浦和県と大宮県【県庁所在地争奪戦①】
どもこんにちは! ゴケゴーちゃんですっ
早速ですが今回は、埼玉県民の共通認識でありながら、いまいちその理由が分からない
浦和と大宮はなぜ仲が悪いのか
大きなテーマです、数回に分け掘り下げていく、その第一回目とさせていただきます!
県庁所在地を取り合ったんだろ?
はい。浦和と大宮の因縁は県庁所在地を奪い合った、その経緯に端を発しています。ただ歴史は勝った側が作ると言いますが、この戦いに勝利した浦和に
多くを語りたがらない
雰囲気があり、実際どのような出来事があったのかきちんと歴史として残されていないような気がするんですね
なのでデリケートなテーマではあるのですが、資料に忠実に、妄想は抑えめに、一年を費やす覚悟で精進をさせていただきます
浦和大宮、浦和を前に表記した理由はあいうえお順です、気ぃ使っていきましょう私w
明治政府、第二のクーデターと言われる廃藩置県は明治四年ですが
浦和と大宮の戦いは、それより少し前の明治2年に始ります
気持ち丁寧にお話しますね
慶応3年(明治の前の元号ですね)の大政奉還、徳川将軍家が政権を朝廷に返す、及び辞官納地、将軍徳川慶喜が征夷大将軍のポジションと徳川家の所領を朝廷に返す、により先ず旗本領を含む幕府の直轄地が明治政府の管理下に置かれることになりました
明治政府は全国を「府・藩・県」の三つに分けることを決め、明治2年に今度は岩槻藩や川越藩、藩の土地とそこに住む人を朝廷に帰す版籍奉還を断行します
藩を潰すのは大変なことなので今すぐはやらないけれど、これでもう藩は国の一地方行政区。幕府の直轄地はひと足先に府と県にしちゃうぞ、ということですね、府藩県三治制と言います
神社やお寺も、徳川家康から朱印状を賜ったなどと言いますが、将軍家より領有を許されたものが多くありましたのでやはりこちらも寺社の運営に最低限必要な土地だけを残し段階的に没収されました。住職さんや神主さんが昔はもっともっと広かったとぼやくのはコレですね
この府藩県三治制に幕府の直轄地であった浦和と大宮のある足立郡が引っ掛かり、まず武蔵県という概念のようなものが成立(明治政府も模索の中にあったということですね)そしてその時の県知事より
大宮は支配地内でもっとも便利で郷宿にも差し支えない土地柄であるので(身分の高い方の宿泊にも耐えられる場所)ここに庁舎を建設し大宮県としたい
というリクエストが提出され、これが許可され、明治2年1月28日
大宮県が成立します
ところが同年9月、大宮県は名称を
浦和県に変更します
この史実をほぼすべての資料は
大宮県を浦和県と改めた
大宮県はまもなく浦和県に改称した
もし私が、無人島に一冊持っていくならと問われたならば迷わず選ぶであろう全幅の信頼を寄せている埼玉県行政史ですら(全四巻なので四冊になっちゃいますが)明治二年九月二十九日、大宮県は浦和県と改称された
わずか数文字のみ、丁寧なものでも
浦和の方が東京に近いため利便性が高かった
程度の文章で処理してしまうのですが、県庁所在地、県名の変更という大きな出来事の割には扱いが淡白すぎますよね?
大宮市史にありました
ゲンコツと同じですね
殴った方は忘れてしまうけど、殴られた方はずっと覚えている
浦和の企てにより(大宮の言い分です)県庁舎を奪われた大宮だけが、この時のことを記録に残してくれました
あ、浦和の方、ムムッて感じですか?
でもね、私もね、浦和にはムムッなんですよ、この出来事を記した両市の市史です
先ずは大宮市史
大宮宿に県庁舎を取り立てることを願い出て一旦許可されたが三月十八日には当分見合わせようとの指令をうけた
次、浦和市史
大宮宿に県庁を建設することを願い出たが当分見合わせるよう指示され
一旦許可された、の七文字が見当たらないどころか、ちょっと文章がガチャガチャしている、抜き取られた形跡すらありますよね
これをどう捉えるかはもちろん皆さんそれぞれなのですが、私はシンプルに県庁舎の建設が大宮の地に一旦許可されたという史実を浦和は世間様に知られたくないんだなと受け取りました
浦和は物語の主人公であり戦いの勝者です。なのに後ろめたいことでもあるのかなぜかところどころで「ダンマリ」を決め込んでいる、気配がある。その結果、現代の浦和大宮民も、うちには新幹線が止まる! 県庁! うなぎ! チープなあるあるでしか盛り上がれなくなってしまった。私も資料を集めるのにとてもとても苦労しました、でもまあ良いです
(じゃん)さいたま市史通史編原始古代
勝者浦和と敗者大宮の歴史が今まさに一つになろうとしています
近現代編の刊行はまだまだ先になると思いますが、さいたま市はこの七文字をどのように扱うのでしょうか、今からワクワクが止まりませんw
それでは大宮市史に沿って県庁が浦和に奪われるまでの経緯を見ていきますね
大宮県は成立しましたが、この時の県知事は大宮には着任せず、東京の馬喰町で全ての執務を取っていました。しかしそれでは、まだ高崎線も電話もありませんので何かと不便が生じますよね
大宮県は大宮に県庁舎を建設することを願い出て、政府より正式にその許可を受けました
が、明治二年三月十八日
県庁舎を大宮に建設する件だが、当分見合わせるよう通達する
な、なにゆえ、先日許可するとおっしゃったばかりではないですか
七文字の件ですね。県庁舎の建設は当分という文言を使ってはおりますが事実上凍結されてしまいました
大宮県は高島屋のある場所にあった紀州藩が鷹狩りの際に使っていた陣屋(北沢さんのお宅です、漫画会館の北沢楽天さんの北沢さんです、北沢さんも天正十八年組、元々は北条サイドの武将の家柄です、高島屋の屋上にある北沢稲荷神社が大宮県唯一の痕跡だと思いますね)この位置に仮庁舎を設置し役人を配置。一部の事務仕事のみを大宮で行うことにしました
そしてタイミングは分からないのですが、明治政府は巡察使を派遣し各地の実情を探索させています。大宮県の様子を記した報告書が残っているので見ておきますね
大宮県の仮庁舎は当初、大宮宿名主宅に建設した。その後、正式な庁舎建設の場所を探している。浦和宿かあるいは与野町。または別所村、沼影村のうちに決めかねている。また、県庁誘致のため各地で競争が起きているらしい。早く至当な場所を決めることが民心統一のため望ましい
大宮県は政務に厳格なのはいいが治安維持に費用がかさみ苦情が出ている。鷲宮神社領に新県政が浸透していない。銭相場に違反があり近県から苦情が出ている。担当者の仕事に不公平があること、また経費の無駄使いがある。東京在住の知事に注意させた方がいい
後半はほぼ悪口だったような気もしますけど、どう思います?
