令和の日本型学校教育②

令和の日本型学校教育の全体像を俯瞰してみたい。

【概要はこちら↓】
https://www.mext.go.jp/content/20210126-mxt_syoto02-000012321_1-4.pdf

とりあえず背景は「Society 5.0」と「VUCA(予測不能)」らしい。
そしてその後に児童生徒の育むべき資質・能力が以下のように定義
されている。

一人一人の児童生徒が,自分のよさや可能性を認識すると ともに,
あらゆる他者を価値のある存在として尊重し,多様な 人々と協働
しながら様々な社会的変化を乗り越え,豊かな 人生を切り拓き,
持続可能な社会の創り手となることができる ようにすることが必要

「令和の日本型学校教育」の構築を目指して
~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申)【概要】

ここに書かれていることを真っ向から否定する人はいないだろう。
(「実際はどうなんだ」という深読みをしなければ・・・。)

しかし、こうした教育改革の文言を見るたびに思う。
「これまでの学校教育はそれができていなかったの?!」

もちろん足りない点はあると思う。多々あると思う。
ただ、その不足分、欠点を補うために、ここまで大上段に構えた
文言が必要なのだろうか(政策だから必要???)。

学習指導要領の改訂が行われる際も同じ現象が起きる。
「新しい観点になりますよ!」「これまでにない考え方です!」
「新しい時代の授業の在り方です!」

え?!これまでのはダメなんですか?!

たぶん、これまでのもそんなに悪くなかったと思う。問題は、それを
実践する我々教員側にあり、もっというとすべての人の学校教育に
対するかかわり方だったんだと思う。

でも、そこを飛び越えて、「社会の変化」や「キラキラした新しい言葉」で
まるで学校教育が変わらなければいけないように思わせてしまうのはなんだか違和感がある。

中村高康は『暴走する能力主義』には以下のような文言がある。

いま人々が渇望しているのは、「新しい能力を求めなければならない」という議論それ自体である。

中村高康(2018)『暴走する能力主義』ちくま新書, p.24

この「議論それ自体」を我々は現場から問い直していかなければならない。

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