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07話-米沢と萩から見える藩校の意義

みちのくのエスカルゴ号車旅

5日目 2022.04.12 その2

 エスカルゴ号みちのくソロ旅5日目その2だ。

 米沢についた。
 エスカルゴ号を街東部、最上川沿いの大きな駐車場に置き、徒歩移動すると計画していた。晴天でよかった。

 最上川は北に向かって流れ、山形、天童そして新庄で流れを西に変え、庄内、酒田を経て日本海にそそぐ。それに沿った流通があり経済圏と政の体制ができあがっていったことだろう。

左上:山塊を左に行けば福島、右奥に行けば喜多方から会津へ       
左下:駐車場の一番片隅にポツンと置いたのに朝食中みるまに車が埋ってゆく

 寒いのに冷や汗かいた雪中の舘山城址から松川河川敷駐車場に移動。この駐車場、舗装と未舗装地の広いスペースがあり無料で開放されている。目検討で400両は停められるだろう。
 ここに着いたのは0730、朝の通勤時間帯ですでに100台ほどが駐車していた。それが午後に米沢散策から戻ると300台ほどが停められている。市民の通勤手段として利用されているようだ。便所もあったがコロナ対策として、午後の時間帯も引き続き閉鎖にされていた。河川敷公園の一画でジョギングや散歩を楽しんでいる人も多く見かけたが不便だろうなと思う。外気の流れる場所なのに。

黄色が米沢散策徒歩経路

 駐車場から右回りで米沢を歩くことにした。黄色がその歩行経路だ。先ず山形大学へ向かう。

 そこには米沢藩校興譲館の伝統を受け継ぐ、旧米沢高等工業学校本館を保存した記念館がある。明治43年のルネサンス様式木造建築物で、その後、昭和19年に米沢工業専門学校、昭和24年には山形大学工学部となり現在に続いている。 歴史に誇りをもちそれを継承する人々に敬意をいだく。 そんな国は強く美しい!
 そしてなによりこの時代の、この奥まった盆地の小都市に、規模といい芸術価値といい、このような建造物を建設した人々の心意気に圧倒される。

旧米沢高等工業学校本館の記念館
明治43年のルネサンス様式木造建築物だ

 米沢藩校興譲館はここだけでなく、むしろ山形県立米沢興譲館高等学校(⇦同校リンク)に色濃く伝承されているのかもしれない。

米沢と長州の吉田松陰

 藩校の連想で思いだしたが、米沢には吉田松陰が訪ね来たことがある。

 松陰は長州藩の許可を得ず、喫緊の国防問題見分のため陸奥の視察旅を行った。このときの青森からの南下行程で、長崎で出会った友人米沢藩士高橋玄益と会おうとして米沢に立ち寄った。

 だが藩主の江戸参勤交代出発直前の時期と重なり、高橋との面会はかなわなかったが、かわりに精細な米沢藩観察をおこない記録している。その内容は3日の滞在で、無許可で旅に出たことで脱藩藩士となってしまったその身分で、よくもそこまで調べたものだとの評価があるようだ。

 観察力の優劣はそのまま、それをなした人の評価であることに気づくのだ。それで赤面の至りでこれを書いている。
 2006年に松陰の萩を旅したとき、かくも狭き地が、かの人々を輩出したのかと震えたが、米沢もまた戊辰戦の敗北を跳ね返し、後世に残る人物を出している。

藩校の存在意義

 萩の地も藩校だった明倫館を今でも大事にしている。その跡は明倫小学校となり、いまでも朝礼で松陰の言葉を朗誦している。
 例えば1年生の1学期では
今日よりぞ 幼心を打ち捨てて 人と成りにし 道を踏めかし」と

 下校時に校門からでてくる少女の一団とすれ違った。

長州萩の藩校明倫館跡、明倫小学校

 こんにちは~ ここはどこですか と問うと
 めいりんしょうが~っこ~う と元気に答えてくれた。
それで きれいな建物だねと ふると、松陰先生の明倫館だったんだよ~、 と教えてくれた。
 そう吉田松陰が11歳にして教鞭を執った藩校明倫館だ。

 学期ごとに松陰先生の新しい言葉を朗誦していく現代の明倫小学校。
 曰く、
 誠は天の道なり 誠を思うは人の道なり
 至誠にして動かざるものは未だ之れあらざるなり
 誠ならずして未だ良く動かす者はあらざるなり」
等々と
 人格形成に大事な幼いころからこのような言葉の洪水は羨ましい。かの地ではその後、どんな人物を輩出してきたのだろうか。米沢もまた。

祖国を想う心と教育

 私は兵庫県明石生まれだが、廃藩置県に加え先の敗戦で焼け出されて流れ着いた地だ。そこは政の中枢が近く、地域の強い意志を表にだすと翻弄されて生きていけないとする民衆の知恵なのか、土地の歴史や先達を大事にして伝承するような、そんな風潮は少なくとも小中学生の私の身の回りにはなかった。

 15歳で陸上自衛隊の生徒課程「少年工科学校(現少年高等学校)」に入隊/入校した。同期生500余名が全国から集まった。中央から東西問わず、外側の地から来た同期生達の郷土愛の強さに腰を抜かした。

 居室は1個区隊(区隊とは学校◯年◯組の組にあたる)40数名が同室で2段ベットがひしめき合っていた。ハンモックでないだけ仕合わせだろうと。その建物は旧海軍の兵舎そのままだったから、そう言われた。
 プライバシーはない。
 ないから区隊長(学校で云えばクラス担任で、尉官が担任)はベッド編成について薩長と、奥羽越列藩なかでも会津とは近くならないよう配慮していた。時代ではある。

