もうひとつの日光街道【国道407号線】
唐突ですが問題です!:次の空欄を埋めなさい
日光街道とは現在の国道( )号線である
これは簡単ですね。日光街道とは草加市や越谷市を通る今の国道4号線のことですね
と、言いたいところなのですが
日光街道? 407だんべ
主に、日高市、鶴ヶ島市、坂戸市の皆さんです。日光街道と聞けば迷うことなく国道407号を思い浮かべる方たちが埼玉県内には存在するんですね
そして407も正真正銘の日光街道です
という訳で今回は、もう一つの日光街道、国道407号線について見ていきますっ
407はなぜ日光街道と呼ばれているのか。そしてこの道にはどんなドラマが隠されているのか。地味なテーマかと思いきや、みんな大好き土方歳三なども登場しますので、どうぞ最後までお付き合い下さいませっ
慶応3年10月。大政奉還をきっかけに始まった、王政復古の大号令、薩摩藩邸の焼き討ち、そして明けて正月3日からの鳥羽伏見の戦い。時代は国内を二分する戊辰戦争に向かい動き出そうとしていました
最後の将軍となった徳川慶喜は、薩長の突きつける辞官納地(じかんのうち)将軍の地位と、徳川家の所領を朝廷に返還するということですね、これを受け入れ謹慎を決意。静かに歴史の表舞台より降りていきます
しかし幕府の中には、一戦あるのみ!!
主戦論を唱える強硬派もまだまだ多く残されていました
また新選組に代表される血気盛んな連中も、江戸には大勢ありました
幕府はこれら強硬派を様々な手段で江戸の外へと追い出すと
4月11日、無血開城
この結末に納得の出来ない大鳥・土方は、伝習隊、そして新選組等を率いて江戸を脱出、宇都宮へ達すると、すでに宇都宮に入っていた新政府軍と交戦、4月19日に攻め落とすも24日に押し戻され、日光への退却を余儀なく、というよりも、東照神君
徳川家康の加護を強く求め、日光に入りました
ちなみに東照宮の東照とは、関東を照らすという意味ですね
旧幕府軍の立てこもる日光に迫ったのは
土佐藩 板垣退助
大鳥は、日光での戦いは出来れば避けたいと考えていました。そしてそれは板垣も同じでした
後に板垣は日光を守った偉い人ということで日光に銅像まで建てられますが、これはやや一方的な気もしますので、板垣が日光攻めに躊躇した理由について触れておきますね
山に囲まれた日光の地形が攻めるには厳しいこと
旧幕府軍に心を寄せる日光の猟師はみな銃が上手なこと
徳川の恩に感激する農民が、炊き出しをしたり、西軍の動静をいちいち旧幕府軍に通報すること
土佐藩は徳川家に関ケ原以来の恩があること
土佐藩てちょっと複雑なんですよね。なので板垣にも忍び難い気持ちはそれなりにあったのかなとは思うのですが、賊徒が立てこもっている以上許すことはできない、という言葉も残しているので、まあ最悪燃えちゃっても、という気持ちもムンムンにあったような気がしないでもありません
4月28日、板垣は小山市にある(鹿沼市という資料もあります)日光山の末寺より僧を呼び出し
東照宮に火をかけるのは我々にとっても、もちろん賊どもにとっても忍びのないことではないか、そう伝えてくるよう使いを走らせます
が、谷千城の私記を見る限り、どうもこれは失敗に終わったようです。成功したという見方もあります
4月29日、土佐藩の先陣が瀬川村の旧幕府軍(草風隊)と衝突、新政府軍は今市に陣を布き、戦闘モードに入りました
旧幕府軍も退却が困難となり、いよいよ応戦の覚悟を決めました
この戦いの結末がどうなるのか
それは日光を参拝したことのある皆さんが一番良くご存知ですよね
日光は戦火を免れました
東照宮を含む二社七寺の運命が、新政府軍・旧幕府軍の微妙な動きの中で揺れた4月29日。多くの人が戦いを阻止すべく命がけで奔走していたことが記録からも分かっています
