容しているとされるグアンタナモ湾収容キャンプの閉鎖から数年が経過し——》

 ◆

「間違いなくイケる」
 真っ赤な顔と虚ろな瞳で、上司はにやりと頬を緩ませた。
「お前、『高本さんの体調悪そうだった』って、会社の方に伝えとけよ? 俺、この手、何回も使って信用ないんだわ。嫁さんには『展示会の片付けで会社に泊まる』って言ってあるから」
「……自分が言っても信じないかも知れませんよ?」
 青年は現在、トイレの小便器の前に立っていた。あれから直ぐに食事会は終わり、会計を終えたバッハ氏は自家用車で帰宅。上司はタクシーを予約し、マルティニ氏と業界について語り合うついでに飲み直すらしい。
「信じられるように言うのがお前の仕事だろ? できなかったら、俺に舐めた口を利いた件、技術部長に言うからな?」
「技術部長」という単語に、青年は何も言えなくなってしまう。
 田舎から初めて上京し、数年間はお世話になるであろう技術部の工業用クリーンルームを見た時、青年は唖然とした。鬱でスタッフは失踪。サービス残業は当たり前。土日働いた分の代休など使える日はなく、外国人エンジニアは受け入れではなく主戦力。無駄に学歴があり、技術もなく高給取りとなる国内の新卒は冷遇された。ほとんどは派遣社員であり、青年は正社員だった。ただ最近のトレンドで、安価なプリンター方式による半導体製造や、無茶な人件費削減による価格競争もある。正社員と言っても、固定給引き下げに抵抗すれば、整理解雇されるリスクもある。それは国内外でも例外ではない。海外で働けるエンジニア以外は皆、戦々恐々としていた。そんな技術部をまとめる禿げ上がった初老の男性が直属の上司であり、技術部長だった。
「ごめんね、みんなでもう少し頑張ろうね」という台詞が口癖の人で、どんなに理不尽な理由で元請けに謝りに行かせられても、「家族と社員のためだよ」と言ってひたすら耐えていた。また、休みを取り辛い雰囲気を壊し、青年のような新入社員でも代休が使えるように取り計らってくれていた。そんな部長にも最近、子供が生まれたらしい。産後で奥さんが体調不良らしく、その看病をしながらも久しぶりに職場で笑顔を覗かせていた。
 そんな「真の上司」に、余計な心労は掛けたくない。まるで人質に取られた気分だが、部長を営業部に謝りに行かせるくらいだったら、自分が耐えた方が良い。一人のクズがのうのうとサボるくらい、いくらでも耐えてやる。
「じゃあ、マルティニちゃんがタクシーで待ってるから行くわ」
 青年は仏頂面のまま、「分かりました」とだけ伝える。意気揚々とドアを開けて出て行く上司を見ながら、心の中でありとあらゆる理不尽さを呪った。トイレの仕切り板を蹴り上げる。幸いにも板が頑丈なのか、青年が貧弱なだけか、器物損壊の罪に問われる可能性はなさそうだった。
 ただ、洗面台に両手を付き、鏡に映った興奮する自分に、不満だけで今の仕事を打開できない自分に、青年は無言で問い掛けた。
 一体、いつまで働かないといけないのか?

 ◆

 コンサルタントとの食事会から数日後、青年はいつものように満員電車に揺られながらスーツで出勤していた。痴漢に間違われないように片手にバックパックを持ちながら。もう片方の手で吊り革を握る。最寄りの駅で車両から吐き出された後、会社の保有する工場へと向かう。工場のロッカールームで防塵服とマスクに身を包み、半導体基板を製造しているクリーンルームへと入室する。
 クリーンルームは様々な機械が並ぶ部屋だ。業務の規模にもよるが、半導体製造のほとんどはロボットによる自動化が進んでいる。人間がはんだ付けをするような精密作業が求められるのはごく一部だ。実際の作業は機械の操作や監視が主だった。青年は巨大な箱型装置の前に立つと、いつものように操作ディスプレイにタッチペンを当てていく。命令系統としてシーケンス制御が施されたタッチボタンを押し、装置に異常がないか点検。それらを終えると休憩の時間になった。しかし、青年は装置の中をぼんやりと覗き込んでいた。ロボットによる単純な機械労働を眺めていると、不思議と気持ちが落ち着いた。家電量販店で最新の電子機器に囲まれると妙にリラックスするが、それに似ていた。
 半導体の製造工程の総数は四百から六百工程だった。丸い手鏡から鏡部分だけ抜き出したような、「ウエハー」と呼ばれる鏡面が蜂の巣状になっている物体。それを電子機器に搭載する半導体チップに仕上げるのが最終工程だ。ウエハーの原材料はシリコンやダイヤモンド。ウエハーに「エッチング」という作業を加えることにより、基板として電気を流すことができる。そしてウエハーに細かい切れ込みを入れる「ダイジング」作業を実行し、そこからプラモデルのパーツを切り取るように大量の半導体チップを手に入れることが可能となる。そこからはパソコンなどの各種製品にICチップとして搭載、組み立てることによって各メーカーや顧客の手に渡るというのが一般的な流れだった。
「そろそろ休憩しよう」
 職場の先輩に肩を叩かれた青年は我に返ると、二人でクリーンルームを後にした。

 ◆

「お前に入れて貰ったアプリのせいで俺の携帯、壊れたかも知れない」
「え?」
 わざわざロッカールームまで来た営業部の上司は、「会社にいる時だけで良いから、携帯を貸して欲しい」と、防塵服のまま休憩中だった青年に嘆願してきた。他人に携帯電話を渡すのは正直、気が進まなかった。だが、アプリの件で自分の部署に苦情を入れられても困る。
「休憩時間だけなら大丈夫ですが……」
「ごめん、業務メッセージのやり取りだけやらせてもらうわ。履歴も全部削除しておくし、新しい携帯届くまでの一、二週間だけだから」
 妙に素直で申しわけなさそうなのが怪しかった。が、アプリを入れた際は青年も上司の携帯電話を操作しており、故障が事実ならば責任の一端を感じていた。アプリが原因で携帯が機能しなくなったのかは別として、可能性がないわけではない。それは電子関係の知識がある身としては、見過ごせないポイントだ。
「注意した方が良いぞ。工場内でもセクハラ問題で目立っている奴だよ、あいつは。借金で首が回らないって噂もあるし」
 防塵服とマスクを脱ぎつつ、先輩が耳元で囁いてくる。今度は携帯端末を人質に取られたような気分になった。
「短時間だし、電子決済ができないようにロック機能もあるから大丈夫かな、と……」
「流されないようにな。ろくなことにならないから……工場終わったら、飲みに行くか?」
「すみません、バイトで奨学金を返したいので……」
「今の時代は大変だな。でも、いくら半導体業界が海外の働き手と競争しているって言っても、同世代よりは貰っているだろう? そんなに奨学金ってやばいのか?」
「……貯金とかもしたいので」
「——まあ、俺もこれ以上、外国人労働者が幅を利かせてきたら、中国かインド、朝鮮連邦にでも行くかな」
 先輩は何かを察したように、冗談とも本気とも取れる発言を残してから喫煙所に向かっていった。

 ◆

 青年は電車に揺られた後、徒歩で都内の格安アパートに向かっていた。月明かりの下、線路脇の歩道を進んでいく。しばらくすると、お化け屋敷のような建物の前に到着。子供が暴れる叫び声が聞こえ、思わず溜め息を吐いた。
 築五〇年の木造二階建て。家賃一万五〇〇〇円。風呂はない。キッチン、洗濯機、便所は全て共用。エアコンはなし。上るたびに錆が崩れ落ちる階段を見ながら、そのうち老朽化で階段が抜け落ちるのではないかと青年は心配していた。近隣の部屋からは喧嘩の絶えない夫婦の生活音に赤ん坊の絶叫、出稼ぎ労働者や外国人留学生の喧騒が聞こえてくる。住人以外の人間も頻繁に出入りをしていた。お世辞にも治安が良いとは言えない環境。契約条件の一つには、「トラブルは住人同士で解決」という一文まであった。
 現在時刻、二三時三〇分。
 ポストに何も入っていないことを確認。部屋の鍵を開け、色落ちしたドアを開く。ドアの建て付けが悪く、閉める時は一度、上に持ち上げてから閉めなければ嵌まらない。青年はドアノブを掴み、勢いよく上に押し上げる。すると、ノブが外れた。
 階段より先に崩落するのは、この部屋かもしれないな……
 疲労で何も考えたくなかったので、ノブを玄関に置いて、ドアを押し込み、部屋の照明を点ける。間取りは四畳半ではなく、「約四畳」一間。スーツを脱ぎ、ハンガーに掛ける。背負っていたバックパックを、製造関係やCGクリエイターに関する書籍、そして小型のノートPCが置かれたテーブルの横に置く。電気ポッドの電源を入れ、部屋着兼パジャマに着替える前に、ベッドの上に置いてあったアルコール除菌シートを手に取り、身体中を拭く。日光に当たらず、運動もせずに食も細いせいか、筋肉はない。会社の健康診断でも体重は五二キロ。痩せることはあっても、増えることはなかった。
 壊れるのはどっちが先だろうな。
 バックパックの中から、バイト先のスーパーで買ったもやしとカップラーメンを取り出す。スマートフォンで動画サイトにアクセスし、適当な動画を観賞しながらお湯を注ぎ、それらを胃袋に詰め込む。ぼんやりしながら画面の右上を確認すると、既に日付が変わっていた。テレビはないが、国営放送の受信料を取られないようにしているわけではなかった。興味も金もないし、貯金したいという理由があった。食事も早々、片付けを済ませ、共用トイレで用を足す。ついでに歯磨きを終わらせ、洗面台に頭を突っ込み、覚悟を決めて蛇口を捻る。冷水が頭皮を痛めつけている間に、シャンプーを髪に擦り付けた。顔の脇を伝って、染みと赤錆だらけのシンクに泡と水が滴り落ちる。
 何回やっても寒すぎる……!
 適当に洗い流し、震えながら部屋に戻り、髪を乾かした後、青年は倒れるようにベッドに寝転んだ。いくらレイアウトに工夫を凝らしても、作業用のテーブルと椅子、服を掛ける小型のクローゼットが邪魔をして、ベッドでは真っ直ぐに足を伸ばせなかった。それでもここを選んだのは職場から三〇分以内という立地と家賃、コンビニやスーパーまで歩いて一〇分以内という好条件のためだった。
 明日は七時半起きで良いかな。
 自分が勝ち取った数少ない特権を行使するため、携帯端末の目覚まし時計機能をセットする。すると液晶に『母』という文字が浮かび、着信が鳴った。
 仕送りの件か、こんな時間に。
 青年は鬱屈した心情のまま、電話に出る。
《——あ、もしもし、まだ今月分のお金、振り込まれてないんだけど……》
 青年はその無遠慮さに、思わず頬が引きつる。
「電話じゃなくて、アプリでメッセージ送ってきてよ」
《だって、使い方が分からないから……》
 またか。
 もう何度目か分からないやり取りに、思わず声を張り上げる。
「じゃあ調べれば良いだろう? なんで自分から動かないんだよ、奨学金を払ったら送るよ!」
 勢い良く『通話終了』のボタンをタッチすると、隣の部屋から薄壁を殴り付ける音が聞こえた。
 こっちだって好きで怒鳴ったわけじゃない……!
「クソ——!」
 携帯電話を畳の上に投げつけるフォームを取った数秒後、青年は腕を下ろした。すると、木が折れるような嫌な音と共に、ベッドが一段下がる。急いでベッドから下りて、マットを剥がして確認。案の定、ベッドマットを支えていた中央の木枠が折れていた。
 確かにリサイクルショップで買った時、『壊れやすいです』という表記はあった。だけどこのボロさは……!
 叫ぶか、物に八つ当たりするかを考えた途端、感情とは真逆の生理反応が急に訪れた。眠気だ。退社した後、スーパーでも休みなく動いていた。自室に戻り、緊張が解けたせいだろう。青年は何もかもどうでも良くなり、大きく息を吐く。怒っても物事は進まない。自分の中のどす黒い炎を徐々に鎮火させ、静かにベッドに横になった。支えがない分、尻の部分だけが妙に落ち込む仕様となった。
 これ以上、自分の中で争っても不毛だ……
 ベッドの横に電話を放ると、そのまま目を瞑る。そして、怒りの原因に対して自分が放った言葉を反芻する。
『自分から動かない』
 そんなことを言う資格が、自分にあるのだろうか?
 学生生活から流されるままにここまで来たのは、いったい誰だろうか? 二二歳ならまだ大丈夫。きっとこのまま頑張っていればいつか転機が訪れる。日本経済も回復する。それまで耐えれば良い。頑張れば必ず良いことがあるはずだ。それに、自分は誰よりも疲れているんだ。責められる道理はない。こんな時間に毎日帰ってきたら、自分のことなんかできなくて当たり前。奨学金の返済だってある。それに、努力が報われない世界で良いはずがない。
 きっと誰かが助けてくれるはずだ。
 そんな言いわけを何度繰り返してきたことか。青年はスマートフォンを手に取り、動画投稿サイトにアクセス。ゲーム制作の現場を取材した動画を閲覧する。何度も見たシーンだったが、問題が次々と発生する環境でもクオリティーアップに励むスタッフ達にシンパシーを感じていた。ついでに、お坊さんの修行の映像も見て落ち着いた。このくらい頑張っている人達がいるなら、自分もまだ頑張れる。青年はいつの日か、一生懸命貯金して、勉強し、この輪に入ることができたら楽しいだろうなと夢想。そして、再び目を閉じた。隣の部屋からは薄壁を通し、幼い子供と母親の絶叫が聞こえる。反抗期なのだろう。「勉強しなければろくな大人にならない」という説教が届いてくる。
 勉強しても、頭でっかちになって動けない大人がここにいるよ——イヤホンでも付けて、そろそろ電気を消すかな。
 すると、唐突な来訪者によるノックが響いた。
「すみません、誰かいらっしゃいませんか?」
 よく通る高めの男性の声。青年が起きて玄関の前に立つと同時に、再度のノックでドアが開いてしまった。相手はスーツの男の三人組。しかも全員、白いマスクを着用。玄関に置かれたノブを自分達で破壊してしまったと勘違いしたのか、勝手に開いてしまったドアに戸惑った様子だ。夜中に来訪する男三人に対し、青年はパジャマ姿の状態で警戒。携帯電話を握り締める。
 格好は小綺麗だし、強盗だったらスーツで来ないよな……?
 三人組の一人が誤解を解くように、懐から縦開きの黒い物体を遠慮がちに見せてきた。上に顔写真、下に「POLICE」と刻印された金色のバッジが革製の手帳にはめ込まれていた。
「渋谷署の者ですが、職場の高本さんのことでお聞きしたいことがあるので、署までご同行願えませんか?」
 こんな夜中に、しかも制服警官でもない……
「……本当に警察ですか?」
「はい。渋谷署に電話して、照会してもらっても構いません」
 そこまで言うなら。
 青年はスマートフォンで「渋谷警察署 電話番号」と検索し、通話。すると、目の前の人物は刑事として確かに在籍していた。

 ◆

「あの……明日は仕事なんですが、すぐ終わるんですか?」
 真っ黒な乗用車の車内で、青年は後部座席の右端に乗車していた。車内では、煙草とコーヒーを混ぜ合わせたかのような独特な異臭が漂っている。
「何時から仕事なの?」
 いきなりタメ口か……
 隣の男の言葉遣いに腹立たしさを感じながら、「八時半には始業しています」と伝えた。
「なら、大丈夫だよ」
 感情が込められていない返答に、青年は少し不安になる。車窓からは交通量の少ない都道を通過していることが分かった。タクシーを除き、他の車はほとんどいない。自分のことではないと知りつつも、過去に犯罪行為をしていないか青年は自問自答する。開けてきたアパートの自室も気になった。何か差し押さえられて、自分でも気付かない内にとんでもない物でも出てきたらどうすれば良いだろうか? 勝手に捜索しているのかどうかも訊きたかった。が、逆に怪しまれそうで言い出せない。
 スマートフォンでは、時刻が夜中の一時を過ぎようとしていた。今は助手席と隣に座っている二名に促されるまま、手頃な私服に着替え、乗車してしまったのだ。パトカーでもないのに、自分の右側のドアは開けることができないような構造になっていた。ただ、「警察」という国家権力の響きに抗えず、渋谷警察署まで連行される形となっている。
 会社に連絡しといた方が良いよな……というか、あの人、一体何をしたんだ? もしかして俺の携帯を使ったから、俺が事情聴取されることになったのか? マルティニって女性と何かやらかしたんじゃないのか? セクハラとか考えるだけで色々ありそうだ。
 青年は取り敢えず、携帯電話のメッセージアプリを開き、後輩に連絡を取ろうと考えた。夜中だが、さすがに遅刻や無断欠席扱いになるよりはマシだった。
「誰に連絡するの?」
 隣の男が目ざとく訊いていくる。
「会社に連絡しておこうと思って……」
「この時間はやってないんじゃないの?」
「はい、それで、後輩に連絡を——」
「どうして後輩なの? 当直とかいないの?」
 こういう問い詰める態度が普通なのか?
「当直は、いないですね……」
 青年は気まずくなり、メッセージを送信した後、電話には一切触れないようにするつもりだった。
 ——そうだ、ボイスレコーダーのアプリを入れて録音しておこう。
 青年は適当な無料アプリをインストールし、隣の刑事の目を盗みながら起動。充電が持つように、エコモードにして画面のバックライトも消灯する。
 よく悪質な事情聴取で、ありもしないことを認めさせる虚偽の自白をさせられたという話も聞くし、別に犯罪じゃないはずだ。
 そう思いつつ、自分が何か悪いことをしているような気分になり、誤魔化すつもりで訊ねた。
「高本さんって、何かあったんですか?」
「何かって?」
 苛々するな……
「事故とか犯罪ですよ」
「どうしてそう思うの?」
「こんな夜中に——」
 その時、助手席から「詳しくは署で話すので。もう到着します」と、務めて優しい声音で話し掛けられた。丁度良いタイミングで、頭上を覆う首都高速道路の真下を通過。『渋谷区 渋谷三丁目』という立て看板を左折し、コンクリート造りの建物へと緩やかに侵入していく。一〇階以上はある巨大なビルだ。恐らく、ここが渋谷警察署なのだろう。
 暖房の効く車内で冷静さと眠気を取り戻した青年は、たいしたことじゃない、素直に説明すれば良いと、自分に言い聞かせた。心にやましいことがなければ、堂々としていれば良い。まさかドラマのように無実の罪で裁かれることはないだろう。そうだとしても、きっと誰かが助けてくれるはずだ。
 しかし、無機質で温度を感じさせないその建造物が醸し出す、ありもしないことを断罪する不気味な城のような雰囲気に、青年は不安を覚え始めていた。

 ◆

 エレベーターで四階まで上昇すると、殺風景な廊下に出た。刑事達が働いている大部屋を通り過ぎ、いくつかある部屋の一つに案内される。頭上のドアプレートには『取調室』と書かれていた。その間、三人の男は苦労して捕らえた動物を逃がさないかの如く、青年に張り付いていた。取調室の明かりが点くと、中は真っ白に脱色したような色合いで五畳くらいの間取りだった。奥にはテーブルを挟んで向かい合う椅子が一組。手前の隅にもテーブルと椅子のセットが一つあった。
「庁舎管理規則なので、荷物をお預かりします」
 刑事の一人にそう言われた青年は、内心焦る。「荷物」の中には、間違いなく携帯電話も入っているはずだ。
「携帯もですか?」
「持っているものは全てです」
 正直、「庁舎管理規則」というものが自分にも適用されるかは分からない。分からないので、どう反論すれば良いのかも分からない。誤算まみれの計画は、青年の手から刑事へと移っていく財布、スマートフォンと共に破綻。唯一の味方が奪われたような感覚に青年は陥った。
 小型のボイスレコーダーを買っておいて、どこかに仕込めば良かった……
 変な後悔をしながら、青年は身体検査を受け、刑事と向かい合って座った。刑事が懐をまさぐって何かを取り出そうとしている間、『録音・撮影禁止』、『外部との連絡禁止』などの注意書きが周囲に貼られていることに気付く。ドラマで見るようなマジックミラーはない。ドアに小さい覗き窓があった。もしかしてそれかもしれない。青年の頭の中に、思わず「弁護士」という単語がよぎった。
「これ、逮捕令状ね」
 開口一番、目の前の刑事はそう告げる。
 一瞬、脳が思考停止。心臓が止まりかける。しかし次の瞬間には、高本のだろうと、自己解決。
 きっとそうだろう、そのはずだ。俺は何もしてないんだから、そうじゃなくちゃ困る。
 テーブルの上に置かれたタブレットの画面を青年は確認しようとする。すると、刑事はすぐにタブレットを引っ込めようとした。
「ちょっと……!」
 青年の言葉で刑事は渋々戻した。
 何なんだこいつは。
 青年は上から一字一句見逃さないように、電子令状に目を走らせた。
『逮捕状』——『通常逮捕』
『罪名』——『不正競争防止法違反』
『被疑者』——年齢、住居、職業、名前——
「俺の、名前……?」
 一瞬で、脳の回路がショートする。『上記の被疑事実により、被疑者を逮捕することを許可する』という最後の一文。そこで青年の動悸は最高潮に達し、眠気が吹っ飛んだ。鏡がなくても、今の自分の顔が死人のように青ざめていることが分かる。仕事、弁護士、裁判、刑務所、懲役——頭の中でありとあらゆる考えが巡り、思わず吐き気がした。
「この内容で裁判所から逮捕許可が出てるから、取り敢えず手錠掛けるね」
「え、ちょっと——」
 テーブルの上に置いた両手に、隣にいた刑事が手錠を掛けようとする。青年は思わず身を竦ませ、両手を引っ込める。すると、向かい側の刑事が目の色を変えて立ち上がった。
「おい、暴れんな!」
「逮捕される理由を教えて下さいよ!」
 テーブルの下に隠そうとした両手をごつい腕で掴まれる。今まで何人もの人間をこうして拘束してきたのか。背後から押さえ込まれ、そのままテーブルの下で手錠を掛けられた。
「理由は自分で分かってるだろう、もうおせえんだよ!」
 青年は頭に血が上りかけた。
「知らないから訊いて——」
「やましいことがあるから抵抗するんだろうが!」
 青年の遥か上をいく剣幕に、思わず口をつぐむ。確かに、青年は何もやましいことはしていなかった。
 それにしてもこいつら、聞く耳を持たないな……!
 手錠だけでなく、腰回りをロープで椅子の背もたれと一緒に巻かれ、固定された。手錠は腰に縛り付けられたロープに繋げられ、腕の自由が利かなくなる。さすがに警察に手を出してこの場を逃れるつもりも力もない。が、理不尽な展開に息が荒くなる。脱走を企てるつもりはないが、この時ほど自分の細腕を後悔した時はなかった。
 さすがに、こっちの事情を説明すれば何とかなるだろう。もしかしたら、この刑事達も何か勘違いをして逮捕したのかもしれないし、例の営業マンについても色々と訊かないといけない。
「先に経歴の確認だけしますが、よろしいでしょうか?」
 三人の刑事とは別に、いつの間にか入室してきた白いマスクの女性が訊ねてくる。先程と打って変わり、柔らかな物腰に青年はつい頷いてしまった。
 ここは一旦、冷静になろう。まだ事情聴取が始まったわけでもないし、刑務所に入ると決まったわけでもない。
 反抗的な態度を見せた時に鎮圧するためか、刑事三人はテーブルの脇で仁王立ちし、青年を見下ろしてくる。なぜアパートで逮捕状を見せなかったのか、青年は理解した。逃走防止だ。パトカーでこなかったのも警戒心を抱かせないため。車内での会話がはぐらかされたり、携帯電話の取り扱いに言及したのも、抵抗や証拠隠滅を防ぐためだろう。思えばアパートに来た際、ドア越しに「警察だ」と名乗らなかったのも同じ理由なのかもしれない。その巧妙さと理不尽極まりない国家権力に対して青年は怒りを覚え、奥歯を噛み締めた。スーツを着た四〇代くらいの女性は、持ち込んだ何枚かの用紙を確認。その後、三人組を見上げる。すると、全員がどこか納得いかない表情で部屋から出て行き、ドアを閉めた。
 この人が取調べ担当ってことか?
 てっきり刑事ドラマのような自白の強要をされると考えていた青年は、身構えていた気持ちを少し緩和させる。すると先程の質問は、あの三人に対するものだったのか。
「現在はおいくつですか?」
 目線を合わせず、ペーパーを見下ろしながらの質問。
「……二三歳です」
「お住まいは?」
「都内です」
「交友関係は?」
「地元に友達がいます。近くにはいません」
 女性は手元の用紙に何かを書き込みながら続ける。
「通話アプリ以外のSNSはやっていますか?」
「いいえ」
「珍しいですね——日本人以外との付き合いは?」
 そう言われて、イタリア人の二人が脳裏をよぎる。
「仕事関係なら」
「家族ぐるみの付き合いや、友人関係ではないということですか?」
「はい」
「小中高は一貫して地元の公立校で、専門学校から東京に?」
「そうです」
「兄弟姉妹はなし。卒業後から現在まで今の会社で?」
 青年が頷くと、女性は別の用紙に差し替えて目を通す。青年も内容を確認したかった。が、片手で持ちながら読み上げているせいで、こちらからは見えなかった。
「お付き合いしている方は?」
「いません」
「——お母様は海外旅行に行かれましたか?」
 過去を思い出しながら、青年は肯定。
「確か、朝鮮連邦の方に……」
「一人での観光ですか?」
「そうだと思います。韓国ドラマが好きみたいなので、ツアーで行っていた気がします」
「お父様とは再婚関係のようですが、仲は良いですか?」
 下調べしてから質問してきているな、これは。
 青年は警察に身元を調査される気味の悪さを実感。そして実家に帰った時の父親との交流を思い出し、「いいえ」とだけコメントする。
「学業や仕事に関することが原因でしょうか?」
 なんでそんなこと知りたいんだ?
 青年は警察側の意図を図りかねていた。高本が携帯電話で何かをやらかし、自分がその巻き添えを食らったという予想は立てている。『不正競争防止法違反』ということは、企業秘密を部外に漏らした、ということだろうか。
 いや、今はそれよりも——
 青年は父親の口から、「恥ずかしくない名前の学校と企業に行け」という言葉しか聞いたことがなかった。
「……世代や価値観の違いですかね」
 愚痴っぽい呟きに、女性はちらりとこちらを一瞥。すぐに用紙に視線を戻した。
「パチンコやギャンブルはしますか?」
「自分はしません」
「ご家族で好きな人は?」
「……」
「お母様は?」
 その言葉で、「家族で賭け事が好きな人は?」という意味かと、青年は考え直した。
「母親はパチンコ好きですね」
「ご自身の借財は?」
「ありません——いや、奨学金があります」
「その上で仕送りをされていますね? 金銭的に困ってはないですか?」
 ……だから何なんだ?
 家庭の事情に無遠慮に突っ込んでくる取調べに対し、青年は意地を張る。
「特には」
「好きな食べ物や飲み物は? 炭酸飲料とかですか?」
「好きですけど、これが事情聴取なんですか?」
 思わずそう訊いた青年の前で、女性は立ち上がる。
「緊張をほぐすための決まりきった手順のようなものです」
 女性は無表情のままドアの方へと歩き、壁に設置された内線電話の受話器を取り上げ、何かを伝える。すると、すぐにマスクとスーツ姿の男女が一組、入室してきた。
「指紋と写真を撮るので移動します。鑑識の人の誘導に従って下さい」
 取調べ担当の女性がそう言うと、鑑識係であろう男女が椅子のロープを外してくれた。さっきの経歴確認はなんだったのか。ただしロープは完全には外されず、腰の位置で巻き直された。犬のように腰縄を持たれ、男性に促されるまま青年は廊下に出る。
 はたから見れば完全に犯罪者だな……これは。
 何もない廊下を歩かされ、『撮影室』とドアプレートに明記された部屋に入室。そこは取調室より広い部屋だった。室内は仕切りで二分割されており、片方には映画で使うような小道具や人形が集積されていた。
「指紋採取をする機械に指を一本ずつ押し当てて下さい」
 テーブルの前に青年は着席。そこには箱型の装置が置かれていた。原稿カバーの無い業務用プリンターが、ティッシュ箱のサイズまで縮んだような機械だ。
 何もしていないのに指紋を差し出すのはな……
 青年は猜疑心の塊のようになっていた。
「これは拒否できないんですか?」
「指紋採取と三面写真は拒否できません」
 一体、何の権限があって強制させることができるんだ?
 知識が無い青年は、反論すらできない。
「じゃあ、何だったら拒否できるんですか?」
「DNA採取などですね。これは任意で、強制するには令状が必要なので」
 思いのほか、鑑識担当は丁寧に教えてくれた。
 これ以上煩わせたら、本当に味方がいなくなってしまうかもしれない。
 そんな一抹の不安を覚え、青年は手錠を掛けられた状態で人差し指を、緑色のバックライトで光るガラス面に置いた。すると隣に立っていた男性の鑑識官が指を上から押してきた。
 今更、逃げるつもりはないけどな。
 腹立たしさを覚えながら、左右全ての指をデジタルスキャンされる。一本ずつ採取されるたびに人権もむしり取られていく気がした。そんな中、「指紋採取機」という物珍しい機器に青年は興味を抱いた。技術畑としての悲しい性なのかもしれない。物心ついた頃から、色々な精密機器を手に取ったり、構造を知りたくなる知的欲求に駆られてしまう。青年にとっては癖のようなものだった。
「正面と真横、左斜め前から写真を撮るので姿勢を正して座って下さい」
 今度は、奥にある証明写真を撮るようなスペースに移動させられた。女性はデジタルカメラのシャッターボタンを何回か押した。気に入らない構図は許せないのか、カメラで撮った画像を逐一、確認しながら撮り続ける。
「それでは取調室に戻ります」
 来たか。
 青年は無実を晴らす死刑囚の気概で、男性鑑識官の誘導に従う。ここで上手く説明できなければ、恐らく本当の犯罪者になってしまう。青年は暗澹(あんたん)たる闘志を燃やした。同時に、どうして正面と左右の真横ではなかったのか気になった。
「どうして左斜め前から撮ったんですか?」
 目の前でドアを開けた女性に訊ねたつもりだったが、後ろで手綱を握っている男性が返答。
「人物の特徴が一番出やすい角度なんですよ」
 意外に気さくだった鑑識の二名と取調室に戻ると、そこには自分を連行した刑事が舞い戻っていた。手前の椅子にはその片割れの刑事も鎮座。テーブルの上でノートPCを開いて待機している。
「じゃあこれから取調べに入るから、全部正直に言えよ?」
 何なんだこいつの態度は。というか、さっきのは本当にただの経歴確認だったのか……
 お互いに着席すると、青年は手錠を外され、腰と椅子の背もたれをロープで巻かれる。鑑識の二名は退出。すると対面の刑事が喋り始める。
「供述拒否権について説明する。言いたくないことは黙秘して良い権利だ。分かったか?」
 早速、行使してやろうか、と悩む台詞だったが、青年は素直に「はい」と頷く。
「それで、この逮捕状に間違いはないな?」
 最初から決め付けるなよ。
 青年は机の上で自分に向けられた逮捕状と、その横に並べられた『被疑事実の要旨』というA4サイズの別紙を覗き込む。逮捕状の内容はひとまず置いておくことにした。一〇行程度の横文字にまとめられた『被疑事実』とやらを、見落としがないように青年は確認する。

『被疑者は、株式会社ジン・タイ(代表取締役 沖田隆文)営業部の高本隼士(たかもとしゅんじ)に対し、二月二十八日午前一二時〇五分から同年三月二十三日午前一二時五十八分まで、社内において六回にわたり自身の携帯端末を貸与、米国ABAT社の次世代立体印刷機に関する設計技術等の情報を駐日ロシア連邦通商代表部の外交官に提供し、前記、株式会社ジン・タイ(代表取締役 沖田隆文)及び営業部の高本隼士に対して著しい損害を与え、並びに米国ABAT社の企業秘密を漏洩した疑い』

