見出し画像

延命

今更ながらips細胞関連の文献を読み、かの人工多能性幹細胞に朝から晩まで魅了されている猫目です。みなさま。こんばんは。

仕事はきちんとやっていますよ。

ただ、ふと気を緩めた瞬間にips細胞からなる妄想が押しよせてきて困っております。

いや、ほんと、なんてすばらしいのでしょう。induced pluripotent stem cell!興奮のあまりといいますか、感極まってといいますか、途中涙ぐんでしまってティッシュをかたわらに読み進めなくてはいけないほどでした。涙もろいのかな。

こちらは文献ではないですが、さすがは京都大学。わかりやすく説明してくれています。過去、現状、未来をこう理路整然と記してくれると把握しやすいですし、奥行きが生まれますよね。

あらゆる文明の発展および、技術の発展はたしかに画期的で、わたしたちにいろいろな期待と便利を提供してくれます。

その反面、ある種の技術の発展は必ずしも明るい未来だけを提供してくれるわけではない。不便な状況でこそ生まれるコミュニケーションはその代表ですね。

便利になればなるほど、心は窮屈になっていく。こういうケースも現にあるわけです。

しかし

こと医療(とくに再生医療)に関しては期待しかありません。

ひさしぶりに前置きが長くなってしまいました。ので、そろそろ本題に移らせていただきます。本日のテーマは”延命”について。ちょっぴり真剣になってお話しさせていただこうと思います。お付き合いいただけたらうれしいです。


延命とは

寿命を延ばすことをいいます。では、寿命とはなんでしょう?

辞典ではこう記載されています。

《寿命》
生命の存続する期間。特に、あらかじめ決められたものとして考えられる命の長さ。

goo辞書より引用

さて、あらかじめ決められたものとしての命……ってなんでしょう?

たしかに心臓が脈打つ回数で、ある程度の命の長さは決まっています。ヒトだったら約20~23億回程度とされていて(60~100回/分の心拍数)、マウスなど小型哺乳類では種によってバラつきがありますが、だいたい700回/分ほど。寿命は約2年です。

このことからも、心拍数が速ければ速いほど、寿命が短いことがわかります。

なるほど。

そういわれてみれば、寿命はあらかじめ決められているのかもしれません。

ちなみに動物園で大人気のキリンもヒトと同じく程度の心拍数です。が、おもしろいことにキリンの平均寿命は約25歳とされています。

ヒトの平均寿命は、男性81.05歳、女性が87.09歳(厚生労働省より)で、平均すると平均84.07歳。

キリンに比べて59年も寿命を上回っていることになります。

ん?

ちょっとおかしいですよね?

どうしてヒトだけが60~100回/分の心拍数で、80年も生きていられるのでしょう? なにかとくべつな遺伝子でも持ってるのでしょうか? 

そんな疑問を抱き、多角方面から調べてみたところ、やはり予防医療や治療の発展が深く関与しているようです。

要するに

心拍数から単純計算をした場合、ヒトの寿命は50年前後です。にもかかわらず、わたしたちはそこからプラスで30年も寿命を延ばしていることになります。

これが”延命”の部分なのでしょうか。

延命治療の進歩と発展によって、自分の意思でからだを動かすことができなくても、近くに介護者がいてくれて食事、排泄介助、体位交換など、いろいろなケアをしてくれます。

筋力が衰え(一部のケース)口から食事がとれないので、胃ろう(簡単にいうと胃に穴をあけてそこから栄養を摂るしくみ)をつくってそこから定期的に栄養を摂取します。

のどにカテーテルを挿入し、あるいは気管挿管し、それで声も出せないのにベットわきのモニターの波形はゆっくり確実に波を打つ。

心拍数安定。なにかあれば、すぐさまアラーム音が鳴りひびき、即座に処置。またもとの波形を描きはじめます。

良い悪いではなく、これを、純粋に生きているといえるのか。

18歳のころ、病院の慢性期病棟で看護のお手伝いをさせていただいていたとき、ある患者さんに言われたんです。これが生きてるって言えるのか、って。いまでもずっと耳に残っていて、たまに蘇ってきます。

これが生きているって言えるのか。

わかりません。

たしかに当時、わたしはそう思いました。しかし、思っただけで口に出すことはできませんでした。もし今、また同じことを訊かれたら、当時と同じことを心の中で復唱すると思います。

わかりません。わからないんです、そんなことは。

きっと

古代ギリシャ哲学や倫理学の方面ではいくつか答えが出ていることでしょう。もっとも、わたしはまだそれらに目を通していません。なので、ざっと読んだ文献の中で得たある程度の知識と憶測をもとに思考するほか術がないのですが、それでもやっぱり、わからない。

人間が人間たるカタチすら、あいまいで、ぼんやりしていて「これだ!」という答えも見いだせずにここまできました。

自分で食べものが食べられたら、生きているといえますか?

自分の意思で歩き、自分の行きたいところに行って、それでだれかとお話をすることができたら”人間らしく生きている”そういえるのでしょうか?

