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17話-仙台空港南外柵沿いに西へ
みちのくのエスカルゴ号車旅
8日目 2022.04.15 その2
陸上自衛隊航空学校岩沼分校跡地
岩沼市の皆さんの想いがつまった「千年希望の丘公園」をあとにして、陸上自衛隊航空学校岩沼分校跡地に移動する。仙台空港南外柵沿いに東西に走る道路なのだが驚いた。中央分離帯のある片側2車線の4車線道路ではないか。ここで訓練を受けていたころは、バスが離合するときなど徐行するほどの道路幅だったし、舗装はされているがガタガタで路肩は生の地面が見えていた。
そんな感慨に耽っていたら Uターンできる場所をやり過ごしてしまい、やっとのこと分校の営門跡に車を停め敷地をのぞきこんだ。
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写真に見える小さな小屋はそのまま倉庫だったが、その手前の警衛所の建物は撤去されている。
昭和47年(1972)ここに入校した。その3年後の国土地理院データがあった。岩沼分校は私が入校した翌年に宇都宮飛行場に分校ごと引っ越した。航空写真データはその2年後のものだが、既に人の気配がなく寂しく感じるのに、50年後の現地はいやおうなしに朽ちて見えた。もっとも陸自の訓練場として今も使われており整備はされているのだが。
航空写真では分校南の道路は2車線になり、道路南は工場が立っているが撮影された3年前は田畑や原野だった。
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岩沼分校庁舎は仙台陸軍飛行学校本部庁舎をそのまま使っていたが撤去され、今は更地となりぺトンで海上保安庁か電子航法研究所のエプロンの一部となっている。趣のある建物で好きだった。また勉学に励んだ教場や居室、トラックのあったグランドも更地になり一部他機関に割譲されている。
デッチングプールとおおげさに注記したのは、この稿を書いている昨朝Twitterで話題になったことと関係があったので特書きした。ただの防火用水槽を兼ねた小さなプールなのだが。
@uchujin17さんと「マッハ・タック」のことを話していた。そのながれで
「それやると手が浮いて操縦できなくなりますね。 F-86Fで空中接触し理解不能の回転をはじめ手が浮いてエジェクションレバーに手をもって行けなかった人から直接聞いたことがあります。飛行服の胸元をやっと掴めたので服を握りたどって腕をおろせて助かったと。僚機からもパラシュートが出てよかったと」と書き込んだ。
その話を聞いたのが件のプールで、海に不時着水やパラシュート脱出時の対応訓練を受けていたのだが、その担当教官が元86乗りで上の体験談を教示してくれた。その場所だった。あの頃は空自からの陸転パイロットや、元陸海軍パイロットが多くおられ薫陶をうけた。
消防組織法の壁 消防航空隊と防災航空隊
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航空学校岩沼分校跡地から空港敷地の西端に、仙台市消防航空隊と宮城県防災航空隊の格納庫が並んで建っている。東日本大震災ではそれぞれ仙台市内の別々の場所に、母基地とヘリポートをもっていたが、どちらも津波にさらわれてしまった。
新規に建設され仲良くならんだ両施設の標高は2~4mほどで、あの津波と同程度のものがきたら浸かるのではないか、と単純に想像した。浸水図(前話で使ったもの)にほぼ同縮尺にした航空写真を貼ってみた。非浸水の白区画に入るのかな?出来レース?千年希望に丘の堤防に託している?
