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24.発表会。

J.S.バッハ
「無伴奏チェロ組曲 第5番 プレリュード」

2022年、世界に衝撃的な出来事が報道された。

直後、とあるチェリストが、強い願いと希望を込めて、破壊された街の中でバッハを弾く姿が世界へ配信された。

弾かれた曲が、この5番プレリュードだった。

無伴奏チェロ組曲は、全6曲。

それぞれ1曲の中身は前奏曲(プレリュード)から始まり、6つの曲で構成されている。

チェリストにとってバイブル的なこの組曲、弾くにはなかなか難しい。
さらに、1番より2番、2番より3番と、数字が大きくなるにつれて難しいと言われている。

5番プレリュードは、フランス風序曲の形式で書かれており、ほかの曲と比べて規模の大きい作品となっている。
それはなぜなのか?
全6曲の中で5番が頂点だから、との解説を目にしたこともあるが、バッハ本人の解説はないのでよくわからない。

世界に大勢いるアマチュアチェリストの中でもしがない一人である私としては、
「長くて難しい曲」
という印象しかない。

あるアマチュアチェリストさんが自身のブログの中で、
「発表会で無伴奏を弾く人は、『とても上手な人』か『無謀な人』のどちらかだ。」
と書かれていた。
今回私は、5番プレリュードを弾く。
師匠にも「お勧めできない」と言われた、飛び抜けて無謀な試みである。

そこまでしてなぜこの曲を選んだかというと、幼少期の思い出があるから。
これを弾きたくてチェロを始めたと言ってもいい。
でも、当時は、難しい曲だと知らなかった。

5番を習いたい、と師匠にはずうっと以前から言っていた。でも、師匠は5番を自身の悲しい思い出と共に、人前で弾くことを封印していた。
2年かけて頼み込んで、ようやく習わせてくれた。
習っている間も、師匠は部分的には弾いても、一度も通して弾いてくれたことはない。
師匠が弾けないなら、弟子の私が師匠の代わりに弾けるようになりたい。そう思っている。

では、私の発表会本番はどうだったのか。

           ★

当日。
ステージでの自由練習に合わせて、私はだいぶ早い時間にホールに到着した。他の発表者はまだ誰も来ていない。

先生も来ていた。
早速ステージで弾いて良いか尋ねると、OKとのことで、さっさと準備をしてステージへ行った。

ここのホール、数ヶ月前に先生が改修工事後の柿落としで演奏していた。以前は全然響かないホールで評判が悪かった。

音を出してみると…悪くない。

先生がやって来た。
「どう?」と聞いてくる。

「いいですね…音が豊かに聴こえます。倍音の響きもふくよかです。」

先生が頷く。
「改修工事で随分よくなったよね。
観客席の床をカーペットから板貼りに変えたんだって。」

床材で響きが変わるのか。

私が弾いている間、先生は客席内を彷徨く。
客席での響き方を確認しているのだ。
「うん、ちゃんと席の後ろまで音が届いてる。いつも通りの弾き方でいいよ。」

それはよかった。

「ただ、やっぱりまだレクイエム弾いてるな。レクイエムをやるのは、最初の3段だけにしてくれ。」

…できるかなぁ。
気分はまだ全然上向かない。

「その最後の弓の離し方だけど。弓を顔の高さまで持ち上げなさい。そのほうが音の響きを残せる。」

分かりました。

           ★

ほかの発表者も次々到着。
チェロ奏者は私を入れて6人。全員大人。

私はステージ練習後は音出しを控えた。
弾きすぎると迷いが出てしまうから。

開会式少し前に先生と並んで客席に座った。
「センセ、まだ腰が辛いですか?」
先生が座り心地悪そうにしていた。
「うん…一昨日夢中になって庭の草取りしたのがいけなかった。ちょっと今回のは辛いかも。」

