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『日米安保と砂川判決の黒い霧』試し読み公開!~編集者による紹介文付き~

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2020年10月13日に彩流社から『日米安保と砂川判決の黒い霧』(吉田 敏浩 著)という本を刊行しました。
砂川事件とは1957年、東京都北多摩郡砂川町(現在の立川市)にあった在日米軍立川飛行場の拡張工事の測量に反対する労働者や学生が逮捕・起訴された事件。東京地裁では、そもそも米軍の駐留が違憲であるとし全員無罪となったが、最高裁では有罪となった。この最高裁判決の裏で日米が秘密裏に接触していたことが明らかになったので、2019年に国賠訴訟が起こされた。その後の安保闘争のさきがけとなった事件でもあり、今もなお裁判は続いています。

本書は創元社より2016年に刊行され、大きな話題を呼んだ『「日米合同委員会」の研究』(日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞受賞)の著者による最新刊で、日本の統治機構の手が届かない、日米の密約の闇に迫る一冊です。

その本書の紹介として、試し読みを公開します。
また、担当編集者による紹介とアメリカ公文書館で調査を行い日米安保に詳しい第一人者による評もご紹介しますので、読書の一助にしてくだされば幸いです。

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■第一人者が「もっとも優れた本」と評価

●ここまで深い闇だったとは――日米安保の本質を伝える
 アメリカ大統領選でバイデン氏が勝利宣言をしてから、尖閣諸島を巡る日米安保や米中新冷戦などが話題になった。しかし日米安保を歴史的に見てみれば、日米安保がもっと根深い闇にあるという<本質>がわかる。

 10月13日『日米安保と砂川判決の黒い霧』という新刊を出した。著者の吉田敏浩さんは、『「日米合同委員会」の研究』(創元社)が大いに話題になり、日本ジャーナリスト会議賞を受賞するなど、日米安保や密約などをテーマにしている定評あるジャーナリストで、大宅賞受賞者でもある。
 
●裁判はいまも進行中
 今回の新刊のテーマである砂川判決は、知っている人からすればとっくの昔に終わった事件(裁判)だと思うだろうが、裁判は実はいまも進行中である(東京地方裁判所で「砂川事件裁判国賠訴訟(砂川事件国賠訴訟)」が進行中)。このことにまず、「知っている人」は驚くだろう。
 一方で、そもそもそんな事件は知らないという人も多いだろう。
 この本の冒頭、第1章は、事件を知らなくても(もしくは知っているつもりだった人にとっては改めて)、この事件をめぐる裁判が、これでもかというほど幾重にもめちゃくちゃだったことが、迫真のストーリー展開で感じられ、読者はこの章で「こういうことだったのか!」とまず驚きの声を挙げるのではないだろうか。
 
●「密約体系」と結びついた「安保法体系」
 吉田さんは「安保法体系」は「密約体系」と結びつき、アメリカによる日本占領の延長に位置づけている。そして次のように読者に問いかける。

「はたしてアメリカによる「日本占領管理」を、もう過去の話だとかたづけていいものだろうか。本質的には占領の延長といえる「安保法体系」+「密約体系」を、この先ずっと存続させてもいいのだろうか。
 安保改定六〇年の年、日本社会はあらためてこうした問いと向き合うべきであろう。」

●第一人者・新原昭治さんから、驚きの評価
 今回、砂川事件の最高裁判決の裏にあった日米政府の共謀の事実を、アメリカ公文書館で日本人としてはじめて発見した、新原昭治さんから、本書『日米安保と砂川判決の黒い霧』の感想メッセージをいただいた。
 アメリカで解禁秘密文書の調査を続けてきた専門家の評価として、ぜひお読みいただきたい。
 続けて、本書第1章を一部公開するのでぜひお読みください。
(編集部・出口綾子)

