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「あの子を育てていく自信がない」その言葉の意味に気づいた日
子どもが生まれたことで、「家庭」「母親」を強く意識するようになった。
その中で当たり前だけど、自分自身の育ってきた環境や母との記憶が、ぽつりぽつりと思い出されることが増えた。
母は健在なので、遠い記憶というわけでもない。
だけど、自分が「子どもの頃感じていたお母さん」のことはすっかり忘れていた。
そんな思い出のひとつに、鳥肌が立つくらい人生の伏線回収した感のあるものがあったのでnoteに残しておこうと思います。
あまりの厳しさに本気で嫌われていると思っていたあの頃
直近の「大人になってからの母」とは、良好な関係を築けているけれど、昔はそうは感じていなかった。
私はそれはもうめちゃくちゃに要領の悪い子ども(なのに口は達者)だったので、いつも母を怒らせていた。
どちらかというとしつけやルールの厳しい家庭だったので、長女である私は「戦わねば…!」という謎の使命感に燃えていた。
例えば「五時の鐘問題」。
17時"までに"帰宅せよ
VS
17時"になったら"帰宅する
(文字にするとアホみたいだな…)
シンデレラがごとく、五時の鐘が鳴り終わるまでに玄関をくぐらねば閉め出されていた小学生の私。
友だちはみな「鐘が鳴ったら帰りましょう」だった。その5〜10分の差は子どもにとっては大きい。
どうしてうちだけ違うのか?
それによって自分がどれほど困っているか。
その数分を許してくれないことにどんな意味があるのか?
危ないというなら、玄関に立っている方が危ないのでは?
などなど真剣に訴えかけたのを覚えている。
その他にも、「私に適用されるルール」はわりと厳しくて、いつも泣きながら数時間にわたって抵抗していた。
ちなみにこれは、大学生になっても続いた。
聞いてしまった言葉に絶望した日
怒られた理由は忘れてしまった(子どもってだいたいそんなもの)。
中学2年生になったある日、母とまた壮絶なケンカを繰り広げた。
私が言うことを聞かないと「言うことを聞かないなら、私の大切にしている何かを取り上げる」という、しつけ方針だった母。
この頃の定番は「携帯電話を解約する」「(私学の)中学を辞めさせる」だった。ありがち。
とにかくおそらくくだらないことで、母に必死の抵抗を見せる私。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、自分の正当性を主張していたことだけは覚えている。
悲しくて悔しくて、きっと言葉の限りを尽くして抵抗した。母を罵ったかもしれない。
部屋に閉じこもり、ひとしきり泣いた後、自分なりに反省をして母の元へ向かった。
すると母は誰かへ電話をしていた。私の話をしているようだった。そのまま立ち去ればよかったのに、めずらしく涙声の母に驚いて話を聞いてしまった。
「私はもう、あの子の母親をやっていく自信がない。育てていく自信がない」
心臓がギュッっとなった。
後頭部がスーッと冷たくなった。
手足の感覚がなくなって、そのまま静かに部屋へ戻った。
もう20年も前のことなのに覚えている。
「私はやっぱり嫌われているんだ」
「できそこないだと思われているんだ」
「育てるのを諦めたいと思っているんだ」
「私に居場所はないんだ」
いろんな考え(大半が極論)が浮かんで、文字通り涙が枯れるまで泣いた。
13歳の、大人ぶってもまだ世界のほとんどが母親だった私は、大きく傷ついたのだ。
20歳で家を出てからは、仲良くしている母。親子とはいえ、適切な距離感は必要だなぁなどと思っていた。
振り返ると小さい頃だって、ケンカしている時以外は仲良く過ごしていた。普通か。
そして私も母親になった
出産してから、自分が親としてどう振る舞うべきなのか、子どもに何ができるのかたくさん考え……ている余裕などなかった。
とにかく、母親として精神的にどうあるべきでどう振る舞うか以前に、物理的に母がしなければならないこと、がとにかくできない。
▼産後の詳細はこちら
https://note.com/saimari/n/n9e39c9672029
抱っこが上手にできない(不器用すぎる)
げっぷがさせられない(窒息させかける)
お風呂すらまともに入れられない(泣かせ過ぎて吐いた)
授乳もうまくできない(乳腺炎に)
寝かしつけられない(一日中泣き止まない)
ど、どう育てていこうかとか、どんな母親であるべきかとかじゃねぇ……親として最低限のラインをクリアできない……
この世に天使を産み落としたことによってMAXだった自己肯定感が指数関数的に減少。
さらに山積していく家事。
一日中家にいたのに、食器一枚すら洗えず、パンツ一枚すら畳めない。
産後2ヶ月ほどして、特に子どものぐずりがひどかったある日。
真っ暗な部屋(日が落ちてもカーテンを閉めて電気をつける余裕がない)で泣く我が子を腕に、ソファに座り込んで自分もわんわん泣いた。
腕も肩も腰も痛い!
