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埼玉県に黒船来航 後編【川越市/行田市】

幕府の基本方針は、城ケ島ー洲崎の乗り止め線で停止を求め、聞き入れられない場合は観音崎ー富津岬の打ち沈め線にて迷いなく砲撃

海の藻屑にしてくれる!

という無二念打払いでした

ただ、先ず城ケ島ー州崎の乗り止め線ですが、現代人の私たち達から見てもちょっと距離がありますよね?

実際1818年には、イギリスのブラザーズ号を見落すという事件が起きています

その日はとても濃い霧が出てたんですよね

見えるか!

この失態をネチネチ言われたのでしょう、白河藩は、自らを桑名へ、桑名を忍へ、忍を白河へ移動させる三方領地替えを画策。見事成功し、まんまと負担の大きい湾岸警備の任から逃れ、桑名に転封していきました

行田市は平成10年、桑名市、そして白河市と友好都市を締結していますが、それは200年前のこの三方領知替えに縁があるからですね

次に観音崎ー富津岬ですが、神奈川県側と千葉県側の距離は7キロ弱、異国船を打ち払うにはこれ以上無い最適の地形を有しています

この最重要地に配置されたのが、千葉県側は会津藩と忍藩、神奈川県側は川越藩でした

が、後に川越藩は幕府にこのような意見書を提出しています

この幅を2キロにまで埋め立てていただければ見事異国船を打ち払ってみせましょう

一休さんの虎退治みたいですねwww 観音崎ー富津間を埋め立てるなんて出来るはずがないですよねwww

要は無理!!ということです

アヘン戦争の結果にビビった幕府は、薪と水、希望があれば食料なども差し上げる代わりに穏便にお引き取りいただく薪水給与令に方針を変換していました

しかし何としても祖法である鎖国を死守したい阿部正弘を始め、何を聞いても、外人は一匹残らずぶっ殺せ、しか言わない徳川斉昭、たとえ負けても日本が一つになって戦う、皆がバラバラではダメなのだ by 佐久間象山など、打ち払い令復活を目指す幕閣や儒学者も大きな勢力として存在していました

この打ち払い令復活派に対し、実際の現場を任される川越藩からの訴えが

何度も言うけどホントに無理だから

ええ、川越はもうキレ気味ですねwww

ちなみに、なぜ川越がこんななのかというと、川越は1840年、三方領知替えを画策、内示をもらい祝勝パーティまで開催したのですが、庄内藩の特に領民の強い抵抗があり、万歳なしよ、になってしまいました。湾岸警備はとにかく費用がかかります。実高の多い庄内藩への転封を狙っているところからも、財政的に、もう耐えざるところまで来ていたのかもしれません

もう一つ。地形を見ていて感じたことがありました。川越藩が担当した神奈川県側、観音崎は崖です。けれど会津藩忍藩の守った千葉県側、富津岬はまっ平(海ー!!)つまりこの辺りの海底、ざっくりですけどこうなってますよね?

よって黒船はより水深があり安全な神奈川県側を通らざるを得ない。その黒船を富津岬から砲撃しても

届かぬものは届かぬものです

ありがとうございます。神奈川県側の川越藩と浦賀奉行に負担が偏った、ということなのかもしれませんね

また観音崎ー富津ラインは打ち払うには最適な場所でしたが、まあムリなんですけど、同時に突破されたら後が無い最終防衛ラインでもありました

地図を見れば分かりますが、打ち沈め線を突破され江戸湾に入ってこられた場合、日本にはもはや何の軍事的手段も残されてないんですね。陸から大砲を撃っても届きませんし、他にあるものといえば小舟と槍ぐらいのものですからね

そこで計画されたものが、川越城本丸御殿に展示されているこちらでした

おっさんたちが目を落としている紙、五角形の絵が描いてありますね、なんでしょう

セリフ付けますね

費用がいかほどかかるのか、想像も出来ん

臨時の税、御用金の拠出、今回は際限なきものとなる。領民も黙ってはいないであろうな

やだなあ一揆とか

え、ヒント?