「何だ、これ」
 思わず、そんな台詞が漏れた。青年は頭を抱えたくなった。口の中が乾き、身体が傾きそうになる。前半の文である『携帯端末の貸与』は分かる。しかし、その先の展開は自分が予想していたものと全く異なっていた。
 米国の『ABAT社』とは、世界の半導体メーカーの売上高で長年トップに君臨し続けている企業。しかし、籍を置いているジン・タイどころか元請けの会社さえ、そんな大企業とは無縁のはずだ。『次世代立体印刷機』とは、恐らく元請けから供与されたあの金属3Dプリンターのことだろう。高本が被害者のように書かれているのは、俺の携帯を利用して証拠を残したくなかったから。しかし現実は上手くはいかず、警察に察知され、苦し紛れに俺のせいに仕立て上げた。それが今の状況に繋がったのだろう。ただ、『ロシアの外交官』というのは一体なんなのか。仮に情報が流れていたとしても、それはイタリア——
 全てを読み終えた青年は、そこで固まった。
「ロシア」「米国」「情報漏洩」「企業秘密」——それらワードが繋がり、捻じれ、たった一つの単語、可能性に変換される。青年は口が開きっぱなしになり、意図せず呟いた。
「産業スパイ……?」
「内容に間違いはないな?」
 刑事はドアの近くでノートPCと向き合う仲間に合図を送る。書類作成担当なのか、キーボードを叩き始めた。しかし、頭が真っ白になり、急に罪悪感が湧いてきた青年の耳には何も届かない。事実無根の罪を晴らすつもりが、一気に犯罪の片棒を担がされた気分だった。椅子に腰を下ろしていることも忘れ、足元から力が抜け、一気に体勢が崩れ落ちそうになる。背筋が凍り、脇の下から汗が流れた。
 ただ、しばらく目が点になり、呼吸も忘れて身体機能が脳だけに集中すると、逆に思考回路が働き始めた。そして過去の記憶がフラッシュバックする。
 確かに、あのイタリア人のバッハが接触してきた時点で違和感はあった。ヨーロッパなど欧米圏の人種を日頃から見慣れているわけではない。それでも、多少の知識がある人間からすればイタリアはローマ人、ロシアはスラブ人と民族的に考える。肌の色、ステレオタイプなイメージなど何となく疑問は芽生えていた。欧米圏の人間が見れば一目瞭然らしいが、逆に向こうからすればアジア人の中で日本人と中国人の見分けがつかないのと同じだ。そこが相手にとっては付け入る隙となったのだろう。「コンサルタント」という身分も本当かどうか怪しいものだ。相手の会社に直接、連絡を取ったわけでもない。だとしても、ロシアの外交官なんて身分が分かるわけもないが。
 マルティニという美人も、いわゆる「ハニートラップ」として異性関係にだらしない高本を狙い撃ちにした可能性がある。トイレで別れた後、何があったのかは知らない。弱みを握られたか何らかの見返り、もしくは完全に懐柔されたか。そう考えれば、バッハはそういった欲に感心のない技術者対策か。なかなか理解されない努力に相槌をうち、共感を集めて協力関係を築いていくつもりだったのか。仕事が多忙だったので、その後の誘いを全て断っていた自分は脈なしとして高本に集中することにしたのだろう。言動と態度まで、全て事前に仕組まれていたのだ。
 そして高本。意地汚い性格からか、それとも自称イタリア人コンサルタント達の入れ知恵なのか、他人の携帯端末を利用し、3Dプリンターに関する企業秘密を送信。自分の犯行だと分からないようにするためだ。後で強制もしくは無関係を言い張り、身代わりを作って責任逃れする作戦だ。そしてその被害者はまんまと引っ掛かり、囚われの身となった。
 分からないのは、そんな重要なプリンターがなぜあの会社にあったのか。そして高本とイタリア人コンサルタントと偽ったロシア外交官二名の所在。この二つだ。高本がどうやってプリンターの情報を入手したのかは想像がついた。恐らく、親のコネを利用したのだろう。
 自分でも分かるくらい顔面蒼白の青年は、何とか気を落ち着かせた。頭の中に「黙秘権」、「弁護士」といったワードが飛び出してくる。
 ここで一つ残らず弁解しなければ、本当に刑務所送りになるかもしれない。不正競争防止法違反がどれだけの法定刑を受けるのかは分からない。しかし、とにかく落ち着いて対話し、全てをありのまま伝えるしかない。元々、法に触れるようなことはやっていない。巻き込まれただけだ。そこは自信を持って良い。全てが悪い方向に行くわけがない。
 誰かどこかで助けてくれるタイミングがあるはず。そこまで耐えれば良いだけだ。
 青年は両膝を握った。書記係の刑事が部屋を出る。
「今から供述調書持ってきて貰うから、素直に認めろよ」
 強面(こわもて)の鬼刑事のような台詞を、目の前の男は吐いた。青年はそんな中年男の目を見据えて、はっきりと宣言する。
「俺は何もやっていません。高本が俺の携帯電話を勝手に使って、次世代立体印刷機の情報を漏洩したのだと思います」
 しかし、刑事はあくびをしながら「そう」と受け流した。耳の穴を指でほじりながら、腕時計で時間を確認する始末。
 ここで諦めたら人生が終わる。
 青年は覚悟して続ける。
「逮捕状には『ロシア外交官』とありますが、バッハという男と、マルティニという女がイタリア人のコンサルタントを名乗って、東京ビッグサイトで近付いてきました。身分を偽ったんだと思います。そこで高本はマルティニと親しくなり、後日、『携帯を貸して欲しい』と言ってきて、その時に貸しました。プリンターの機密情報は、会社のトップにいる親のコネを利用して手に入れたんだと思います。逮捕状の『ABAT社の企業秘密を漏洩』という部分は別として、『高本に対して損害を与え』、という一文はむしろ逆です」
 刑事がどこまでの情報を掴んでいるか分からないため、一語一句、丁寧にはっきりと伝えた。
「じゃあ、会社に損害を与えたっていう点では認めるってことね?」
 何でそこだけ食いつくんだよ。
 刑事はつくづく面倒臭いといった表情だった。きっと、日頃からこうした職務怠慢を繰り返しているのだ。最悪の勤務態度だが、青年は声を荒げることだけは回避した。
「……ビッグサイトや会社にも、監視カメラの映像があると思います。それと、高本とその外交官は、今は何をしているんですか? 高本から事情聴取をしたから、その逮捕状の文面になったとは思いますが、あいつの言っていることは全て間違いです。嘘発見器とかがあるなら、それに掛けた方が良いと思います」
「『防犯カメラ』の映像?」
 唯一の反応に、青年は「そうです」と前のめりに頷いた。
 事態が好転する突破口になり得るか。
 刑事は自分の手に何かをメモすると、「会社にもあるってことね……」と呟く。先程の刑事が、再び部屋に戻ってきた。刷り出した二枚のA4用紙を取調べ担当に見せ、しばらく二人で眺める。その後、蓋の無い朱肉入れと共に、青年に見えるように一枚、テーブルに置いた。そして所定の位置に戻る。
「じゃあこれに拇印(ぼいん)して。そしたら聴取も終わるし、今後の流れも説明できるよ。すぐに家にも帰れるから」
 今までの決め付けぶりが嘘のように柔和な笑みを浮かべ、穏やかな口振りで捺印(なついん)を促す目の前の刑事。青年はこの類の笑みが最近、自分に向けられたことを思い出す。バッハだ。『供述調書』と銘打たれた用紙を覗き込む。そこには、文書ファイルで作成された長いお役所の文書が書き綴られていた。が、簡単に要約すると——「全部お前のせい。異議申し立てしないことを誓い、ここにサインしろ」
「この内容で良いでしょ? 拇印押さないと話進まないから」
 青年は耳鳴りがして、顔を上げることができなかった。刑事二人が薄ら笑いを浮かべながらこちらを見ているのではないかと勝手に妄想した。
 ——こいつらは高本と同じような人種だ。一人でも多くの犯罪者を挙げて手柄にしたいのか、それは不明。だが、ひたすら自分達の言い分を押し通して、罪を認めさせることしか考えていないんだ。逮捕して、自白調書を書かせて、留置場に放り込み、あとは知らぬ存ぜぬを貫き通す流れ作業。事実か虚実かなんて関係ない。正義か不義かも関係ない。
 とにかく自白をさせれば良い。
 そんな態度に、青年は警察組織への失望を隠し切れなかった。やってもいないことを認める気はさらさらない。意を決して、口を開く。
「これには、サインできません……」
「あ?」
 頭の中に浮かんだのは、「自白の強要」という五文字。
「お前、一生終わるぞ? 会社もこのままじゃクビなんだよ、分かるか?」
 それは、最も危惧していること。
 昨今の不況やオートメーション化により、バイトですら採用が難しくなっている。例え二二歳だとしても、都内では厳しいだろう。だからと言って、田舎にとんぼ返りはしたくなかった。そして何よりこれ以上、理不尽なことで挫けたくない。それに不正競争防止法という名目なら、既に会社からは訴えられているということではないだろうか。事実は別として、良くは思っていないだろう。
「それでも俺はやっていません」
 向かいの刑事が口を開く前に、青年は書記係から妙に優しい声音で忠告を受ける。
「何にせよ関わっていることは事実でしょう? そこは認めようよ。調書も納得いくように書き直せるからさ」
「それならこの調書の用紙自体を変えて下さい。被疑者が一人称で全面的に罪を認めることが前提の書式じゃないですか」
「それは頭が——刑事訴訟法を知らない一般人がそのまま書くと裁判官が分かりにくいから、俺達が被疑者の意図を汲んで分かりやすく伝えるための書式なの」
 なんだ、それ。もっともらしく言っているが、警察に都合が良く、責任を取らないために作ったということじゃないか。
「書式は無理だからさ、認めるところだけ認めよう? まず、携帯は一カ月くらい前から何度も貸したよね?」
「……はい」
「相手が『なに』に使うかは知っていたわけだ」
「なに、というのは?」
「それは分かるでしょ?」
 誘導尋問して、言質(げんち)を取ろうとしているのか? 被疑者の口から言わせるために。
「——業務連絡ですか?」
「業務のデータを扱うことを知っていたなら、貸した時点である程度の予測はできたと思わない?」
 青年は口車に乗せられそうなった。が、視線を床に落とし、頭の中をクリアにしてから答えた。
「『企業秘密がロシアの外交官に送信される』ということですか? それは思いま——」
「それは今、どうでも良いよ。少なからず、会社の秘密が漏れるかもしれないということ。それは認めるでしょ?」
 新しい調書が、青年の眼前に置かれた。内容を簡潔にまとめると、「色々あったが、結果的に社が不利益を被ることをした。それを認めます」というもの。
 どうしてこっちの言い分は通らないんだ……
「いや、だから携帯を貸しただけであって、俺は巻き込まれただけなんです。データを送ったのも秘密を漏らしたのも高本っていう社員なんですよ。どうしてそれが分からないんですか? 俺の携帯電話を調べて下さい。そもそも高本はどこにいるんですか?」
「携帯に証拠があるの?」
「証拠は——」
『履歴も全部削除しておくし、新しい携帯届くまでの一、二週間だけだから』
 青年の脳裏をよぎったのは、技術部で高本から言われた台詞。
「証拠は……高本が逐一、消していたみたいですが、何とかしてデータ復旧すれば取り出せるかもしれません。高本の携帯やパソコンも調べれば何か分かると思います」
「今の携帯のデータ復旧さ、復旧会社でも基本無理なんだよね」
 そんな馬鹿な——いや、確かに一般的なPCのデータ復旧とは違い、難易度は高いとは聞く。が、警察が言って良い台詞ではない。
「高本はどこにいるんですか? あいつと話をさせて下さい。罪状の説明もして下さい」
「罪状は『社に不利益をもたらした』ってことだよ」
「誰が言ったんですか、高本ですか? なら話をさせて下さい」
「今は関係ないし、そういう権利もないんだよね」
「権利って……」
 もはや漫才の領域だ。全く話が通じない。
 脚本に沿うように、完全に向こうの筋書きに踊らされているだけ。青年はまともに反論する気力が削がれていくのを感じた。
「取り敢えず拇印してもらって、不競法とか容疑についても詳しいことは検察庁と裁判所で聞けるし、不服の申し立てをすれば大丈夫だからさ。裁判所なら弁護士も付き添うから」
 調書の右端の下、二カ所に記された『印』という文字を見ながら青年は訊ねる。
「……これにサインしたら、全てを認めたことになるんじゃないですか?」
「何かあれば、裁判所で言ってもらえれば大丈夫だから」
 供述調書については曖昧なまま、取調べ官は朱肉入れを寄せてきた。迫る黒い物体と共に、青年は不信感をより一層強める。「触れない、言わない」ということは、そういうことだろう。
 もう、この刑事達では話にならない。
「携帯電話を返して下さい」
 猫なで声だった強面が再び素に戻った。
「なんで?」
「家族に連絡したいので……」
「優しい刑事」役の書記係が答える。
「番号を教えてくれれば、こっちで電話できるよ」
「は? 今時、相手の電話番号なんて覚えているわけないじゃないですか?」
「ここ、持ち込み禁止だから」
「なら廊下で使わせて下さい」
「そんな権限ないから」
 ふざけんなよ。
「あなた達に、ですか?」
「……あ?」
「怖い刑事」役の取調べ担当官の額に、漫画のような青筋が走った。これも日頃の勤務の賜物で、すぐに出せるようにしているのだろうか。青年はなるべく平静を保つように心掛けていた。しかし頭の中では、思いつく限りの罵詈雑言が浮かんでは消えていた。それを口に出せば現状打破どころか、更に厳しい状況に追い込まれるだろう。
 もう、弁護士に頼るしかない。高額な着手金、依頼料を取られると聞くが、冤罪投獄など冗談じゃない。
「弁護士を呼ばせて下さい」
 対面の刑事はニヒルな笑みを浮かべた。
「日本は取調べに弁護士が立ち会えないから」
「じゃあどこで会えるんですか?」
「留置場」
 次々と塞がれていく出口。もはや日本中が自分を追い込んでいるのではないかという錯覚に青年は陥る。相手はこうした事情聴取の手練れ。無知な若者を捻り潰すなど造作もないだろう。
 逮捕された後に、逮捕された時のことを調べておけば良かったなんて、本末転倒だな……
「俺達も日本のために頑張ってるだけだからさ、恨まないでくれよ」
 指で軽く調書を叩かれ、サインを促される。青年は俯いて、堅く口を閉ざす。
 これ以上、話していても仕方がない……こっちの策がないのなら、「口は災いの元」だ。
 青年がだんまりを決め込むと、二人の刑事のため息が室内に響いた。

 ◆

「——黙秘権も事実に対して行使すると、初犯であっても裁判所でいきなり刑が確定することがあるからな。気を付けろよ?」
 眠い……
 あれから一体、何時間経ったのか。時間が分かる物は、取調べ官の趣味の悪い金の腕時計だけ。だが、青年からは見えなかった。脅し文句に対しても睡眠欲求が勝り、何の反応もできない。逮捕から取調べまで突然の出来事だった。が、よくよく考えれば仕事が終わってから一睡もしていない。椅子にじっと座っていると、さすがに眠気がぶり返してくる。しかし、「寝ている間、勝手に指を掴まれて拇印を押されるんじゃないか?」という強迫観念で、何とか意識を保つことができていた。
 取調べ担当官は小さいあくびを漏らすと、何度目になるか分からない「今後の説明」を持ち出す。
「良いか、逮捕された場合、七二時間はここにいることになるんだからな? そうでなくても四八時間以内にバスで検察庁に連れてかれて、そこで検事が『勾留の必要あり』と裁判所に言えば、一〇日間も留置場にいることになるんだぞ? そしたら仕事だって失うし、家族や友人の信頼もなくなる。社会的な信用もなくす。そうなる前に否認をやめて、正直に拇印を押すんだ。起訴されたら刑務所に行くかもしれないんだぞ? それに一〇日間勾留されても、こっちの判断でまた一〇日間、追加で勾留される可能性もある。全部失って、その上、二三日間も留置場なんかにいたくないだろう? こっちも仕事だからな。その間、毎日何時間もこういうのが続くんだぞ?」
 青年は半目で舟を漕ぎながら、呪文のような言葉に耳を傾ける。
 確かにそれは地獄だ。恐らく、まだ一日すら経っていない。寝不足というのもあるが、精神的にもかなり辛い。縛られているせいか脚を動かさないと、血流が悪くなってエコノミー症候群のように痺れてくる。そして恐らくは、ここから更に取調べの威圧を増して、あの手この手で拇印を迫ってくるのだろう。
「ここだけの話、一〇〇万円以下の罰金刑なら素直に認めれば、『略式命令請求』と言って、『裁判なし』だ。略式起訴になって、金だけ払えばすぐ終わるんだ。初犯ならチャンスだぞ?」
「それで、前科が付くんでしょう……?」
「法律上の定義に前科はないから。それよりここで否認し続けて、何もかも失って何年も刑務所に入るのとどっちが良いのよ? まだ若いんだろう、いくらでもやり直しは利くじゃねえか」
 一見、親身に接しているようだったが、言っていることはめちゃくちゃだった。一体、今まで何人の人間が虚偽の自白に追い込まれてきたのだろうか。人間が作った法制度がそこまで完璧でないことは、よほどの世間知らずでなければ分かる。しかしこれは余りにも酷すぎる。そしてよく考えれば帰宅後にすぐ接触してきたのも、思考能力が働かないうちに取調べを進めて「落とし」たかったという理由があるのかもしれない。考えれば考えるほど、青年は自分の馬鹿さ加減に腹が立った。公的機関を「正義の味方」だなんて勘違いしていた事実に。脚色された創作物をいかに信じていたか。そういう面では子供のまま大人になってしまっていた。
「はい、新しい調書」
 取調室に戻ってきた書記係がテーブルに用紙を置く。これも何度目になるか分からない行為。青年は今までと同じように覗き、同じように首を横に振った。
「留置場の準備だな、こりゃ」
 脅しも込めて言ったのだろう。一瞬、間が空く。
 ここよりはマシかもしれないな。
 青年が何の反応も示さないでいると、刑事は声を潜ませて訊ねてきた。
「……録音してないよな?」
 脅すなら最後まで脅せよ。
 とことん保身に走るその性根に、疲労困憊の青年は鼻で笑ってしまった。うつむきながら左右に首を振る。
 ボイスレコーダーがないのが悔やまれるな。
「お前……警察舐めとんのか? 証拠はあるんだぞ!」
「じゃあ冷静に話せよ、やましいことがあるから叫ぶんだろう……?」
 刑事は一瞬、黙り込んだ。
 組織の犬としてのプライドが傷付いたか。大体、こいつらは自分の名前も役職も言わず、何を偉そうに権力を振るっているのか。
 青年は次第にこの状況に慣れ、怒りに染まり始めていた。多分、自分達でも理不尽なことをしているという多少の自覚はあるのだろう。ただ民間人の報復を恐れているのか、身分を一切明かそうとしないその態度。供述調書の一方的な独白方式。青年はそれらに対してフラストレーションが溜まっていた。
「せめて名前と役職を教えて下さいよ」
「教えても意味ねえだろ」
「教えてくれたら拇印を押すかもしれませんよ?」
「そんな態度取ってるといつまでも帰れねえし、会社もクビになるって言ってんだよ!」
 その時、内線の電話機から呼び出し音が鳴った。舌打ちし、ぶつくさ言いながら刑事が電話に出る。すると、何やら電話越しで揉め始めた。苛立たしげに受話器を戻すと、書記係の男と相談を始める。その間に最初の経歴確認を担当した女性が入室。二人の男が退室すると、入れ替わりで青年の前に着席した。
「体調はどうですか?」
 唐突であり奇妙な質問に、青年は失笑。
「良さそうに見えますか?」
 顔を上げると、女性はドアの方を一瞥し、「無理もないですね」と同調した。
「マルティニとバッハは産業スパイではありません。科学技術の窃取(せっしゅ)を担当しているロシア対外情報庁の諜報員です」
 諜報員(ちょうほういん)……?
「外交官じゃないんですか?」
「外交官というのは、他国の情報を収集するという側面もあります。彼らは日本に対して工作活動をおこなうスパイ組織のエージェントだった、ということです。会社で上役(うわやく)の会議に出席したことは?」
 そんなの、平社員にあるわけがない。
 疲労と睡眠で混濁する意識を保つ意味でも、青年は首を真横に振る。
「幹部数名はロシア、中国の諜報員とのコネクションを築いているスパイです。大手企業は産業スパイに対する教育が行き届いている可能性があり、警戒される。それで取引先の中小を経由して技術を手に入れるつもりだったのでしょう。あなたの会社の元請けは、米国企業との合弁事業をおこなっていたようです。心当たりはありますか?」
 青年はそこで顔を上げた。中小企業である自分の会社から手に入れる技術といったら、一つしかない。「米国との合弁事業」という台詞でも、合点がいった。
「次世代3Dプリンター……」
「情報保全の教育は徹底されていないんですか?」
 真剣な女性の表情に対し、申しわけないと思いつつ、青年は皮肉交じりに回答。
「教育どころか、下請けに仕事や部品の情報すらこないなんてザラですよ……そのうち、M&A(吸収合併)で全部持ってかれるじゃないんですかね。珍しい話でもないですが」
 かつて展示会で出会った老人の背中を青年は思い出す。日本の衰退を目撃したであろう、あの老人との思い出も今は遠い過去の出来事のように感じられた。
「自殺した高本隼士も、携帯のメモ帳に似たようなメッセージを残していました」
「……自殺?」
 高本が死んだ?
「自殺にみせかけた他殺かは分かりませんが、次はあなたに接触してくる可能性があります。あなたの場合は技術があるので、そのまま利用するような呼びかけも——」
 話の大きさに現実味がなく、青年の耳に女性の声は届かなかった。一般人である青年からしたら、まるで実感が湧かない。そして——
「死んだって……じゃあ、俺は……」
「今回のような手法で、あなたの行き場を全て潰してから接触するつもりだったのかもしれません。マルティニとバッハが接触した時、プリンター以外のことを何か話していましたか? 先進技術に関することやメーカー、技術者、なんでも——」
「自分はただの一般人ですよ?」
「一般人だから狙われるんです」
 ドアが開く。現れたのは取調べ担当官の刑事と、むさ苦しい顔をした中年の制服警官二名。
 女性は振り返ると、若干、嫌味を含ませたような発言をする。
「もう終わったんですか? 随分早いですね」
 刑事も負けじと、青筋を立てながら苦言を吐いた。
「刑事課長か署長を通して下さいよ。もう登庁したんだから。留置場の準備の時だけって話でしょう? 人手不足って聞きましたけど、こっちだって同じなんですよ。ガサと令状と調書はうちで、検挙だけは公安(こうあん)がするつもりですか?」
「調書はできていませんし、自信があるようなので着手して頂いたんです。調べのレベルがここまで低いとは予想できませんでしたが」
「……まあ、今の台詞は聞かなかったことにしますよ——良し、じゃあここからは大人しくしろよ。独房にぶち込まれるんだからな。手荷物も回収しろよ」
 もはや罪人扱いだな……
「では、私はここで」
「公安」——公安警察か。
 単語名を聞いたことはあった。が、具体的な活動内容や、普通の警察と何が違うのかを青年は知らなかった。
 さっき言っていたスパイ関連の仕事なんだろう、きっと。
「警察官がみんなこうだとは思わないでね……」
「え?」
 公安の女性は青年に耳打ちすると、目を伏せたまま部屋から退室していった。

 ◆

 エレベーターで三階まで降りると、壁という壁、柵さえもクリーム色の留置場が目の前に現れた。
「良し、じゃあこのテーブルの上に衣服と持ち物を全部置け」
 縄を引かれると、青年は手錠とロープを外された。
 小汚い檻を想像していたけど、どちらかというと小綺麗な学校や病院みたいだな。
 手首を擦りながら訊ねる。
「……全裸になれってことですか?」
「そうだ、早くしろ」
 畜生……でも、とにかく今は眠い。あいつが死んだ今、一体、どうすれば良いっていうんだ?
 スマートフォンと財布を渡すと、クレジットカードから運転免許証まで、テーブルの上に並べられる。制服警官が何かの用紙に持ち物を一つずつ記録していた。
「歯ブラシとタオルと石鹸は有料だから、財布から一二五〇円抜いておくぞ」
 青年が衣服を脱いでいると、刑事は勝手に財布から紙幣と小銭を抜き去った。
 この理不尽さ、いちいち気にしていたら身が持たない。無視しないと。
「壁に両手の指一〇本、全部付けろ。両足を大きく開け」
 全裸になった青年が言われた通りにすると、祭りで着るような「はっぴ」に似た服を別の警官が羽織らせてくれた。尻の穴まで覗かれているのを感じ、僅かなプライドから羞恥を悟られないように青年は無表情を保つ。
「ここで体重と身長を測るから、台に乗れ」
 学校で使うような身長体重計に青年は身を預ける。
「まっすぐ立て!」
 立っているつもりなんだけどな。いつの間にか猫背になっていたのか。
 慣れた罵声に萎縮もせず、計測が終了。青年は渡された上下灰色のジャージを着た。再び手錠がはめられると、「お前は今から7番だ。今後はそれで呼び出されるんだから、元気良く返事しろよ」と刑事から忠告を受ける。
 ラッキーナンバーセブンか……
 青年がそんなことを考えていると、六畳一間の房まで案内される。そこには先客がいた。眼鏡をかけた初老の男性だ。檻の中、こちらに両手の平を向けて座禅のような姿勢をとり、畳の上で待機している。
 アパートの部屋よりは遥かに広いから、そこだけは確かに「ラッキー」か……