*新原昭治さんのメッセージ
あの本は、実にすばらしいですね。
類書を何冊も読んでおりますが、真実をきわめてきちんとお書きになっておられて、現実のドラマ展開の描写がリアルできわめて正確であるだけでなく、劇的な流れそのものがいま目の前で起きているようによく見えるご本です。
滅多に読んだことのない、立派なご本だと感動しております。
私は2008年にマッカーサー駐日米大使が「伊達判決」をくつがえせという乱暴な干渉をおこなったというアメリカの解禁文書を、ワシントン郊外の米国立公文書館で日本人としてはじめて発見した人間ですから、その12年前から後の立川空軍基地拡張と砂川事件、そして同基地の滑走路拡張に反対した人びとが「被告席」にすわらされた東京地裁の伊達判決をめぐる報道やそれに関する一連の書籍には、かならず目を通してきました。
その目で見て、間違いなく貴社から刊行された吉田さんのこのご本は、もっとも生きいきと問題の急所をついた、きわめてすぐれた書籍だと感じたわけでして、これは決して通り一遍の評価として申し上げているのではありません。
どうか、そうした玄人の目で見た評価として、大いに確信を持って全国的におひろめくださればと思います。
私はかなり日本とアメリカで出版された本を読んできた人間で、当年89歳ですが、出版社の方に向かってこんな風に特定書籍を大いに評価するような発言は、これまでの人生でただの一度もありません。
宝物を売っているところの方が、それに大いに確信を持って商売されるのと同様、気迫と誇りを持ってお仕事をしていただくことは、いいことではないでしょうか。
本気でそう思わされたのが、吉田さんのこのご本でした。

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『日米安保と砂川判決の黒い霧』第一章試し読み

第一章  最高裁長官がアメリカ大使に裁判情報を漏洩

■砂川事件の元被告たちによる国賠訴訟

 二〇二〇年の今年は安保改定から六〇年の節目にあたるが、いま東京地方裁判所で、注目すべき国家賠償請求訴訟(国賠訴訟)の裁判が進行中である。一九年三月一九日に提訴された砂川事件裁判国賠訴訟(以下、砂川国賠訴訟)だ。この裁判は、司法の公平性・独立性と憲法九条や日米安保条約・地位協定にも深く関わっている。
「米軍の駐留は違憲ではない。高度の政治性を有する日米安保条約は、一見極めて明白に違憲無効と認められない限りは裁判所の司法審査権の範囲外」とした砂川事件最高裁判所判決(一九五九年一二月一六日。以下、砂川最高裁判決)。
「砂川判決」とも呼ばれるこの有名な判決の背後に、当時の田中耕太郎(*)最高裁長官からダグラス・マッカーサー二世駐日アメリカ大使(*)らへの密談による裁判情報の漏洩があった。そのため憲法三七条「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」が保障する、「公平な裁判所」の裁判を受ける権利を侵害されていた。
 そう訴えて、砂川事件元被告の土屋源太郎氏と椎野徳蔵氏、元被告の故・坂田茂氏の長女・坂田和子氏の三名が、国を相手取り訴訟を起こした。慰謝料(賠償金)各一〇万円、元被告の罰金各二〇〇〇円の返還、国(政府)による謝罪広告の新聞掲載を求めている。
 砂川最高裁判決は、二〇一五年の安保法制成立の際、安倍晋三政権(当時)が判決内容を曲解したうえで、集団的自衛権の行使を容認する強引な解釈改憲の正当化に用いた。また、米軍機の騒音公害や米軍用地の強制使用など基地被害をめぐる裁判で、安保優先・軍事優先の判決を正当化する最高裁判例としても使われている。
 いわば日米安保体制と軍事同盟強化のお墨付きとして利用されているのだ。安保条約や自衛隊など「高度の政治性を有する」問題は、「裁判所の司法審査権の範囲外」とする法理論すなわち「統治行為論」を用いた初の最高裁判例として、権威あるものと見なされてきた。
 しかし、その背後には、アメリカ政府の密かな内政干渉、田中最高裁長官による裁判情報の漏洩など不正行為があったのだ。それは、アメリカ国立公文書館で秘密指定解除のうえ公開された、駐日アメリカ大使館の秘密電報・書簡などの公文書(後述)で明らかになった。
 まさに司法の公平性・独立性が侵害されていたのである。砂川国賠訴訟はそのような黒い霧に覆われた最高裁判決に、根底から異議申し立てをするものだ。原告のひとりで、提訴当時八四歳の土屋源太郎氏は訴える。
「一九五九年当時、砂川事件を裁いた最高裁大法廷の裁判長は、田中長官が務めました。ところが裁判長みずから、裁判の一方の当事者にあたるアメリカの大使に密かに裁判情報を漏らしていたのです。そうした不公平で不透明な最高裁判決に正当性はありません。裁判所は、私たちが公平な裁判所の裁判を受ける権利を侵害されたことを認め、司法の公平性と独立性をみずから回復させるべきです」