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東日本大震災が平成23年。岩沼市が千年希望の丘構想を立ち上げ多くの市民が参加して1回目の植樹祭を行なったのが平成24年5月。両航空隊の仙台空港施設が完成し供用開始したのが平成30年だ。
津波堆積物などの痕跡から過去の地震や津波を調べる研究がなされているが、この地域には 3.11と同規模の災害が、規則性はないが概ね450~800年間隔で起きていると聞く。であればいま心配してもしかたがない、利便性ある仙台空港で当面運航させて問題ないとしたのだろうか。でも岩沼市が「千年先の君に伝えようとする理念」とは方向性が違うのかな。
ついでに消防組織の成り立ちの問題について言及しておきたい。
それは同じ機能のものが同じところにあって、でも拠って立つ組織は別物の、政令指定都市消防ヘリコプターと都道府県がもつ防災ヘリコプターの、それぞれの部隊編成や権限のことだ。この問題は書き出すときりがないのだが少しだけ。
①消防組織法は市町村消防の原則が貫かれている。
同法第6条
「市町村は、当該市町村の区域における消防を十分に果たすべき責任を有する」
②同法第20条の2
「都道府県知事は、必要に応じ、消防に関する事項について、市町村に勧告し、市町村長又は市町村の消防長から要求があつた場合は、消防に関する事項について指導し又は助言を与えることができる」
つまり知事は、市町村長に勧告、指導、助言はできるが責任は市町村長にあることにかわりはない。
②同法第36条
「市町村の消防は、消防庁長官又は都道府県知事の運営管理又は行政管理に服することはない」
上の36条を初めて読んだとき腰を抜かすほどに驚いた。
市町村消防が原則であるとする消防組織法は、敗戦後の昭和22年の法律だ。いくら改正されてきたと云っても、おそらくは明治大正の時代からそれに見合った日本の社会を支えるべき立法の精神が、色濃くこの消防組織法に引き継がれているのだと思う。その昔、大震災にあって遠方からなかなか助けに行けない。やっと行けたとしても地元の消防さんなどに仕切ってもらうのが一番いい方法だったのだろう。さらにはこの時期には、国軍も内務省もあった。
現代は大災害のとき、短時間に多くの人と物を集めることのできる時代となった。だが国軍はないし内務省もない。自衛隊は国軍だとは思いたいがポジティブリストの法体系でできることは限られよう。また内務省の代わりに大幅に権限を取り上げられた総務省を置いてはいるが、指揮命令系統はないと云ってよい。いまの時代にも昔と変わらず航空の分野まで、市町村消防の原則を貫いていてよいのかと問うているのだ。
政令指定都市のヘリコプターは、市町村消防の原則で、市長は思い通りに運用できる。だが都道府県のヘリコプターを持つ知事は、市町村長にヘリコプターの助けがいらないか「お伺い」する。つまり知事は市町村長を「支援することができる」のであり、その支援のために両者は「協定することができ」、「都道府県の規則で消防航空隊」を設けるのだ。「することができる」のは「できなくてもかまわなく」、県の規則で設ける消防航空隊に国は直接にはかかわらないと、法律体系は語っている。
概して自ら主体的に行動できる環境にある消防航空隊の隊員は、威勢がよく目が輝き、防災航空隊のそれはそうではないように感じる。同じ津波を受けて一方は空中退避でき、一方は水没した。案外こんなところにも遠因があるような気がしている。
法体系だがこれらは民主主義の手続きによって、国民が決めたことで是非もないことだが、それがおかしいと思う国民が少なすぎることが悲しいのだ。
実は仙台空港を離発着する飛行機を眺めながら遅い朝食をとろうと、岩沼分校跡から西に位置する空港公園に向かっていたのだが、その公園の東隣に建てられた新しい防災航空拠点をみて想いが発散してしまった。
自分の旅に戻ろう。
スリランカからの青年
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空港公園で朝食の準備をしていたら、外は寒いのに薄着で飛行機を眺めている青年がいた。話しかけてみるとスリランカからの青年だった。東日本航空専門学校に今日入校すると云う。
遅れたらいけないと早く着きすぎて、好きな飛行機を眺めにきたと。
目が輝いていた。上の写真は画質を落としているが伝わるだろうか。目の輝き。失いたくない大事な美徳であると思う。自分も大事だが、同時に人のために生きるとする気概が目にあらわれるのだと思っている。スリランカの青年の目には祖国のことが宿っていいるように感じた。
寒いからエスカルゴ号に入って暖かいコーヒー飲まないかと誘ったのだが断られた。遠慮している風であった。そこもよき日本人をおもわせるスリランカ君だった。
竹駒神社へお礼参り
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操縦学生として岩沼分校赴任の翌日だったか、住所変更の手続きに引率されて市役所に来た。その隣に竹駒神社があった。引率教官がこれからのパイロット人生を祈念してきてはと時間をくれた。
神社の南には阿武隈川が大きく蛇行し、南から東へ Uターンするように太平洋に注いでいる。竹駒は古くは「武隈(たけくま)の里」であり、もっと昔は「阿武隈」(平安時代の古文書)で「阿」がとれ「武隈(たけくま)」が「竹駒(たけこま)」となったのだと。京都伏見稲荷の流れを汲む。
昭和47年(1972)8月15日操縦学生として初めて操縦桿を握って以来、平成28年(2016)10月20日に44年にわたるパイロット人生を、祝福され区切りをつけることができた。
今回はそのお礼参りでもあった。
未だ時刻は1030。友人とは1200に会う約束をしていた。ここでは彼のハンドルだった朱雀くんと呼ぶことにする。多賀城に向かう。
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