恵まれと非恵まれでは住む世界が違う

恵まれと非恵まれでは住む世界が違う

なんでもそうだ
富も名声も夢も目標も恋も愛も勉強も仕事も
恵まれている人にとっての当たり前が恵まれていない人にはない
そして両者には世界認識に断絶がある
恵まれている人は恵まれていない人の世界観を理解し得ないし、恵まれていない人は恵まれている人の世界観を理解できない
ネット社会は益々持って想像力を人から奪ったか或いは顕在化させたと思う
想像力も事例知識もない多数の意見がそのまま多数決で正義となる
恵まれているにせよ恵まれていないにせよ、その両極にいる者達は大抵少数派だ
恵まれているものは多数決で認められなくともほぼノーダメージだ
何故なら力があるから
手段が、選択肢が、いくらでもあるから
だが恵まれていないものは多数決で認められないことが大きなダメージとなりうる
何故なら力がないから
手段も選択肢もほとんどないから

どこまでが恵まれていてどこまでが恵まれているかというのを定量化するのは難しい
便宜上二元論的にさえ誤解されかねない対局として書いたがそう感ぜられる事自体が社会が想像力を欠如していることの証左と言えよう
本来それはそんな二値的なものではなく
デジタルではない
それは量的なものであり、アナログなのだ
端的に世界を理解するためか、何でもかんでもデジタルに変換することは丸めるための誤差を生む
少量であればまだしも、その分解能というか解像度というかが現実から乖離していればいるほどに誤差は広がる
二値的なものの見方はシンプル故に簡潔にまとめやすく人に伝達しやすい
人は長文を覚えることも読むこと恐らくは苦手であろうから
だがそのためだけに誤差を飲み過ぎればそれは真実からは程遠い虚像の把握でしかなくなってしまう
恵まれている恵まれていないを相対的にせよ絶対的にせよ適切に測ることは人間には難しく、どこに線を引いても必ず不満が出てしまう
故、極めて相対的に、主観的に述べるのが、(そうと注釈した上であらば)結局一番適切というか逆に信頼のおける情報であるようにさえ見える
そういったことを大前提として、しかして伝達の為に敢えて対極を用いて話そう

モテる場合
勝手に異性の方から来るのであとはその対応方法を実地で把握すれば良いだけ
失敗よりも成功体験が積み重ねりやすいので勝手に自信がつく
失敗が許される早いうちから学んでいける

モテない場合
まずモテる努力が必要、その方法の情報収集と検証が必要
異性には自分からアプローチしていくからその方法も把握する必要がある
成功よりも失敗体験の方が量産されやすく学習性無力感に陥る場合があるためその打破が必要なことも
自分に自信をつける必要がある
失敗してもよい傷ついても良いという概念が必要
それらのことに気づく必要があるがそれは情報そのものやそれを含んだ人との出会いや経験からの気づきなどいつ得られるかはかなり個人差がある

モテと非モテでは生きてる世界が違う
努力しないことの言い訳とかではなく単に現実としてそういう生まれながらとか、その人なりに普通に生きてきた場合でも生じえる格差はある
顔がいい方が有利でありスタイルがいい方が有利であり運動ができた方が有利であり勉強ができた方が有利で明るい性格の方が有利である
生まれと環境は既に強烈な淘汰圧であって、その時代に求められる要素を有した幸運なものは不愉快より愉快を感じやすいであろうつまり生きやすいであろう
後天的に自分をチューニングすることはできるがそれに気づけるかどうかも運でありその早い遅いはかなりの個人差がある
情報として持っていても学習性無力感から自分でもそれができるなどと考えられないような思考になっている場合もある
他者からの否定とかでね
この世には生きてるだけで拒絶される人間はいるし誰もが聖人みたいな優しい人間に囲まれて育ってきているわけではない
毎日学校でも家でも否定され続けた子供が「自分にもできるかも」と希望を抱ける可能性は殆どないと思える
わたしの場合は死のうとしてでも死ねなくて、なら生きるしかないか、どうせ生きるなら楽しく生きたいよなというのが出発点であった
そのタイミングでわたしを否定していた姉や兄と殆ど関わらなくて済むようになっていったのもある
その後パワハラモラハラ上等3Kのクソ職場でやはり否定され続けるが、既に毎日姉に喧嘩をふっかけられながら子育てのために働く母親の身を案じる必要もなく、自分のことを考えられる様になった為に、漸く開始した自分の人生を良くするための自主的な学習や幾つかの出会いの結果として皆が当たり前に醸成した自尊心などを何周も遅れて養殖することに成功した
そこから仮説と検証の思考や失敗を恐れないことの意義を実感的に腹落ちさせることと金銭状況の改善により女性とお付き合いできるようになった