えー、ヒントは、品川区立台場小学校の校庭というか敷地が、まったく同じ五角形をしています

そうですね、お台場ですね

御は幕府の、台場は砲台を置く場所という意味ですね。台場小学校はまんま台場の跡地にあります

川越藩は沿岸警備のリーダー的な立場にありましたので、このお台場の一番を、忍藩は現存している三番台場を任されることになりました

お台場の建設はペリー一回目の来航の後なので、今回は詳しくは触れませんが、江戸時代に海の中に巨大な人工島を作る。それも隅田川の河口からの水流の強い場所に、それも幾つも

労力も費用も費用も費用も、もう意味が分からないですよね

さて、いよいよペリーが来日する訳ですが、少し前置きが必要なのかなと思いますのでポイントのみおさらいしておきますね

ペリーはなぜ強硬な姿勢で開国を迫ってきたのか

この時代、商売は香港が熱いことになっていました。その香港にヨーロッパの列強はこのように向かうのですが、アメリカはノーフォークを出航、で、こうなんですね。このルートだとヨーロッパ勢よりも日数がかかってしまう。しかし日本が開港すれば太平洋横断ルートが実現し、日本の開港で地理的距離の劣勢が埋まります

そしてペリーはビッドルの報告書を読んでいました

日本人は甘い顔を見せるとつけあがる。徹頭徹尾、ハードなフォーメーションで挑むべきであろう

あなたがビッドル殴るから

オレじゃねえよ

ペリー2度目の来日時になりますが、なぜ上陸の地はヨコハマになったのか

ペリーは江戸への上陸を強く要求しました。が、幕府は江戸のちょっとでも遠くと、これを拒否しました。この交渉をまとめた男が、元浦賀奉行与力

香山栄左衛門でした

元というのは、2度目のペリー来日のとき、彼は浦賀奉行に在籍していなかったんですね。しかしペリーを始め香山の人柄をよく知っているダグラス参謀長などが

カヤマサンハドコダ、カヤマサンニアイタイ

うるさく言うので、彼を臨時で復職させ交渉に当たらせました

また、立ちはだかるお台場も半年前は存在しないものでした。川越、会津、忍の守る台場から発せられる殺気もペリー艦隊を横浜に追いやる要因の一つとして大きく貢献していたと思います

それでは! ペリーのやってきた嘉永6年6月3日、時間は夕方の5時頃でした。日本人が初めて目にする蒸気で動く黒い船に、川越藩及び浦賀奉行他がどのように向き合ったのか、ドキュメント風にして見ていきます

長くなりましたが埼玉県に黒船来航、最後までお付き合いいただきありがとうございました

6月3日、午後5時

マシュー・カルブレイス・ペリー(60歳)4隻の艦隊を率い浦賀沖に現る。漁民、伊豆大島が動いたと錯覚する

浦賀奉行与力中島三郎助、下っ端とは話をしないと言われたため副奉行(ナンバー2)であると偽り乗船。早速、艦を取り囲む船を即刻退去させろ、しないならば武力をもって蹴散らす、伝えられる

我々は国書を受け取ることに関して決断する立場にない、上の者と相談して明日返事をする、約束をし船を降りる

夜9時、4隻が一斉に時報の大砲を撃つ。ドーーーーンという大砲の音が浦賀湾に重く響き渡る

6月4日

浦賀奉行戸田、香山を呼び、長崎へ行け、それ以外の回答はない、そう伝てこい指示を出す

香山も中島同様ただの与力だったが奉行であるとウソをこいて乗船。 指示通り伝える

が、我々は長崎へは行かない。どうしてもというなら大砲の威力を持って江戸へ行く、強く出られる

江戸に使者を出すので4日待ってくれ

3日だ

な、なんだそれは

サンドイッチだ、食うか?

香山、早船で江戸の井戸邸へ向かう

そこで、ペリーが来ることは知っていた、告白される

なぜ現場に教えてくれなかったのか涙を落とす

浦賀沖では、アメリカのボート4隻が測量をしていた。日本側が取り囲むと、アメリカ兵は銃剣を抜き戦闘モード。川越藩兵より浦賀奉行に

こいつら切り沈めてよろしいか?

