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まさかまさかの仙波説【川越市仙波】
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あんたがったどこさ、ひごさ、ひごどっこさ、くまもっとさ♬
でお馴染みのコチラの手まり唄
肥後さ熊本さ、というくらいなので、きっと多くの方が遠い九州地方の手まり唄だと思われていることでしょう
いや、曲名は「肥後手まり唄」ですので、熊本を題材にした唄であるというのは間違いありませんし、正解であると思います
それは置いといて
この唄には聞いてびっくりの異説があります
熊本どこさ仙波さ♫
そうなのです。あんたがたどこさの舞台は、まさかまさかの「川越市仙波」という説があるのです
解説します
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あんたがたどこから来た?
肥後からさ
肥後ってどこさ?
熊本さ
という会話からも分かるように舞台は熊本ではない
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歌詞全般が関東方言で作られている
熊本に仙波山は無い
戊辰戦争の折、彰義隊の残党を追討する新政府軍が喜多院脇の「仙波山」に駐屯したという史実がある
新政府軍と彰義隊が激突する上野戦争
その第2ラウンド的な戦いが、あまり知られていないのですが、実は飯能市で起きているんですね
川越藩は諸事情あり新政府側として飯能戦争に参加しましたので、その関係で肥後の兵たちが喜多院に駐屯していたのだと思います
唄はこう続きます
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仙波山にはタヌキがおってさ♬
幕末の川越にはタヌキがいたんすか、田舎っすねwww
違います!
タヌキとは恐らく仙波東照宮に祀られている徳川家康公の事です
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家康公のお墓といえば日光ですが、ご遺体は日光に運ばれる途中4日間喜多院に滞在し、天海の手により盛大な法要が執り行われました。その会場となった場所が今の仙波東照宮。仙波の東照宮は、日光、久能山とともに日本三大東照宮の一つに数えられる、それは由緒正しい東照宮なのです。それを!
猟師がテッポウで撃ってさ、煮てさ、焼いてさ、喰ってさ♫
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あんたがたどこさの舞台は川越市仙波
それはひとつの説です。本当のところは分かりません
けれどもし、150年前の川越で起きた出来事を「暗」に残すために作られた唄だとしたら
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150年前の川越に居た誰かが「後世に伝えねば」という想いで残したメッセージだとしたら
幕末の川越はものすごく大変な思いをしています
開国を迫るペリーの矢面に立たされた藩のひとつが川越でした。ペリー艦隊の江戸湾入港を阻止すべく築かれたお台場も一番台場は川越が担当しています
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新政府に帰順することをいち早く決断、命懸けで守ったものもきっと多かったに違いありません
この時の川越がどのような様子だったのか
新政府軍に従軍した川越藩士、下山忠行くん(16歳)が詳しく書き残してくれましたので、一部を紹介させていただきます。ちなみに彼は太鼓係りです
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一緒にいた官軍は九州の柳川藩で、筒袖にダン袋はオレたちと同じだが、ミニエー銃を担いで縄の鉢巻をしている
勇壮と言おうか、野蛮と言おうか、もの凄い姿だ
その上この一隊が川越に乗り込むと、すぐに罪人を引っ張り出して北町の広済寺の門前で斬り捨てたので川越中の人がみな震え上がった
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誰が、何を捨て、何を守ったのか。具体的なことは何も分からないのですが、手まり唄の歌詞と下山くんの手記を合わせて見ることで浮かび上がる景色というのもありますよね。考えてみれば徳川憎しの薩長が川越で何もしないはずはないですからね
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次、喜多院に訪問する機会がありましたら、仙波東照宮だけではなく、喜多院山門正面の「仙波山」にも目を向けてみて下さい。あそこは新政府軍と川越市民が接触し、何かしらのドラマが生まれた場所だと思いますし、ただの丘に見えますが、ああみえて実は古墳だったりしますので
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それをこの葉でちょいと隠す♬
新政府の目があるため記録として書き残すことが出来ない。手まり唄という形にして歌い継ぐので、次の時代の若人たちよ、解読よろしく頼む
最後の一文をそう受け取ったのですが、それはちょっと深読みしすぎというものですかね
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