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水田耕作の発生──水稲と陸稲は起源が異なる(「神社新報」平成8年3月11日号)


 水田耕作という稲作技術は、いつ、どのようにして、生まれたのだろうか?

 集落全体に及ぶような灌漑施設など、大がかりな生産装置は、むしろ工業的とさえいえるが、農業発達史上、斬新にして革命的な技術である、この水田で栽培される作物は、むかしも今も、稲のほかにはほとんど見当たらない。

 なぜ稲という穀物だけが、畑では生産されないのか?

 もちろん、ほかの穀物や野菜と同じように、畑作物としての陸稲はあるが、水田耕作こそが米生産の基本であって、陸稲は亜流だと私たちは思い込んでいる。稲は水田で作るものだと、ほとんど無意識のうちに決めてかかっている。

 現代の日本人だけではない。わが国最古の史書である『日本書紀』は、稲を「水田種子(たなつもの)」と呼び、粟や稗などの「陸田種子(はたつもの)」と呼んで、はじめから区別している。

 なぜであろうか?

 水田稲作が陸稲栽培より歴史的に先んじたはずはない。とすれば──。


▢1 宝満神社の舟田(ふなだ)に酷似した南印ケララ州の天水田


 昨年(平成7年)5月中旬、記者は南インドのケララ州にいた。

 州名は「ココヤシの国」という意味だと説明されるほど、インドには珍しく緑豊かな風景が続く。広範に広がる稲田を目にすることもしばしばだ。

 ケララ州は経済水準が高く、カルカッタ(コルコタ)やボンベイ(ムンバイ)などと違って、スラムを見かけることはない。ヒンドゥー寺院とイスラムのモスクが隣接しているケースもあるほどで、「北インドのような宗教対立はない」とインド人から説明を受けた。

 インド随一ともいわれる教育レベルの高さは、海外の文物をいち早く導入してきた土地柄であることと無関係ではなさそうだ。

 州都カリカットはヴァスコ・ダ・ガマが1498年に到達したところで、ヨーロッパ人による「インド侵略」の原点でもある。

 ガマが上陸したという海岸はどこまでも続く砂浜だが、上陸地点には海岸で唯一の岩山が突き出ている。

「コブラが出る」と脅されながら登ると、高さ約10メートルの頂上は100坪ほどの平地で、ヒンドゥーの祠が鎮まっていた。

「フィッシャーマンズ・テンプル(漁師の寺)」という名の通り、漁民たちの信仰を集め、沖合に出た漁師にとっては灯台替わりの目印なのだという。

 ガマが上陸の目印にしたのもこの岩山であったのだろう。

 州北部ワイナッド自然保護地区にあるバンガローに二晩、泊まった。

 電気も水道もないが、象や鹿など、大型の野生動物を間近に観察できるのは感動的だ。

 2日目、「ヴァイヨールカヴ・テンプル」という小高い山の上のヒンドゥーの古刹に参詣した。山腹から麓まで水田が広がっていた。

 ただし、日本ならあるはずの水路はない。上から下へ、自然に流れ落ちるだけのようで、いちばん低い田に水がため池のようにたまる仕組みになっているらしい。一頭の牛が代掻きをしている。いわゆる踏耕である。

 麓にも古刹があり、信仰対象でもあるらしい大木が枝を広げ、根元には小さな祠が置かれていた。

 麓の寺のかたわらに別の稲田があった。驚いた。種子島の宝満神社の「舟田」にあまりにもそっくりだったからだ。

 畦も水路もない。乾季は畑に、雨が降れば稲田になるという天水田のようで、雨季を直前に控えて、播種の準備が終わったところらしい。

 案内してくれたインド人によると、この周辺は少数民族の住む「トライバル・エリア」だという。どんな文化を持つ民族なのか、詳しいことは分からない。

 車窓から見るかぎり、稲刈りをする女性はインド特有のサリーを着ていない。面白いことに、稲刈りは男はやらないらしい。

 容貌は北インドのアーリア系とも、南インドのドラヴィダ系とも違うようだ。

 それにしても、なぜ南インドのトライバル・エリアに、はるか遠く宝満神社の「舟田」そっくりの天水田がなければならないのか。南インドと種子島とは何か関連があるのだろうか?