問い合わせが入る。浦賀奉行、頼む耐えてくれ、指示を出す

ペリー来航の報が江戸に届く。幕府、川越・会津・忍・彦根の4藩に厳重警戒態勢を敷くよう通達を出す。同時に、佐倉藩・館山藩・勝山藩にも出兵要請を出すが、どこも武器防具を満足に用意できない。ハードオフ的なお店が大盛況となる

6月5日

薩摩・熊本・長州などの大藩にも出兵要請を出す。阿部正弘、将軍徳川家慶にペリー来日を報告。家慶、ショックで発熱、寝込んでしまう(このまま22日に亡くなっちゃうんですよね)午後3時、香山の元に浦賀奉行井戸が戻り、会議では何も決まらなかったことを告げる。香山、失望のまま陸路で浦賀へ帰る

浦賀は朝から静かだった。やっこさんめ意外と物分かりがいいな、もしかしたらこのままくれるかもな、 安堵の空気が広がったが、後で分かった

この日は日曜日だった

6月6日

未明、香山が浦賀に戻る。浦賀奉行戸田に報告をし、自宅へ戻って休もうとしたところミシシッピー号が打ち沈め線を突破! 呼び出されて、押し戻してこい、命令される

幕府、日光に使いを出し、家康様の御威光に守ってもらおうとする。斉昭、神風でも起こそうというのか! そんな金があるなら鉄砲玉でも買いやがれ、珍しくごもっともなことを言う

6月7日

回答日、香山は朝から生きた心地がしなかった

そんな午後4時、幕府からの回答書が届く。内容は、国書は9日、久里浜で受け取る、会話は一切無し、などだった。香山、サスケハナ号を訪れ、9日の打ち合わせに入る

それはなんだ

ハムだ、スキだろ?

大宮氷川神社、黒船退散の祈祷を行う。次に奴らが来たときは軍勢に加えてもらえるよう神官以下社内のものが寺社奉行に出願する

6月8日

香山指揮のもと、川越藩兵、忍藩兵他、会場の設営に取り掛かる、この日は徹夜になる

ゴケゴーちゃん

国書の受け渡しは六月九日とする

日本側の記録は和暦

OK、七月十三日だな

ペリー側の記録は太陽暦

だんだん分からなくなる

6月9日

国書の受領日。出迎えはもちろん香山だった。式典中、会話はほぼ無かった。川越藩兵他が熱射病でばったばったと倒れた。式典が終わるとアメリカの楽器隊がヤンキードゥドゥルを演奏し始めた。アルプス一万尺ですね

ペリーが引き上げると日本側もアメリカ側もリラックスした様子で刀を見せ合ったり、日本男性の典型的な質問をしたりした。会津藩だけは羽目を外さなかったそうです

6月10日~6月11日

香山、金沢区沖を測量するペリーに抗議に赴く。浦賀は超えるなと言ったはずだ、浦賀は波が荒い安全ではない、国書を受け渡したら速やかに退去すると言っていた、海岸を離れるという意味だ

金沢区民が興奮している、トラブルになりかねんぞ、安心しろ、日本側が先に手を出さない限り我々は何も干渉しない

ビスケットだ、これをウイスキーで流し込むと美味い。試してみるか?

致し方あるまい

待て、汚い手だ、洗ってこい

日本という国が、ここ浦賀で大幅アップデートしたということ、良く分かりますよね。日曜日も石鹸も、あってホントによかったですね

そのまま宴会になる

香山、国書は好意的に受け取られるだろうご機嫌で言う。さらに、みんなが帰るときオレたぶん泣いちゃうな、とぶっこいちゃう。奥様にどうぞと化粧品やお菓子をもらう

6月12日

香山、もらったシャンパンをラッパ飲みしながら

アメリカの友人の健康を祈って乾杯!

またしてもぶっこき、浦賀奉行井戸弘道に怒られる

ペリー

来年また来る、次は全艦隊を率いて

言い残し、去る

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