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頭の要石

 雲1つない寒空に100が生み落とされる。僕は筆者たる戦闘機を目で追いながら、ジャケットのジッパーを引き上げる。大統領就任100周年のお祝いに日陰をこそこそと歩く。
 
 ジャケットの内側から手のひら大の石を取り出す。角が取れて丸みを帯びた石。熱田神宮のならず梅からいただいた石である。成分はわからない。おそらく河原の石と違いはない。しかし、この石は僕の脳を揺らす。石がもう石に見えない。ある浮世絵コレクターの顔が思い出される。彼女が内乱罪で拘束されたとニュースが語っている。
 
 熱田神宮の本殿前にも人の気配はない。学生にねだられて、みんなお祝いパレードを見に行ったのだろう。パレードは心を揺さぶるだろう。大統領万歳と。ただ、今の僕が心が揺さぶられる程度で高揚できるかは疑問が残る。
 
 熱田神宮の広場には憲兵が数人立っている。1人が鎮守の森の向こうに目を向ける。木々を通してパレードの色彩が呼びかける。何食わぬ顔を思い出しつつ、僕はならずの梅の下から歩み出る。鑑賞推奨指定樹木の看板の頭を手で打って弾みをつける。
 
 西門へと向かって、石の重さを腹の痛みに見せかけて歩く。僕ながら不審だとは思うが、異常と取られるよりはましである。バサバサと音を立てて野良の鶏が枝を飛び移り、頭上で一声叫ぶ。その鳴き声にパレードの見物人は見向きもしない。しかし境内の憲兵にちくるには十分な声量である。それなのに、僕は立ち止まる。鳴き声を解釈してしまう。脳が揺れる。
 
「どうかしたのか」
 
 憲兵が歩み寄って尋ねてくる。憲兵らしい口も眉も一直線に角ばった表情だが、見下ろす瞳には心配の色が見える。僕は奥歯を込み占める。裏切ろう。
 
「びっくりして漏らしそうだったもので」
 
 これ見よがしに腹を抑える。しかし、その腹は石の下にある。
 
「トイレなら向こうにある。行ってきなさい」
 
 憲兵がさしたのは茶屋である。新聞が語るには、そこのトイレは最新式で排泄音を隠すノイズキャンセリング装置がついているらしい。非市民的な音楽の代わりに。
 
「地下鉄のトイレがいいんです。こんなめでたい日に新しいトイレを汚すのは罰当たりじゃないですか」
 
 憲兵の目から輝きが消える。背筋に地獄の冷気が触れたような痛みを感じる。
 
「大統領閣下からの恩寵に泥を塗るのが恐ろしいのです」
 
 憲兵の表情は角ばったままだが、野原に咲く花みたいな微笑みが目元のゆるみように現れている。
 
「大統領万歳」
 
 パレードのバスが雄たけびを上げる。やかましい。
 
「勤勉こそが学生の理想である」
 
 学生服を身にまとった者たちの並びは、大統領のイラストが入った旗を先頭に進んでいく。僕の頭に浮かんだのは、ああなるのだ、だけではない。ただ言葉が見つからない。
 
「勤労こそが第一の義務である」
 
 スーツを身に着けた物とつなぎを身に着けたものが手をつなぎあって円を作りながら連なり歩く。硬く繋がれた手と手に、入りがたさを見つけてしまう。
 
「悪性作用廃品なき清き世界を目指そう」
 
 僕は石をぎゅっと握りしめる。地下鉄の入り口に駆け込み、そのままバリアフリートイレへ転がり込む。
 
 便座に腰かけ、ジャケットの内側から石を取り出す。まろやかな曲線と水星軌道を思わせる歪み、人工物そっくりの滑らかな肌。どれを取ってみても脳が揺れる。
 
 ポケットをまさぐって本を取り出す。国家推奨図書のマネジメントはすでに小口が黄色い。心を揺さぶるこの本は石の座布団にちょうどいい。しかし、手が止まる。確かにこの本は心を揺さぶってくれたのである。侮辱は憲兵に任せたい。
 
