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「サイセイ」を文化にするために

再生建築研究所が挑戦している「サイセイ」とは、再生建築の手法を軸に、時には新築やリノベーションを掛け合わせながら、建物とともにそこに根付く記憶や文化を引き継ぐこと。そしてさらに、そこから新しいつながりやムーブメントを育んでいくことを示します。ではなぜ「サイセイ」を志すことになったのか、どんな未来を作っていきたいのか、代表の神本豊秋がこれまでの歩みを振り返りながら、これからの展望について語りました。

過去と未来が地続きになった場づくりを。

改めて再生建築とは、既存の建物に対して、違法な部分を適法にするために手を加えたり、耐震補強をしたりしながら、その価値を新築以上に高めていく建築手法のことです。一般的な建築プロジェクトは、どんな建物を作るかというゴールに向かって、与件と照らし合わせながらアプローチを考えていくもの。しかし私たちのプロジェクトの多くは、既存の土地と建物を前にして、何ができるか、どう活用すべきか、未来へ継いでいくための仕組みをオーナーと一緒に考えるところから始まります。簡易的な修繕や内装のアップデートなど、表層的な処置にとどまるリノベーションとは異なり、再生建築では建物の寿命を延ばすための処置を行うため、長期的に価値を高めていくことができる。また、新築やリノベーションとも組み合わせながら、建物一棟のみならず、エリアを巻き込んだ“面”として展開できる手法でもあるんです。

私たちにとってターニングポイントになったのは、2018年の表参道ミナガワビレッジのプロジェクトでした。もともとこの敷地に建っていたのは、築60年の4棟の、検査済証未取得の違法建築群。当初はまっさらにしてマンションを建てるという話が持ち上がっていたそうなんですが、叔父さんからこの土地を受け継いだオーナーさんの「記憶を残したい」という強い思い、そして表参道のど真ん中にありながら閑静な趣を持つ魅力的な場所であることを鑑み、いかにして過去の空気感を引き継ぎながら場を更新していくかがミッションでした。

完成した現在のミナガワビレッジの中心にあるのは、かつてのオーナーが自ら手がけた築山を残した、60年前の趣を引き継ぐ中庭。そしてそれを囲むようにして立つ4棟のうち、2棟が60年前の建築の躯体を生かした再生建築に、2棟を再生建築と風合いを合わせた新築です。つまり、一つの敷地内に年代の異なる建物が混在しているということ。ノスタルジックさだけを感じる場所でなければ、真新しさを全面に出した場所でもない、普遍的な居心地の良さを感じられる場所に仕上がったのではないかと感じています。実際に、私たちの手を離れてからも、自ずと面白いテナントや人々が集まってきて、2021年のグッドデザイン・ベスト100にも選出されました。これは、大きな手応えになりましたね。

このプロジェクトを通じて感じたのは、再生建築とは、機能やデザインなどの建築設計の面で最適な提案ができることにとどまらず、もとある記憶や文化を引き継ぎつつ、人と人、人とことの新たなつながりを生み出し、そこから育まれるムーブメントやビジネスまでをデザインしていく可能性を秘めているものだということ。ならば、建築のカテゴリーに閉じることなく、過去と未来を分断せずに場をアップデートし、空気感やそこで育まれる活動をデザインする。そして場が永続していくための仕組みづくりにまで積極的に取り組んでいきたいなと感じました。建築面で培ってきた技術やノウハウを生かしながら、広い視野で場づくりに携わることを、抽象性の高い広義の「サイセイ」と名づけて、いずれは一つの“文化”として根付かせたい。このプロジェクトを機に、そう考えるようになりました。

奇跡的な偶然が、ここまでの歩みを支えてくれた。

話を遡ると、私が再生建築と出会ったのは、幸運な偶然の積み重ねでした。そもそも建築は、アカデミックやアートに接続しているので、そうした分野へのリテラシーが高い家庭環境が影響して建築家を志す人も多いと思いますが、私が生まれ育ったのは、大分の片田舎の決して裕福とは言えない家庭。両親は朝から晩まで必死に働いていて、週末になると私は祖父母の家に預けられ、そこで工務店と農家を兼業する祖父母によく遊んでもらっていました。当時は、自然に親しんだ暮らしで、山や川でも随分遊びましたね。そんな中で小学5年生の頃、隣に住んでいた叔父が、祖父母の古い家を建て直すことになったと言って、平面図や立面図を見せてくれたんです。「この仕事ってなに?」と問うと、「建築家だ」と。今思えば建築家ではないんですが(笑)、古びた家が新しく生まれ変わると聞いてワクワクしたし、直感的に面白そうな仕事だなと思った。真面目な両親とは対照的に、週末に友達を招いてBBQをするなど、とにかく自由で楽しそうに働く叔父への漠然とした憧れもあったのかもしれませんね。その時点で人生の目標がセットされた感覚で、小学校の卒業文集では、将来の目標に「日本一の建築家になりたい」と書いたことを覚えています。

