自己紹介(期間限定)
初めまして。占い師のさいみょうです。
今回は、私のプロフィールについて細かく書いていこうと思います。
まず、年齢は2024年の現時点で44歳です。
1980年2月10日17時55分に北海道札幌で生まれました。
小中高と公立で学んできましが、大学は北海道情報大学という、IT系の専門学校に近い感じの学校に通っていました。
夢を抱いて故郷を離れる
本来であれば、IT系の企業に就職するべきところなのですが、当時から直感で物事を決めてしまう傾向があり、就職活動の末、大手飲食のチェーン店に就職することにしました。直感はあったものの、大学で学んだ経営学や卒業研究のリーダーシップのことも興味があり、お店の店長というものに憧れていた部分もあります。そして、北海道を出てみたいという思いもあり道外の会社を選びました。『店長になって地元に帰る』という夢を抱いて、地元を後に愛知県からの勤務となりました。
その就職させて頂いた企業というのは、ファミレスのガストやバーミヤンを手がける飲食チェーンの大手、株式会社すかいらーくという会社で、さまざまな仕組みが整っておりとても勉強になりました。私は、その中で、バーミヤンという中華料理の業態に入り、調理・接客・従業員の育成・店舗の管理などを学んでいきました。日本各地を転々として、この企業・この業界にとっては遅めの30歳という年齢で店長になりました。正直いうと、かなり落ちこぼれでしたね。ちょうど、その頃の出会った女性と結婚をしました。
夢の実現、そして
そして、5年ほど経ち念願の北海道への移動が決まりました。両親に店長として働いている姿を見せることが出来たので、仕事を続けていて良かったと思いました。当時、こっそりと両親が来ていたことがあったようですが、私自身気づきませんでした。その両親ももう他界しているので良い思い出です。
地元での生活は2年ほど続けましたが、想像しなかった事態が起こりました。私の嫁が、北海道の地域性に合わなかったんですよね。30年間住んでいた場所から離れるので当然なのですが、その時は、衝撃でした。
ということで、15年勤めた会社を辞め嫁の実家の香川に引っ越しをして、営業職に就きました。
恐ろしいくらいに向いていなかったです、営業が。
1年は続いたのですが成果もなく、メンタルも多少やられていたので、退職しました。ちょうど、知り合いのカレーのCoCo壱番屋のオーナーからのスカウトがあったので、そちらにお世話になりました。飲食の経験が長かったおかげで、3ヶ月ほどで店長にさせて頂きました。
感じる憤り
店長と続けていると、拘束時間が長かったり、勤務時間、睡眠時間が不規則だったりします。そして、急な欠員にも自分が穴を埋めなくてはならないのです。
自分自身、欠員が嫌なのでそこは一番に力を入れていて部分でした。なのでその職場でも、欠員を充足させてお店運営も安定させていたのですが、オーナーからは私自身がもっと勤務するようにと指示がありました。
以前の職場でも、拘束時間が長く不規則なところが嫌だったので、自分の人生がこのままではいけないと思い、副業を始めました。
副業へ向けて
最初に目をつけたのが、プログラミングでした。『副業で月3万を稼ぐ』という動画が気になり、勉強を始めました。このプログラミングで何をするのかというと、企業や個人事業主から、依頼を受けてホームページを作るというものです。学んでみると、大学の学びを思い出したり面白いと感じる部分はたくさんありました。ただ、実際にホームページを作ってみると不具合が多く細かいことが苦手なことを痛感しました。
一年ほどプログラミングの学びを続けて、その当時の会社を辞めて転職しようと決めました。キッカケは、拘束時間と収入が大きなところでした。勉強がしたいが時間が取れないということに焦りもありました。
IT系の企業になんとか就職をと思っていましたが、現実はそう甘くはなかったです。というのも書類選考で落とさせるんですよね。それは、40歳近くでほぼ飲食経験のみなので当然と言えば当然ですね。とりあえず、どこかに入らなくてはと思い、複数のフランチャイズを持つ企業で働くことにしました。その中でステーキ屋の業態での勤務が決まりここでも、3ヶ月後から店長という立場で働くこととなりました。
