2021年03月20日 物事や人を理解するということの本質とは
何かを理解するということの本質とはこれはズバリ場面によって全く異なる。
目的があって初めて理解が確立される。
言い換えるとある共通の価値観で共有された閉じられた中でのことでなければ理解の本質が定まらない。
つまり目的によって理解するという本質が異なってくる。
例えば会社であればとてもシンプル。
利益を最大化することが目的なのだから、そのために必要な行動に関してかくかくしかじかと考えたり議論したりして、どうすべきかを理解する。
何か問題が起こったとしても、この共有された目的がしっかりと各自で認識されているのであれば全員で矛盾なく調整したり問題解決に協力できる(はず?)。
社員各自の能力とか経験などをみて適材適所に振り分けることで組織力を最大化する。
あるいは不足している能力、経験があるのならその力を向上させるための研修やら補佐的な位置にしばらくついて経験値をあげるとかをザラにやっている。
比較的短いスパン(数週間とか数年)でこの能力向上は求められる。
会社の社員や仕事に対する理解というのは、利益の最大化という目的があって会社の「理解」が成立する。
まあ足の引っ張り合いとか、派閥とかあるみたいだから実際はスムーズにいかないかもしれないけど、論理的に言えば絶対適材適所、みんな会社のために協力が利益最大化に最短直結するはず。
では家庭で言うとどうだろうか。
無限に例がありそうな気がする。
例えば子どもに対して理解をするということは、会社の中での理解とは異なる。
子育ての(目的)目標は、その子どもがいつかは家を出る時に、「人生を楽しむ能力と、最低限一人で生きていける能力が得られるようにすること」、とボクはしている。
各家庭によって違うと思うけど、これはそれぞれ皆さんに置き換えてみてくれ!!
だから学校に行かせたり、人に喜怒哀楽でもまれたり、習い事させたり、いろいろなところに行ったり、遊んだり、とまあいろんな経験をたくさん積ませる。
生まれてから自立するまでまあだいたい20数年くらいとすると、この時間の中で人間形成を考えればよいのだから、成長段階に応じて長期的な戦略を立てればいい。
ではこの子育てで子どもを理解するということは、子どもの本質を知るという事。
子どもの性格、行動、思考のパターンや偏り、長所短所、好きな事嫌いな事などなど、子ども自身の事を明らかにすることでどのようなアプローチが子どものこの2つの能力が最大化されるかが変わってくる。
感覚的な感受性が優れているのか。
論理的思考が優れているのか。
スポーツが得意なのか。
絵が得意なのか。
本が好きか。
コミュニケーションがうまいのか、下手なのか。
言語能力に長けているか否か。
視覚的思考が強いのか。
聴覚的思考が強いのか。
嗅覚、味覚、触覚、どれが強い感覚器か。
子どもを理解する、あるいは理解しようと努め続けることで何が適切か判断ができる。
完璧でなくとも。
子育てであれば別に紆余曲折を経ようが、時間がかかろうがまあどんな形であれ成長してくれればよい。
最終的に自立してくれればよい(とボクは思っているけど皆さんどうですか)
余談ですが、もっと言うと子どもは生きてさえいればいいよとボクは思っている。
まあそんなこと言うと身も蓋もないけど・・・。
で、会社に戻って、例えば中々理解ができない人がいるとするとどうだろう?
利益を最大化するという目的をしっかり意識できない、だから自分のやるべきことやその意味が理解もできないとしたらどうだろう。
実際にボクの会社にいる。
会社だと限られた時間の中で達成したい目標があるので当然理解する能力は求められる。
しかしながら、家庭の子どもに対してのようにのんびり長い時間戦略の中で理解・成長を許されることはまずありない。
うっかり仕事において「あ、忘れてた!!」とかいうことは誰しも経験があると思う。
コミュニケーションミスであったりということもあるかもしれないけど、そういった時は全力でカバーするのみ。
たいていは何とかそれで問題解決。
でも何度も何度も同じミスを繰り返し、アドバイスも受け入れず、客からのクレームは当たりまえ、会社への損失も多々あり、、、、という人へのアプローチってどんな方法があるのだろうか。
上司にも何度も怒られている。
もうやけっぱちなのだろうか?
怒られてもミスしても適当にやり過ごせば何とかやっていけるから耐えればいいだけと思っているのか?
正直言ってもう一緒に仕事したくない。
一緒にいると気になってしょうがない。
いつミスしてお客様に迷惑をかけるかわからなないから常に目をかけていないとダメだから。
俺はお前のお母さんじゃねえーっつうの!!
でもできないんだからしょうがない。
できない。
できない。
どうせなら辞めてもらって彼の仕事全部みんなで振り分けたほうが、クレームもないしミスもないし各自の売り上げも増えてハッピーなんじゃね?とも思う。
あーっ、なんて俺は意地悪なの!!!???
もっと積極的に助けてやりゃーいいじゃん!!
冷たいねー!!
って思う中途半端な自分もいる。
なんじゃこれ。
困った困った。
もし、会社の同僚として出会う人生ではなく、どこかの例えば中学校の友達として出会ったなら彼との関係はどうだったろうか?
口達者でお話が上手だからもしかしたら「面白いやつ」って認識したかもしれない。
いい友達になれたかもしれない。
中学校での通学目的って何だったろうか。
当時はそんなこともちろん考えたことない。
でも今何だったと聞かれたら即答
「友達と会うため、友達と楽しい話をするため、友達と楽しい時間を共有するため」
ということが第一の目的だった。
当然、義務教育だから学習が第一の目的だけど、一中学生としては当時は友達がいるから学校に通っていると無意識で思っていただろう。それしかない。
「面白い友達」
というラベリングをした友達は一生「面白い友達」なんだ。
別の目的をもった環境で出会わない限り永久に「面白い友達」のままだ。
でも別の顔、つまり会社員としての「面白い友達」は同一人物だけど別人になる。
もちろん好きになるかもしれないけど、嫌いになるかもしれない。
だって目的が違うから。
何だか切ない話になってきた。
では、お互いに各自の本質だけでのコミュニケーションってどんな関係なのだろうか?
成立するのかな?
っていうかありえない気もする。
どんな状況でも目的って付いてくる。
うわーすげーこと発見しちゃった。
その人本人の本質だけ見ようっていうのは不可能だな。
うわー 面白い。
良いんだか悪いんだかボクの2021年最大の発見だよ。
みんなどう思う?
馬が合うっていうのは目的を共有できる人同士の集まりだな。
趣味が同じっていうのかね。
バイク好き。
サッカー好き。
自転車好き。
将棋好き。
手芸が好き
とか。
悪くないよね。
いいじゃん自分一人ではないって感じられてさあ。
最後に、理解するっていうことは一方的な感受性なんだなと思う。
今回は悲観的とも楽観的ともいえる内容になったけど、目的を共有してようがなかろうが、お互いに理解するということは人間社会においてとっても大切。
人類のやってほしいこと基本中の基本だと確信するけど、きっと完全に人間を理解し切るということは絶対にありえないのだろう。
だからこそ「理解しよう」「理解し続けよう」ということが終わらない。
一生ずーっと続く。
それがいい。
バイなら。