彼もその中の一人でした
話は少し戻りますが、土方歳三が逃げる味方の兵を斬り捨てるという、有名な、ちょっと酷い場面がありますよね。これは24日までの宇都宮城の戦いの中で起きた一幕でした
ただ、行為については激しく後悔したらしく、土方は日光にいた幼馴染みの土方勇太朗を呼び、斬った兵の墓を建て手厚く供養をするよう依頼をしています
このエピソードを濃く妄想していくと、やはり土方は「味方に撃たれて死んだ」とも思えるのですが、それはともかく、なぜ土方歳三の呼び出した土方勇太朗が
あ、勇太郎は歳三と同じ土方姓なのですが、歳三とは親戚でも何でもないらしいですね。歳三・勇太郎の故郷である日野は、土方姓の多いところなのだそうです
で、その土方勇太郎がなぜ旧幕府軍よりも先に日光にいたのかというと、それは勇太朗が
八王子千人同心(せんにんどうしん)の一員だからでした
八王子千人同心とは、徳川家康が江戸に入府した際に組織した、旧武田家家臣団をルーツに持つ半分農民、半分武士の農兵隊です。八王子千人同心という組織名なので本拠地はもちろん八王子中心、と思いきや、幕末の資料を見ると、所沢と入間の方も9名ほどいらっしゃいますね
ところで、この後、二度目の4月がやってきます
江戸時代最後の年、慶応四年は4月が2回ありました。ややこしいです
今日のところは、慶応四年は4月が2回あったということだけ覚えておいて下さい
千人同心の、慶安5年(1652)以降の主な役割は
日光勤番
八王子千人同心は江戸幕府の祖である家康、および家光を祀る日光の防備、具体的に言うと「消防署」の役割を幕府より仰せつかっていたんですね
なので、旧幕府軍よりも先に、というか常駐なんでしょうね、先に日光にいたという訳です
この時のトップが先ほどの石坂弥次右衛門でした
彼がどのタイミングで、どのように大鳥を、または板垣を説得したのか、その記録は残っていないと思います。私は見つけることが出来ませんでした
日光市史も確認しましたが、閏4月1日、2回目の4月が始まりましたね、新政府軍を出迎えた人たちの中に石坂の名前をポツンと一ヶ所確認出来ただけでした
けれど八王子市千人町にある弥次右衛門のお墓に日光市から贈られた香台を見ることが出来ました
香台がものを語ることはありませんが、彼がいなかったら私たち埼玉県民の修学旅行はまるで違う景色になっていた、小さな香台から想像出来ることも少なからずありますよね
慶応4年閏4月10日、石坂弥次右衛門はたぶんですけど407号を通り八王子に帰着しました
しかし弥次右衛門を待っていたものは
なぜ戦わずに帰ってきた
大政奉還をきっかけに転がり始めた小さな石は、誰にも止めるこの出来ない業火を放つ巨大な火の玉となり、ついに最終局面に達しようとしていました
まして千人同心にとって日光とは、自己と江戸幕府を結ぶ精神的な支柱です。その地を戦うことなく新政府軍に明け渡すなどということは、江戸幕府最後の年となる慶応4年という「時」がもう許してはくれなかったのかもしれません
翌11日の明け方でした、弥次右衛門は、自ら命を絶ちました
介錯は弥次右衛門の実の父、79歳だったそうです、が務めたと伝わっています
自分の判断が正しかったのか間違っていたのか、それは歴史が決めるだろう
この出来事を伝える碑に、そのようなはっきりとした力強い文字を見ることが出来ました
国道407号線は八王子千人同心が八王子と日光を往復するために、日光を守るために整備した街道です。正真正銘の日光街道です。国道4号線と区別をするために日光脇往還、または八王子千人同心街道と呼ぶこともあります
日高市、鶴ヶ島市、坂戸市の方はフツーに日光街道と呼びますが、入間市の方はあまり気にしていないかもしれません