花束ドロップアウト①
『ガタンゴトン、ガタンゴトン。』
6畳4万のボロアパートの床に耳をふっとつける。
地下鉄の走る音が、かすかに聞こえる。
『ガタンゴトン、ガタンゴトン。』
停車駅はもう少し先にあるから、
あの黒板をひっかいたような嫌な音は聞こえない。
『ガタンゴトン、ガタンゴトン。』
『ガタンゴトン、ガタンゴトン。』
僕はこの音が好きだ。
鉄製の車輪が回り、
レールのつぎはぎを超え、
進むべく道に進む
『ガタンゴトン、ガタンゴトン。』
この音が好きだ。
幸いなことに、
連日連夜アルコールを飲み明かし、大声を上げる大学生や、
終電を逃してしまった哀れな人々を探し、エンジンを吹かせるタクシーも、
この辺りではあまり見かけない。
だから、よく聞こえる。かすかながら。
『ガタンゴトン、ガタンゴトン。』
『ガタンゴトン、ガタンゴトン。』
遠くから来て、遠くへ行くまで行く音が。
地下鉄の音を聞いてしばらくすると、
僕は自分のことを内省したがる。
先輩の冷たい一言。
なぜ、あんなことをわざわざ言ったのだろう。
スーパーの前で井戸端会議を始めるおばちゃん達のこと。
どうして、僕が前を通ると声が小さくなるのだろう。
もう連絡を取らなくなった友達のあの後。
なんで、居酒屋を出ていってしまったのだろう。
少し前まで付き合っていたあの人のこと。
何故、泣いてしまったのだろうか。
ごめんなさい。
地下鉄が一台通り過ぎる度に、一つずつ思い出して
涙がこぼれてしまう。
ごめんなさい。
あの時、あの場所で、あの状況で、
僕はどうするべきだったんだろう。
もし、僕がもう少し、あともう少し、
話をしていたら、
理由を聞いていたら、
離れる手をつかんでいたら、
ちゃんとネクタイの締め方を教えてあげられていたら、
今より、もう少しうんと、
気持ちは楽になっていたんだろうか、
00:05
もうすぐ最終電車が通る。
これを聞いたら、僕は、
不味いチューハイを1分で飲み干し、
2分後にはゴミを捨てて、
『ガタンゴトン、ガタンゴトン。』
服を脱いで、シャワーを浴びて、タオルで濡れた身体を拭って、10分。
歯を磨いて、着替えて、少し濡れたタオルを持ってベランダに干すので
大体15分くらい経つ。
そうして潰れた最後の煙草を一本持って、
安物ライターで火をつける。
「あなたは消えないでね。」
そう思いながら、肺が苦しくなるまで、
ゆっくり煙を肺に入れる。
吐き出した薄紫色の煙は、
小さい頃、お世辞にも綺麗とは言えない河川敷で眺めた、
あの子が吹いたあのシャボン玉に似てる。
でも、見えなくなった後は、
あいつが投げた水切りの石に似てる。
こんな時間なのだから、
夜は夜らしく、静かで、黒い。
憎らしくもここからじゃ、
一番近い星も、一番明るい星も、見れやしない。
また涙が出た。
涙が手すりにしがみつくようにとどまったから、
「どうして、他と同じようにしないの。」って言うように、
そこで火を消して。
00:35
少しいつもより長くなってしまった。
たまりにたまった灰皿に吸い殻を捨てて、
窓を少しだけ閉めて、
薄い毛布を被る。
寝返りはあまり打たないから、いつも寝ているところで床がへこんでいる。
少しだけ、いつもよりへこみが深くなっている気がした。
そうして、そうして、そうして、
ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、
目をつぶる。
そうしてこぼれ出る音を聴く。
風の音。
葉が揺れて、擦れる音。
呼吸の音。
心臓の音。
何かが壊れる音。
心臓の音。
呼吸の音。
葉が揺れて、擦れる音。
風の音。
『ミシミシ。ボロボロ。ヒューヒュー。』
僕はちゃんと、みんな好きなのに。
僕はきちんと、どの色も、どの花も、好きなのに。
