04話-白虎隊士中二番隊を追う
みちのくのエスカルゴ号車旅
4日目 2022.04.11 その1
飯盒炊爨と民の竈(かまど)
猪苗代湖畔に朝がやってきた。気持ち良い目覚め0500。昨夕の残りご飯で御粥にして頂く。
残りと書いたが残りではない。計画的に朝食分を分けていた。
山歩き用ジュラルミン製コッフェルで炊けるのは1合だ。飯盒だけに、私は一食に半合です。”ここ笑ってくださいね”、”失笑かも”
半合でも美味しく炊ける。少量をこんなに美味しく炊けるのはこれしかないと思ってる。水は節約したいのでもちろん無洗米。美味しいので家でもコッフェル炊飯することが多い。キャンプでは朝は忙しい半合残っていれば私には十分だから夜に1合焚くことも多い。
家のガスコンロだと空焚き防止の火消し機能がある。火力最小でその火消し機能が作動するまでほっておく。それが最適のタイミングなのだ。火が消えたらコッフェルをさかさまにして蒸らしたら、安定していつでも美味しいご飯がいただける。
山登りや車旅では自動消火は使えない。これは蓋からの沸騰水滴の漏れぐあい、湯気を通し聞こえてくるチリチリカンカンという乾いた音、そして気持ちお焦げの美味しそうな匂い。そこで火をとめるのだ。
電気炊飯器が一般的になるまでは、みなそうやって焚いていた。父母は戦争で焼け出され、神戸を離れ明石に造られた応急住宅に住んでいた。私はそこで生を受けた。敗戦から7年だがまだ上の写真のようにして生きていた。
炊飯の燃料は薪だった。家の中で薪を燃やすと煙むたく、狭い路地に面した軒下でご飯を炊いていた家も多かった。薪割りの手伝いもした。幼くてあまり足しにはならなかったと思うが、そんなことも思いだした。
仁徳天皇の「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」の御製を実感を持って理解できるのだ。ここを覗いてくれる方々は十分御存じだが、その故事にふれておく。
仁徳天皇が高台に登ってみると、人家の「かまど」から炊煙が立ち上っていないことに気づかれました。そこで租税を免除し、民の生活が豊かになるまでは、お食事も着るものも倹約され、さらに、宮殿の屋根の茅さえ葺き替えされませんでした。上の御製はその2年後、人々の暮らしむきが良くなったことを御喜びになったときのものです。だが仁徳天皇はこれからもう一年租税を免除されたのです。世界でこのような為政者がいたでしょうか。これが日本なのです。
逆さ磐梯山の美しい猪苗代湖キャンプ場を出発だ。今日の新しい、そして古い歴史との邂逅の予感にどきどきわくわく。ただそれはとても辛いことになるのも分かっていた。下の写真はこの日のツアー行程の全容だ。今回はこの行程の半分を紹介したい。
また、この note に張り付けた写真はタップやクリックすると拡大表示され、戻りたいときは上部の✕を押せばよいので適宜活用していただきたい。文字も読めるようになると思う。
キャンプ地を出、昨日も寄ったセブンイレブン会津湊店で糧食調達。40L冷蔵庫はあるが、少量を何時でも何処でも買い足せる流通形態はたいへんありがたいことです。ありがとう。
さてそこからが今日の本番だ。
先ず動画を見ていただこうと思う。下においた動画は上の俯瞰図(上部12時が北)で、会津レクレーション公園のすぐ南、山形に「くの字」になった付近から始まる。信号で止まり左折した地点から戸ノ口原への直進経路。これが新政府軍の猪苗代湖北側からの会津侵攻軸だ。新政府軍は会津盆地の4周の好きなところから攻撃できる外勢作戦としての自由度をもつ。
一方会津藩は4周から圧迫を受けており、しかも味方であるはずの親藩に対しても疑心暗鬼の中、戦闘力を分散しなければならなかった。内勢作戦の難しさだ。情報と機動力がなければ如何ともし難く、歴史はそうなった。
それに史跡としての戸ノ口原古戦場跡は前方に過ぎるようだ。実際の防御線は500mほど後方の大野原池から大窪山に連なる制高点を背に守ったはずだ。だが寡兵であるならば南側からいくらでも迂回し包囲される地形だ。実際会津藩は、まともな組織的防御戦闘はなし得ていないのではと感じてしまう。
寡兵であるならば、ざっと地形を見た限りでは、2km 西に下がった、上俯瞰図の沓掛の台で闘わせてやりたいと思った。
藩主松平容保公の警護任務を解かれ、この地に急遽戦闘加入を命ぜられた白虎隊士中二番隊。この引率指揮官は、私の昔読んだ記憶で語って申し訳ないが、急遽派遣されたため糧食なく、(そこでしかたなく?あろうことか)指揮官自身が糧食調達に後方に下がったと理解している。なんと惨いことか。指揮官なしに歴戦強兵の新政府軍と相い対したのだ。
白虎隊は会津藩士の子息のうち満16~17歳で編制された。これに満たない年少の児らも年齢を偽り参加し、あるいはやまれず最後に編成された年少組もあった由。
ところで沓掛だ。昔の人々は沓掛の地で草鞋(わらじ)を交換した。使った草鞋をそこに掛けおき新しいのと交換する。沓を掛ける場所が日本各地で沓掛と呼ばれており、その代名詞が固有の地名として残っているのだ。沓掛は国境の峠に置かれ、通過してきた土地で拾ってきた悪霊をそこで捨ておき、次の地域にそれを持ち込まないとする意味がある。立派な防疫の教えなのだと思う。中には新しい草鞋を予めもてなしとして掛けておき、往来者に使わせた地域もあったと聞く。
先ほどの動画だが、最後の方に会津バスがでてくる。そこは一箕町大字金堀あたりだが、この周辺も闘いが地域の中に記憶されているかに見える。組織的な戦闘かなわず、会津へ撤退する過程で敵味方入り乱れた闘いの様子が脳裏に去来する。
この地形を巧みに活用すれば、もっともどのみち敗北を免れることのできぬ「態勢」であり、時のすすみよう「趨勢」であったに違いないが、史実に起きたような残念一辺倒な敗北ではなく、一矢報いることはできたであろう。
気になったこの地形なのだが、私が車でそして徒歩で移動した GPS時歴がここだけ途絶えている。別にトンネルがあったわけでもなく、GPSが受信できないような急峻な地形の影でもない。動画で見ていただいたとおりの地形なのに。上の俯瞰図で赤で示した移動時歴が途切れているのはそう云うことだった。
戸ノ口原をなす術もなく抜かれ、会津の守備部隊は西に敗走する。戦に手慣れた歴戦の新政府軍は当然追撃する。敗走軍は会津城へ、いや当面は会津盆地東側の壁、戸ノ口原方向から会津盆地に侵入する敵をくいとめる、最後の砦としての緊要地形である飯盛山に集結したい。
敗走軍は戸ノ口原から沓掛の谷に逃げ飯盛山を目指す。追撃部隊もほぼ同時にこの谷に雪崩れ込んだであろう。その先の金堀に会津藩士11柱の墓がある。この細い谷の西への出口をわずかの時間でも封じることができるのであれば、敗走部隊は飯盛山に辿り着ける。そこで部隊の再編成をして防御戦闘を継続してもらわなければならない。11士はその時間を稼ぐためここを死地と選び奮戦したのであろう。彼らの墓標に遅い朝日がふりそそいでいた。
4日目 その2 へ続く
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