■米軍基地の拡張に反対する砂川闘争

 砂川事件は一九五七年七月八日、東京都北多摩郡砂川町(現立川市)で起きた。その日、米空軍立川基地の基地内民有地の強制使用に向けた測量に反対する、地元農民と支援の労働者・学生のデモ隊の一部が、基地内に数メートル立ち入った。同年九月二二日、日米安保条約にもとづく行政協定(現・地位協定)の実施に伴う刑事特別法第二条(米軍基地への正当な理由のない立ち入り禁止)違反容疑で、二三人が逮捕された。そして七人の労働者や学生が起訴された。当時、明治大学の学生だった土屋氏もそのひとりである。
 砂川町は、この事件が起きる前から、基地問題で大きく揺れ動いていた。一九五五年五月、日本政府は立川基地の飛行場の滑走路を拡張する計画を町当局に伝達し、「拡張計画に反対しても、〔拡張予定地を〕われわれは土地収用法で収用してしまう。その時はもちろん土地は補償しない」と通告した。それに対し、先祖代々受け継いできた土地を取り上げられたくない地元農民を中心に、反対運動が町ぐるみで広がった。町議会も満場一致で反対を決議し、砂川町基地拡張反対同盟が結成された(『砂川闘争の記録』宮岡政雄著 御茶の水書房 二〇〇五年)。
 滑走路の拡張計画は、当時、軍用機のジェット機化を進める米軍の強い要求にもとづいていた。米軍は立川基地だけでなく、横田(東京)、新潟、小牧(愛知)、木更津(千葉)の各空軍基地の飛行場の滑走路拡張を求めた。日本政府もそれを受け入れた。
 これら在日米軍基地の滑走路拡張計画の背後には、当時のソ連や中国など対共産主義陣営をにらみ、核爆弾を搭載した軍用機の離着陸ができるようにするための、米軍の核兵器使用計画・核戦略もあったといわれている。
 日本政府は立川基地の滑走路拡張に向けて、日米安保条約にもとづく行政協定の実施に伴う土地等使用特別措置法による強制収用に取りかかった。同法は米軍基地の用地の賃貸に応じない所有者の土地を、一定の手続きをへて強制的に収用するための法律である。駐留軍用地特措法または米軍用地特措法とも呼ばれる。刑事特別法(以下、刑特法)と同じように日本における米軍の特権を保障する安保特例法・特別法のひとつだ。
 政府は一九五五年の八月から一一月にかけてと、五六年の一〇月に、砂川町の滑走路拡張の予定地で強制測量を実施。反対運動を抑え込むために警官隊も多数動員した。それは現地に大混乱をもたらした。
 強制測量を阻止しようとスクラムを組んで立ちはだかる農民たちと、支援に加わった労働組合員たちや学生たちを、警官隊が棍棒で殴りつけて排除する流血の事件も起き、千数百人もの負傷者が出た。流血の事態が報道されたことから社会的な反響を呼び、注目された。反対運動は「砂川闘争」と呼ばれ、地元農民の真情を表した闘いのスローガン、「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」も広く知られるようになった。
 当時、砂川のほかにも、山形県の大高根射撃場の拡張、山梨県の北富士演習場の拡張、群馬県の妙義山での演習場設置、千葉県の木更津飛行場拡張、愛知県の小牧飛行場拡張、米軍占領下の沖縄での基地建設に伴う土地取り上げなど、米軍基地の拡大に反対する運動が全国各地で高まっていた。
 