恵まれていない人間と恵まれている人間では別世界に住んでいる

それは恋愛だけではなく裕福かどうかという問題でも同様

当たり前に学費や塾やら予備校及びそれらに必要な教材やらの費用を出してもらえる人
部活や習い事それらに必要な道具の費用を出してもらえる人
当たり前にやれ昼食代やらやれ携帯代やらやれ家賃だのを払ってもらった上に仕送りされている人
そういう人がその環境であるが故に勉強や運動に集中しやすくて「いい人生」を築け高い地位や権力や影響力を持つこと
わたしが見てきた中では自己責任論者の多くはそういった人間に多い
つまり「困ったことがない」「苦労を知らない」から自分の観測範囲外の不幸をあたかもフィクションであるかの如く関知せず思考停止で「努力が足りない」などという的外れで世間知らずな世迷い事を吐く
こういう人間は仲間や賛同者が多い故にその認識を改める機会も欠く
この日本では勿論量的に差こそあるが、この恵まれている側の人間が多数派である
故に社会の総意としてもこちらにぶがあり、態々恵まれてない者たちの土俵に降りていってやる必要がそもそも彼らにはない
理解できないしそのことに気づきもしないし気づいたところで理解する必要も気もさらさらないということ

対して、恵まれていない人
小学生の時代から働く必要があった人
家に帰って親がいないのは当然でご飯すらないことも当然な人
携帯代も食費も高校生等学徒の頃から自分で稼ぐ必要があった人
修学旅行の費用はおろか体操着や鞄の費用さえおぼつかない人
塾や予備校どころか参考書の一つさえ買う金がない人
部活や習い事なんてする部費や月謝の用意は勿論なく、その為に必要な道具を買うお金もない人
本を読みたいとか絵を描きたいとか音楽をやりたいとか文化的なやりたいことも金がない故にできない人
バイト代は家に入れておしまい、自分のことに使うお金もないという人
体を売って家族を養うという人
この世にはフィクションみたいな境遇の人は存在する
いや
事実は小説より奇なりというように、フィクションよりもえげつない環境に身を置いてる人もいる
そういうのを
「知らないから」
「知ったこっちゃないから」
「俺は嫌な思いしてないから」
と切り捨ててきたのが現代日本であるとわたしは思う
わたしは就職氷河期の人々の主張にはシンパシーする部分がある
それにしたって彼らの苦しみをわたしは真には理解しようがないし、彼らもわたしの苦しみを真には理解しようがない
みんな自分の人生しか実感を通して体験できないから
コロナ禍で学生時代がパァとか言ってる人やそれを可哀想とかいう世間を見るたびに虫唾が走る
親が生活保護だったから奨学金が降りず進学できなかった人もこの世にはいるんですよ
そういう人がずっと味わってきた「大学に行きたかったのに行けなかった」という苦しみは個々の問題として見て見ぬふりやら知らぬ存ぜぬで掃き棄ててきておいて
やれ多数がそうなった途端免罪符が発効されるは同情されるは援助されるは
気っっ色悪い
所詮日本は集団主義ですよね
集団の為に世界が存在するのであって個々人のことは全く頓着しない
問題が個人から集団、それも多数派にならないと改革されない癖に、一度過半数を超えた途端いとも簡単に手のひらを返す
気っっっっっ色悪い
まあ多数派に属している人々にはわからんことです
衣食住知って礼節を知ると言いますが
「自分と同じ思いをして欲しくない」なんて高尚な余裕は結局報われた人や今現在自身が困窮してないから言えることでしかないと思うのです(まあ他にも宗教的ものや特定の思想の土壌から発せられる場合はあり得るとは思いますが)
