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ありがとう、書店員さん

作家、森見登美彦氏の新作『シャーロックホームズの凱旋』を某書店で手にいれた。森見登美彦氏はかれこれ4年ほど新作を出しておらず、わたし猫目はそれを機に書店に足を運ぶことをやめた。と、いうのは嘘である。

前の作品『四畳半タイムマシンブルース』が2020年の夏にKADOKAWAから発刊されてから3年あまり、しっかり書店に足を踏みいれていた。要するに猫目が書店に通わなくなったのは、単純に近所の蔦屋書店がつぶれた ためである。

書店がつぶれてからというもの、当然のようにその隣のコンビニにも顔を覗かせなくなった。まったく残念なことである。どおりでAmazonの明細書に820円だの1800円だのといった細々した数字(小説)が増えたわけだ。

とはいえ、森見登美彦氏の新刊を、まだか、まだかと心待ちにしていたことは事実である。氏のブログ「この門をくぐる者は一切の高望みを捨てよ」を覗いては、期待とじれったさの板挟みにあっていたことは言うまでもない。

そして、2024年1月22日。ついに氏の新刊『シャーロックホームズの凱旋』が中央公論新社より発売された。それより少し前からAmazonでは予約が開始されていた。が、猫目は今度ばかりはAmazonの力を借りず、自分の足で書店へ向かおうと決意した。

しかし、そこからが問題であった。

やはり、天下のAmazonは偉大であった。その事実は認めざるを得ない。

どういうわけか。先に伺った書店にお目当てのホームズは居なかったのである。

・・・しかたない。

ならば、コナン・ドイルのホームズ(本家)を買おうか、などと悠長に笑っていられたのはその日限り。翌日、訪れたべつの書店でも戦いに勝って戻ってきたという森見登美彦氏のホームズは不在であった。

ここまできたら、もはやAmazonに低頭し、力をお貸しいただくほか選択肢はないのではないか。そんな弱気な考えが一瞬だが、頭をよぎった。

しかし。

ここで諦めるわけにはいかない。見給え。こうして、いつかの餞別でいただいた紅茶を、わざわざ湯を沸かし、秒刻みでカップに淹れているのは紛れもない、すべてはシャーロックホームズに洗脳されているからにほかならないではないか。

どれだけ猫目が、森見登美彦氏の新作を心待ちにしていたころか。2メートル以上も首を伸ばして待っていたのだ。つまり、キリンの首よりはるかに首を伸ばして待っていたのである。

そう簡単にAmazonに頭をさげるわけにはいかない。

と。

ここで、ある書店が思い浮かんだ。

そこは自宅から車で20分ほどの場所にあり、スーパーやドラックストアが隣接しているお世辞にも大型とは呼べない非常に愛着の湧く書店である。猫目はその日、仕事が終わると共に書店を目指した。

会社を出るときに社長がおっしゃったひと言、「よい週末を」ということばを胸に、猫目は軽自動車の運転席に飛びこんだ。

頼む。

今日こそは居てくれ、シャーロック・ホームズ。いや、ちがう。事件という事件を片っ端から解決に導き、その明晰なる頭脳をもってして推理活動に励んでいるほうのホームズではない。

わたしが今、探し求めているのは、京都の街で泥沼のスランプに陥っているほうのシャーロックだ!

頼む!

居てくれ、スランプシャーロック!

閉店1時間前の書店はなかなか忙しそうで、書店員は半透明の箱からひっきりなしに書籍を手に取ってはそれらを棚に並べていた。

猫目は迷うことなく新刊コーナーへ向かった。上着を車に忘れてきた上、セーターの袖をまくりながら颯爽と通路を抜けていく猫目はいささか不審人物であったろうか。まるでこれからだれかに喧嘩をふっかけにいくような鬼の形相をしていたにちがいない。

釣り雑誌をながめていた男性の顔がハッとこちらへ向けられた。むろん、猫目は愛想よく微笑むことを忘れない。「すみません」と謝罪の気持ちを素直に声にして男性のうしろを通過していく。

・・・。

・・・・・。

・・・・・・。

おーと。
まじですか。

シャーロックさん?

どちらにお出でです?

あまりの緊張に、てのひらの汗がひどい。そんな汗でぐっしょりの手で真新しい書籍たちに触れるなんて、そんな非常識なことはできない。猫目は視覚のみを頼りに書棚をにらみつけた。付言するとその日の気温はすでに零度を観測していた。

・・・。

・・・・・。

・・・・・・。

あ、そうそう、これ。『あなたが誰かを殺した』(東野圭吾 著)気になってたんだよね。Amazonの買い物かごに入れてあるんだっけ。

あ、これは『ともぐい』(河﨑秋子 著)じゃないですか。直木賞候補なんだよね。読んでみようかな。今度の芥川賞は『東京都同情塔』(九段理江 著)かあ。へえ。

帯に綴られた「Q あなたは、犯罪者に同情できますか?」の文が興味を駆り立てるなあ。うん、とてもおもしろそうだ。

うっわー。『人間標本』(湊かなえ 著)目を惹くステキな表紙だなあ。青い蝶かあ。うん、とてもきれいだ。


・・・・・・で!


肝心のシャーロックはどこにいる!

出てこい、シャーロック。隠れても無駄だ。こちとら毎晩Amazonでその横顔を見ているのだ。観念し給え。

・・・・・・・

結果、その棚にシャーロックらしき人物(書物)はいなかった。猫目は落胆した。落胆しすぎてどこをどのように通路を進んでいったのか、あまり覚えていない。

気がつけば、たくさんのカレンダーにかこまれていた。そこで見つけた『2024年カレンダー かわいいゴールデンハムスター』のあまりに可憐なゴルハムに猫目の意識は一気に現実へと引き戻される。

そうだ。店員さん。書店員さんにきいてみよう。すでに期待は捨てた。ダメもとである。

「すみません、小説で、シャーロックホームズってありますか」
「少々お待ちください」
「推理じゃないほうの」
「(タイピング音)」
「コナンじゃないほうの」
「(タイピング音)」
「名探偵コナンとかじゃなくて」

もはや、なにが言いたいのか趣旨が破滅の一途をたどっている。このあと、結局 猫目はAmazonで検索したシャーロックの画像を書店員にお見せした。

彼女が店の奥へ消えていく。

ひどく戻りが早かったので、やはりシャーロックは不在だったのだと諦め、猫目は先に笑みをつくろい礼を申した。


と、彼女が一冊の本を差しだしてくれる。

2秒後。
猫目の口をついて出てきた台詞がこれである。

「これ、どうしたんですか?」

間抜けにもほどがある。どうしたもこうしたもない。ここは書店で、彼女は優秀なる書店員なのだ。そして受け取った『シャーロックホームズの凱旋』はれっきとした単行本である。

「え、(新刊のところに)ありました?」
「一冊だけ。すみません、これしか残っていないのですが大丈夫ですか」

大丈夫すぎて無言をつらぬいてしまったのは失礼だったかもしれないが、それくらい感動していたのだ。どうか許してくれ。すべてはあなたのおかげです、とじっさい口にしたら確実に引かれるであろう感情を押え、猫目はその場で頭をさげた。

「ありがとうございます、よい週末を」

未だかつて473頁がこれほど重たく感じたことはない。156頁でまだ読み途中だが、すでに猫目は「ヴィクトリア朝京都」に生きるシャーロックに親しみを覚えている。


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