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25.2月チェロレッスン①:先のことを考えて気持ちが塞ぐ。
「遅れてすみません!」
そう言いながら、玄関ドアをくぐった。
約束していたレッスン時間から45分過ぎていた。
職場を出ようとしたら急患が入ったのだ。
いつものことである。
「無事着いてよかったよ。レッスン室入ってて。」
リビングから先生の声がした。
朝から降っていた雪で、路面が凍っていたのだった。
慌てることもない。いつも急な仕事で遅刻することを見越して、先生宅レッスンにしてもらったのだから。
レッスン室に入って、準備を始めた。
間も無く先生がやってきた。
黙々と準備をしていた私に先生が言う。
「なんだか元気ないね。何かあった?」
さすが長い付き合い。察しがいい。
そう。先生が言うとおり、気持ちが落ちている。元気だけが取り柄だと言うのに。
「今日、上司との面談があったんですよ。」
働き方改革の一環で、年2回の上司との面談が義務付けられた。今日がその日だった。
「それで?」
「はい…昇格するよう言われました。」
「前にも言われて、断ったんじゃなかったっけ?」
「よく覚えてますね。そうです。これで3度目です。」
★
私は今以上の昇格を望んでいない。
昇格後の仕事の内容と給料が割に合わないと思うからだ。
昇格すれば現場の仕事が減り、研究に専念する時間が長くなる。役職責任が重くなり、プライベート時間が大幅に減る。
私は研究に専念するよりも現場の方が自分に向いていると思うのだ。
「専門性も技術も意欲も高いあなたが、なぜ昇格を望まないんです?教授からの推薦も多数あるというのに。」
私が首を横に振ると、ちょっとイラつきながら上司がそう言った。
私は皆と同じように仕事をしているだけである。
皆より優れているなんて思えない。
「今まで通りでいたいだなんて。夜先生はもっと貪欲に地位を求めるべきですよ。」
…正直、現代に合わない考え方だと思う。
私は自身のQOLを考えて言っているのに。
上司がそうやって猛烈アタックしてくるには訳がある。昇格に値する先生がどんどん減っているのだ。
★
「若い人は、研修を終えると、実入りが良くて楽な職場へ行ってしまいます。」
「実入りが良くて楽なって、そんなところあるのか?」
「ありますよ。」
どことは書けないけれど。
「抜本的な改革を推進しないと、ウチはどんどん衰退するでしょうね。」
そうして困ってしまうのは、患者さんなのだ。
「NOとは言いましたけれど、今度こそ私の希望通りにはしてもらえないかもしれません。
昇格が先か、研究会会長にされるのが先か、という状態です。」
昇格すると、その先最終的に院長まで目指さなくてはならなくなる。
給料は上がるが、私はそれほどたくさんのお金を必要としていない。
一方、会長は通常業務に加え、対外的な仕事がプラスされる。北は北海道、南は九州まで、出張が多くなる。
どちらも私にとっては酷だ。
「こうやって大好きなチェロを弾いて好きなことをして遊べるのも、今年いっぱいで終わりかもしれません。」
そう考えると、気持ちが塞いだ。
先生は私がどうしたいのか普段からよくわかってくれているので、二人で一緒にため息をついた。
★
そうして1時間も話し込んでからのレッスン。
フォーレの“エレジー”が前回から始まっている。
前回のレッスンで教わったところまでをおさらいする。
「12小節2、3拍目の“シ♭ラ♭ソファ”の場所と左指の幅を考えなさい。
14小節のBと15小節のFを正確に取るには、14小節のG、15小節のDの場所がどこなのかわかっていないといけない。さて、何ポジションでしょう?」
先生、クイズ形式に聞いてくる。
「3ポジです。」
「正解。3ポジがどこなのかわかっていないといけない。夜は今まで何となくの感覚で弾いていただろう。」
ですね。
「それはダメ。常に何ポジで弾いているのか考えなさい。それにはポジションの位置と指の幅、1ポジと4ポジではだいぶ違うだろう、それを意識すること。」
体に覚え込ませるのに根気が入りそうですが、がんばります。
「18小節からのppp、どう表現するか、研究してほしい。
乱暴な言い方をすれば、ほかはビブラートをかけてしまえばそれなりに聴こえる。
ノンビブで豊かに聴かせるにはどうすればいいか、考えなさい。」
ハイ。
そして、新たに練習してきた23〜29小節目。
ポジションの答え合わせをする。
全て、先生と同じだった。
「29小節目はかなり指を広げるから苦しいだろうけど、慣れるようにしなさい。」
なんとか行けそうです。
「次回はいよいよ最大の難所30〜36小節だ。先ずはどのポジションで取るのか考えてきなさい。
何が難しいって、複雑なシンコペーションだよ。拍感覚を掴みなさい。」
やってみます。
★
「シンコペって言えば、今度やるブラ2のシンコペもなかなか酷いです。」
レッスン後、片付けながら私はそう漏らした。
所属オケの次回定期演奏会のメインプロがブラームスの交響曲第2番に決まったのだ。
「ブラ2ね…あれ?どんな曲だったっけ?」
先生の頭の中にはたくさんの曲がある。咄嗟には取り出せなかったようだ。
「スコアありますよ。見ますか?」
私はバッグに手を伸ばした。
先生、ブンブンと首を横に振る。
「いや、いい。むしろ見たくない!」
今日はもう音楽はたくさんだ、と先生は言いたいようだった。よっぽど忙しかったのだろう。
そんな日に、私のレッスンを入れてよかったのだろうか?…以前「お前のレッスンは仕事じゃない」と断言していたから、いいんだろう。
とはいえ、レッスン料はキチンとお支払いしている。学生時代からお値段据え置きだけれど。
「前プロはなに?」
「メンコンを検討してるって聞きました。」
「メンコン?ヴァイオリンコンチェルト?ソリストは誰?」
「誰も何も。センセのオケの2ndヴァイオリントップのKさんです。」
「え⁈本当に?」
先生、知らなかったようだ。
「Kさん忙しいのに、よく引き受けたなー。」
先生、感心している。
「ありがたいことです。」
頷く私。
「Kさんがメンコンって、ちょっと合わない気がする。もっと難易度高くてもいいんじゃないか?
メインがブラ2だと、例えばベトコンとかシューマンのコンチェルトとか。」
「センセ、Kさんは難しくても構わないと思いますけど、私たちが弾けるかが問題です。」
先生、ポンっと手のひらで膝を打った。
「ああー、そうだな。」
我々はアマチュアですから。
「それからセンセ、私ちょっと仕事に余裕ができました。レッスンじゃなくて、ここに遊びに来たいです。」
先月は夕飯いただいたけれど、もっとゆっくり先生と話がしたい。
「前にもそう言ってたね…うーん、確定申告とアルバムのレコーディングが終わってからかなぁ。」
「ええ⁈2枚目のアルバム出すんですか!」
「まぁねー。」
1枚目は完売したからか。
「何の曲入れるんです?」
先生、ニヤリと笑んで、
「お楽しみに。」
「じゃあ、私が遊びに来たいって言ったの、覚えててくださいね。」
「わかった。」
おやすみなさい、と挨拶して外に出ると、さらに雪が積もっていた。
今はそんな季節だけど、なんだかんだであっという間に春になるんだろうな。