 自らを律し、家庭を大切にし、郷土祖先を思う同軸線上に祖国日本がある。祖国などという言葉を使うと顰蹙をかっていたが、敗戦から77年を経て、「祖国」日本が言葉としてようやく復権の兆しを見せている。

 「自らを律し、家庭を大事にし、郷土祖先」と書いた。これらを大事に思えないで日本を大事には思えないであろう。

 日本が敗戦後に行ってきた教育。つまり我々が受けてきた教育の、その体制は出発点から再び負けるよう仕掛けられていたと云ってよい。
 祖国日本のために、先ず自らを律し家庭を顧み、郷土先達を思いだすところから、日本を取り戻さなければ、世界史で唯一変わらず繁栄を続けてきた日本国が消滅してしまう。本気でそう心配している。

抑止力の意義

 ジョン・F・ケネディの大統領就任のとき、記者団のインタビューで、日本人記者に「日本で尊敬する政治家は誰か」と問われ、ケネディは(米沢藩主「上杉鷹山」と答えた。私が11歳のときのことだ。

 その翌年、ソ連がキューバに核ミサイルを配置を企図し、核を積んだ輸送船団がキューバに近づいていた。それが配備されたらならば、米国は匕首(あいくち、短い短刀)を首に突き付けられた状態に陥ってしまう。ケネディは海上封鎖し、船の国籍に関係なく臨検を開始した。未だ後方にあり、それを知った核搭載ソ連船団は引き返した。核戦力はソ連のほうが勝っていたとされる時代のことである。

 核でソ連が勝っていたとはミサイル技術のことである。

 ミサイル技術に劣っていた米国はどう対抗したか。西ドイツに核を搭載できるF-86戦闘機を配置した。報復用の核戦力だ。ソ連が核を使ったら報復に東西ドイツ国境沿いに展開されたF-86戦闘機隊が一斉出撃してモスクワを核爆撃できる態勢を整えた。あんな小さな戦闘機に核を搭載しモスクワまで飛んだら、帰投の燃料が不足する。だが本気度を伝えるため全機発進出撃させる訓練を抜き打ちで頻繁に行った。

 テストパイロットの草分に米国のチャックイエーガーがいる。彼は欧州戦線ででエースとなった人だが、そこで撃墜されたことがある。仏レジスタンスの力を借りてスイスへ脱出した。
 このようにして帰還した兵士は帰国させるのが米国の慣わしだが、イエーガーはまた戦闘機に乗って闘うと意志を曲げない。彼が再び撃墜され独国の捕虜になってしまったとき、仏レジスタンス組織の情報がもれることが危惧され、なかなか許可されなかったが、根負けした当局は彼を再び欧州の空に送った。

 F-86戦闘機による「モスクワ作戦」はイエーガーの教訓が盛り込まれている。燃料が尽きたらパラシュート降下し万難を排し戻って来いと。そんな飛行隊の一つをチャックイエーガーが指揮していた。
 例の抜き打ち発進訓練で、彼の飛行隊の全機発進時間は驚異的に早く、検閲官や他飛行隊の度肝を抜いた。イエーガーのテストパイロット学校時代の知見を応用しただけだったのだが。

チャックイエーガーとF-86戦闘機

 国を守る気概と実質的な備えが、不幸な戦争を抑止するのだ。

 だがその侵略には関与しませんと高らかに、それも事前に宣言する馬鹿な大国の指導者がいる。笑止なことだが、我が国はもっと笑止であろう。

 当時のこの戦闘機隊の存在。またキューバ封鎖の断固とした処置。あるいは、この日の早朝に見てきた高舘の防御施設。これらは抑止力なのだ。太古の昔から隙あらば、掠め取ろう、奪い取ろうとする、そんな輩とそんな輩に率いられた集団や国がなくならないのは、人が作る社会の性であろう。お花畑で国は守れないのだ。
 自分より大事な家族そして父母、祖父母、連綿とそれらを育んできた郷里祖国を守るのは、そんな輩に損得勘定で攻めても損すると思わせる抑止力が不可欠なのだ。

 トロイアはお祭り気分で撤退した敵が残した木馬を城内に引き入れた。
 木馬内部に潜んだ兵は深夜に城門を開け撤退したはずの軍を引き入れた。トロイアは堕ちた。ギリシャ神話だがシュリーマンが発掘し史実であることを明らかにした。

トロイの木馬 Wikipediaから

 今の敵性兵力は木馬に隠れることもなく堂々と闊歩している。彼らは国防動員法で統制される。かの国でオリンピックがあったとき、日本の長野で起きた、かの国のための聖火リレー騒動を思いだすだけで寒気が走る。彼らは観光バスを連ねて集合し〇星〇旗が林立し騒動となり、あろうことか日本の警察は彼らの横柄を守った。
 かの国の国防動員法がこの国で発揮される日、あの日が平和に見えるほどのことが起きるであろう。彼らの家族はかの国にいる。だから彼らに選択肢はないだろうし、ありもしない我が国の非を幼児のころから叩きこまれている者たちなのだ。世界では反論しないのは同意しているととられる。わが国は長く反論も怠ってきた。話せばわかりあえる神話がまかり通っている。侵略者に対し、非侵略者が話し合いを希望して聞き入れられましたか。目を覚ませ日本。

 上杉鷹山公だった。
 破産していた藩の財政を立て直した。そのことを書こうとしてケネディ大統領を引いて思いが発散し、字数が過ぎた。その3に譲りたい。

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