 地下鉄の混雑に入り込んで、立ったままじっと耐える。腹を下したように石を抱えたまま乗りこなす。1日が終わるほど待った、が駅の時計は20分ほどしか進んでいない。
 
 改札口の憲兵は神経質気味に視線で人の顔を舐めまわしている。石を抱える手を替えてパスカードを取り出す。
 
 ごとん
 
 石が抜け落ちる。憲兵が走り寄る。僕は石を取り上げて失踪した母の形見のように抱きしめるる。憲兵の目は恐ろしい。その目の細さは警察犬の鼻よりも深くを探り出すだろう。
 
「この石はなんだ」
 
 僕は答えられない。憲兵の目と市民の目が直線的に僕に突き刺さる。憲兵の手が石をつかみ取ると、僕の腕の中から引っこ抜く。
 
「同行願う」
 
 石があの憲兵の手に置かれている。僕には選択肢がない。石を失うわけにはいかない。
 
 僕が連れてこられたのは、街はずれにある施設である。施設を作る直線がいかにも国家機関らしい。中は麻酔性の冷たい匂いで満ちている。憲兵に導かれるまま、会社の応接室に似た部屋に通される。僕の目の前に白衣を着た老医師が裾を気にしながら座る。そして、机の上に石も座らされる。
 
「この石について聞かせてくれるかな」
 
 医師の声は優しい。しかし、目の奥に、ろうそくを付けて探るような、明かりを感じる。
 
「漬物石にしようと思って盗んだんです。熱田神宮の石だと後利益がありそうじゃないですか」
 
 医師が視線を切り、パソコンを繰り出す。
 
「漬物樽も持ってないのにですか」
 
 心が折れる音を聞く。記録に握りつぶされそうである。
 
「この石を見てください甘い曲線でしょう。ういろうなんて目じゃないほどに。その甘さがガツんと脳を揺さぶるんです。そう脳が揺れる」
 
 医師の顔の部位がくしゃりと中心へ寄る。パソコンになんらかを打ち込むと、眺めるように目をこちらに向けなおす。
 
「あなたには第4種精神錯乱の病識が見られます。街に出るのはとても危険な状態です。ひとまずは、この更生病院に入院していただき治療を進めましょう。心配はいりません。インフルエンザで入院するようなものです」
 
 返答すら許されず、憲兵に腕を掴まれて個室に押し込まれる。、ベッドと机、テレビが供えられた狭い部屋で、机の上の本立てには国家推奨図書が密に並べられている。
 
 しばらく、ベッドに腰かけてテレビを眺める。どの放送局も大統領就任100周年のパレードを讃えている。僕はテレビにリモコンを投げつける。白い三食団子みたいに同じである。
 
 憲兵が個室に入ってくると、あの石をごろんと床に転がす。石は不安定に回りながら机の足近くに身を収める。
 
「この石に触れぬように」
 
 それだけ言い残して憲兵は去っていく。その口元に嘲笑いを認めたが、それよりもと床に頬を付けて石をまじまじと眺めいる。
 
 僕は今日も床に頬を擦りつけている。石から離れたくない。しかし、憲兵が呼べば行かなくてはならない。連れていかれる診察室では、あの老医師に代わり、僕より年の若そうな医師が待っているだろう。
 
「あの道をごらんなさい。石畳が敷かれている。石なんて踏みつけられる程度の物です」
 
 若い石が指さす道は、直線に切られた石で敷き詰められている。僕の脳は踏みつけられた石の厳かなヒビに揺さぶられる。
 
「熱田神宮のならず梅ってご存じですか。あそこであの石を拾ったんです。神の石ですよ」
 
 医師は、そうですか、と微笑み、パソコンに打ち込む。
 
「ならず梅は伐採されましたよ」
 
 僕は恍惚感に笑む。この脳が見せたのである。ならず梅の実が落ちて幼子の脳を揺らす反抗を。

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