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24.10月チェロレッスン③:レクイエムじゃないんだから。

「発表会までの1週間は心穏やかに過ごしなさい。」

と、師匠に言われた。
私が今回の発表会で弾くバッハの無伴奏は、奏者の感情がそのまま音になるのだそうだ。

ところが。穏やかとは程遠い1週間になってしまった。

知り合いが亡くなった。
2週間前に会ったときに笑談したというのに。

青信号の横断歩道を渡っていたところ、右折してきたダンプカーに轢かれた。

救急隊員の引き継ぎでは、到着時は会話が出来たそうだ。しかし、救急車に乗せた際には心肺停止となったという。
運ばれてきたときには、もう手の施しようがなかった。

私は神様でもなければ、蘇りの石を持っているわけでもない。
自分の無力さにウンザリする。

子ども(よその子であっても)と、知っている人のこのような場面に遭遇すると、不甲斐ないほど私は落ち込む。
仕事上は平静を装っていられるが、日常はダメだ。食欲もなくなるし、眠れない。

オマケに、この2日ほどは仕事のトラブルにも見舞われた。

           ★

練習中の5番プレリュード、レッスン初めにいつものように通して弾く。

先生は、私の正面でピアノ椅子に座り、ピアノの蓋に左肘をついて黙って聴いている。

演奏を終えても、しばしの間、何のリアクションもなかった。
私も黙って先生のジャッジを待った。嫌な時間だ。

「それはレクイエムだろ。」

沈黙の後、先生はため息まじりにそう呟いた。

「序奏だけじゃない。今日は全部が重い。
先週はいい感じに仕上がったと思ったんだけどなぁ。」

私は俯いた。

「…まぁ、そういう状況なら、レクイエムも弾きたくなるだろうけど。5番はレクイエムじゃない。
無伴奏はほんと、弾く人の感情が露呈するなぁ。
他のことに気を取られて演奏に集中できないのは感心しない。」

…先生、厳しいこと言うなぁ。

黙ったままの私に先生は一息ついて「さて。どこから手をつけるかな。」と言った。

「2小節目の重音、下の弦の音をしっかり響かせなさい。スカスカすると、重厚感が薄れる。」

言われていること、よくわかる。重音の響かせ方が足りなかった。

「1小節目のCツェー、戻りきっていない。だから2小節目のドッペルの音程が悪くなるんだよ。」

あー、この曲の習い始めと同じこと言われたよ…。

「同じ理由で8小節目のドッペルの音程も悪い。あと、26小節のドッペルも。おかしいな、今まで気にならなかったのに。ボクが聴き逃していたのか?」

さあ。それはどうでしょう…。

「25小節のHハーは書いてないけれどテヌートだよ。」

わかりました。

「27小節から48小節は一気に勢いよく進むこと。停滞するな。曲全体が澱む。」

そこまで一息にダメ出しされた。
最初の部分からダメなんじゃないですか…ゲンナリ。

「とにかくね、最初から勢いがほしいの。停滞するなよ。レクイエムじゃないんだから。」

仕事では感情を抑えて事にあたることができるのに、音楽となるとなぜこうも難しいのだろう?
修行が足りないのはもちろんだ。

先生は、昨年お父さんを亡くした翌日に第九演奏会に乗り、1600人のお客の前で何事もなかったようにトップサイドを弾いていた。
先生が今私に教えているのは、プロ奏者の心構えというか、覚悟なんだと思う。

私が「ただうまく弾くだけじゃない、人の心に届く音楽を作りたい」と言ってから、先生の指導も変わったように感じる。だいぶ深い部分まで入り込んでくるようになった。

           ★

レッスンの最後は、無伴奏を弾くためにステージに立ったときの所作について話された。

「いいか。ボクが本番でどうやっているか教えるよ。
ステージに出て行ったら、まずお辞儀をしなさい。椅子の高さの調整はそれから。
椅子に座ったら、エンドピンの調整もゆっくりやっていい…それは夜も知ってるか。
ステージ上で軽く調弦の音出しをしたっていい。特に一音目のG、正確に取れるように。
調弦で余裕を演出しなさい。
決してすぐに引き出すな。曲全体をイメージしなさい。イメージのないまま弾くと、行き当たりばったりの中身のない演奏になる。
何をするにしても、堂々としていなさい。
ホール全体の雰囲気を自分のものにするの。分かるか?お客全員を自分に注目させなさい。」

「プロは…センセはいつもそうしてるの?」

先生、深く頷く。

「そうだよ。」

先生のリサイタルを思い出すと、確かに今言ったことを先生はやっている。
プロの演奏に感動するのは演奏自体にだけではなく、演奏の前段階から雰囲気作りも行っているからなのか…とてもいいことを教えてもらった。

「伴奏があればピアノが曲のイメージを作ってくれるけれど、無伴奏は一から自分で作り上げなければならない。そこが無伴奏の難しさだ。
長い曲だからとちってしまうこともあるだろう。でも、止まるなよ。止まった瞬間、曲が終わってしまうから。せっかく作り上げたものが台無しになってしまう。とちったところは潔く捨てて、次に入り直しなさい。」

理解しました。

           ★

レッスン終了後、11月のレッスン日について尋ねた。

「ああー、予定表を家に忘れてきたよ。」
先生、鞄をひっくり返して見たけれど、どこにも入っていない様子。

「じゃあ、またLINEくれればいいです。」
「悪いね。そうするよ。ボクの家でのレッスンは12月からにしてくれ…まだレッスン室片付けてないんだ。」

この調子じゃあ、12月も無理な気がするけれど。

と、私のスマホが光った。
LINEメッセージが届いたようだ。

待受画面を見て、私はため息をついた。

「どうした?」
「職場の同僚からです…。」

昨日まで私は余りにも忙しかったから、今日昼に退勤したら今日はもう出勤しない、と話して職場を出た。
明日は発表会のために一日休みを取ってある。

LINEを開くと、同僚のS先生からだった。
「大変申し訳ありませんが、今から少し出てきてくれませんか。」とのこと。
オンコール用のケータイは置いてきた。だからLINEメッセージを寄越したのだろう。
仕事の内容は大体想像できる。

LINEを読んで眉根を寄せる私に先生が言った。
「今から仕事、行くの?」
「…仕方がないです。でも、日付変わる前に帰ります。」
「そうしなさい。」
「センセは?この後は?」

先生、楽器ケースを背負った。

「一旦家に帰る。ちょっと休んで、夜から仕事だね。」
「お疲れ様です。」
「お互いに、ね。じゃあ、明日10時半に現地集合ね。」
「分かりました。」

外に出て、先生と別れた。

明日のために、今日は絶対早く帰るぞ!




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