 宝満神社では代々、赤米が栽培されてきた。

 京大の渡部忠世先生によると、この赤米は東南アジア島嶼地域にもっとも広く分布する「ジャバニカの種類にもっとも近い」(『稲の大地』)という。

 ジャヴァニカ(熱帯ジャポニカ)は水稲でも陸稲でもない水陸未文化稲だから、必ずしも水田で栽培されるわけではない。農業先進地のジャワ島でさえ、20世紀初頭まで稲田の2割までが天水田だった。

 宝満神社の赤米が栽培される「御田(おた)」はいまはまぎれもない水田だが、「御田の森」の横に「舟田」と呼ばれる天水田があり、ひところは紋付き袴で正装した社人(しゃにん)夫婦がお田植えのあと舞を舞った。

 近畿大学の野本寛一先生によると、これは東南アジア島嶼地域で見られる踏耕の名残だという。

 種子島ではいま天水田をほかで見かけることはないが、以前は珍しいものではなかったようだ。島中で赤米が栽培され、人による踏耕は明治の後半まで残っていたという。

 島を一周してみると、宝満神社のある南部を除いて、水田はほとんどない。

 赤米は水田ではなく、畑作物として栽培されてきたのだろう。昭和30年代まで、全島で陸稲が盛んに栽培されたという。

 となると、東南アジアを仲介地として南インドの少数民族と種子島とを結ぶ線がないとはいいきれない。

 その日の夕刻、「面白いものを見せてやろう」とインド人の係官が保護地区の奥深くに、私を誘った。

 樹高30メートルはあろうか、空に向かってまっすぐに伸びる大木、「トライバルのご神木」であった。根元にもうけられた祭壇には、なんと一対の小さな狛犬のようなものまで並んでいる。

 天水田、巨木信仰、狛犬──この文化的類似はいったい何だろうか?

 何千キロも離れている南インドと日本だが、両者をつないでいる何かが確かにありそうだ。


▢2 「海上の道」を経由したのは水田耕作ではない


 本居宣長は『古事記伝』にこう書いている。

「皇御国(すめらみくに)は、よろずの物もことも、異国々より優れるなかにも、稲はことに、いまにいたるまで、万国にすぐれて美しきは、神代より深きゆえんあることぞ」

 宣長は、天孫の降臨に際して、天照大神が「斎庭(ゆにわ)の穂の神勅(しんちょく)」を授けたという『日本書紀』の神代巻の記述を、あくまで信仰者として受け止めていたのだろう。

 これに対して、黒潮に乗り、「海上の道」をたどってきた「天つ神」が稲作文化をもたらした、と考えたのが、民俗学者の柳田国男である。晩年のことだった。

 柳田は、『稲の日本史』で、稲作文化の起源と日本民族のルーツについて、大胆に発言している。「こめ」と音の似た地名が「海上の道」沿いに分布していることが根拠だった。

 研究者の間では稲作の起源と伝来について、①朝鮮半島南部経由、②中国江南地方から直接伝来、③「海上の道」経由──の3説が主張されてきた。

 とくに考古学では、朝鮮半島経由説が有力で、柳田が唱えた「海上の道」説は長い間、相手にされなかった。

 しかし近年、「日本に伝来した稲にはジャポニカとジャヴァニカがあり、ジャヴァニカは黒潮に乗って伝来した」とする学説が現れるにおよんで、柳田説が俄然、脚光を浴びている。

 以前、真偽のほどを国立歴史民俗学博物館の佐原真先生に質問し、言下に否定されたことがある。

「われわれ考古学者がこれほど発掘調査をしているのに、『海上の道』説を裏付ける水田遺構は発見されていない」というのだ。

 柳田が注目した沖縄・久米島でさえ、水田遺構はまったく発見されていないらしい。

 ところが、である。

 静岡大学の佐藤洋一郎先生は、

「ジャヴァニカは陸稲的な稲だから、必ずしも水田を必要としない。水田遺構が発見されないからといって、『海上の道』説を否定することはできない」と反論する。

 言い方を変えれば、「海上の道」を経て、伝来したのは、ジャヴァニカという水陸未分化稲であって、水稲ではない。

 逆に、水田稲作は「海上の道」を通って伝来したのではなく、ほかのルートを伝ってきたのではないか?