強制測量への抗議中に起きた砂川事件

 こうした事態に続いて起きたのが砂川事件である。
 立川基地は、一九四五年八月のアジア太平洋戦争の敗戦直後に、日本を占領した米軍が旧日本陸軍の立川飛行場を接収したものだ。米軍はさらに四六年、滑走路拡張のため飛行場に接した農地を、武装した米兵を伴うブルドーザーを用いて強制的に接収し、軍用地とした。米軍に奪われた農地は強制的に借り上げられ、賃貸契約で使われた。
 しかし、一九五六年四月に上記の農地の基地内の土地所有者八名が、合計約三万八九四〇平方メートルの土地の賃貸契約の更新を拒否して、国(日本政府)を相手取り土地の返還を求める訴訟を起こした。これに対して、政府はその土地を強制的に継続使用するため、前出の土地等使用特別措置法による強制使用に踏み切り、基地内民有地の強制測量を実施した。
 一九五七年七月八日、早朝から測量作業がおこなわれた。千数百人の警官隊が基地の境界柵の内側に、さらにロール状の鉄条網を据えて警備態勢をしいた。この強制測量に反対する地元農民ら砂川町基地拡張反対同盟員と、支援する労働組合員、学生ら千数百人は、基地の北側に集まり、気勢をあげて抗議した。
 やがて学生たちが基地の柵を揺さぶって押し倒し、スクラムを組んだ約三〇〇人の学生と労働者が基地内に数メートル立ち入った。鉄条網をはさんで警官隊と対峙し、抗議行動を続けた。警官隊の背後には銃を手にした米軍兵士が控え、機関銃を積んだジープも出動してきた。
 同日の午後になり、現地に来た社会党国会議員団と立川警察署長との間で、「基地内で騒ぎを起こさない限り、逮捕者は出さない。本日は双方同時にそれぞれ引き上げる」という約束が成立した。測量も、抗議行動も中止となり、双方が引き上げた(『砂川闘争から沖縄、横田へ』伊達判決を生かす会作成・発行 二〇一八年)。
 ところが、同年九月二二日、警察は撮影していた七月八日の現場写真をもとに、基地内に立ち入った二三人の学生と労働者を刑特法第二条の違反容疑で逮捕した。そして、そのうち学生三人と労働者四人が起訴されたのである。

■米軍駐留を違憲とした「伊達判決」

 起訴された前出の土屋氏ら砂川事件の被告七人の裁判は、東京地裁刑事第一三部(伊達秋(*)雄裁判長、清水春三裁判官、松本一郎裁判官)において審理された。
 一九五九年三月三〇日の判決では、被告全員が無罪を言い渡された。新聞各紙は一面で、「米軍の駐留は違憲、刑特法は無効、基地立ち入り、全員に無罪」などの見出しを掲げ、大々的に報じた。伊達裁判長の名から「伊達判決」と呼ばれる。憲法九条をめぐる裁判史上、特筆される判決の主旨は次のとおりだ。

「憲法九条は自衛権を否定するものではない。しかし、日本が戦争をする権利も戦力の保持も禁じている。
 一方、日米安保条約では、日本に駐留する米軍は、日本防衛のためだけでなく、極東における国際の平和と安全の維持のため、戦略上必要と判断したら日本国外にも出動できる。その際には、日本が提供した基地は米軍の軍事行動のために使用される。その結果、日本が直接関係のない武力紛争に巻き込まれ、戦争の惨禍が日本に及ぶおそれもある。
 したがって、安保条約によりこのような危険をもたらす可能性を含む米軍の駐留を許した日本政府の行為は、『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決意』した日本国憲法の精神にもとるのではないか。
 このような実質を持つ米軍の駐留は、日本政府の要請とアメリカ政府の承諾という意思の合致があったからだ。つまり日本政府の行為によるものといえる。米軍の駐留は、日本側の要請と基地の提供と費用の分担など協力があるからこそ可能なのである。
 このような点を実質的に考察すると、米軍の駐留を許容していることは、指揮権の有無、米軍の出動義務の有無にかかわらず、憲法九条二項で禁止されている戦力の保持に該当すると言わざるをえない。結局、駐留米軍は憲法上その存在を許すべきものではないと言わざるをえない。
 刑特法は、正当な理由のない基地内立ち入りに対し、一年以下の懲役または二〇〇〇円以下の罰金もしくは科料を科している。それは、軽犯罪法の正当な理由なく立ち入り禁止の場所に入った者を罰する規定よりも特に重い。
 しかし、米軍の日本駐留が憲法九条二項に違反している以上、国民に対し軽犯罪法の規定よりも特に重い刑罰をもって臨む刑特法第二条の規定は、どのような人でも適正な手続きによらなければ刑罰を科せられないとする憲法三一条に違反しており、無効だ。したがって、全員無罪である」