副業の方向転換
プログラミングの勉強もコツコツと続けていましたが、YouTube動画やTwitterなどで、IT関係についても情報を集めていました。
その中でも『40歳以降は管理する立場になり、プログラミングに直接関わらなくる』という現場の意見を見つけました。正直、厳しいなと思った矢先、視力が急に落ちるという事態が起こりました。最初は、ステーキ屋なので煙を浴びすぎたかと思っていましたが、明らかに片目だけ視力が落ちていたのです。病院で検査を受けたところ、眼球に穴が開いているというまあまあ大変な事になっていました。レーザー治療で完治はしたのですが、多少視力が落ちてはいました。
などなどの不安要素を持ちつつ、学習は続けていました。YouTube動画で情報収集する中で、スピリチュア系のものを見ることもありました。その中の広告なのでしょうか、占いの講座を見つけました。自分を占い自分に貸せたらという軽い気持ちで、特に占い師になろうとは思っていなかったです。
そこから徐々に学びが、プログラミングから占いにシフトしていったのです。
2年が経ち、気づけばメインの学びはすっかり占い中心となっていました。
本職も異動で、さらに従業員が足りないお店ではありましたが、占いのモニター鑑定も50人を超えるくらいになってきました。だいぶ慣れてきたと思う反面、何かしっくりこない感覚があり物足りなさを感じていました。
占い師の勉強仲間から、四柱推命の講座あることを聞き、あまり深く考えずに受けてみました。面白そうで、はっきりしていると感じました。
『よし、取り入れてみよう』と思い勉強に励みました。モニター提供をすればする分だけ、自分自身に納得感が出て鑑定自体もブラッシュアップしていきました。今となっては、メインの占術が四柱推命となっています。
一大決心させられた?
今年2024年4月より、本職であった飲食店での正社員を辞めて、占い師としての人生をスタートさせることとなりました。辞める直前で占いでの収益が発生したり、
電話占い会社に所属という形と、メルカリで個人業として、まだまだ駆け出しの身ではありますが、占いを提供し、相談者さんに寄り添い、お悩み解決に取り組んでいます。
このように良いスタートを切れたのも、遡る事2年前の苦悩があったからに他ならないです。当時は、勤務時間が300時間を超え、休憩も取れず12時間以上の日もあるほど絶望的な状態、なんと、ヘルプを懇願するも無反応、せめて謝罪や労い、確認などのやり取りが欲しかったです。一度だけ、幹部の方々がみえられましたが形だけのもの。もう、続けるべきではないと思いました。
社員全員が集まる全体会議があったのですが、そこで、社長との面談がありました。『ちょんまげ!!』と突如、怒りを露わにしました。
その時の髪型が、サイドを刈って上部の髪を束ねるマンバンと言われる髪型、確かに今思えば社会人としては問題ありでした。そのくらい疲弊もしていたのかもしれないです。その時の会話で覚えているのが、『そんな髪型をしていいのはフリーランスくらいだ!』と言っていたことしか覚えていないです。『そうか、フリーランスか。』そうしようと自分の中で、決心が固まりました。そして日を改めて、今年度で退職させて頂くという旨をお伝えしました。確か5月なので、退職までかなり日があったと思います。
結果的に、社長の言葉が私を現実的に動かすこととなったので、今となっては感謝でしかないです。それがなければ、今もその職場で働いていたと思います。
今の生活
占い師を始めたとはいえ、まだ1年目。
本当にこれからという感じで日々壁にぶち当たっています。自由になるって、責任を背負うことと実感中であります。そして、より高みを目指していこうと思います。占いの知識にしても、対話する上で必要なセッション力、相手に響く文章力と磨くものがたくさんあります。それらについての行動・気づきも、今後の記事で書いていきます。気が向いたら、読んでみて下さいね、長い文章、ここまで読んで頂きありがとうございます。