 ジャポニカとジャヴァニカ、水稲と陸稲とでは、伝来の道筋も時代もおそらく異なるのであろう。

 柳田は、大正6年の講演で、

「わが大御門の御祖先が、はじめてこの島へご到着なされたときには、国内にはすでに幾多の先住民がいたと伝えられます」(『山人考』)と語っている。

 水陸未分化稲の存在を知らなかった柳田は、「天つ神」が水田稲作を携え、「海上の道」を経て、大八洲に到来したと単純に考えた。

 しかし「海上の道」をわたってきたのは水田稲作ではなく、陸稲または水陸未分化稲の農耕文化だったのだろう。


▢3 日本書紀はなぜ稲種を「水田種子」と記したのか


「海上の道」沿いに位置する神社は、もちろん種子島の宝満神社だけではない。

 野本先生によると、三重県礒部町にある伊勢神宮の別宮・伊雑宮もまた黒潮上の神社だという。

 同社の「御田植祭」は日本三大田植祭の1つとして有名だ。6月下旬、裸の「舟子」たちが神田で泥をかけ合い、「ゴンバウチワ」に描かれた宝珠を激しく奪い合う。

 泥かけはやはり東南アジア起源の踏耕の名残という。

 近世まで外宮の禰宜職を務めた礒部氏(度会氏)は古代から南伊勢を支配していた半農半漁の豪族のようだが、伊勢の信仰と東南アジアとのつながりがあるのだろうか?

 水田遺構としてもっとも有名な、静岡市にある登呂遺跡は、1800年前ごろの弥生後期の遺跡だといわれる。

 発見は昭和18年、発掘によって世や維持代の稲作がはじめて確認された意義は大きい。12軒の人家と2棟の倉庫、8町歩ほどの水田で、約60人の村が形成されていたらしい。

 水田跡には木の杭や矢板で補強された畦道や水路が整然と築かれ、高度な灌漑技術には驚嘆せざるを得ない。

 これほど高度な水田稲作の技術は、どのようにして生まれたのであろうか?

 中国・北宋の時代にまとめられた歴史書『資治通鑑』には、「耕して天に到る」とある。この記述を文字通り解釈すると、稲作民族の勤勉さが麓から山頂へと水田を切り開いたかのように考えられがちである。

 だが、渡部先生によると、間違いだという。

 古代の稲作は、①山岳・丘陵地の畑と山間小湿地、②小河川の河谷盆地、③河川中流域の扇状地、④海岸平野、⑤デルタ上部、⑥デルタ沖積地へと、逆に山から麓へ段階的に展開したというのである。

 とすれば、海岸に近い登呂の水田技術はかなり新しいものといえる。

 しかも地理的には黒潮上に位置づけられる登呂遺跡だが、「海上の道」沿いに水田遺構が発見されていない以上、ほかの伝来ルートを考えなくなくてはならない。

 歴史的に、はじめて発見された縄文水田は、福岡空港のそばの板付遺跡(縄文晩期、2300年前)で、昭和53年のことだが、やはり人工的な水路や井堰、取排水口など、高度な技術には目を見張るべきものがある。

 いま日本で最古の遺跡といわれるのは、岡山・美甘村の姫笹原遺跡(縄文中期中頃、4500年前)だが、発掘されていないので、「整備された水田」なのかどうか、は分からない。

 高度な水田耕作が行われていたとしたら、その技術はいつごろ、どこで生まれたのか?

 水田耕作が稲の栽培と同時に始まったのなら別だが、そんな事実はありそうにない。

 それなら『日本書紀』はなぜ稲種を「水田種子」と記しているのだろうか? まるで最初から水田栽培を前提にしているかのようだ。

 こうした記述は日本の稲作がかなり高度な栽培技術を持つ「天つ神」の渡来によって伝来した事実をはからずも暗示しているといえないか?

 水田耕作という画期的な技術は2000年前には早くも東北の北部まで伝播したらしい。『日本書紀』が成立する8世紀前後には、日本列島には100万町歩もの水田が開かれていたといわれる。現在の耕地の3分の1がこの時期に開かれていたことになる。

 短期のうちに水田稲作が浸透したのはなぜか? 焼き畑または天水田でジャヴァニカの、おそらくモチ種を栽培する「国つ神」の稲作文化が浸透していて、そこへジャポニカのうるち種を栽培する「天つ神」の高度な水田稲作が伝来したのではないか?

 そうとでも考えないと、驚異的な伝播は説明できそうにない。

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