 土屋氏はこの予想外の判決を東京地裁の法廷で聞いたときの驚きと感激を、次のように語った。
「それまでは、おそらく有罪判決が出るのだろうと思っていました。ところが、『被告人は無罪』という思いもよらぬ判決が言い渡されたわけです。うれしいというより以前に、大変驚きました。そして『米軍の駐留は違憲』という判断が下されたことを知って、自分たちの主張そのものじゃないかと、思わず胸が熱くなりました。傍聴席で一瞬ざわめきが起こったあと、法廷は静まりかえり、判決文を淡々と読みあげる伊達秋雄裁判長の顔を、誰もが食い入るように見つめていたのを、いまでもよく覚えています」

アメリカ大使が最高裁への跳躍上告をうながす

 日本で基地を使用し、日本国外にも出動できる駐留米軍の軍事行動によって、日本が戦争に巻き込まれるおそれもある。そのような危険をもたらす可能性のある米軍に、基地を提供し、駐留を許した日本政府の行為は憲法の精神に反する。したがって米軍の駐留を許すことは、日本国の指揮権の有無にかかわらず、憲法九条が禁じる戦力の保持にあたり、違憲である。
 このような論旨の「伊達判決」は、日本政府の「駐留米軍は、日本国に指揮管理権がないため日本の戦力ではなく、憲法九条に違反しない」という従来の見解を真っ向から否定するもので、前例のない画期的な内容だった。
 それは日米両政府に衝撃を与えた。当時、全国各地で高まっていた米軍基地反対運動や安保条約反対運動を勢いづかせ、日米間で進む安保改定交渉の障害になるとみられたのだ。米軍駐留の安定性をおびやかし、日米安保体制の根幹をゆるがす事態は、基地を自由に運営する米軍にとっても容認できない。アメリカ政府は素早く政治的工作を始めた。
 東京地裁判決の翌日、三月三一日早朝、マッカーサー大使は密かに藤山愛一郎(*)外相(当時)と会い、最高裁への跳躍上告をうながした。
 跳躍上告とは、通常の手続きである東京高等裁判所への控訴をせずに、高裁を飛び越して最高裁に直接上告するきわめて異例の措置だ。アメリカ政府は一日も早く「伊達判決」をくつがえしたかったのであろう。
 内政干渉にあたるこの事実を、大使はワシントンのダレス国務長官(当時)宛て「極秘」電報で報告している。国務省は日本では外務省にあたる政府機関だ。

「今朝八時に藤山と会い、米軍の駐留と基地を日本国憲法違反とした東京地裁判決について話し合った。私は、日本政府が迅速な行動をとり、東京地裁判決を正すことの重要性を強調した。…略…私は、日本の法制度のことをよく知らないものの、日本政府がとり得る方策は二つあると理解していると述べた。
 1.東京地裁判決を上級裁判所〔東京高裁〕に控訴すること。
 2.同判決を最高裁に直接、上告〔跳躍上告〕すること。
 私は、もし自分の理解が正しいなら、日本政府が直接最高裁に上告することが、非常に重要だと個人的には感じている。…略…藤山は全面的に同意すると述べた。完全に確実とは言えないが、藤山は、日本政府当局が最高裁に跳躍上告することはできるはずだ、との考えであった。藤山は、今朝九時に開かれる閣議でこの上告を承認するように促したいと語った」
(新原昭治氏・布川玲子氏訳、『砂川事件と田中最高裁長官』布川玲子・新原昭治編著
 日本評論社 二〇一三年)