腰痛持ちのチェリストは割と多いと聞いていた。

「整形ではなく、整体を受診したらどうでしょう?」
「保険使えるならいいけど、そうでないと高いもんなぁ。」

そんな話をしていたら、開会ブザーが鳴った。

           ★

最初は幼児クラスのピアノ発表。
あっという間に終わる。
次はチェロ。

私は最後から6人中4番目。最後の5番目のベテランのお二人は、デュオ演奏。

オケ用のドレスに着替えて舞台袖へ向かうと、1番奏者の方に「ステキ!」と言われた。ありがとうございます。

「お前、相変わらず化けるよなぁ。」
苦笑する先生。
人を妖怪みたいに言わないでください。

私の前の3名はピアノ伴奏付き。
私からはピアノを使わないため、ピアノを下げる作業が入る。
その待ち時間に、チューニング。
舞台は照明によって割と暑い。よって、音程が下がりやすい。

セッティングが終わって、奏者コメントのアナウンスが入る。

「先生は私がこの曲を舞台で弾くのはどうかとおっしゃいました。私もそう思います。」

と読み上げられると、先生は私を振り返って
「何だって、そんなこと書いたの?!」
ヒソヒソ声で抗議した。
私はふふふと笑った。

アナウンスが終わると、いよいよ出番。
先生にトンッと腰を叩かれた。
「さあ、行っておいで。」

           ★

椅子の横に立って最初に礼。
椅子の高さを下げて、エンドピンの高さを調整する。
最初の一音を確認。

昨日の先生のアドバイスを思い出す。
『弾き出す前に曲の構成を思い描きなさい。』

さあ、どういう演奏にしようか。
…やっぱり序奏はレクイエムしか思い描けない。その代わり、テーマからは雰囲気を変えて軽やかに。最後は重厚に終える。

『ホール全部の雰囲気を、自分のものにしなさい。』

客席を見渡して、息を大きく吸った。

息を吐き出すタイミングで、重い重音を鳴らした。
理想の音が出た。よかった。これで波に乗れる。
テーマに入ってからは勢いをつけた。

最初の2ページ分と最後1ページ分は暗譜。
真ん中の79小節から176小節までは楽譜を用意した。これが良くなかったのかもしれない。
中間部で頭の中の楽譜と目の前の楽譜が合わなくなった。それで2小節分見落とした。

「曲の流れを止めてはいけない。間違ったところは潔く捨てて、次から入る。」

先生から言われたことを実行。
なんとか誤魔化した。

最後の最後、運指を間違えたけれど、咄嗟にポジションチェンジをして乗り切った。
このポジションチェンジ技はオケの練習で覚えた。オケの練習も役に立つではないか。

締めの重音はキレイに決まったけれど、勢いに乗りすぎて、弓を派手に振り上げてしまった。
お客さん側からすれば終わりがわかりやすかったらしく、そのタイミングで拍手が鳴った。

          ★

舞台袖に下がると、先生がうんうんと頷いた。
「止まらなくてよかった。」
とのこと。

全員の演奏が終わって、控え室に一旦チェロの全員が集まった。
先生が話をする。

「それぞれうまく行ったところ、思うようにできなかったところがあると思います。
全員最後までキチンと弾ききれたのは良かった。一人一人へのコメントは、次回のレッスンのときに。今日はこれで解散にします。お疲れ様でした。」

皆で「お疲れ様でした〜。」と言い合って、散っていった。
私はそのまま控え室内の更衣室で着替えた。
着替えを終えて更衣室を出ると、先生だけが椅子に座っていた。

「お疲れですか?」
私は言った。
「そうだねー。」
先生、テレビに映るステージ演奏を眺めながらそう答えた。

「5番、私が弾くんだから、あんなものでしょう。」
私はおどけて言った。

先生が私を振り返った。
「そんなふうに言うなよ。」
真面目くさった表情でそう返ってきたので、私も自分の気持ちに素直になって、ため息をついた。

「レッスン復帰してから発表会出たのは今回で何度目だっけ?」
「3度目です。」
「まだ3回か…経験はまだまだだね。今回デュオのあの二人は場数を踏んでる。うまく行ったことも失敗も数多く乗り越えてここまで来た。」