 ◆

 手錠とロープが外され、代わりに房の横開きドアがガシャンと閉められ、数秒が経過した頃。
「——朝までかかって、お疲れさまでした。だいぶ疲れたでしょう?」
 ごま塩頭を撫でながら、人好きのする微笑を浮かべた男性が訊いてきた。
 もう朝なのか……
 体育座りからあぐらに崩しつつ、青年は壁際から動かずに向き合った。
「何だか、いざ自由になると目が冴えてしまって……今後、どうしようかと」
「なら、しばらく喋りますか? そのうち眠くなると思いますよ。交通事故ですか? 誰でもやりますから」
「いえ、不正競争防止法違反らしくて……上司になすり付けられた形です」
「ああ……司法取引に利用されたかもしれないですね、元請けと下請けで。その上司も君も、『トカゲの尻尾切り』にされたとか? 社員が横領なんかしていたら検察とかがゆすって、そこから密告とか被害届もあるので。会社員なら逮捕の理由なんていくらでもありますよ」
 なるほど、スケープゴートか。俺も高本も、被害者だったということだ。結局、どんな時も黒幕は分からない。一つだけ言えるのは、優しかった上司は別として、あの会社を信用することは二度とないということだ。
 青年はこの状況を招いた自分の甘さと周囲に、つくづく嫌気が差していた。
「ところで、弁護士はこれから依頼するんですか?」
「弁護士」——その単語に青年は食いつく。
「そうです。でも、依頼料が払えるかどうか……」
「法テラスという制度もあるので、当番弁護士に訊くと良いですよ」
「『法テラス』?」
「無料で法律相談ができたり、逮捕後、勾留前に弁護士が依頼できるよう援助できる制度です」
 そんなものがあるのか……
「自分が逮捕されることもないし、罪を犯すこともない」——青年はそう考えていた。しかし、現に良く分からない罪状で逮捕されていた。もしこれが痴漢冤罪だった場合、どう対処していただろうか? 衆人環視の中で、駅員に連れていかれ、警察に引き渡された後に、あの尋問に等しい取調べを一カ月近く受ければ、精神的に参って虚偽の自白をする人もいるのではないだろうか?
「……お詳しいですね」
「まあ、私の罪状も二度目の『脱税』なので……だいぶ調べましたよ。ただ、結局は任せていたせいで、お金の流れが分からないというのが私自身の弁解です。確定申告だの保険料だのの金融関係は是非、義務教育でやって欲しかったですね。家庭科の中で済ませる科目じゃありませんよ」
「ついでに日本の司法制度も加えて欲しいですね」
「『人質司法マニュアル』っていう本を書いたら売れるかもしれませんね。歯ブラシと石鹸とシャンプーは有料。差し入れも不可能で一二五〇円勝手に抜き取られると」
 青年は久し振りに他人と笑い合った。しかし、それも房の外に聞こえないように配慮しながらだった。笑うと、少し元気が出てくる。例え目の前の相手が本当に犯罪者であっても、今だけは戦友のようなシンパシーを感じていた。
「悪いことをしなければ逮捕されないと思っていました……」
「虚偽告訴とかもあるから。被害届を出した人間が分かれば逆に訴訟できるけど、被害届なんて、裁判が始まらないと誰が出したか分からない。それに、そのまま不起訴で留置場から出されたら、何で逮捕されたか最後まで分かりません。警察の捜査の優先順位って一位がDV、二位が特殊詐欺、三位がタクシー強盗らしいよ」
「それ以降はなんですか?」
「テロとかスパイ」
 その単語に、青年は頭を抱えたくなった。どうやら運も悪いらしい。
「一番重要だと思うんですが……」
「世間に頑張っているアピールができないからさ。日本人って平和ボケしてるでしょ? まだ犯人って決まったわけじゃないのに。日本のマスコミの大半は警察のお抱えみたいなものだから、基本的に警察が悪いようには報道しない。無知な国民は簡単に騙される。オランダならゲーム機貸してくれるし、房の中も出入り自由ですよ。逮捕って『推定無罪の原則』なんだから」
 無知な国民。そこには間違いなく青年も入っていた。しかし、義務教育でやらない以上、差し迫った状況にならなければ、自分から学ぶ機会もほとんどないだろう。
「ところで、当番弁護士は呼びますか?」
「それって無料ですか?」
「初回の接見はね。費用は日本弁護士連合会がボランティアで負担しているそうです」
「そんなこと取調べで教えてもらえなかったので……」
「『弁護士を呼ぶ権利はある。ただし留置場に入ってから』——それが日本の『人質司法』ですよ。憲法に黙秘権と弁護士を選ぶ権利がありますが、それの告知もしません。『知らないお前が悪い』で終わりです」
 人質司法。
 その言葉に青年が異常性を感じていると、「担当さん、ちょっと」と、房の外にいる警察官を初老の男性が呼んだ。
「『不在の場合は、必ず留守電メッセージも入れるように』と伝えて下さいね。出なければそれで終わりですから……」
 わざわざそんなことまで言わないといけないのか。もはや妨害工作じゃないか。
 近寄ってきた警察官に青年は言われた通り伝えると、相手は了承。手配するため、どこかへと消えていく。
「これからはどういう流れなのでしょうか?」
 いきなり理不尽な脱出ゲームに巻き込まれたような感覚の青年は、男性の言葉に集中した。
「多分、お昼ご飯を食べた後に当番弁護士と面会することになると思うので、それまではここで待機です。『接見禁止の処分』が下りていなければ、家族と面会することもできます。ただ容疑を否認していると処分が下りたり、面会時間が制限される場合もあります」
 青年は頭の中で、このような不測事態に自分の家族が対応できるか計算。結果、会いたいとは思わなかった。感情論で、むしろ状況を悪化させてしまいそうだ。それは自分のメンタルにも影響を及ぼしてしまうだろう。
「面会時間はどこの警察署も大体、祝日を除いた平日の九時から一七時です」
「じゃあ、社会人は一二時から一三時くらいまでしか会えないということですか?」
「いえ、その時間は基本的に接見禁止です。接見自体にも予約が必要で、時間も一五分くらいで留置係の立ち合いがあります。接見は一日一回まで。その間に現場検証があったり、署内や検察庁での取調べがあると会えません。差し入れも制限があります。人を傷付ける恐れのある物や食品は駄目です。現金は二万円くらいまでなら大丈夫です」
「まさか、それは弁護士もですか?」
「弁護士と被疑者は接見交通権で基本的に何回でも会えます。書類受け渡しや『宅下げ』と言って、被疑者の荷物を受け取ることもできます。警察の立ち合いもありません。ただし警察も捜査のためなら接見交通権に制約を加えることができます。そうすると、日時が指定されて自由に会うことは難しくなります」
 ここまで詳しい人と同房なのが幸いだ。
 法律の素人にとっては余りにも複雑怪奇なやり取りに、青年は更に不安になった。情けない疑問が浮かんだが、背に腹は代えられなかった。
「弁護士に会ったら、まずは何を伝えれば良いですかね?」
「本当に無実なら嘘を交えずに伝えることです。『それでもボクはやってない』みたいになりますけどね。その際に弁護士とのやり取り用のノートも渡されますよ」
 青年は、かつて学校教育の一環で視聴させられた痴漢冤罪がテーマの映画を思い出した。当時は小中学生だったのであまり内容は覚えていない。が、ハッピーエンドとは真逆の展開だった気がする。
「それとお金がなければ国選弁護士が無料で雇えます。ただ起訴後に動く場合があるので、自費で雇う私選弁護士がお勧めです。ピンキリですが、着手金と成功報酬を合わせても一〇〇万円は見積もった方が良いと思います」
 一〇〇万円。
 社会人になり、子供の時と比べてこれほど気軽に使えなくなった言葉はないだろう。青年は無駄遣いするタイプではなかった。が、貯金残高を考えて伏し目がちになる。
「貯金が……」
「まあ、起訴される確率も半々で、罰金も五〇万円以下だったら執行猶予がつくので……」
「不起訴になったらどうなるんですか?」
「警察が提出した被疑者に対する捜査書類を、検察が認めなかったことになります。留置場から解放されて終わりです。ただし本当に無実だったのか、証拠が足りないだけだったのかは不明です。おおやけに『自分は無実だった』と下手な発言もできません。揚げ足を取られ、再逮捕される可能性があるからです。もやもやとしながら一生、生きていくしかないんです」
「警察には何も言えないんですか?」
「国家賠償請求など逮捕理由に関する資料請求もありますが、起訴前でそれが認められる可能性はほとんどありません」
「でも不当に身柄を拘束していたんだし……」
「不当な拘束などは刑事補償などでまた別です」
「なら、起訴された場合は?」
「検察が許可したということなので、一カ月後の刑事裁判——つまり初公判と弁護と検察による審理期間を経た後、判決を待ちます」
「起訴されたら出れるんですか?」
「いいえ。判決が出るまで起訴後勾留(こうりゅう)となり、普通は出られません。取調べで余罪の追及もあるかもしれません」
「じゃあ、審理期間中も閉じ込められたままなんですか?」
「そうです。第一審の判決が出るまでの勾留期間は、地方も簡易裁判所も三カ月以内が五〇から八〇パーセントくらいみたいです。逆を言えば『保釈金を払わない』もしくは『保釈請求が通らない』人間の半数以上は、三カ月は出られないということです」
「保釈金っていくらくらい掛かるんですか?」
「一五〇万から三〇〇万くらいですね」
 青年は弁護士費用と合算し、ため息を漏らした。親が持っているとは思えないし、持っていたとしても「出す」のとはまた別の話だった。
「判決が出るまで『罪証隠滅(ざいしょういんめつ)のおそれ』——つまりは証拠隠滅や逃亡を防ぐため、一年間は不自由を強いられる可能性もあります」
 先の見えない戦いに駆り出されているような、気の遠くなる感覚に青年は陥った。
「起訴後は留置場から拘置所(こうちしょ)に身柄が移送されるので、否認し続ければ拘置所で一年ほど過ごします。警察から法務省の管轄に移るということです。捜査機関による自白の強要などを防ぐため、世界的には初めから拘置所で逮捕、勾留されるのが一般的ですが」
 男性は皮肉な笑みを浮かべた。
「日本で捕まった外国人が、この『おもてなし』に驚くのも無理はありません。一審で決まらなければ高等、最高裁と進みます。まあ、最高裁までは普通は——まさか、拇印は?」
 供述調書のことを言っているのだろう。青年は首を横に振る。
「良かった。検事にもよりますが、調書は検察が最も重要視します。良く分からずにサインして起訴されたら、九九パーセント有罪でしたよ?」
「え……」
 青年はぞっとして、思わず背筋が伸びた。顔から血の気が引いたのが分かる。拇印を押さなかったのは、単に意地を張っていたから。理詰めで判断したわけではなかった。もし取調べの冒頭で言葉巧みに誘導されてサインしていたら、今頃はどうなっていたのだろうか。
「もしかして……何か証拠となる物について話したりしましたか?」
 眼鏡の奥にある細目から逃れるように、青年は考える。
 ——そう言えば、刑事が「監視カメラ」を「防犯カメラ」と言い換えた時があったな……
「監視カメラの映像について話しましたね」
 男性はごま塩頭をかいた。
「無罪の証拠となるカメラの映像などは警察じゃなくて、弁護士に言わないと駄目ですね……」
「なぜですか?」
「裁判で君の無罪を主張する証拠に使えないからです」
「でも、警察は持っているんですよね?」
「先に回収して法廷で出せないようにする場合があります。警察は証拠を最初から全て開示するわけじゃない。確かに立証責任は検察官だから私達が無罪を証明する必要はないけど、現実問題として日本で無罪を勝ち取るには、被告側が弁護人と協力して立証するしかありません。覚醒剤を検出するため尿をすり替えたり、映像記録を『映りが悪かった』と言って提出しなかったケースもあります。取調べでアリバイを話したのなら、証人を別の場所で呼び出し、色々な方法で潰す可能性もあります。被疑者を有罪にするために何十年と培った技術が日本の警察にはあるので、例え信頼できる検察官の取調べを受けても、そのメモは内部文書として破棄されます。一応、証拠開示の対象となってはいますが、『メモを破棄せよ』という内部通達自体が非公表のもので、情報公開請求をかけても詳細は分かりません」
「そんな……」
 もはや警察と検察は完全な敵だ——いや、そうだ。彼らは立件して起訴させるのが仕事であり、功績となるのだろう。なら、判決は裁判所の仕事であり、真実を見極めることが仕事ではない。
 男性は房内の分厚い壁に寄り掛かりながら静かに続けた。
「日本の有罪率が高いのは、有罪ありきで起訴するからです。無罪判決は検察官などの昇進に関係するし、裁判官も退職金や天下り先を簡単には失いたくない。何より、その裁判官が足りない。都市部では一人で三〇〇件近い事件を処理しなければならないらしいです。もちろん有罪案件は一部の若い弁護士を除けば、弁護士も好んでやりません。冤罪でも必然的に有罪率は高くなる。警察の前では冷静に一貫して無実を主張し続け、弁護士の助言を受けることが何より大事です。何事も感情的になれば良い方向には進みません……」
 まるで自分自身に言い聞かせるような台詞は経験則から来ているのだと、青年は悟った。
「『逆転無罪』は幻想ですか……?」
「逆転無罪はほとんどありません。逆転有罪は多いですね。検察官はミスをすると左遷(させん)されます。ミスとは『無罪判決』のことです。検察官は自分が起訴した事件が無罪になると、控訴審議という会議で上級検察官に吊るし上げられます。自白は最も有利な証拠で、その次は検察官の起訴状です。多忙な検察官は実際に犯罪に手を染めた人間ばかりを日頃相手にします。『疑わしきは被告人の利益に』という言葉がありますが、それはその犯罪者達の中に本当に無実の人間が混ざっていた場合に備えての言葉です。しかし、現状の警察のやり方を見れば分かる通り、本当に無実の人間も有罪ありきで送検してしまうので、見極めることはほぼ不可能となっています」
 どん詰まりとも言うべき惨状に青年は閉口。すると、「……でも、こんなことになったのは国民の無関心が原因だと思います」と男性は続けた。
「変えようと努力する人を『自分の労力を使ってまでは助けたくない。手を汚したくない。でも功績にはあやかりたい』と口だけで応援する人間が多すぎる。自分で変え方を見つけ、考える力がないからです。それは結果的に、自分や大切な人をいざという時に守れません。自分達で勝ち取ったものではないので、そもそも日本人は民主主義を知らないという戦後日本の背景もあるでしょう。被害を受けた人は厳罰化を求めます。でも無実の罪で逮捕、勾留、起訴された人は人権を求める。それがぶつかり合うのが司法です。でも日本の司法の問題点はそれとは全く無関係で、捜査機関の取調べが非人道的で、弁護士同伴ができない密室であり、検察も裁判官も互いに忖度(そんたく)が起こりやすい関係だということです」
「どうすれば良いんですかね……」
 男性は冷徹に言った。
「一向に進まない『取り調べの可視化』を責め立て、捜査機関に有利な日本の刑事訴訟法を改正し、偏向報道を国民が疑わないといけません。逮捕後はまるで犯罪確定みたいな扱いを受けて、精神的に参った後に一人称で書かれた供述調書にサインした瞬間、微罪だとしても前科持ちの人間になるのがほぼ確定します。しかも逮捕と違って不起訴処分は一切報道しないでしょう? 日本人は『推定無罪の原則』が根付いていないから、逮捕されれば悪人として顔と名前が晒される。冤罪は国家による犯罪ですが、それを放置する国民は共犯者で、自分に全て跳ね返ってきます。刑事訴訟法に嫌気が差して、検察官から弁護士になった『辞め検』もいます。組織にいると人や法としての正義ではなく、組織としての正義が優先される。組織に当初の正義感を壊されてしまった警察官もある意味、被害者です。刑事訴訟法は色々と問題がありますが最優先で解決すべきは、取調べに弁護士を同伴させないという『人質司法』を変えることです」
 男性の力のない自嘲を聞くだけで、青年は心労が募ってきた。たかだか二〇代の無知なガキ、いざとなれば虚偽の自白をさせるくらい造作もないだろう。頭を壁にもたれて、青年は怒りを滲ませながら呟く。
「あの取調べ担当……名前すら言わなかったからな」
「過酷な取調べで、警察官や刑務官の家族が被疑者からの報復で殺されたという話はあるので……」
 青年は思わず言ってしまった。
「あんな取調べなら、自業自得じゃないですか」
「……さっきの問題点を繰り返すのなら、悪いのは現場の人間ではなく、そういう組織作りや法整備が進んでいない時代遅れの制度や体質です」
「いっそのこと、捕まる前にできるだけ抵抗した方が良かったんですかね?」
「任意同行は拒否しても無駄です。被疑者の氏名などが分かっていれば、令状を裁判所に請求して一時間くらいで発行してくれます。それも紙の時代で、今は数分です。待っている間もその場で違法にならない程度に留め置きされるか、令状が届くまで追い掛けられて、署まで強制連行するんですよ」
「でも、逮捕状の請求を裁判所が却下する場合があるんじゃ——」
「確率は〇・一パーセントです」
 悔しくなり、青年は腕組みしながら考える。どこかに穴はないだろうか。取調べの際に刑事に言われた内容を思い返す。
 そう言えば、『追加勾留で二三日間も居たくねえだろ』って言っていたな……
「調書に署名せず、勾留期間いっぱいまで耐えるか、追加勾留がなければ出れるんじゃないですか?」
「裁判所は『勾留状の自動販売機』と言われています。基本的に隠れることが難しい著名人や、市民権を得た痴漢冤罪が考えられる案件でもない限り、九九・八パーセント勾留延長されます。二三日間耐えても、別の罪状で再逮捕する『別件逮捕』でまた勾留され、何度でも繰り返せます。話を聞く限りでは不正競争防止法というのも確定ではなく、横領に窃盗などその他の容疑で再逮捕はできると思います。不競法は『営業秘密の侵害』が一〇年以下の懲役か二〇〇〇万円以下の罰金刑だったと思うので、それ以外は五年以下の懲役か五百万円以下の罰金刑です。略式起訴はありません」
 そこで青年は刑事に言われた略式起訴について思い出し、唖然とする。
「不競法は略式起訴がないんですか? 取調べで『百万円以下ならあるぞ』って言われたので、てっきり不競法は百万円以下だと思っていましたよ?」
「……揚げ足取りになってしまいますが、『不競法に略式起訴がない』と言ってない以上、嘘は吐いてないと思います。略式ありとなしでは、相手が自白するかどうか変わってくると思うので」
「誘導尋問じゃないですか……!」
「ええ……それと、もう朝なので住居は差し押さえられていると思います。容疑を裏付ける証拠や別件逮捕に使えそうな物、裁判官が君に対する印象を悪くする『何か』があれば、既に回収されていると思います」
 今頃、取調室にいたような人種が俺の部屋を荒らしているということか。
 頭の中が真っ赤になるほどの怒りを感じる前に、青年は薄気味悪さを覚えた。同時に、法に触れるようなものがないか記憶をさかのぼる。
「変な物は置いてないと思ったけど……」
「差し押さえなら、『捜索差押許可状』という令状がなければ断れます。ただ君の場合は『逮捕に伴う捜索差押』だと思うから、差し押さえは断れなかったと思う」
「でも、逮捕状は連行されてから見せられましたよ?」
「最初から見せたら逃げられちゃいますからね。最初は任意で、抵抗したら逮捕状を見せて強制連行するのが定石です。取調室にさえ入れてしまえば、弁護士の入れ知恵を防いで私物も全て没収できますから」
「法的根拠はあるんですか?」
「庁舎管理規則を根拠としているようです。私も見たことはありませんが、省庁が運営する施設で特定の場所に立ち入る際は、映像機器などを持ち込むことができないんだと思います」
「逮捕されたり取調室に入る前に何とかするしかないですね」
「夜の逮捕は近隣住民への配慮のため、裁判所の特別の許可が下りなければ不可能です。大抵は朝方、日の出と共に逮捕します。寝起きは相手の思考能力も鈍っているので。我々にできることは車に乗せられる前に、弁護士や信頼できる人間にどこの警察署に連れて行かれるか伝えておくことです。警察に付いていくと、その時点で自己責任として裁判で不利になります。そして逮捕だろうがなんだろうがその場で弁護士を呼び、到着するまで捜査機関とは一切喋らない。それしかありません。家のドアを開けず、破られても今度はトイレに籠城し、電話で呼び出した弁護士と会話させます。それと、刑事事件を専門とする弁護士を呼ばないと意味がありません」
 そんな毅然とした態度で対応できるのか。青年は反論する。
「でも警察に来られると怖いし、初めての人は分からないですよね」
「ええ、この知識を知らない大半の人は絶対に勝てないゲームです。ですが、私達はもう違います。それに取調べ中に限らず、検察官や裁判官、警察官の暴言や暴行は『特別公務員暴行陵虐(りょうぎゃく)罪』という刑事罰に該当します。それを何とか録音や録画をして、弁護士に渡すことができれば管轄地である都道府県に賠償金支払い請求をする時に有利になりますし、刑事裁判になれば七年以下の懲役や禁錮刑となります。怪我があれば更に重くなりますが、『取調べの不可視化』が進んだこの国では立証が難しいですね」
 男性は僅かに身を乗り出し、青年の目を見据えてきた。
「とにかく、調書にサインしなければならない法律などありません。逮捕された以上、全ては弁護士に会ってからです」

 ◆

 これだけかよ。
 昼食の時間になり、房の配膳口から入れられたランチメニューを見て、青年は自分でも苦い顔をしているのが分かった。食パン四枚に紙パックの牛乳が一つだけでは、学校の給食よりも少ない。
「若年層や大食いの方には辛いですね……留置場の食事は薄味で、取調べの際には脳に栄養がいかずに思考能力が回らなくなるので」
「クソ……」
 テーブル代わりに渡された一畳分の古ゴザの上で、青年は良く噛みながら飲み込んでいく。なるべく満腹感を得るためだった。
「犯罪者でも何でもないのに……」
 学校給食のように、留置場のスピーカーからは優雅なクラシックが流れていた。それが余計に怒りを助長した。
「一応、昼食なら『自弁』と言って、お金を払えば弁当などを購入できますよ」
 留置場でも金かよ。
「それと、就寝時に房内の電気は『監視』という名目で消せないので、眩しいまま寝ることになります。取調べで寝ると、夜に眠れなくなるので注意した方が良いですよ」
「なら、タオルか何かで目を覆えば良いですかね?」
「いえ、反抗的な態度とみなされ、布団を没収されるか、懲罰(ちょうばつ)房に行かされるみたいです」
 青年は思わず笑いそうになってしまった。
「ここまで来ると拷問ですね」
「それを放置しているのが国民ですから」
「でも懲罰房が一人部屋なら、そっちの方が合う人もいるんじゃないですか?」
「懲罰房に行く際、拘束具で身体をグルグル巻きにされて房に放り込まれる場合もあるみたいです。巻き方は向こうのさじ加減なので、クラッシュ症候群で死んだ人もいます」
 一気に笑いが引っ込んだ。
「クラッシュ症候群……?」
「身体を長時間圧迫された後に解放されると、体内に溜まった毒素が血中に流れるらしいんですが、それがクラッシュ症候群症です。災害などで瓦礫の中から救助されても、数時間後にそれで死んでしまう人も多いとか。止血すると皮膚が紫色になっていくでしょう? でも血が通わなければ壊死してしまいますから、拘束具を巻かれたらただでは済まないと思います」
「徹底的に隷属した方が良さそうですね、この季節に布団の没収も壊死も嫌なので」
「布団のたたみ方が不十分でも没収されてしまうので、布団部屋に取りに行く時に教えますね。あと朝は6時起床後、番号で呼ばれて、雑巾とバケツで掃除しなければいけません。今は不在ですが、残りの三人が取調べから帰ってきたらまた紹介しますよ」
 青年がため息を吐きたくなった瞬間、外の担当警察官が「7番、弁護士が来たから開けるぞ」と房の施錠をいじり始めた。
「できれば、私選弁護士を雇うのを私はお勧めします」

 ◆

 私服に着替えると手錠をはめられ、二名の制服警察官にロープで引率された。署内のエレベーターで一階へと降りる。
 面会室って一階にあるのか?
「これから護送車に乗るから、逃げるなよ」
「え、当番弁護士と会うんじゃないんですか?」
「……予定が変わって、先に検察庁に行くことになったから。弁護士もそこにいる」
 そんなことあり得るのだろうか?
 青年は雲行きが怪しくなってきたことを感じた。恐らく表情にも出ているだろう。取調室に入る前に携帯電話を没収された時と同じだ。房内で情報収集して理論武装したはずが、再び丸裸にされてしまった。
 そのまま三人で警察署の前に出ると、陸橋を渡る通行人などの日常的な光景が眼前に広がった。良く晴れた日に浴びる陽光は、数時間ぶりに吸った外の空気と同じくらい心地良い。しかし青年は咄嗟に、自分の手元を隠したくなった。「俺は何もやっていない」——周囲の視線の主にそう叫びたかったが、そんなわけにもいかない。自然と拳に力が入った。すぐに気持ちを切り替える。
 なら、逆に堂々としていた方が良い。さっきの件も前向きに捉えれば良い。取調べや留置場の経験はできたが、検察庁は未知の領域。そこで弁護士がサポートしてくれるなら、むしろ心強い。
「これだよな?」「ああ」という引率警察官達の会話を聞きながら、警察署前の階段を下りる。署にはスモークガラスの白いバンが横付けされていた。バンの前まで連れて行かれると、助手席から白いマスクを付けたスーツ姿の人物が下車。取調室で会話した公安警察の女性だった。
 あれ、刑事は「バス」って言ってなかったっけ……?
「こちらにどうぞ」
 スライドドアが中から開くと、隣の警察官に乗車するよう促される。車内の後部座席には、女性と同じようにスーツとマスクを身に付けた中年男性二名が座っていた。怪しい雰囲気に青年が面食らっていると、ロープごと車内の人間に軽く引っ張られた。四列シートの一番奥、中央へと誘導され、着席。やけに暑い車内の暖気に、思わず顔をしかめる。青年の両隣を埋めるように男性二名も着席。助手席へ女性が乗車したのを合図に、ドライバーが緩やかに車を発進させた。
「手錠を出して下さい」
 右の男性に言われた通り、両手を持ち上げる。すると片方だけ外され、もう片方の腕にそのまま装着された。
「食べますか?」
 男性は座席の下から、コンビニのレジで売っているようなビニール袋を取り出す。中途半端に包装が破かれたおにぎりやサンドイッチといった軽食を青年の膝の上に並べた。炭酸飲料やスポーツドリンクといった味の濃い飲料水も取り出し、肘掛けにあるドリンクホルダーに入れていく。自分の分も買ったのか、まだ何本かビニール袋に入っているようだ。
「ゴミはこのビニール袋にそのまま入れるので」
 一体、どうなっているんだ……? 留置場までの態度は一体どこに——いや、この人達は「公安警察」であって、さっきみたいな人種とは違うのか?
 青年が怪訝な表情のまま微動だにしないと、「別件で他の警察署も回るので、到着するまで何時間か掛かりますから」と、今度は左の席から穏やかに言われた。
 ロシア人に騙されたことを思い出した青年は、警戒心を抱きつつ、冷静に訊ねた。
「これは検察庁に向かっているんですよね?」
「そうです」
「そこで弁護士にも会えるんですよね?」
「もちろんです。検事とも話すことになるので、食べ終わったら今のうちに眠っていた方が良いですよ」
「そう、ですか……」
「炭酸で良いですか? 僕も喉が渇いてしまって、空調が壊れて暖房が止まらないんですよ」
 男性はペットボトルのキャップを外し、まるで飲料水のCMのようにスポーツドリンクを飲み干していく——青年はその光景を、凝視してしまう。緊張状態が続いたが、牛乳しか飲んでいなかった。なおかつ、車内はうだるような暑さになっていく。それにもかかわらず、窓は開いていなかった。青年の口内では、辛い物を想像したかのように涎が湧き始めていた。
「——ああ、すみません」
 わざわざ炭酸飲料のキャップを開けてくれた男性は、青年の手に結露したペットボトルを握らせる。ほどよく冷えた感触が伝わってきた。手渡された物から視線を何とか外す。
「……バスじゃないんですね?」
「普通は護送車なんですけど、最近は台数不足で出払っちゃって。トイレは警察署で寄れるので、安心して下さい」
 苦笑いを浮かべる男性と、房内で親身にしてくれた好人物が重なる。そして、青年は頭の中にあるロシア人の顔と交互に思い浮かべる。人気者でもない人物に優しくしてくる人間は真の友人か、詐欺師しかいない。ただし、何でもむやみな反骨精神で身構えて敵を作るのは、得策ではない。だからと言って、味方がいるわけでは——
『警察官がみんなこうだとは思わないでね……』
 そう言えば、取調べで「好きな食べ物と飲み物」も訊かれた気がする。もしかして助手席の女性が……
 青年は考えた。少し考えて、結論を出した。
 ——そうだ、食事に毒が盛られているわけではない。捜査機関としてそんなことをするメリットはないし、人権侵害だとか違法とかそういう次元の話でもなくなる。だいたい、まだ犯人と決まったわけでもない。最近はこういう方針に変わったのかもしれないし……署内で編み出した戦術を思い出せ。物事を良い方向に捉えていかないと。
 前向きに。
 青年はペットボトルに口を付け、一気に傾けた。液体と炭酸が舌の上で弾ける。香料、カフェイン、酸味料といった原材料が身体の隅々まで染み渡り、一体となっていく感覚。喉を鳴らしながら流し込むと、口内と胃袋いっぱいに、甘くて刺激的な風味と旨味が広がった。久々の糖類に、脳や内臓まで歓喜しているような錯覚に陥る。
 おいしい……
 ボトルをホルダーに戻し、おにぎりの包装を破り捨てる。嬉しいことに、少し温かい。白米と具を口の中に押し込む。ツナとマヨネーズの塩辛さが、米特有の甘さを引き立たせていた。奥歯で噛むほど旨味が頬まで広がる。青年はすぐに完食して、サンドイッチに手を掛けた。
 多分、非現実的なことが連続したせいで、常に不信感を抱くようになっていたのだろう。睡眠や栄養不足もあって、まともな精神状態ではなかったのかもしれない。
 すっかり毒気を抜かれた青年は、シートに深く沈み、久し振りにリラックスしてみる。まともな食事にありつけた幸福感、満腹感もあるせいか、徐々に眠気が襲ってきた。良く考えれば、背もたれも絶妙な角度に設定されている。
 留置場でも寝てなかったんだから、眠くなるのは当たり前だ。さすがに検察庁では眠ることはできないだろうし、検事や弁護士と話をしなきゃならないんだから、ここで睡眠を取っておかないと……
 ペットボトルを再度開け、喉を潤し、控え目なあくびをした。食パンと牛乳、そして取調べの最中に出された病院食のような朝食のみだったので、濃厚な甘味がいつもより濃く感じた。青年は呼吸がしやすいように、目を閉じながらヘッドレストに置く頭の向きを調整する。
「空調が直りました。少し冷房を掛けておきます」
 前部座席からそんな台詞が聞こえ、隣の男性達も青年を挟み、「ああ、良かった」と小声で相槌を打っている。
 警察署とは真逆で、穏やかな雰囲気だな……
 復活した冷房により、快適な涼しさに包まれながら、次第に青年の全感覚が曖昧となっていく。
 そしてモニターの画面が消えるように、意識が完全にシャットダウンした——

 ◆

「——おい、起きろ」
 何かに肩を揺さぶられた。
 同時に襲い掛かる、強烈な頭痛。青年は座ったまま、思わず頭を抱えた。
 俺、いつの間に寝てたんだ……?
 意識がしっかりしないまま、青年は目を開けた。しかし、頭に黒い布か何かを被せられているのか、視界は暗いまま。息苦しさを感じるので、布を取り払おうとするが、腕が重く、上がらない。
「ほら、しっかり立て。階段を下りるから気を付けろよ」
 謎の人物達に両脇を抱えられて、半ば引きずられる形で青年は足を前に出した。絨毯のような柔らかな感触が、足の裏から伝わってくる。
「あれ、ここ、どこだっけ……? ちょっと待って……今まで何して……」
 直前の記憶がすっぽ抜けたような感覚に青年は陥っていた。それに加えて視界不良。両手は手錠のような物で拘束。それを前から縄らしき物で引っ張られ、何となく歩みを進めているという状況。頭の布は首元で固定されているのか、下が見えない。視覚以外の多すぎる情報量がぼんやりとした脳に叩き込まれ、処理しきれない——気付けば、屋外に続く出入口前のような場所まで誘導された。風と、何かのエンジン音が聞こえてくる。
「階段下りるから気を付けろよ」
 階段……
 考える前に、誰かに後ろから肩を優しく押される。前から青年を誘導するように、手錠を適度に引っ張られた。そのおかげで、爪先で階段を探りながら下りることができた。戸口のような場所を抜けると、強い横風を全身で感じた。少し寒い。何か広大な敷地に出たようで、光を感じられなくなった。今は夜なのか。海が近いのか、潮の香りが漂っている。
「その調子だ……あと一段で地面だ。タラップとの間があるから、思い切り行け」
 タラップ? ここかな……
 青年は爪先をさっきより伸ばした。無機質な狭い階段から、広いコンクリートへと感触が移ったことを確認。しかし、歩き出そうとして膝からバランスを崩した。すぐに両脇を抱えられたが、膝裏を誰かに蹴られたような姿勢になってしまった。
 視界もそうだけど——
「身体に力が入らない……ここは、どこなんですか?」
 いや、その前に、俺は一体、今まで何をしていたんだっけ。
 次第に鮮明になっていく記憶を辿る。
 会社——
 上司——
 逮捕、警察署——
「かなり意識が朦朧としているけど、大丈夫か?」
「鎮静剤の量を年齢で判断したんだろう。今回のチーム、『スナッチ』は初めてらしいぜ」
「だからドクターが『体重で投薬量を考えろ』と言っているんだろう。脳震盪(のうしんとう)みたいになっているから、記憶も曖昧に——」
 両脇を支えながら歩く男達の声を聞きながら、青年の呼吸や動悸が荒くなっていく。
 検察や弁護士、その話は一体、どうなった……?
 いかに自分が馬鹿でも、今の状況はさすがに把握できる。異常事態だ。
「ビジネスジェットの旅は快適だったろう? 『ゲスト』が到着したぞ、開けろ」
 先の方で、ドアか何かが開いたような音が聞こえた。青年は取り敢えず、歩みを止めようとする。しかし、下半身に力を込めても、逆に足元が覚束なくなるだけだった。両手首がロープのような物でまとめて引っ張られ、まるで何かを捧げるような格好で連行されてしまう。
 待て待て……!
「ちょっと待って、ここはどこだ……!」
「ホテル『トレイシー』だよ」
 下卑た笑いが周囲にこだまする。非力なりに抵抗しようとしたが、「ちゃんと歩け!」と注意だけされ、半ば引きずられながら歩いた。随分と力のある連中らしい。
 トレイシー? トレイシーってなんだ……
 馬鹿真面目に青年は一瞬、国内にそのようなホテル名があるか考えてしまう。
 聞いたこともないし、こいつら、警察じゃないんじゃないか?
「心配しなくても、被り物はもうすぐ外してやる……」
 一人、冷静な声で話し掛けてきた人物の方向へ、青年は顔を向ける。どこかの屋内へ入ると、後方でドアが閉められる音が聞こえた。そのまま廊下のような長い場所を歩かされ、エレベーターのような狭い場所に押し込められた。ドアが閉まり、男達と下の方へと箱が降りていくのを感じた。そこで触れ合った腕の感触から、彼らがかなり大柄な人物達なのではないかと青年は推察。また、独特の体臭が鼻についた。「外国人」という単語が脳裏をよぎり、「誘拐と逮捕の同時進行」という現状に対して余計に頭が混乱した。
 ここは地下ってことだよな……?
 心臓の鼓動が大きくなり、青年が不安と緊張を隠せずにいると、エレベーターが停止。ドアが開いた音が聞こえ、誘導に従い、少し歩く。床材の感触は、学校や公共施設によく使われる滑らかなリノリウムから、ざらついたコンクリートへと変わった。
「目の前に椅子があるから、掛けてくれ」
 ドアを開かれ、とある地点でそう促される。優しい声音だった。青年は少し屈んで手を伸ばす。パイプ椅子が置かれていたようで、手探りで着席。呼応するかのように、首元で縛られていた紐が外されていく。頭に被せられていた物が真上に抜かれ、視界に飛び込んできた室内光に目を細める。そして眼前に現れた光景に、青年は固まった。
 そこは取調室を少し広くしたような空間だった。青年は質素な簡易テーブルを挟んで、一人の人物と向かい合っている。眼鏡を掛けた小太りで中年の白人だ。寂しい頭をしている。周りを見渡すと、一定の距離を保ちつつ、目元だけが出る黒い覆面を付けた人物達が待機中。青年を含めた全員が、ロゴのない質素な私服に身を包んでいた。警察署と違うのは、圧倒的な体格差。服の上からでも分かる、筋骨隆々な肉体。かなりの長身で、アクション映画にも出演できるような威圧感。僅かに見える顔の特徴から、目の前の男と同じく、日本人ではないと青年は感じた。
 これで天井の照明が、埋め込み型の蛍光灯ではなく裸電球だったら、戦争映画じゃなくてマフィア映画だ……
 散々振り回された青年は、日付の感覚も狂っていた。その場にしばらく沈黙が訪れる。短期間の内に色々なことが連続して、逆に落ち着いていた。改めて付近を見渡す。洗濯物でも入れるようなかごなどが置かれており、取調室に比べたら無機質さは抑えられていた。周囲の大男達も勝手に壁にもたれて、殺伐とした雰囲気はない。ただし言葉を発さずとも、あらゆる抵抗を許さないような独特の空気が流れていた。「物事を荒立てても、何も解決しないぞ」と言わんばかりの、無言の圧力。
 青年は耐え切れず、口火を切った。
「今度はなんですか……?」
 正直、身体的にも精神的にも疲労している。眠ったはずが、身体の節々が痛み、脳が寝起きの状態で機能していない。
「当局は日本の警察組織と連携している外国の捜査機関だ。心配しなくとも、君の国の司法制度より人権は保障されているから、安心してくれ」
 向かい側に座る男が流暢な日本語でそう言うと、室内に静かな笑いが漏れた。発言と合わせるように、取り巻きによって青年の手錠が外される。中年の人物は、テーブルの上にあるボールペンと用紙の一枚を青年の方へ押しやった。
「項目は多いが、ファーストネームとファミリーネーム、生年月日と血液型、宗教とアレルギー、持病だけここに記入してくれれば良い。あればミドルネームも頼む」
 紙を一瞥すると、英語と日本語が併記されていた。空欄に何を書き込めば良いか、どちらのルーツでも分かる単純な構成。他には「喫煙歴」、「飲酒頻度」、「支持政党」など個人情報に関することを、上から順に列挙するように書かれていた。
 外国の捜査機関。そんな連中が、一市民である自分に接触する理由。思い当たる節は、一つしかない。
「……産業スパイの件ですか? 公安警察にも事情聴取を受けましたよ。俺の会社からアメリカとの合弁事業によって企業秘密が漏洩したと」
「その通りだ。でも実際はもっと複雑な話なんだ。私や、私のいる部署も当時の状況について君に詳しく訊きたいと思っている。ただ短期間の内に色々とありすぎて疲れているだろう。それを書いたら、今日はもうゆっくり休むと良い。心配しなくとも、日本の留置場のような場所ではない。一人部屋で、ゲームなどの娯楽品もある。私はウィル・ウッダードだ」
 テーブルを挟んで、丁寧に右手を差し出してくるウッダード。青年は戸惑いながらも握手を交わした。大きくて無骨な手だったが、眼鏡の奥にある慈愛のような眼差しと同じく、握力は弱かった。
「それに、似た境遇の仲間にも会える」
 青年は思わず顔を上げる。
「仲間?」
「今は夜の八時だから明日以降になるが、ここの共有スペースで会うことができる。歳も同じくらいの男で、社交的だから話は合うはずだ。君と同じ、運の悪い『ゲスト』の一人だ」
 ウッダードはテーブルの紙を指でトントンと叩く。
「明日の予定はこの面倒な手続きを終えた後、部屋まで案内する時に教えよう。今ならルームサービスもついている」
 ウッダードの台詞に、大男の一人が穏やかに笑った。恐らく、彼独自の緊張をほぐすテクニックなのだろう。しかし青年にとっては何の意味もないし、どうでも良かった。
「あなた達のやっていることは違法じゃないんですか? ここはどこなんですか?」
「適法だ。ほとんどの日本人に馴染みはないが、すぐに弁護士にも会える。国家間での捜査となると、実はこういう介入があるんだ。場所は間違いなく日本だよ。不満があるなら訴えても良い」
 公人は個人で責任を取らないだろう。
 真摯なつもりでも、それを信じ込むほど青年は愚かではなかった。
「日本のどこですが? そもそも検察庁と弁護士の話はどうなったんですか?」
「それは恐らく嘘だろう。悪かった。ただし管轄はそちらの国なので、訴えるならそちらでやって欲しい。正確な場所は明日、説明する」
「東京ですか?」
「沖縄だ。そこでしか私達は権限が与えられていない」
「沖縄?」
 青年は驚いた後、自分が意識を失ってからの行動を思い返す。そして——納得した。
「……もしかして、俺が寝ている間に何かして、飛行機に乗せてから沖縄に運んだってことですか?」
「それも全て、明日話そう。端的に言うと、国や捜査機関の調査によって君の行動がテロ活動に関与している疑いが持たれた。つまり、君は容疑者の一人として移送措置がなされたということだ。私達が厳密に捜査しなければ君の言う通り、犯罪の協力者もしくは当事者として裁判所で自分の無罪を立証しなければならなくなる。そうならないために、協力して欲しい」
 ウッダードの真剣な眼差しと、「テロ」という単語。
 自分で発言しておきながら、青年は口をポカンと開け、思考停止。高本に対する恨みが吹き飛び、取調室での聴取に対する憎しみも超越し、公安警察による「公的な誘拐」に対する不信が甦り、その他の様々な感情が混雑する。真っ白になった頭と高まる心拍数によって、青年は吐き気を覚えた。
「……悪かった、だから明日話したかった」
 室内が静まり返る。その間に青年は、目の前がクラクラと揺れる現象に襲われていた。両手でテーブルを押すことによって意識を保ち、何とか考えをまとめた。
 ——分かった。これはもう考えるのを止めよう。自分を客観視するんだ。恐らく、高本の件以来、あらゆることがこじれて、結果的にこういうことに発展したんだろう。それについてはもう考えても仕方がない。これからの流れを一旦、聞いて考えよう。いずれにしても、企業秘密はともかくテロ行為に手を染めた記憶は一切ない。
「他に質問は?」
「……出れるんですか? 携帯電話は?」
「いつ」とは訊ねなかった。もはやそういうレベルではないと、青年は思った。
「携帯電話は捜査資料としてこちらで預かる。釈放される時に返却しよう。約束する。時期は近くなったら確実に伝えよう。私としても分からないんだ。そこは日本の司法制度と変わらない部分だと思ってくれて構わない」
「——アメリカの対応なんですか、これは? 何のテロ容疑ですか?」
「それは明日以降話そう。一度、ゆっくり休んだ方が良い。厳密に言えば、これから起こり得ることを未然に防ぐための手立てなんだ。世界同時多発テロのような事件が発生したわけじゃない」
 青年は何から突っ込めば良いか分からなくなっていた。同時に——
「現実感が……なさ過ぎて」
「分かるよ。私が今、何を説明したところで、拉致まがいのことをされて頭にきているだろう。私達にも説明責任がある。ただし、それは明日以降だ。面倒な手続きはこの紙と、収容前のボディチェックだけだ。それが終われば、ベッドでぐっすり眠れる。シャワーと食事もある。今日はそれでおしまいだ」
 矢継ぎ早の回答に、青年は思考が上手くまとまらなかった。それとも彼の話術なのだろうか。何を訊けば良いのか、考えられなくなっていた。身体のだるさと眠気が、脳の活動を停滞させていた。
 ウッダードは紙を指で優しく叩く。
「名前が嫌なら番号でも良い。ここのルールなんだ。紙のやり取りで、私も嫌気が差している。『ヤマダタロウ』とでも書いておけば良い」
 彼はテーブルに置かれたマニラ封筒を時代錯誤だと言わんばかりに、人差し指で弾いた。
「日本の供述調書と違い、ここでの生活を管理するための書類だ。どうせここにいる大半が偽名か、ファミリーネームが親と異なったり、良く変わる連中ばかりだ」
 青年は目を閉じ、考え、しばらく経った後、能面のような表情でボールペンを握った。
 ……どうせ、こちらの詳細は警察を通じて知っているのだろう。だったら、この手続きは何の意味があるのだろうか。いずれにせよこれ以上、信用できない相手に何の情報も与えたくはない。しかし番号では、自分の人権がいよいよ奪われてしまうような気もする。
 青年は悩んだ挙句、生年月日を記入。アレルギーや宗教にバツ印を書く。
 そして、苗字に「山田」、名前の欄に「太郎」と適当に書き、ボールペンを置いた。