 外国の一大使が密かに、駐在先の独立国の外務大臣に対して、その国の裁判所で下された判決内容に不満があるから、それをくつがえすために迅速な異例の跳躍上告をうながす――。事実上、跳躍上告を迫っているともいえるその行為は、露骨な内政干渉、主権侵害にほかならない。驚くべき事態だ。
 この「極秘」電報はじめ以下一連の秘密電報(公文書)は、日本への米軍の核持ち込み密約など日米密約問題に詳しい国際問題研究者の新原昭治氏が、二〇〇八年四月、アメリカ国立公文書館で発見した。アメリカの情報自由法(情報公開法)にもとづき秘密指定解除のうえ公開されたものだ。
 なお、アメリカ政府の解禁秘密文書に見られる文書の秘密区分は、機密度の高い順から「機密」(トップ・シークレット)、「極秘」(シークレット)、「秘」(コンフィデンシャル)、「部外秘」(オフィシャル・ユース・オンリー)に分類されている。

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*田中耕太郎
 (たなか・こうたろう)
 一八九〇年、鹿児島県生まれ。一九一五年、東京帝国大学法科大学を卒業後、内務省に入ったが、研究生活にもどり、同大教授となる。四五年、東大教授を兼任で文部省学校教育局長となり、学制改革に取り組む。翌年、第一次吉田茂内閣の文部大臣に起用される。四七年一月の内閣改造で文部大臣を辞任。同年、初めての参院選の全国区に立候補して当選。緑風会に所属し、文教委員会委員長を務める。一九五〇年三月、吉田茂首相の推挙により第二代最高裁判所長官に就任し、六〇年一〇月まで務める。任期中、砂川事件裁判や松川事件裁判など戦後史上の重大な裁判に裁判長として関わる。
 六〇年一一月に国際司法裁判所判事に就任し、オランダのハーグに赴任、七〇年二月まで務める。七四年に死去。

*ダグラス・マッカーサー二世
 一九〇八年、アメリカのペンシルベニア州生まれ。第二次世界大戦後に日本を占領した連合国軍の最高司令官マッカーサー元帥の甥。イェール大学を卒業後、一九三五年に国務省に入省。五三年にアイゼンハワー大統領の要請で国務省参事官としてダレス国務長官を補佐し、一連の外交活動に関わる。
 東南アジアにおけるアメリカ中心の反共産主義陣営の軍事同盟で、タイ、フィリピン、パキスタン、オーストラリアなども参加して一九五四年に成立した、東南アジア集団防衛機構(SEATO)条約の策定に関与した。五七年二月から六一年三月まで駐日大使を務め、日米安保改定交渉を担当。
離任後は駐ベルギー大使や駐イラン大使などを歴任した。九七年に死去。

*伊達秋雄(だて・あきお)
 一九〇九年、大分県生まれ。京都帝国大学法学部卒業。三三年に判事となり、新潟地裁や東京地裁の裁判官を歴任。五九年、東京地裁での砂川事件裁判で、「日米安保条約にもとづく米軍駐留は憲法九条違反」という画期的な判決を言い渡した。後に「伊達判決」と呼ばれる。
 一九六一年に退官後、法政大学教授(刑法専攻)、弁護士。七二年に沖縄返還をめぐる日米密約を暴露した毎日新聞の西山太吉記者の「外務省機密漏洩事件」弁護団長も務めた。市民団体「国民総背番号制に反対しプライバシーを守る中央会議」の代表にもなった。九四年に死去。

*藤山愛一郎(ふじやま・あいいちろう)
 一八九七年、東京生まれ。慶応大学政治学科中退(病気療養のため)。新興財閥「藤山コンツェルン」の二代目総帥。日東化学工業(現三菱レイヨン)社長などを歴任した。日本商工会議所(日商)会頭も務める。
 一九五七年、岸信介首相に請われ、財界から政界入りし、外務大臣や経済企画庁長官を歴任。五八年から六〇年にかけて、日米安保改定交渉にあたる。六〇年の岸退陣後は、自民党総裁選に出馬したが敗れる。党内で藤山派を結成し、佐藤栄作政権時代も総裁選に挑んだが、敗れた。中国と
の国交回復や貿易促進にも尽力した。七六年、政界を引退し、八五年に死去。


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『日米安保と砂川判決の黒い霧
―最高裁長官の情報漏洩を訴える国賠訴訟―』

吉田 敏浩 著
定価:1,500円 + 税

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