ただ、建築家になりたいとは思ったものの、ものを知らなかった私は、中学校の担任の先生の「建築なら工業高校だ」との言葉を鵜呑みにして工業高校へ。大学で専門教育を受けないとなれないと気づいて慌てて進学しましたが、“建築家”として名を立てられるのは優秀な大学を卒業した一握りだけ。建築家への道は一向に近付かないままでした。それでも諦めなかったのは、あまりにゴールが遠すぎたから(笑)。自分がバッターボックスにすら立てていないことに、良くも悪くも気づいていなかったんですよね。

幸運だったのは、ある時大学に、後に師事することになるリファイニング建築・再生建築を提唱する青木茂さんが講演にこられたこと。同じ大分県出身で小学校も高校も、そして所属する大学の研究室も一緒だという青木さんの存在に、ご縁と希望を感じるとともに、リファイニング建築という手法にも興味を持ちました。ゆえに、インターンにいかせて下さい、と直談判。しょうがないやつだということで了承をもらえて、大学3年生の時に青木茂建築設計事務所に出入りし始めました。全然役には立たなかったけれど、とにかく必死で動き回って先輩たちにはガッツを買ってもらうことができて、卒業後はそのまま就職することができました。

誤解を恐れずに言えば、もともと再生建築は、自分にとって建築家になるためのステップの一つでしかありませんでした。でも青木さんの事務所で働く中で、建築デザインのみならず、金融や不動産の仕組みにまで関わることができる稀有な分野だと気づいたんです。建築家になれるし、事業家にもなれる幅の広さにも惹かれ、次第に自分が突き詰めてやっていきたい分野に変わっていきました。僕が青木茂建築設計事務所に所属したのは8年間。青木さんの学位論文のテーマでもあった「集合住宅の”住みながら再生”」のプロジェクトに始まり、最後は青木さんの自邸を担当し、独立。2012年に、現在の前身にあたる神本豊秋建築設計事務所を開くに至ります。地縁もない東京で独立し、ゼロどころかマイナスとも言えるような状態から建築家になりたいという思いだけでここまで来れたのは、自分のポジティブさと行動力、状況に合わせて変態していく力、そしてそれらによってもたらされる“偶然”に起因しているのだと思います。

そして、私の偶然を引き寄せる力は、2015年に再生建築研究所を設立してからも健在。前述のミナガワビレッジの他に、もう一つ重要なのが、2020年に手がけた神南一丁目ビルのプロジェクトです。外壁の経年変化した石貼りの表情を生かしたまま、窓のない古いビルの外壁に開口部を設けたり、耐震補強を施したりすることで再生させ、地下に有する渋谷の音楽カルチャーを担ってきた老舗ライブハウス〈Shibuya eggman〉を残す一翼を担うことができました。また、コーポレートアイデンティティとして再生建築の手法に共感してくれたAmazon Musicが新たに入居してくれるに至ったのも特筆すべきこと。自ら意図して仕組んだことではなく偶然だけれども、再生建築を通じて新たな文化やつながりを育む「サイセイ」を実現できた事例にもなりました。こんなふうに、個人としても会社としても、私のこれまでは偶然に助けられてきた歩みでしたが、それは言い換えれば、「偶発的な必然性」だったとも考えられます。今後は、こうした偶然を、「必然的」に生み出していく土壌を作る組織に変化していきたい、そして、「サイセイ」を都市スケールで実現していきたいなと思っています。

ありがたいことに、現在はそれに相応しいスタッフも増えています。従来の建築業界は、建築家のデザインや作り方を学びたいという思いで弟子入り的に建築事務所に入社する人が多かった。ですが、再生建築研究所では、再生建築というコンテンツを使って新しいことを生み出したいという野心を持つ自立型のスタッフが増えてきているのがここ数年顕著です。また、2020年には東急電鉄と2021年には東急不動産と、それぞれ包括協定を結びましたが、金融の仕組みや法律そのものの改定にもインパクトを与えられるような大規模な事例も続々と準備が進んでいます。

現在のまちづくりの選択肢では、事業者側の選択肢は新築一択。ですが、現在の建築の平均寿命が30年と言われる中で、「サイセイ」によってもたらされる100年、150年と地続きで永続していく街はきっと豊かなはずです。まずは、再生建築、ひいては「サイセイ」によってどんな街が生まれるのかをぜひ体感していただきたいなと思っています。ポストコロナは、壊す更新の文化から、残す再生の文化へ。「サイセイ」時代を作るために、私たちの歩みはまだ始まったばかりです。

text / Emi Fukushima