埼玉県初の信号機はどこだ【与野市】
どもこんにちは! ゴケゴーちゃんでっす
早速ですが今回は、埼玉県における一番最初に出来た信号機はどこだったのか、そしてなぜその場所だったのかを深掘りしていきたいと思います。第二話のリメイクですね、それではいってみましょうっ
答えから言ってしまうと
与野です
与野の駅前通りと国道17号の交わる交差点、西友のある交差点の信号機が、埼玉県における信号機の初号機です
なぜ浦和大宮川越よりも先なんだ?
という疑問が湧くのは当然ですよね
これについては明確な理由がありそうなので、与野さんにお話ししていただきますね
まあ簡単に言ってしまうとだな、それはわが町与野が、自動車の街だからだ
自動車販売会社の始まりは昭和10年の関東モータースだ。国道17号が開通したばかりだった、主にシボレーの乗用車とトラックを扱っていたな
次に昭和12年の埼玉トヨダ、トヨタじゃねえぞ、ダだぞ
続いて昭和14年のダットサントラック、昭和18年埼玉日産自動車、21年埼玉トヨタ、23年埼玉日産モーター、埼玉三菱コルト、今の関東マツダ
埼玉スバルの前身となる埼玉ラビットというのもあったな、スクーター屋だ
もちろんこれは極々一部だ、自動車販売店が集まれば、板金屋、保険屋、看板屋、内燃機屋、部品商なども集まる
トラックの荷台の幌を作る、シート屋なんてのもあったな
トラックの幌というのは業種によって仕様が様々で、例えばココに穴を開けてくれとか、自動車販売店では対応出来ないことも多かったのだ
詳しいな…
これくらいは与野民として当然の嗜みだろう(うぜえよ)
自動車関連業者が集まれば、当然与野の自動車の保有台数は上がる。故に与野に埼玉県初の信号機が設置されたのも、何ら不思議なことではなかったということだな
はい
はい川越くんどうぞ
与野に車屋が集まった根本的な理由が分かりません
まあ需要があったということだろうな、与野には車を必要とする人がたくさんいたのだ
自動車は鉄道の通った町と通っていない町を繋ぐための手段として普及をしたよな? 川越などは県西の中心都市であるから、それは多くのトラック乗用車が出入りをしていた。しかし与野本町はともかく、与野は浦和大宮にしか繋がってななくねえか? 浦和大宮に行くなら汽車に乗ってりゃいいんだし、車なんて買ってどこにいくんだ
与野駅は中山道側に改札口を設けなかったしなwww
マジかよ、浦和大宮にするら行く気ゼロじゃんwww
だから東口は今も寂れた感じなんだろうなwww
うっそだろ100年たってんだぜwww
オレもさ、与野駅が出来たときに降りたことがあんだけどさ、西口も鬱蒼とした森があるだけで何もなかったぞ
ああそうだ、与野のあたりは昼間でも薄気味悪かったwww
うわあ君たち今与野をディスっているつもりなんだろうけど与野駅は浦和区上木崎だからwww
大丈夫、むしろ木崎って浦和だったんだって感じ
そういうとこだよ(どういうとこだよ)どうせ常盤岸町高砂仲町以外は浦和じゃないとか思ってんだろ
ギリ別所も浦和だな
そういうとこだよ
それはともかくだ、駅前に何もないわけありません、道がありました!
なかったよ、探したもの、これじゃどこにも行けないなってみんなで話したよ
ここからは私が説明させていただきますね。お手元の与野市史の571ページの二行目から、川越くん読んでもらっていいかしら?
あ、はい、その頃本町小学校のあるところは小高い畑地でその東側は崖であり、崖の下は水田であった。その中を走る幅二尺くらいの畦道があった。これが後に与野と本町を結ぶ新道と呼ぶ重要な道路となったのである
はいありがと
二尺って60センチだぞ? それに畦道ということは田んぼの道だよね、汽車に乗って田んぼに行く人はいないと思うけど?
川越くん、570ページの四行目から読んでちょうだい
えっと、大正年間以前は本町通り沿い以外は、人がほとんど住んでいなかったという
そっか、与野駅を利用するのは、与野本町に用のある人か
え、遠くね?
川越くん、もうちょっと読んで
二尺ほどの畦道は少し雨が降ってもすぐ道の上を水が越し、往来出来ない状態であった
分かった。与野と与野本町は距離がある、そして道も悪い、とてもじゃないが歩けない、与野にはどうしても乗合自動車などが必要だったんだ
浦和くんはさすが文教都市だわね
与野と与野本町の間には2本の大きな谷があります
それぞれ高低差が6メートルほどあり、例え雨が降らなくても通行には適さない場所であったと考えられます
しかし与野駅があの場所に造られたため、与野本町の人たちはここに道を作りました。それが今の駅前通りです
ただ道を作っただけでは高低差の関係があり車は通れませんよね。砂利をもって嵩上げをしたり台地を削ったりして現在のなだらかな坂の連続する形にしたようです
与野郷土資料館の脇に高い崖がありました。この高さが本来の台地の高さかも知れません
落合霊園です。墓地は土葬の時代があったので、簡単に移転や改修が出来ないそうです。霊園のこの高さは江戸時代から変わっていないような気もしますね
国道17号の造られた経緯にも触れておきますね
蕨宿から大宮方面を見ています。17号が左、中山道が右ですね
中山道は北町交番のところで国道17号を跨ぎます
そしてかつての繁栄を、あまり偲ばせないカーブを、いくつか巡り
再び六つ時の交差点で国道17号を跨ぎ、中山道は浦和駅方面へと向かいます
いちばん分かりやすいかなと思い蕨ー六辻間を紹介したのですが、つまり中山道というのは、けっこううねうねしてるんですね
このうねうねが昭和の初期、自動車、主に軍用車両の通行の妨げになるという理由で直線化が求められました
そしてもう一つ。国道17号の完成は映画「風立ちぬ」から引用すると、まさにこの年なのですが、少し戻ってこの場面
まただ、今度は亀八銀行ですよ
取り付け?
銀行が破綻するかもという不安から、預貯金を引き出そうと人々が銀行へ殺到。多くの銀行が休業に追い込まれ、連鎖的に商店や工場の休業廃業が相次ぎました
そりゃあ仕事を探しに出てくる連中だな
日本政府は溢れた失業者に現金収入を与えるための土木工事を企画します
匡救事業といいます
埼玉県内では見かけませんが千葉県を歩いていると、この道は匡救事業により作られました、という案内板に出会うことがありますね
埼玉県の場合はこれが、国道17号でした
というわけで、大正元年、与野駅が開業すると、与野の人たちは60センチの畦道を今の駅前通りに改修。軍靴の音の忍び寄る昭和8年、国の政策により国道17号が開通すると、与野から都心まで30分だったというので、みんな気持ちよく飛ばしてたんでしょう、事故も増え、この場所に信号機の設置が求められました。昭和27年です
昭和33年の写真を見つけました。ただ埼玉県初の信号機は点滅単色式、これは自動三色式なので、二台目、もしくは三台目なのかも知れません
それでは! 点滅単色式とは一体どんな姿なのか
与野郷土資料館で見ることが出来ます、ご興味がございましたらぜひ行ってみて下さいね