率直な感想として世間のさんざんこちらを自己責任だと言ってきた奴らに対しては「同じ苦しみを味わえ」と思うのは当然の帰結なのですが、恵まれてきた人にはこれが理解できないようですね
そういう意味でそれは試金石ですよ
そういう感情をやれ幼いだの幼稚だの自己解釈ですり替えていても仕方がないんですよね
現にそういった感情を抱く人間は多数派でこそないが多数存在しそれは未解決なのですから
そして社会が疲弊し経済が困窮すればするほど「こっち側」に来る人は増えていくのでこれは他人事じゃあないんですけれどね
持てるものが更に持ち持たざるものは持たなくなる現状は格差は助長し続け、それはますます不公平感不平等感を醸成するでしょう
実際他人事でなくなってから動いたところでそれが上であればあるほど手遅れでしょうね
それにそれまで当事者だった人々の心は報われませんから、そういう人が増え続ける事自体が社会不満の増加に他ならず、無敵の人などを生み治安の悪化を招きますよね
コロナ禍世代は確かに他世代の恵まれた人間よりは不運かもしれない
でも他世代の恵まれていなかった人達よりは不運でないことの方が多いと思いますよ
まあそれは「俺の方が不幸だ」みたいな、それこそ不幸自慢、不幸マウントみたいな言い合いにしかならないんでしょうけれどね

まあ恵まれてる恵まれてないはまだまだ、恋愛や金銭、学業や社会での体験だけではないです
わたしのように兄や姉や父がクレイジーで児童淫行や虐待や家庭内暴力や罵声や嘲笑に晒され続けた人間と
ドラマのテンプレートよろしくお母さんがご飯作ってくれてお兄ちゃんに勉強教えてもらったみたいな話に聞こえる普通の人々と
同じ世界観で生きてるわけがないじゃあないですか

わたしは何も現にみなさんに同じ体験をしてほしいというわけではないのです
ただその暴力的でグロテスクな無理解に対して常々理不尽を感じそれに抗議しているまでです
さまざまな背景を持つ異なる人間が集まるのが学校や職場というものでありましょうがそれ故に皆が自分と同じ前提を共有していると思い込むのは浅はかで話にならないよという事を全人類に知らしめたいだけです
その普通を前提とする思考や判断の全てが他人にはないかもしれないことを頭の片隅にでも留めておいてもらいたいのです

たとえばモテまくる人とキモがられまくった人が同じような価値観を持ってないことぐらいは把握しておくべきだということです
理解できなくてもいいのでそこに断絶があることを知っておいてほしいのです
それだけで大分世間知らずで的外れな正義中毒みたいなバカタレは減ると思うんですよね
知らんけど

日本で恵まれてない人と他国で恵まれてない人が同じ世界観にいきてないのもまた当然です
大切なのは同じ世界観を強制することやそれに向けて矯正することではなく、世界観を共有して知り合う事であると思います

無理解であることはもう仕方がないと思います
レイプ被害者のフラッシュバックを非レイプ被害者は実感体験できないわけだし
ただ知ってほしい
知らない故に浅はかな発言をする人が多いのでわたしはそう思うことが多い
ただ知ってほしい

それだけです

知った上で尚断じたい人や糾弾したい人は好きにしたらいい
それは個人の選択で自由なのだから

だがまずは、知ってくれ

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