 

起 出内機関



「これに着替えてくれ」
 留置場の時と同じように裸になった山田が下着を履くと、大男が衣類の入ったカゴを床に置いた。中には、ベージュ色のつなぎが畳まれていた。洋画で見るような半袖の囚人服。山田が手に取ると、ポリエステルの肌触りでゆとりのある寸法だった。
「規則だ。罪人に決まったわけじゃない」
 山田の顔色に気付いたのか、隣の覆面男が一言添えてきた。半ば諦めながら袖を通す。すると、脱いだ時には分からなかった、小さな注射痕を自分の右腕に発見。思わず、身体が固まった。
「鎮静剤だ、害はない。そっちの捜査機関から眠った状態で引き渡されたから、座薬は使わなかった」
「そういう問題じゃ……」
 しかし、男の台詞で公安警察の車両に乗せられた時を思い出し、山田は納得。
 睡眠薬入りだったのか。
 着替えながら、山田は考える。
 恐らく、公安側は移送対象である自分が来る前に飲食物を開封。睡眠導入剤などの何らかの薬品を密かに混入しておいたのだろう。ことあるごとに飲食物の好みを訊いてきたのもそのため。暖房を入れて水分補給を促し、寝心地抜群のシートで就寝したのを見計らい、今度は本格的に薬剤投入。車両から飛行機に放り込み、謎の施設に移送した。直感だが、ここは基地のような閉鎖的な場所ではないかと推察。まさか空港などのオープンな場ではないだろう。昼間は被疑者を検察に護送するように見せかけ、夜間に移送したのではないだろうか。
 しかし、自分一人のために、国家間をまたいで捜査機関が動くのか?
 そんな疑問が山田には残った。それとも見ていないだけで、複数の移送対象の一人に過ぎないのか。ウッダードが言っていた「仲間」がそれにあたるのか。いずれにせよ警察署での取調べを考えると、警察も一枚岩ではないらしい。ウッダードの発言から考えると、組織内ですら風通しが悪い印象を受ける。官民問わず、どこも同じなのか。
 そんなことをぼんやりと考えていると、山田の両手は再び手錠で拘束された。
「部屋に案内するから暴れるなよ?」
 冗談っぽく言った覆面の大男二名が、山田の両脇に付き、両腕を確保。部屋のドアが開かれ、山田は廊下のような場所に出る。
 そこはまさしく、海外ドラマで見るような監獄だった。
 ここって、地下だよな?
 山田が思わず、そう呟いたのには理由があった。先を歩く先導役を含めた自分達四名の両側が、異様な景観だからだ。複雑な間取りはない。両側の壁には、一定の間隔で赤茶色のドアがひたすら続いている。ドアには覗けるのか覗けないのか良く分からない小さな縦長の窓が付いていたり、「T」というアルファベットの後に、三桁のアラビア数字が並んだ白文字が刻まれている。留置場の房で見たような配膳口もあるようだ。山田は自分が歩いているホールを見上げる。すると驚くべきことに、ドアの上にまたドアがあった。階層を挟み、監獄自体が二階建ての構造となっていた。山田が進んでいる中央のホールからぐるり周囲を見渡せる設計だ。ただ二階の様子は、落下防止であろう金網のフェンスが邪魔で良く見えなかった。
「普段ならアイマスクをするが、あんた達『ゲスト』は特別だ」
 ゲスト。しきりにその単語を口にするが、一体、どういう意味があるのだろうか? 今の時点で、あのドアの向こうにいるであろう他の収容者達とは、扱いが違うという雰囲気は感じ取れるが……
「あんまりジロジロ見るな、恨みを買うぞ。この服もある意味、ゲストを守るためのものだ。特別扱いは本来、規則にないからな」
 言われた瞬間、監獄の両側からドア越しに見張られている気がして、山田は正面を向いた。
「誰から守るんですか?」
「ゲスト以外だ」
 答えになってない……
 意味を考える間もなく、ホールを通り抜ける。ステンレス製のテーブルと椅子が照明の光を反射していた。あまりにも簡素な作りだ。テーブルは地面に固定、椅子は尻を置く台座が極小。そもそもテーブルと地面を繋ぐ二本の支柱から各三本、つまりはテーブル一つにつき六本あるアームの先に台座が装着されているだけだった。動かすこともできないし、長時間座る物でもない。
 二階へと続く階段を上がっていくと、ドアが並ぶ廊下は通行せず、別の道を進む。奥には今までとは対照的な青を基調とした色のドアが数個、一定の間隔で並んでいた。中央には円形のスペースがあり、少し広い。一階と同じようなテーブルと椅子が何組か設置されている。ここから各部屋へ放射状にアクセスできる構造のようだ。ここのドアには小窓も配膳口もなかった。
 もしここに入れられるとしても留置場と違って、外からのプライバシーは守られそうだ。
「両腕を出せ。外したら中に入れ」
 手錠が外され、ドアの一つが押し開かれると、山田は息を呑んだ。窓はどこにもないが、ビジネスホテルの一室に近いレイアウトだった。
 間取りも家具の位置もそっくりだ。
『ホテル・トレイシーだよ』
 移送の際に言われた台詞を思い出し、その意味を何となく理解する。
「取り敢えず電子レンジもあるから、これを渡しておこう」
 加熱すれば食べられるレトルト食品をいくつか手渡してきた男は、各設備を指していく。
「トイレやシングルベッド、テレビにゲーム、本やエアコンもある。インターネット環境があれば完璧だが、それは俺達も使えない。シャワーは夜中になると冷水になるから気を付けろ。ポットやキッチンはない。カップラーメンばかりだと身体に悪いし、火事になったら困るからな。着替えとタオルは一週間分が置いてあるし、こっちで交換しておく」
 男は顎で壁を指し示す。
「一日のスケジュールはそこに貼られている。食事は朝昼晩、食べられる。基本的には食事、取調べ、運動、共有スペースでの行動以外は部屋から出られないと考えておいた方が良い。明日が初日だが、午前の健康診断と午後の取調べ以外は自由だと思う。朝食の時間に迎えにくるから、じゃあな」
 山田を残し、ドアが閉められた。多少は危惧していたが、食事には困らないようだ。
 だから事前に宗教やアレルギー、持病について訊いたのか……
 外側から鍵が掛けられる音が聞こえた。ドアの近くに貼られたスケジュールを確認すると、起床や就寝時間は書かれていなかった。朝食は七時からなので、これに間に合うように起きろ、ということだろう。十二時の昼食と十七時の夕食、合間の自由時間を除けば時間的な拘束はほとんどないようだ。スケジュール表の横には『拘束者への管理規則』が書かれている。『公正かつ毅然とした態度で臨む。拘束者に対する人権の尊重を基本とする』といった文言の後、いかにこの収容所施設と看守が人権に重きを置いているかがひたすら綴られていた。山田は自分の経緯を考え、鼻で笑ってしまった。ここまで露骨な人権アピールは、逆に不信感を生み出すのではないだろうか。
 山田はレトルト食品をテーブルの上に置き、リモコンをテレビに向ける。いずれのチャンネルにも『受信できません』という表示が出現した。どうやら外部の情報を得ることは不可能らしい。ここまで自由だと監視カメラや盗聴を疑うが、そんなことをするくらいなら、そもそもこんな部屋は与えないだろう。
 ——とにかく、やっと一人の時間だ。
 山田はベッドに飛び込んだ。スプリングが軋む。うつ伏せの状態で、壁に掛けられた時計の針を確認。八時四〇分。普段なら、もう働いている時間。だが、今は猛烈な睡魔に襲われている。食事に気が向くこともない。
『シャワーは夜中になると冷水になるから気を付けろ』
 山田は身体を無理矢理起こすと、シャワー兼トイレルームに入った。急いで服を脱ぎ、温水のシャワーが出たことに安堵。備え付けの石鹸やシャンプーを駆使して、疲労ごと洗い流す。濡れた身体や頭髪を手早く拭き取ると、使い捨ての歯磨きセットに手を伸ばし、磨き終えると後片付けもせずに室内照明を消灯。再びベッドに潜り込み、今度こそ泥のように眠った。

 ◆

 大地が唐突に揺れた。山田は地震かと思い、起き上がる。
「起きろ」
 自然災害ではなかった。部屋に侵入してきた看守にベッドを揺らされたのだ。山田は自分が寝坊したのだということを認識。
「いびきをかいてなかったら、生きているのか分からなかったぞ?」
 寝ぼけ眼で壁のアナログ時計を確認すると、七時を回っていた。
「……いびきなんて、初めてかいた」
 近くにあった靴下を履きながら、山田は小さいあくびを漏らした。
「スイートルームの寝心地はどうだった?」
「……正直、部屋に関して言えば、俺のアパートより遥かにマシです」
「だろうな。だから反感を買うような真似はしないことだ。待遇に納得していない人間もいる。時間厳守だ」
 山田は愚痴の代わりに渋々、首を縦に振る。警察署での扱いよりは遥かにマシであり、これ以上状況を悪化させたくはない。しかし、黒人の看守がドアの方に移動した時、小声で「こっちも望んで入ったわけじゃねえよ……」と呟いた。寝起き直後にストレスを溜め込みたくはなかった。
 昨日とは違う看守に手錠をはめられ、二人で部屋を出る。廊下で待機していた別の看守とも合流。中央の円形スペースに出ると、新幹線の車内販売で使うようなキャスター付きの配膳台が運ばれてきた。近くの灰色のドアが開放されると、山田は頭が働かないまま中に案内される。一〇名程度が入れるスペースで、教室の黒板に向かうような形でデスクと椅子が何組か設置されていた。それらの表面はステンレス製で、椅子はデスクの下に格納されている。その中の一つに座らされると、床から伸びている固定具を片足に装着された。
「頼むから暴れるなよ。多少の不自由はあるが、お前は運が良い方なんだ」
 これでかよ。俺は海賊か?
 皮肉を込めて、山田は回答。
「暴れても出られないし、連絡も取れないでしょう?」
「賢明だ」
 手錠を外されると、別の看守が「日本食と欧米食、どっちが良い?」と訊ねてきた。
「……じゃあ、日本食で」
 メニューはある程度、自由らしい。看守の何名かは空いている席にトレーを持って腰掛け、フォークを使い、無言で食べ始めた。
 ベージュ色の囚人服という奇抜なスタイルは山田だけだった。あからさまに好奇の目で見てくる人間はいない。ただ、ほとんどの人間が隙を窺っては視線を向けてくる。英語は義務教育以外では習わず、海外旅行も未経験。だが、食事の話題にしていることは丸分かりだった。
 背後から「はいよ」という言葉と共に水が注がれたコップと、料理の盛られた皿、箸が載ったトレーが差し出され、デスクに置かれた。一応、感謝を述べてから箸を手に取る。山田は普段、朝食をおにぎりやパン一つで済ます人間。しかし、今朝ばかりは大きな空腹に見舞われた。微妙な安心感や、逮捕されてからの食事のせいだろう。
 料理は三品。茶碗に盛られた温かい白米、パックの納豆、ツナサラダにソーセージと目玉焼きを添えた物。一部が黒くなるまで熱が入れられた焼き立てのソーセージに、モソモソと齧り付く。張りのある表面が裂け、歯と舌に熱い肉汁が散った。湯気の立つ白米も口に含む。ヘルシーな甘さがほんのりと奥歯に伝わり、味覚全体がジューシーな旨味に占領されていく。口を動かしながら納豆を混ぜ始めると、付近の看守の視線を感じた。そんな物をよく食べるな、と言わんばかりに顔をしかめている。文化の違いだろう。
 確かに、留置場に比べれば破格の待遇だ。ただ——
「……他に囚人はいないんですか?」
 オレンジジュースで喉を潤している看守が答えた。
「ゲスト以外は自分の房内で食べている」
「他のゲストは?」
「一人いる。お、噂をすれば——」
「昨日はボロ負けだったな、おっさん」
 ドカッと山田の正面に座った人物は、同じように私服の看守に囲われていた。しかし、明らかに態度が違う。それは、看守との信頼関係。山田を連行した看守とも歓談を始める。何より、手錠や拘束具が一切、装着されていない。
「こいつが新しいゲストだ。お前の一個下で、名前は『山田太郎』と言うらしい」
 本名ではないことに違和感を覚えるが、自分で選んだ以上は仕方がないと、山田は俯いた。
「おいおい、本名じゃないだろ……」
 ベージュ服を纏った人物の苦笑いに、談笑する看守達。短く刈り上げた頭髪の青年は、山田よりも長身だった。一八〇センチくらいはあるだろう。自然な日焼けをしていた。ただ、看守達のように嬉々としてバーベルを上げているようなイメージはない。筋肉を盛り上げるタイプではないのだろう。生命力溢れる肉食獣のような快活さだった。くっきりとした眉毛もあり、スポーツか何かをやっていた雰囲気がある。彼のトレーには、肉料理をこれでもかと盛った皿が置かれていた。フォークを扱うその腕は、荒縄で絞られたかのような洗練された筋肉に包まれている。彼がヘルメットと手袋に身に着け、工事現場で元気に鉄骨を運んでいるようなイメージを山田は勝手に抱いた。
 今までの人生を考えると、自分の周りにはいないタイプだ。ただ、ステーキをナイフとフォークで丁寧に切り分けているのが意外だった。外見で判断してはいけないが、マナーに関しては何かこだわりがあるのだろうか。その割には口に物を含みながら、足を組んだ状態で四方八方に回転しつつ談笑している。
 山田が置き去りにされたかのような居心地の悪さを感じていると、彼が切り出した。
「よろしくな、山田。俺は半年前にこの『ホテル』にぶち込まれた同志だ」
「半年前……?」
 一瞬で眠気が吹き飛ぶ。
 なら、俺も半年間はぶち込まれる可能性があるってことだよな?
「なげえよな……一個下ってことは二三歳だよな?」
 差し出された左手を、「左利きなのか」と思いながらおずおずと握り返す。同時に、頭の中が混乱。彼に向けられる視線がほとんどないことから考えても、先住者というのは本当なのだろう。
「あ、そうです、よろしく。あなたの名前は——」とまで山田は口に出してから、「いや、何でもない……」と会話を打ち切る。
 得体の知れない環境で、正体不明の人物に名乗りたくはないだろう。
「ああ、書類には『リュウザキ』って書いたぜ——簡単な方のな。ま、歳もそんなに変わらねえし、タメ口でいこうぜ」
 山田は頭の中で、『竜崎』という漢字に変換する。
「積もる話は後にしようぜ。ここは目立つし、看守のおっちゃん達の建前もあるからな」
 小声になった竜崎の忠告を受け、お互いに無言で朝食を再開。どうやら竜崎は今の環境に馴染んでおり、微妙な力関係や『ホテル』などの隠語についても把握しているらしい。さっきの会話だけでも、こちらの緊張をほぐそうとしているのが分かる。それか先輩風を吹かせているだけか。いずれにせよ、人間性を見極めて信頼できる人物か判断するのは、これからだった。
「初日だろう? 色々終わったら、共有スペースに行こうぜ。運動以外の時に囚人同士で話せる場所だ。ここのルールとかを教えたいからな」
 願ったり叶ったりの提案に山田は頷く。朝からよく食べる竜崎を残し、食事を終えると、看守の先導に従った。手錠は嵌められなかった。
「医務室の準備ができるまで、部屋で待機だ」と看守に言われ、山田は無言で頷いた。

 ◆

 健康診断は病院でやるのと変わらない内容だった。身長、体重、視力などの身体検査に加え、尿や血液のサンプル採取、歯科検診を終えて、山田は昼食を渡された。今日は食堂の清掃があるらしく、キッチンが使えないらしい。スーパーマーケットで売られているような弁当を渡された。自分の部屋で完食し、昨日の時点では詳しく確認できなかった室内の備品を調べていると、部屋のドアが開いた。
「竜崎が呼んでいるぞ」
 看守が伝令代わりに使われている事実に山田が驚いていると、スポーツ刈りの頭が看守の隣に現れた。
「共有スペースに行こうぜ。椅子くらいしかないけどな」
 来たか。やっとまともな情報交換ができる。
 部屋から出ると、竜崎が「これやるよ」と炭酸飲料の入ったペットボトルを渡してきた。
「ありがとう。でも、自動販売機なんてあったっけ? 財布だって没収されて……」
 竜崎は人差し指を立てながら、目をそらした。山田はそれで意図を察し、看守の引率に黙って従う。竜崎は「ルールを教える」と言っていた。
 それは明文化されたルールではないのだろう。

 ◆

 共有スペースはすぐ近くにあった。会社や公共の場に設けられる喫煙スペースのような場所だ。五畳一間ほどの空間に布ソファとテーブル、煙草の吸い殻を入れる円筒形のスタンド型灰皿が一つ設置されている。山田は竜崎と共にソファに腰を下ろす。看守は共有スペースのドアを閉めて部屋の外に消えた。天井では白色の蛍光灯が光っている。窓はなかった。
「良く分かんねえけど、囚人同士は原則、ここでしか会話できねえらしいぜ。ところで、山田はどうやってここに来たんだ?」
 ペットボトルを開封し、竜崎は豪快に中身を口の中へと流し込む。
 一体、何から伝えれば良いのだろう。「同じ思いをした仲」ということなので、堰(せき)を切るように言葉が出ると思っていた。だがいざこういう場面になると、雄弁とは程遠い性格も災いし、山田は第一声が思いつかなかった。
「タメ口で良い」と言っていたし、正直に話してみるか。不思議だが、悪い人物には感じないし……
「警察に不正競争防止法違反で逮捕されて、検察庁に移送される最中、多分、飛行機でここに収容されたんだと思う」
 俯きながら山田は回答。全てが始まった、つい数日前の出来事。しかし、今はそれすらも過去のものに感じていた。当時の全てにおける不信感、警察に対する失望が甦る。
 竜崎は一拍置いて、それらを払拭するようにあっけらかんと語り出す。
「そうか。俺は出先でやられたぜ。近くの警察署までパクられて、しばらく経ったら『留置場が埋まるから別の場所まで行く』って言われてよ。車に乗ったらこのザマだ」
「乗ってからは覚えてない?」
「ああ、コーヒー飲んだら眠っちまった。多分、睡眠薬かなんか入れてたぜ、ありゃ。俺は椅子に座ってたら絶対に眠らないタチでよ」
 山田は注射痕のある腕を竜崎に晒す。
「俺はこれをやられた」
「ひでえな……俺は車の中で意識が戻った時に、ケツに座薬をぶち込まれた」
 ため息を吐きながらソファに寄り掛かる竜崎。山田は「これって違法だよね?」と訊ねる。理由はどうあれ、強制的に眠らせて拉致、監禁するなど許されることではない。
 しかし、竜崎は思いのほか冷静だった。
「だとしても、証明するのが難しいぜ。ポリ公は信用できないし、『沖縄の基地』に監禁されてるってことは、どっちの国もグルってことだろう?」
 沖縄の基地。何となく想像はしていたが……
「やっぱり、ここは米軍基地か……」
「ああ、ガッツリな」
「味方がいないね……捜査機関っていうのは、日本とアメリカの捜査機関ってことでしょう?」
「だろうな。でも兵隊や基地からして、警察っていうよりは軍隊って感じだけどな」
「ここから出たことは?」
「一度もねえ。一応、数日前から『運動したい』と言っとけば、飛行機の格納庫の中でさせてくれるけどな」
 動物扱いだな……
「本当に『テロリスト』っていう扱いなのかな?」
「分からねえ。さすがにこの環境から逃げられると思ったこともねえし、逃げたとしても一体、どうすりゃ良いんだって感じだ」
「そうだね……マスコミも警察と一緒だし、情報操作できるし」
「大前提として、おれたちゃ犯罪者どころかテロリスト扱いだぜ? 世間に訴えてもすぐ捕まるだろうし、島国だからコネでもないと高飛びできねえだろう? そもそもニュースにしてくれねえかもな」
「ネットだと……信頼性もないか」
 一体、どんな権限や手続きがあって、こんな事態になっているのか。山田は殺風景な共有スペースを見渡す。この状況を伝えたところで、誰か助けてくれるだろうか。日米両政府は無理だとして、それ以上となると、もはや個人ではどうすることもできない。
「——なあ、山田って、逮捕された時に何してたんだ? 俺はトラック転がしてる時にやられた。パトカーに止められて、荷物を見られた後に即逮捕だ。ったく、もうちょっとでデカい金がよ——何だ、その目は?」
 竜崎の発言に、山田は目を細めた。彼の容疑が何なのかは不明。しかし、竜崎の語感や雰囲気から邪推してしまう。
 まさかとは思うが……
「それって、運んでた物が——」
 言い切る前に竜崎は目を丸くした。
「馬鹿野郎! 俺は運び屋じゃなくて普通のトラックドライバーだ! ……ただ、米軍基地の引っ越し業務もしてたから、今考えればそれが関係してたのかも知れねえけどよ」
「一般的な運送ではなかった、とか?」
「在日アメリカ兵のダチがいたから、引っ越しとかを手伝ってたんだ。大型免許取る前にも仕事でやってたからな。取調べの時に言われたのは『銃刀法違反』だ。あとは『コントロールド・デリバリー』だとか『組織犯罪法』だとか何とか……」
 頭の後ろに組んでいた手を、両膝の間に持っていく竜崎。前屈みになった姿勢からでも、山田には竜崎の表情が手に取るように分かった——自嘲と怒りだ。
「積み荷に実銃が紛れていたらしいぜ? 伝票はあるけど、輸入物で木枠梱包されたヤツとかは中身が分からねえし、紛れたのがそもそも配送なのか引っ越し業務の時なのかも分からねえ。ドライバーがやることは荷物の積み替えと配送だけだ。それなのに……!」
 竜崎は最後まで言わなかった。当時のことを思い出したのかも知れない。竜崎の見た目で分かる腕っぷしと性格は、配送業で形成されたのだろう。竜崎は少しの間、コンクリートの床を見詰める。そして真顔から無理矢理、不敵な笑みへと変換した。
「へっ、あいつらは日頃からクズしか相手にしてないから、目玉が曇っちまったんだろうな。自分達の筋書きにサインさせやがる。タチの悪い脚本家だぜ……ったく」
 竜崎も恐らく、自分と同じなのだろう。
 腹の底に、表情には出せない怒りや不信感を抱えたのだ。
「何日くらい、勾留された?」
「二〇日間だ。毎日がクソだったぜ」
 二〇日。
 山田の背筋が凍った。一日ですら苦痛と眠気などのストレスが溜まったのに、あの責め苦が三週間近くも続くなど正気の沙汰ではない。
「『米軍のダチが小銭稼ぎにお前の荷物に仕込んだんじゃないか?』って言われて、色々と信じられなくなっちまった時もあった。もしここから出れたら、真っ先に確認するつもりだ……」
 こういう時、なんて言葉を掛ければ良いのだろうか。山田自身は、元々気に入らない相手に陥れられたので、憎しみの方向は単一だ。しかも、詳細や事実は不明だが、自殺している。警察や国家への不信感は募ったが、相手に対する溜飲は下がっていた。竜崎の場合は信頼している相手に裏切られたという事実に、別の意味でも心を痛めたのだろう。山田は少し考えてから、もっともらしい見解を述べた。
「俺達のせいじゃない。勝手に決め付けて、向こうの都合で勝手にここに監禁してるんだ」
 竜崎は山田を見据えると、「へっ」と笑った。
「——そうだよな、絶対に何か理由があるはずだ」
 その眼は決意に溢れていた。しかし、囚われの身である以上、真実を知ることは難しい。ましてや国家が相手なら、味方はいないに等しい。飲み物を手に取り、胃に向かって滝のように流し込む竜崎。山田も貰った炭酸飲料をわざとダイレクトに飲み込み、食道の痛みで思考をクリアにする。
 腹の探り合いは終わりだ。そろそろ本題に入ろう。
「竜崎、『ホテル・トレイシー』だとか、『ゲスト』だとか、そもそも沖縄のどこら辺に俺達はいるんだ?」
「オーケー。俺が今から言うことは、ここらの看守と半年過ごして、仲良くなってから訊き出した情報と俺の予想が合わさってるからな?」
 山田が頷くと、竜崎は膝の上に片方の足を乗せ、ソファにもたれた。
「まず、俺達は『勝連(かつれん)基地』っつー、在日米軍の飛行場に収容されているらしい」
 なるほど。ここに拉致された時、どうりでジェット機のエンジン音や強風が聞こえたわけだ。自分達を飛行機移送した利便性も合致する。
「勝連……確かに、何年か前にニュースで『沖縄に新しい基地が建造される』って聞いた気がしたけど……」
「ああ。俺も最初に聞いた時はそれだと思った。米軍のダチも二、三年前に『沖縄本島の真ん中にある勝連半島沖に行くかもしれない』って言っていた。多分、ここのことだろう。これはウッダードっていうオッサンが事情聴取で教えてくれた」
 あの中年の白人か。
「信用できそう?」
「それなりにな。最初の一カ月間は、毎日事情聴取があった。警察の取調べと違って『ちゃんとした取調べ』だったぜ? 『事実に基づいた会話』ってヤツだな」
「残りは?」
「二日おきとか三日おきに取調べだ。ただ、向こうもなんか惰性で続けてる感じがするぜ。正直、『ゲスト』からこれ以上新しい情報が得られないと分かると、飼い殺しだな」
「『ゲスト』っていうのは俺達二人のことだよね?」
「ああ。ウッダードのオッサンいわく、ここには百人くらいの人間が収容されているらしい。その中でも俺達二人は特別扱いだから『ゲスト』って呼ぶらしいぜ。ここにいる間で考えれば、待遇は看守とそんなに変わらないとよ。『他のテロ容疑者と違って、君達二人は巻き込まれただけだ』って言ってたな」
「なら出して欲しいんだけどな」
「全くだぜ——ただ、『出したら君達の身が危ない』とも言ってた」
「何だそれ?」
「分からねえ。聞いても答えねえし、そもそも俺達自身、何に関係してんだかサッパリだろ? そこが一番重要なんだけどよ、どうも向こうも何か掴みかねてる気がするんだよなあ……」
「それを知りたいから『ゲスト』を捕まえて情報を引き出すってことか? 警察に比べて気持ち悪いほど対応が丁寧だったのも……」
「あれは俺達だけに対してらしい。これは看守に訊いたんだけどよ——」
 急に声量を下げた竜崎に、山田は寄り添う。
「他の収容者は拷問に掛けられている、って噂だ」
「それって——」
「本物だってことだろ」
 拷問にテロリスト。あまりにも非現実的な状況。ただ、既に非日常に染まり過ぎている。違和感を覚えるには遅すぎる。
「拷問って、合法なのか? 俺達もそうなる可能性は?」
「分からねえ。それと収容されている大半は、日本とは関係ねえ外国人らしい」
 果たしてその言葉を信じて良いものなのか。例えば、一般の収容者は何らかの理由でゲストから「格落ち」した人間、という可能性はないだろうか? いずれ自分と竜崎がそうなる可能性は否定できない。しかし、今の状況では何も判断できない。いや、そもそもの話だが——
「日本には無関係なテロリストを、どうして在日米軍基地に収容しているんだろう?」
「どうも他の国にあった収容所が閉鎖されたから、新しい収容所としてこさえたらしいぜ。弁護士が『キャンプ』……キャンプなんだったっけかな? アルマゲドンとかイグアナだとか何とか……」
 思わず山田は、地球に巨大な小惑星が飛来するのを阻止するハリウッド映画を思い浮かべてしまった。
「アルマゲドン?」
「いや、良く分からねえ横文字でよ……俺は高校行かずに実家飛び出して、学がねえんだよ。弁護士との面会はこの後だろ?」
 初耳だった。
「いや、まだ何も……」
「多分あるはずだぜ。俺じゃあ考え付かない疑問をぶつけてきてくれよ。色々教えて貰ったんだけど忘れちまって……まさか俺以外の奴が来て、話せるとも思ってなかったし、メモってねえんだよな。頭パニクっちまってたし……」
 竜崎は自身を卑下しているのか、頭をかいた。山田自身、これまでの人生観で学歴と地頭の相関性は必ずしも比例しないと考えていた。残業など、何らかの苦しい緊急事態の際に、人間本来の知能や性格が現れると実感したからだ。ただ、世間一般の認識ではやはり学歴が優先されるし、一定の線引きになっている。
 山田は空気と話題を入れ替える。
「なら、『ホテル・トレイシー』っていうのは?」
「それに関してはサッパリだ。弁護士やウッダードにも訊いたことはあるけど、『知らない』って言ってたな。単に答えないのかもしれねえけど、造語じゃねえのか? 俺も看守から聞いたことはあるけど、あいつらなんにでもすぐに愛称付けるからな」
「看守は米軍の兵士?」
「いや、どうも下請けらしいぜ。自分達で言ってた」
「米軍の下請け? 軍隊にも下請けとかあるのか——いや、外部委託(アウトソーシング)っていう意味なのか……」
「分からねえけど、看守は皆、迷彩服じゃなくて警備服みたいなの着てるだろ? いつもやる気なさそうだし、テレビゲームに誘われた時は全員愚痴ばっかだったしな」
「へっ」と、独特な皮肉めいた笑い方をする竜崎。勤務内容は良く分からないが、看守の士気は低いらしい。
「そう言えば、『沖縄でしか権限が与えられていない』とウッダードって人が言ってたけど、本土に米軍施設なんていくらでもあるよね?」
「俺も看守とゲームしてる時に訊いたんだけどよ、本土の在日米軍施設と区域は北海道を入れると四八カ所あるらしいぜ」
「沖縄は?」
「勝連基地を入れると二八カ所らしいぞ。『近くにあった辺野古(へのこ)基地が地盤沈下したから、代わりに勝連基地を作った』って言ってたな」
「じゃあ、元々は辺野古基地にこの収容所があったのか。それとも非合法だから、周りの目を気にして沖縄にしたのか……」
「さあな。どうもここの奴らは日本に生活基盤があったり、暮らしたいって奴が大半みたいだ。日本語はもちろん、これから覚えたいっていう奴もいる。まあ、看守は話せないとなれないらしいけどな——俺が知ってることは、こんなもんよ」
「ありがとう」
「良いってことよ」
 正直、山田の予想と大きく異なることはなかった。竜崎は自分と同じで、巻き込まれた側であり、嘘を吐くような人間でもないだろう。何よりメリットがない。気になるのはこの移送劇が違法なのか適法なのかという点だ。そして何より、出れるのかどうかということだけ。会社に愛着はない。良い人もいたが、とてもではないが復職はしたくないし、できないだろう。結局、起訴か不起訴かすらも不明。日本の司法から米国の司法に委ねられたのかも不明。出た暁には、別の仕事で食いつないでいくしかないだろう。そのためには、竜崎のように辛抱強く事情聴取を受け続け、身の潔白が晴れるのを待つしかないのか。いずれにせよ、後は竜崎の言う通り、弁護士やウッダードと直接話すしか進展はないだろう。
「後は……そうだ、ここでのルールの話だな。答えはシンプル、『感情的にならない』ってことだ。感情論は負けだぜ。敵を増やすより味方に付ける方がムズいだろ? ウッダードも警察の取調べ並みに、クソみたいなマネをしてくるわけじゃない。看守は仕事として淡々とこなしている連中で、気の良い奴らさ。ただ、あんまダル絡みするとマズい。お互い立場ってヤツがあるからな」
「看守も元米兵?」
「かなり多いぜ。しかもベテランばっかりらしい。現役か退職組かは分からねえけど、今は下請けで働いているんだとよ」
 今考えれば、朝食時にいそいそと無言で食べ始めた竜崎とその看守達の気持ちが分かる。互いに「平和な収容所生活」を送るために、利害が一致したのだろう。
「気を付けるよ」
 山田はジュースを口に含む。話が一段落した時を見計らったのか、竜崎が身の上話を切り出してきた。
「俺はトラックドライバーだったんだけどよ、普段はセンター配送だった。店を回らないといけないルート配送に比べてセンター間をドライブするだけだから、まだ楽な方だったぜ」
「長距離配送?」
「ああ、サービスエリアで停めるとこが無いときはダルいけどな」
 彼も飲み物を口に含みつつ、「山田は何してたのよ?」と訊ねてきた。
 本題はそっちか。でも、気になるだろうな。
「……半導体エンジニアだった」
 すると彼は、先程とは別の意味で目を丸くした。
「へー! また頭の良さそうな業種だな。どうりでエンジニアって感じがしたぜ」
 余りにも悪意のない適当な感想に、山田は素直に笑った。
「いや、今はほとんど機械がやってくれるから、それを監視していただけだよ。部署によっては客先常駐があるけど」
「最近の機械は勝手にサボるのか?」
「人が入力を間違えれば反映される」
「ふーん……で、こっちは?」
 人差し指と親指の先端で輪っかを作った竜崎に、山田は首を横に振った。
「会社によるよ。俺は工業大学を卒業したわけじゃない。専門卒でも行ける会社に入ったけど……部署によっては客先とか休日の夜中でもあるし、上司がひどいと一人で全部やる。他の国みたいに技術者が優遇されているわけじゃないし」
「なんかイメージと違うな。パソコンのパーツみたいな小せえのを、手先が器用な奴らが半田ごてみてえなので作ってるイメージだったぞ」
「手実装はリフロー炉で接着できない部品や、回路設計に追加の仕様があった時にするんだ。普段はクリーンルームでシリコンウエハーに集積回路を載せてエッチングやダイジングを施しているか、加熱温度を監視したり——いや、それはプロセスエンジニアの仕事で、俺はたまに手伝わせてもらっているだけなんだけど——」
 そこでふと、竜崎の方を見て山田は赤面。興味のない専門知識をまくし立てられるほど、はた迷惑なことはない。しかし、竜崎はどちらかと言うと「何言ってんだかサッパリだぜ!」と苦笑いしながら、興味ありげに聞いている雰囲気だった。気を使ってくれたのか、新しい知識を手に入れることに億劫ではないのか、どちらかだろう。
「でも、それだけ立派なことをやってれば、ここから出た時に誰か助けてくれる人間もいるんじゃねえのか?」
 それは、「自分のことを普段から気に掛けてくれる人間はいるか?」という質問の裏返しだろう。山田は両親と疎遠だった。極端に仲が悪いわけではない。環境が恵まれなかったわけでもない。ただ、「いざという時に頼りになるか?」と言われると、素直に頷けなかった。
 学生の時とは違い、社会人になると色々と見えてくるものがある。
 それは主に汚い部分。社会や人間関係、信じていたものの内側にあったリアリズム。仲の良かった学友も、お互いにその真実と向き合っていくうちに会う機会が減っていった。残ったものは、自分の主な活動拠点である「職場」。そして生活拠点である「アパート」での人間関係のみ。それらと家族、友人関係を合算し、算出。すると結果は、「自分を救い出すどころか、失踪したことさえ気付けない」という答えにいたった。気付いたとしても逮逮捕者となれば、積極的に関わりたい人間は少ないだろう。恋人や家族がいなければ、なおさらだ。
 逮捕された時点で。疑われた時点で。
 社会的に「推定有罪」なのだから。
 もしかしたら、忙しく働きながら生活しているほど、社会との関わりは希薄になっていくのかもしれない。
「あんまり、いないかな。助けてくれる人は」
 長い時間を掛けたその答えに、彼は何でもないといった具合に即答した。
「そうか。俺もだ」
 お互い目を合わせず、正面を向く。
 高校に進学せずに実家を飛び出した理由。ドライバーになった理由。気になることはある。ただしそれらを話すとしたら、今より関係が進んでからにした方が良い。人との関わりがより、限定的であろう長距離ドライバー。それは本人が望んだ部分でもあるのだろう。山田は、同じ質問を訊ねることはできなかった。
 共有スペースのドアが開かれる。ある意味、丁度良いタイミング。看守の一人が「事情聴取だ、山田。付いてこい」と促してきた。
 山田が立ち上がると、竜崎から忠告を受ける。
「弁護士と話した後は事情聴取だと思うけどよ、キレないようにな。クールに行こうぜ、ヤマちゃん」
「分かった」