おっぱいも痛い!
頭も痛い!
喉が渇いた!お腹も空いた!
さいわい憤りは子どもに向かなかったけれど、その分自分自身に非難の矢が向く。
どうして、どうして私はちゃんと母親ができないのか。子どもに申し訳なくて泣いた。
こんな一緒になって泣いているダメな母親でごめん。
「赤ちゃんはママの気持ちに敏感。マイナスな言葉は発しないように」
なんて育児本の言葉を思い出してまた泣いた。
産休が明けてすぐ仕事復帰する予定だったので、余計に焦りがすごい。
この子が情緒不安定な子になったら私のせいだ。母親失格だ。
お母さんは永遠の一年生。
赤ちゃんは当然として、ママもお母さん一年生。できないことがあって当然なわけです。
でもどうしても浮かんでしまう
「これ、いつまで続くんだろう」
新生児期を乗り越えて授乳もお風呂も余裕になった今は、離乳食や夜泣きで悩んでいる。
きっとそのうち、風邪をこじらせたり、イヤイヤ期になったり、お友だちとケンカして怪我をさせたり、勉強だったりと永遠に悩みは尽きないんだろう。
母親って、子どもが2歳になっても2歳の子どもの母親一年生、15歳になっても 15歳の母親一年生じゃん……(絶望)
そう考えた時、20年前のあの母の言葉を思い出したわけです。
「母親をやっていく、育てていく自信がない」
あぁ。これは、私(子ども)への言葉ではなかったんだ。
自分自身が母親としてのあり方に悩み、苦しんでいる言葉だったんだ。
確かに文字にして読み返してみると、私に対しての悪意などどこにもない。
ましてや直接言われたわけでもなかった。
「お母さんにヒドいことを言ってしまった」その負い目からの認知の歪みに、20年経って気がついたのだ。
視点の変化で回収できた、人生のフラグ
母親は子どもに「人としてこうあるべき」というルールやモラルを教えなければならない、でもそれゆえ子どもからは「母親としてこうあるべき」を求められるし、そうあろうとする。
母親も完璧であるはずがないのに、子どもからそうではないことを責められ、そうありたいと頑張り続けることがどれだけ大変なことか。
弱音のひとつだって吐きたくもなる。泣きたくもなる。でもそれを子どもには見せられないのだ。見せたって良いのかもしれない。でも、できれば見せたくない。
そして当然、そんな気持ちは子どもには伝わらない。
30歳を過ぎて、自分が母親になって初めて、母の苦悩に気がついた。
思い返せば、当時なんてひどい言葉をあびせまくっていたのだろう。
「○○ちゃんのママはこうなのに!(ありがち)」
「母親ってこういうものなんじゃないの?」
「今の常識で考えてよ!世間知らずだよ!」
「母親らしいことなんて何にもしてくれないくせに!」
子どもの鋭利な言葉は、どれだけ母を傷つけただろうか。(今我が子にこんなこと言われた死ねるわ……)
20年越しのごめんなさい
すぐに母に謝った。
母はその時のことをあまり覚えていないらしい。私はというとこの20年、いくどとなくこの時の話を持ち出しては母に恨み節を吐いてきたのに(何て嫌なやつ)。
その度に母に謝らせて、傷ついた自分に酔っていたんだと思う。
本当に謝らなければならないのは、私の方だった。
反抗期に心ない言葉を浴びせたこと、当時良好とはいえない家庭の状況に娘として寄り添えなかったこと、母の苦悩に気がつかなかったこと、何年も甘えた嫌味をぶつけてきたことを謝った。
そして、それでも私の母親であり続けてくれたことに、ありがとうを伝えた。
母は許してくれるどころか「それに気がつけたあなたは、偉いねぇ。すごいねぇ」とほめてくれた。
さ、“30歳の娘の母1年生“、すごい……!私は30年後にこんな母親になれているだろうか?
なれるように頑張るしかないな、と思う0歳児の母1年生なのでした。
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20年越しに母に謝る機会をくれた、人間1年生の息子に感謝を込めて。