デュオは、本番が一番良い演奏をしていたという。
私はステージ練習のものが一番良かった。

「センセも?」
「もちろん。」
先生、私のほうを向いて椅子に座り直した。

「本番はね、数をこなすことでしか身に付かないテクニックがあるんだよ。
今回夜が難曲を選んだのはチャレンジだとボクも思ったけれど、結果的には良かったよ。かなり勉強になっただろう?」
「はい。とても。やって良かったと思います。」

先生、頷く。

「次のエレジーも難曲だよ。暗譜じゃないと弾けない。」
「はい。」
私には難しくてもチャレンジさせるということは、先生に何らかの意図があるのだろう。

「じゃあ、私はこれからオケ練に行きます。」

午後から所属楽団で練習が始まっている。
今から行けば、遅刻ではあるが、練習に間に合う。

「そっか。気をつけて。」
「ありがとうございました。11月のレッスン、よろしくお願いします。」
「うん。」

控え室に先生だけ残して、私は練習会場へ向かった。

           ★

到着すると、チャイコフスキーの弦楽セレナード1楽章を通しているところだった。

私は静かに入室して、チェロ隊の一番後ろの席に着いた。
ひっそりと練習に混ざる。

1楽章を終えたところで、小休憩となった。
「夜さん来たー!よく来た!」
一番前に座るチェロリーダーほか、全員が私を振り返って手を振ってくださる。コントラバスのJさんも「お疲れッ!」と言って、弓を振ってみせる。
歓迎ムードがじんわりとうれしい。疲れているけれど、来て良かった。

トップのMさんがメッセージ入りのチョコレートをくれた。
「何て書いてあった?」
「『自分次第』って書いてあります。」
「あ。私と同じ。」
前に座るKさんが振り返って言う。

そっか。
今回の演奏に満足するのも、まだまだと思って練習に励むのも、自分次第か。

休憩後は2〜4楽章を通して終了。

           ★

チェロの皆さんと雑談。
「夜さん、今日発表会だったって?Jさんに聞いた。」
と、パートリーダー。

Jさんを振り返ると、Jさんニヤッと笑んだ。
「無伴奏弾いたんだよね。」
すると、チェロ隊の皆さんが興味津々で「何番弾いたの?」と聞いてくる。

「5番を。」
「5番のどれ?」
「プレリュードです。」
「ええー!!それはスゴすぎる!!」
皆さんから悲鳴が上がった。
ベテランの皆さんは、5番プレリュードの大変さをわかってくださっている…それだけで何だか報われた気がする。
「とても大変でした…準備に1年以上かかってしまいました。」
「そうだろうよ。今日は疲れたね。ゆっくり休みなさいよ。」

みんな優しい…気持ちが弱っているせいで、油断すると泣いてしまいそう。

「今度のバーベキューパーティ、指揮のH先生も来るってよ。」

楽団のお楽しみ行事が予定されていた。

「夜さんはH先生と何話す?」
「ええと、弦セレ1楽章練習番号BとEは、チェロ単独で弾かせないでって言う。あと、そこは何度もやり直しさせないでって言う!」

チェロにとって最難関の場所だ。

私の言うことがみんなも分かるだけに、爆笑された。
「だよね!ソレ言っておくの大事!」

こうして、私の長い1日が終わった。

次のレッスン課題は、パラディスのシシリアーノ。
私がダウンロードした楽譜はFdurだったが、先生が指定したのはEsdurだった。昨日、先生から楽譜をもらった。
帰ったら、弾いてみよう。

先生からチェロ演奏者全員にお花のプレゼントがあった。
赤いバラを選ぶところが先生らしい。


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