まえおき
正直に言って、本作が2022年度の本屋大賞を受賞したと聞いたときは、ウクライナ情勢という時流にうまく乗ったのかな、という理解でした。実際に手に取って読んでみるまでは。
控え目に言ってもミリタリーものは大好物です。
映画であればプライベートライアン、ブラックホークダウン、フルメタルジャケット、スターリングラード、アメリカンスナイパー、クリムゾンタイド、漫画であれば沈黙の艦隊、ジパング、空母いぶき(基本的にかわぐちかいじ作品・・・)等、挙げ出せばキリはありません。
他方で、ミリタリーものの小説、と言われると、少なくとも私はこれまで傑作と思うような小説には巡り合えませんでした(「ビルマの竪琴」や「野火」は間違いなく傑作ですが、ミリタリーもの、というより戦争文学と呼ぶべきものと考えます)。
いずれにせよ、極限の戦場のスリルと人間ドラマ、生と死を描くミリタリーものには何とも形容しがたい魅力が詰まっていると思います。
もちろん、それは娯楽として楽しむ限りにおいてです。
当然、実際の戦争は全く異なります。
感動する要素など微塵もない、容赦のない単なる悲劇でしょう。
死体は埋葬されることなく路上に打ち捨てられ、兵士は略奪し、女性は強姦され、あらゆる人間性が失われます。
そして、そのようなことが現在ウクライナで起こっています。繰り返されてきた戦争の悲劇が、国家間の侵略戦争という規模で再び現代に甦ってしまった、この事実に戦慄を覚えます。
本書は独ソ戦を描いたもので、1942年が舞台です。しかし、80年の歳月が流れた今、連日テレビやインターネットを通じて流れるウクライナでの戦闘の映像でもやっていることは変わりません。
日常を戦車が蹂躙し、迫撃砲弾が思い出の場所を木っ端微塵にし、市民は武器を取って戦っています。変わったことといえば、自動小銃やミサイル、BC兵器の登場くらいでしょうか・・・
レビュー
16歳の少女・主人公セラフィマ(表紙写真)は、侵攻してきたドイツ軍に村を焼かれ、母を殺され、ドイツ軍を駆逐すべく入隊し、訓練を経て狙撃兵となります。
凄惨な戦いを経て「フリッツ」(ドイツ兵のこと)100人以上を射殺し凄腕のスナイパーとなった彼女を待ち受けるものとは・・・
逢坂冬馬先生のデビュー作とのことですが、構成の巧みさが目を引きます。
戦況において主人公たちが置かれた状況を地の文でわかりやすく提示しつつ、戦闘に入ったら会話を主体としてテンポよく展開され、章の終わりまで一気に読ませてしまいます。
女性狙撃小隊はソ連軍において実在したとのことで、血生臭さや女性への暴行など、戦場のリアルも感じさせつつ、あまりに凄惨な描写は抑えられており、リアルを追求し過ぎない姿勢が読みやすさにつながっています。
気になったのは、ラストに近づくにつれ、主人公があまりに無双し過ぎることでしょうか。19歳くらいの女性だと考えると、屈強なドイツ兵を相手に大立ち回りを演じるのはマンガ的に過ぎるとも思いましたが、こうしたエンタメ色とのバランス感覚が本書の良さでもあります。
本書の白眉
ここからは、本書を読んでいてここは!と思ったポイントです。
動機の階層化
本書で何度か登場する概念として、「動機の階層化」というものがあります。
主人公はもともと猟師だったのですが、
というのが動機の階層化の効果であり、
いわば無の境地(ゾーン)に至るためのプロセス(心の持ちよう)というようなものだと思われます。ブルース・リー的な。
これを狙撃の際に適用すると、
であり、いざ戦地に赴き、敵を撃つとき、その動機を元に敵を撃とうなどと考えるのではなく、ただ純粋に技術に身を置き、何も感じずに敵を撃たなければならない。
怒りや憎しみは判断を曇らせるため、敵を撃つ瞬間は明鏡止水でなければならない。
他方で、憎しみを持たずに戦い続けることなどできないから、敵を撃った後には動機の起点へ戻ってくる必要がある。
という教えになります。
要するに、集中して物事を成し遂げる際に、それをやる動機はもはや不要になっている、ということなのだと思います。
これを我々弁護士に置き換えるなら、
証人尋問の際、裁判に勝ちたい、無罪を勝ち取りたい、依頼者を助けたい、正義を為したい、というような「動機」はわきにおいておく必要があり、ただ、持てる技術を尽くして相手方証人の矛盾を突くことに集中しなければならない、といったところでしょうか(例えになっているのかよくわかりませんが・・・)。
この「動機の階層化」という考え方は様々な仕事に置き換えて使えるような気がしました。
戦時性犯罪
本書では、戦時性犯罪への批判がかなり強く押し出されています。
女性を主人公にすることでこの点にしっかりとした掘り下げがなされています。
主人公がたまたま再会した同郷の幼馴染兼元恋人?の兵士ミハイルと、戦時性犯罪について議論を交わします。
ミハイルは戦時性犯罪を許せないと言いつつも、戦時性犯罪のメカニズムを説き、以下のように述べます。
このようなミハイルの発言に対し、セラフィマは、「絶対にしてはならないことは確かにある。(女性を強姦するというようなことがまさにそれであり)戦争という特殊な環境を利用し、少数の『社会』がそれを捻じ曲げ(てそれを行ってい)るだけ」だ、と反論するのですが、上記の引用部分に著者の世界の認識の仕方の一端が垣間見えるように思われます。
セラフィマは戦時性犯罪を憎み、女性を守るために戦うことを誓うのですが、このようなセラフィマやその他の女性キャラの女性観は、かなり現代ナイズされているようにも思えます。
果たして80年前の第二次世界大戦中の女性が戦時性犯罪に対してセラフィマやイリーナほどの認識を持っていたのか、という疑問は感じました。
もちろんおぞましいものだと認識し、怒ってはいたでしょうが、同じ場面に遭遇して、セラフィマが本書でとったような行動をとる女性がいたのだろうか、とも思います。そのような行動をとる人間がいなくなるのが戦争の恐ろしさというものでもあるわけで。
そのあたりも、あくまで戦争のリアルを暴こう、というものではなく、エンタメ色を有しているのが本書の特徴だと思います。
まとめ
本書は、戦争という極限状態における女性の在り方を問うている点で普遍的な主題に取り組んでいるのですが、やはりこのタイミングですと、ウクライナにおける戦争とリンクさせて読んでしまいます。
ドイツに侵略されたソ連が降伏間際の日本に侵攻して北方領土を掠め取ったこと、今回のウクライナでの戦争でのロシア兵の振舞い、こうしたことにもロシアにはロシアの正当化の仕方があるのだとしたら、上記のミハイルの言葉がやはり真実なのだろうとも思えます。
何が正義かは勝者が決める、だから絶対に負けてはいけない・・・それだけが唯一絶対の真理なのだとしたら、なんとこの世の虚しいことか・・・
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