 ◆

「『レンディション』?」
 横長のテーブルに両腕を預けながら、山田は思わず力んだ。簡素なパイプ椅子が床をこすり、静かで狭い面会室に雑音を響かせる。対面に座る黒人の女性弁護士は、皺一つない紺色のスーツにも現れている几帳面さで、手元の資料を整えた。その表情は憮然としている。
 中年の女性は肩まで伸ばした柔らかな長髪とは対照的に、厳しい現実を流暢な日本語で語り始めた。
「そうです。日本語に訳すなら『国家間移送』と言います。あなたが受けた一連の措置はアメリカ軍と、さきほど説明した組織であるCIAによる『スペシャル・レンディション』にあたります」
 もはや現実とは思えない状況に、山田は唖然。昨日の時点までは、壮大なドッキリか何かだと淡い希望を抱いていたが、その幻想はことごとく打ち砕かれた。
 ゲームか何かなのか、これは。
「不当な拘束……ですよね?」
「一応は合法となっています。一九八八年、アメリカ司法省は『CIAもしくはFBIが無法国家でテロリストの身柄を拘束することを容認する』という法的見解を示しました。これがレンディションの始まりです。行政命令一二二三三三号により『当該法規で事前に排除されていない一切の支援と協力を法執行機関に提供する』という権限が、逮捕権限のないCIAに付与されました。ただし、当時は身柄を拘束するのはFBIでした」
 弁護士は山田の前にA4サイズの用紙を並べた。白黒でプリントされた画像と、大量の日本語訳が載せられた文書が山田の目に映る。
「アメリカの歴史上、一八八六年に起こったイリノイ州での窃盗事件がもっとも古い記録です。犯人はアメリカ連邦政府職員によりペルーで拘束、アメリカ船籍のエセックス号に乗せられ、様々な船に移し替えられた後、オーストラリアとカルフォルニア州を経由してイリノイ州に連行されました。この間、国同士の犯罪人引き渡し条約や現地の法律の手続きはおこなっていません。当時の連邦裁判所は、逮捕手段や連行方法については一切関知しないと決めていました。一九五二年にはイリノイ州からミシガン州へ、殺人犯が手錠をはめられた後、棍棒で殴られて連行されています。しかし、連邦法の誘拐関連規定には抵触しないと最高裁が判断しました。一九九〇年にコカインの密輸でパナマの大統領が起訴された際は、アメリカ海兵隊が現地に侵攻し、フロリダ州の自宅まで連行して有罪にしました。九二年には拷問と殺害の共犯者として起訴された人物が、メキシコからアメリカまで拉致されました」
「PDD-39」、「NSD-77」という記号と共に、彼女が示した一連の文は確かに紙に書いてあった。
「つまり、あなたが今までに受けた『国家による拉致(スナッチ)』——レンディションは、これまでも中東、中央アジア、東南アジア、ヨーロッパなど世界中で起こっていることです。現地の政府もイデオロギーや資金、情報提供などの見返りと引き換えにブラックサイトの運営や、尋問のアウトソーシングに加担しています。どんな場所であろうと、どんな人種であろうと、アメリカの法を犯した者が海外で自由に行動することができないように。特に中東はいまだに人権意識が低く、欧米諸国ではできない拷問や処刑を代理することで有名です。かつてのCIA長官は『レンディションは九一一までに七〇件あり、そのうち二〇件はアメリカで裁判を受けさせるものだった』と証言しています。しかし、実態は数百から数千件だとも言われています。釈放された者や、弁護士を通して収容所の外に真実を伝えられた者はごく一部です。映画の題材にもなっています。ですから、今の状況は世界的には珍しいことではありません」
 女性はなるべく優しい声音で教えてくれた。
「これは脅しているのではありません。あなたと同じ思いをしている人が大勢いるということですから、安心してください」
 山田は頭を両手で抱えた。
 テーブルに両肘をつき、大きなため息を一つ吐く。
 衝撃の連続で、頭がパンクしそうだ……
 だが、論点はレンディションじゃない。俺がテロになんか関わっていない無実の市民であるということ。そして、それをどう分かってもらうか。そこがポイントだ。この際、拉致云々は目をつぶろう。口外無用の誓約書にサインしなければ、不起訴だとしても釈放されないかもしれない。それに自分の他にも大勢いて、弁護士側が実態を把握しているということが分かっただけでも、少し気が楽になった。ただ、大量の疑問も残っている。
「でもそのレンディションは、裁判を受けさせるために無法国家から連行する措置ですよね? 俺はどうなるんですか? 裁判の管轄が日本なのか米国なのか、そもそもどうして米軍基地なんですか?」
「そこで『スペシャル・レンディション』が適用されたのだと思います。これはニューヨーク大学が定義したもので、行政用語ではありませんが」
 写真が貼られた別の用紙を渡され、山田は学校で歴史の教科書に載っていた人物と遭遇。二〇〇一年に米国の世界貿易センタービルにジャンボジェット機を衝突させ、一躍世界中に名を知られた人物だ。確か、最終的に米軍によって殺害されたとの報道があったはずだ。
「九五年の合衆国大統領による『大統領政策指針』です。こうした指針は機密扱いですが、同時多発テロに関する独立調査委員会である『九一一調査委員会』の報告書によると、『外国犯罪人引渡しが利用不能、もしくは忌避された場合、アメリカは現地国にレンディションへの支援を求め、逃亡犯を密かに飛行機に乗せ、アメリカもしくは一部の第三国へ裁判のために連れ戻すことができる』との要約が書かれています。そして、九八年に九一一の首謀者がアフガニスタンから『ファトワ』と呼ばれる宗教見解を発布し、アメリカに対して実質的な宣戦布告をしました。それを皮切りに九九年、CIAに対する正式な行政命令『ファインディング(秘密工作許可)』が下達されます。九一一調査委員会によると、アメリカの管理下に移送せずとも、外国の代理人を使って彼らを拘禁する権限がCIAにあることが分かりました」
「ということは、裁判自体は受けることができるんですね?」
 良かった。それなら公平に第三者の目にも……
「いえ、できません。二〇〇一年の九月一七日、合衆国大統領は大統領府や司法省、日本の外務省に相当するアメリカ国務省からの一切の事前承認を得ずとも、レンディションを実行できる権限をCIAに付与しました。そして拘束、監禁、尋問という目的だけでもテロ容疑者と疑われる人物を刑事訴追を問わずに自由に移送、収容できる権限がファインディングされました。これが『スペシャル・レンディション』です。アメリカ軍での公式用語は『レパトリエーション(本国送還)』と呼ばれています。移送や管理が軍の管轄へと移行したためです」
 なんだそれは。
 山田はもはや何から指摘すれば良いのか分からなくなっていた。ただ自分がスペシャル・レンディションの対象になったという事実だけが、頭の中を巡った。
「あなたを警察署から連れ出したのが、『日本の公安警察』だと証明することは可能ですか?」
「それは……」
 会話から読み取っただけで、山田にも確証はなかった。
「私も、レンディションを日本がどこまで容認しているのかは分かりません。あくまで中継ぎで、本人達も何をしているか知らされていないのかもしれません。ただ、あなたが話してくれた『自分の携帯電話を利用された』という話も、証拠がなければ立証できません。レンディショングループと呼ばれる軍とCIAによる執行部隊もいます。秘匿性が高いようなので、あからさまに分かる格好ではないと思いますが……」
 それじゃあもう、分からないじゃないか……!
 まるで罪を認めてしまうような言い草で、山田は嘆いた。
「せめて、俺がやったことについて、もう少し詳しく分かれば……」
「スペシャル・レンディションになった理由も、ここにいる以上は私も分かりません。国際的に見れば、人権的に問題のある超法規的な措置です。刑事案件と違い、問い合わせる先もなく、回答も望めません。あなたがテロ組織やテロリズムと関わりがないという証拠がない。この場合、立証責任は検察ではなく、あなた自身となってしまいます」
 あまりにも無責任な発言に、山田は怒りを覚える前に驚愕した。
「あなたがしてくれんじゃないんですか? 何のための弁護なんですか?」
「実は、私は軍属の弁護士です。レンディションに関して言えば欧米では有名な話ですが、日本でおこなわれている事実は秘匿されています。守秘義務もあります。あくまでその中での人権保障と考えて下さい」
「軍属?」
「軍人以外で軍に所属する一般人のことです」
 結局、「そっち側の人間」ということか……
「なら、普通の弁護士を呼んでください」
「ここは人工島に設置された『キャンプ勝連』と呼ばれるアメリカ軍の基地です。一部の軍人や政府関係者以外は出入り禁止となっています」
「じゃあどうすれば良いんですか?」
「アメリカの捜査機関がテロ組織とは無縁と判断するまで、ここにいることになります」
「どのくらいですか?」
「この収容所では、まだ誰も……」
「他の収容所では最短でどのくらいですか?」
「全体を把握できないので、平均で数年としか……」
 心臓の鼓動が早まってくる。
 ここまできたら、どうしても訊きたいことがあった。
「一番長くて、どのくらいですか?」
「キューバのグアンタナモ収容所だと、長い人で一四年が……」
 一四年。
 誰かが助けてくれるかもしれない。
 そんな希望が、完璧に打ち砕かれた。
「ふざけんな!」
 山田は、テーブルの資料を横なぎに吹っ飛ばした。
 途端、面会室にある唯一のドアから大柄の男達が乱入。大声を聞いて、駆け付けてきたのだろう。椅子を引いた山田は、いっそのことこのままドアから飛び出してやろうかと思った。が、警備服と警棒で武装した男達の圧と、そもそもそんな力もないこと、そして出たところで自分のいる場所が島だということを思い出し、浮いた膝を戻した。
 何より——
『キレないようにな。クールに行こうぜ』
 竜崎も、こんな思いをしたのだろうか?
 ——いや、こんなレベルではなかっただろう。彼は信頼していた人間に裏切られ、二〇日間も勾留された上で、この仕打ちを受けたのだ。自分の比ではない。
 そう考えると、山田は次第に冷静さを取り戻した。握った拳から力が抜けていく。
「大丈夫、私がびっくりして落としただけです」
 床のペーパーを彼女が拾い集めるたびに、警備員が面会室から出ていく。山田は視線を合わせずに訊ねた。
「……どうして、日本でもレンディションが?」
「詳細は私にも……考えられることは、グアンタナモ収容所が国際世論の反発を受けて閉鎖され、その代替を見つける必要があった——でもその頃には、ブラックサイトの実情が欧米社会で露呈し、運営が難しくなっていました。そうすると人権意識の低い中東が候補に上がります。しかし既に何カ所か設置されている上、拷問国として有名な国も多い」
 資料をテーブルに戻し、弁護士は再び定位置に戻ると、山田を正面から見据えてきた。
「欧米でも中東でもなく、人権意識が低く、レンディションにも疎い上に、アメリカと密接に関与している国はどこか……」
「……日本か」
 必然的に出てきた最有力候補に、山田は嫌気が差す。そうなった原因の一つに、国際情勢は愚か、自国の制度にも疎い国民性があるのではないかと、考えてしまったから。そして、その象徴がまさに自分だと気付いてしまったから。
「日本の司法制度は非常に未熟です。世界的には中世以下と評されています。国連の自由権規約委員会や拷問禁止委員会から『取調べの全面可視化』、『取調べでの弁護士同伴』などの勧告を繰り返し受けています。なので、レンディションには都合が良い国です。『ホステージ・ジャスティス・システム』という単語は聞いたことが?」
 山田は首を横に振った。「ホステージ」がどういう意味かすら、分からなかった。
「国際的には日本の人質(ホステージ)司法のことをそう呼びます。弁護人の同席が認められないのは、東アジアにおいては旧北朝鮮と中国、そして日本だけです。捜査機関側の言い分しか聞かない日本の人質司法を恐れ、海外からの旅行やビジネスを考えている人達も、日本への渡航を躊躇しています。入国者を管理する出入国在留管理庁でも似たような待遇が待っていることも、理由の一つです。通訳を介したところで、曲解されて留置場に入る危険もあります。私の友人は喘息の薬を留置場に持ち込むことができず、そのまま死亡しました」
 そんな馬鹿な話、本当にあるのか。もし自分が糖尿病などの持病を患っていたら、考慮してくれるだろうか。インシュリンの注射が必要だと聞くが、考慮したとしても迅速に対応してくれなければ意味がない。
「弁護士として日本の人質司法は必ず学びます。日本のテレビドラマで被疑者に対して刑事が怒鳴ったり、机を叩いたりしますが、現代の民主主義国では国際法違反の良い例として教材になっています。また、犯罪者が他人の家の無線LANを中継して犯罪行為をおこなっていた時、日本の警察はその家主を犯人に関わらず逮捕した事例があります。誤認逮捕だとしても、一カ月近い人質司法に巻き込まれる可能性もあります。日本警察の取調べは事後情報効果という誘導尋問で使われる心理技術が使われています。これは話を誇大表現にしたりすることで、本人の記憶を改竄し、虚偽の自白に持っていく技術です。秘密警察や軍の特殊工作部隊、犯罪組織の拷問でも使用される手法です。私も日本の満員電車は避け、来日する友人達にはマルチツールナイフはもちろん、不必要なマイナスドライバーやライトをバッグや車に入れないようにし、常に録画や録音を考えるように注意しています。指定侵入工具として、仕事で使うという理由があっても手口捜査の対象になるからです」
「嘘だろ……」
「テロは既遂ではなく未遂を取り締まります。犯罪の成立要件の基本は結果ですが、その前提を覆すので慎重な検討が必要です。特に一九二五年に日本では『治安維持法』が施行されましたが、体制維持のために政府の方針に逆らう反戦思想などの持ち主の弾圧に利用されました。戦後は人権違反として廃止されたことで有名です。特別高等警察はご存じですか?」
「それなら、教科書や漫画で読んだことはありますが……」
 特高警察の古めかしい詰め所で「反戦的」、「お国のため」という理由でビンタや棒打ちなどの体罰を受ける一般市民の絵。ある意味、今の自分に重なるものがあると山田は感じる。
 自分は今、日本と米国の法、どちらが適用されて拘束されているのか? いや、どちらにしても、どういった行為が該当するのかが分からない。それが分からないから問題なのだ。
 ただ一つ言えることは——
「法治国家だからと言って、合法なら何でもやって良いということじゃないでしょう? 辻褄合わせているだけじゃないですか」
「納得ができない気持ちは分かります。日本は国民に自国の刑事訴訟法やスパイ活動について教育をしないと聞きます。ただ、テロや組織犯罪を取り締まるのは大いに必要なことです。国際的な連携も必要でしょう。問題はそれを扱う者達や既存の制度、解釈などが未熟なことです。特にホステージ・ジャスティスのある日本では、犯罪人引渡し条約を締結している国がアメリカと朝鮮連邦しかありません。先進諸外国では何十、何百カ国と締結しています。日本だけが二カ国なのは、日本の未熟な司法制度によって冤罪が発生するからです。その上、日本には死刑制度があります。私は死刑廃止の推進者ではありませんが、国際的に拷問国として非難されている国に自国民を引き渡し、仮に冤罪で死刑となった場合、政府として国民に説明ができません。特に同調圧力、忖度(そんたく)といった文化が根付いている国家は注意が必要です。集団心理により、思考停止に陥る可能性が高いからです……『常識』とは法律のことだと思っています。残念ですが、知らない方が悪いということもあります」
 淡々と事実を告げる目の前の弁護士に、山田は失望を隠せなかった。ただ、それも彼女なりの情を入れない方が真実を伝えられるという配慮なのかもしれない。いずれにせよ、他人の気持ちを配慮する余裕は今の山田にはなかった。
「理不尽だとは思いますが、現状は模範囚として過ごすのがベストだと思います。弁護士の名刺を面会室のアクリル板越しに見せられ、何となく把握するような状況ではないのが救いです——どうぞ」
 山田は手のひらサイズの光沢紙を受け取る。悔しいが、その通りだった。竜崎や他の囚人も、こうして彼女から名刺と説明を受けたのだろうか。
「……他の囚人は、どんな人達でしたか?」
「比較的高学歴が多く、犯罪とは無縁な人達です。テロの実行犯は貧困層ですが、計画犯は高学歴で極端なリベラリズム(自由主義)か、パターナリズム(権威主義)に染まっているという特徴があります。SNSでの発言や学歴、渡航歴などが調査されるようです」
「自分には全く該当しないですね……」
 もはやここまで来たら笑うしかない、そんな気持ちで冷笑を浮かべる山田。対照的に、彼女は歯切りの良い演説を続ける。
「日本国憲法には、第34条や第37条で『弁護人の援助を受ける権利』、第38条では『黙秘権』が保証されています。被疑者が弁護人の援助を必要とする場面は取調べです。世界的に治安が悪ければ、司法としては失格ですが、一人一人の被疑者に時間を掛けていられないという捜査機関側の苦痛もあるかもしれません。しかし日本は治安が良く、それと人質司法は関係がありません。日本特有の満員電車における痴漢冤罪には多少進展があったと聞きましたが、なぜ捜査機関側に有利な解釈の状態で放置されているのですか?」
「そんなこと言われても知りませんよ。学校でも習いませんし、悪いことをしなければ——」
 逮捕されない。
 そんな認識を、どうして今まで持っていたのだろうか。山田は言葉を紡ぐことができなかった。そして今思い返してみると、疑問に思えてきた。自国の政府は信用できない。しかし、都合の良い時だけ「信じて貰える。分かってくれる」という自己解釈があった。
 それは、なぜだろう?
「そうですか……少し勉強になりました」
 手元の資料をまとめにかかった弁護士に対し、山田は焦る。このまま打開策や希望も提示せずに、部屋から出て行ってしまうのか。
「誰かが動いたり、助けてくれたりしないんですか?」
「日本の年間行方不明者数は約八万人を前後しています。自殺者数も含めれば約一〇万人。その内、発見されないのが毎年数千人。犯罪が原因なのは約一パーセントで、ほとんどが家庭の問題や事業不振、認知症や疾病による徘徊などです。捜索願は親族しか出せません。また成人の失踪は『特異行方不明者』として扱われないので、警察の捜査活動もおこなわれません」
「特異行方不明者?」
「緊急性のある行方不明者のことです。最近の最多は二〇代で、約一五〇〇〇人前後。ただ成人の場合は明らかな状況証拠がない限り、捜索願が受理されません。それ以外は家出人として処理されるので、日本の行方不明者のデータは実際の二、三倍とも言われています。行方不明者届は受理数しかカウントしていないもあるでしょう。それとキャンプ勝連の収容能力を考えると、せいぜい数百人程度だと思います。仮に全員日本人だとしても、気付くのは難しいと思います。日本は毎年約一〇万人が逮捕され、九五パーセントがそのまま勾留されます。それと他国の収容キャンプと違い、ここは地下収容施設で、外部からは隔絶された上に出入りも航空機しかないので……」
 山田は思わず鼻で笑ってしまった。笑って、すぐに沸々と怒りが込み上げてきた。
 それは、自分自身に対しての怒り。
「何だってこんな理不尽な……」
 いきなり逮捕され、いきなりわけの分からない所に連れ込まれ、一四年も監禁されるかもしれない。膝の上で、右の拳を左手で握り、がっちりと組み合わせる。両親は気付くだろうか。いや、気付いて会社に言ったところで、警察はどう対応するのか。いくらでも嘘は吐けるはずだ。捜索願は受理し、その後は内部で揉み消されて終わりか。
 目の前の女性は顔を伏せていた。まさに「掛ける言葉も見付からない」といった具合だ。友人の無念を晴らすために弁護士になったのかは定かではない。しかしここで山田が暴れても、彼女がこの状況を招いたわけではない。むしろ味方側だ。
 前屈みになっていた山田は少し落ち着いて、今の自分が引き出せる丁寧さで愚痴をこぼした。
「四〇歳近くまでこんなところにいたら、発狂しちゃいますね……」
 人生は選択の連続だとはよく言ったものだ。
 あの時、携帯電話を渡していなければ。
 あの時、面接で別の会社を選んでおけば。
 あの時、大学へと進学していれば。
 あの時、ゲームプログラミングを独学で学んでいたら。
「確かに、俺の携帯は使われました。でもテロだなんて……」
「——外の人間からすれば、全員同じに見えてしまいます。特に日本では人質司法があり、国民も無関心で、推定有罪の空気が形成されています。逮捕されても『不当だ』と訴えることはできる。ですが、大半は色眼鏡で見られ、孤立します。逃げ場がなくなるので、必然的に受け入れ先が限定され、それが本当のテロや犯罪ネットワークの温床となっているのかもしれません。日本をレンディション先に選定したのは、例えリークされても『推定有罪』が根付いた国ならダメージを最小限にできるという考えもあったからだと思います。日本人は司法に時代劇のような勧善懲悪の展開を好むと言われているので、『第二のグアンタナモ』になっても後味の悪さが尾を引かない。そもそも漏れたとしても、アメリカに不利な報道はこの国では……」
 その台詞を自分が言うべきではないと判断したのか、彼女は話題を変えてきた。
「一つだけ気になることがあります。睡眠を妨害するような尋問や、水責めのような拷問を受けましたか?」
「いえ、特には。環境自体はホテルみたいに整っていますよ……他の囚人は拷問されているんですか?」
「ブラックサイトにはそういう目的もありますから——とにかく、模範囚として過ごすことがベストだと思います」と、女性は進言。
 山田も打つ手がないと分かった以上、頷くしかなかった。
「拷問とは肉体ではなく人間性を破壊する尋問のことです。ここには通信の権利も秘密もありません。これから毎週、私と会うことはできますが、兆候があったらすぐに教えて下さい。人は特定の状況下で慣れ始めると疑問を感じなくなり、思考停止していきます」