薄い枕に小さな染みが今日もまた出来た。
これからはどうしていこうか。
明日はどうしようか。
いつものように太陽と一緒に起きて、背伸びをしたら、部屋の掃除をして、
煙草と珈琲を買いに出かけて、
帰りがけには、スーパーとか魚屋、いや、肉屋で少し贅沢の気分でも味わってみようか。
それとも、お昼まで寝汚く過ごして、
腰や頭を痛くしながら、近くの河川敷を散歩しようか。
それから、若干パサついたドーナッツを食べながら、
すり寄ってきた野良猫に少し分けてあげるんだ。
それから気分を良くして、行きつけの喫茶店を探して、
そこで働く店員さんと今までのことを全部忘れるように、恋をするんだ。
その時はちゃんとネクタイを締めれるように練習しよう。
苦手なホットコーヒーも飲めるようになろう。カラオケも。隠し事も。
ううん。違う。
居酒屋の路地裏でつぶれているサラリーマンとか、
アルバイト尽くしの浪人生とか、
そんな人達の不満話とか理不尽とか気に食わないことを、
午後17時のチャイムが聞こえるまでボール遊びをするみたいに、
作った千羽鶴をまき散らすみたいに、
まるであの時熱中したゲームみたいに、
たくさん話して、たくさん泣いて、始発まで沿線を歩いて、
笑って今日を終わりたいんだ。
眠りにつく直前、
僕は走馬灯ではなくて、少し先の未来のことを想像して、
恥ずかしいくらいに、口角が少し上がった。
その後もたくさん頭の中で膨らませ、
ありもしないようなことも想像して期待した。
もしも明日、
自分の身体が蟻になっていたら。
明日、戦争が起きていて、従軍することになっていたら。
世界的に有名な研究者になって、世界中の人を猫に変えることができたら。
もし、これまでの想像が全部本当に起きたら。
「自分の身体は一つじゃ足りないや。」
眠れなくなって、布団から起き上がり、
コップ一杯の水を汲んで薬と一緒に飲み干した。
すぐそこのコンビニまで煙草を買いに行こうかとも思った。
それと同時に、
昨日、隣の人が育てていたお花を倒してしまったことを思い出した。
隣の人がどんな人なのかは全く知らない。見た目も性別も声も
あの時は、時間も今ぐらいだったし、サンダルだったし、
時々、何かを叩く音と、壁越しでむせび泣く声を聴いていたから、
謝ることも、お手紙を書くことも、代わりのものも用意していない。
それを思い出して、少し怖くなって、床に突っ伏した。
あのお花はなんて言うんだったろうか。
あまり見たことのないお花だったことは覚えている。
そして、すぐさま携帯で調べたことも覚えている。
怖くなってシャワーを浴びながら、泣いたことも覚えている。
でも、名前だけは忘れてしまった。
しばらくするとそんなことはどうでもよくなって、
そして今日のあれこれを忘れるように、
床に、ふっと耳をつけて、地下鉄の音を聞こうとした。
『 、 。』
少し寂しい気持ちにはなったが、そんなことには慣れっこだ。
口を開けて、よだれを垂らして、
広がっていく唾液を眺めながら、ゆっくりと目を閉じた。
「夢は砕ける前が1番、綺麗なはずだろう
夜は夜明けの前が1番、暗いっていうだろ」
いつかに聞いた下北ロックバンドの歌詞をふと思い出した。
「明日はどうかな、明日はどうかな、明日はどうかな。」
次第に背中から汗をかき始めて、
だんだん僕は堕ちていく気がした。
心無しか、腰元から夏の夜の生暖かい風が当たっているようで、
ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、
いつかに観た洋画のように、
じわじわと堕ちていく。
「あ。」
チグリジアだ。
それを思い出して、
「助けてほしいのはこっちもだよ。」
僕は、描きかけのチグリジアを横目に
堕ちた。