やはりそこにも差が生じます。なぜなら、人間は高度な思考のほかに、それをも上回るほどの感情を持ちあわせているからです。

冷静な思考が、いまを貪る感情に呑まれてしまうことはよくあることです。それこそが人間たらしめる性質といってもいいかもしれません。

延命だけがすべてじゃない

一昨日、ちいさな命がひとつ、消えてしまいました。

なんだ、たかがハムスターか。

と思われた方、どうぞこのまま留まって最後まで目と心をお貸しください。たしかにハムスターはちいさいですし、短命です。その上、同じペットの中でもイヌやネコのように触れあう機会は少ないです。

ただ、猫目にとって月実はとくべつな存在でした。

とくべつな存在とはつまり、その者のことを1日の中で多く考え、想った時間に比例します。なのでこれは決してハムスターという種だけにいえることではないのです。

彼女は体重わずか30グラム程度のちいさな生きものですが、猫目に与えた影響は30グラムをゆうに超えていました。

毎日毎時間、一生懸命に生きている彼女の姿そのものが、猫目に勇気と生かされている重要さを教えてくれたんです。

いつ折れてしまうか知れない細くなった手足に、皮膚を破らんばかりのあばら、少し動いただけでくっついてしまいそうな肩甲骨、光の欠けた瞳、潤いを失くしたパサパサの毛。

脳疾患、眼疾患、皮膚疾患と何度、病院へ走ったか知れません。正直いってハムスターでこれほど病院のお世話になるとは思っていませんでした。

ただ、道中は一緒にお出かけしている気分で、これもまた大切な思い出のひとつです。

脳疾患、眼疾患、皮膚疾患と次から次へとなにかしらの病気を発症する彼女はしかし、びっくりするくらい元気でした。

元気……に映っていました。

すごいですよね。なにがすごいってかれら動物は、いつでも生きたいと思っているんです。願っているかは別として。かれらにとって生きることは当然のことなんです。

つぎに呼吸をすることが、
あした自分の足で地面を踏みしめることが、当たり前なんです。

「こんなにカラダが重たいんだったら」「思い通りに動かないのなら」「食べたいものも食べられないのだったら」「苦しいから……」……死のうかな。なんて考えない。

彼女はさいごは、やせ細って老衰で亡くなりました(もちろんそこに病的要素が絡んでいないと断言はできません)。

呼吸が苦しそうでした。
もういいよって思いましたし、たぶん、口にしたと思います。

この段階において私にできることは物理的になにもなく、救えるのはいつだって”死”だけです。肉体から精神を離してくれることだけが本当の意味で彼女を苦痛から救ってくれます。

と、ここで少し疑問に思ったことがあります。

もしかして、延命に手を貸さなければ本来、そういった長期間における肉体的苦痛は発生しないのでは?

今でもずっと愛しているポメラニアンが死んでしまうときも同じでした。やせ細った手を離すものかと躍起になって握りしめ、苦しそうにからだを揺らして息をするポメラニアンの、その曇ってしまった瞳を覗いて思いました。

かれを助けられるのは”死”しかいないんだ、と。
だから、私は手を引きました。

病院に預けて長期入院したあげく、家族と会うことなく、そのまま院内で亡くなられたちいさな家族たちをたくさん知っています。

「延命することが正しいですか?」

この話題について、ある動物看護師さんと熱心に語りあった記憶があります。彼女は本当に動物思いの(つねに動物視点の)すてきな看護師さんでした。

結局、答えはでませんでした。

近所のかかりつけのベテラン獣医師さんに「なんとかして長く生きてほしいんです」とわたしがお願いしたとき、獣医師さんはきっぱり言いました。

”それを望むのはいつだって飼い主側だ”

そうかもしれません。

今回の月実の場合も、ペースト食、乳酸菌、ビタミン各種、病院で処方してもらった漢方薬とさまざまな面で彼女のカラダを延命させてしまったのではないか。そんな思いが拭えません。

もしかしたら、彼女はとっくに寿命を迎えていて、それをこちら側の勝手な判断で延ばしてしまっていたのではないか。

無理に寿命を越えさせてしまったのではないか。そもそもハムスターがあんなふうに衰弱しきった姿を私はこれまで見たことがありません。

そして、この問題はかれらが言葉を話せないだけに解決とは程遠くあるように感じます。

去年の夏。病院で脳疾患と診断され、神経に異常がある可能性があると指摘され、どうしようかなと心配していた私に彼女はおどろくほどの回復をみせてくれました。

秋。片目が赤くなり、眼内出血が疑われましたが、これも数週間後には完治。彼女はあいかわらず無我夢中に滑車をまわして走っていました。

冬。恐ろしいほどに毛が抜け、免疫の低下から感染したとおもわれる皮膚糸状菌と診断。一時期はカラダが冷たくなって「今度こそもうダメかもしれない」と弱気な私に、彼女は一昨日までたくましく生きてくれました。

毎日、彼女の動きまわっている姿を目にしては、生きていてくれてありがとうと思わせてくれました。生きるってすばらしいな、とも。

滑車から落下することをものともせず、何度だってよじのぼってチャレンジする彼女の生命力には驚かされてばかりでした。

ほんとうに、強い子です。

何度も、何度も、何度も
何度も、何度も、何度も

私をびっくりさせてくれました。

生きる強さって、これだ。
こういうことをいうんだ。

そうして、今。この地上のどこにもいない、決して触れられない存在となった彼女に感謝を贈りたい。そう思って文字をつづっています。

これまでほんとうにありがとう。
あなたのことを誇らしく思っています。

めずらしい体勢で寝る子でした

重たいお話だったにもかかわらず、さいごまで目を通してくださった方、ありがとうございます。延命治療について考える機会をつくってくれたちいさな命たちに、猫目はこれからも向きあっていきたいと思います。






いいなと思ったら応援しよう!