バカでもわかる文章は、バカにしか書けない
万人にとって理解してもらえる文章を書くのは、バカの方が向いているかもしれない。そう思った根拠を今回はまとめようと思います。
僕は、文章読解力が低い
残念ながら僕は、文章読解において、バカです。
まず、長い物語を読むことができません。20ページくらいが限界。集中力が続かないため、星新一より長い話を読むことができないのです。
また、長い文章も理解できません。Twitterの投稿より長いセンテンスは無理。140文字を超えると、頭の処理が追いつきません。
僕は官公庁系の仕事をしていますが、お役所の作るドキュメントは、要点をまとめるでもなくダラダラ書かれてるものが結構あり、これがもう、苦痛でしかありません。
わかりやすいと褒めてもらえることが増えた。
今僕は、諸事情あり、大学の研究機関でバリバリをやってきたメンバと仕事をしています。名前で検索すると、意味わかんない論文がヒットしまくるような人達。ザ・頭のいい人達です。
でも最近、彼らのアウトプットより、僕のアウトプットのほうが分かりやすいと言われることがちょいちょい増えてきました。
なぜでしょうか?
去年くらいから、それなりにドキュメンテーションの方法論を勉強してはいます。また、noteを書くことで鍛えられているというのもあるでしょう。
ただ、それ以上に
自分がバカであることが効いているのだと、最近思っています。
頭がいい人は、気を抜くとすぐアカデミックな文章を書いてしまう。
研究機関からやって来た彼らは、気を抜くとすぐ、論文見たいな文章を書いてしまいます。
おそらく、頭がいい人にとっては、バカが理解できていないという事を認識する事ができないのです。
バカが自分が納得できる文章を書くと、バカでもわかる文章になる
比べて読解力がない僕は、自分で理解できるレベルの言葉・ロジックでないと、そもそも文章にできません。書くことすらできないのです。
そのため、僕自身が文章として書けている時点で、万人が読めるものになっているのです。
バカにも、意外といいことがある。
本noteを始めた頃は、文章に対するコンプレックスが強くありました。
(詳しくは以下の初投稿を参照)
ただ最近は、Twitterより難しい文章が読めない僕の頭脳にもメリットがあると思って来てます。
「バカも使いよう」ならぬ「バカな頭も使いよう」だな。と。
少しだけ、バカな自分のことが好きになれた気がします。