 ◆

 日本で一番「偉い」人は誰か?
 小学生までは「総理大臣」や「天皇」と答えるだろう。中学生では「最高裁長官」と答えるかもしれない。
「偉い」とは、権力を持っているということ。
 そういう意味では、高校生からは「財務官僚」と答える学生もいるだろう。しかし日本の政治家や国民、果ては内閣や裁判所も抗えない存在は別にいる。
 七〇一年から二〇〇一年まで「大蔵省」という名称だった財務省は、実に千年以上の歴史を持つ最古参の国家機関だ。一九四五年、第二次世界大戦敗戦後、GHQ(連合国総司令部)により主要省庁が解体される中、米国の占領政策を推進する代わりに存続を許された。そして戦後は、日本の実権を握る一大勢力へと変貌を遂げていた。
 日本の財政から金融機関、メディアへの影響まで所掌を広げる財務省は、「日本で一番偉い」と言い換えても良い。
 その証拠に財務官僚になるには、「学力」か「コネ」を限界まで突き詰める必要があった。ブランドと偏差値では日本一の東京大学。偏差値は七五であり、二倍にすると一五〇。知能指数(IQ)への換算は単純なものではないが、多少の誤差を考慮しても、平均IQが一〇〇と言われる国民の中では高い値となる。財務省に入省が許されるのは、そんな東大を卒業した学生でもごく一部。慣例では成績上位者から順に採用される。天下り先も大手金融機関が約束される。まさにエリート街道。次点で外務省、経済産業省と続くが、いまだにその肩書きは健在中。しかし最近は、「安月給で国会議員の言いわけを夜遅くまで考える職場」という内情が露呈し、人気が低下。代わりに外資系企業を選ぶ東大卒も増加し、一概には言えないのが現状だった。
 境正義(さかいまさよし)はそんな財務省のエリートを探しに、首相官邸三階の正面エントランスホールを訪れていた。
 全面ガラス張りの正面玄関と、中庭から差し込む陽光。
 灰色を基調とした黒御影石の床タイル。
 壁や高い天井にふんだんにあしらった琥珀色のアメリカンチェリー材。
 周囲を木目調の空間に囲われ、格式の高さが視覚だけでなく空気からも伝搬(でんぱん)するほどの壮観さ。
 それらに見合う形に境は、革靴とスーツでビジネス武装。階段を下りた先のホール中央では、外務大臣が官邸記者団に囲み取材を受けていた。日本の首相官邸は地上五階、地下一階という構造。斜面の上に建築されたため、東に位置する国会議事堂側の正面玄関は、地上一階ではなく三階に設けられている。一階と二階は半地下の状態であり、一階西側、つまり赤坂側にあるゲートから入れば、一階や二階から入ることが可能。一階は業者などが搬入搬出に使用し、二階は南側にある庭園から入ることができる。
 機能美より様式美を重視した構造だと、境は判断していた。
 壁側で目立たないように静観していると、大臣の近くに佇んでいた長身痩躯の人物が、境に接近。目の下のクマのせいで、がっちりとした体格の境でも迫力を感じるほどの凄みを帯びていた。
「——どこから入った?」
「自販機の補充業者と一緒に、西門から」
 二人で階段近くのエレベーターに早足で搭乗。『1F』と書かれたボタンが押され、ドアが閉まったことを確認してから境は質問。
「大臣は何の言いわけをしているんだ、安藤?」
「ロシアに対する経済開発援助と、北方四島の返還に関する質問を受け流している。当分掛かるだろうな——新しい登録証は?」
「ない。部下に前日までに届けさせると言っていたが……」
「ああ……悪かったよ。こっちのミスだ。地下の中二階で、うちの局長が待っている」
 眠そうな表情で目頭を指で押さえる安藤。
 地下ということは、危機管理センターか。このエレベーターからは行けないので、一階から地下通路と階段を使って向かう必要がある。停電時にエレベーターが使えない場合の対策だが、面倒と言えば面倒だな。
「官邸の入り口と内部の警備がザルなのは相変わらずだな」
「辛口はほどほどにな。官邸警務官も八〇名から一〇〇名に増やしたんだから」
「NSSと同じ規模か。外は民間警備会社と官邸警備隊がいるとして、中は総理の身辺にいるSP(セキュリティポリス)しか動ける人間はいないだろう」
 官邸警備隊も「警視庁警備部警護課」——いわゆるSPに所属していたが、侵入者に対して危険対処ができるか境は不安視していた。一〇〇名を五班に分け、朝の八時から翌日の八時まで交替時のみ巡回をおこなう勤務形態。三〇分もしくは一時間に一回、一〇分休憩を統括警務長か副統括警務長の方針で入れる。半分を寝かせて早番、遅番とローテーションが組まれていた。が、ほぼ全員が定年後の糊口(ここう)を凌(しの)ぐために来ていた。非武装で警備や格闘経験も少ない。何より士気が低く、平均年齢は境と同列なのが実情だった。
「平均年齢五〇歳を超えた国にふさわしい編成だろう? 外のバスに武装させた銃対(銃器対策部隊)を詰めているから、官邸内に不審者はいないって前提らしい。それはそれとして、NSSの情報班になった俺の立場も考えてくれよ。日本の情報コミュニティーは今も警察派閥が強いんだから」
 エレベーターが到着し、二人で一階の廊下に出る。大股でカーペットを踏みながら、何人もの官邸職員とすれ違い、記者会見室の横を通り過ぎる。
「財務省出なら経済班じゃないのか?」
「派閥の拡大だよ。今の総理の首席秘書官は財務官僚、つまり現政権は財務省のバックアップを受けている」
 政務担当首相秘書官は総理の相談相手。政界での長年のパートナーを指名するのが慣わし。だが——
「忖度の間違いだろう」
「今のうちに息のかかった人間を入れておきたいんだ。どっちにしろ、俺達にとっては情報班の方が都合が良い」
 長い廊下を進み、コンクリート製の緩やかな階段を下りる。これまでの光景に比べたら、いささか無骨なおもむきだった。
「総理は五階か?」
「ああ、執務室で結論ありきの会議に時間を取られている頃だ。歴代ナンバーワンの『瞬間湯沸かし器』って評判だぞ」
「三役の頃からだろう」
 自由民主党の「幹事長」、「総務会長」、「政務調査会長」——この中で自民党のナンバー2である幹事長を経験した議員の三割は自民党の総裁に選出されている。日本は実質、一党独裁なので、幹事長の職を総理になるための登竜門と考える議員も少なくない。現に、今の首相はその内の一人だった。
「それと首相動静欄をネットで確認した。毎週火曜と木曜に報告する内閣情報官との面会回数が減っている。俺達にとっては逆風だ」
 境は新聞各社が朝方に出している首相動静欄で、前日の総理大臣の行動を常に確認していた。分刻みで発表されているスケジュールには「午前九時一〇分、衆院議員宿舎発」、「午前一〇時九分、報道各社のインタビュー」、「正午、日銀総裁と食事」、「午後八時三八分、衆院議員宿舎着」など、面会相手の情報が記されている。会話の内容はもちろん非公表。だが、国内外の情勢を知っていればおおよその推測が可能だ。同時に現政権が「何に力を入れているか」を知るための重要なファクターとなる。それは国家元首の行動を公表している多くの民主主義国にも言えることだった。特に旧社会主義国が外交相手の場合、何を考えているかを捉えるための判断材料となる。民主主義国と違い、社会主義国は情報公開に閉鎖的だからだ。
 そんな中、日本のインテリジェンスマスターであり、NSS局長と同じく総理に対して唯一、報告を実施できる「官邸官僚」の一角「内閣情報官」。その文字が動静欄の中で見付からないという事実は、情報畑にいる者達にとって非常に興味深い要素の一つだった。これまでは最低でも週一回、二〇分は時間を設けていたのでなおさらだった。
「情報軽視の風潮はあるかもな。しかもうちの局長と首席秘書官は、対外政策に関して言えば水と油だ。総理の判断が二転三転する要因にもなっているらしい」
 危機管理センターへの出入口である横開きの自動ドア。その真横のスロットに安藤がカードキーを差し込み、境は口を開く。
「官僚は早口だからな。IQに差があるなら、EQ(協調性・心理的知能)で補わなければ会話が成立しない。大人と子供だ」
「どっちも駄目なら?」
「既存のアプローチでは不可能ということだ」
 幹部会議室の前を通り過ぎ、再び現れた半透明の自動ドアにカードキーをセット。そのまま照度の低い廊下を足早に進み、オペレーションルームの前へと到着。再びカードキーを挿入し、二人で立哨の警務官に携帯電話などの通信端末や電子機器を預け、入室する。
 オペレーションルーム内は、エントランスとは別の意味で壮観だった。映画館並みの広さとまではいかないが、壁にはスクリーンの代わりに大モニターがある。その左右に二つずつ中モニターがあり、小モニターとなるデスクトップPCのディスプレイは何台も並べられていた。劇場の観客席の代わりに、横四列の長いデスクスペースが正面の大モニターに向かう形で設けられている。各省庁から出向した白シャツの職員達が格闘しているのは、もっぱら小モニターの方だった。国内外の情報が内閣府庁舎の六階にある「内閣情報調査室(CIRO=サイロ)」などを通し、定期的に届けられているからだろう。危機管理センターに接続されているのはあくまで各省庁、米国との指揮通信システムと有線電話であり、一般のネット回線や記憶媒体とは無縁の空間。通信機器を持ち込んだとしても、そもそも電波は入らない。一応、有線化システムという携帯電話に回線コードを繋いで、着信があった場合に自席まで転送する棚はあった。ただ、政治家を筆頭にこれら不便な環境は嫌われ、危機管理センターに寄り付く人間は限られていた。
 二人で簡易的な階段を上ると、中二階となる小部屋を安藤がノックする。「どうぞ」という渋い声が聞こえ、入室を許可された。
 二台の有線電話。一台のテレビ。そしていくつかのソファとテーブル。せいぜい一〇人も入れば、いっぱいになるスペース。そんな部屋で、NSS局長はどことなく落ち着かない様子で腕組みしながら佇んでいた。薄い眉毛と大きな額、黒縁眼鏡を掛けたその顔は、入ってきた境達ではなくオペレーションルームを一望できるガラス窓に向けられている。安藤がドアを閉め、室内に三名しかないことを確認すると、局長はソファに二人を促し、自分も着席して指を組んだ。
「——工場での件は『機関長』の一声で不問になったよ。他の省庁は不満だらけだったけど」
 相変わらずの単刀直入。悪くない。
 クビでも良いがね、という皮肉を境は抑える。
「今日伝えようと思っているのは、新しいアプローチには管理者が必要、ということなんだよね」
 口調は相変わらず柔らかい。しかし、眼鏡の奥から厳しさを湛えた眼で境の顔を見据えてきた。
「特に境君のようなベテランの。キャリアとしても最後の仕事になると思うよ。後進の育成は得意だよね? 君が育てた諜報員は関係諸国からの評価も高いんだよ。特に『対象国』からはね」
 仮想敵国の隠語だ。
 社交辞令でも思わず片頬笑(かたほえ)む。しかし、「新しいアプローチ」とは何だ? 志願の対象者や採用枠を変えるということだろうか。
「今期の出内機関における課程教育での指導官、という話ですか?」
「半分はね。前に受け持ったクラス二九七は今でも語り草になっているよ。志願者が全員、元の職場に帰されたとか、前例にない内容だったとか」
 一〇年以上前の学生達を、境は思い出す。残念ながら、「長期的リアリズムの国益」を勘違いしている輩ばかりだった。
「冷戦時代の遺物のような課目から、現代版にアレンジしただけです。根性で耐えればクリアできるような課目から、欧米諸国の基準にしただけで原隊送還された。日頃の合理化軽視の影響でしょう。命令ではなく任務に忠実な人間が必要です。その上での衝突は反抗ではありません。善悪の判断は必要ない、徹底したリアリズムが必要です」
「島国の人間は差し迫った危険がないと動かないものだよ。特に血盟団の脅威は理解されにくい。目的も明確じゃないし、目立つ点で言えばロシアンマフィアや暴力団、半グレとの銃器密売、マネーロンダリングに関わっているくらいだ。NSCでの認識は新手の半グレと変わらないよ」
 一瞬、腕時計に目を移した後、局長の口元が緩む。
「境君のレポート、読んだよ。『将来への不安や閉塞感、経済的困窮による自国産テロが人質司法の影響で更に加速。国内での武力革命や民族主義の機運が高まる可能性あり』とは、面白い内容だ。いささか急いだ理論だから、閣僚クラスまでは上げてないけどね」
 境自身は、急いでいるつもりは一切なかった。
 備えるのが仕事だろう。
「ただ、テロや戦争はこの国では儲からないし、人類の死亡理由の一パーセントに過ぎない。私は外務省出身で、今は警察官僚が幅を利かせている。人質司法など持ち出したら、弁護士と同じで『あの人権派のリベラルはなんだ』と隅に追いやられる」
 前頭葉から薄くなってきた頭を撫で、局長は苦笑いした。
「今の首相——具体的に言うならば秘書官は、かなりのナショナリストだ。保守系団体の後援会や地盤を引き継いでいる。弱腰と見られれば、総理との調整に支障をきたす。それはリアリズムではない」
 下らない派閥争いだ。境は内心で一笑に付す。しかし、それも政治の内だ。自分にできないことを指摘するのは、他人に犠牲を強いることと変わらない。
「政治的な判断に口を出すつもりはありません。ただ、有事は性善説で動きますが、平時は性悪説をベースに考えるという論もあります。それも同一の民族であり国内が前提です」
「血盟団の構成員も日本人なのかね……篠原君は残念だったな」
 境は押し黙った。
 安藤が助け船を出す。「もう半分の件は?」
「こちらで訓練を施した人員を、血盟団に送り込む」
 はっきりと言い切った局長の顔を、境は思わず凝視。
 今更、何を言っているんだろうか?
 同じ意見だったのか、安藤が失礼のない程度に進言する。
「これまでも機関員を潜らせる作戦は立案してきましたが、そもそも相手の拠点も構成も——」
「ゲストを送り込む」
 一瞬、安藤と目が合った。
 脳裏をよぎるのは、尋問プログラムを受ける男と、ゲスト二名の顔写真。
 目の前の人物が言いたいことを悟り、境はそれを口に出す。
「——つまり、血盟団に対する敵愾(がい)心を煽り、ゲストを餌としてアセットにすると?」
「境君も散々言っていたじゃないか、『新しいアプローチ』が必要だと。本格的なケースオフィサーとしての訓練を施す必要があるね」
 そんな信頼の置けない連中を鍛え、チームに加えろと?
「危険です。『敵の敵は味方』といった中東のルールのような——」
「私の案じゃないよ」
 日本でレンディションがおこなわれている事実を知る人間は少ない。間違いなく、自分の下にはいないだろう。すると必然的に、局長以上の人間ということ。内閣危機管理監や総理大臣から提案することはない。ということは——
「機関長からですか?」
 目の前の老人は否定も肯定も相槌もせず、話を進める。
「今回のゴタゴタはカウンターパートの方でも揉めたらしい。まあ、米国の国務省とペンタゴンが対日方針で争うなんて今に始まったことじゃないからね。過去の成功体験を捨て切れない日米は、いまだに迷走中だよ」
「カウンターパートも信用できません。周知のように、二〇二一年にイスラム主義組織がアフガンの首都を制圧するまで、一カ月から三カ月は掛かるとCIAは見積もっていました。ですが実際は五日で大統領府を占拠、政権樹立した。CIAの友人も——」
「ウッダード所長とも少し前に話は付けてあるよ。もう始まっているんじゃないかな」
 ——あの狸め。
「まあ、それを反省したのか二〇二二年のロシアによるウクライナ侵攻も予測は当たっていた。あと境君のトレイシーシステム、結果を出さなければゲスト制は廃止するらしい。NSCでの決定だ」
 境は二度目のだんまりを決めた。
 早すぎる。まだ二名しかいない。結論を急いでいるのは一体どっちだ……!
「結果を求めるか、新しい手を考える必要があるね。古い時代の最後の諜報員をお払い箱にしようと躍起な連中もいるんだ。警察庁の上層部も、過去の功績でホワイトハウスにパイプがあるのが厄介だと考えているらしい。敵は外だけじゃないからね」
「前回のオペレーションの提言者に叩かれるとは光栄です。『数年待てば消える』と伝えておいてください」
 その時は、あらゆる手段を尽くして道連れにしてやる。
「その時は、私も道連れにしてくれよ?」
 一瞬、思考か表情を読まれたのかと思った。が、実際そうなのだろう。境は悟った。この好々爺(こうこうや)は街を歩けばただの老人にしか見えない。だが、その正体は日本のインテリジェンス・コミュニティーのレベルをどん底から押し上げた功労者なのだ。
「俺も処分で良いんで、最後に爪痕残したいですね」
 安藤が薄い笑みを浮かべてそう言うと、つられて境もにやけてしまった。
「まあ、官邸内で愚痴をこぼすのはここだけにしよう。この後の報告も一〇分しか時間をくれなくてね。安全保障や情報分野にも理解を示して欲しいなあ」
「安全保障は票にも金にも繋がりませんから」と、安藤が慰める。
「うーん……出内機関の予算は官房機密費(内閣官房報償費)ではなく、外務機密費(外務省報償費)だ。毎年約三〇億円が計上される。領収書も監査も必要ないブラックボックスだけど、そこから雀の涙程度しか割り当てられない。機関長からの『特別費』を除けば割当増資もなし。『協定』への参加条件の一つだったからね」
 安藤は嘆息(たんそく)した。
「あれは……国益とは言い切れません。危険性もあります」
「うん。でもね、一応、日本も自由資本主義世界の一翼を担っている。いつもの『金だけ出して』は通用しなくなった。金も技術も外交カードとしての強みがなくなったしね。周りの国も追い付いてきたから」
 それは没落を言い換えただけなのかもしれない。「世界で最も成功した社会主義国」も、このままでは二二世紀で通用することはないだろう。
 有線電話に着信があった。局長は慣れた手つきで素早く取り上げると、「分かった」とだけ言い、受話器を置く。
「じゃあ課程教育の件、頼むよ。ゲストの方も、やり方は所長と調整しといてくれ」
 局長が境の肩を叩き、中二階から退出。境は安藤と立って見送った。
 ドカッとソファに腰を下ろした安藤は、「今日はもう終わりか?」と大きなあくびをしながら訊いてきた。
「帰って報告書とLP(レッスンプラン)作成をする」
 例の二名の件も、何とかしないとな。
「相変わらずだな。前回の資料を流用すれば楽だろうに」
 境は腕時計で時間を確認。まだ夕方にはなっていない。今から帰れば、夜までには自宅に到着できる。
「教育訓練は時代によってアップデートされる」
「徹夜明けに一杯やろうと思ったんだけどな」
「仕事以外じゃ飲まない」
「お前のバイタリティは一体どこから出てくるんだ?」
「常に最悪の展開しか考えない性分なんだ。お前も想定外をなくすのが仕事だろう?」
「……自分の人生を犠牲にしてまで、尽くす価値を教えるのか?」
 それは、どっちの意味だろうか?
 その場を立ち去ろうと背中を向けた境は、少し遅れて振り返った。
「教えることはできない。気付かせる手助けをするだけだ」
「——財務省と内閣に接して四〇年。分かったことは、結局、一部の人間が頑張っても意味がないということだけだ。国家や国民のためと思って、外資系を蹴ったのが運の尽きだ」
 立ち上がった安藤は、自嘲を浮かべることもなく、死人のような顔でドアノブに手を掛けた。境は安藤に続き、部屋を出て階段を下り、出口へと向かう。その間、オペレーションルーム内で働く内閣情報集約センターの職員や、重要官庁との直通FAXの前で待機する人間達を、安藤は殺伐とした表情で眺めていた。皆、自分達より二回り以上は若かった。
「国家公務員の定年が七〇歳に引き上げられ、数年以内に辞める若手官僚は七人に一人から、五人に一人になった。そりゃあ、若手官僚の五〇パーセントが残業時間の過労死ラインを超えて、朝の九時半から二一時半まで働くスタイルを続ければ誰でもそうなる。特に財務省では残業代もほとんど出ない。意見具申だの提言だの、そんな人種は絶滅危惧種だよ」
 内閣に出向する前の皮肉屋の表情に戻る安藤。その絶滅危惧種の側だった人間として、彼は後進達をどういった感情で見詰めているのか。
 彼らの足だけは引っ張るな。そんな人間にまで堕ちるな。
 境は僅かな願いを込めて、慰めにもならない言葉を吐く。
「組織を変えるには二割を変えれば良い。空気感染で変革に繋がる」
「そんな二割はもういないんだよ。いたとしても、良い方に振れるかは分からない。世界大戦だって二割が起こした」
「——既存の方法ではリクルートできないだろうな」
 境は局長から言われた言葉を、自身の中で反芻した。
「俺もここで終わるつもりはない。『次の世代に託す』という言いわけを使い過ぎた。若年層に責任ある仕事を任せ、失敗を許して成長をさせなければならない」
 カードキーを取り出し、自動ドアのスロットに差し込んだ安藤の横で、「日本は二度目のチャンスがない国だからな。俺達で終わらすしかないさ」と、境は旧友を励ますつもりで呟いた。
 言葉に疲労が混じっている事実からは、意識を背けた。

 ◆

「絵心がなくて……」
「いや、人物の特徴をよく捉えていると思うよ。職人気質(かたぎ)だ」
 弁護士との面会が終わった後、そのまま引率され、山田はウッダードの事情聴取を受けていた。ウッダードはバッハとマルティニとされる何点かの写真を一瞥。「変装の可能性もあるからね」と、会議用テーブルの隅に押しやった。代わりに山田が描いた二人の似顔絵を、テーブルの中心に置く。
「ビッグサイトにあった防犯カメラの映像は、日本の捜査機関が先回りして回収してしまったらしいからね。二週間分は記録されているはずだけど、警察権力に盾突くことになるのか、管理会社も譲ってくれなかったらしい」
 やっぱり……留置場の人が言った通りだ。取調室で喋るべきじゃなかったんだ。
 山田はうつむき、ため息を吐いた。ウッダードの取調べは薄暗い尋問部屋ではなく、お洒落なインテリアが飾られた会議室で始まった。立会人はさきほどの女性弁護士一名のみ。部屋の隅で回転椅子に掛けている。たまに手元の書類から顔を上げつつ、山田とウッダードの会話に耳を傾けているようだ。二〇名程度が入室できる会議室にはオフィスマットが敷かれ、室内外からも音が漏れ聞こえることはなかった。非常に静かだ。テーブル越しに対面で回転椅子に座る山田とウッダードの前には、紙コップが置かれている。中身は湯気の立ち昇るインスタントコーヒーだった。
「——それで携帯電話を勝手に使われて、今にいたる、と。竜崎から色々と聞いたようだね。なら話は早い」
 ブラウンの老眼鏡を外したウッダードはそう言うと、目を閉じて鼻筋を揉んでいた。地下のせいで日の光から時刻は推測できない。が、山田が天井近くのアナログ掛け時計を見ると、既に夕方だった。
 夕食が出てこないのは、思考能力を鈍らせないためかな……
 部屋を見渡し、レトロモダンの暖かい照明をしばらく眺め、隅にいる女性を見据える。この際なので、山田は全てを訊こうと思った。
「本当に日本以外では弁護士同伴なんですね」
 女性が顔を上げる。
「あ、いえ……被疑者が立会いや黙秘権を行使した時点で取調べが中止になることが多いので、アメリカでも取調べの際に弁護士が立ち会うことは少ないです。ヨーロッパでは欧州連合(EU)が『刑事訴訟においての弁護士へのアクセス及び通知する権利』を加盟国に義務付けており、取調べでの同伴が許されています。台湾や旧韓国などでも同じです」
「じゃあ、ドイツやフランスでも弁護士同伴なんですか?」
「いえ、取調べの際は同伴できません」
「え?」
 面会室で言っていたような、これまでの勢いが削がれるような展開に、山田は不安になった。
「違和感があるようですが、それは自国の司法を英米法(コモン・ロー)と大陸法(シビル・ロー)、どちらと比べるかで変わります」
 聞いたことがない単語だ。
「日本はどっちなんですか?」
「戦前の日本は憲法をドイツ法、民法をフランス法などの大陸法から取り入れました。戦後の憲法は英米法です。現在の日本はこれら二つを合わせ、アメリカ法の影響を大きく受けた複雑な体系を持っています。オーストラリアやインドなども採用する英米法は大陸法に比べて弁護士が多く、勾留期間が短期です」
「我々の国であるアメリカは弁護士の数が多い。それと大陸法を採用している国家を比べるのはナンセンスということだよ」と、似顔絵が描かれた用紙と写真を交互に見比べていたウッダードが補足。
「例えば、日本が大陸法のみを導入し、新興国であり、社会主義国だと表明すれば問題ありません。しかし英米法を導入し、先進国を名乗り、民主主義を謳いながらも、体制側に有利なホステージ・ジャスティス・システムがある。それが日本の刑事司法が国際的に非難を浴びる理由の一つです。未決拘禁制度を捜査機関側が自分達に有利に解釈しているのが問題なのは変わりませんが」
 一概には言えない実情。単純に非難していた山田の思考は、少しクリアになった。が、同時に基本的な疑問が沸々と湧き上がってきた。
「どうして日本は弁護士が取調べに同伴できないんですか?」
「できます。日本の犯罪捜査規範180条2項では、弁護士の立会いを前提とする規定が書かれています。刑事訴訟上も立会いの権利を否定する規定はありません。なので、捜査機関側が自分達に都合の良い解釈をしていることが問題なのです」
「今まで誰か変えようとした人はいたんですか? というか、『都合の良い解釈』とはなんですか?」
「日本の現行刑事訴訟法は、戦後直後の社会情勢を前提として作られているので、現代に合わせようと弁護士や一部の人間が動いています。ただ日本政府や法務省、捜査機関側は『被疑者と取調官の信頼関係が損なわれる』、『捜査方法や情報源が弁護士に知られる』、『身体拘束期間内に取調べが終わらない』、『取調べの機能が低下する』といった反対意見を述べているようです」
「信頼関係?」
 山田はそう吐き捨て、鼻で笑った。
 あんな取調べで一体、何を信頼しろと?
「こういう時は、笑い飛ばすのが一番かもしれません。一〇年以上、レンディションされて正気を保っていた方も、機知に富んだユーモア溢れる人物だったそうです。それに七年間拘禁され、初めて受けられた裁判で勝訴しましたが、釈放されたのは更に七年が経過した後でした」
 なるべく穏やかな表情で語り掛けてきた弁護士に、ウッダードも空笑いで便乗。
「人質司法は、日本が自国民を相手にレンディションしているようなものだからね」
「笑い飛ばす」——確かに、普通に考えたらおかしな状況だ。
 それを聞いて、山田は自嘲気味に頬を歪ませる。何だか少し、気持ちが楽になったような気もする。
「それに、日本の取調べに弁護士が同伴できるようになったとしても、根本的な解決にはならないと私は思うよ」
「なぜですか?」
「通常、欧米などの民主主義国の場合、取調べは一時間以内だ。大半は二、三〇分で終わる。それも複数回おこなわれることはほとんどない。逮捕されて二四時間から四八時間以内に保釈が認められるのが原則で、その後に取調べを受けることもない。自宅でこれまで通りの生活を送りつつ、公判を待つだけだ。捜査官が無理な取調べや自白を迫った場合、同伴する弁護士が取調べを中止させることが可能だ。数時間、数日後には裁判官の前に連行され、捜査官の尋問が続くこともない。一方、日本は連続で二三日間、弁護士同伴なしで、長いと一〇時間以上、しかも連日複数回を密室で受ける。起訴前に拘禁できる日数はアメリカ、カナダ、ドイツ、フランス、スペイン、北欧やスイス、イスラエルなどは三日もない。最長で一日から三日だ。オランダ、イギリス、メキシコ、イタリアなどは六日未満。トルコとアイルランドが九日未満。オーストラリアが一二日以下。旧韓国は二一日未満。主要民主主義国を標榜する国家では日本だけが二三日も拘禁する。その間も弁護士を警察や検察の取調室に同席させるのは現実的ではない。恐らく、そういった条件で来る弁護士は……」
「新人か、体力はあるが仕事がない『いわくつきの弁護士』だけ——ということですか?」
「日本以外の民主主義国で『弁護人の取調べ立会権』が認められているのは、取調べを受けることが義務ではないからだよ。『取調べの受忍義務』を廃止しなければ、ある意味で人質司法の対象に弁護士が含まれ、余計に悪化するだけだよ」
「なら、その違法性をどこかに訴えれば、何とかなりますか?」
「過去の判例では否定されています」
 女性の方に向き直ると、彼女は手元の書類を見ながら答える。
「一九九九年、日本の最高裁判所大法廷は『取調べ受忍義務を課した取調べは黙秘権侵害とは言えない』、『取調べのために弁護人と被疑者の接見を制限しても、黙秘権侵害にはならず、弁護人の援助を受ける権利の侵害にもならない』と、一五人の最高裁判事が全員一致で判断しました」
「日本が駄目なら、国際的な機関に何かに言えば……」
「日本も一九七九年の国連総会において、人権の国際的な保障を目的とした多国間条約である『自由権規約』を批准しました。これは国際人権法の中で最も基本的なものです。中国などを除き、世界中のほとんどの国が締約しています。自由権規約の条約に強制力があると解釈する裁判機関は存在しませんが、規約上の義務を履行していない締約国がある場合、他の締約国から自由権規約委員会に国家間通報することは可能です。自由権規約の第一選択議定書に参加していれば、個人通報することも可能です」
 なんだ、あるじゃないか。
 それが良い。通報しよう。
「個人通報はどうやるんですか?」
「日本は参加していないので出来ません。厳密に言えば、日米ともに自由権規約の締結国ですが、自由権規約の第一、第二選択議定書ともに参加していないのです」
「国連以外の機関は駄目なんですか? 何かもっとこじんまりとした——」
「日本は不可能なんだ」
 どうしてこの国だけ不可能なんだ。
 山田は思わず憎しみを込めた視線を、全否定するウッダードにぶつけそうになった。
「第二選択議定書は死刑廃止が条件なので各国の事情がある。しかし、アジア地域において第一選択議定書に参加していないのは大きな意味を持つ。ヨーロッパやアフリカ、アメリカ大陸には地域人権機構があり、議定書の個人通報制度がなくとも同じ働きをするからね。しかし、アジアにはそういった通報先もない。日本も自由権規約委員会から再三、批准勧告を受け、国際的な場で個人通報制度導入を促されているが、全て拒否してきた」
「どうしてですか?」
「日本側は『司法権の独立が懸念される』、アメリカは『国家主権の侵害が懸念される』という理由で議定書には批准しなかったんだ」
「『司法権の独立』って、人質司法とレンディションのことじゃないですか……!」
「そうだね。日本の国民は信じられないかも知れないが、国際的に見れば日本は拷問国なんだ。歴史から紐解いても、それが許される土壌が備わっているという見方が強い。他に批准していないのは中国や旧北朝鮮、中東、アフリカ諸国の一部、そして東南アジアだが、アメリカにとっての同盟関係を考えれば、レンディションにはうってつけだったんだろう。それと、レンディションはここができた理由の一つに過ぎない。元は沖縄の普天間基地を辺野古に移し、そこから更に勝連半島へと移設した。知っていたかい?」
 ウッダードがコーヒーを飲んでいる間に、山田はニュースや学校で知り得た知識を総動員して、回答する。
「普天間基地移設問題ですか? 詳しくは知りませんが」
「グアンタナモを始めとしたブラックサイトにいる五〇〇人近い囚人を移送、分配収容し、施設を閉鎖する必要があったんだ。国際社会の非難を鎮静化し、当時の民主党政権としても、そろそろ公約を守る必要があった。そこに辺野古の地盤沈下が問題視された。移設前から懸念されたことだったが、政治的な判断だったんだろう」
 ウッダードは書類をテーブルに並べ、淡々とした説明を始める。
 一九四五年、普天間飛行場は米軍のB29爆撃機の基地として建設された。
 五七年には米陸軍から空軍、六〇年には在日米軍海兵隊の飛行場に指定。国連軍後方司令部、嘉手納(かでな)基地と那覇空港への代替飛行場、災害時の緊急ハブ空港としての役割が与えられる。
 海抜九五メートルの高台に、二七四〇メートルの滑走路。
 それらは沿岸部にある那覇空港や、東日本大震災で打撃を受けた仙台空港などと比べ、災害に強い。普天間基地では地上及び航空部隊が併設されていて、海兵隊と共同で各種任務や訓練に従事していた。
 しかし、基地が市街地にあることが住民の感情を逆なでする。加えて、九五年の沖縄米兵少女暴行事件や、二〇〇四年には沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落する事件が発生。反米感情や基地返還への機運が一気に高まっていた。
 その影響で九六年、「沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会」——通称「SACO」の最終報告により、普天間基地返還が両政府の下で合意。当時の防衛庁の意向と地元の利権争いにより、移設先に沖縄本島中央部の東海岸にある辺野古を選定。
 このSACO合意により二〇一七年、本格的に辺野古工事に着手。二〇三〇年代前半を目途に移設開始予定となっていた。
 しかし地盤の軟弱性、災害による浸水やインフラの老朽化が取り沙汰される。最終的に移設先が見直され、沖縄本島中部の勝連半島沖に人工島を埋め立て建設。二〇三二年に「勝連基地」へと移設が完了。普天間基地は返還され、那覇空港は民間の国際空港となり、自衛隊から改称された「日本国防陸軍」は名護市のキャンプ・シュワブ、「日本国防海軍」は嘉手納基地へと移される。
 そして、併設した地下収容施設「キャンプ勝連」には、閉鎖されたブラックサイトの住人達を秘密裏に移送し、今にいたる——とのことだった。
「今は二〇三四年。オリンピックとワールドカップの年だから、約二年前の話だね」
 それは詰まるところ辺野古基地の問題が表面化する前から、収容先の候補を選定していたということだろう。
 公的な誘拐。日米の合意。
「どうして……日本政府はそれを承諾したんですか?」
 ウッダードは一瞬、真顔になった後、朗らかな笑みを浮かべた。
「さすがにそれは分からないな。私もそんなに偉い人間じゃない。あくまでここの管理が仕事のロートルだよ」
 それが嘘だとしても知る術もない。答えてもくれないだろう——しかも、会話には良く分からない単語が多く出てきた。
「あの……話に出てきた海兵隊って……」
「ああ、アメリカ軍の一部だと考えてくれ。装備は陸軍のお下がり、予算は海軍のおこぼれ。何度も廃止寸前の憂き目に遭う遠征用の部隊だよ」
 首をかきながら愚痴のように嘆くウッダード。古巣だったのだろうか。
「いずれにしても、恨むなら『血盟団』だ」
「『けつめいだん』?」
 急に現れた聞き慣れない単語。意味を訊く前に「お、ヤマちゃん」と、ドアを開けて竜崎が入室。ウッダードが「座ってくれ」と言い切る前に、竜崎は山田の隣に着席した。長い脚をテーブルの下で遠慮なく思いっきり伸ばしている。事前にウッダードが呼んでいたのだろう。手錠はなかった。
「『血の同盟の集団』と書いて血盟団——君や竜崎を陥れた組織犯罪集団だ。武器の密輸や、ネット上の不正取引におけるマネーロンダリングなどに関わっているが、その実態は掴めていない」
 ウッダードは黒のファイルケースから、白黒写真がプリントされた何枚かの用紙をテーブルに置く。写真には時代劇に出てくる虚無僧(こむそう)や、浪人が被るような深編笠(ふかあみがさ)で顔を隠し、大勢と共に椅子に座っている人間達が写っていた。
「一九三二年……政治暗殺集団?」
 写真の下に書かれた説明文を山田が読むと、竜崎が「辻斬りでもしそうな見た目だな」と、用紙を目線の高さまで持ち上げた。
「それは今から百年ほど前、『一人一殺』を掲げ、財閥の理事長や元財務大臣に政治暗殺テロを実行し、クーデターを画策した一六名の集団だ。首謀者は日本海軍将校の支援なども取り次いだ、元日本陸軍の諜報員の一人だった。動機は政治的、宗教的思想や貧困などもあり、一概には言えない」
「スパイってことか?」と竜崎。
「広い意味ではそうだ。諜報員とは『インテリジェンス・オフィサー』、『工作担当官』と呼ぶ。CIAでは『ケースオフィサー』、ロシアでは『イリーガル』、日本では公安捜査官のことを『公』の漢字を分解して『ハム』と呼んだりね。諜報員は自分から情報を得て、雇用先に流すこともあるが、情報を盗みたい国家や組織に内部協力者を作る方が、効率が良い。内部協力者は『エージェント』や『アセット(資産)』と呼ばれ、多くの協力者を得た諜報員は『ハンドラー』となり、そのまま表彰や昇進にも繋がる。ハンドラーを束ねる『スパイマスター』ともなれば大物だ。現役時代の諜報網を駆使し、民間の世界で出世する者達も少なくない。協力者としてありがちなのは、取材能力や情報統合能力に長けているジャーナリストや作家、図書館員、興信所の探偵などが代表的だね。イスラエルなどでは映画監督のエージェントも存在した。本当は国家機密や企業秘密に詳しい偉いさんをエージェントにしたいが、金銭面など弱点が少ない分、獲得難易度が高いからね」
「産業スパイなども諜報員だということですか?」
「場合によるね。『所属組織を偽る』または『フリーランスとしてライバル企業に就職』し、雇い主に報酬と引き換えに部内データを売る人間もいる。もしくは接触してきたライバル企業の社員から、何らかの見返りを貰う代わりに社外秘を引き渡す場合もある。金銭や生活面に関するトラブルを解決してもらう対価、または脅迫の材料を握られてスパイ行為を働くこともあるだろう。国家や民間の情報機関に所属する諜報員が、裏で糸を引いている場合も多い。彼らにとってはエージェントということだ。ある一定の条件にのみ工作活動をおこなう潜伏工作員もいるが、それは『スリーパー』に分類される。企業の場合は、経営コンサルタントが諜報員のような活動をしていることもある」
 経営コンサルタントに産業スパイ、そして諜報員。
 それはつまり——
「バッハやマルティニは、諜報員だったということですね?」
「その通りだ。ハンドラーだった可能性もある。君をエージェントに仕立てるつもりだったのか、それとも単に引き抜きたかったのかは別としてね」
 取調室での公安の見立ては正しかったということか。しかし、理解できない。どうして自分のような末端の社員を勧誘したのか。
「組織の上層部は情報漏洩に対して警戒心が強い。それに技術的な知識もない。末端かどうかは関係ないんだ。組織の状況や待遇に不満を持っている人間を手引きするのが効果的なリクルートだ——そして情報戦の常識として、『本人には価値がない』」
 そこまで言われて、山田は気付いた。不満を持っているという点でも合致している。
「『本人が知っている情報に価値がある』……次世代3Dプリンターや、ABAT社へのパイプに繋がるということですか?」
「諜報網は二〇年先の長期的国益を見越して築くものだ。話から察するに、中国は君のいた会社を資金力で上から溶かし、ロシアはエージェントを欲していたんじゃないかな?」
「だからCIAにレンディションされたということですか? 日米の国益を損なうスパイになる可能性があるから」
「早とちりや勇み足だとしても、それが取り敢えずの結論なのかもしれない。私も軍属であり、元軍人だ。だからここのセキュリティークリアランスを持ち、捜査機関の下請け作業もしているわけだが……君と似た人間はそれなりに見てきた。推論は当たっているだろうね」
 何が「取り敢えずの結論」だ。
「ふざけやがって……人の人生壊してんだぞ」
 どうして被害者である俺が犯人扱いされなきゃならないんだ……
 早とちり? 勇み足? そんな言葉で済ませるな……!
 山田の怒りをよそに、竜崎が資料を見ながら話を戻す。
「武器の密輸ねえ……でもよ、この百年前にアサシンやってた集団と血盟団が、俺らにどう関係……」
 途切れた台詞が気になり、少し落ち着いた山田も竜崎の持つ書類を目で追う。
 そこには、『血盟団の歴史と時代背景』と銘打たれたタイトルがあった。
 レポートの最初には、当初の説明にあった暗殺集団である血盟団。そして後半に現れる『現代の犯罪組織集団』という部分を読み進めると——
「同じなのか」と、山田は思わず呟いた。
「血盟団と命名したのは周囲の人間で、俗称だ。彼らが名乗ったことはない。今回も捜査機関側で名付けたんだろう。当時の時代背景に合わせて当てはめたのかもしれない」
「一九三〇年代の日本って……」
 文系の勉強が得意ではなかった山田にとっては、メディアで得た知識が大半だった。しかし日本史というジャンルにおいては、戦国時代の武将を動かすゲームはやったことはあるが、現代史以前となると話は別。竜崎の方へ首を動かすと、「俺の方は見ないでくれよ、ヤマちゃん……」と漏らし、完全に目が泳いでいた。
「簡単に言うと経済の低迷、貧困、格差社会だ。財閥に対するテロや転向が実施されたのもこの時期だ。一九一八年に終結した第一次世界大戦から二年。日米は戦場となったヨーロッパへ輸出することで好景気を迎えていたが、現地の安定により不況が訪れた。そして二三年の関東大震災、その四年後の昭和金融恐慌、そして二九年には世界恐慌が起こり、三〇年には昭和農業恐慌、三三年には昭和三陸地震、日本は国際連盟から脱退。そして——」
 そこからは知っている。
「確か、一九四一年にアジア太平洋戦争が始まった」
 第二次世界大戦が始まったのは、確かその二年前。うろ覚えだが、ドイツとソ連がポーランドに侵攻したからだったか。山田はこの場所に収容される前の生活を思い出す。
 テレビやネットでは自殺、若年層や高齢者による徘徊、高所得者向けの住居で窃盗をおこなう外国人集団など、犯罪行為が面白おかしく取り沙汰されていた。中でも有名人がSNSで庶民的な投稿をすれば評価され、逆をおこなえば誹謗中傷や直接的な被害を受けるといった報道が世界的にも頻発していた。もしかしたら自分の周囲でも、経済不安などの社会的要因により罪を犯す同世代の人間がいたのかもしれない。ある意味、テロリズムの一種か。いや、報道ではテレビ視聴者の大半を占める高齢者に向けた視聴率稼ぎに「若年層の過激化」とばかり銘打ち、本質である経済の低迷、貧困化には触れていなかった。
 だからと言って、戦争とまでは……いや、現代でも戦争はある。
「経済の結びつきが強い今の時代、コストパフォーマンスの悪い世界規模での戦争が発生するような最悪の事態にはなりづらいだろう。しかし、二〇二二年のロシアによるウクライナ侵攻のような事例もある。常に合理的な判断——リアリズムで国家元首が動くわけではない。同年の首相経験者の銃殺事件もある。それと今の日本は、思ったよりも早く超高齢社会を迎えてしまった。二〇二〇年に人口一億二五〇〇万人だったのが、今は一億一五〇〇万人程度に落ち込み、一〇年後には一億人、その四割が六五歳以上になると言われている。社会保障費の増大と、人工知能産業の発展による雇用減少、失業者増加。これは私のような老人より、若年層である君達の方が痛感していると思う」
 何度も落ちた就職活動での面接。連絡のこない携帯電話。それら原因は自分にもあるが、豊かとは言えない社会情勢もあるだろう。
 確かに、俺達は「景気が良い」という状態を言葉でしか知らない。
「……まあな」
 山田の隣で、竜崎は虚ろな表情をしていた。トラックドライバーは過酷な労働環境だと聞いたことがある。恐らく自分より、そうした格差を感じていたのだろう。
「一九三二年の初めに発生した『血盟団事件』。その数カ月後に起こった海軍青年将校らによる内閣総理大臣殺害事件、『五一五事件』。一九三六年には陸軍青年将校を中心に軍事クーデターである『二二六事件』が起こった。これら歴史の節目となった一連のクーデターには、全て血盟団の影がある。その亡霊が現代に蘇った可能性があるらしい」
「二二六事件は歴史の授業で教わりました。それを俺達に紐付けたということは、ただの犯罪組織じゃないということですか?」
「鋭いね。君達を移送した情報機関はそう捉えているようだ。恐らく、君の半導体関係も、竜崎の密輸関係も……」
 恐らく、言いたいことは一つだろう。
「血盟団や、それを動かした組織がいる、ということですか」
「現地のエージェントと、背後の諜報員っつーわけか」
「本人達が自覚しているかは別だけどね——インドに抜かれたが、日本は世界で第四位の経済大国だ。でも、一人当たりの実質賃金は先進国で唯一、減り続けている。これを欧米の金融マン達は『日本化』する——『ジャパニフィケーション』と呼んでいる。所得格差が拡がっているのではなく、高所得者も低所得者もまとめて貧乏になる『一億総貧困状態』だ。これはジニ係数を見れば分かる。けど、それを知る機会も余裕もない貧困層や若年層にとっては、攻撃対象が必要だ。特に若年層の怒りはピークに達している頃合いだろう。日本やアルゼンチンなどに関しては、別個に経済を学ぶ必要があるほど、理解が難しいのも理由の一つだがね」
 格差は拡がっていない。全員が貧困に陥っている。
 その事実に山田は少し驚いた。が、良く考えれば格差が拡がるということは、米国のビッグテック(先進IT企業群)のような成長産業もいなければ成り立たない。差を上へと拡大する存在すら日本にはいないため、国民全体が貧困状態へと進んでいるのかもしれない。
「そこに目を付けたってことか?」
「厳しい環境だとは思う。コロナ禍で若年層の失業率も増加した。しかし、他国と共謀している時点で諜報活動や間接侵略に該当するスパイ行為だ。将来的にクーデターに繋がる可能性も捨て切れない。だから、日本のクーデター史に関わってきた血盟団という俗称を与えたのかもしれないね」
「なら、その血盟団を直接取り締まってくれよ。なんで俺達を逮捕して、さも仕事してるかのようなツラするんだ?」
 もっともな意見だ。でもそれができないから、見せしめ半分、俺達を捕まえたんじゃないだろうか?
「日本にはスパイ防止法がないため、『スパイ天国』だと言われているのは有名だ。なぜか分かるかい?」
「取り締まる法律がないからじゃねえか?」
「でも公安警察などはいるわけだ。特に外国の諜報機関による対日有害活動を取り締まる、外事(がいじ)警察などもいる」
「だから法律がないんだろ? 人質司法でもそうじゃねえか。取調べの全面録画だの弁護士同伴だの、そこのところをもっとしっかりやれば問題ねえだろ」
「……そうか」
 ウッダードはそうぼやいたが、山田は竜崎の意見に半分、反対だった。竜崎は弁護士とそこまで会話していないのかもしれない。が、法があっても扱う人間を正さなければいけない。「組織は既にある」という言い方なので、求めている答えは別なのだろう。
 と、すると——
「スパイを取り締まる『方法や手段』がない?」
「公安がいるじゃねえか。それに……本来はそういう奴らをここにぶち込む予定なんだろ?」
「でも、諜報員が外交官だから……」
 そこで山田は口を閉じた。何となく分かった気がした。
「正論と説得力を別に考えてはいけない。いじめっ子の方が強ければ現実はそれで終わりだ。オスカー・シンドラーはどうやってユダヤ人を助け出したのか、理想(アイデアリズム)で救ったのか。実績と外交、財力などの力はなかったのか。『力』とは一般的には金、権力、名声だ。そこで初めて暴力を伴わない説得力による発言権が得られる。本当に強ければ力を振るう必要もない。そして何もなければ、自分どころか大事な人間も守ることはできない」
 山田は学生時代を思い返す。クラスに最低でも一人はいる、いじめられっ子。全員に共通することは身体が弱いこと。そして外交下手だ。相手は逆で、たいていは取り巻きもいる。いじめられっ子にはいない。助ける人間もいない。ではどうするか? 良く考えれば、録画するなどして、その証拠を学校の関係各所にバラまけば一時的に収まるだろう。普通に考えれば暴力は犯罪だ。しかし、当の本人に、しかも子供にそれを考える余裕があるだろうか? ネットが普及していない時代では更に難しかっただろう。そもそも子供が対応する事態、間違っている。それに社会に出た後も、それらは形を変えて存在する。動物の世界でも変わらない。生物的になくなることはないだろう。
 すると、暴力か理性で対処するしか道はない。学生時代なら暴力で対処できることも多い。しかし、将来的に考えれば理性、すなわち知識や法を武器に外交カードを切る方が正しい。
 そこでふと、山田は思い立った。では、先天的に弱い人間はどうするのだろうか? 社会淘汰になってしまうのだろうか。石油も外交的影響力もない日本も、淘汰されるのか。
「例えば、ロシアや中国といった力による現状打破を考える相手に、日本はどういう外交手段で取り締まる?」
 ウッダードの疑問に、山田達は沈黙。
 日本だけでは交渉材料がない。ロシアはともかく、中国には経済力も負けてしまっている。恐らく、竜崎も同じ考えに達したのだろう。腕組みしながら片眉を吊り上げ、それでも納得のいかない表情をしていた。
「外交はゲームだと私は考えている。国防も外交の一部だ。これらはかつて、イギリスが超大国になる前から『グレートゲーム』と呼んでいた。感情論ではクリアも攻略もできないし、味方も現れない。ゲームは好きかな?」
「ええ、ゲームクリエイターを考えていたので……」
「外交や国防は徹底したリアリズムが必要だ。愛国心や勢いだけのアイデアリズム——理想主義は根性論や感情論に繋がる。日本がロシアや中国に切れる外交カードは何があるのか、アメリカのような強力な国力や軍事力を持っているか、イギリスのような世界的な諜報網、フランスのような核兵器、ロシアのような資源、中国のような経済力があるのか?」
 山田は消去法で考え、答える。
「技術は……あると思います」
「技術があっても信頼というノウハウがなければ、技術立国は潰れる。技術を盗むということは、国益を得ると同時に相手に損害を与え、最後には併合という報酬が入手できる。ゲームに勝つにはまずは武器が必要だ。核兵器、資源、経済力、軍事力、技術——どれか欠けている時点で、同じルールで戦っても負けるどころかカモになる。しかも地球にいる以上、逃げられないゲームだ。奪われた物を日本というプレイヤーはどうやって取り返すのか?」
 独力では無理だ。日本の同盟国で最強のカードは、戦後から一国だけだ。
「アメリカしかいねえだろ。力を持った国に協力してもらうしかねえ」
「ああ。だが、スパイの防止というのは、一国だけでおこなうものではないんだ。それをこの国にもう少し考えて欲しいと思うんだが……中身や手段がない状態で形だけ取り繕っても、利用されるだけになるかもしれない」
 安直に捉えれば、見栄え重視はやめろ、という意味だろう。
 しかし、それだけだろうか? 山田は自分なりに考える。
 法は変えた方が良いとして、他国と連携してスパイ活動の抑止にあたるとすれば、日本側も何らかのメリットを提供する必要があるだろう。例えばこの収容所のように。ただそれだけでは、米国が世界中でレンディションを実行できるように、自国で収容所を提供している国々と変わらない。キャンプ勝連を揃えて、日本は初めてスタートラインに立つ。であれば、恐らく連携しているであろうヨーロッパ諸国などにも、それ以外の何らかの対価を提供する必要があるということだろうか? ウッダードが言ったように、日本にそんな交渉材料があるか。資金はあるが、それだけで解決できる分野とは言いづらい。ただでさえ人質司法のせいで、犯罪人引渡し条約が結べない。いや、スパイを他国に引き渡すとしても日本側が受け取ることはないし、不可能だ。そもそも欧米列強に対し、スパイを引き渡す際に強気な外交もできないだろう。むしろ勧告されず、そのままレンディションされているのではないだろうか。スパイを犯罪者として定義しているのかも怪しい。
 ここにきてこういったジャンルに疎い自分が憎い。もっと国際情勢や安全保障について学んでおくべきだった。
「……なあ、おっさん。なんでいきなり、俺達に血盟団を教えたんだ?」
 竜崎の疑問は唐突だが、もっともだ。山田は頷いた。自分はまだ良い。でも、半年も自分を陥れた正体を教えてくれなかった竜崎からしたら、当然、知る権利がある。
「今更だとは思う。不信感を抱くのも無理はないだろう。だが、状況が変わった。君達にしかできないことをやって欲しい。君達自身がここにいる理由も知れるかもしれない」
 一体、何をさせる気だ?
 ウッダードが静かに立ち上がると、同じタイミングで看守達が入室してきた。
「これから血盟団と会ってもらう」