与野が県庁所在地になる?
そうですねwww 与野に県庁があればいろいろ丸く収まっていたかもしれませんねwww
与野に触れておきます。与野は浦和と大宮に挟まれた小さな町、と捉えている方が多いと思うのですが、与野の本体は与野本町、実は挟まれてもいなければ浦和大宮とは縦に並んでもいないんですね
浦和大宮は中山道沿いに発展した隣り合わせの宿場町でしたので江戸時代より意識し合う関係だったはずですが、与野は甲州街道と日光街道を繋ぐバイパス沿いに発展した町、浦和大宮とは言うなれば所属するリーグが違いました。与野が甲州街道日光街道リーグに属していた痕跡があるので見ておきますね
新大宮バイパス、上峰のガスト正面にあるお地蔵様群です。その中のひとつに、かうしうみち、甲州道ですね。この道は現在の国道20号、東京の日野に繋がっていました
しかも与野本町は大商業都市川越とも連結していたので、この辺りではとても存在感のある町でした(町並みに面影が若干残ってますよね)浦和と大宮の戦いももしかしたら
醜い争いをしておるのお
高みの見物をしていたかもしれません、この時点ではまだい
え、この後なんかあんの? 与野に
教えない
それはともかく、浦和宿、別所村、浦和の影がこの報告書でくっきりと明確になりました
そして
六月の中頃だったようです、ついに浦和が県庁誘致運動を表面化
浦和の鬨の声を聞いた大宮は大宮氷川神社に
県庁引留めの祈祷を七日間行うことを依頼
(猶又当宿江御戻リニ)なんとか大宮にお戻りいただけるよう
哀願とも取れる文書を作成し提出しました
が、八月、今の埼玉県庁のある浦和の鹿島台に(江戸時代までこちらの小さな神社、鹿島神社の領地であったので鹿島台と言います)浦和県県庁舎の建設が起工。翌九月に大宮県は名称を浦和県に改めました
記録が乏し過ぎるため想像するしかないのですが、三月の当分見合わせるよう通達するから、大宮は県庁所在地に相応しくないと言わんばかりの報告書、六月、浦和の県庁誘致運動の表面化活発化、八月、浦和県県庁舎起工(これも都内の数軒のお屋敷を移築するだの、予算が足りないだの、領民に負担を強いるだの、農民一揆を懸念してこの時の県知事が反対を表明するだのすったもんだがありました)で、九月の浦和県成立、このスピード感
3月の時点ですでに浦和にやられていた
実際抜き打ち的だったという説もあるのですが、私もその線しかないのかなと思うんですね
浦和と大宮が県庁所在地を奪い合ったのは事実です
しかし明治二年の第一ラウンドは
出来レースだった
浦和の企てを大宮が知った時にはもう何もかもが決まっていて、大宮はただ
浦和に変更するから
通告を受けただけだった
浦和の県庁誘致運動も単なるポーズだった
以上の出来事について埼玉県の正式な歴史書、新編埼玉県史通史編5は気持ちがいいくらい
まったく触れておりません
浦和の資料も同様です。それどころか浦和の資料は
大宮に適当な庁舎が得られなかった
仕方なくとも取れるような一文までもを残しています
Wikipediaに至っては
当時浦和宿が県域内で最も人口が多く賑わいを見せていたのが移転の理由となった
幕末、天保十四年に成立したある資料(宿村大概帳)の数字を抜き出しますね
人口、大宮1508人、浦和1225人、蕨2223人
賑わいと言っているので中山道沿いの宿場町の旅籠の数も見ておきましょう
鴻巣58、桶川36、上尾41、大宮25、浦和15、蕨23
浦和が最も賑わっていたなんてことはたぶん無いです。けれど明治初期ってこんな感じなのかもしれません。誰もが模索の中にいました。口を閉ざしたい、目をつむりたい、脚色しなければ辻褄が合わない、無かったことにしたい出来事もきっとたくさんあったはずです。だからこそ面白い県庁所在地争奪戦! (みんな少なからずしくじり先生ですw)全十話を予定しています、どうぞよろしくお願いします
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