09話-米沢城に流れし時
みちのくのエスカルゴ号車旅
5日目 2022.04.12 その4
みちのくソロ旅5日目の1030時、鷹山公籍田の碑を後にして米沢城址に向かう。早くもお腹が減ってきたことは書いた。旅に出て外食もしてはいるがタイミングを失することも多くエスカルゴ号車内での喫食も気に入っている。妻からはその土地土地の美味しもの食べなさい、米沢なら米沢牛やなんたらがあるでしょう、と指令が飛んできている。なんたらはわからず、米沢牛が頭の中でクルクルまわってる。今年72になる。食事の量は意識して減らしているが食欲は衰えない。
最上部に置いた絵図は城址公園に掲げられていたもので、「享保10年(1725)米沢城下絵図」をもとに書かれたものだ。まことに美しいし今もそれが伝承されている。本丸に館はあるが天守はない。
また絵図では本丸を直接に囲む内堀のすぐ外に、二の丸が薄く内堀を囲み、その外周をまた堀が囲うという、そんな城造りであることがわかる。二の丸の外側の堀は今はない。
上のGoogleEarth立体図を拡大したら読めるとおもうが、本丸位置に松が岬公園と表示されている。こんな奥まった盆地のしかも平地に「岬」の地名は理屈にあわない。
調べたら松ヶ岬城と呼ばれていた時期があったらしい。
秀吉の奥州仕置
このシリーズ
05-エスカルゴ号23日間の陸奥ソロ旅 4日目 2022.04.11 その2(リンク)
で、会津若松城のことを鶴ヶ城とも呼ぶことを書いた。時の城主蒲生氏郷(がもううじさと)の幼名が愛称となったのだが、氏郷はなぜここにいたのか。それは秀吉の小田原の陣につづく奥州仕置の一貫だ。
伊達政宗はこのとき秀吉に恭順してはいたが、それで放置しおく秀吉ではない。政宗が攻略し居城にしていた会津若松城を取り上げ蒲生氏郷を入れ、それで政宗は故郷の米沢に下がったが、その米沢城にはさらに氏郷の筆頭家老蒲生郷安を入れた。政宗は秀吉の命で仙台北の岩出山城に移封される。爾後、広大な仙台平野を手中にする足掛かりであり、ありがたい仕打ちであったろうと思う。秀吉にそうさせたのは転んでもただでは起きない、したたかな政宗の政治手腕があったのかもしれない。そう思いたい。
米沢城の「松ヶ崎城」呼称のことだ。
奥州仕置で政宗監視のため米沢にまで版図を広げた蒲生氏郷だが、信長に信頼され、秀吉には能力の高さゆえ警戒されてもいた武将だった。秀吉にとって2人を北に押しやり枕が高くなったかどうか。
氏郷の父は六角承禎の重臣だった。だから氏郷配下の郷安も琵琶湖畔の出で松ヶ岬が故郷と云う。それでその名を付けたと伝承されているらしい。会津城でやったことなら、その筆頭家老が米沢城でやったとしても不思議はない。ただ近江にその地名があるのかは、わたしには不明だが。以前地名を変えるな、地名が消えると歴史も消えると書いたのはこんなことだ。
上杉茂憲伯爵邸で昼食に米沢牛
米沢城の内堀の南から撮った写真が下だ。
この右手が北で本丸がある。赤い橋がかけられている。二の丸を守る外側の堀は今はない。そしてくの字に曲げられた南門の守りもない。
そんな場所で、桜の時期にはほんの少し早いが桜祭りの準備が進められているようだ。
写真の左手、二の丸にあたる場所に、上杉茂憲(もちのり)伯爵の館が建てられている。
茂憲は米沢最後の藩主で後に伯爵に列せられた。戊辰の役で敗れた藩主だが。徳川慶喜公をはじめ敗戦側の頭は、すべて調べていないので印象で書くが、概ね生き残り、後に座り心地はよくなかっただろうが、栄達している。そして責任は家老などが肩代わり?して腹を切っている例が多いと思う。これが日本の形なのかもしれない。
その伯爵邸は公開されており食事もできる。邸内の客は私一人であり、ゆっくり寛がせていただいた。管弦楽編成の喜遊曲が静かに流れていた。この邸は鶴鳴館と称されていた。鹿鳴館の存在と合わせ思えばそんな音楽もありかもしれない。
そう米沢牛のことを松ヶ崎公園の通り道に特だししていた。そんな逸話があったんだと下に示しておく。興譲館はこんなことにも役立った。牛萬との牛肉店は見つけられなかった。今はないのかもしれない。
米沢城
米沢藩の藩政を立て直したのは上杉鷹山だった。
米沢城の伊達政宗は岩木山城に移封されたあと、蒲生氏郷の家老蒲生郷安が入り、その後会津城蒲生家のお家騒動で宇都宮に移封された後の会津城に上杉景勝が入り、同時に米沢には景勝の武将直江兼続が入った。
だが関ヶ原の敗戦を受け景勝は120万石の会津から30万石の米沢に移封された。
従って米沢の初代藩主は上杉景勝で、鷹山は(養子だが)9代、最後の茂憲伯爵は13代となる。
米沢城本丸跡に上杉神社がある。上杉謙信が祀られている。
謙信公の遺骸は景勝公(謙信の養子)により春日山城から会津経由で移され祠堂に安置されていた。
九里学園高等学校
さて龍泉寺に向かおうとしている。
その経路上でであったこれもまた美しい建物だ。現役の「九里学園高等学校」(⇦リンク)で昭和10年の木造校舎。創立者は「九里とみ」(⇦リンク)でこの時代に女性の教育を行っている。
現代の同校は共学だが、中に共学のコースと男女別クラスのコースが並立しているようで、この取り組みも興味深い。
龍泉寺に眠る会津藩士
龍泉寺についた。
戊辰の役、会津藩士の話しに戻りたい。
新政府軍の北上をうけ、会津は米沢藩の援軍を希うた。会津藩士堀粂之助は藩名により、8月23日会津を発し9月3日米沢に到着し援兵を求めたが、下図(全国史跡巡りと地形地図サイトから)のように情勢は変わっており断られてしまった。
宿舎に戻った粂之助は、
神かけて誓ひしことのかなわねば
ふたたび家路思はざりけり
と辞世をのこし自刃した。米沢の龍泉寺に眠っている。
さあ身辺整備の時間なり
河川敷の駐車場にもどった。
ブログでは4日もかかってしまったがいまだ1330。05時起床だから活動は8時間ほど。やはり米沢はこじんまりした美しい小都市だった。
博物館も縄文の遺跡にも行きたい思いはありますが、まだ先も長い。何をあきらめて何をとるか。これも人生と同じだね。
冷えたリンゴとコーラで小休止。
コーラね、ここ数年いやもっとかな飲まなかったんです。この度で解禁したら次々に飲みたくなってしまう。
郊外北のコインランドリー併設のマーケットへ移動し、この旅初回の選択だ。そのあいだに食材など買い物し、もどったら洗濯物はふっかふっかに乾燥完了!
温泉と寝床へ移動だ。温泉は1740!みちのくの泉質は気に入りだ。
この日の
車移動距離 60km 歩行移動距離 10.1km 17045歩