 ◆

「——ありがとう。やっぱり、組織構成を訊き出すのは難しいか」
「下っ端からは無理だと思うぜ」
 囚人との対話をひとしきり終えた後、山田は竜崎とウッダードの部屋へ帰還していた。竜崎とウッダードが情報交換をする間、山田の脳内には囚人の言葉がグルグルと巡っていた。
『話せることは、お互いこのくらいだな……俺はブラック企業に疲れて闇バイトに手を出したら、それが血盟団だった。夢なんか見る方が間違いだよ』
「そう言えば、君達にまだ伝達していないことがある。今日はそれで終わりだ」
 まだ何かあるのか。
 正直、山田は自室に戻って気持ちの整理をつけたかった。今日はもう、色々とありすぎた。
 ウッダードがテーブル越しに渡してきた数枚のA4ペーパーを、山田と竜崎は受け取る。
 そこに書かれていた内容に、山田は衝撃を受けた。
「『諜報員課程入校案内』……?」
 トップに横文字で躍るタイトル。視線を下へとスライドさせると、『入校前の注意事項』、『教育予定表』という項目が並んでいた。そして、その中でも何度も現れるキーワード。それを隣に座る竜崎が呟く。
「『秘密任務訓練生』って、オッサン、まさか……」
「君達にも協力して欲しい。それが君達を管理する者からの伝達事項だ」
 意味が分からなかった。
 普通に働いて、スパイ容疑で逮捕されて、レンディションされて。挙句の果てに諜報員?
「何が言いたいのか、分からないんですが……」
「もしかしたら、『蛇(じゃ)の道は蛇(へび)』という新しいアプローチになったのかもしれない。もちろん、選ぶのは自由だ。日米のレンディションにおける方針が変わるのを、ここで待っても良いとは思う。ただ、この諜報員課程は今年の一〇月初めから来年の三月末までの半年間、主に日本軍の富士地区演習場で実施される。今は四月の初めだ。教育開始まで半年あるかないか。大学入試程度の試験や、体力的な項目もある。クラスの中で他の訓練生に勝つための準備期間として、果たして長いか短いか……」
 最初の言葉で、山田は止まっていた。
 血盟団の元構成員を、今度は政府のスパイに仕立てるというアプローチに乗るか、両政府の意向が変わるまで待てと?
 山田は自分でも気付かないうちに、顎に力が入り、瞬きをしなくなっていた。
 かたや竜崎は、斜め上の回答をする。
「オッサン……これ受かれば出れるのか?」
「教育修了後に活動するには日本国内で動き回る必要がある。出ることが前提だと思う」
 竜崎は口を歪ませ、半笑いと怒りを混ぜたような器用な表情で吐き捨てた。
「『思う』じゃねえんだよ、はっきりさせてくれ」
「……諜報員課程教育は、準軍事訓練を含めた教育内容を履修し、修了後は諜報員として勤務する。この入校案内は、他の秘密任務訓練生候補に渡している用紙から抜粋した内容だ。本来は入校意思の確認を得てから話そうと思ったんだが、他の候補の大半は現役の警察官や日本兵で、一部は民間人だ。彼らとチームを組み、卒業し、戦う」
「『戦う?」
「スパイ狩りだ。相手にはもちろん血盟団もいるだろう。日本の警察や内閣などの諜報機関と連携し、追跡する一員になるということだ」
 ウッダードには珍しく、語気の強い台詞だった。竜崎は案内の用紙をじっと眺めていた。
 山田はテーブルの下にある床を透視するように、ただひたすら紙を見詰める。現実感が喪失していた。
「この教育は君達が生まれる前からある。ここから派遣されて、いちいち戻ってくるなんて勤務形態は、私の知る限りでは不可能だ。あくまで予想だが、身体にGPSを取り付ける処置などはするかもしれない。だが、ある程度の自由が待っていることは私が保証——」
「性犯罪者みたいだな……」
 山田のぼやきは室内に沈黙を生み、消えていく。壁に掛かったアナログ時計の針が動き、静寂に音を生じさせた。
 入室した時には気付かなかった。地下でGPSが入らないから、アナログなのか。
 そんな下らないことに気を取られるほど、山田は現実を呑み込めていなかった。把握しようとすらしなかった。ウッダードを睨み付け、テーブルに書類を投げる。
「いきなり逮捕されて、そっちの都合で放り込まれて、今度はレンディションする側に回れっていうのはおかしいだろ……!」
 これが精一杯のプライドだった。「キレないように」という竜崎の教えも考え、抑圧させ、それでも弾けて、出てしまった台詞だった。
 ウッダードは、部屋の隅からこちらを伺っている弁護士と目を合わせ、「そうだね」とだけ言った。
「俺は……」
 一瞬、竜崎がこちらを見た気がした。
「ま、俺も考えられねえな」
 入校案内をテーブルに放ると、「今日はもう帰って良いか?」と、竜崎はあっけらかんと訊ねる。
「ああ、長くなって悪かったね。これは——」
 案内を回収しようとしたウッダードは、こちらの様子を見ながら手を止める。竜崎は立ちながら「俺達で管理する」と言い放ち、山田の手に無理矢理、入校案内を握らせてきた。
 入室してきた看守も、ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、独房まで無言で引率していた。

 ◆

 その日、山田はベッドの中に入っても寝つけなかった。最終的に両手を頭の後ろで組み、掛け布団の上で天井を睨み続けた。
 あんなの簡単に、決められるわけがないだろう!
 こんな場所に閉じ込められて、人権も奪われて、しまいにはテロリスト扱い。しかも司法も機能しない。今や日本という国家、政治、警察——政府のシステム全てが憎い。「血盟団に入ればここから抜け出せる」という誘いがあれば、すぐにでも乗って、この国家のシステムに復讐してやりたい——もちろん、そんなことを言えば、「敵性戦闘員」になることは確実なので言えるわけない。
 山田は部屋の隅にあるテーブルの上に、視線を移動。そこには竜崎に持たされた入校案内を置いていた。
 ……軽く読んでみたが、大学入試レベルのテストは、偏差値の基準が分からないので何とも言えない。ただ仮に受けたとしても、体力試験がある。しかも現役の警察官や軍人と肩を並べてなんて、不可能だろう。モチベーションとしても無理だ。そもそもスパイだとか諜報だとか、そういったジャンルには疎い。理数系ならまだ良い。が、文系は得意じゃない。
 肘を枕代わりに横向きになり、山田はテーブルに置かれたカレンダーを眺める。
 カレンダーなんて置いてあったっけ……まあ良いか。取り敢えず、ここから出た後は——
『夢なんか見る方が間違いだよ』
「出た後は、何をするんだ……?」

 ◆

 収容されてから時が過ぎた頃。
 消灯後、自室のベッドで横になり、山田は今までの出来事を反芻した。
 この数カ月間——いや、これまでの人生を。
 学生の時だろうが、社会人になろうが、楽に達成できる物事などないのだ。それは、楽に見せているだけ。裏側の努力を読み取れないのは、自分が努力をしてこなかった証。ゲームでも何でも、簡単に強くなることはできない。金で解決できることはある。が、最初から恵まれている人間はごく一部。それを最初から持っていたわけではないし、人のために使う者もいる。むしろそれで、自分のような人間は生かされている。
 問題なのは、それを認めて前へ進むか、その場で一生、子供のように地団駄を踏み続けるか。
 でも、何をどう頑張れば良いんだ?
 別に腐りたくて腐っているんじゃない。
 何をどう頑張れば良いのか、それが分からないから頑張れないんだ……!
 言いわけなのかもしれない。しかし頑張る方向を、大半の人間が間違っている気がする。真面目に働き、報われる社会は素晴らしい。そして楽に生き、努力もせず、成長する必要もない状況にも欠点がある。会社でもいた。それは人望が集まらず、非難を浴びることだ。なぜなら大半の人間は恵まれておらず、恵まれている人間はあえてそういう状況に飛び込まない限り、人の心が分からない。そう考えると政治と民衆の乖離は一生、解決できないのかもしれない。
 何かをしなければならないのは分かっているが、それが分からなかった。
 山田はそう結論付けた。そして自分が巻き込まれた運命と血盟団に対し、一定の理解を示す。脳がクリアになり、素朴な思考回路にいたる。
 楽をしたい、楽になりたい——これは多くの人間にとって、「労働から解放されたい」ということ。
 しかし、生まれ落ちたのは努力しても報われない世界。
 しかし、その環境下においても成功する者達は存在する。
 その差は何だ? 
 なぜ血盟団のような反社会的勢力に身を落とす者と、存在すら知らずに安穏と暮らせる者がいるのか? それは、努力すべき方向性を間違っているからではないだろうか? 目標の設定ミスではないか?
 それが分かれば——
 山田は跳ねるように、起き上がった。ベッドから抜け出し、テーブルにあるスタンドライトを点灯。椅子に座って入校案内を手に取り、眺め、上から下まで目を通す。
『言葉狩りですよ! 最近の若いのは守られてばかりで。本当、治安も悪くなりましたよ』
『……でも、こんなことになったのは国民の無関心が原因だと思います』
『キューバのグアンタナモ収容所だと、長い人で一四年が……』
『今の上の方針で君達の参加が許されただけだと思うよ。もしかしたら、今年限りの方針かもしれない』
『最低でも三〇歳までに自力で成功体験を作っておかないと、人生の壁は突破できない。お前達のような人間は、ここで怯えて暮らすのがお似合いだ』
『……でも、マジな努力や失敗は、結果よりも価値がある』
 俺は、命を懸けるほど、本気で何かを頑張ったことがあったか?
 常に「誰かがやってくれる」、「助けてくれる」なんて甘い考えを持っていた。逮捕され、こんな施設に放り込まれるまで持っていた。しかし、今日の清掃で竜崎の——敵ではなく、ある意味で同じ境遇の仲間の言葉で、現実を取り戻した。
 そんな甘い話があるわけない。
 誰かがやってくれるわけでもない。
 自分を中心に世界は回っていない。
 どうして今までそう思っていたのか。社会に出ても、組織のぬるま湯に浸かり、周囲に流され、思考停止していたのか。
 権利は自分達で勝ち取るのだ。
 山田は左上をホチキス止めされている入校案内を精査。近くにあったボールペンで、気になる部分に横線を引いたり丸で囲む。
『教育予定表』——教育期間は約二六週間。内容は入校から一週目の『適性(正)検査・体力検査・身体検査・学力検査』と、二六週目の『修了式』以外、黒塗りになっている。恐らく、警察官や軍人には正規の内容が渡されているのだろう。秘密保全上の問題だとは思うが、こればかりは考えても仕方がない。
『学力』——『大学入試相当の試験問題を解く能力(目安)』とあるが、曖昧過ぎて対策が難しい。一つ考えられるのは、入校予定者が警察官や軍人なら、各教育機関が一般販売しているそれらに対応した過去問題集を漁るという選択肢がある。この場合、公務員関係の資料を取り寄せる必要があるだろう。大学入学共通テストの過去問や参考書もある。何度か眺めたこともあった。ウッダードに頼めば何とかなるか。
『体力』——恐らくこれが一番の鬼門だろう。『体力評価基準の最低(合格ライン)』という項目には、『懸垂一〇回(順手)』、『ハンドリリース腕立て伏せ四〇回(二分間)』、『プランク一二九秒』、『サンドバッグ・スクワット五回二セット(直径四〇センチ・長さ一五〇センチ・五〇キロ)』、『六〇メートル折り返し六〇秒以内(三〇〇メートル)』、『六キロ走三五分以内(負荷八キログラム・登坂五〇〇メートル)』とある。
「ハンドリリース」とは、途中で手を離すということか? 「順手」や「プランク」という言葉が何を示すのかも良く分からない。五〇キロのサンドバッグなんて、そもそも持ち上げられるのか。「負荷八キログラム」とは、八キロの荷物を背負うということか。
 また、注意書きとして赤文字で『六キロ走(体操服・シューズ・リュック)以外は戦闘服と戦闘靴を履いて実施します。全種目は二時間以内に合格しなければならず、不合格者はその時点で教育停止、原隊復帰となります。二時間以内なら再検定可能です』と書かれている。
 二時間か……休憩は自分で計算しろ、という意味か。
 戦闘服と戦闘靴に身を包む自分をイメージできず、山田は次のページをめくる。
 場所が陸軍の演習場内であること、PCやUSB、携帯電話の持ち込み禁止、生命保険や傷害保険への満口加入推奨、私有車の乗り入れ不可など、ゲストである自分達には関係ない項目ばかりが並んでいる。『キャンプ内のATMが利用できます』と書かれていることから、外部から完全に隔絶されるわけでもなさそうだ。ゲストの扱いはどうなるのだろうか? 国内の収容所がここ以外にあるとは考えにくいし、集団行動にも限界がある気がするが……
『入校前に準備するもの』という項目の下には、『髪を伸ばす(坊主厳禁)』、『普通自動車第一種免許(AT限定不可)』、『格闘技で使用するマウスピース(装着の判別が容易な色)』という一種の注意事項があった。
 その更に下、『入校前に身に付けた方が良いもの』には、『本結び、もやい結び、止め結び』、『玉結び、玉止め、ボタン縫い(手縫い)』、『実戦的な格闘技』、『泳力(一〇〇メートル平泳ぎ・潜水一五メートル・立ち泳ぎ二分)』、『英会話(日常会話程度)』、『国益とは何か?(小論文有り)』とあり、『入校案内と各種受験書類の持参を忘れないようにお願いします』という念押しで、入校案内は締め括られていた。
 普通免許や髪は問題ないとして、前半の結びについてはロープ技術か何かだろう。後半は単に縫い物か。格闘技と英会話、小論文はウッダードや周囲に相談する必要がある。いざとなれば、土下座でもする勢いで頼むのだ。泳ぎに関しては、学校の二五メートルプールで泳いだ記憶はあるが、立ち泳ぎとは一体なんだ?
 不明な項目を丸で囲み、テーブルの上にあるカレンダーを見て、今が七月の上旬であることを山田は改めて確認。
 入校まであと三カ月を切っている。道理で最近、暑さを感じるわけだ。
 山田は既に、頭の中で方程式を組み立てていた。
 俺はいつも、スタートダッシュが遅すぎる。学生の頃から、尻に火が点かなければ動けない。だが逆を言えば、筋力トレーニングについては元ボクサーの竜崎や、もしかしたら友好的な看守から教えてもらうことができるかもしれない。
 自由は逃げてもやってこない。自分で勝ち取るのだ。それが民主主義なのだろう。
 逃げ続けた人生。ここで挑まなければ、本当に落ちるところまで落ちてしまう。
 それにネガティブな理由ばかりではない。案内を見ているうちに、一般社会ではありえない状況に冒険心が刺激されたのも事実。
 諜報員課程とは何なのか。
 現代に甦った血盟団とは?
 そもそもなぜレンディションに至ったのか?
 単純に、純粋に、興味があった。どの道、もう世間の出世コースどころか真っ当な人生からは外れ、戻れないのだ。ここに居続ければ最悪、あの椅子に座り、あの看守のような人物達に「別の尋問プログラム」を受けることになるかもしれない。
 失うものは何もない。取り戻すものもない。掴みに行くだけだ。
 そのための努力や戦いが、正しい方向性なのかは不明。トンネルビジョンになっているだけなのかもしれない。
 しかし、少なくとも山田自身にとっては初めて自分で考え、見つけた「自分にとっての正しい努力」だった。

 ◆

「参加を希望します」
 ウッダードは手元の入校案内に目を通した後、眼鏡越しに山田の瞳を睨んできた。意思を固持するかのように立ちっぱなしの山田に対し、ウッダードは座ったまま微動だにしない。表情には出さないが、三カ月も経ってから自分の部屋を訪れたことに、疑念を抱いているのだろう。
「俺もな」
 山田は驚いて隣を見た。同じく入校案内をテーブルに放った竜崎は、出会ったときに比べて頬がこけていた——いや、身体つきが洗練されていた。
「ただ、竜崎の影響ではありません」
 あらぬ誤解を受けぬように、山田は予防線を張った。
 これは本音だ。
「喚いても、口を開けていても、誰も助けてくれない。勝ち取らなければ淘汰されると思ったからです」
「俺達もレンディションをやらされるかもしれないのは嫌だけどよ、両方知ってるってことは、ある意味で救えるってことだからな」
 大人だな。
 その発言で、山田も自分が救われた気がした。
 なら、もう心残りはない。迷っている暇はない。
 ウッダードは二人の表情とは対照的に、邪気のない笑みを浮かべた。
「二人共、意外に詩人だね」


 

