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チェロリサイタル。
仕事後。
すっかり着替えて、コートを着て、鞄を持って玄関へ向かって歩いていると、目の前にG先生が通せんぼするように立ち塞がった。
「ギリセーフ!帰るところすみませんが、戻ってください。」
何ですって。
「私の退勤時刻はもうとっくに過ぎてるの。これ以上仕事しても残業代出ないし。今夜は『細かすぎて伝わらないモノマネ2024』をリアルタイムで観るの。」
「ソレ、俺も観たいのに今夜は宿直です。」
「それは仕方がないね。」
「夜先生も諦めて録画で観てください。」
「イヤです。」
鞄を抱きしめてG先生を避けるために振り返ると、後ろにはS先生が立ち塞がっていた。
「部長命令です。どうしても夜先生の診断がほしいって。」
医師にはそれぞれ専門分野がある。
私の守備範囲はほかの先生たちよりも広い。
「えー。」
「夕飯奢ってくれるって。弁当だけど。」
「それだけ言うんなら、うなぎ弁当!うなぎじゃなきゃ、帰るッ。」
「部長に言ってください。」
私はロッカーへ戻った。長居する気はさらさらないので、私服の上に白衣だけ着た。
戻った私に「(格好が)ラフだね。」と言う部長。
「うなぎ弁当がいいです。」
と私は返した。
部長は、私とG先生、S先生に、約束どおりうなぎ弁当をご馳走してくれた。
★
チェロ師匠のリサイタルがあった。
先日のように帰宅を止められてなるものかと思い、忍者のように物陰に隠れながら職場を出た。
私は少し前、チェロ師匠に「リサイタルを手伝います」と申し出ていた。
しかし、裏方仕事に就くと、演奏をゆっくり聴くことができない…それは大変惜しい。
それで、先生には「やっぱり演奏を聴きたい。ごめんなさい。」と言った。
先生、笑って「もちろん構わないよ。楽しんでね。」と言ってくれた。
ほんと、スミマセン…。
★
特に約束していた訳ではないが、会場入り口に着いたら、私が所属する楽団の代表、コンマス、チェロパートリーダー、チェロトップ、同じくチェロのKさんとRさんがいた。
私が「差し入れ置いてくるので、先にホールへ入っていてください。」と言うと、トップが「じゃあ、席取っておくねー。」と言ってくださる(自由席だった)。
私がホールに入ると、トップが「夜さん、こっちこっち!」と手を振っている…一番前の席ではないか。しかも、ど真ん中、先生が演奏する場所の目の前。
「ハイ、ここ!」と、皆さん。
「ほかに真正面座りたい方いないですか?」
「ここに座るのは、夜さんしかいないでしょう。」
…そんなことないと思うけれど。
開始時刻までまだ間がある。
リーダーから、来月の定期演奏会の変更点について話があった。
「開演前のロビコンなんだけど。ここの会場、ロビーで演奏しちゃダメなんだって。なので、H先生のプレトークの前に、このステージ上で演奏します。
定期演奏会は、まさにこのステージで行うのだ。
「ええ?!それじゃあ、まるで前座じゃないですか。」
「そうだね。」
緊張感が増してしまう。
「2ndパートなんですけれど。私には難しくて。1stがどんな動きをしているのかわかると違うかな…?」
そう私が吐露すると、Kさんが「それなら、スコアをメールで送るよ。」と。
その場でメール着信。仕事の早いKさん。
スコアを見ると、1stのオクターブ下を弾いていたり、3rdと同じ動きをしていたりと、やっぱり難しい。
「コレ、次回初合わせするんですよね。できるかなぁ。」
弱音を吐く私。
「まずは、やってみましょう。」
とリーダー。
ため息しか出ない。
開演のチャイムが鳴った。
★
振り返って客席を見渡すと、ほぼ満席だった。
先生が食いっぱぐれなくて済む。良かった。
プログラムにちゃっかりウチの定期演奏会のチラシを挟ませてもらった。
先生は、オールフランスの曲目を揃えていた。
フォーレ、プーランク、ドビュッシー、ラヴェル、フランク。
チェロソナタが目玉とのこと。
プーランクとフランクのチェロソナタ、先生初披露だそう。超難曲である。
先生がステージで弾くのを見るのは、久しぶり。
特に右上肢の使い方をじっくり観察した。
先生の音は聞き慣れているが、ピアノのKさんの演奏は初めて聴いた。
キラッキラで本当に素敵だった。
代表が「ウチのコンチェルトに呼べないかな。」と呟いた。
今、飛ぶ鳥落とす勢いのピアニストだそうだ。
「彼の演奏のおかげで、ボクが自由に演奏できるのだと思います。新たな表現も学びました。」
とトークする先生。先生、今でも勉強中。
ニコニコと楽しそうだった。
アンコールは、お馴染み、サン=サーンスの白鳥。
先生、譜面台を脇に避けて、椅子に座った。
それだけで、音がダイレクトに聴こえるような気がする。
「夜さん。あなたのための白鳥だよ。真正面で先生の白鳥シャワーを浴びた感想は?」
トップが私をからかう。
「どうって聞かれても…ちょっと困ります。」
モジモジする私にトップが
「照れちゃって、かわいいねぇ!」
と追い打ちをかけてくる。
★
終演後、楽団メンバーとロビーへ出た。
先生がお客さんのお見送りをしている。
我々は、ほかのお客さんがいなくなるまで待っていた。
ロビーに我々だけになってから、楽団メンバー揃って「先生、お久しぶりです!」と挨拶した。
3年前、私が入団する数ヶ月前に、先生はウチの楽団でドボコンを演奏している。
「お久しぶりですね。弟子が大変お世話になっております。」
先生、自分が頭を下げるついでに、私の頭を掴んで一緒に下げさせた。
「夜さん、がんばってますよ。」と代表。
「皆さんのおかげです。これからも不祥の弟子をよろしくお願いします。」大人トークをする先生。
「またコンチェルトに出ていただけませんか?」
と、リーダー。
「今度はエルガーとか。」
先生、ニコニコと頷く。
「いいですよ。エルガーなら何度かやってますし。」
「エルガー、最大の問題は、ウチの楽団メンバーが弾けるかだなぁ。」
代表がそうボヤく。
「エルガーはオケのチェロパートが難しいですもんね。特にコイツが弾けるかな。」
と言いながら、先生、私の頭を小突く…イタイ。
「よく扱いておきますね。」
…センセ、コワイ。
最後に先生を真ん中にして記念撮影。
私と先生だけピースしていた。
★
「じゃあ、みんな帰りますよー。」
と代表。
「その言い方、まるで学校の先生みたいですよ。」
とKさん。
みんなで「ほんとにー。」と言って笑う。
「そういえば、昨日楽団練習会でしたよね。このメンバーで昨日も会ってる。」
「毎日会ってるって、まるで学校だね。」
「そして、4日後にまた会うでしょ。」
「やっぱ、学校だわ。」
代表、パンパンと手を叩く。
「はい、生徒の皆さん、もう夜遅いですよ。
寄り道せずに真っ直ぐ気をつけて帰りましょう。」
「はーい。」と言いながら、みんなで笑う。
「早く寝なさいね。」
「はーい。」
「チャイコ、練習しなさいね。」
「げーッ。」
ゲラゲラ笑いながら解散した。
あー、楽しかった。
あ、今週先生のレッスンもあるんだった。
そっちも練習せねば。
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