承 訓練開始



 願書を出して二週間後。
 山田は慣れない腕立てのために手首にサポーターを巻き、格闘技で全身痣だらけになっていた。ウッダードの部屋に呼び出されると、手錠のまま本を読み、待機する。竜崎も一緒だが、時間がもったいないのかテーブルの上で、数学の問題をひたすら解いていた。
 ドアレバーが下がり、ウッダードが顔だけ出してきた。
「もうすぐ担当官が来る」
 囚人服の二名はテーブルの上を整理する。静まり返った部屋に、アナログ時計の針の音だけが響く。普段はウッダードが座っているが、今は対面席が無人だった。
 スパイ組織の面接官って、どんな人間なんだ?
 貧乏ゆすりをする竜崎の隣で、山田はその時を待った。
 背後のドアが静かに開く。竜崎が瞬時に姿勢を正す。
 そして入室してきた人物の姿に、山田は啞然。微動だにしない竜崎も、恐らく同じ現象に陥っている。担当官らしい人物は、ダークスーツに目元しか出ない真っ黒なフェイスマスクを装着していた。加えて野球帽も被り、濃いサングラスで目元も隠し、素肌が見えるのは手首と首元のみ。両手には滑り止めの付いた黒い薄手の布手袋をはめていた。
 しかし驚いたのも一瞬。山田はすぐに冷静さを取り戻す。
 スパイ関係の仕事だ。担当官が身分を隠すのはおかしくない。
 背後に立つウッダードを見て、二人で一旦、席を立とうする。しかし「そのままで結構です」という担当官の声で、腰を下げる。担当官は対面に着席後、足元に置いた書類鞄をまさぐる。
 山田は竜崎と目を合わせ、正面に向き直った。
 声質からして、恐らく中年か初老の男性。身長は自分と同じか少し低いくらいか。しかしスーツの仕立てが良いのか年齢の予測が難しい、がっしりとした体格だった。肩幅が広く、首も太い。地肌は適度に日焼けをしているようで、アクティブな活動をしているようだ。
「諜報員課程に関する細目が書かれています」
 テーブルの上に出された書類を、山田は竜崎と分ける。ホチキス留めされた用紙をパラパラとめくると、『立ち泳ぎは両手使用不可、顎と後頭部が水面に触れた時点で終了となります』という体力検定に関する一文や、『配偶者がいる学生は家族の理解を良く得るように』という注意事項など、様々な規定に関することがまとめられていた。
 やっと来たか、
「宣誓書を配る前に、入校案内の補足説明を始めます」
 担当官は機械的に語り出す。
「教育中と修了後は、足首に『発信機』の機能を有した装置を装着します。人体に悪影響はなく、本体は軽量なので気にならないと思います。脱着、分解を試みることは宣誓書に反することになるので注意して下さい。また、ここでおこなわれていることや、見たこと、聞いたこと、血盟団に関するあらゆる事項は国の特定秘密にあたるので、今後はこの部屋にいる四名を除き、漏洩に注意して下さい。身分は数週間後に新しく発行されます。情報漏洩やその兆候が見受けられた時点で、これもまた宣誓書に反することになりますので注意して下さい。修了後は、攻性のカウンターインテリジェンスの職務があります。今なら宣誓前で入校も取り消せます。どうしますか?」
 そんなものは決まっている。むしろ二四時間監視が張り付くわけではないので、拍子抜けしたくらいだ。
 山田は竜崎と視線を合わせる。彼の瞳は、焔が灯ったような眼光を放っていた。互いの意思が固いことを再確認する。
 悩むのは考えていない証拠だ。
「問題ありません」
「宣誓書に署名を本名でお願いします。上から拇印もして下さい」
 一番上に仰々しく『宣誓書』と記載されたA4用紙、朱肉の入った黒いケース、ボールペンが配られる。山田は短いながらもはっきりと黒くプリントされた印字を眺める。要約すると、「国家の一部として死んでも構わない。秘密を漏洩した場合、いかなる措置も受け入れる」という内容。色々な意味で、もう戻れないという意味だ。
 戻るつもりもないし、失うものもないけどな。
 署名した名前の上に人差し指を被せ、担当官に渡す。一瞬、黒いフェイスマスクがニヤリと歪んだ気がしたが、気のせいだろう。竜崎の宣誓書とまとめると、「こちらから質問することはありません」と担当官が宣言。
「保全上、入校案内や細部の用紙に則った説明のみをおこない、今回の面接は終わります。質問はありますか?」
「少し、用紙を読み込ませて下さい」
 今度は竜崎としっかり視線を交わす。テーブルの端に置いた紙とペンを、竜崎が目の前までスライドさせる。
 既に質問事項は打ち合わせ済みだ。しかし、声に感情がのっていないというか、それでいてはっきりとした物言いなので何とも印象に残らない声音だ。わざとやっているのかもしれないが、重要な情報は忘れないようにしなければ。

 ◆

 どうやら反抗的で顔色の悪そうな山田が質問役で、偉丈夫の竜崎が筆記役らしい。最初に映像越しで見た時より、どちらも日焼けし、短髪になっている。特に竜崎の方は、サングラスを通しても分かるほど全体的に引き締まっているようだ。
 担当官に決まった後、ウッダードに冷房装置が利くのか訊いておいて良かった。
 境はフェイスマスクの中で、キャンプ勝連の冷気が「ここへ来るまでの熱気と発汗」を引かせてくれたことに安堵した。そうでなければ今頃、ゲストの眼前で更に不快な状況に陥っていただろう。
「——体力的なことから質問します。身体的に失格になる原因は、何がありますか?」
 山田の問いに、境はなるべく抑揚のない言葉で返す。
「最近の傾向では懸垂やスクワットです。インフルエンザやコロナウイルスの感染、骨折の場合は医師の判断によります」
 担当官として、過去に何度もやっている感情を消す手法。竜崎が簡潔明瞭にメモを取っていた。
 こいつらとは、仕事以外ではなるべく関わりたくない。
「体力検定の最低ラインはありますが、最高ラインはありますか?」
「限界までお願いします」
 一瞬、竜崎の眉尻がピクリと反応したが、境は無視。
「……実戦的な格闘技というのは、ボクシングや柔道、レスリングや柔術を始めとしたフルコンタクトスポーツという認識で合っていますか?」
「合っています。植芝(うえしば)流のような武器技術を除く、合気道のようなソフトな武道ではなく、総合格闘技のようなハードなスポーツです」
「植芝流」という単語が分からなかったのか、山田は一拍置いて、「分かりました。教育全般や検定について訊きます。二回目の参加者はいますか?」と質問してきた。
「いたとしても事前に箝口令(かんこうれい)が敷かれ、本人以外は知り得ません。また教育内容は毎期、更新されます。例えば起き上がり腹筋や屈み跳躍は、腰や膝関節を痛める原因になるためプランクとスクワットに更新されました。それと、教育には生涯に二回しか参加できません」
 最後のインパクトが強かったのか、竜崎が一瞬、ペンを止めた。
「『入校前に身に付けた方が良いもの』の中に、検定項目はありますか?」
 なかなか的を射る質問をするじゃないか。
 これまでの入校予定者の幼稚な質問に辟易していた境は、回答を少し真面目に考える。すると山田は、「受からないと修了できないという意味です」と言い換えた。
「格闘技と小論文があります。それ以外はありませんが、教育中は自分の時間が限られています。他に質問は?」
「英会話はビジネス英会話ですか?」
「国防軍や警察出身の場合はそうなります。民間人の場合は逆です。これは教育最後の総合演習に関わる内容なので深くは言えませんが、想像力を働かせるようにお願いします」
「射撃などの試験はありますか?」
「あります」
 ゲスト二人は、そこで初めて沈黙した。互いの目配せを察するに、次の質問を考えあぐねているようだ。確かに射撃未経験者にとっては、圧倒的に不利と思える条件なのだろう。
「一般の警察官や国防軍兵士も個人的な実弾訓練はできません。握力が五〇キロ以上あるのなら、拳銃からショットガンまで射撃自体に何ら問題はありません」
「どういった武器を扱うのですか?」
「自動小銃や刃物など一般的に認知されている様々な武器を扱います。射撃はイメージが確立されていれば、初めから上手い人間もいます」
「教育中の一番の失格原因は何ですか?」
「総合演習での成績です。協力者の獲得工作などがあります。細部は保全上、言えません」
「分かりました。この教育の方向性についてですが、諜報員課程は『国内で活動する諜報員』を育てることが目的ですか?」
 どうやら事前に情報収集をしてきているらしい。それか推測して準備したのか。
『何人が受けて何人が残るのか?』
『死者が発生したことはあるのか?』
『落ちた場合、どうなるのか?』
 ——後ろ向きな発言ばかりで、入校前から指導官を困らせるような連中ではないことは確かなようだ。
「国内外を問わずに活躍できる人物を育てるのが目的です」
「警察と国防軍、内閣や行政府、どちらの組織ですか?」
「保全上、言えませんが、従来の枠組みに捉われない構造です」
「今までの合格者はどういった方達でしたか?」
 僅かに逡巡した後、境は「目立たず、非攻撃的な人間です」と返す。が、「表向きは」と付け加えるのを忘れなかった。
 やる時はやるが、郷に入っては郷に従えということ意味だと、こいつらは理解できるだろうか。
「分かりました。最後に……」
 青年二人は、こちらを睨み付けるような真剣な眼差しを投げてきた。
「担当官が教育を修了した際は、何が重要だと思いましたか?」
 ——余計な入れ知恵をしたのは古狸か。
 境はドア付近の椅子に座り、のんびりと読書を楽しむウッダードを睨んだ。こいつらとの問答を盗み聞きするたびに、内心でほくそ笑んでいるのが目に浮かぶ。ついでにこの妙な格好についても後でいじってくるだろう。
 諜報員にとって何が重要か? そんなもの、一つしかない。
「『国益とは何か?』、それが最も重要だと今も感じています」
「……ありがとうございました。質問は以上です」
「お疲れ様でした」と打ち切り、境は離席。自分と同じように立ち上がろうとした二名を手で制し、その背後を一瞥する。
「新しい身分が届いた際に、また説明があると思います」
 書類鞄を持って速やかに退出を図ると、ウッダードがぶら下がるように訊ねてきた。
「担当官、初めの説明に秘密の漏洩についてありましたが、教育中の訓練生同士や、同じ職務に就いた同僚にも漏らしてはならない、ということですかな?」
「その通りです。修了後はチームとして活動するので部内なら問題ありません。ただし、キャンプ勝連やレンディションに関する事項は別です」
 境がドアレバーに手を掛けると、「もし漏洩した場合、キャンプ勝連に逆戻りになるような処分が下されるということですか?」と、背後でウッダードが続ける。
「——決定権者ではないので分かりません。ですが、漏洩した場合は『処分』ではなく『措置』がとられます。この施設のような好待遇は聞いたことがありません」
 振り返ると、肩を僅かにすくめた収容所の所長と、覚悟を決めたかのような表情をする二名の若者がこちらを見ていた。
「措置をとられた者がどうなったかも知りません。失礼します」

 ◆

 教育まで残り数週間。
 体力的な課題は克服されつつあった。
 本結び、もやい結びといった簡単なロープワークは素早く確実に実施できる。輸送結びも覚えた。縫い物も上達。ちょっとしたパッチワークやほつれは修復できる。格闘技もよほどの体格差がない限り、素人や力自慢程度ならサンドバッグにされることはないだろう。スパーリングで自分の得意とする技や展開も見つけた。遠距離からカーフキックや三日月蹴りで嫌がらせをし、片足へのタックルや引き込みで柔術に持ち込むスタイルだ。週二、三回の柔術を三カ月続け、首も太くなり、精神的な強さも得た。水泳もワークアウトに連動し、余裕をもって基準をクリアできている。英会話はネイティブの発音はできないが、看守いわく「意味としては充分伝わる」とのこと。髪も運動の邪魔にならない程度に伸びてきた。
 残りは、学科のみ。
「受験関係の書類はこの中に入っている。当日はここから飛ぶ航空機に貨物と便乗させてもらうから、そのつもりで」
 封のされた大き目のマニラ封筒を差し出される。表に書かれた見慣れない人名に、ウッダードから封筒を受け取った山田は思わず呟いた。
「『真田(さなだ)』。専門卒。半導体メーカーで勤務後、不況により入隊。地理情報隊で地図作成をした後、防衛省情報本部に出向……」
「これが君達の新しい身分だ。覚えやすいように語感が似ている名前を取り寄せた。入校前にはなりきる必要があるね。スパイとしての練習だと思えば良い。ラストネームは入校中も修了後も必要ない」と、冗談めかして笑うウッダード。
「へっ、俺は『神崎(かんざき)』だってよ。高卒から運送屋になって、日本陸軍のシステム通信科に配属。防衛省市ヶ谷(いちがや)にて勤務ってなってるぜ」
 隣で封筒を摘まんで左右に振る竜崎。表情からして満更でもないらしい。こうした非日常を楽しむようにしているのだろう。山田もストレスの原因を増やさないように、逆境を愛する精神を彼から受け継ぐことにしていた。
「竜から神になったか」
「縁起が良いじゃねえか。この名前で呼び合おうぜ」
「それで、進捗はどうかね?」
 いつも通り、テーブルを挟んだ近況報告に、山田は竜崎と視線を交わした。
「学科がヤバいな……」
「具体的には?」
「共通して言えるのは、『国益とは何か?』というテーマが解決できていないことです」
「あの面接官が言っていたことだね」
「それ以外の『入校前に身に付けた方が良いもの』はある程度、攻略できたけどな」
「小論文が書けるほどではないと?」
「そうです。国家の利益の前に、国家という仕組みから理解した方が良いとは思うんですが、時間があるかどうか……」
 竜崎は「んー」と唸ると、頭の後ろで両手を組んで、「あの面接官、『カウンターインテリジェンス』っつってたよな」とぼやく。
「ようはスパイを追い掛けて捕まえるってことだろ。防諜っつーのは国益を守ることだから、国益だけ分かれば良いんじゃねえか?」
「辿り着けないと思うんだよ。国益だけに絞るとキリがないだろう? 軍事情報とか……いや、もっと多岐にわたる分野だと思う。エンタメ作品だって国民の世論誘導に使えるし、知的財産を盗めば印象操作にも使えるんじゃないか?」
 即物的な竜崎に、山田は否定的だった。若者二人が侃々諤々(かんかんがくがく)となる前に、眼鏡のタッチセンサーに触れて遠近を切り替えたウッダードが忠告してきた。
「国益とは二〇年先を見越して考えるものだ。目の前の利益を追うから短絡的な思考になる」
「短期的じゃなくて、長期的な利益ということですか?」
「将来発展する技術や産業を保護するってことだろ。でも、それが分かれば投資家だの資産家になれるぜ?」
「情報確度の高い利益と低いものを見抜くんだ。その眼を養う分析方法を知る必要がある」
「方法っつーのは?」
「残念だが、それは君達自身で気付いた方が良い。付け焼刃は面接で見抜かれ、教育中にメッキが剥がされるだろう。君達が挑む課程教育は、恐らく日本のスパイ養成所のようなものだろう。スパイは『情報の収集・秘匿・提供』をおこなう。ここまでは何となく分かると思うが、その情報自体が何なのか、分かるかい?」
 山田は首を横に振る。
「インテリジェンスさ」とウッダードは結論付け、『インテリジェンス』、『用語辞典』と銘打たれた二冊の本を自分達にそれぞれ手渡す。
「日本も大学の共通テストで七年前から『情報』という科目が追加されたようだが、我々に求められているものとは違う。『地理総合』という科目がハイスクールにあるようだが、地政学(ちせいがく)ではない。それは私の国で最も有名で、よく読まれている本だ。地政学についてはもう学んだかい?」
 山田は数ページ読んだまま部屋のテーブルに積んである、いくつかの参考書を思い返す。
「いえ、まだ触りだけです」
「国家として承認される上で欠かせない、『国家の三要素』とは何か分かるかい?」
「領土、領空、領海を指す『領域』、メンバーである『国民』、そして『主権』です」
 隣にいる相棒を見据える。今にも天井を仰いで口笛を吹きそうな表情を見るからに、この話題に関わることはなさそうだ。
「先に地政学的思考を組み立ててから、インテリジェンスを学び、哲学を確立させるのを勧める。国益とは国家の利益。つまり国家を知らなければ理解できないという着眼は良いね——では国家の種類は?」
「資本主義国や社会主義国?」
「政治や経済システムも重要だが、それらが生まれる以前から国家の形は存在している。もっと単純な発想だ。前に話した通り、国際政治や外交はリアリズムでしか成功しない」
 山田は中世や戦国時代を思い浮かべ、考える。
「国家の形……地理から入るということですか? どういった民族が集まり、どういった土地に国を形成したのか調べる必要があると?」
「日本人にこの分野は特に難しいと思う。戦後、GHQは一九七〇年代まで日本人に地政学を学ぶことを禁じた。公職追放によって専門家も排除された。他国との縄張り争いが激化しにくい『シーパワー』によって、日本は独立を保ってきた。だから一種の平和ボケも否めない。しかし、世界は地政学で動いている。地政学が解禁された後も、『教えてくれないから分からない』では世界のインテリに勝てない。彼らがこの世界を創造しているんだ。最低限のインテリジェンスリテラシーを身に付けることが、教育を突破する秘訣だと思うよ」

 ◆

「国益についてなんか分かったか? 『真田さん』」
「何となく……『神崎』は?」
「まあ、俺も似たような感じだ」
 入校まで残り一週間。夜間の格納庫で、山田は竜崎と互いの足をテーピングしていた。怪我をしたわけではない。入校準備の手伝いをしてくれた看守達に、餞別として「GOOD LUCK!」と書かれたメディカルバッグをもらったのだ。中には大量のテープと関連道具が詰まっていた。せっかくなので巻き方を知っている竜崎が指導してくれた。入校した後では時間の確保が難しいという懸念からだ。山田は指示通り、竜崎の足首にホワイトテープを巻いていく。全身のテーピングを完璧に覚えるのはキリがないので、下半身に限定することにしていた。山田がテープを剥がし切ると、竜崎は天井近くの窓から見える星を見上げた。
「けどCIAのケースオフィサーはここまで体力的にハードなことはやらないらしい。スペシャルフォースの序盤にやるフィジカルテストとか、パラシュートコースみたいだって言ってたぜ」
 テープを丸め、メディカルバッグにゴミをしまう。竜崎と肩を並べる形で、運動用に敷かれたマットの上に立膝をついた。
「確かにケースオフィサーの自叙伝でも、演習で協力者を獲得したり、最後の週は空挺降下週間に割り当てられて飛行機からパラショートで跳んだって書いてあった」
「あの面接官、『協力者の獲得工作』って言ってただろう? 自分がケースオフィサーだってバレずに相手を取り込む方が肝心なんじゃねえか?」
「『目立たず、非攻撃的な人間』なら警戒されないってことか」
「多分な。どのみち入校まであと一週間だから、追い込みは今日で終わりだ。おっちゃん達も半年のローテーションで回してるらしいから、もう会うことはないってさ。最後の伝言があった」
「なんて言っていた?」
「『手足がないわけでも、空腹で餓死するわけでもないなら、ルサンチマンになるな』」
「ルサンチマン?」
「ここにぶち込まれた時の俺ら、だとよ」
 ぼんやりと上を見続ける竜崎にならい、山田も窓から見える星々を眺める。
 思えばある意味、人生で最も充実した半年間——いや、三カ月間だったのかもしれない。
 吐き出すように呟いた。
「人間、追い詰められるとここまでやれるんだな……」
 特訓をする前には想像できなかった自分の姿。目標達成に対して湧き上がる自信。諜報員課程への恐怖よりも、「ここまでやったならやれる」という意気込みの方が強い。三カ月近く前の自分とは中身も外見も別人に近かった。適度に日焼けし、骨格ごと逞しく、それでいて豊かな教養を得たことにより物事を俯瞰できるようになっていた。それは竜崎も同じだろう。「国益とは何か?」という小難しい問いかけも、互いの持論をぶつけ、諜報員課程で求められているのはこうだろう、という結論を導き始めていた。こういう闘争心が目覚めてきたのは、テストステロンが影響しているらしい。男性的な活動をおこなうほど上昇志向になるようだ。日光を浴びてビタミンDが体内で精製されると、前向きな気持ちになる。心理的負担のある環境でも鬱病にならなかったのは、運動によるメンタル調整なども関係あるだろう。
 元の生活に戻りたい、とは思わない。
 あのまま働いていたら、将来の不安や雑務に圧し潰され、鬱になっていた。安くて狭いボロアパートで寝泊まりし、薄給で働き、限られたコミュニティーのヒエラルキーに属する。そんなものには今更耐えられない。三年で薄々、気付いていたのだ。頑張り方を間違えると一生、報われない。本当の自由は勝ち取れない。
 世界の時流を見抜けない。人生のインテリジェンスが不足していたからだ。
「……減量で夜に走っていた時の唯一のメリットが、星が綺麗だなって感じることだった」
「ボクシングの時の?」
 自嘲気味に頷く竜崎。以前、アマチュアボクサーだったことを教えられていたが、深い話題を持ち出してきたのは初めてで、山田は思わず竜崎を見た。竜崎は目を合わせてはくれず、薄暗い床のコンクリートを睨み続けていた。
「アマチュアは当日軽量だから、次の日も試合とかだと食えない。それが嫌で辞める奴もいるし、負けて内心、安心したって奴もいる」
 竜崎の声音は、仄暗い地の底から淡々と声を発しているかのような響きがあった。
「全日本選手権の三回戦で負けた。拳が壊れたのもあるけどな。もう五年以上前だ」
 山田はボクシングについて詳しくはなかった。が、全日本の名を冠するほどなのだから凄いことなのだろう。それが口から発せられないのは、竜崎の表情がそれを望んでいないからだった。
「スポーツ科学は知ってる。でもな、それだけだとハングリー精神は育たない。そんな時代じゃないのは分かってるけど闘争心、反骨心……それを養う場所が欲しかった」
 山田は何となく、それまでに聞いた竜崎の過去を繋ぎ合わせ、推測。
「それで、家を飛び出したとか?」
「……ま、そういう理由もあるな」
 少し濁した竜崎は続ける。
「生き方で手に入らなきゃ、自分で信念だの哲学だのを用意しなきゃ耐えられない時代だからな。格闘技やスポーツには負けん気が必要なんだ。俺はケツに火が点かないとやらないからよ。誰かに火を点けてもらいたくて、時代にそぐわないジムにわざと行ったんだと思う……ま、安いっていうのもあったけどな」
 その台詞で、山田は何となく察した。
「じゃあ、怪我で?」
「骨が手の中に入ったり、目をやっちまった。一回壊すと、完治まで半年近く掛かる。運が悪いと生活できなくなる奴もいるしな。『プロ転向ができなきゃ辞める』って伝えると『ふざけるな』って言われて、餞別がてら無茶なスパーリングをやっちまった」
 何でもない風に答える竜崎。山田には理解できなかった。
「『ふざけるな』って……アマチュアからプロに行くのは喜ばれることじゃないのか?」
「普通はそう思うよな。ボクシングは村社会みてえに面倒なことが色々あったんだよ。アマチュアが三分三ラウンド。プロは三分一〇ラウンド。世界戦では一二ラウンドで戦う。短距離走と長距離走みてえな違いだ。大金も絡んでくるし、同じ地元や大学の出身者を判定で勝たせるとかな」
「もしかして、負けた理由って——」
「判定に持ち込ませず、KOすれば良いだけだ」
 否定も肯定もしない竜崎。それが答えになっているような気もした。
「今はもうほとんどそんなことはない。評判の悪いジムは潰れる。けど、俺はある意味で逃げたんだ……だからもう一度、何かに挑んでみたい。何かが取り戻せそうな気がするんだ——ま、もちろんこうなったお礼参りもしなきゃならねえしな」
 山田は竜崎に対し、いつも自信に溢れ、世渡り上手のイメージを持っていた。が、意外な一面だった。
「そのためには別に死んでも良い。やりたいこともねえしな」
 極端な覚悟だが、隣にいる男の眼は本気だった。妙な気負いもない。そのような事態になるのかは不明。だが、命を燃やすことには躊躇しない——そんな気迫が感じられた。
 俺は、どうなのか。そこまでの信念を持っているのか?
「俺は……自分は何もせずに誰かに期待して、でもその頑張っている人間が駄目だと不満ばかり漏らして、ルサンチマンになっていた部分があると思う。ここから出て、自由を勝ち取れば、何かが変わりそうな気がする」
 竜崎は「へっ」と漏らし、「最悪、それでも嫌になったら脱走しちまえば良いんじゃねえか?」と耳打ちしてきた。会話の流れと逆行する提案に、山田は「え?」と驚いた。
「別に良いだろ? 何か別の目的があるんだったらよ。元は強制収容されたんだし、それまでの繋ぎみてえなもんだ——ただ逃げるのにも体力や知識がいる。そのための準備として考えても良いんじゃねえか? 俺らには、失うものも帰る場所もないんだぜ」
 確かにそうだ。
 そういった意味では、他人から見ても無謀なことに挑む覚悟はある。引かない自信もある。
 逃げた先に、何が待っているんだ。
「ここまでやった自分達ならやれる」という自負心。そして僅かな知的好奇心。一つ不安なのは、信念を持って挑む竜崎と自分では、気持ちに僅かな差があるということ。ここまで互いを助け合って、いざという時に足を引っ張り合う同情の余地は、残したくない。
「約束しよう。これから迷惑を掛けることになりそうで、どう考えても助けられない状況になったら……」
 諜報員課程でお荷物となる自分の姿を想像した後、少し緊張しながら言い切る。
「その時は、お互いに見捨てよう。アイデアリズムにならないように」
「ま、その時はお互い様だな。それで頼む」
 腰を上げた竜崎は背伸びをして、天を仰いだ。
「ここで誕生日を迎えちまったよ、俺は」
「そう言えば、俺も」
 二四歳にして、今後の人生の見通しが全く見えなくなってしまった。
 諜報員課程は、暗い夜道を照らす光となり得るのか。
「こんな所からはさっさと抜け出して、俺達をぶち込まれる理由を作った奴らを問い正させねえとな」
「ああ」

 ◆

 一〇月の第一週目。
 日曜日、一五時半。
 静岡県御殿場(ごてんば)市。
 日米同盟上、「富士営舎(えいしゃ)地区」と呼ばれる場所に、境は立っていた。米国海兵隊が管轄する駐屯地(キャンプ)であり、「キャンプ富士」とも言われる諸兵科訓練センターだった。
 県道23号「富士山スカイライン」を挟んだ先にある、日本陸軍滝ヶ原(たきがはら)駐屯地。それを地区内に入れた広大な敷地。東京ディズニーランドがゆうに二つ入る面積だ。一三五名の米軍人と一五名の民間人、一五〇名の日本人スタッフが勤務し、二一〇〇人が宿泊できる隊舎を備え、本州最大の陸軍演習場となる東富士演習場の一部も含まれている。第二次大戦敗北後は、滝ヶ原駐屯地や東富士演習場も米軍のものだった。現在は返還され、多方面にまたがる形でキャンプ富士は保たれていた。
 そんないびつな在日米軍キャンプの特徴は、立地の都合上、巨大な富士山を真正面から間近で観賞できること。標高もあるので、肌寒さを感じるような午後の曇り空の下、境は雪化粧をしたそびえる富士をぼんやりと見詰める。
 これを見るのも最後か。
 キャンプ西側にいくつか並ぶ、横長の三階建て隊舎。白壁の中央に正面玄関があり、壁一面には窓だけが一定の間隔で設置されている。周囲には高い建造物もなく、密集地でもない。刈られて小麦色になった芝生が広範囲に広がり、人通りもない殺風景な光景。それらを構成する隊舎の一つ。正面口真横に境は陣取り、大小様々な手荷物を持って隊舎の中に吸い込まれていく渋い顔つきの男女を確認する。
 肌が色白の者から、自然に焼けた者。坊主やスポーツ刈りはいない。が、全体的にまだ短く、運動に適していた。服装は繁華街を歩くようなカジュアルな格好。もしくは知っている者が見れば分かるような、ミリタリーブランドに身を包んでいる者達もいる。隊舎に入る者達は一様に、境と目を合わさなかった。中にいる他の指導官達にも、同じ態度を取っていることだろう。
 理由は明白。
 キャンプ勝連に出向いた時のように、首から上をあらゆる物で覆っていた。更に上半身は黒一色のパーカー。下は陸軍の森林迷彩の戦闘服とブーツという出で立ち。ここが軍の敷地内でなければ、この上ない怪しさだ。
 感情を隠してはいるが、誰も彼も皆、戦々恐々といった具合か。明日から各種検査が始まるので緊張しているのだろう。
 正面口には、『インテリジェンス課程 入校者』と書かれたホワイトボードの立て看板が設置されている。そして「諜報員課程」の入校者にとってはこれが目印だった。入校直前に候補者へと渡したキャンプ富士の施設案内図。そこには『インテリジェンス課程と明記されたホワイトボードスタンドが設置されているキャンプ西側隊舎へ向かって下さい』と注記されていた。大っぴらに「諜報員」という単語を使えば、部内外でいたずらに注目を浴びてしまう。そこで、本来の意味とは異なる連想できない名称を使ったのだ。
「インテリジェンス」の方が内容には準拠しているがな。
 その時、閑散とした隊舎前の長い道路から二人組が歩いてきた。ジーパンを履いた私服姿の青年と、青と黒の作業服のような恰好の背の高い青年。境はポケットからウッダードに渡したものと同じ携帯端末を取り出す。そして専用のアプリを起動。表示された地図を指を使ってズームし、二つの光点が接近して来ているのを最終確認。
 さきほど、キャンプ中央にある小型滑走路で荷卸しをしていた海兵隊のオスプレイ。そこに詰め込まれて来たはずだ。海路と陸路で監視されながら、尻の痛みに耐えつつ、延々と輸送されるよりはマシだろう。ただヘリや垂直離着陸機に無縁であっただろう彼らにとっては、賛否両論の長旅だったかもしれない。案の定、片方は吐きそうな表情だ。A4の案内図を見ながら歩く、顔色の悪い相棒の背後に張り付いている。
 目当てである自分を見つけ、乗り物酔いに強かった方が話し掛けてきた。
「『真田』と『神崎』です」
 設定通りだな。やることはやってきたか。
 数カ月前に会った時から、草食から肉食、そして雑食へと雰囲気が落ち着いたことを境は感じ取る。やるべきことをやってきた者達の特徴はすぐに分かる。落ち着き、自信を持ち、波風を立てず、無理に周囲に合わせることもしない。簡単な疑問は自分の中で解決し、良く考えてから自分の意見を言う。無駄口は叩かない。
「確認するので、中へ入ってください」
 二人が付いてきていることを確認し、隊舎一階の空室へと案内。ドアを閉め、荷物搬入の騒音や雑多な足音をシャットアウト。鍵も掛けた。椅子が部屋の奥に山積みになっている会議室。その中央で、「足首を見せてください」と簡潔に命令。
 二人はパンツの右足の裾を捲り上げる。しゃがんで確認すると、足首の上に黒くて細長い腕時計のような物が巻かれていた。時計本体の部分は薄く盛り上がっており、黒いソーラーパネルが貼られている。端子穴には防水キャップを挿入済み。
 超小型GPSアンクレット。
 欧米では在宅捜査中や仮保釈中の犯罪者に装着が義務付けられている。日本でも数年前から仮保釈中の性犯罪者にこの制度を適用。ただここまで極小で目立たず、ドライバーで外せないタイプは先進国の防諜機関などでしか運用されていない。拘束した非合法工作員や高価値目標人物に対し、極秘裏に装着するタイプだ。市販されていない特殊工具がなければ外すことはできない。刃物や工具が人体を傷付けずに入る隙間もない。外すには足ごと切断するしかないだろう。
「装着について訊かれた場合は、『心拍センサーの一種』だと答えてください。本教育の一環で、訓練生の健康状態を常時モニターすることが可能か検証している、という設定です。バッテリー切れ、信号のジャミング(妨害)、破壊や脱着を試みた時点でこちらに通知が届きます。制限区域から出た場合も同様です。即刻、追跡、捕縛後、元の場所に収容されます。範囲は把握していますか?」
「真田」がスラスラと答えた。
「外出時以外はキャンプ富士の敷地内、外出時は御殿場市内です」
「門限はありませんが、課目までに帰ってこなければならないのは他の訓練生と同じです。帰隊遅延した場合も通知がこちらに届きます。細部は同じ部屋——つまり同じクラスメイトになる軍人や警察官の方が詳しいと思います」
 生気を取り戻した「神崎」が手を挙げる。
「入校中の事故で壊れた場合は?」
「私や他の指導員に報告をお願いします。ただ心配はいりません。完全防水仕様で、ハンマーやチェーンカッター程度では壊れません。教育の最後で実施する演習時や修了できた際は別途指示します」
「分かりました」
「後は入校案内に従って行動してください。沖縄から届いたハードコンテナボックスは、正面玄関横に集積されているので回収するように。前にいた場所での件は、我々三人と指導部以外には他言無用です」
 全くもって信用できないからな。
 境は二人の位置を特定した端末を人差し指で軽く叩く。
「端末と同期しているので位置はすぐに分かります。制限区域の範囲はこちらで調整できるので、区域外」
 素直に頷く二人に、境は頬が緩みかけた。
 よくよく考えればおかしな構図であり、でこぼこな組み合わせだ。自分にとっての最後の勤務は奇妙なものになりそうだな……
 皮肉に歪んだ頬を悟られないように、部屋の鍵を開けて廊下に出る。頭の片隅には常に血盟団と篠原の存在があった。が、この時だけは不思議と気持ちが軽くなっていた。
 結果がどうなろうと何も変わらない。野望や希望を持って、勇ましい大志と言葉を吐きながら五年も経たずに消えていく。そして大半の人間はルサンチマンに落ちて、血盟団のような組織に拾われるのだ。五年後に同じ言葉が吐ける人間は二割しかいない。
 実際には、二度目のチャンスなどない。
 境はそう、考えていた。